歴史・人名

元寇(文永の役・弘安の役)のすべて

元寇(文永の役・弘安の役)のすべて~本当に「神風」は吹いたのか?

2019/11/13

鎌倉時代で最も有名な出来事と言えば、やっぱり【元寇】でしょう。

「お前ら、属国になれ」
というモンゴル帝国の要求を二度に渡って拒絶。

その結果、
・文永の役(1274年)
・弘安の役(1281年)
で【神風】吹いてバンザ~イ!と皆さん歴史の授業で習ったと思います。

ところが、台風ってどうなのよ、というのが最近の見方でして。

元寇とは一体なんだったのか?

本稿では
「御家人たちが頑張って何とかなりました」
で終わらせず、当時の背景や戦闘の経過なども見ていきたいと思います。

お好きな項目に飛べる目次 [とじる]

   1ページ目
       鎌倉当時は「蒙古襲来」等と呼ばれていた
       元の使者を妨害してやれ!
       南宋からの渡来僧によって「元」のヤバさが伝えられ
       日本攻略に全力注げる 舞台は整った
       女は手のひらに穴を開け、鎖で船の壁に繋いだ
       ついに博多湾へ上陸!
       竹崎季長で有名な蒙古襲来絵詞あのシーン
   2ページ目
       鳥飼潟の戦いで敗れた元軍を百道原まで追撃
       そもそも文永の役で神風は吹いてない?
       仲悪く、船酔いを起こしたまま戦いへ
       「これ絶対また来るよ……やべーよやべーよ」
       九州防備のため元寇防塁が築かれた
       第二ラウンド【弘安の役】スタート!
       東路軍へフェイク情報を流した!?
   3ページ目
       九州とは道で繋がっている陸繋島の志賀島
       敵船に斬り込み、将校を生け捕る
       数をアテにしようにも、江南軍は現れず
       日本軍が日中から攻め込み、夜明けまで戦闘が続く
       ついにやってきた暴風雨
       撤退した元軍は、その後どうなったん?
       まだまだ元軍はやってくる!かもしれない
       蒙古襲来絵詞は幕府に功績を認めさせるため?
       元寇が終わってから30年以上も待たされた

鎌倉当時は「蒙古襲来」等と呼ばれていた

まず「元寇」という名称につきまして。
これは後世になってから名付けられたもので、鎌倉当時は「蒙古襲来」や「蒙古合戦」などと呼ばれていました。

「元寇」という単語は江戸時代あたりに出てきたようです。
「寇」という字には「侵入してくる敵」という意味があるので、意味合いとしては「蒙古襲来」などとほとんど変わりませんね。

では、なぜ、元は日本へ攻めてきたのか――。

これは小中学校で習ったとき、フシギに思いませんでした?

当時は船しかない時代です。
遣唐使の時代から荒海で知られる日本海を渡って攻め込むなど、まさに命懸けですし、日本にそんな魅力的な何かがあったのか。ちょっとわかりません。

と、これが、元の皇帝であるクビライ・ハーンにとって、日本征服で大事なのは【自分の力を誇示すること】でした。

クビライ・カーン(フビライ・ハーン)/wikipediaより引用

元という国は13世紀半ば、ユーラシア大陸のほとんどを手中に収めながら、同時に広くなりすぎてマトメきれず、国家としては分裂しかけておりまして。
広大な国家あるあるで、引き締めが必要だったのですね。

そこで、大陸の最東端である朝鮮半島の【高麗】を傘下に収め、当時の中国王朝・南宋を圧迫します。

が、南宋がなかなか音を上げません。
当時、日本と中国は大々的に貿易をしており、お互いにとって外貨源となっていたのですが、南宋も歴代中国王朝の例によって人口が多く(=兵も多く)、戦費と士気さえ維持できれば外敵に対抗することは難しくありませんでした。

そこでクビライは、日本と南宋の貿易を絶って、経済的な攻勢をかけようとしたのです。

高麗からも「日本を傘下に入れれば、南宋攻略がラクになりますよ」と献言されていたようで。
これがだいたい文永二年(1265年)あたりのことでした。

元の使者を妨害してやれ!

ここから実際の侵攻まで、元から日本への使者が何回か立てられます。
が、実際に日本にたどり着いたのはごくわずか。

クビライとしては、そもそも高麗から話を持ちかけられたようなものなので、
「日本に使者を送るから、道案内とか道中の世話ヨロシク」(超訳・以下同)
と高麗のお偉いさんに命じておりました。

これを聞いた高麗側では
「あのクビライのことだから、交渉がうまく行かなかったら戦争をおっぱじめるに違いない。
そうなれば、ウチの国から人もモノも駆り出されるに決まってる。
ウチだけ損しまくるなんてまっぴらゴメン。アレコレ言って使者を行かせないようにしよう」
という考えが主流になり、元の使者の渡航を妨害したそうです。って、おいおい。

当然クビライにバレ、
「ウチのモンが行くのを邪魔するなら、お前らが行って来いやゴルァ」
と厳命され、次は高麗の使者が日本へ向かうことになりました。

このときの書簡が、有名な脅迫文っぽいアレです。
原文はくどいので、三行でまとめると
「今、大陸で一番エライのはウチの国なんだから、大陸と馴染みのある日本もウチに従うべきだよね?
今までは事情を知らなかっただろうから勘弁してやるけど、これからはちゃんと”お付き合い”してよね。
じゃないとどうなっても知らないよ^^」
という感じのものでした。

鬱陶しいにもほどがありますね。

南宋からの渡来僧によって「元」のヤバさが伝えられ

こんな脅迫文書がいきなり来たら、どこの国だって反発するのが当たり前でしょう。
当時の日本の人々もそう考えました。

大宰府の役人から北条時宗ら幕府に伝えられ、その後、朝廷にも回され、
「無視しよう」
「「「賛成!!!」」」(満場一致)
ということになります。

ただし、何もしなかったわけではなく、この時点で神仏への祈願や戦備が始められました。
楽観視しなかったのは、南宋からの渡来僧などから「元はヤバイですよ」(超訳)という情報が入っていたからです。

北条時宗/wikipediaより引用

さて、元にしてみれば、
「あれ?今度こそ使者が日本に着いたはずなのに、全然返事が来なくね?」
となるわけで……。

また高麗が邪魔したんじゃないか?ということで、再び元から3度目の使者が日本にやってきます。
それでもやっぱり返事はせず、4度目は高麗が使者を担当し……正直、迷走してやがるわけで。

ちなみに、4度目の使者が発った翌年、両国で反乱が起きてます。
高麗政府と元に対し、高麗の農民たちが珍島という朝鮮半島南西の島で蜂起したのでした。

クビライはそんなん屁の河童といわんばかりに、日本へ攻め込むための造船や徴兵を命じ続けています。
そもそも、ガチの軍人と農民では、よほど地の利や運を持っていなければ勝負になりません。このときの農民たちも程なくして敗れ、済州島に移って抗戦を続けたものの、やはり敗北に終わりました。

この反乱では、途中、日本にも救援が求められたようですが、日本の人々からすると
「え? 高麗って元の傘下になって、ウチに攻め込もうとしてきてるんじゃないの?
なんで農民が反乱してんの? わけわからん」
としか思えなかったらしく、援軍は派遣されませんでした。
嗚呼、スレ違いの悲しさよ……。

日本攻略に全力注げる 舞台は整った

しつこいもので、その後も元は使者を送ってきました。
5度目・6度目になるわけですが、当然のことながら日本側が折れるワケがありません。

ただ、5度目の使者が失敗した後に、元が南宋の攻略をほぼ完了させておりまして。
クビライとしても
「日本攻略に全力を注げるじゃん!」
と判断するようになります。

そうとなれば高麗をせっついて造船を急がせ、「そろそろ本気出す」モードになるわけで。
実際【文永の役】と呼ばれる最初の侵攻まで、1年ぐらいで準備が整いました。

元寇史料館のモンゴル型鎧兜/photo by 震天動地 wikipediaより引用

歴史の授業では、ここからかなりスッ飛びます。

【日本へ攻め込んだ元軍が暴風雨に巻き込まれて撤退に失敗し、なんとかなりました】
多くの方は、そんな印象をお持ちでしょう。

今回はもう少し詳しい経過を見ていきます。
当時の武士には「記録する」という概念が薄い人が多かったため、正しく伝わっているのかどうかアヤシイところですが……まあ、そこは「古い時代あるある」ということで。

第一ラウンド【文永の役】です。

文永十一年(1274年)10月。
元は1万5000~2万5000人の主力軍と、高麗軍5300~8000人、その他水夫を含め推定で計2万7000~4万人という軍で、現在の韓国南部・馬山を出港しました。
使われた船は725~900艘あったといいます。

これらの船はまず、対馬にたどり着きました。

対馬守護代・宗資国は通訳を派遣し、事情を尋ねようとしたものの、返事は弓による射撃という有様。
その後1000人ほどの元軍が上陸し、宗資国は80騎の武士を率いて応戦しました。そして自らも4人を弓で仕留め、他の者も善戦したそうですが、衆寡敵せずというやつで。あえなく敗れ去ります。

しかし、この激戦の中でほんの僅かな武士が脱出し、元軍の襲来を知らせるため博多へ向かいました。
万が一、全滅だったとしたら、何の事前情報もないままフルパワーの元軍を相手することになっていたかもしれませんね。想像するだけで恐ろスィ。

女は手のひらに穴を開け、鎖で船の壁に繋いだ

翌日、対馬に上陸した元軍は、島の村々を蹂躙。
文永の役から二年後、日蓮が当時の伝聞を書き留めています。

「元軍は対馬に上陸後、日本側の武士に勝ち、一般人を蹂躙した。
男は殺戮、あるいは捕虜とし、女は手のひらに穴を開けて鎖で船の壁に繋いだ」

現代であれば戦争犯罪ですが、古い時代には、
「攻め入った場所の民衆を奴隷にする」
というのはよくある話。
攻め込んだ者の私財になったり、王侯貴族への貢物の一つになったりもしています。

「女性の手に穴を空ける」などということをしたら、運ぶ以前に死んでしまいそうですけどね。
あるいは、その場で(ピー)して殺すというのも残念ながらよくありますが、わざわざ穴を開ける意味がわかりません。
見せしめという意味合いだったのでしょうかね。
生き残った者のうち200人ほどは、クビライの娘の嫁ぎ先である高麗王に献上されたともいわれています。

次に、元軍は壱岐へ侵攻しました。

ここでも壱岐守護代・平景隆が100騎前後の武士を率いて戦いましたが、やはり多勢に無勢に変わりはありません。
翌日には敗れ、景隆も自害しています。

戦闘の経過が同じなら、一般人がたどった末路も同じでした。
やはり日蓮が悲惨な状況だったと書き残していますが、数字がかなり盛られているので割愛します。入水した者もいたようです。

ついに博多湾へ上陸!

こうして連勝を収めた元軍は、ついに肥前(現在の佐賀県・長崎県)沿岸へたどり着きます。
具体的には松浦郡および平戸島・鷹島・能古島などです。

このとき襲撃を受けた地域にも、元軍が蹂躙した様子の生々しい伝承が数多く伝わってまして。
周辺地域の方は、学校などで習ったかもしれません。

おそらく、元軍が肥前の沿岸に着いたのと前後するあたりで、対馬から逃げ延びた武士が大宰府に着いたと思われます。
そして大宰府から京都や鎌倉へ急使が立てられ、同時に九州の御家人たちが大宰府へ集結しました。

日本軍の総大将・少弐景資たち/wikipediaより引用

いざ臨戦態勢へ。

懸念すべきは南方からの援軍でした。
薩摩・大隅・日向などの南九州からは結構な距離があり、なおかつ筑後川の神代浮橋(くましろうきばし)が通行の難所だったために、元軍襲来までに間に合わない――そう思われました。

そこで筑後の神代良忠(くましろ よしただ)という人物の根回しで神代浮橋の通行の便を図り、南九州の諸軍が速やかに移動できるようにしたとか。
彼の働きは後に幕府から評価され、感状を与えられています。

こうして、少弐氏や大友氏など、戦国時代でもお馴染みの武士たちが博多で元軍を待ち受けました。

迎えた10月20日朝。元軍が博多湾へ上陸。
その場所については諸説あります。
戦闘が数ヶ所で行われているため、時間差はあれど、いずれも間違いではないのでしょう。

まずは「赤坂の戦い」と呼ばれる戦闘が始まりました。

竹崎季長で有名な蒙古襲来絵詞あのシーン

赤坂は、早良郡の百道原より約3kmほど東の地点にある丘陵地です。
福岡城の周辺でもあります。

日本軍は総大将・少弐景資の下、博多の息の浜に集結して、元軍を待ち受けていました。

が、肥後の御家人・菊池武房の軍勢が、赤坂の松林の中に陣を布いた元軍を襲撃して追い払います。

赤坂の戦いで活躍した菊池武房/wikipediaより引用

文永の役は
「てつはうで日本軍がやられました」
という点が強調されがちですが、対馬・壱岐でも抵抗していますし、博多周辺の緒戦でも結構善戦していたのです。

余談ですが、蒙古襲来絵詞で有名な竹崎季長は、菊池軍が勝った直後にスレ違っていたのだとか。
これがよほど悔しかったのか。この後、彼は、半ば命を捨てるような行動に出ます。

それが「鳥飼潟(とりかいがた)の戦い」です。
蒙古襲来絵詞で有名な「てつはう」の場面もこの戦いでの出来事でした。

鳥飼潟の戦い/国立国会図書館蔵

他にも元軍は銅鑼を打ち鳴らして日本側の馬を怖がらせたとされており、「音」を効果的に使っていたようですね。

戦のセオリーはいろいろありますが、
「戦闘を始める前に相手をビビらせる」
というのも立派な先述の一つです。

大陸を支配する過程でこれらを使い、実際うまく行っていたから日本でも使ったのでしょう。

鳥飼潟の戦いは、赤坂の戦いで敗れた元軍が麁原山(そはらやま)の本隊に合流するため鳥飼潟を通り、竹崎季長らがそれを追撃した、というものです。

季長は最初からやる気満々でした。
が、馬が干潟のぬかるみに足を取られて転倒してしまい、取り逃してしまっています。

馬ごとひっくり返ってすぐ戦える季長の生命力どうなってんの……というツッコミは野暮ですかね。

武士ですから日常的に乗馬はしていたでしょうし、落馬するときの受け身も練習していたはずですが、戦時の鎧兜で同じことができるもんなんでしょうか。

鳥飼潟の戦いで敗れた元軍を百道原まで追撃

その後、麁原(そはら)から出てきた元軍と竹崎季長らの戦闘が鳥飼潟で始まります。

季長は一番槍にこだわり、郎党の藤源太資光による諫言を振り切って突撃。
本人と数名が傷を負ってしまいます。

麁原元寇古戦場跡の詳細が福岡市経済観光文化局サイトに掲載されています

そこへ肥前の御家人・白石通泰が、100騎前後を率いて元軍に突撃をキメました。
これがよほどの勢いだったのか、元軍は麁原山へ引き上げています。

他に、やはり肥前の御家人・福田兼重や豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)が鳥飼潟で戦ったとされています。

季長が一番有名なのは、やはり絵詞の影響が大きかったようで。
彼は後々、自分の武功を認めてもらうために、鎌倉まで言って幕府のお偉いさんに掛け合ったほどです。なんかイイですねw

鳥飼潟の戦いで敗れた元軍を、日本軍は百道原まで追撃しました。
上記の福田兼重もその一人で、元軍と矢を撃ち合って鎧の胸板や草摺(腰回り)に三本も矢を受けたといいます。
漫画でよく出てくる落ち武者状態というか、よく生きていたもんですね。

元(=モンゴル)などのユーラシア大陸中部で使われていた弓(短弓)は、日本の弓より貫通力が低かったとされているので、そのためかもしれません。

菊池神社に伝わる蒙古弓と蒙古矢/photo by 震天動地 wikipediaより引用

ちなみに、日本の弓矢は世界的に見てもデカくて矢の貫通力がヤバイとされています。
だからこそ、日本の合戦では「流れ矢で戦死した」という記述がちらほら出てくるわけです。

元が弓の威力を重視しなかったのは、平原ばかりという国土のために、弓の材料になる木材が貴重だった(=炊事や燃料へ優先に使った)ということかもしれません。

他に兵器として著名な弓としては、イングランドのロングボウがありますね。
ロングボウは習熟が難しいものの、速射性が高く、集団戦で大きな効果を発揮しました。

もしも元が東欧で侵攻を止めず、ヨーロッパを横断してイングランドと戦うことになっていたら……多分、ドーバー海峡を渡る途中でロングボウの一斉射撃を受けたでしょう。

   【参考】13世紀頃、イングランドがウェールズに侵攻した際にウェールズ弓兵は侵略者にたいしてこの武器を用いて重い損害を与えた。その被害者であったイングランドは、ウェールズ公国の併合後、この強力な武器を素早く自軍に取り入れた。(ウィキペディアより)

そもそも文永の役で神風は吹いてない?

百道原では、他にも豊後の御家人・日田永基らが奮戦したといわれています。

また、元軍の指揮官の一人・劉復亨と思われる人物が日本軍の矢を受けて重症を負ったという記録があります。
これが10月20日頃のことで、元軍が“謎の撤退”をしたのが翌10月21日の朝でした。

……つまり、文永の役における元軍の撤退は、「指揮官の負傷」という至極当然な理由だった可能性が高くなるわけです。

元寇に限らず、日本では国難の際に寺社での祈祷が複数回行われていたのですが……日本軍のボロ負けっぷりと“神風”を強調しているのは、そうした寺社の記録が多いという点も見逃せません。

穿った見方をすれば、寺社の聖職者たちが
「私達が一生懸命神仏にお祈りを捧げたから、この国は守られたんだ! 野蛮な武士なんていらない!」
そんな主張のために“神風”という伝説が生まれたのかもしれません。

もしくは、後述する【弘安の役】での暴風雨の記録が、時系列を遡って「文永の役でもあった」と混同されてしまったのでしょうか。
まあ、現代で神風が有名なのは、第二次世界大戦中に軍と政府が誇張したから……というのも大きいのですけれども。

ちなみに元の記録では【文永の役】の記述が少なく、高麗の記録では「劉復亨が負傷して船へ退避し、その夜の軍議で大陸への撤退が決まった」とされています。

何はともあれ、時系列を進めましょう。

こうして撤退が決まった元軍。
当時の船舶事情では、博多→高麗に行くために
「南風の吹く晴天・日中」
でなければなりません。

しかし、この条件が整うのはなかなか難しい。
いわゆる「日和待ち」のために一ヶ月かかることも珍しくなかったのです。

むろん、元がそんな気候のことを知る由もありません。
高麗兵は知っていたかもしれませんが、献言したかどうかアヤシイですね。

結果、元軍は夜間の渡航を決行し、多くの船が高波か風に翻弄され、崖に激突して沈んでしまったのだとか。

仲悪く、船酔いを起こしたまま戦いへ

上記の通り、元軍の撤退は旧暦10月下旬です。
新暦だと11月下旬となりますね。
現代でも冬型の気圧配置になり始める季節です。

大陸からの冷たい風と、南から来る海流の水蒸気が、玄界灘を流れる対馬海流に乗って東北地方まで運ばれ、豪雪になる……というのが、冬の日本海の基本的な天候。

となると、元軍が撤退を決めた理由は、
「指揮官の負傷」
撤退が失敗した理由は
「初冬の玄界灘の気象条件」というところが現実的かと。

もしこれが正しければ、
「寒波で水夫がバタバタ倒れてしまい、船を操れる人間が減って崖に激突」
というのもありえるでしょうか。

ほぼ完全に内陸国の元人が、船の扱いに長けていたとは考えにくいですし。
日本人の捕虜をとったのに、船出の条件を尋ねたりしなかったんかい……とツッコミたいところですね。通訳がいなかったんでしょうか。

出立の際も相当慌てていたのか、始めから見殺しにしたのか、130~220人ほどの元兵が日本に取り残され、捕らえられたといいます。

また、ズタボロになった元の船の残骸が約150隻分も対馬・壱岐・九州沿岸に流れ着いたとか。
「神風が吹いて、元軍をやっつけてくれたんだ」という話が広く信じられるのも無理ないことですね。

文永の役における元軍の撤退については、他にも以下のような理由があると考えられています。

1.元の日本侵攻軍は【元と高麗の兵】で構成されており、指揮官の意思疎通が不確かだった
2.上がそんなんなので、現場での連携もできない
3.高麗の民衆を馬車馬のごとく働かせて船を造らせたため、粗雑な作りの船ばかりだった
4.元の将も兵も海に不慣れで、体調不良を起こしていた者が少なからずいた

一行でまとめると
“お偉いさんも下っ端も皆仲が悪い上、船酔いを起こしたまま戦っていた”
という感じでしょうか。

結果、11月下旬に元軍が朝鮮半島へ帰還したとき、すっかり戦意がガタ落ち。

「たとえ風がなかったとしても、日本は広すぎるし兵が多すぎる。
万が一苦戦したときに増援を頼もうにも、すぐに海を渡ることはできない」

「高麗では元の命令に応じ、既に多くの男を兵として徴用し、失ってしまったので、農村では働き手が足りなくなっている。
天候も悪く、草や木の実で飢えをしのいでいる者も少なくない。
もし、“もう一度日本に攻めよ”と言われても、高麗はその負担に耐えられない」

と、すっかり厭戦ムードが漂っておりました。

……広さでいうなら大陸のほうが果てしないだろう、というツッコミは野暮ってものでしょうか。
まあ、当時は「日本がどのくらいの大きさの島なのか」ということを正確に知っている人はいなかったでしょうし、後者はもっともなことですが。

「これ絶対また来るよ……やべーよやべーよ」

大宰府からの知らせが鎌倉に届いたのは、元軍が撤退した後でした。

理由は単純。当時は飛脚でも12~13日かかる距離だったからです。
江戸時代になると江戸~京都間の飛脚は3~4日で到着したそうですから、交通事情の差がうかがえますね。

当時の武士の心境を現代的に推測すると、
「国家レベルの軍事危機を、中央省庁の指図なしに現場が対応して乗り切った」
という感じでしょうか。

これでは、武士の間で
「なんだよ! 幕府なんてなくても俺たちやっていけんじゃん!」
「こっちは指示もないまま頑張ったんだから、褒美をたんまりくださいよ!」
という考えが主流になるのも当然のことです。

案外、恩賞に関する恨みよりも、こういった自信のほうが討幕の遠因だったかもしれませんね。

ついでにいうと、鎌倉への使者を追いかけるような形で、11月初旬には勝報を伝える使者が京都にたどり着いていました。
つまり、鎌倉では勝ったことはわからず、「元がいよいよ攻めてきてヤバイ」という認識です。
そのため、各地の地頭や御家人などに動員令を発していたのです。タイミング悪し。

文永の役では120人ほどに何らかの褒美が与えられましたが、それは武士たちの期待からすれば微々たるものでした。
例を挙げると、竹崎季長は文永の役までは領地を持っていなかったのですが、自らの戦功を訴えた結果、執権・時宗によって北条氏一門の土地を少しだけ削るカタチで与えられています。

何はともあれ、こうして文永の役をやり過ごした鎌倉幕府。

しかし多くの者が
「これ絶対また来るよ……やべーよやべーよ」(超訳)
と考えていました。

「勝って兜の緒を締めよ」という言葉がありますが、この場合、勝った!とは言い難いですもんね。

九州防備のため元寇防塁が築かれた

またいつ攻めて来るかわからない。
そのため文永の役翌年から三年ほどかけて、九州の防備が固められました。

元寇の防塁跡

かの有名な【元寇防塁】も、その一つです。

博多湾岸に築かれた約20kmもの長さの築地(ついじ・“つきじ”ではありません)で、最も強固な部分は高さ3m×幅2m以上あったとか。

元寇防塁断面図

当時の日本人からすると、身長の倍の高さに近い壁を延々と海岸に作ったわけです。
モンゴル人・高麗人・南宋人の高さは不明ですが、現代の平均身長は日本人とさほど変わりませんので、その頃も大差ないでしょう。

建治元年四月には、またしても元の使者がやってきましたが、執権・北条時宗により処刑。ここでも確固たる拒否を示します。
使者の遺書に書かれた詩が実に泣けるので、何とも言えない気持ちにもなるのですが……。

また、一時は
「元を迎え撃つのではなく、いっそこちらから海を渡って、高麗を攻めてはどうか」
という案も出されたようです。

どっちかというと高麗は被害者というか、無理やり付き合わされてるほうなんですが……当時の日本から見れば「敵の協力者=敵」ですからね。

しかし、防塁の建設が急ピッチで進められ、建治二年8月には完成の目処も立っていたので、やはり防衛戦を選ぶことになりました。

建治元年の末には、異国警固強化のためとして、十一ヵ国の守護が交替されています。
そのうち八ヵ国の守護に、北条氏一門が就任。
同時に六波羅探題の権限や、交通も整備されました。

「侵攻に備えて」という面が大きかったのは事実です。
しかし、御家人たちからすると、恩賞がもらえるかどうかもわからない状態だったこともまた事実。
となると、はるか遠くで威張っている北条氏の権力だけが強まり続け、いつ来るかもはっきりしない元軍へ備えていた……ということになります。

これでは、元寇が終わる前から不満が溜まって当然です。

まぁ、組織の最高責任者の縁者が現場近くに来る、というのは悪い話じゃないのですが……いかんせん過去に北条氏がやってきたことが強引すぎました。

第二ラウンド【弘安の役】スタート!

国内に不穏な空気を残しつつ、御家人たちは防塁建設や警固任務をこなす日々。
大陸ではいよいよ南宋が元に滅ぼされました。

これによって二正面作戦というデメリットを克服した元は、ついに全力で日本を攻めることにします。

弘安四年(1281年)5月。
元寇、第二ラウンド【弘安の役】スタート!

まずは元軍の動きや構成を確認しておきましょう。

弘安の役における元軍は、大きく分けて二つに組織されておりました。

一つは、モンゴル兵3万と高麗兵1万の計4万からなる「東路軍」。
もう一つは、旧南宋地域から集めた10万の「江南軍」です。
(兵数については諸説あります)

ぶっちゃけ、世界史上でも稀に見る大軍です。
よって戦う前から「今回ばかりは楽勝っしょwww」(※イメージです)と考えていた者もいたようで、高麗の僧侶がそんな感じの漢詩を詠んでいます。
そんな調子だからやで(´・ω・`)

元寇防塁

東路軍は、高麗で建造した900艘の船で5月に、江南軍は慶元(寧波・ニンポー)や舟山島付近から6月に出港しました。

当初は6月15日に壱岐で合流し、それから大宰府を攻める計画だったようですが、平戸島に変更されています。
もしかすると、これも日本側にとって有利に働いたかもしれません。

東路軍は前回と同じく、対馬と壱岐を襲撃した後、6月初頭に博多湾へ臨みました。
一部は道に(海に?)迷ったのか、本州・長門に上陸していたとか。

案の定記録が少なく、詳細がわからないのがもどかしいところです。
山口県萩市に、元軍が船の錨に用いていたとされる石があるので、本当に迷ってた可能性も低くはなさそうですね。
操船、ヘタかよ。

しかも東路軍は、壱岐に向かう途中の暴風雨で、兵士と水夫合わせて150名もの行方不明者を出しています。
ここで嵐に対する警戒心が生まれていたら、その後の経過は全く違ったかもしれません。

東路軍へフェイク情報を流した!?

東路軍は、対馬で捕らえた一般人から
「日本はお前たちの侵攻に備えていて、既に大宰府周辺から移動を開始している」
と聞いていたそうです。

「しめしめ、それなら一気に大宰府を襲ってやろう。
江南軍のヤツらなんか待たなくたって、俺達だけで勝ってやるさ」

東路軍はそう考え、江南軍を待たずに上陸することを決めます。
続々とフラグがととのって参りました。

一応クビライにはお伺いを立てていたようです。
ただその割に、肝心の江南軍に向けて連絡してなさそうなのがヌケ作です。

東路軍は上記の通りモンゴル兵=勝者が多く、江南軍は旧南宋兵=敗者がほとんどだったからこそ、見下していたのかもしれません。
だから、そうやってナメてかかるから……いや、日本にとってはありがたいことですけど。

こうして「来た、見た、勝った!」ばりの楽勝ムードで博多湾に襲来した東路軍は、そこで腰を抜かすことになります。

眼前の浜辺には、ズラッと並ぶ防塁(身長より高い)&武士! 武士! 武士!

生の松原地区元寇防塁

さぞかし彼らは、
「(つд⊂)ゴシゴシ」
「(;・3・)あるぇー?」
*1ガクガクブルブル」
こんな顔になったことでしょう。

こうなると事前に東路軍へフェイク情報を流した一般人は『只者ではないのでは?』と思ってしまいます。

彼(仮)は、ただ単に東路軍への嫌がらせでデマカセを言っただけかもしれませんが、その後の影響を考えると「名もなき英雄」と呼んでも差し支えないかも。

この経緯だと、東路軍の兵から「おいテメェ、話が違うじゃねーか!!」とブッコロされていそうで……。

九州とは道で繋がっている陸繋島の志賀島

東路軍の襲来に対し、御家人たちはそれぞれ自分が築いた防塁の前後で奮戦することになります。
防塁は敵の侵入を防ぐためのものですから、普通は防塁越しに矢を射かけるなどの攻撃方法を取るはずです。

が、ここでもやはり、御家人たちの脳裏に「恩賞」がチラつきます。

そのため、中には防塁から躍り出て戦おうとした者もいました。
何のための防塁なの?とツッコミたいところですが、それだけ必死だったということ。

一方、東路軍は
「これじゃあ上陸もできない。一回引き上げて仕切り直しだ!」
と考え、他の上陸地点を探します。

そして、博多湾の北側にある志賀島を拠点にしようとしました。
「島」ではありますが、九州とは道で繋がっている陸繋島なので、多少マシに思えたのでしょう。

ちなみに志賀島は文永の役でうまく渡航できなかった元の兵がとっ捕まり、処刑された場所でもあります。
たぶん知らなかったのでしょうけれども、因果を感じてしまいますね。

志賀島にある火焔塚登り口(蒙古軍の降伏を祈祷するため作られた)

敵船に斬り込み、将校を生け捕る

東路軍は志賀島を拠点として攻め続けようとしました。
が、逆に日本軍の夜襲を受け、ほぼ防戦一方。

軍というのは大所帯なだけに、内部の雰囲気が外部に伝わりやすいもので、このときの東路軍は、博多湾での肩透かしが尾を引き、前回の元軍と比べて及び腰だったのでしょう。

日本軍からすれば、前回の苦戦や恨みを晴らす絶好の機会に思えたに違いありません。
となれば、士気はガンガン上がります。

例えば、海路から東路軍に襲いかかった伊予の御家人・河野通有(こうの みちあり)は、矢傷を受けながらも敵の船に斬り込み、将校を生け捕りにしたとか。

河野通有/wikipediaより引用

周囲の兵は何してたんですかね。全員を討ち取った――とは伝わっていないので、逃げ惑ったのでしょうか。

もちろん日本軍もダメージはあり、350人ほどの死傷者が出ます。

それ以上に東路軍の被害は大きなものでした。
一時は東路軍の元帥(トップ)である洪茶丘が討ち死に寸前だったといいますから、一般の兵やそれ以下の将軍はいわずもがな。

河野通有の他にも、またもや竹崎季長や福田兼重などが奮戦しました。

数をアテにしようにも、江南軍は現れず

こうして、日本軍の優勢で始まった弘安の役。

志賀島の確保は厳しいと考えた東路軍は、壱岐まで退いて江南郡の到着を待つことにします。
上記の通り、江南軍は東路軍の倍以上の数でしたから、数をアテにしようというわけです。

しかし……。
約束の6月15日になっても、江南軍は現れません。
実は江南軍の内部で病気が流行っており、司令官交代というアクシデントが起きていたのです。

こうなると出港も遅らせざるを得ず、6月15日に間に合わなかったのでした。

江南軍は大所帯だったため、いくつかの部隊に分かれて渡航しながら、出立日が判明するのは一つだけ。
それが6月18日のことです。

東路軍と江南軍が合流したのがいつだったのかも、ハッキリしていません。

日本側に、
「6月24日に、南宋で作られていたタイプの船が対馬にやってきた」
という記録があるので、おそらくこれが江南軍でしょう。

しかし、江南軍は壱岐に向かわず、平戸島や鷹島に展開。
どちらの島でも急ごしらえながらに防塁を築き、陣を構えて日本軍を待ち受けました。

元寇蒙古塚(蒙古軍供養塔)福岡県福岡市東区志賀島

6月29日、日本軍が総攻撃をしかけます。

ターゲットは壱岐島の東路軍。
この時点での双方の兵数はわかりませんが、日本軍も数万規模だったそうなので、数の上ではおそらく互角に近かったと思われます。

壱岐での激戦は7月2日まで繰り広げられました。
ここで活躍した御家人には、島津長久・比志島時範・龍造寺家清などがいます。
戦国時代でもお馴染みの一族が、続々と出てきますね。

このタイミングで東路軍は「江南軍が平戸島に到着した」という知らせを受け取りました。
となると壱岐で踏ん張る意味も薄れます。

そのため壱岐を放棄し、江南軍との合流を目指して移動。
日本軍としては追撃したかったでしょうけれども、御家人の大勢の死傷者が出ていたこともあり、ここでは踏み止まりました。

日本軍が日中から攻め込み、夜明けまで戦闘が続く

当初の予定から1ヶ月ほど遅れた7月中旬。
平戸島・鷹島周辺で東路軍と江南軍が合流しました。

増援の存在を知った日本軍は尻込みしたりせず、早速、鷹島に乗り込んで戦闘スタートとなります。
「鷹島沖海戦」とも呼ばれていますが、日本側の記録がないため、詳細はわかっていません。

元の記録によると、
「日本軍が日中から攻め込んできて、夜明けまで戦闘が続いた」
とのことです。鎌倉武士タフ過ぎで。

まぁ、全員が、最初から最後まで戦っていたのではなく、途中で部隊単位での交代ぐらいはしていたでしょう。
元軍からしたら「いつ攻撃が止むんだ……」と思えたでしょうね。

とはいえ、いつまでも攻められっぱなしというわけにもいきません。
元軍も攻勢に転じ、当初の予定通り大宰府へ進軍しようと考えていました。
しかし鷹島周辺での潮の満ち引きが激しく、船を出せないまま時が過ぎていきます。

この時間で日本軍は、休息と増援の到着を待つことができました。
実はこの頃、六波羅探題から宇都宮貞綱率いる大軍が来る予定になっていたのです。

貞綱は、後の戦国大名・宇都宮氏のご先祖にあたります。
途中で女系になったり養子が入ったりしていますが。

幕府も「向こうも大所帯みたいだし、そろそろメシが足りなくなる頃だろう」と考え、九州・中国地方の荘園から兵糧を徴収するため、朝廷に協力を申し込んでいます。

幸い、これらの増援と兵糧が役立つことはありませんでした。

今度こそ、本物の暴風雨がやってきたからです。

ついにやってきた暴風雨

この年の7月末~閏7月1日にかけて、大型台風と思われる嵐が元軍を襲いました。

それまで規模の小さな嵐を体験していたため、
「雨風なら待っていればすぐに止むだろう」
と軽く見ていたのでしょう。

何本フラグ立てるの?(´・ω・`)

元の記録によれば、荒波によって船同士が激突して沈んでしまい、溺死する者が大半だったとか。
お偉いさんの中にも「板切れにしがみついて何とか助かった」という人が何人かいたようなので、一般兵は……うん……。

唯一心温まる(?)話としては、東路軍のとあるお偉いさんが漂流していた兵400人前後を救助し、彼らに厚く信頼された、というものがあります。

また、平戸島や鷹島付近にいなかった部隊や、予め船の感覚を空けていた部隊には、あまり台風の被害がなかったとか。
後者については、江南軍のある部隊の話です。
元々、「江南」とは長江の南側の地域を指しますし、この地域は現代でも台風が度々通りますから、この部隊の指揮官が台風対策を熟知していたのかもしれません。

しかし、全体的には東路軍より江南軍のほうが被害が大きかったようなので、何とも判断に困るところです。
理由としては「東路軍が使っていた(高麗で作らせた)船のほうが、江南軍のものよりずっと頑丈だったから」だとか。鷹島付近の海底から見つかった遺物からも、これは裏付けられています。

こうした結果を受け、さすがに元軍の中でも
「もう帰ったほうがいいんじゃね?」
という意見が強まってきます。

一方で、
「どうせ帰れないのなら、やれるだけやってやろう!」
と半ば以上ヤケクソになる者もいました。

最終的に江南軍の総司令官が
「お咎めがあれば私が受けるから、撤退しよう」
と実に男前なことを言い、撤退が決まります。

中には、自分たちが助かるために、一般の兵を船から引きずり下ろし置き去りにしていった将校もいたそうですが……。

撤退した元軍は、その後どうなったん?

閏7月5日、「御厨海上合戦」が起きています。
撤退していく元軍の船を、竹崎季長らが追撃したのです

ここでも船に乗り移って首を挙げたり、取っ組み合いの末に元兵もろとも海に落ちてしまったりといった、白兵戦が展開。
鷹島に置き去りにされた元の兵士たちは、木を切り、自分たちで船を作って撤退しようと考えます。

根性は要りますが、なにせ10万前後の兵がいたので、不可能ではないと考えたのでしょう。

御厨海上合戦・敵船に乗り込む竹崎季長と大矢野三兄弟/wikipediaより引用

しかし、それを日本軍が見逃すはずもありませんでした。

日本軍は閏7月7日に「鷹島掃討戦」と呼ばれる総攻撃をかけ、元兵を討ち取るわ、生け捕るわ、船を焼き払うわの凄まじい状況。
ここだけ見ると残酷なようですが、おそらくこれは
「文永の役や弘安の役の緒戦で【対馬・壱岐】の復讐」という面もあったことでしょう。もちろん恩賞目当ての者も。

いずれにせよ元寇における戦闘は終わります。

こうなると、撤退した元軍はどうなるか。
気になりません?

「命あっての物種」とはいいますが、本国でも問題が山積みでした。
クビライの親戚であるナヤン・カダアンをはじめとした身内の相次ぐ反乱と、陳朝大越国(現在のベトナムにあった国)及び、その付近にあったチャンパ王国と、元との関係が悪化していたのです。

ザックリ言うと
「南宋を倒して日本討伐に集中できると思ったら、ボロクソに負けた。
しかも命からがら帰ってきたら、身内と外に敵が増えていた。
な、何を言っているのか(ry」
みたいな感じでしょうか。

クビライは弘安の役の後もしばらく日本討伐を諦めていなかったのですが、ここまで戦争が積み重なると辟易し、
「日本からこっちを攻めてきたことはないんだから、今は別の問題を解決するべき」
として、一時、日本討伐をやめています。
もっと早く気付けYO!

まあ、他の問題が片付いてからまた使者を送ってきてるんですけれども。
琉球(沖縄)や樺太には出兵していたようですし、クビライは最期まで日本討伐を諦めていなかったっぽいです。

それ、ただ単に格下だとナメていた相手に二回も失敗して、意固地になってただけなんじゃ……(´・ω・`)

まだまだ元軍はやってくる!かもしれない

カンベンして欲しいのは、元の圧力に付き合わされるほうです。
例えば高麗では、急ピッチで造船を行ったため、木材を採るための森林がハゲ山になってしまったといいます。

元々、朝鮮半島の土壌は花崗岩が多くて栄養が少なく、植林がしにくい土地柄。
そんなところで短期間に乱伐を繰り返していたら、植林を倍以上のスピードでやったとしても追いつきません。

また、元の侵攻方針にも問題がありました。

乱暴な話ですが、大陸であれば物資が足りなくなれば攻め込んだ先で略奪すればいいですし、略奪がうまく行かなければ、援軍を待って踏み潰せばうまくいきます。

しかし、そもそも渡航にすら手こずるような場所で、同じ方針は使えません。
元は文永の役のとき、そこに気づかず、弘安の役でも同じことをしました。

戦争に勝つセオリーとして有名なのは「天の時、地の利、人の和」ですが、それと同じくらいに「補給線の維持」は絶対条件です。
まぁ、この辺は後世にもあっちこっちの国や軍がやらかしていますが……過去を知るって本当に大切なことですね。

一方、日本側は、文永の役から急ピッチで防御と統率・士気を高めて防戦にあたったことが功を奏しました。
士気の維持ができなければ、追撃まではしなかったでしょう。

ただ、対馬や壱岐の防備は大差なかったようで。
最初から捨て石にするつもりだったのかもしれませんね……。
それならそれで、島民や武士を一時的に本土へ引き上げさせてもいい気がしますけれども、この時代ですから人道的な意識は希薄だった可能性が否めません。

いずれにせよ当時の状況で、
「もう元寇\(^o^)/オワタ!」
ということで、安心はできません。

現に元は……コホン……その後も服従を迫る文書を送ってきているのです。懲りない連中やなぁ。
そのため幕府も気を緩める訳に行かず、九州の警備は続けられました。

蒙古襲来絵詞は幕府に功績を認めさせるため?

さて、元寇といえば鎌倉幕府が倒れる遠因となったことでも有名ですね。

北条氏としても、これほどの苦難に立ち向かった人々に対し、完全なタダ働きというのは気が咎めたようです。
しかし、あまりにも恩賞を与える対象が多すぎたこと、現地の状況が幕府中枢に全て報告されたわけではないことから、実際に恩賞を得たのはごく一部でした。

蒙古襲来絵詞を描かせた竹崎季長はその中で最も有名な人ですね。

竹崎季長/国立国会図書館蔵

この絵巻物自体は、季長が自分の子孫に戦功を語り継ぐために作られました。
が、その中に「恩賞をもらうために季長は鎌倉に行き、幕府の重鎮に功績を訴えました」という場面があるため、現在では「季長は幕府に功績を訴えるために絵を描かせた」とされるほうが多いですね。

また、この絵巻物の詞書(説明書き部分・いわゆるキャプション)は、季長が手がけたと考えられており、当時の武士の話し言葉などがわかる貴重な史料になっています。

興味深いのは、季長の身分でしょう。
実は季長、文永の役が終わり、やっとこさ地頭になれたという人でした。
つまり上級武士ではなく、その階層の者が【読み書き】をできるようになっていたという点も、文化の進歩が伺えます。

「記録によって自分の戦果を後世に伝える」という発想が出てきたことも、地方武士が為政者として成長していた証左となるでしょう。

季長が直接会って戦功を伝えたのは、幕府の重鎮・安達泰盛でした。

泰盛は季長の話に感じ入り、執権・北条時宗にそのまま伝えたと思われます。
時宗はその後、季長を北条氏の領地の一つだった海東郷の地頭に任じました。

これを「時宗が誠実だったから報いた」と見るか、「季長のような勇敢な武士に背かれることを防ぐための懐柔策」と見るかは人それぞれ。
季長は絵詞の中で、自分が負傷した=落ち度があったことをそのまま描かせるような、素直な人物だったことが影響しているかもしれません。

普通、自分の戦功を誇るならば、手落ちがあったことを隠したり、討ち取った数を盛りまくったりするものです。

しかし、季長はそうはしていません。
そこが泰盛や時宗の心を打った……というのは、綺麗に想像しすぎですかね。

元寇が終わってから30年以上も待たされた

季長の他にも恩賞を得た者はおり、九州各地の所領が与えられています。
中には陸奥の土地を得た者もいたそうですから、幕府としても、できるかぎりのことをしようとしたのでしょうか。

しかし、それは元寇が終わってから徳治二年(1307年)までという、非常に長い年月のかかったものでもありまして。
仮に文永の役で戦った御家人からすると、30年以上も待たされたことになります。

当時の寿命からして、当人は鬼籍に入っていた可能性が高く、全員が恩賞を得られたわけでもありません。
そりゃあ幕府への不満も溜まるでしょう。

ともすれば、元寇とは
「北条時宗の時代に神風が吹いて、追い返しました! 終わり!」
みたいに流されてしまうことが多いですが、一つ一つ見ていくと、後世の戦争の勝敗にも通じる部分が多々あって興味深いところです。

鎌倉時代の基本史料とされる「吾妻鏡」が元寇の前の時代に終わってしまっており、他の記録が公家の日記や祈祷をしていた寺社のものしかないので、かっ飛ばさざるをえないところもあるのですが。

最近ではこんなマンガも出てきたので、興味のある方は読むとより面白いかもしれません。

アンゴルモア元寇合戦記/amazon

元寇の最前線だった対馬を巡る戦いを描いた作品でして。
テーマが元寇というだけでも珍しいですが、対馬というところが実にハラハラしますね。

2018年7月にはアニメ放送も開始予定だそうで。
ネタがネタですし、原作も青年誌だからか割とゴア描写があるのですけれども、アニメでどこまでやるんですかね?

上記の通り、元寇は事の重大さの割に、日本側の史料が少ない出来事です。

今後も新しい記録が見つかって、あっと驚くような事実がわかるのかもしれません。
それはそれで歴史の楽しみの一つですね。

長月 七紀・記
https://bushoojapan.com/jphistory/middle/2019/06/17/111787
【参考】
国史大辞典「文永・弘安の役」
戦争の日本中世史―「下剋上」は本当にあったのか―(新潮選書)(→amazon link)
元寇/wikipedia


*1 *2
*2 ;゚Д゚