歴史・人名

半島南部は倭人のクニ

第4章 3.半島南部は倭人のクニ
投稿日: 2017年6月11日 投稿者: kojiyama

   1~2世紀の朝鮮  『古朝鮮』NHKブックスより「韓国人は何処から来たか」長浜浩明
   まず、数少ない貴重な史料である『但馬故事記』第五巻・出石郡故事記に登場する天日槍命が出石で帰化したのは、人皇6代孝安天皇の五十三年(推定年代:長浜浩明氏の算定で孝安天皇在位期間は西暦60-110年)と記されている。
   孝安天皇は、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するが、その事績(旧辞)が記されない「欠史八代」の第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のひとりではあるが、倭国の後継国である「大和・日本」で720年に成立した『日本書紀』では、新羅・加羅と任那が併記される。中国の史書では、『宋書』で「任那、加羅」と併記される。加羅と任那といっても入り組んでいて、その頃の国は、高句麗・百済・新羅・加羅・任那が流動的に動いており、とくに加羅・任那には三韓の地域の一つである弁韓を母体とする。
   その時代の半島南部を知っておきたい。3世紀ごろ、半島南東部の辰韓は12カ国に分かれていた。のちの新羅、現在の慶尚北道・慶尚南道のうち、ほぼ洛東江より東・北の地域である。辰韓と弁韓とは居住地が重なっていたとされるが、実際の国々の比定地からみるとほぼ洛東江を境にして分かれているのが実態である。
    
   三韓
   1世紀から5世紀にかけて朝鮮半島南部は、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる地域を西から馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。
   天日槍命が記紀に登場する年代は、年号の解釈には諸説あり断定的なことはいえないが、孝安天皇の在位期間をおおよそ西暦60~110年とすると、建武20年(44年)が「韓」の初出とされ、馬韓の初出は建光元年(121年)であり、辰韓・弁韓も同時期に分かれたとすれば、辰韓は三韓以前の韓とよんでいた地域となる。1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部には種族とその地域があった。朝鮮半島南部に居住していた種族を「韓」と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる西から「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」の3つの地域に分かれていったことから「三韓」といった。
   したがって、記紀が記された頃は、新羅が成立していたのであるが、天日槍(ヒボコ)の頃に、半島北部は高句麗であり、朝鮮半島南部には国と呼べる地域は成立いない。三世紀の頃の新羅の前身の辰韓、加羅と任那にあたる弁韓は、ともに12カ国に分かれていたとされ、半島南部の海岸部は、縄文時代から北部九州から対馬・朝鮮半島最南部は、倭人が移り住んでいた倭国で、半島南部は、同じ倭国の勢力範囲だったことをまず念頭に入れなければならない。土器・稲作などの文化は半島から日本に伝わったのではなく、韓はもとの字は空(から)ともいわれ、未開の空白地域であり、九州北部から半島南部へ伝わっていったのがわかってきた。そして村々が生まれていった。倭人・倭種・半島土着民の混合であった。
   『三国志』東夷伝による諸民族の住居地域 『古朝鮮』NHKブックス 『韓国人は何処から来たか』長浜浩明
    
   この頃の半島中南部は、伽耶または伽耶諸国であり、弥生時代の村が発展したクニのような規模で国家とはいえない。3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那(みまな)日本府の領域として一線を画していたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。
   また、任那は伽耶諸国の中の大伽耶・安羅・多羅など(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。
   任那(みまな)
   3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。4世紀初めに中国の支配が弱まると、馬韓は自立して百済を形成したが、辰韓と弁韓の諸国は国家形成が遅れた。『日本書紀』や宋書、梁書などでは三国志中にある倭人の領域が任那に、元の弁韓地域が加羅になったと記録している。任那は倭国の支配地域、加羅諸国は倭に従属した国家群で、倭の支配機関(現地名を冠した国守や、地域全体に対する任那国守、任那日本府)の存立を記述している。
   任那加羅の名が最初に現れるのは、414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている。
   新羅・百済は倭(日本)の臣民だった
   5世紀初めに建てられた高句麗の広開土王(好太王)の碑は次のように記している。
   「新羅や百済はかつて高句麗の属国であり朝貢していたが、辛卯の年(391年)よりこの方、日本が海を渡り来て、百済、□□、新羅を破って日本の臣民にしてしまった」
   『日本書紀』は、この時代、新羅や百済は大和朝廷に朝貢し、三国志が「倭人の地」とした半島南部の任那は「日本の分国だ」と記述している。この時代、百済や加羅(任那)を臣民としていたことがあらためて確認された。
   『三国遺事』(1275年)によれば、駕洛国が西暦42年から10代532年まで存在していたことになっているが、『三国史記』新羅本紀(1145年)には金官国(金仇亥)の記録しかなく、また『南斉書』加羅国伝には、建元元(477)年に、国王荷知が、遣使、朝貢を果たしたことしか遺されていない。王統が一時断絶したり、倭国人系の王がとってかわって統治したり、有力国の王家が登場したのかもしれない。
   加羅(大伽耶・伽耶・伽那)
   『知っていますか、任那日本府 韓国がけっして教えない歴史』大平 裕氏によると、慶尚北道高霊郡に比定される。ただし、『日本書紀』に出てくる加羅は、加羅連合体、あるいは金海加羅を指す場合もある。
   南加羅(金海伽耶・金官伽耶)
   慶尚南道金海市に比定される。『三国史記』地理志に「金海小京、金官国(一云、伝伽落国、一云、伽耶)」とある。(中略)安羅伽耶は咸安に、古寧伽耶は咸寧に、星山伽耶は星州に、小伽耶は固城に大伽耶は高霊にそれぞれ都を定めたという。
   安羅(阿羅・安邪)
   慶尚南道咸安郡に比定される。

高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

国と言えるような百済・新羅が誕生するのは6世紀以降で、この頃の半島中南部は、弁韓地域の伽耶かやまたは伽耶諸国であり、弥生時代の村が発展したクニのような規模で国家とはいえない。3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那(みまな)日本府の領域として一線を画していたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。

また、任那は伽耶諸国の中の大伽耶・安羅・多羅など(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。新羅という国号と国は誕生したのは、繰り返しになるが、天日槍が渡来した時代よりずっと晩年で、新羅建国と合わないのだが、『記紀』が編纂されたのは、白村江の戦い(天智2年8月・663年10月)朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争から間もない。大和朝廷にとって、蔑んで任那伽耶とせずになぜ新羅王子としたのだろう。意図的に思える。

新羅(シンラ・しらぎ)

まず、新羅(しらぎ/しんら)の誕生期を留めておきたい。したがって、記紀が記された頃には、新羅が成立していたのであるが、新羅という国号と国は誕生したのは、天日槍が渡来した時代よりずっと晩年で新羅建国と合わないのだ。

『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆シロ国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。

新羅は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家だが、そもそも新羅国が誕生したのは、紀元356年- 935年とされる。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となったもので、6世紀中頃に半島中南部の伽耶諸国を滅ぼして配下に組み入れた。

   3世紀後半から4世紀の朝鮮半島北部は高句麗、西部は百済、東部(慶尚道)に紀元356年、新羅国が興り、935年まで存在していた。ただ、377年、前秦への朝貢の際に、新羅という国号を初めて使用したが、402年までは鶏林の国号が使用された。
   『梁書』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬」
   (新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居している)

という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。

   4世紀末の半島と高句麗軍南下に対する日本軍の反撃想定路(『日本史年表・地図』吉川廣文館
   『韓国人は何処から来たか』長浜浩明
    
       『梁書』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬」
       (新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居している)
       という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。
   *1 日本語では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だった。万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音である。いずれにせよ、「新羅」だけで「しんら」=「しら」と読めるのに、後に「き」または「ぎ」という音が付加されている。これは「新羅奴」(憎い新羅というニュアンス)、あるいは「新羅城」ではないかという説があり、新羅と日本が敵対していた事実を反映しているとする。(ウィキペディア)

韓国の前方後円墳
『韓国の前方後円墳』森浩一 『韓国人は何処から来たか』長浜弘明

全羅南・北道に散在する日本古来の前方後円墳14基や韓国西海岸辺山半島の突端にある竹幕洞祭祀跡から、日本との関係を示す埋葬品は、4世紀後半から6世紀にかけての鉄製武器、金銅製馬具、銅鏡、中国製陶器などの出土品、特に注目される石製模造品は、福岡県沖ノ島祭祀遺跡の出土のものと酷似していて、それらは倭国からもたらされたものと考えられている。
(中略)

百済、新羅は、馬韓54ヵ国、辰韓12ヵ国といった小国群をまとめながら、ようやくそれぞれ346、356年頃、一つの国として東洋史に登場する。それほど古い国ではない。一方倭国は、百済・新羅にはるか先行し、『魏志倭人伝』の記述があるように、西暦200~240年当時には慶尚南道(朝鮮半島南東地域)沿岸部を「倭地」として管理している。この地域のすぐ北方ないし周辺地の狗邪(伽耶・加羅)韓国を傘下に、鉄資源の確保から、楽浪郡・帯方郡その他の地と交易をさかんに行っていたのである。
(中略)

『日韓がタブーにする半島の歴史』室谷克実著によると、
日韓がタブーにする半島の歴史 (新潮新書)
日韓がタブーにする半島の歴史 (新潮新書)

   著者室谷 克実
   価格¥ 778(2017/08/20 18:32時点)
   出版日2010/04/01
   商品ランキング65,935位
   新書223ページ
   ISBN-104106103605
   ISBN-139784106103605
   出版社新潮社

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「列島か流れてきた賢者が新羅の王になる」話しについても、戦後日本の朝鮮史学者たちは「そんな説話は嘘に決まっている」として、『三国史記』の前半部分を“古史書の墓場”に深く埋葬している。しかし“歴史の事実”であるかどうかはさておき、「ただの古史書ではなく、一国の正史が現にそう書いている」という“記載の事実”は、どこまでも重い。

(中略)

『三国史記』が出来上がったのは12世紀、高麗王朝の時代だ。『三国史記』そのものが、“高麗とは山賊が打ち立てた国家”ではなく、「伝統ある新羅から禅譲を受けた国・王朝」であると明示するとともに、「新羅王朝の血脈が高麗の王朝にも流れ込んでいる」と主張することを目的にした正史といえる。

そうした高麗王朝にとって、「新羅の基礎は倭人・倭種がつくった」という“危うい話”を正史に記載することに、どんなメリットがあったのか。(中略)『三国史記』の成立過程、その記載内容を慎重に検討していくと、上記の話が決して捏造ではないこと、年代については疑問があるにしても、事実の確実な反映であることが見えてくる。考古学の新しい成果や、DNA分析を駆使した植物伝播学の研究も、それを後押ししてくれる。

「第一章 新羅の基礎は倭種が造った」

朝鮮半島には新羅(滅亡は935年)、高句麗(同668年)、百済(同660年)の3つの国があった時期を「三国時代」と呼ぶ。やがて新羅が半島を統一して「統一新羅時代」に入る。しかし、新羅の腐敗による統治能力の低下に伴い、半島内では2つの勢力(後百済、後高句麗)が台頭して抗争が激化する。「後三国時代」と呼ぶ。

その中から“山賊が建てた国だった後高句麗”を受け継いだ高麗(918~1392年)が、新羅国を挙げての帰伏により半島を再統一する。そこまでが『三国史記』の記述対象だ。(中略)高麗で最高の功臣かつ実力者であり、儒家としても名高かった金富軾が現役を退いた後に、17代王である仁宗(在位1123~46年)の命令を受けて1143年頃に編纂を開始し、1145年に完成した。

(中略)

『三国史記』とは書き下ろしの史書ではない。当時あった多数の古史書を点検し、かつ中国史書を参考にして、“半島史に関する高麗王国の統一見解”としてまとめられた正史だ。そうした経緯からして、日本でいえば『日本書紀』に相当する。
「日本海側の地から来た賢者」

『三国史記』の第一巻(新羅本紀)に、列島から流れてきた賢者が、二代王の長女を娶り、義理の兄弟に当たる三代目の王の死後、四代目の王に即く話が載っている。その賢者の姓は「昔(ソク)」、名は「脱解」だ。

新羅本紀」は脱解王初年(57年)の条で述べている。

脱解本多婆那国所生也。其国在倭国東北一千里

(脱解はそもそも多婆那国の生まれだ。その国は倭国の東北一千里にある。)

その生誕説話も載せている。そこには、新羅の初代王である朴赫居世の生誕説話の倍以上の文字数が費やされている。

(中略)

新羅本紀」の記述からは、多婆那国が「ここにあった」とは特定できない。しかし、日本列島の日本海側、因幡地方から新潟県あたりまでの海沿いの地にあったことは確実に読み取れるのだ。

(中略)

『三国遺事』は、高麗の名僧、一然(1206~89年)が編んだ野史(官撰ではない史書)で、完成したのは『三国史記』より百数十年後の1280年代中盤とされている。半島に残る史書としては二番目に古い。

『三国遺事』には、もう一カ所、脱解に触れた部分がある。巻二の最後に収められている『駕洛国記(抄録)』の中に、

「駕洛」は「伽耶」「加羅」と同義とされる広義の「任那」だ。(中略)『駕洛国記』とは、高麗11代王の文宗の時に、金官(現在の金海地域)の首長として赴任した文人が、滅亡した駕洛諸国に関して、地元の伝承や古史書を集めた作とされる。成立は1076年だから、『三国史記』より70年ほど前になる。(中略)

脱解に関する件は「[王完]夏国の含達王の夫人がにわかに身ごもり卵を産んだ。その卵が化して人間になったので、名前を脱解といった」と始まる。

つまり、この伝承では、脱解は船に乗せられた時、既に卵ではなく、名前もあった。脱解は駕洛に着くや、金首露の宮殿に入っていき、「王位を奪いに来た」と宣言する。しかし、王と変身の術を競って敗れると、船で鶏林(新羅)の方へ逃げていったー抄録に[王完]夏国の所在地を示す記述はない。しかし、抄録そのものを『三国遺事』全体の流れの中で見るべきだ。

新羅本紀」『三国史記』、『駕洛国記(抄録)』の脱解に関する記事を基に大胆に想像するとこうなる。

日本列島の日本海側にあった多婆那国で、何らかの事情があり、若君を追放することになった。多婆那国には「海人の国」らしい追放の仕方があった。若君は側近、奴婢、それに相応の財宝とともに船に乗せられ、「どこにでも行ってしまえ」と追放されたのだ。

しかし、列島の北方は農耕にも不向きだ。といって対立している倭国に行くわけにもいかない。だから朝鮮半島を目指した。最初に着いた金官国では相手にされなかった。

次に着いた新羅の海岸では、王のために魚や貝を獲る役を務めている倭種の老海女にコネを付けられた。当初は海辺で網元のような仕事をしていたが、やがて市場がある慶州に移り住んだ。ここで老海女のコネを利用して朴王室に近づき、多婆那国から持ち込んだ財宝で新羅の廷臣を包摂して、「賢者」としてまんまと…権力の座に就くと、新羅の初代王にあやかって「自分も卵から生まれた」と称した。

(中略)

新羅とは、二代王の前半の時代から、すでに脱解が大輔(総理大臣に相当。「新羅本紀」からは、軍事は脱解が掌握していたと読み取れる)として国政・軍事を司っていた。即ち倭種が実験を握っていたー「新羅本紀」を“素直に”読めば、そういうことになる。二代目の南解王、三代目の儒理王の治績として記されていることー当時の小さな村連合のような国での基礎づくりの大部分は、「南解王」「儒理王」の名の下で、実は倭種の「脱解政権」により実行されたのだ。

新羅最初の外交団の首席代表は倭人だった。三代目の王には息子が二人いた。しかし、脱解を四代王に即けるよう遺言して没する(57年)。脱解は王位に即くと翌年には瓠公を大輔に任命する。この瓠公は倭人だ。

(中略)

脱解は一応、紀元1世紀の人物として記されている。これに対して『三国志』は3世紀後半に成立した。(中略)『三国志』は、脱解王の下で大輔に就く人物について、「倭人」だったと明記している。

(中略)

脱解に関する件は、「院夏国の含達王の夫人がにわかに身ごもり、卵を産んだ。その卵が化して人間になったので、名前を脱解といった」と始まる。

つまり、この伝承では、脱解は船に乗せられた時、すでに卵ではなく名前もあった。脱解は賀洛に着くや、金首露の宮殿に入っていき、「王位を奪いに来た」と宣言する。しかし、王と変身の術を競って敗れると、船で鶏林(新羅)の方へ逃げていった。

「卵が化して人間になった」とは、なんともあり得ない馬鹿馬鹿しい記述だが、とにかく当時倭国と半島南部は地続きといっていい同じ倭国であった。
『日韓がタブーにする半島の歴史』終章

新羅の四代目の王は、列島から流れていった人間だー実は、これは日本で近代的な朝鮮史研究が始まるや、すぐに唱えられた説だ。(中略)しかし、どの研究者も、多婆那国を熊本県玉名市、但馬国、あるいは丹波国

に比定した程度で深入りしなかった。脱解以降の倭種王については、考察された形跡が殆ど無い(ただし、岩本義文は、「多婆那国とは但馬国の訛音」であり、「脱解は天日槍の子供」として、独自の推理を展開した)。

倭が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

これをみると、天日槍が出石にやって来たのはそのような背景だったかもしれないので、長浜浩明氏が算定した実際の在位年代の西暦60~110年よりももっと後かも知れないが、安羅・加羅というクニはすでにあったのかもしれない。欠史八代の次、10代崇神天皇は3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王とされ、6代孝安天皇は4代前なので、少なく見ても2世紀頃かその前後であろう。

新羅の王、天日槍とした「記紀」が編纂されたのは、古事記が712年、日本書紀が720年であるということである。したがって、当時の国号として新羅としたのもわかるが、その伝承の時代は朝鮮半島南部にあった三韓の一つ「辰韓」であった。縄文時代から半島南部から対馬・壱岐・北部九州を含む国々で、倭人が定住し始め、三韓ともに倭国の属国であった。その子孫が王になっているので、日本海に接し、後の任那・加羅と重なる場所にあった南の弁韓を後に新羅が滅ぼす。加羅もすでに新羅であり、辰韓の王は倭人で、すでに加羅(伽倻)は消滅しており、天日槍=新羅の王としても時代的には合っていることになる。

まして韓国最古の国史である『三国史記』は、1145年である。その頃の日本は平安末期、千年以上も後世の書でそれまでの歴史書は現存していないのであるから信ぴょう性に欠ける。(日本書紀は百済の百済記・百済新撰・百済本紀を援用している)


https://history.kojiyama.net/?p=145552