歴史・人名

南京大虐殺

南京大虐殺
    日中戦争中、中国の首都である南京で日本軍が無辜の民間人を30万人も虐殺したとされる。
その真相を下記のサブページに分けました。

★死者数の信憑性/なぜ虐殺後に人口が増えているのか

南京大虐殺の数の信憑性】
日本軍は民間人を30万人も虐殺したとされているが、果たして原爆も使わずにそんな数の殺人が可能なのか。

●日本人が本当の市民を殺した信用できる数字はどこか…それは安全区にある。ここにしか市民がいないはずだから、ここで何人殺されたかを見ればいいわけである。
これに対しては、反日で凝り固まった白人が現地にはたくさんいた。彼らが日本の公使館に文句を言っている。それらの数字を全部合わせても、占領後3ヵ月間で47人ぐらいである。とばっちりで殺された人もいると思うが、本当に確実に殺されたという証言は、東京裁判の証言でも1人なのだ。なぜこんな確実な数字が世の中に知られないのか。              《渡部昇一 「新しい歴史教科書を「つくる会」が問う日本のビジョン」
                                他の著書「新しい歴史教科書改訂版」》

●金陵大学教授ルイス・S・C・スミス…「南京市の戦前の人口はちょうど100万であったが、爆撃が繰り返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時の人口は20万から25万であった」

●たとえ70万人いたとしても、70万人の内30万人も殺されるということは、家族・友人・知人等何らかの関係がある人が必ず殺されているということになる。こうした事態になれば、いくら日本が隠そうとしても隠しきれるものではない。            《井沢元彦 「逆説のアジア史紀行」 他の著書「中国地球人類の難題」》

●中国人の学者が書いた資料を見ると、最初は犠牲者の数は300万だった。しかし、いくらなんでも300万じゃ多すぎるだろうということで、30万になったという。実際にそういう話が出てくる。

●実際には日本軍が3日前にビラを撒いて、戦争するから市民は避難しなさいと通達していたから、ずいぶん多くの人が日本軍が来る前に逃げていた。(当時の南京の人口は90万、うち逃げたのが70万、日本軍が入城した時の人口は20万だった)                       《金文学 「逆検定中国国定教科書」》

●南京事件のおりに、欧米の宣教師が現地に居て苦労した揚げ句、安全区をつくり、10万人の無辜の市民を守ったことを誇らしげに記した手紙が、エール大学の神学校に残されているといわれる。それが事実なら、大虐殺などなかったということになる。                      《松原仁 正論2007/3月号》

●南京の埋葬体は次の8種類がある。
  ①南京陥落前、中国軍と銃殺された暴徒の死体
  ②   〃    南京の駅に放置された大量の戦士兵
  ③戦闘中に戦士した兵士
  ④中国軍の督戦隊に撃たれて死んだ兵士
  ⑤野戦病院に運び込まれたが死んだ兵士
  ⑥城壁から城外に出ようとして転落死した兵士
  ⑦悒江門を通って城外に出ようとして圧死した兵士
  ⑧安全地帯で摘発された揚子江岸で処刑された兵士 
     …要するに、虐殺体すべてを日本軍による市民虐殺とはならない。
                                 《東中野修道 諸君!2002年4月号》

●南京の人口を検証するに当たっては、次の3点に留意する必要がある…
①1937年11月16日、蒋介石は南京放棄を決定、「3日以内に政府機関は撤退準備を完了せよ」と命じた。このため8月から脱出を始めていた富裕階級に続いて、政府関係者も南京から脱出し、残ったのは中国軍兵士と貧民だけであった。
②12月7日、中国軍は南京城外の半径16キロ以内の数百の村落・建物を焼き払った。(清野作戦)近郊の住民は中国軍によって住居を焼き払われ、住む所がなくなった。
③12月8日、唐司令長官が城内の全ての非戦闘員に対し「難民区」に集結するよう布告、市民は身の安全を求めて「難民区」に殺到した。よって城内も安全区の外は無人地帯となった。安全区委員会も12月17日の文書で「13日に貴軍(日本軍)が入場した時にわれわれは安全区内に一般市民のほとんど全体を集めました」と記している。

●では、安全区の人口はどのくらいだったのか…
安全区委員会委員長ジョン・ラーベは、南京戦が始まった12月10日付日記に「20万」と記している。その後、日本軍による市内制圧・占領と続くが、委員会の認識は12月17日付文書以降一貫して「20万人」であった。
こと人口に対する限り、委員会の認識は確かだった。何故なら難民たちの食糧問題に頭を悩ました委員会にとって、安全区の人口を正確に把握することはどうしても必要だったからだ。
南京には中国軍兵士も存在した。その数について東京裁判の判決文には「中国軍はこの市を防衛するために、約5万の兵を残して撤退した」とある。
…以上から判断すると、戦闘開始時の南京城内の人口総数は、最大でも「25万人」ということになる。

●その後、南京の人口はどうなったか…
安全区委員会の文書には、1938年1月に入ってからの安全区の人口を「25万人」と記している。5万人増えた計算となる。この増加分は、城内に潜んでいた中国軍将兵とその家族、及び一般市民を兵民分離工作の際に「敵意なし」として登録した分であろう。
その後も人口は増えていく。2月上旬に安全区が解散された後、スマイス教授は多数の中国人を動員して人口調査を行い、3月下旬の南京の人口を「25万ないし27万」と推定している。同じく3月28日に発足した南京維新政府南京市政公署が登録した住民の数は「27万7千人」だった。  

●大量殺害施設として名高いアウシュヴィッツでさえ、殺害数は一日平均710人であった。一日平均3万8千人も殺害するためには、アウシュヴィッツ並みの施設が53個所も必要となる。いったい誰があの密閉された城壁空間とその近郊でそんなものを見たのか。   《竹本忠雄 大原康男 「再審「南京大虐殺」 ―世界に訴える日本の冤罪」》

●15万7千以上の死体を埋葬したとあるが、これだけ厖大な死体を運搬し埋葬するには、途方もなく多数の人手を必要とするはずである。しかもそれは力仕事であるから、屈強な男でなければならない。中国人の男が「鬼の如く」殺された南京において、このような男たちはどこに残っていたのであろうか。
                                 《中村粲 「大東亜戦争への道」》 

●「集団殺害19万人、個別殺害15万人」という数字は、確かに極東軍事裁判で調査資料として提出された数字である。だがその数字は、検察側の主張の一部として出てきただけで、弁護側からの反論により判決では退けられたものだ。検察側が立証材料として提出したこの数字は、当時の中華民国南京地方裁判所付属の検察官が、南京事件から8年後に作った報告書内の数字でしかない。つまり、法廷で34万人という数字が認定されたわけでは決してない。                            《井沢元彦 「逆説のアジア史紀行」》 

●今現在、南京議論では少なくとも日本側では無辜の市民を30万人以上殺したと主張する人はいなくなった。次の問題としては、捕虜の処刑をどう見るか。これはこれからの専門家の議論による。 《北村稔 諸君!2002/1月号》

●「数の問題ではない」というが、それでは日本人が殺された「通州事件」・「通化事件」も同列に扱え。「数が違う」などと言うな。                  《小林よしのり 「『個と公』論」 他の著書「戦争論」》

●虐殺派は、ラーベが南京を離れた2月2日以降や、彼の目が届かなかったはずの近郊農村での虐殺があるはずと、枠の拡大をはかっている。 (笠原十九司らは)以前から南京戦以前へさかのぼるべしとの主張もあることだし、こうした主張を用いれば必要な数に達するまで期間と地域を拡張できるというものだ。 
米南京領事館のアリソン書記官が「事態は目立って改善され、日本兵は優雅になった」と書いていたのが2月1日だから、期間を2月22日以降まで引き延ばす必要はないだろう。   

●ラーベは南京陥落時の住民人口を、20~25万人(南京市内全部か難民区だけか明確でない)と繰り返している。これに対し笠原十九司著は、根拠なしに40~50万人と推測している。人口以上に虐殺するのは物理的に不可能だから、住民人口と守兵の数をカサ上げし、戦死者を切り下げている。笠原の計算によると、日本軍とほぼ同数の15万も死守を命じられた守兵がいて、戦死したのが1万人にもならず大多数が逃げるか投降したことになる。中国軍の名誉に関わるのではないか。  
●中国側は笠原たち(虐殺派)に対して、「30万人虐殺は南京城内だけの数字である。地域や時期を勝手に広げてもらっては困る」と言っている。(南京大虐殺60年国際シンポジウムにて)   
                       《秦郁彦 「現代史の争点」 他の著書「現代史の虚実」》 

                                   
          

●数は多ければ悪い、少なければよいというものではないが、正確な事実が歴史とならねばならぬ。
                                 《尾川正二 「戦争虚構と真実」》

●広島原爆の数字は、被害にあった家を一軒一軒、亡くなった方を一人一人積み上げ、それでも不明だった人が約1万人いたというものである。南京大虐殺と対比するとは、あきれてものが言えない。
                                《櫻井よしこ 文芸春秋2005/8月号》

●「犠牲者が3千人であろうと30万人であろうと、虐殺であることには違いがない」と開き直るが、数千のレベルなら国際法違反の「便衣兵」を処刑したのが大多数で、あとは日本兵の個人的暴行殺人ということになるが、30万となると軍が命令して組織的に行った無差別殺戮、ホロコーストになる。   《稲垣武 正論2006/3月号》

●最も実証的な資料として知られる旧陸軍士官学校OBの親睦団体である偕行社が発行した「南京戦史」によると、  ◇通常の戦闘による中国軍の死者3万人
  ◇日本軍に処断された捕虜などの総数1万6千人
  ◇一般市民の死者1万5千余人…とされる。

●処断は、敗残兵に対する攻撃、市民の中に紛れ込んだ中国兵の掃討、捕虜暴動の鎮圧などを指している。一般市民の死者は、当時の南京市の社会学者スマイス博士の調査結果に基づいたものだ。
                                   《石川水穂 正論2007/3月号》

★虚言/プロパガンダにはめられた日本

南京大虐殺についての虚言】
南京大虐殺では、牧師、大学教授、朝日新聞の記者などの証言・手記が残っている。
彼らの言っていることは信頼できるのか…

●自身の残虐行為を告白した元中国戦犯の告白記、と話題になった曽根一夫の「私記南京虐殺」(正続)。
一時は「類書にない特色を持つ」と評価する南京問題専門家もいたが、後に曽根は兵士として南京戦に参加していなかったことまで明らかになった。偶然私の知り合った曽根の親類も、「あの嘘つきが困ったものを書いてくれた」と言っていた。                          《渡部昇一 産経新聞2006/9/6》

●「ザ・レイプ・オブ・南京」に引用されている田所耕三という人物は、南京陥落後約10日間にわたって殺人と強姦を行ったと述べている。(「アサヒ芸能」昭和46年1/28号) しかし彼の所属する部隊は陥落2日後の12月15日には南京から転進しており、この人物が10日間も南京に残留できるはずがない。彼自身、のちに取材に応じて「記者が何かおもしろいことはないかと聞いてきたので、あることないことを喋ったんだ」と、この発言自体の信憑性を否定している。

●兵士として従軍した東史郎は、南京戦当時から「日記」をつけており、その中には日本軍が数々の残虐行為を南京で行ったことが記録されていると主張している。
その「日記」の中に、南京中心部で当時の上官が中国人を郵便袋に入れ、これにガソリンをかけて火をつけ、さらに手榴弾をくくりつけて爆発させて、その中国人を殺したという記述がある。
→これに対して、この元上官から名誉毀損で告訴された。この裁判は「東裁判」と呼ばれマスコミにも注目されたが、東京地裁・高裁ともに訴えた元上官が勝訴している。
→これに対して東は最高裁に上告したが、00年1/21最高裁は1・2審判決を支持し上告を棄却した。

●この裁判を通して、東が記述した残虐行為は物理的に不可能であり、実際にはあり得ないと判定された。
また東京高裁は、東の「日記」の提出された部分についても、「全てが昭和15年から19年にかけて書かれたわけではなく、内容によってはかなり後年(終戦後)加筆修正された部分もあるのではないかとの疑問も生ずる余地がある」と判定した。そうした検討の結果、高裁は「いずれにしても、昭和13年3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定、この判定を最高裁も支持した。  
               《竹本忠雄 大原康男 「再審「南京大虐殺」 ―世界に訴える日本の冤罪」》

●アイリス・チャン死亡後のロンドン「エコノミスト」誌(04年11/27号)…
「彼女の『レイプ・オブ・南京』は政治的論争に傾きすぎ、伝聞による誤謬が多く、しかも彼女は誤り箇所の訂正を拒否した。記憶が確かでもない中国人の証言をもとに目撃談を書いたのは賢明な方法ではなかった。まして当時南京にいた外人の日記を多用したが、かれらも外人居留地の安全地帯にいて”伝聞”を聞いただけであり、数の確認をしたわけではなかった。だから日本におけるアイリスの支援者でさえ(翻訳本が出版中止になっても)彼女に助け船を出せなかった」
●米国もアイリス・チャンの陰謀に加担したが、その動機が改めてわかった。TIME(04年11/22号)が次のように書いたからである…「アイリス・チャンが残した業績は日本軍がいかに残虐な行為を南京でなしたかを歴史的資料を探し出し、その数は広島・長崎の原爆の犠牲者よりもおそらく多いとした点だ。アイリス・チャンの作品は大歓迎、喝采を受けた」 …米国のホンネがのぞいた。 《宮崎正弘 「瀕死の中国」 他の著書「オレ様国家・中国の常識」》

●『レイプ・オブ・南京』の日本語版の版権を取得し出版の準備を進めてきた柏書房は、出版を不可能にした根本原因について「偏見と認識に依拠する原著とその著者の基本的姿勢そのものにある」と発表している。

●12月13日開城と同時に日本兵が城内になだれこみ、ところかまわず一般市民の殺害を始めた…とするチャンの記述は、荒唐無稽と言うより他ない。        
     《藤岡信勝 東中野修道 「『ザ・レイプ・オブ・南京』の研究 ―中国における「情報戦」の手口と戦略」》

●重要なことは、蒋介石も毛沢東も誰も「南京大虐殺」を言った人はいないという事実。
南京大虐殺」が最初出てきたのは東京裁判。それが忘れられた頃に騒ぎ始めたのは朝日の本多勝一で、それに乗ったのが当時の社会党の田辺誠と言われている。   
                               《渡部昇一 「こんな日本に誰がした」》

●朝日新聞の本多勝一記者の著書「中国の旅」まで「南京大虐殺」は戦後全く相手にされなかったのは、陥落後の南京の実情を熟知した記者が多数メディアの中堅として残っていたからにほかならない。朝日にしても南京に記者たちを90人以上派遣していた。こうした生き証人たちは歳月の流れとともに徐々に減り、昭和46年当時、南京の実情に通じた記者は少なくなっていたのである。

●日本の南京攻略を誇大に歪めて吹聴した人物として、米国人宣教師フィッチがいる。フィッチは東京裁判に出廷こそしなかったが、書面で「南京虐殺」を告発している。彼は明確に日本に対して敵意を抱いていた反日家だった。

●宣教師の目は決して純真無垢でも善良公平でもない。宣教師は宣教師の利害や打算・計算のもとに行動しているのだ。20世紀初めアメリカから宣教師が5千人近く中国に渡った。最も米国のキリスト教会が資金を費やして力を尽くしていたのは中国での布教であり、中国人の信者獲得だったのだ。米国から宣教師に送金された資金はケタ違いに多かった。

●「南京事件」について報じたのは、ダーディン(ニューヨーク・タイムズ)とステール(シカゴ・デイリーニュース)という2人の特派員である…
◇ステールは、台児荘の局地戦で日本が戦略的に一時撤退しただけで、世界中に「中国軍大勝利」と打電する。実際には百人単位の死者なのに、「日本兵が2万人死んだ」などという間違ったニュースを流すなど、露骨に中国へ肩入れした報道が相次いだ。
◇ダーディンは、昭和13年6月、後退を続ける国民党軍が日本軍の進軍を阻むために黄河を決壊させ、中国人も多数溺れ死ぬといった被害を、「日本軍が黄河を決壊させた」とあべこべに報じている。…特派員といっても、公正中立とはとてもいえない虚報が多数流されているのだ。           《阿羅健一 正論2008/1月号》

●5年ほど前、「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士百二人の証言」という本が出版された。匿名の元兵士が語る検証不能のトンデモ本で、日本兵の蛮行がこれでもかこれでもかと出てくる。
→これに対し、第33連隊の市川治平氏(92)は、「編者が机上で作り上げた小説だ」と喝破する…「102人の元兵士のうち59人が歩兵33連隊所属とされていますが、虚構と断言できます。我々は郷土部隊として出征し、連帯感があるので、誰かがインタビューを受ければ相互に連絡しあいます。しかるに誰一人として、インタビューを受けたことを知りません。そもそも三重県在住の参戦者は調査が行われたとされる平成12年当時、30人足らずしか存命しておらず、59人から聞けるわけがありません。証言の内容も軍隊経験者としての常識がなく、事実関係も異なっています」
                                  《冨澤繁信 正論2008/3月号》

●敗戦の年の12月、GHQの命令で南京事件に触れた「太平洋戦争史」を報じなければならなかった。東京裁判が始まり、南京事件が審理された。裁判の批判は禁止されていたから、事件を肯定的に書かねばならなかった。
→しかし東京裁判が終わると、そのような責務からは解放された。

●陥落後の南京を知っている記者は、どの新聞社にもいた。事実を曲げてまでGHQに迎合する記事を書く記者はいなかった。もし東京裁判のいう南京事件を信じる若手の記者がいたとしても、南京を歩き回った先輩記者が一笑に付したであろう。
…こうして南京事件は新聞から消えることになる。昭和40年代に入っても報道されることはなかった。

●昭和40年代に入ると、南京を知っている記者が定年退職を迎えだす。昭和40年半ばを過ぎると、南京を歩き回った記者たちは新聞社に殆どいなくなる。
そうなった時、突然、南京事件が浮上する。昭和46年11月の朝日、本多勝一記者による連載「中国の旅」の中で取り上げられた。新聞から消えて23年ぶりのことだった。

●「中国の旅」で南京事件が報じられると、それはかつて南京を歩き回った朝日の記者を驚かせ、古巣に抗議する記者が現れた。当時の南京を知る人たちも驚かせ、抗議や申し入れが朝日に相次いだ。

●南京事件は中華人民共和国にとって全く関心がなく、知識がなく、史料もなかった。発行部数一位の朝日に南京事件が記述され、単行本「中国の旅」が大ベストセラーになったと知ったからであろう。中国から南京事件を言い出すようになる。         
         《阿羅健一 「再検証 南京で本当は何が起こったのか」 他の著書「謎解き「南京事件」」》

●ドイツ人ラーベは、自国の外交官に宛て、南京で2万人が強姦された、と書いた。全く根拠のない数字だったが、後に東京裁判の法廷に提出され、あろうことかその文書が採用され、爾来、南京では2万人の強姦があったことになった。
十数年前、本多勝一は「朝日ジャーナル」にこう書いた。「ナチ=ドイツは天皇制軍国主義の日本とたいへん『よい関係』にあった」。南京攻防戦のころ、日本とドイツは防共協定を結んでいて、そういった友好国のドイツが記述しているから、南京事件は本当だというのである。

●たしかに日本とドイツの関係は悪くなかった。しかし、中国とドイツの関係も悪くなかった。中国にとってドイツはアメリカに次ぐ貿易国であり、悪くなかったというより極めてよい関係にあった。日本との貿易高は中国と比較にならない。
そのためドイツ外務省も、ドイツ国防軍も、ドイツ財界も、圧倒的に親中だった。ドイツから見て、日本との関係と中国との関係を比べれば、中国との方がはるかによかったのである。      《阿羅健一 正論2009/2月号》

●東京裁判における最重要証人たるマギー牧師(安全区の委員で、南京占領後も市内を自由に歩けた立場)の証言は、南京における膨大な殺人・強盗・強姦・暴行・累々たる屍…について見てきたようなものだった。2日間にわたり法廷で詳細な証言をした。
しかし、マギーはブルックス弁護人から「あなたは具体的に虐殺された一般市民を何人見たのか」の問いに、「見たのは1人である」と答えた。その1人とは、日本兵が警備しているところを1人のシナ人が通りかかって誰何され、途端に逃げ出して撃たれた、というものだった。歩哨が誰何して逃亡した人を射殺するのは殺人ではない。これは全く合法な戦闘行為。
●強姦らしいものを1件見たとも証言した。それは現場を見たのではなく、マギーが通りかかると1人の日本兵が走り出していき、そのあとを見ると女がいたから、あれは強姦されたに違いないというものだった。日本兵がアイスボックスを民家から持ち出すのを1件見たとも証言している。
…マギーが自分の目で見たものは、たったこれだけなのである。このどこをどうこねくり回せば、大虐殺という言葉が出てくるのだろうか。 

●戦時プロパガンダというのは、事実か嘘かは問題ではない。国際世論を味方につけ、自国民の戦意を高揚させ、敵の意欲を喪失させればいいのである。            《渡部昇一 「 渡部昇一の時流を読む」》

●東京裁判で証拠として採用された証言の1つに、日本軍の追跡をかろうじて逃れて洞窟に隠れ、そこから日本軍が57,418人の中国人を虐殺するのを見た、というものがある。そんな目撃が可能か。
                              《北岡伸一 中央公論2005/6月号》

●南京事件を世界で最初に知らしめた英国紙「マンチェスター・ガーディアン」の中国特派員だったティンパーリーは、中立的立場の欧米人ジャーナリストを装いながら、実は中国国民党中央宣伝部顧問であった。そしてその出版「外国人の見た日本軍の暴行―実録南京大虐殺」にあたって、国民党からの偽情報の提供や資金援助が行われていた。これは、ゾルゲがドイツ人ジャーナリストとして実はソ連のスパイだったことと同じ立場である。
…このような政治的背景を持っている人物が書いた本を、果たして歴史的価値のあるものかどうか。

南京大虐殺に関して第三者による重要な資料と思われていた金陵大学教授のルイス・スマイス博士の「スマイス報告・南京地区における戦争被害」もまた、中国・国民党の戦時外交の宣伝戦略のために、資金的援助を受けて執筆されている。
 
●国民党の戦時対外宣伝の基本方針は、日本軍の残虐性をことさら宣伝し、アメリカの干渉を誘発しようとするものだった。個々の戦闘では日本に勝てないけれども、首都を重慶へと移動して一歩一歩と後退し、やがて起こるであろう国際情勢の変化を待つという持久戦の計画を蒋介石は持っていた。そして、その成果は真珠湾となって現れる。
                                《北村稔 諸君!2002/1月号》 

★多くの疑問点/当時は誰も知らなかった「大虐殺」

【大虐殺の多くの疑問点】
南京大虐殺については、数々の疑問が提示されている。それらを挙げてみよう。

【大虐殺の多くの疑問点】
南京大虐殺については、数々の疑問が提示されている。それらを挙げてみよう。

●蒋介石は、「南京空襲で民家を誤爆された」「毒ガスを使用された」(実は催涙ガスだった)といった類の日本の行為を、細かくあげつらって国連に報告していたのに、肝心の「南京大虐殺」を提訴した記録はない。

●当時の南京は国際都市だったから、各国のジャーナリストたちが大勢いた。それなのに、当時日本に対して反日的な国々からも、正式な抗議は無かった。  
           《谷沢永一 渡部昇一 「日本に「戦争責任」なし」 他の著書「禁忌破りの近現代史」》

南京大虐殺について毛沢東は、長い人生の中で一度も言及しなかった。当時もその後も。
                   《ユン・チアン ジョン・ハリディ 「マオ―誰も知らなかった毛沢東」》

●「レイプ2万から8万」という、ソ連兵のベルリン攻略の後は大変な”ベビーブーム”だったと伝えられるが、南京戦後、同市内に日中混血児があふれたなどと誰が事実を記したか。  

●仮に「南京大虐殺」をある特定の殺人事件としてみよう。
すると、一体死体は幾つあるのか、被害者は誰か、目撃者はあったのか、犯人の動機は何か…等々の基本的な疑問について、当然のことながら適正な刑事訴訟の手続を通じて厳密に立証されなければならない道理となるであろう。

●なるほど告発する側では、一応は死体の数も特定され、目撃者の証言、また犯人の動機らしいものもあると言い張っている。だが実はそれは、およそ文明国の法廷において証拠能力も証明力も全く認められ得ない、お粗末極まりない類のものばかりだったのである。そこで我々は、「大虐殺がなかった」ことを論証するのが目的なのではなく、「大虐殺があった」との立証が全然なされていないという事実を明示する。
               《竹本忠雄 大原康男 「再審「南京大虐殺」 ―世界に訴える日本の冤罪」》

●「南京虐殺」を証明し得る公式記録、即ち歴史学でいう一等・二等・三等史料がひとつもない。(「南京大虐殺徹底検証」東中野修道) 証拠として提示されているものは、全て…
    ◇「四等史料」(史料作成者が明らかでない)と
    ◇「五等史料」(いかなる基準で作成されたのかわからない)
…であり、それらを歴史記述の根拠とすることは事実無根のプロパガンダ(宣伝)である。歴史における正当性を評価するのは、「史料批判」である。つまり歴史資料の信憑性を徹底的に審理しなければならない。
                        《小林よしのり 「『個と公』論」 他の著書「戦争論」》

●南京事件という各種残虐行為は、戦闘間の戦場行動に伴う事件であって、警備間の平常状態で発生したものではない。裁判での証言内容は、正当な戦闘行為なりや、不法殺害なりや、屍体にしても中国兵か、便衣兵か、常民か、あるいは誰が、いつ、中国兵によるのか、日本軍によるのか、故意か、不可避か…などその真相判定に必要な条件を具備しなければならない。
このような戦闘との関係が不明瞭であることは、戦闘間の証拠としては致命的欠陥である。
                 《畝本正己 「史実の歪曲―東京裁判に見る南京虐殺事件 南京攻略戦」》

●日本軍は南京占領後に自治委員会を作って占領を止め、戦況が落ち着くにつれて食糧の配給も始めていった。また住民登録も行って秩序回復に努めている。そういう所で民間人を対象にして何週間もの虐殺が続くとは考えられない。                              《北村稔 諸君!2002/1月号》

●中国兵は、安全区域内で撹乱工作員となって強姦や略奪を繰り返し、それを日本兵の仕業に見せかけていた…という記事が当時の「ニューヨーク・タイムズ」や「チャイナプレス」に載っている。
                        《南京事件調査研究会 「南京大虐殺否定論13のウソ」》

●「大虐殺」で一番困るのは、死体の異臭と伝染病である。モンゴル軍も都市を丸ごと滅ぼした後は、そこを退去せざるをえなかった。

●南京に入城した時、総司令官・松井大将は外国人記者を集めて記者会見に応じたが、大虐殺など話題にもならなかった。                             《井沢元彦 「日本史集中講義」》

●南京は世田谷区くらいの広さしかなく、そこで30万人もを殺したら死臭で住めないし、道も歩けない。しかし、人口は増加した。どういうことか?

●南京城の中の安全地区に南京の市民の全てが集められた。南京城が陥落しそうな時に、一般市民がわざわざ安全地区の外に出ていくはずはないので、陥落した時には市民は全てこの地区内にいたと考えていい。
その安全地区の中で大虐殺が行われなければ、虐殺はなかったということ(その記録はない)。
南京市民が全て安全地区に集められた事を否定する人はいない。それなのに「大虐殺はあった」とするのは矛盾である。(ニューヨーク・タイムズの記者ですら「日本は安全区をかなりかわいがった」と書いている)

●当時の軍政部長(国防相)兼軍事委員会委員長・何応欽将軍は、1938年春に開催された臨時全国代表者大会(国会)で行った軍事報告は、南京失陥の模様も伝えているが、他の部分は詳細な統計等が付記され報告されているにもかかわらず、日本軍による虐殺行為などは全く報告されていない。
              《渡部昇一 小室直樹 「封印の昭和史」 他の著書「禁忌破りの近現代史」》

南京大虐殺で、規律もなにもない民衆30万人を殺したのが事実なら、戦争の常識として少なくとも負傷者百万人が出るはず。以後60数年間、手をもがれ足を失った者が、いまだに30万人は生きているのが常識である。                              《諸君!2003/5月号》

●南京で戦闘能力のない中国人に何万発も銃弾を浴びせるなど、とうてい考えられない。当時日本は貧乏だったから弾だって貴重だった。石油をかけて焼いたというのも同じ。石油はものすごい貴重品で「石油の一滴は血の一滴」と言われていた。                        《小室直樹 「自ら国を潰すのか」》

●シナでは日本軍が勝つと現地の人は喜んでいた。日本軍がいるとかえって治安がよくて安全だということで、南京でもどこでも日本人が入城すると、たちまち人口が増えている。

●毎日新聞の報道で、南京が落ちる前に船に乗った脱出したドイツ人の日記に、「南京の揚子江海岸には死骸が山のようにあった」とあるが、この時日本軍はまだ南京に入っていない。この日記が本当ならば、南京虐殺をしたのは日本軍ではないことになるが…。                      《渡部昇一  〃  》

●陥落から3週間たった1938年1月4日のニューヨーク・タイムズに、1月3日上海発として「元支那軍将校が避難民の中に…大佐一味が白状。南京の犯罪を日本軍のせいに」という記事が出ている。

●市民が日本軍に撃たれていたのであれば、ラーベ(国際委員会の委員長)は日本大使館に抗議したはずである。ところがラーベたちは最後まで抗議せず、それどころか国際委員会の1号文書は、日本軍が安全地帯を攻撃しなかったことに感謝の意すら表明していた。   
      《藤岡信勝 東中野修道 「『ザ・レイプ・オブ・南京』の研究―中国における「情報戦」の手口と戦略」》

●中国軍が日本軍の行動を妨害しようとして、清野戦術や略奪(中国軍の常習)をやった。日本軍はそんなことは絶対しない。                         《朝日新聞東京裁判記者団 「東京裁判」》

●日本軍に南京を占領・支配する目的はあっても、市民を大量虐殺する理由はどこにもない。街が機能しなくなる程の大人数を殺して無人の廃墟にしたのでは、その都市を占領する意味がまるでない。
                               《井沢元彦 SAPIO 2004/11/24号》

●日本刀で農民を斬ったと証言した者もいたが、一兵の身分でそんなものを持っているはずがない。

●第二次大戦を描いた出色の作品「裸者と死者」の著者ノーマン・メイラーは、ベストセラーになっている理由を書いている。「アメリカ人にはヒロシマに関して深い罪の意識がある。だから日本人が1937年に南京で中国人にひどいことをしたと耳にすると、ほっと安堵するのだ。それにしてもこれまで南京虐殺なんて聞いたこともなかった。少なくともこの50年間は。それがいま突然に話題になった」            《尾川正二 「戦争虚構と真実」》

●20万人以上の虐殺なら、日本軍は南京市民を1人残らず虐殺したことになってしまう。にも拘わらず南京の人口は、陥落後7週間後の昭和13年1月末段階で25万人とかえって5万人も増加しており、その後も人口は増え続け、同年8月には31万人、同年末には44万人と激増している。
阿鼻叫喚の地獄だったはずの南京に、どうしてかくも短期間に以前に倍する市民が殺到するようになったのか。南京が治安の確保された安全地帯だったからに他ならない。
                        《勝岡寛次 「韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する」》

●1945年11月、南京地方裁判所は、南京市・国民党・民間の組織を総動員し、南京陥落時の日本軍の蛮行調査を始める。組織にしたがって調査対象を分ける、きめ細かい調査だった。すると…
「敵側の偽瞞妨害など激烈にして民心銷沈し、進んで自発的に殺人の罪行を申告する者甚だ少なきのみならず、委員を派遣して訪問せしむる際に於いても、冬の蝉の如く口を噤みて語らざる者、或いは事実を否認する者、或いはまた自己の体面を憚りて告知せざる者、他処に転居して不在の者、生死不明にして探索の方法なき者などあり」(南京地方裁判所付検察官の戦争犯罪の調書より)
…だった。日本軍の暴行を訴える市民は殆どいなかったのである。それどころか、市民から事件を否定された。理由として南京地方裁判所は、日本軍の激しい妨害をあげている。

平成6年、私はかつての満洲国を旅した。(旅行者の企画した旅) 瀋陽で私たちの一行が日本人だと知って、1人の老人が話しかけてきた。満州時代に覚えたという日本語を使って当時のことやその頃の日本人を話題にし、満洲時代を懐かしがっていた。一段落したとき、70歳になろうかというその老人に私は「南京事件を知っていますか」と訊ねた。すると老人はきょとんとして、私を見つめ、首をかしげ、そして「わからないなあ」と答えた。戦前をよく知っている老人が南京事件を知らないという。   
         《阿羅健一 「再検証 南京で本当は何が起こったのか」 他の著書「謎解き「南京事件」」》

●大阪朝日新聞上海支局員・山本治氏は、南京での虐殺について「全然見たことも聞いたこともありません。夜は皆集まりますが、そんな話は一度も聞いたことはありません。誰もそういうことをいったことがありません。朝日新聞では話題になったこともありません」と証言している。

●この証言は特派員に限らない。従軍画家・外交官・軍人・カメラマン等の視点から、実際の南京の様相を目の当たりにした回想は、どれもこれもこのようであった。処刑もあり死体もあったが、虐殺に相当することは見たことも聞いたこともないという点で、ほぼ全ての証言が一致している。「戦争ですから、殺す殺されるのは当然です」「戦場を知らない人が、それを虐殺と言っているだけです」。  
                        《阿羅健一 「「南京事件」日本人48人の証言」の書評》

●南京陥落と同時に300名もの日本の報道関係者が、南京城内に入って取材活動に従事したが、彼らの中に「大虐殺」の現場や虐殺死体を目撃した者が全くいない。それどころか、噂さえ聞いたことがないと口々に証言している。
                                 《中村粲 「大東亜戦争への道」》

●林芙美子・大宅壮一・石川達三といった優れた文化人が、南京陥落直後に従軍報道班員として現地を見ているけど、虐殺があったなんて一行も記していない。死体は見たけれど、大虐殺の跡などは無かったと述懐している。(石川は率直な物言いをする人、大宅は体制に属するような人ではない) 当時の日本軍の装備にしても、重機関銃なんて数十丁ぐらいしかなかった。             《石原慎太郎 諸君!2004/10月号》

●私は日本軍の南京攻略を外国人ジャーナリストとして最初に報道した、ニューヨーク・タイムズの記者ティルマン・ダーディンにインタビューしたことがある。1989年だった。
彼は戦争当時、国民党側にいて日本軍が南京城目指して進撃してくるのをつぶさに観察していた。そのダーディンは、南京入城前には日本軍による通常の戦闘行為以外の虐殺などは一切なかったとして、こう証言した…「日本軍は上海周辺など他の戦闘では、その種の虐殺などまるでしていなかったからです。上海付近では日本軍の戦いを何度も見たけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった」(「文芸春秋」1989年10月号より)    《古森義久 諸君!2005/10月号》

●ニューヨーク・タイムズ、ティルマン・ダーディンへのインタビュー…「日本軍はその種の虐殺などは、まるでしていなかった」・「南京の市民や周辺の住民は、中国軍に全てを焼き払われ、戦闘が長く続き、日本軍が南京を制圧した時には一種の安堵感を覚えていた人も多かった。日本軍の占領を、あきらめにせよ歓迎しようとする市民たちもいた。それまでの2~30年間も中国の軍閥に支配され搾取され、軍閥同士の戦いで被害を受け、という状態で、別に支配者が日本軍になってもそう変わりはしない。日本軍でさえまたやがて去っていく。戦闘を終了させたことだけでも、日本軍を歓迎しても良いではないか…そんな受け止め方が多かった」
                                 《古森義久 諸君!2004/10月号》

●「首都陥落を前にして、支那軍は7日も南京市外10マイルの地域内にある全村落に火を放ち、日本軍の進撃に便宜を与えるような物は全て焼き払わんとしているため、南京市は濛々たる黒煙に包まれてしまった。…焼け落ちた家々からは、今まで踏み止まっていた村民の群が、僅かばかり家財道具を背負ったり小脇に抱えたりして、よろめきながら城内指して逃げ込んでくる」(ニューヨーク特電12月7日) 

●「中国軍の堅壁清野戦術により、南京郊外の農村はほとんど焼き払われた。中立国軍事専門家の目には、この焼き払いは軍事的には日本軍の阻止に殆ど役だたず、ただ農民たちに計り知れない惨禍をもたらすジンギスカン以来の組織的破壊と映った」(ニューヨーク特電12月8日、朝日10日夕刊)    
                            《西岡香織 「報道戦線から見た「日中戦争」」》

中国国民党は、南京陥落前後から約300回もの記者会見を行っているが、その中で1度も「南京虐殺」があったとは言っていない。                        《戸井田とおる 正論2007/9月号》

          

●稲垣清さんは1937年夏、獣医官として召集。上海派遣軍大16師団で食料輸送を担当する輜重兵第16連隊に配属され、南京には12月16日から翌年1月30日まで滞在した。自ら食料を運んだ経験から、「食料は十分でしたから、農家から略奪、暴行という記述を戦後みるたび違和感を覚えました」と話す。

●高い壁に囲まれた南京に入ったときは、「焼けた家もあるにはあったが、みじめな状態ではなかった。城内では、市民はみんな難民区へ入っていて、入城式でも市民の姿は見かけませんでした」

●多数の犠牲者を出したとされる”掃討作戦”も、稲垣さんは「当時、全く知りませんでした」と語る。当時、馬の伝染病が流行していて検疫や予防接種に奔走した。滞在した1ヵ月半、銃声は一度も聞かなかった。

●入城後、10日もしないうちに中国人は安全区から出るようになり、城内にも市が立った。その映像もある。「商魂たくましいというか、われわれを撮影しては、それを記念写真として売ろうとする中国人もいました」   
      →このころの写真や合成写真が、後に「残虐行為を働く日本兵」として広まっていく。

●稲垣氏…「死体をどうやって運搬したのか非常に疑問です。当時、トラックは貴重でした。中国軍が荷車で何十万という死体を運んだなど、考えにくいことです」

●虚構が独り歩きした背景については、「南京郊外の紫金山での戦闘では日本兵949人が戦死した。中国側も多くが戦死したことでしょう。そうした城外の戦闘が誇張されているのでは。多数の死体を見たと証言する日本人は城外の陸軍戦車隊や揚子江の海軍兵です」と語る。                 《産経新聞2007/12/17》

●南京総攻撃では近郊の軍事施設に対する空爆はあったが、一般市民が居住する城壁内の南京市街へは空爆しなかった。皇軍は制空権を握っていたから、郊外の軍事施設への空爆は当然の事。一般市民を含めた南京大虐殺の意図が有れば、危険な肉迫攻撃などしないで、市街空爆を決行しただろう。爆撃一個戦隊が空襲しても城壁内の市街は火の海と化し、多くの無辜の民が殺戮されたはず。         《読者投稿 正論2012/9月号》

●戦時中は中国大陸の約8割の都市を、日本が8年にわたって占領した。この8年の間、南京以外の場所では虐殺問題など起こっていない。これは事実である。従って「南京虐殺はあった」と主張する人は、なぜ南京だけで虐殺が起こったのかをデータで示さねばならない。北京だって武漢三鎮だって保定だって虐殺は起きていない。北京などは「日本が統治していたときが一番よかった」と言っている。
          《渡部昇一 「僕らが考える『日本問題』」 他の著書「マーフィーの成功法則 CDブック」》

●ヒトラーがユダヤ人を虐殺したのは、アウシュビッツだけではない。あらゆるところで虐殺した。
ところが日本の場合は、中国の中で南京だけで虐殺が起こったことになっている。   《竹村健一  〃  》

●ホロコーストでは映像も遺品も人骨も山ほどある。南京で30万人虐殺したというなら、その骨や遺品を並べたら説得力が出るだろう。項羽と劉邦は垓下で戦い、敗れた項羽は足手まといの愛人虞を殺して逃げる。伝説と思っていたら、戦場から項羽の鍍金された青銅剣が見つかった。2千年前のものでも出てくるなら数十年前の事件だ。豪華な記念館を建てるより、そこらを掘ればいい。             《高山正之 週刊新潮2012/3/22》

●ポーランド南部にあるナチス・ドイツの負の遺産、アウシュビッツ強制収容所へ行った。延々と広がる湿地帯には無残な方法で殺戮が繰り返された「確か」な痕跡があった。ガス室、そして蓋が開いて山積された大量のガス缶まで…。
中国が主張する「南京大虐殺」。私は80年代より何度か訪れているが、南京にはアウシュビッツのような「確か」な痕跡など何もない。“現代版ホロコースト”は中国共産党によって、チベットや内モンゴル、ウイグル自治区を主舞台に現在進行形なのだ。民間活動家や宗教関連への拷問・虐待もやまない。 《河添恵子 産経新聞2012/5/17》

●南京事件の際、朝日は八十余名という世界最多の記者が現地にいた。にもかかわらず、当時、南京大虐殺を一行も記事にしていないのは不可解だと首を傾げるのは、南京問題に詳しいジャーナリストの水間政憲氏だ。「大虐殺派は、報道規制と反論するでしょう。しかし、後に自民党幹事長という要職に就く橋本登美三郎さんは、当時、朝日の上海支局次長で、取材班のトップとして南京城に入った。その彼が阿羅健一さんのインタビューに“虐殺なんでなかった”旨、答え、報道規制についても、“見聞したことは自由に報道できた”と語っています」
                                      《週刊新潮2014/3/20》

●第二次大戦にドイツが敗れた直後の2ヵ月間で、約10万人の女性がロシア兵に強姦された。1万人強が妊娠し、その90%は医師が中絶したが、千人強は出産したという。だが、南京でそのような“不幸な赤ちゃん”が産まれたという記録はどこにもない。                       《東中野修道 産経新聞2010/2/20》

●日本軍は日清戦争と義和団事件による北京出兵で、「外部に被害を与えない歴史上初の軍隊」として世界各国の賞賛を受けた。50年後にはより秩序整然として水準の高いこうした軍隊が、昔でさえしなかった野蛮な行為をしでかしたという話は信じ難い。                  《金完燮 諸君! 2003/7月号》

●ナチスの例を見ても分かる通り、大量虐殺というものは死体の処理が非常に大きな問題になる。死体の機械的あるいは化学的処理方法を準備していないと、大量虐殺なんてできない。

●また、ずっと戦闘してきた軍隊には大量虐殺はできない。「殺人特殊部隊」とでもいったような別の組織を設置しておかないと無理である。ナチス・ドイツの実例を挙げるまでもなく、「殺人のための殺人」が行われない限り、無抵抗の人間の千単位の虐殺だって不可能である。もし日本軍が大量虐殺をしたというなら、特殊部隊や死体処理のための軍命令がなければならない。計画への命令がないままそんなことをするはずはないからである。

●ナチス・ドイツの場合はそうした文書が全部残っている。それのみならず、殺害したユダヤ人の記録も全部残っている。ところが日本軍の場合は、その類の文書は何もない。     《西尾幹二 「GHQ焚書図書開封」》

●常識的に考えて、当時帝国陸軍が使用していた旧式の三八式歩兵銃で、わずか6週間で30万人もの人間を殺すなど不可能。人間を集めてそこに大砲を打ち込んだとしても、難しい話だ。 
                                《石原慎太郎 文芸春秋2005/6月号》

●東京裁判では、12名からなるある団体が、毎日2,600人の遺体を処理したということが事実として認定されている。ブルドーザーもない時代にそんなことができるかどうか。     《北岡伸一 中央公論2005/6月号》

●報道班員としてやってきた作家の石川達三は、その後に執筆した「武漢作戦」でその時の南京の風景をベースにしたこんな下りもある…
     野口伍長が一等兵に声をかける。「ちんばをひいとるな。全快したのか」
     「もう二、三日すれば全快します」
     「今までどこの病院にいたのだ」 「南京にいました」
     「南京は賑やかになっとるか」 
     「はあ、もうカフェでも何でもあります。ネオンサインがついております」
                                     《高山正之 「歪曲報道」》

●昭和12年12月20日付東京朝日は、「平和甦る南京」と題した写真特集を載せて、占領後の南京がいかに平和を回復しているかをキャンペーンしてさえいるのである…
  ◇占領4日後の南京風景で、写真のキャプションは「皇軍入城に安堵して城外の畑を耕す農民たち」
    「皇軍に保護される避難民の群」「和やかな床屋さん風景」(戸外での中国人散髪屋の風景)
  ◇22日付…「治療を受けている支那負傷兵」(治療を施しているのは無論日本軍)
    「皇軍将兵の情に食欲を満たす投降兵」 
  ◇25日付…「戦火収まれば壊れた馬車も子供達の楽しい遊び場だ」 
  ◇30日付…「サアおっぱいが足らなきゃミルクをお上がり=ヒゲの隊長温情」
    「坊や、トラホームを癒さなきゃお正月は来ないよ=軍衛生班大童の活動」
                      …など全部で17葉の写真を掲げている。
                               《片岡正巳 「朝日新聞の「戦後」責任」》

【12月20日 更新分】

●日本軍に従軍して南京に入った元毎日新聞カメラマンの佐藤振寿氏(93)。12月14日に撮影したのが、この中国軍師団司令部衛門だ。「この門の中で、後ろ手で縛られた100人ほどの中国兵たちが次々に殺されていた」。 そう佐藤氏は証言した。
→同じ日の街頭には日本兵相手の露店ができていて、その写真もたくさん撮った。無差別に市民を殺戮した「大虐殺」については、佐藤氏は疑問を持つとしている。                《サンデー毎日2006/12/17》

●10年前、私は「アジアの映像に見る戦後50年」というテーマで、フジテレビのドキュメンタリー番組を作っていた。南京にも訪れ、数日間取材した。
当時は中国側がその頃のフジテレビを産経グループとして警戒し、江蘇省党委員会は私の入国ビザをなかなか出そうとしなかった。何とか入国できたものの、南京市民に対する私たちのインタビューは拒否されていた。

●日曜の早朝、随行していた「監視役」が寝坊して遅れたとき、私たちは南京の「自由市場」に出掛け、百数十人に「南京大虐殺って知っていますか」と突撃インタビューを試みたのである。
→結果は、当事者である南京市民ですら知っていたのは約6割だった。中には「蒋介石がやったんだろう」という人もいて、殆どがあやふやな知識だった。              《水島総 正論2007/9月号》

●いくらたくさんの死体が並ぶ写真であっても、それが日本兵に虐殺された民間人の死体であるという証拠とは言い切れないのである。そもそも日本と中国は戦争をしていたわけで、たくさんの死体があっても不思議ではない。                      《井沢元彦 「逆説のアジア史紀行」》

★合法的な殺人/あったとすればこのパターン

【南京戦での合法的な殺人】
日本人には受け入れられないことだが、戦争では「国際法で認められている殺人」がある。
南京ではどうだったのか…

●「虐殺」とは、軍隊が戦闘中において殺さなくてもいい人間を殺すことである。軍人を何人殺しても「虐殺」とは言わない。      《井沢元彦 「逆説のニッポン歴史観―日本をダメにした「戦後民主主義」の正体」》

●投降兵(捕虜)になれる者は、資格も手続きも必要で、指揮官が相手の指揮官に正式に降伏を申し入れなければならない。戦闘員がバラバラに降伏を申し込んでも受け入れられるとは限らない。降伏の意志確認が困難だからだ。よって殺害したものもある。
●南京陥落後、多数の中国兵が戦意を失って潰走し、追撃する日本兵によって殲滅させられた。これは正規の戦闘行為であり、これを見逃せば脱出した兵は再び戦列に復帰してくる可能性がある。
                       《南京事件調査研究会 「南京大虐殺否定論13のウソ」》

●日本軍は安全区の市民は攻撃しなかったが、軍服を脱いだ兵士が便衣兵(ゲリラ)にならないようにこれを摘発し、南京市民立ち会いのもと兵士と市民を区別した。そして揚子江岸で兵士を処刑した。(正式な降伏もせず軍服を着ていない兵は、処刑しても違反ではなかった)       
                   《藤岡信勝 「教科書が教えない歴史」 他の著書「新しい歴史教科書改訂版」》

●降伏の意思表示もせず逃げている敵兵は、陸戦法規の殺害禁止事項に当てはまらない。逃げてまた戦闘員として戦うからである。                          《原剛 諸君!2003/7月号》

●明らかに捕虜であることが明白な場合にのみ、これを殺すことは違法となるが、軍司令官が逃亡してしまった中国軍には明白な捕虜は一人もいなかったことになる。(軍司令官・唐生智こそ最大の戦犯)
              《渡部昇一 小室直樹 「封印の昭和史」 他の著書「禁忌破りの近現代史」》

●上海・南京戦で日本が最も悩まされたのは、支那独特の便衣兵である。彼らは戦況不利と見るや、軍服を平服に着替えて一般市民を装い、武器を持って市中に潜伏し、隙を見て日本軍を攻撃する。このような卑怯な方法をする便衣隊は、交戦者としての資格を有してはいない。       《中村粲 「大東亜戦争への道」》

近代戦争というのは、いくつかの基本ルールの上で成り立っているのだが、その中の1つにユニフォーム(制服)を着た兵隊同士が行うものであるというのがある。当時の中国はまだ近代的なルールを理解していなかったため、制服を脱いだゲリラ部隊が一般民衆に紛れて闘った。それが南京事件の本質である。日本軍はこの便衣隊をかなり攻撃したので、民間人の姿をした人を撃ったという事実はあったことになるが、それは一般市民ではない。
                                      《井沢元彦 SAPIO 2002/10/23号》

●南京攻略戦では、南京城西側~長江河岸間は敵の退路にあたり、敗残兵と民衆がゴッチャになって第6師団の眼前を潰走した。師団の歩兵・砲兵は、任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋まった。これは明らかに戦闘行為である。               《益井康一 「日本と中国はなぜ戦ったのか」》

●ハーグ陸戦協定でも、捕虜を受け入れるかどうかは第一線の指揮官の判断だとしている。無条件で全員を受け入れなければならないとはしていない。というのは戦闘によっていろいろな状況があるし、現実に降伏を装った「騙し討ち」がある。戦闘中に手を上げたからといって、すぐに信用はできない。   

●中国では戦線のうしろに絶えず「便衣隊」が出没して、日本軍に対する奇襲・破壊工作をする。これでは日本軍も南京の敗残兵や難民に疑心暗鬼にならざるをえない。同じ苦しみを、30年後にアメリカ軍がベトナムでいやというほど味わった。そうして「ソンミ村の虐殺事件」というのを起こした。 
                            《長谷川慶太郎 「歴史頭脳を持っているか」》

●降伏とは指揮官同士の話し合いで決定する。指揮官の命を帯びた軍使が白旗を掲げて、条件交渉をしてから、全員が軍の秩序を維持したまま降伏する。個人投降の規定はハーグ陸戦法規にはない。個人投降は殺してもいい。個人投降を必ずしも受け取る必要はない。   
         《日下公人 「人間はなぜ戦争をやめられないのか―平和を誤解している日本人のために」》

●便衣兵の殺害は、国際法上違法ではない。軍律裁判を経なかった処刑が日本の国内法令違反であったとしても、国際法上の違法行為ではないのだ。               《潮匡人 SAPIO 2005/9/28》

●南京において、捕虜の処刑が行われたことを否定する者はいない。処刑が適法か違法かの論争がなされているだけである。                          《高池勝彦 正論2005/11月号》

●無残な戦死体といえば、日露戦争の旅順攻撃でも数万の日本軍戦死者は、誠に無惨な姿で戦場を埋め尽くしたが、だからといって「日露戦争でロシアは日本人を大虐殺した」と主張する人は誰もいない。
     
●これまでの論証により信頼できる数字は、紅卍字会の1万4千体と揚子江に流された死体の数の加算である。(これがそのまま南京城内外の死者数)その内訳…
①陥落前に戦闘で戦死した城外の支那兵 →合法
②脱出時に督戦隊に射殺された城内の支那兵 →合法
③脱出時に城内で圧死したり、城壁から転落死した城内の支那兵 →合法
④城内の野戦病院で死亡した支那兵 →合法
⑤揚子江を渡って逃げようとした時、日本軍の追撃を受けて死んだ支那兵 →合法
⑥陥落後の掃蕩戦で日本軍に反抗して下関で処刑された城内の支那兵 →捕虜の資格なし。よって合法
⑦一般市民 →証拠なし。常識内の巻き込まれはあったかも。
     《藤岡信勝 東中野修道 「『ザ・レイプ・オブ・南京』の研究 ―中国における「情報戦」の手口と戦略」》

●南京で不法な殺戮行為があったとすれば…
 ◇戦闘直後に投降しようとした中国兵を、復讐感情に駆られて殺した。(毎日新聞従軍カメラマンが目撃)
 ◇大量の捕虜を移送中にパニックが生じて、護送する兵士が恐怖感から殺害した。
 ◇一部の部隊が捕虜を「処分」せよとの命令を出した。 
…という事実が確認されているだけである。 
              《稲垣武 「『悪魔祓い』の戦後史 他の著書「このヒジョ-シキが日本を滅ぼす」》


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