日本の初代天皇は「神武天皇」じゃなかった!?意外過ぎる真実とは
日本の初代天皇は「神武天皇」じゃなかった!?意外過ぎる真実とは【皇室研究の専門家が問題提起】
高森明勅:皇室研究者、國學院大學講師
社会
ニュースな本
2025.5.1 8:00
天皇皇后両陛下
天皇皇后両陛下 Photo:SANKEI
宮内庁によれば、紀元前660年に神武天皇が即位して以来、我が国は126代の天皇を戴いている。ところがこれに異議を唱えるのが、皇室研究の専門家である筆者。「天皇」の君主号を内外に発した最初の人物は、いったい誰なのか!?※本稿は、高森明勅『愛子さま 女性天皇への道』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。
最初の天皇は女性だった…
“常識”を揺さぶる歴史解釈
わが国の歴史の中での女性天皇の存在感の大きさを端的に理解してもらうために、まずひとつの事実を紹介しておきましょう。それは、最初の「天皇」は“女性”だったということです。
と言うと、さまざまな反応が返ってくるでしょう。「公式な皇統譜において最初の天皇は神武天皇である」「神武天皇は明らかに男性であった」とか。あるいは、「現在の歴史学では継体天皇(編集部注/第26代天皇。武烈天皇が後継を定めずに崩御したため、第15代応神天皇の五世孫の男大迹王が群臣に推戴された)から世襲王権が確立したと見るのがほぼ通説で、その継体天皇は男性だった」…など。
これらの反応はそれぞれもっともです。しかし、私がここで言おうとしているのは、君主の称号として「天皇」号が成立し、それを名乗った最初の君主は女性だった、ということです。
こう説明しても、天皇号の成立は天武天皇(編集部注/第40代天皇。在位は673年〜686年。壬申の乱を制し、天皇中心の支配体制を確立した)の時だったと見るのが、今のところ学界の通説であり、それにしたがえば、「最初の天皇は天武天皇、つまり男性だったはずだ」という反論も予想できます。
でも、その通説なるものが本当に信用できるのか、僭越ながら私は疑問を抱いています。
なので、その点も含めて、少し丁寧に説明するつもりです。
前近代の東アジア世界で、君主の称号は各国の君主のランクを示す機能を果たしていました。もともとは「王」という称号が、君主号として普通に使われていました。
ところが、チャイナの春秋戦国時代を終わらせて国内統一を果たした秦の君主が「王」よりもランクが高い「皇帝」を初めて名乗りました(紀元前221年、『史記』秦始皇本紀)。いわゆる秦の始皇帝ですね。
これ以来、「皇帝」が最高君主の称号になり、「王」はそれより下位の称号になります。それは、しばしば皇帝に従属する地位を示しました。
天皇号は日本より中国が先?
かぎを握る木簡と唐の皇帝
朝鮮半島の国々の君主は、前近代においてずっと「王」を名乗り続け、中華帝国に名義上は臣従する立場を続けました。わが国でも、しばらくは「王」という称号を使っていました。福岡県・志賀島から出土した1世紀半ば(57年)の金印に彫られていた称号は、「漢委奴国王」つまり王でした。
『魏志倭人伝』(正確には『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝・倭人条)に名前が出てくる「邪馬台国」の「卑弥呼」は、2世紀末から3世紀前半に活躍したと考えられます。その称号は「倭王(親魏倭王)」です。5世紀のいわゆる「倭の五王」も、もちろんその呼び名の通り「王」でした。
五王の最後、倭王・武は雄略天皇(編集部注/第21代天皇。各地の有力豪族を武力討伐し、天皇家による専制を確立した)と考えられています。埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文(471年)には、「獲加多支鹵大王」という名前が確認できます。「大王」というのは、「王」に対して服属した豪族が敬って使った尊称でした。ですから、正式な称号としてはやはり王だったことが確認できます。
では、わが国の君主が中華帝国の皇帝よりも下位の王号から脱却して、より上位の「天皇」へと飛躍したのは、いつからでしょうか。
奈良県明日香村の飛鳥池工房遺跡から出土した木簡から、「天皇」という表記が確認されました。この木簡は677年(天武6年)前後のものと見られています。
ですから、天武天皇の時代には「天皇」号はすでに成立していたと考えられます。近年では天皇号は天武天皇朝に成立したとする学説が有力になっています。
それは、こんな考え方です。チャイナ唐の皇帝・高宗が、674年に初めて「天皇」を名乗った事実に注目します。日本で君主が天皇を名乗るようになったのは、高宗にならってのことだろう。だから、それより“前”にわが国で天皇号が使われていたはずがない…というのです。
あるいは、わが国が先に天皇を名乗っていたら、誇り高いチャイナ皇帝の高宗がそれより遅れて同じ称号を名乗るなんてありえない、という考え方です(渡辺茂氏『史流』8号、所収論文)。
果たしてそうでしょうか。
608年、“王”から“天皇”へ
日本が中国に突きつけた意志
残念ながら、唐の高宗が天皇を名乗るよりも前にわが国に天皇号はなかったはずだ、という通説を支える思い込みには根拠がありません。なぜそう言えるのか。ふたつ理由があります。
ひとつは、高宗が名乗った「天皇」は正式な君主の称号ではなかったからです。唐の正式な君主号はそれまで通り「皇帝」のままでした。天皇は「あくまでも高宗個人の尊号」でしかなかったのです(坂上康俊氏『日中文化交流双書(2)法律制度』所収論文)。そのようなものを、王に代わる新しい君主号として採用するとは、考えにくいでしょう。
次に、高宗が天皇を名乗った時に、皇后の則天武后は「天后」を名乗っていました。
しかし則天武后が天后を名乗るよりも前に、周辺国の吐谷渾で同じ天后を名乗っていました(『隋書』西域伝・吐谷渾条)。でも、まったく気にしていません。自ら公認していない他国の称号は、存在していないのと同じ…という感覚だったのでしょう。
わが国の天皇号についても、同様の事情だったと考えられます。したがって、674年より後と見なければならない根拠はなくなります。
それどころか、推古天皇(編集部注/第33代天皇。在位は593年〜628年。日本史上、最初の女性天皇。第29代欽明天皇の皇女。異母兄である第30代敏達天皇の2人目の皇后。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。崇峻が蘇我氏に暗殺されたとき、敏達が最初の皇后・広姫との間になした第一皇子の子=のちの第34代舒明天皇は1歳だった)の時代のものと考えられる文章の中に、「天皇」という言葉が使われている実例があります(『天寿国繡帳』の銘文。622〜628年頃の成立か)。
5世紀末以来、チャイナとの交流を途絶えさせていたわが国も、隋が大陸を統一した以上、外交を再開するしかありません。その際に、チャイナ皇帝を頂点とする国際秩序である「冊封体制」から明確に離脱するという、大きな決断をしました。
そもそも王という皇帝より下位の称号が、わが国でもなぜ使われていたのでしょうか。それは、チャイナ皇帝と周辺国の君主との名義上の君臣関係を軸とした冊封体制に、わが国も組み込まれていたからでした。
しかし、わが国は600年に遣隋使の派遣を始めて以来、隋の皇帝との君臣関係を設定する“冊封”を、一度も受けていません。607年に隋皇帝と同じ「天子」(皇帝だけが名乗ることができる別号)を名乗る国書を送って不快がられると、翌年には相手を「皇帝」、自らを「天皇」と区別する国書を届けました。
相手に一定の配慮をしつつ、しかし下位の従属的な称号である「王」は二度と名乗らない、という意思表示です。
天皇号の成立は、この608年だった可能性が最も高いでしょう。
「女性天皇=中継ぎ」ではない!
推古天皇が持っていた圧倒的権威
「天皇」は、中華皇帝に服属しない独立自尊の立場を明らかにした、日本独自の君主号でした。それは冊封体制から脱却し、チャイナ文明圏から政治的自立の道の歩みを始めた、わが国の姿勢を示すものです。
これ以降、冊封関係を続けた朝鮮半島が時間の経過とともにチャイナ文明への傾斜を深めたのに対して、わが国は逆に独自性を強めていきます。天皇号の成立は現代につながる歴史の大きな分岐点だったと言っても、言いすぎではないでしょう。
日本の初代天皇は「神武天皇」じゃなかった!?意外過ぎる真実とは【皇室研究の専門家が問題提起】
『愛子さま 女性天皇への道』(高森明勅、講談社)
その大きな決断を下した時代の君主は、最初の女性天皇とされる推古天皇でした。
当時、譲位という慣行はまだないので、中継ぎとして即位するということはありえません。ワンポイント・リリーフとして“本命”の出番までつないで交代、ということができないからです(編集部注/伝統的な皇位継承ルールとして、歴代の女性天皇は、特定の男子皇族に皇位をつなげるため、若年のその皇子が長じたら譲位することを前提に、「中継ぎ」として皇位に就いていたという学説がある。筆者はこれに批判を加えている)。
それどころか、推古天皇はまだ君主として即位される前から、絶大な権威を備えておられました。たとえば推古天皇の弟にあたる崇峻天皇が即位される前、君主の地位を狙った有力な皇族(穴穂部皇子)が誅殺されています。これは敏達天皇の皇后だった推古天皇の「詔」(本来の意味では君主の公式な意思表示)によるとされています。
推古天皇は崇峻天皇の後に即位されるので、まだ君主ではありません。それでも緊急事態に際して、果断な処置を命じる「詔」(に匹敵するもの)を下すだけの権威を、すでに身につけておられたことが分かります。崇峻天皇の即位自体も推古天皇が促したものでした。
さらに、朝廷内で危険視されるようになっていた崇峻天皇が暗殺されたのも、少なくとも事前に推古天皇の同意を得ていたと考えられます。
こうして、推古天皇の満を持しての即位は、中継ぎどころか、朝廷に集まる多くの人々の強い期待によるものだった、と見ることができます。
推古天皇の時代は、皇族を代表する聖徳太子と豪族を代表する蘇我馬子の支えによって、政治の改革や文化の進展にめざましい成果を残しました。
2025-05-07 (水) 10:41:50
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