歴史・人名

川村明氏「九州王朝説批判」について-河西良浩(Historical)

九州王朝説論争(Historical)

川村明氏「九州王朝説批判」について

川村明氏の「九州王朝批判」は、九州王朝説への真摯でかつ鋭い批判であり、かわにしとしても、おおいに刺激を受けています。ここでは、氏の説に対する私なりの反論を述べてみたいと思います。(敬称略m(_ _)m)
目次

   「倭国」と「日本」の解釈について
   『隋書』の再批判
   『日本書紀』の初唐外交について

1.「倭国」と「日本」の解釈について

古田武彦は、『旧唐書』の読解から、「倭国」と「日本」が別国であることを指摘した(古田『失われた九州王朝』)。この見解は、九州王朝説の骨格を形成する重要な柱のひとつである。『三国志』『宋書』『隋書』と続く中国側史書を基礎にして形作られた「九州王朝説」の最後を担う、それが『旧唐書』であった。私は古田の「九州王朝説」をそのように理解している(かわにし「九州王朝とは」参照)。

古田は、『旧唐書』において、「倭国伝」と「日本伝」が別置されており、各の伝の中で示される倭国・日本の領域が異なること、倭国伝の国交記事は日本書紀などの国内史料に一致せず日本伝のそれは一致すること、などから、両者は明かに別国とし、倭国が「九州王朝」に、日本が「近畿天皇家」に当るとした。さらに、日本伝の以下の記述から、「倭国自身がかつて『日本』を名乗った」と主張する。

   日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或は曰く『倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す。或は云わく「日本は旧小国、倭国の地を併す」と。其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う。又云わく「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」と。』と。<旧唐書、日本伝>

この点について、私は、『旧唐書』『新唐書』『三国史記』『三国遺事』、書紀所引の「百済系三書」、記紀・万葉集といずれをとっても、日本を以って九州王朝を指す例は見られないことを示し、古田の主張が誤りであることを指摘した(かわにし「倭国と日本」)。その上で以下のような推移を想定したのである。

1.「倭」=九州王朝の時代が連綿と続いていた。
(この間、天皇家は自立を始め「日本」を称したと見られる。→「百済本記」)

2.白村江以降、天皇家(天智か)がこれにとってかわり、「倭国」を継承した。(「倭国」=天皇家)

3.天皇家は「倭国」という「倭人統一の国号」を捨て、「日本」に換えた。(文武や持統の頃)

さて、私より早く「倭国」と「日本」の関係に注目し、九州王朝説への批判を展開したのが、川村明だ。氏はまず、『通典』に着目した。『通典』は、『旧唐書』よりも早く、唐の滅亡前の八〇一年に成立した。この『通典』において、倭国と日本を同一国として扱うから、古田の言うような「倭国」と「日本」が別国という説は成り立たない、というのである。『通典』の辺防という章段には、倭国の条のみで日本条はない。その倭条に、

   倭一名日本、自ら、国日辺に在り、故、以て称と為すと云う。<通典、辺防、倭>

とあり、これが、「倭国と日本は別国だ」とする古田説に食い違う、というのである。事実、この後、

   武太后長安二年、其大臣朝臣真人を遣わし、方物貢す。真人は猶中国地官尚書のごとし。<通典、辺防、倭>

とあり、これは、『旧唐書』に見える日本伝の方の記載に一致するから、川村の指摘はもっともだと言える。これに対して、古田武彦は「片言隻語」と一蹴した上で、

   「「通典」成立時点(八〇一)では、光武帝の金印以来「八〇〇年」に及んだ「倭国と中国」間の国交に比し、「日本国」(近畿天皇家)との国交は、わずかに「一〇〇年」。いまだ一項目を与えられるに至っていないのである。後の「新唐書」とは逆のケースだ。」(古田武彦『古代史の未来』)

と言う。実際、『通典』の記載は長安二年までだ。現在国交ある「日本」よりも古くからの歴史を持った「倭国」との国交に重きを置いていたことは、間違いないであろう。しかし、だからと言ってこれを無視してよいとは思えない。さて、川村は、以下の史料を分析し、それらがすべて「倭国」と「日本」に対し異なった認識に立っているとする。それを簡単に記そう。

(1)『通典』

「倭一名日本、自ら、国日辺に在り、故、以て称と為すと云う」→倭国と日本は同一国。これは、粟田真人の情報によるものである。

(2)『唐会要』

倭国」条と「日本」条を別々に掲げ、「日本、倭国之別種」とする一方、「或は倭国自ら其の名の雅ならざるを悪むを以て、改めて日本と為す」とも言い、また、「倭国」条の方に「藤原朝臣常嗣」と見られる、近畿側の遣使が含まれているから、必ずしも「別国」であることを主張してはいない。

(3)『新唐書

『宋史』に見える[大/周]然の齎した「王年代記」によると見られ、その内容は、「近畿天皇家一元」である。

(4)『旧唐書

1、「或は曰く、「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す」と」「或は云わく「日本は旧小国、倭国の地を併す」と」→地の文ではなく引用である。また、これが事実なら倭国伝にこそ記されるべきである。ところがそれはないから、『旧唐書』はこの説を採用しなかったと考えるべきだ。

2、一方、「日本国は倭国の別種なり」は、『旧唐書』全体の構成とも一致するから、『旧唐書』編者の採用した説である。

このように、結局、九州王朝説に矛盾しないのは、『旧唐書』だけだ、と言うのである。従って、九州王朝説は成り立たないのだとする。そして、『新唐書』や『通典』のように、「外国史書というのはいつでも史実を知って書かれているとは限らず、”自分たちの利害によって事実を改竄しているかもれない”当該国の使者の書物や発言を鵜呑みにして書かれた例が存在するから」古田のように、外国史書に依拠した「九州王朝説」の方法論そのものが誤りだとする。だが、古田の立場(倭国=九州王朝が日本とも称した)に立っても、私の立場(九州王朝を併呑した後、天皇家が倭国を、後に日本を名乗った)に立っても、川村の言うほど、これら史料は矛盾していない。結局は『旧唐書』に示されたとおり、「倭国」と「日本」の称は、いくらかの「混乱」を含んでいることは、私も指摘した(かわにし「倭国と日本」も参照)。その一端が、早く『通典』から見えている。そういうことだ。『通典』は『旧唐書』の採用しなかった方の説を採った。『唐会要』は両説をあげ、そのいずれを採るかの判断は保留している。『新唐書』は、一見、「王年代記」に基づく「近畿天皇家一元」の立場に立つかのようであるが、川村の指摘する「用明の代より前に中国と国交があったとは一切書かれていない」点や、「世々中国と通ず」を削除している点等は、「歴代の正史に明記されている倭と中国の国交は史実ではない」という主張と見なすよりも、「これ(日本)は歴代史書に言う倭国ではない」という主張であると見なす方が、適切ではないか(古田武彦「新唐書の史料批判」参照)。従って、『旧唐書』の立場とは矛盾しない。結局は、同じ「混乱」の上に立っているのである。(『通典』に示される「粟田真人」以前の「倭国」記事は、歴代正史のそれと一致しており、歴代正史に依拠している「九州王朝説」とは矛盾しない)では、なぜ、このような「混乱」が生じたのか。

まず、問われるべきは、この問題だ。この問題を解決する前に、確認しておくことがある。「倭国」と「倭人」の意味の違いだ。

   (1)夫れ、楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為す。<漢書、地理志>
   (2)倭人・・・旧百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。<魏志、倭人伝>
   (3)其の南、狗奴国有り。男子、王と為す。其の官、狗古智比狗有り。女王に属さず。<同>
   (4)女王国の東、海を渡る、千余里。復た国有り。皆倭種。<同>
   (5)(正始四年)冬十二月、倭国女王俾弥呼、遣使貢献。<魏志、三少帝紀、斉王芳>

(1)に示されるように、倭人とは百余国の総称であり、種族名だ。そして、魏志倭人伝において、卑弥呼の女王国(三十国)が、「倭人」の全てではないことは、(3)から明らかである。また、(4)も、女王国とは別領域だ。卑弥呼は「倭王」であり、(5)のとおり、「倭国」と記される。同じく「倭人」の「狗奴国王卑弥弓呼」は、「倭王」ではなく、当然、「倭国」とは厳密には別国である。「倭」とは、ある「王朝名」(狭義)であると同時に「種族名」(広義)でもあるのだ。これは、後も変わらない。中世の「倭寇」や「倭人(東シナ海で活躍した人々)」などは、「日本(王朝名であると同時に国号)」とはまた別の意味(種族名)と考えるのが自然だ(吉田孝『日本の誕生』)。この点、「日本は倭の別種」という認識を中国側が持っていたならば、中国側の目には日本国使は「倭人」であると見えていたはずである。九州王朝と近畿天皇家の交替は、種族間の征服ではなく、「種族内の中心の交替」である。また、後世の用例が示すように、「倭」はその後も、種族名としては残りつづけた(「和歌」「倭方」等)。

これはつまるところ、「倭」をもって「天皇家の王朝」を意味しうることに他ならない。(記紀が、「九州王朝」の歴史を「日本」の歴史として記していることとは別個の問題である)従って、中国側が「倭」条に「日本」のことを書いたり、「倭一名日本」と書いたりということは、決して不自然なことではなく、かつ、中国側が「近畿天皇家一元」の立場に立ったことを意味するものでもない。(もっとも、観念的には、宋が同一の王者が代々続く「日本」の「王家」を称えた点は、川村の指摘するとおりだ。また、原田実「万世一系イデオロギーの中国的受容」にも、同様の指摘がされている)

川村は、厳密に「倭」と「日本」とが使い分けられていないことを疑問視するが、私は以上の点から、その使い分けそのものは決して厳密ではなかったと考えるのである。

次に、「方法論」について。「当該王朝で作られた史書は自分自身の利害による加削がありうるから、そのような危険のない外国史書の記述の方が客観的で信用できる」このような方法論を、古田がいつ提示したのか、私は知らないが、『日本書紀』と『旧唐書』との比較であれば、話は別である。すでに、『三国志』『宋書』『隋書』といった、中国側同時代史書から、『日本書紀』の持つ史料性格は明らかになっている。これは、津田左右吉以来、各学者も述べてきたはずだ。『日本書紀』は『三国志』『宋書』『隋書』という中国側同時代史書と尽く対立している。そしてまた、『旧唐書』という中国側史書とも対立する。ところが、『旧唐書』は『三国志』『宋書』『隋書』とは対立せず、むしろ、これを補う形で成立している。

この点を考えれば、『旧唐書』を採った古田の方法論(そして私の方法論でもある)は、決して間違ってはいないと考えるが、いかがであろうか。同様に、『日本書紀』と基本的に同じ立場に立つ『続日本紀』も疑う必要があるのだ。

一般論としての「当該王朝で作られた史書は自分自身の利害による加削がありうるから、そのような危険のない外国史書の記述の方が客観的で信用できる」という方法論は、正しくない。これは、私も同感だ。むしろ、当該王朝自身の記録こそ、もっとも重視されるべきだからだ。だが、一般論と具体論を混同してはならないのである。
2.『隋書』の再批判

次に『隋書』を見よう。

川村は、この「行路記事」に着目した。これが、「[イ妥]国は九州である」という命題を支持していないのだと言う。『隋書』に示された「行路記事」は以下のようだ。

   明年、上、文林郎裴清を遣わし、[イ妥]国に使せしむ。百済を度り、行きて竹島に至る。南、[身冉]羅国を望む。都斯麻国を経、迥かに大海中に在り。又、東、一支国に至る。又、竹斯国に至る。又、東、秦王国に至る。其の人、華夏に同じ。以て夷洲と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。又、十余国を経、海岸に達す。竹斯国より以東、皆[イ妥]に附庸す。[イ妥]王、小徳阿輩臺を遣わし、数百人を従え儀仗を設け、鼓角を鳴らし来迎す。後十日、又、大礼哥多毘を遣わし、二百余騎を従え、郊労す。既に彼の都に至る。其の王と清と相見え、大に悦びて曰く・・・<隋書、[イ妥]国伝>

川村はここから、以下のような行路と見なした。

<図>百済より彼都に至る行路

これは、正しい。だが、「彼都」を近畿と見なした点は不可解だ。「秦王国」→「海岸」を水行と見なしているようである。恐らくは、「筑紫」の東に位置するという「秦王国」を周防の辺りか、豊の辺りかに比定し、この前提に立った上での解釈であろうか。だが、「十余国を経」ているのだから、「秦王国」→「海岸」間は陸行が必然だ。「海岸に達す」とは、(1)海からやってきて、陸地に達す場合と(2)内陸を進んできて、海に達す場合とがあるが、ここは、(2)の方である。そうでなければ、「十余国を経」ることが出来ない。川村の言うように、「裴世清一行は、瀬戸内海の海岸沿に来たとは限らない。瀬戸内海の沖を航海してきたのであれば、海岸から離れていたのであるから、着岸したときに「海岸に達す」と書くのは当然である」とすれば、なおさらである。(また、「瀬戸内海の沖」という概念が成立可能であるか、甚だ疑問だ。「狭い」海に大小様々の島がひしめく。それが瀬戸内海の魅力ではないだろうか)従って、この「行路記事」を素直に読む限り、「裴清」は、九州島を出ていない。(古田『失われた九州王朝』でも同様の指摘がなされている)その一方で、古田のように、「彼都」=「竹斯」という解釈には従えない。「其人」の解釈も、「夷洲」の解釈も、それ自身はともかく、強いて行路の終着点を「竹斯」に持っていこうとし、無理に結び付けた苦しい論法だ。この点を踏まえ、川村の挙げた各論点について、吟味しよう。
1.「其人」

これは、川村の解釈に軍配を上げたい。古田の言うような「其」の用法は、「直接指し示すべき「国」が明記されていなければ、表題の国を表す」と言うべきであり、このように直前に「秦王国」という国名が記されているのだから、「其」が「秦王国」を指すことは当然だ。もしも、そのように受け取られたくないのであれば、「[イ妥]国人」と書けば良い。また、「又、十余国を経、海岸に達す」と連結している文脈から言っても、「行路記事」は「既に彼の都に至る」までとする川村の解釈が自然だ。
2.「夷洲」

「従って、(12)(「以為夷洲、疑不能明也」―かわにし注)は、正しくは「その住民は華夏(中国)にそっくりなので、仮にそこを夷洲だとみなしても、そうであるかないかを明らかにすることは多分できないだろう」と訳すべきだったのである」このように解した場合、「夷洲」を「台湾」或はその他の固有名詞と見なすと、意味が通らない。やはり、ここで言う「夷洲」とは、「東夷の洲」という意味ではないだろうか。

   我は夷人、海隅に僻在し、礼儀を聞かず。<隋書、[イ妥]国伝、[イ妥]王の言>

とある「夷人」と同様の意義だ。勿論、だからと言って、「彼都」が「竹斯」であるということにはならない。
3.「行路記事」

古田の挙げた論証のうち、「難波」問題は近畿説にとって重要だ。少なくとも、九州以外の地名が『隋書』に現れないことを不審とすべきだ。
4.「自竹斯国以東」

まず、「国」という概念を整理する必要があろう。川村は『三国志』の中の「国の中の国」を検証している。その結果、韓と倭の二国において、「国の中の国」という概念が存在していることを示した。これは、『三国志』にとって特殊な例だ。(言いようによっては「中国」自身も「国の中に国」を持っていると言えるが、中華思想のさなかにあって、中国人自身がそのような概念を持っていたかどうかは、別途検討する余地があるだろう。特に「三国」「南北朝」の時代にはその概念の意識された可能性は十分にある。魏から見れば、「呉」「蜀」という敵国の中にまた国が存在していたのであるから)さて、ここで示された「特殊な」二国のうち、韓は『隋書』には伝がない。「百済」「新羅」がそれに替わったからだ。残る倭の「特殊な」国の概念を『隋書』は引き継いだのか、それとも『隋書』は新たに「平常の」国の概念によって[イ妥]国伝の「国」を定義しなおしたのか、これが問題だ。普通に考えれば、前者ではなかろうか。また、倭、後に「日本」も、「国の中の国」という概念は継承した。従って、『三国志』においても、後の「日本」においても、”「竹斯国」も「国」と書かれているから[イ妥]国の都ではありえない”という命題を支持していない。『三国志』において倭国の都は邪馬壹国に存在し、「日本」において日本の都は長らく山城国にあったのであるから。結果として、「竹斯」は「彼都」ではないのであるが、この点は確認しておきたい。
5.『韓苑』

「邪届伊都、傍連斯馬」とある点から、「伊都」も「斯馬」も、「倭国」に属さない、というのであろうか。『三国志』においては、「伊都」も「斯馬」も明らかに「倭国の一部」だった。三国時代と隋唐時代では、「倭国」の領域が変わった、という認識を持っていたならば、それは『隋書』[イ妥]国伝に書かれねばならないのではないか。やはり、「竹斯国以東」だけあって「以西」も「以北」も「以南」もないことから、それ以外は倭の領土ではないとは言えない。(「都斯麻国」「一支国」との関係が示されていないのは、『三国志』に既に記述されている、周知の事実だったからだ。また、「以東」も行路上の「竹斯国」「秦王国」「十余国」を指していると考えるべきである)

以上だ。

新たな論点に移ろう。
6.「彼都」

まず、この行路記事から、「彼都」の位置を考えよう。裴世清は「竹斯」から「秦王国」「十余国」を経て「海岸」に達した。ここが、[イ妥]国の首都の郊外だと言うのであるから、「彼都」はこの付近にあったのである。行路の全体として、「東」を目指す方向性から考えれば、一番自然に辿りつくのは、「豊国」付近であろう。また、「阿蘇山」の記述から言って、南側へ進路を取り、筑後や肥後の辺りということも考えられる。近畿の場合でもそうであるように(大和・難波・近江)、時代によって都城の変遷は十分に考えられるところだ。九州王朝においても太宰府・筑後・豊の領域がそれに当る可能性が考えられるのである。だが、『隋書』の限られた行路記事から、それを特定することは出来ない。これが帰結だ。
7.「邪靡堆」

   邪靡堆に都す。則ち魏志の所謂邪馬臺なり。<隋書、[イ妥]国伝>

これによれば、『魏志』にいう倭国の首都と『隋書』にいう[イ妥]国の首都は同一であることとなる。古田はこれを起点にして、「竹斯国」が[イ妥]の首都であることを主張した。だが、この等式はあくまで『隋書』の判断であり、ここに依拠し過ぎることは危険である。(反対にこの記述によって『魏志倭人伝』を解することは、史料批判の方法として正しくない)恐らくは[イ妥]国が『魏志』の倭国の継承者であることを指し示す文章なのではないか。

以上の点によって、『隋書』における[イ妥]国の都が「近畿」でも「竹斯」でもないことが判明した。結論としては、裴世清は、『隋書』による限り、九州島を出ておらず、従って、これによって「九州王朝説」が成り立たないという川村の指摘は妥当ではなかった。一方、古田のように「竹斯」に固執することの誤りが同時に指摘できたことを収穫としたい。
3.『日本書紀』の初唐外交について

次は、『日本書紀』との比較だ。だが、まず、基本的な認識について述べなくてはならないだろう。具体的な例を挙げよう。

   三十九年。是年、太歳己未。(魏志に云はく、明帝景初三年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣わして、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守[登(邑)]夏、吏を遣わして将て送りて、京都に詣らしむ)<神功紀、摂政三十九年>

この『魏志』が他ならぬ『三国志』であることは言うまでもない。干支による年代も、一致する(ただし、『三国志』は景初二年とする。景初三年の誤りと言うのが一般的な説である)。では、だからといって、『日本書紀』が『三国志』に一致すると称し得るだろうか。そうではない。これが『日本書紀』の作為であることは、既に多くの論者が指摘したとおりだ。これは、神功紀だけに限った話だろうか。やはり、『日本書紀』全体に対して、疑いの目は向けられるべきなのである。つまり、『日本書紀』は自己の事跡以外のものをも取り込み、自己の業績として書き記している「可能性がある」のだ。

無論、あくまで、「可能性」の問題だ。

結局、『日本書紀』はそのような危険をはらんだ書であり、無批判には使えない、これがルールだ。そして(中国の同時代史料によって導き出された)「九州王朝説」の立場に立てば、『日本書紀』についてこのような説明が出来る。これが、「九州王朝説」の論理性だと思う。

一方、『日本書紀』がこう解釈出来るから「九州王朝説」は正しい、という場合には、充分な必然性が必要だ。同時に『日本書紀』がこう解釈出来るから「九州王朝説」は成り立たない、ということには、必ずしもならない。もちろん、『日本書紀』そのものから「九州王朝説」を導くのは、甚だ難しい。というよりも不可能に近い。(その「微証」を得ることは可能だが)その理由が、先の「可能性」の問題だと、私は思うのである。もう一歩、踏み込むと、先述の「可能性」の問題がある限り、
(1)「九州王朝説否定論者」は「一致」をもって九州王朝説否定の論拠にし、
(2)「九州王朝説論者」は「一致」をもって『書紀』の作為の一事象と見なす。
そういう「水掛け論」に陥ることは必至だ。この点に十分留意する必要があろう。

さらに進んで
(3)「九州王朝説論者」は「不一致」をもって九州王朝説の論拠にする。
などということには、慎重にならなければならない。勿論、「倭の五王」や「多利思北孤」のように、国内史料との矛盾が明白なものもある。だが、それ自身をもって「九州王朝説」の論拠とすることは、恣意に属する。あくまで、「九州王朝説」の最大の論拠は『魏志倭人伝』の行路記事だ。そして、『宋書』『隋書』『旧唐書』と続く中国側史書がこれを支持している点だ。

したがって、川村は「一致」をもって九州王朝説否定の論拠としたが、あくまでも『旧唐書』それ自体が「倭国」と「日本」が別国であることを明示している以上、これには従えないのである。

もう一点、「推古朝の遣隋使」問題だ。古田は、推古紀において、「隋」との国交を示す記事がないことに注目した。実際にこの時期の書紀に現れているのは「唐」ばかりだ。(これは、『日本書紀』そのものの持つ矛盾である)ここから、古田はこのあたりの国交記事が、外国史料と比べて十二年ずれているのだと言う(古田『法隆寺の中の九州王朝』)。古田はこの十二年のずれが、どこから始まり、どこまで続いているのか、などは明らかにはしていない。だが、「白村江」では確実にずれは生じていないのであるから、そこまでのどこかに、ボーダーラインがあるだろうと思う。それはさておき、古田の言うように推古朝の遣使こそが「初唐期」に当るとすれば、舒明紀や孝徳紀の遣使についても再検討が必要になるだろう。この点を確認しておきたい。

さて、以上の点を踏まえた上で、川村の挙げた問題について、見てみよう。
1)貞観五年の遣使について

   1.貞観五年(六三一)、遣使して方物を献ず。太宗、其の道の遠きを矜み、所司に敕して歳貢せしむこと無からしむ。又、新州刺史高表仁を遣わし、節を持して往きて之を撫さしむ。表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。<旧唐書、倭国伝>
   2.(舒明二年、六三〇)秋八月癸巳朔丁酉、大仁犬上君三田耜・大仁薬師恵日を以て、大唐に遣わす。<舒明紀、二年>
   3.四年(六三二)秋八月、大唐、高表仁を遣わして三田耜を送らしむ。共に対馬に泊まる。<同、四年>

なるほど、川村の言うように、一致と見る事は可能だ。

六三〇年に三田耜が出発→六三一年に唐にて方物を献じ、高表仁と共に出発→六三二年に高表仁来日

実際に三田耜は、足掛け三年は使者として唐に滞在していたようだから、このような解釈も無理ではない。また、「伊吉連博徳書」などによれば、唐から日本列島への行程に、八ヶ月以上かかることもそれほど不自然と見る必要は無いのかもしれない。(前年に出発して翌年八月に到着。博徳等は十一月に唐(東京=洛陽)出発<斉明紀六年七月条所引>、翌五月に帰国<同七年五月条所引>。ただし四月まで越州に滞在)。さて、川村は『日本書紀』に舒明と高表仁の「会見記事」が書かれていないことから、1の「王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」とむしろ一致するのだという。これ自身は、岩波大系本『日本書紀』の注にもある説で、むしろ一般的な解釈と言うことになるだろう。「王子」か「王」かという問題についても、本来「王」が正しいのであろう。

だが、言い方を変えれば、
(1)『旧唐書』には「王子と礼を争った」と書いてあり、
(2)『日本書紀』には何も書かれていない。
これが事実だ。川村や岩波大系本注が行ったのは、一致を前提とした場合の解釈の問題であって、一致しているか否かを論じている今、挙げられるべき問題ではない。無論、『日本書紀』には何も書いていないのだから、これを「矛盾」と見たのは、古田の誤読の結果だ。同様に、年次についても、やはり、一致を前提とした解釈に過ぎない。そのものズバリ一致しているとは称し得ない状況だ。明らかな矛盾も無く、明らかな一致も無い。これが、真に「冷淡な」事実だ。
2)貞観二十二年の遣使について

ここで川村が述べているのは、明らかに、「一致を前提とした」解釈だ。『日本書紀』には、この年に新羅に附して唐に使いを送ったことなど、書かれていない。「書かれていない」ことを「矛盾」として、提示したのが古田なのだから、これでは議論などかみ合うはずも無い。従って、厳密には「日本書紀と旧唐書の国交記事は、かろうじて一致するという解釈も可能だし、矛盾すると見なすことも可能」。これが真相だ。より根本的な問題は、先述の「倭国」と「日本」の併載問題である。

なお、天智四年の劉徳高の来日時期については、
(1)天智四年九月二十日、筑紫着。
(2)天智四年九月二十二日、表函を奉る。
(3)天智四年九月二十三日、大和着。
とみたところで、劉徳高は「大和に着く前に表函を奉っている」ことに変わりは無い。この点が「矛盾」なのである。記載通りに読めば、劉徳高は筑紫で表函を奉ったと書いてあるのである。筑紫で「表函」を預け、先に大和に届けてもらい、自分は翌日に大和に入った、とでも考えているのであろうか。これは、筑紫に「表函」を奉るべき誰かがいて、その後、大和に入った、と見る方が、無理の無い解釈である。むしろ、「九州王朝」の存在を示唆する史料と見なすべきだ。

さて、古田は逆に『日本書紀』と『旧唐書』の一致を指摘して、「九州王朝説」の補強としている。これは、先に述べた「論理性」の必然なのだが、『日本書紀』に『旧唐書』と一致する部分があること自体、九州王朝説にとってなんら問題は無い。むしろ、『日本書紀』の中には、「九州王朝」の存在を仮定しなければ矛盾してしまう個所がある。これを具体的に指摘したのが、「蝦夷」献上記事の部分だ。書紀には以下のように記されている。

   (斉明五年)秋七月丙子朔戊寅、小錦下坂合部連石布・大山下津守連吉祥を遣し、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。<斉明紀>
   同天皇の世、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連等の二船、呉唐の路に奉使さる。・・・(略)・・・(閏十月)廿九日、馳せて東京に到る。天子、東京に在り。卅日、天子相見て問訊ふ。「日本国天皇、平安なるや不や」。・・・(略)・・・十一月一日、朝、冬至の会有り。会の日に亦観ゆ。朝す所の諸蕃の中、倭の客最も勝れたり。後、出火の乱に由りて、棄てて復検へられず。十二月三日、韓智興の[イ兼]人・西漢大麻呂、枉げて我が客を讒す。客等、罪を唐朝に獲て、已に流罪に決す。前に、智興を三千里の外に流す。客の中に伊吉連博徳有りて奏す。因りて即ち罪を免されぬ。事了りて後、勅旨すらく「国家、来年、必ずや海東の政有らむ。汝等倭の客、東に帰ること得ざれ」と。遂に西京に匿めて、別処に幽へ置く。戸を閉めて防禁し、東西にすること許さず。困苦、年を経る。<伊吉連博徳書、斉明紀五年七月条所引>

さて、ここでは、「日本」と「倭」が使い分けられている。まず、この点に着目しよう。伊吉連博徳は、「日本」の使者だ。これは唐帝に接見した時の唐帝の言葉から明らかだ。一方で、これとは別の「客」がいる。韓智興・西漢大麻呂だ。「枉げて我が客を讒す」とある。讒言の内容は、ここには書かれてはいない。だが、明らかに伊吉連博徳らのグループとは別の「客」だ。伊吉連博徳自身が「我が客」と言っているのがそれである。韓智興・西漢大麻呂は、「我が客」ではないのである。「客の中に伊吉連博徳有りて」とあるから、「客等、罪を唐朝に獲て、已に流罪に決す」とあるのは、伊吉連博徳らの一行だ。「事了りて後」とあるが、この後の「幽閉事件」が先の「讒言事件」と関わりがあるとみることは、文脈上、自然だろう。「国家、来年、必ずや海東の政有らむ。汝等倭の客、東に帰ること得ざれ」とは、唐側の言い分だ。さて、では、この「讒言」の内容はどんなものだったのだろうか。古田はこれを「大義名分の衝突」と見た。岩波大系本では、「(「海東の政」に関わる)唐の軍事機密を知った」という讒言だと見ている。私は岩波大系本のように、「海東の政」に関わる問題としてみるほうが自然だろうと思う。だが、より重要なのは、伊吉連博徳ら日本の使者とは別の客が唐に来ている、という事実だ。これもまた、「九州王朝」の存在を示唆する史料の一つである。(ここで「倭客」の語が、伊吉連博徳らと韓智興らの両方を指していると見なされる点は、「倭」と「日本」の問題を語る上で注目しても良いと思う)

川村の言うように「中国史書に出てくる唐と倭・日本間の遣使記事は、すべて国内文献における唐と天皇家の間の遣使と年次が完全に一致しており、古田氏の言うような内容の齟齬も全く存在していない。言いかえると、遣使記事を比較する限り、中国史書の「倭」も「日本」もどちらも天皇家のことに他ならないのである」。だから、「少なくとも唐代に「九州王朝」なるものが存在したとする説にとっては、致命的な史料事実である」と見なすとすれば、それは単に『日本書紀』という史料性格を理解しないものに他ならない。『日本書紀』は、「大半は一致すると見なして差し支えないが、中には「九州王朝説」を導入しないと解釈しにくい問題をも抱えている」と見なすべきである。これは、『日本書紀』全般に言えることだ。『日本書紀』の内部ですら矛盾する史料の一部を取ってきて、「一致」を称したところで、批判にはならないと私には見える。

ただ、このようには言えよう。「『旧唐書』の国交記事は、『日本書紀』とは矛盾しない」。この点は、『魏志』『宋書』『隋書』とは異なる史料状況である。だが、事の本質は、『書紀』との比較ではないことを、再度確認しておきたい。