歴史・人名

古代朝鮮の真実.....高句麗、新羅、百済の成立以前。

古代朝鮮の真実.....高句麗、新羅、百済の成立以前。

前にも書いたが、朝鮮の最初の歴史書は、12世紀中ごろ、高麗第17代王、仁宗の命により金富軾が編纂した「三国史記」である。
これには、百済本記、高句麗本記、新羅本記とそれ以外に列伝、雑志、年表が付く。

これは官選の歴史書であるが、これとて全て信じてかかるわけにはいかない。
これによると、新羅は紀元前57年、高句麗が前37年、百済が前18年にそれぞれ建国されたとされているが、これは相当年代の誇張がある。
ある程度信頼がおけるのは、高句麗の建国年であろうが、これとて全面的に信用するわけにはいかない。

なにしろ、他にこれを証明する客観的資料がないのである。
建国されたとされる年の1200年以上後に書かれたものなので、それを確かめる術はない。
とく建国年代については、実際より相当古く設定されている。

前にも述べたが、この民族は、事実というものに余り重きを置いていない。そして、虚栄心の塊である。
故に、彼らが自身の歴史を語る場合は、その全てを疑ってかかる必要がある。
相当数の捏造や粉飾が織り込まれていると見るべきであろう。

但し、彼らの不利になる記述についてはある程度信用してもよいと思う。
彼らが、自分たちが不利になり、或いは名誉を傷つけられるような記述については、それの確固たる証拠があるか、或いは、当時の人達の多くがそのことをよく知っているため、削除したり捏造、わい曲することができず、そのままを記述せざるをえなかったと考えられるからである。

では、古代朝鮮の実像を調べるにはどうしたらよいのだろうか。

それは、隣国の中国の歴史書を見ればよい。
これなら、ある程度のいい加減さはあっても極端な粉飾や捏造はないと思われるからだ。

箕子朝鮮
朝鮮半島が中国の史書に現れるのは箕子朝鮮である。
史記」の「宋微子世家」や「後漢書東夷伝」によると、殷が滅び、周が成立した紀元前1066年の後、殷の王族の箕子は朝鮮に逃れ、周の武王がこれを朝鮮に封じた。
これは、中国人の国家であるし当時の箕子朝鮮の民は主に殷の亡民であると考えられる。

その後、中国は周が衰退した為、永く春秋戦国の争乱の時代が続く。

紀元前213年、秦が中国を統一し、このとき、箕子朝鮮の否は秦に服従した。
紀元前210年に始皇帝は死に、の後、燕、斉、趙の流民が朝鮮に逃げ込み、これらを否の子、準が西方に居住させたとされている。

濊建国
紀元前207年に秦が滅亡すると、遼東半島東部に逃げ込んだ楚人は「濊」を建国した。
これも中国人である。

紀元前202年 漢建国。
漢は盧綰を燕王となし、大同江を朝鮮との境としたが度々朝鮮を侵略した。
後、武帝の侵攻により、本体は北方に移動し、残りの一部が南部に残る

扶餘建国 
その後「濊」は漢より濊王の印を受けるが、武帝の朝鮮半島侵攻により、その主流が北方に移動して扶餘を建国する。

衛氏朝鮮
燕王盧綰は、漢に叛いて匈奴へ逃亡した。
燕人衛満は朝鮮に亡命したが、後に箕子朝鮮の準を追放して国を乗っ取った。
以後、衛氏朝鮮となる。
衛満は遼東太守に漢の外臣とされ、これを許された。
紀元前109年、漢の武帝が朝鮮を攻め、翌紀元前108年には衛氏朝鮮は滅亡する。


追われた準は韓の地に入り韓王と号す。
遼東から朝鮮に逃れていた楚人、越人が韓に移動してきたため、韓はその東方の地を割譲して住まわせた。
越人は辰国、楚人は弁辰と呼ばれた。

漢の武帝の朝鮮征服
漢の武帝は朝鮮半島に侵攻して衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡、臨屯郡、玄菟郡、真番郡の4郡を置いて直轄地として統治した。
後になり、臨屯郡と真番郡は廃止されて楽浪郡と玄菟郡に合併され、朝鮮半島はこの2郡となった。

以上が、高句麗、新羅、百済が建国される前の朝鮮半島の歴史である。

これを見てみると、歴代の統治者は、全て、中国からの亡命者である。
箕子は殷の王族であるし、衛氏は燕人、濊は楚人である。
また、中国王朝以外の中国諸国の人達も大量に朝鮮に逃げてきており、そのうちの楚人と越人は後の新羅の地に土地を与えられている。

こうして見てみると漢の武帝に征服されるまでの朝鮮半島は、正に中国の亡命者の国であり、朝鮮地生えの王朝は存在しなかったということになる。

なぜ、中国本土から亡命者ばかりがやって来たのか。
それは、中国の征服王朝でさえ力の及ばぬ隔絶された、正に化外の地であったからである。
その遠さもさることながら、最大の原因は、中国の中央政権にとって、ほとんど何の魅力もなかったことであろう。

つまり、攻めとるだけの価値がなかったから、あえて、亡命者が国を建てても許しておいたのである。漢の武帝が朝鮮半島に侵攻して来るまでは。

この様な、貧しく、ろくな物産もない朝鮮半島に、地生えの高等な文化など発生するわけもなく、全てはこの亡命者たる中国人の持ち込んだ文化風習が存在しただけである。
言いかえれば、この朝鮮半島の古代は中国文化果つる地であり、中国文化圏の内で最も遅れた地域であったことが推察される。

つまり、「三国遺事」にあるような統一王朝など、この国にはあるはずも無く、中国の滅亡した国の流民が移住してきて、その周りの限られた地域を支配していただけである。

恐らく、箕子や衛氏の支配したのは、朝鮮全土なのではなく、その移住した周囲の数個の集落や都市を統括していたにすぎないと思われる。
これが、中国の文献上から読み取れる古代朝鮮半島の真の姿である。