歴史・人名

古墳時代の社会構成(Historical)

古代史の論点(Historical)

古墳時代の社会構成

目次

   小集落の捉え方
   集落の変遷
   考察

1.小集落の捉え方

はじめに、古墳時代の社会構成を整理するに当たって、社会構成の最小単位について、近藤義郎による「単位集団」とそれを批判した都出比呂志の「世帯共同体」を比較検討する。

近藤義郎は、弥生時代の小集落について、これが「消費の単位集団」であると考える。小集落内の個別の竪穴住居は、機能的な違いは無いものの、炉が炊飯用としては不適で、炊飯用の炉は戸外の共同の炊事場にあると考えた。従って、この共同の炊事場を使用する集団が消費の単位であるとする。また、小集落に共同の作業場や高床倉庫を持つことなどから、水田耕作を行なう経営の単位は一軒の竪穴住居ではなく、四・五軒の竪穴住居の集合であると言う。

一方、都出比呂志は、やはり炉が各竪穴住居に普遍的に存在することから、一軒の竪穴住居に居住する集団(世帯)が一定の独立性をもった集団であることを強調する。その上で『魏志倭人伝』や後代の文学、奈良時代の戸籍といった文献史料に見える近親者の共住形態を参考に、四・五軒の竪穴住居の集合を「世帯共同体」と呼称する。

都出の指摘する出土事実から言えば、確かに一軒の竪穴住居こそが消費の単位であると言うべきであろう。しかしながら、近藤の「単位集団」が出土事実から得た概念であるのに対して都出の「世帯共同体」は、文献からの類推である点には(もちろん、想像としては不自然なものではないが)注意を要する。また、都出も岡山県沼遺跡のような小集落が「完結性」を示すものであることは認めているので、「単位集団」に敢えて「世帯共同体」という性格を与えなくても、理論上は問題が無いように思われる。この場合、「消費の単位集団」は一軒の竪穴住居であり、「経営の単位集団」は四・五軒の竪穴住居の集合であると捉えなおすべきだろう。

近藤は、沼遺跡のような小集落を「消費の単位集団」「経営の単位集団」であり、かつ、「生産の単位集団」であると見なすが、登呂などの例から、いくつかの「経営の単位集団」が集まって「生産単位集団」を形成している例を指摘している。そして、この「生産単位集団」も、他の「生産単位集団」との間の緊密な関係を前提としていると見なし、これらの複数の「生産単位集団」が所謂「共同体」を形成していたと考えている。

つまり、近藤の言う「単位集団」とは、消費・生産・経営といった場面ごとに、それを行なう単位という意味であり、それらが一致する例も、一致しない例も挙げている。これによって、近藤は弥生の様々な集落について、ある場面では単位をともにし、別の場面では単位を異にするというような、複合的な関係を捉えていたのに対し、都出においては、そのような理解は少なくとも中心的な位置にはないのである。都出は、沼遺跡のような生産・消費・経営のいずれにおいても一つの単位を形成しえた集落を「世帯共同体」と呼び、大阪府安満遺跡とこれを核とする数個の小集落による「共同体」を、個別集落による農地経営を行ないつつ水路の造成や河川の護岸などの協業を行なう集団として「農業共同体」と呼ぶが、この「農業共同体」がすなわち政治的集団であると見なしている。都出の言う「農業共同体」とは、近藤の言う「生産の単位集団」である。しかし、近藤はその「生産の単位集団」が一つの「共同体」である、と呼ぶことに慎重である。近藤の言う「共同体」とは多分にマルクス主義的な用語であるが、「生産の単位集団」が一つの政治的なまとまりではないと考えている点において、都出と異なっている。
2.集落の変遷

弥生時代から古墳時代にかけての集落の変遷を都出によってまとめると以下のようである。

弥生時代前期の集落は、大きくても五十人前後のもので、これが水田の経営の単位集団だった。

中・後期になると、大集落が出現し、それを中心に有機的関係を持った分枝的小集落が結び付く関係が見られるようになる。都出はこれを「農業共同体」と言う。

大集落の形成については、都出は、農業上の協業の必要性からではなく、政治的緊張を背景にした軍事的理由であるとする。

弥生時代の終末期、古墳時代の前期については、詳細は未解明である。

古墳時代中期以降には、首長層や有力な農民層は溝や柵列で区画した屋敷地を集落から切り離したところに成立させている。

以上のことは、弥生時代の後期に墳丘墓が首長層のものとして他の共同墓地から分離して成立し、やがて前方後円墳が成立していくことと対応するし、このことから未解明である弥生時代終末期から古墳時代前期に首長層の住居が集落から分離したであろうことが推察される。

古墳時代において屋敷地を成立させ、大規模な農業経営を行なっていた集団は、竪穴住居群を形成していた弥生時代の小集落と同じような「世帯共同体」的集団であろうが、古墳時代においては屋敷地を成立させ得た有力農民層の他に明確な屋敷地を成立させることの出来ず小集落を形成し、小規模な農業経営を行なっていた層、また、首長層や有力な農民層の屋敷地内で隷属して住まわされ、大規模経営に取り込まれていった層の階層分化が認められるとする。
3.考察

まず、都出による弥生時代集落の理解については、農業の生産単位(水路の造成や河川の護岸を協業する単位)と政治的集団とを区別する必要があると思われる。都出は大規模集落の形成について、軍事的理由を掲げているので、この点から、「農業共同体」を政治的集団と捉えることが出来るのかもしれないが、今後の課題として検討したい。

都出のまとめによれば、古墳時代の首長層や有力農民層の屋敷地内の竪穴住居は首長層に「隷属」した「下層」の民であるとするが、本当に下層であるのかについて、素朴に疑問を感ずる。首長に属していることは間違いないであろうが、階層分化という意味では、首長に属し小集落の農民を管理した層であるとは考えられないだろうか。この点についても、今後の課題としたい。

   近藤義郎「共同体と単位集団」『日本考古学研究序説』(増補版)、岩波書店、2001年
   都出比呂志「農耕社会の形成」『講座日本歴史1 原始・古代1』歴史学研究会・日本史研究会編、東京大学出版会、1984年