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尖閣諸島問題、米国の曖昧な態度も一因に

尖閣諸島問題、米国の曖昧な態度も一因に
3/23(火) 6:01配信

JBpress
会見する米国防総省のジョン・カービー報道官(2021年3月9日、写真:AP/アフロ)

 (筆坂 秀世:元参議院議員、政治評論家)

 これまでアメリカは、尖閣諸島について日本の施政権を認め、日米安保条約第5条が適用されるという態度を取ってきた。だが日本の主権が及ぶ領土かどうかについては、「特定の立場をとらない」という態度を取り、明言を避けてきた。

 ところが2月23日、米国防総省ジョン・カービー報道官の定例記者会見で、中国海警の船舶が尖閣周辺で日本領海への侵犯を繰り返し、漁船に接近したことへの質問が出た際、カービー報道官は、「中国は国際的なルール無視を続けている。われわれは尖閣について国際社会とともに見守っており、尖閣の主権については日本を明確に支持する」と言明、尖閣は主権が及ぶ日本の領土との認識を示した。これは大きな政策転換かと思われたが、そうではなかった。

 この発言の直後に、国防総省はウェブサイトで公表した速記録の末尾に、「尖閣の主権について、米国の政策に変更はない」と断り書きの注釈を付した。カービー報道官も2月26日の会見で「私のミスで混乱を引き起こした。お詫びしたい」と陳謝、「米国の従来の政策に変更はない」ことを表明した。

■ 「先占の法理」によって尖閣諸島は日本の領土に

 15世紀の初めに、今の沖縄に琉球王国が成立する。琉球王国は地の利を生かして、周辺のアジア諸国との交易によって栄えた。有名な沖縄の泡盛の製造技術も当時のシャム(タイ)からもたらされた。蒸留器、タイ米、貯蔵用の甕などもそうである。

 当時、形式的ではあっても中国皇帝が一番偉く、日本を除く周辺国の君主は、中国皇帝から任命されるという関係にあった。これを冊封(さくほう)と呼んだ。当然、琉球と当時の明との間でもお互いに行き来があった。その航海の途中にあったのが尖閣諸島である。その当時は、どこの国のものでもなかった。

 動きが始まったのは、19世紀に入ってからである。1884年、古賀辰四郎という日本人が尖閣諸島に上陸し、アホウドリの羽毛の採取、周辺海域での漁業を営むようになる。日本政府も尖閣諸島の領有を検討し、沖縄県などを通じて何度も現地調査を行った。その上で1895(明治28)年、尖閣諸島を日本領に編入するための閣議決定を行った。古賀氏も政府の許可を得て、羽毛の採取を事業化。「古賀村」と呼ばれるようになり、鰹節製造などの事業を行い、最盛期には200人近い人々が居住していたという。

 これによって「先占(せんせん)」の要件を満たすことになった。「先占」とは、いずれの国にも属していない無主の土地(無主地)に対し、他の国家に先んじて支配を及ぼすことによって自国の領土とすることである。先占の法理ともいわれ、国際法においての領土取得のあり方として認められている。

 当時中国は、尖閣諸島に何の関心も持っていなかった。日本の領有に反対したという文献は存在しない。

 それどころか、日本の領有宣言から20年以上が経った1919年、中国の漁民が尖閣諸島付近で遭難し、避難するという事件が発生する。その時、尖閣に住んでいた日本の住民が中国漁民を救助し、中国に送り返すという出来事があった。これに対し、翌2020年に長崎に駐在する中国領事が感謝状を贈っている。この感謝状は、石垣市立八重山博物館に保管されている。そこには、筆で黒々と「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と書かれている。中国が尖閣を日本の領土であると明確に認めていたということだ。

 それだけではない。1953年1月8日付の中国共産党機関紙「人民日報」は、米軍占領下での沖縄に人々の戦いを報道し、その中で「琉球群島は、わが国台湾の東北および日本九州島の西南の間の海上に散在し、尖閣諸島・・・など七つの島嶼からなっている」と報じている。この時期に中国で発行された地図でも、尖閣諸島は中国領の外に記載されている。
 尖閣諸島が日本の領土であることは疑いようもないのである。

■ 海底資源の存在が中国の態度を変えた

 尖閣諸島を日本の領土と認めていた中国が態度を豹変させたのは、この海域に豊富な海底資源が存在することを知ってからである。1968年、国連アジア極東経済委員会(現在は「アジア太平洋経済社会委員会」)の調査によって、東シナ海に豊富な海底資源が埋蔵されている可能性が指摘された。この結果、周辺国が目の色を変えることになった。

 1970年には台湾が、1971年には中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのである。中国側は、次のような根拠なるものを持ち出してきた。1985年の日本の領有は、日清戦争(1894年~95年)と時期的に重なっており、日本が戦争に勝って台湾などを割譲させた一環としての行為である。そして、第2次世界大戦後のサンフランシスコ平和条約で日本が過去の戦争の不法性を認め、戦争で獲得した領土を放棄した以上、尖閣諸島の領有も認められないというのが、その主張であった。

 台湾などの割譲を取り決めた日清講和条約(下関条約)は、1985年3月から締結交渉が開始されたが、尖閣諸島の日本への編入措置は、その2カ月前の1月に宣言されている。だからこそ下関条約では、台湾の割譲は決められたが、尖閣諸島については問題にもならなかった。

 中国がアメリカ、イギリスとともに発したカイロ宣言(1943年)やポツダム宣言(1945年)では、台湾を中国に返還すべきだと求めているが、返還を求める領土に尖閣諸島は含まれていない。1951年のサンフランシスコ平和条約でも、尖閣諸島は沖縄と共にアメリカの施政権下に置かれている。アメリカは地代を払う代わりに、尖閣諸島を射撃場として使用していた。占領下でも尖閣諸島は沖縄の一部として扱われ、1972年に沖縄が日本に返還されたときにも、尖閣諸島の施政権は日本に移され、今日に至っている。

 以上は、いずれも松竹伸幸著『これならわかる 日本の領土紛争』(大月書店)を参考にしている。

■ ニクソン政権による米中和解

 だがこの時期に、アメリカの尖閣諸島への“あいまい作戦”が形作られた。中国が海底資源に目を付け、急に尖閣諸島は中国のものだと主張し始めたのは、1970~71年頃である。この時期に何があったのか。71年には大統領補佐官キッシンジャーの訪中、72年にはニクソン大統領の訪中があった。

 米中和解は、ソ連と厳しく対決していた当時の中国にとっても、ベトナム戦争の終結を目指していたアメリカにとっても有益だった。おそらくキッシンジャー訪中やニクソン訪中の際に、尖閣諸島のことも話題になったはずだ。これが契機となって、中国の立場を慮(おもんぱか)るアメリカの“あいまい作戦”が誕生したのだと思われる。尖閣問題ではアメリカの責任も大きいのだ。

■ 中国の国際法違反を許してはならない

 中国は、今年に入って「海警法」を施行し、海警局の軍事組織としての実力行使を可能にした。現に今年(2021年)2月に入って以降、海警局の船が尖閣諸島周辺の領海に侵入し、日本漁船に接近するという看過できない事態が起きている。

 中国海警法は「管轄海域」という概念を持ちだしているが、そもそも範囲がはっきりしていない。ところがその「管轄海域」なる場所で外国船舶の臨検をする、場合によっては武器も使用するというのだから、中国がやりたい放題できる海域ということだ。国連海洋法条約では、沿岸国は他国の軍艦の領海からの退去要求までしかできないことになっている。

 沿岸各国に認められる権限を一方的に規制する中国政府の海警法施行は、海をめぐる紛争の平和解決を定めた国連海洋法条約をはじめとする国際法に違反し、力による現状変更の動きを強める覇権主義的行動をエスカレートさせるものである。日本政府の断固たる対応を強く求める。

筆坂 秀世

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