歴史・人名

日本略史

古代の日本は海峡国家

もちろん歴史は原始の時代から続いているのだが、日本の歴史としての始まりは、やはり石器時代が終わり、独得の個性を発揮し始めた頃ということになるだろう。日本に青銅器や鉄器が現れたのは、弥生時代の後半、一世紀頃のことだ。

石器時代から青銅器・鉄器時代への変化を技術史的に見直して見るといろんなことが見えてくる。多くの古代文明は、長い青銅器の時代を経て鉄器に至るのだが。これは、銅と鉄の融点の違いによるものだ。鉄器の使用は炉技術の発達を待たねばならなかった。ところが、日本では、銅と鉄の使用が間髪を入れずに始まっている。

これは金属技術が徐々に発達したのではなく、技術流入があったことを示している。しかし、遺跡からは、1000度を超す高温を発生するような、「ふいご」を備えた炉跡は見つからない。800度程度で青銅なら溶かせる炉、あるいは鉄を赤熱して加工できる程度の炉しかない。鉱石から金属を得るのではなく、金属材料を中国・朝鮮から得て加工することで金属文化が芽生えたのではないかとは従来から考えられていた。

近年の研究でこのことが確定的になった。考古学的には九州を中心とする銅矛銅剣文化と、大和を含む西日本の銅鐸文化が併存していたことが知られている。同位元素分析でこれらの遺物の銅が共通して中国の鉱山から産出されたものであることが解ったのである。技術だけでなく材料も流入したものであったことがはっきりした。だが、それだけではない。

二つの文化が共に同じ銅を使っていたことの意味は大きい。地理的に言って、銅鉄が輸入されたのは九州だが、これを大和にも伝える仕組みがあったということになる。銅鐸と銅矛は異なる文化圏だから、大和が九州を支配していたわけではない。まだ統一国家はなく、小さな単位で暮らしていた時代だ。2つの文化圏は対立するのではなく平和共存を保っており、この間で金属材料が流通していたことを示している。異なる文化と言えばすぐに対立や支配従属を考えるのはあくまでも後世の発想なのである。

こうしてみると、この時代の様子が見えてくる。あちこちに小さな国が分立し、その間で銅鉄が受け渡されていたのだ。では何が銅鉄と交換されていたのか?しかも、その流れは朝鮮にまで続かなくてはならない。当時の日本から対価として出せるものは労働力と米しかない。卑弥呼の献上物は生口すなわち奴隷だった。朝鮮半島に比べて、日本は、はるかに温暖で、水が豊富で平地もある。労働力さえあれば米の生産はできる。

僕の仮説は、朝鮮半島の南部にいた倭族が北九州に進出し、そこで生産した米を朝鮮に運びその代わりに銅鉄を日本に持ち込んだということだ。北からの海流のせいで、朝鮮は米つくりには寒すぎる。温暖な気候と肥沃な土地を求めて海峡を渡るのはごく自然な成り行きだ。

九州の倭族は銅鉄の輸入にのため自国だけで足りない米を近隣の国々から手に入れ銅鉄を渡した。その国もまた隣国から米を得て銅鉄を渡す。こうして銅鉄は日本に広く広まったのである。銅鉄は米を買う通貨として流通していたとも言える。青銅は腐らないので、蓄財の手法にもなった。銅鐸が多数埋められていたりするのは権力者の蓄財だったのではないだろうか。この社会資本の蓄積が後に強力な統一国家を形成する条件となっていった

速やかな銅鉄の流通は、倭が海峡をまたいだ海峡国家であることで保障された。倭が海峡をまたいだ海峡国家であったと言うことは奇抜な発想と思われるかも知れないが、実は古文献を素直に読めば、倭は海峡国家だったことにならざるを得ない。

後漢書東夷傳には、「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」とある。「漢倭奴国王」と言う金印が志賀島で見つかったことで、この文言の信頼性は極めて高いものになった。

建武中元二年(AD57年)に「倭奴国」という国があり、漢の光武帝から金印を受けたことがわかる。倭奴(ヰド)国の位置は、金印が発見された北九州糸島半島付近であっただろう。この倭奴国を含んで、倭国という国のまとまりがあったこともわかる。金印だから、倭奴国が倭国全体の代表として認められたものだ。単なる倭国の分国であれば、金印ではなく銅印になったはずだ。倭奴国は、九州以外にありようがなく、ヤマト政権や記紀とのつながりをつけようがないので、議論からも軽視され続けてきたが、日本最初の代表国家は、邪馬台国ではなく倭奴国なのである。

この倭奴国は倭国全体から見れば、極南界すなわち一番南にある国だとも書いてある。また倭の位置に関する記述では「去其西北界拘邪韓國七千餘里」とあるから北の端は拘邪韓國である。そうすると、倭国というのは朝鮮半島の南部から海峡をまたいで、糸島半島に及ぶ領域だったと考えざるを得ない。倭国は海峡国家だったということになる。

倭が海峡国家であったということは、銅鏡の考古学とも一致する。北九州の古墳群から中国製の銅鏡が多く発見されているがこれは一世紀の漢代から始まっている。大きさも後代のものより小さい。重要なのは、同じものが朝鮮半島にも見られると言うことだ。後代の銅鏡は大和から多く出土するのだが、この時期、大和の遺跡には、まだ銅鏡は現れていない。これは、こういった中国製の鏡が海峡をまたいだ倭国によって保持されていたことを物語るものである。

朝鮮の記録も倭が海峡国家であったことに一致する。高句麗や新羅の歴史には倭の襲撃が何度も出てくる。これらの戦闘で注目すべきなのは海に追い払ったという記録がないことだ。倭は海から来るのではなく朝鮮半島に常駐する軍事勢力だったのである。北九州から絶えず食料と人員の補給を受けて常に戦力を保持していた。朝鮮半島の倭族の役割は金属材料を獲得することだったから、韓族と度々衝突することになったのも当然である。

魏誌倭人伝の描く三世紀には、倭国の中心は邪馬台国に移り、糸島半島に当たる部分は伊都国となっている。ここでも狗邪韓国倭国の一部という記述になっており、海峡国家の名残があるが、伊都国はもはや倭国の極南界ではない。倭国を取り仕切る女王の国はもっと南にあり、さらに南に奴国という強力な国があり、これは女王国と対立していた。邪馬台国がどこにあったかの議論が盛んに行われているが、これまでの経過を見れば、ここで急に邪馬台国を畿内に持ってくるのはいかにも唐突だ。

魏志倭人伝の景初2年(238年)の項には、邪馬台国の女王卑弥呼に親魏倭王の称号をさずけ、銅鏡100枚を与えたことが載っている。畿内を中心として大量に出土する三角縁神獣葡萄鏡がこれに当たるという議論があり、邪馬台国が畿内にあった根拠とされた。景初三年の銘が入った鏡があったことが大きな根拠となったが、出土する古墳は四世紀のものだから時代が違う。不純物同位体の分析から、古墳出土の鏡は国産であることがわかってきたのでこの議論は終わりつつある。

後代の銅鏡は広く分布しているが模様は地域によってすこしづつ違う。国内生鮮された鏡もやはり材料は中国・朝鮮のものだった。中国鏡も広く分布しているが、これも米との交換による流通があったったからだったと言える。大きく様相が変わったのは、砂鉄による鉄の国内生産が始まってからだ。銅も国内の鉱石から精錬されるようになった。もはや海峡国家の必然性もなくなり、これ以降、大和が日本の中心になって行くのである。

三世紀後半になると、大和では銅鐸が作られなくなった。銅鉄の流通を基礎とした小国家関係が失われたのであるから当然のことだ。替わって古墳を作ることが始まっていた。宗教と文化の大きな変革があり、それが経済発展と結びついていたことは確かだ。古墳文化になってからの発展は目覚しく、規模はどんどん大きくなっていった。その結果、大和地域の発展は、九州を凌駕するものになっていった。

任那日本府の謎

学校で教わった日本史の教科書には任那日本府が562年に滅びたということが出てきた。不思議なことに、ではいつ出来たかと言うことについては何も書いてなかった。

日本書紀の仲哀記には神功皇后の三韓征伐という記事があるが、魚が船を運んで新羅中央に飛び込んだら戦わずに新羅は降参してしまい、ついでに百済や高句麗も服属するようになったといった荒唐無稽な内容だ。仲哀天皇や神功皇后の実在自体が極めて疑わしいものだ。どうも任那日本府はこの時にできたと想定されているらしいのだが、まさかこれを史実とするわけにも行かないから教科書には出てこなかったのだ。

日本書紀はこれ以降、朝鮮三国が日本に朝貢する記事が何度も出てくる。しかし、これは全くあてにならない。何しろ中国(呉)まで日本に朝貢したことになっているくらいだ。朝貢は貢物を持って行って、見返りとして称号や文化知識、多大な恩賞をもらうのが目的だから、これらの先進国が日本に朝貢するわけもない。日本という国号を使いだしたのは天武期からだから、この時代に日本府などという名称そのものがあり得ない。日本書紀編集時の見栄から出た創作としか考えようがない。

しかし、朝鮮に関する記事が多いのは事実でありこれが何を意味するかは考えなくてはならない。日本と朝鮮は狭い海峡で区切られているだけなので古くから交流があった。魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の卑弥呼の記録も楽浪郡を通じての記事だ。249年に壱予が晋に朝貢したが、その後については、あてにならない日本書紀の記述以外に手掛かりがなく、413年に倭の五王の一人、賛が東晋に朝貢するまで記録は飛んでいる。

414年建造とされる好太王碑には400年と404年に二度にわたる倭との戦いが書いてあるが、日本の記録とは対応しない。よく議論される「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民 」という一文は、396年に百済を攻めた時の理由説明であり、倭との戦いではない。前述の三韓征伐も高句麗と戦ったとは書いてない。そもそも日本書紀には高句麗という国が出てこないのだ。替わりに出てくるのが高麗という国だが、高麗は10世紀に朝鮮全域を支配した国だ。この時代はおろか、日本書紀が書かれた時にもまだ存在しないはずだ。

日本書紀に高麗が現れる理由は少し複雑で、実は高句麗が520年ころに高麗と名を改めたらしい。10世紀の高麗は自らの出自を高句麗王朝と関連付けるためにこの名前を受け継いだものだ。魏書では518年まで高句麗で、梁書の520年記事が高麗の初出である。随書も591年記事からは高麗である。ヤマト王権は520年まで直接の接触がなく、高句麗を高麗としか認識しなかったのだろう。あるいは、記録がなかったので日本書紀の編者が当時の知識で創作したことの現れかもしれない。

好太王碑は当時のままの金石文が残っていたのだから一級資料ではあるが、事実が書いてあるというわけではない。百殘新羅舊是屬民というのがそもそもウソだ。百済との戦いは369年から始まり、371年には高句麗王が戦死するほどに百済が優勢だった。高句麗の属民であるはずがない。当然それに続く文も怪しい。まだ古墳時代が始まったばかりで、熊襲と国内戦を争っている倭に、新羅、百済の全域を支配するような軍事力を朝鮮に送れたとは到底思えない。倭が新羅・百済を臣民にしたというのは誇張表現だ。

当時の王碑というのは事実を書くのではなく、どれだけ大風呂敷を広げられるかを競うようなものだ。好太王碑は高句麗が最強であるという立場で書かれている。百済は、百残と書いて憎しみを露にする仇敵なのだが、実際には百済が優勢だったりする。劣った存在であるはずの百済が優勢だったことを釈明するために、その背後関係を持ち出さなくてはならない。そのために倭が持ち出されているように思われる。海を隔てた島に、政権があったことは認識されており、任那・加羅といった小国のくせにしぶとい国とも関係する不気味な存在ではあっただろう。

400年の戦争は、新羅に倭が侵入して助けを求めたとなっている。好太王は五万の兵を派遣して新羅救援を行った。これが高句麗・倭の大軍対決になったかというとそうではない。新羅に進軍したらウヨウヨいた倭人は任那加羅方面に逃げ去ったと言うだけである。倭が大軍を派遣していたとは読み取れない。隙をついて安羅軍が新羅の王都を占領してしまったと言うのだから、5万人の軍勢による制覇とは程遠い。その後の戦闘については語らずウヤムヤになってしまっている。結局、新羅と任那加羅安羅といった南岸諸国との争いに高句麗がちょっと介入してみたと言うだけのことだろう。任那が出てきて倭に寛容であったと読めるが、倭が支配していたとは書いてない。

404年の戦闘もおかしい。倭が帯方郡に侵入してきたと言うのだが、帯方郡に至るには百済を制圧しなければならない。しかるに百済は健在であり高句麗に服属していることになっている。百済と倭の戦闘は起こっていない。倭が百済を飛び越えて海路で帯方郡を攻撃するというバカなことも考えにくい。高句麗の大軍に匹敵する軍勢を一気に運ぶだけの船を調達するのは難しい。もし、任那に日本府があれば当然倭軍は任那に集結して進軍するだろう。

この時も高句麗は大軍を派遣して大勝利を収めたことになっているが、実際に戦闘があったかどうかは分からない。広開土王碑の立場は、高句麗が絶対優勢であるということを貫いており、不都合なことは、背後勢力のためとして、そのためにいつも倭が持ち出されているのだ。倭との実際の戦争は存在感がない。

日本側の資料も建前優先ということでは同じようなものである。日本書紀は三韓征伐以来、朝鮮半島の任那を領土として、新羅と対立していたという立場で書かれているが、継続的な役人の派遣は見られず、支配の実態に乏しい。唯一任那国司に派遣されたという吉備臣田狭は裏切って新羅についた。新羅征伐に派遣された葛城襲津彦も美女に惑わされて逆に加羅を討った。紀生磐宿禰は任那をわがものとして高句麗と結んだ。といった具合で、おかしなことに、出てくる人物がことごとくヤマト政権を裏切っている。

これらの人物はむしろ朝鮮半島でヤマト政権からは独立した存在だったと考えるほうが自然だ。生き残りのため百済についたり、新羅についたり、あるいは倭と結んだりする。好太王碑の文面も、倭が戦略を持って日本から進撃してきたというようには取れない。ちょっかいを出して追い払われるといったことを繰り返しているから、やはり朝鮮半島南部にいた倭種との抗争だろう。朝鮮の倭は日本と関係を持ってはいたが、ヤマト王権に属しているわけではなかった。ヤマト王権は朝鮮の領土にこだわりを見せているが、実体が伴っていない。

もう少し後の年代になってもやはり見栄的な記録が続く。ヤマト王権は継体期に6万の軍勢を朝鮮に送ったが、筑紫国造磐井は新羅から賄賂をもらって新羅討伐を妨害したというのだから国内戦を合わせるとあり得ない大軍になる。天智期の白村江の戦いには2万7千の大軍を送ったことになっているが、これもあり得ない。この直後に起こった王権をめぐる総力戦である壬申の乱でもせいぜい数千の衝突でしかない。795年になって藤原仲麻呂が新羅遠征を企てたことがあるが実現していない。遠征軍の派遣は8世紀末の生産力をもってしても困難な事業だったのである。

白村江の戦いが本当に、これほどまでの大軍を派遣しての敗戦なら国内的にも動揺があるはずだが、それは全く見られない。中大兄皇子は責任を問われず平然と即位している。次期を担う有力者であるはずの大海人皇子はまったく戦争に関与していないし、日本書紀の記述は他人事のような淡々としたものだ。

白村江の戦いで具体的な戦略立案をしているのは、朴市秦 田来津(えちはた の たくつ)という人物だが、不思議なことに19階の位階制度で、14番目の小山下という下役である。これもヤマトからの派遣ではなかっただろう。基本的には白村江も朝鮮半島内で争われた戦いだ。唐・新羅に朝鮮半島に残った倭種が鎮圧されてしまったということだろう。

日本書紀の記述にどれほどの信憑性があるのかはには注意が必要である。権力者が文字を使いだしてすぐに思いつく用途は国史の編纂である。だから文字自体はもっと前から伝わっていたとしても、紙や筆を手に入れて実際に使い始め、確実な記録が残るようになったのは、日本書紀が出来た直前頃だということになる。天武朝以前のことについては、言い伝えや憶測をもとにした創作でしかない。

ヤマト王権には朝鮮支配に対する強いこだわりがあったが、これは天皇家の出自が朝鮮半島にあったことを示すだけである。海峡国家に始まった倭の中心地は大和になっており、朝鮮半島の倭種との関係は希薄になって、もはや外国であったが、友好的だった任那・加羅などを願望を含めて建前上領土と記録したかっただけのものだと考えて良いだろう。確実な記録が残るようになって以降、朝鮮半島の領土といった記述は一切なくなるし、失地回復を目指すといった話も全く出てこない。農業以外に産業がない時代には朝鮮半島に領土を持つことに実利がなかったからである。

謎の4世紀を考えるーー騎馬民族の侵攻

歴史における日本の記録は、漢書東夷傳のAD57年にさかのぼることができる。九州北部に原初的な国が生まれ、それが発展して行ったことが魏志倭人伝で確認される。これらの国が海峡をまたいだ海峡国家であったことはすでに述べた。238年には邪馬台国の卑弥呼の記録がある。しかし、その後については手掛かりがなく、413年に倭王賛が東晋に朝貢するまで記録は飛んでいるのだ。空白となる4世紀に日本では極めて重大な変化があった。

すなわち、あれほど盛んに作られた銅鐸が突如としてなくなり、変わって巨大な古墳が出現する。それまであった周溝墓のように穴を掘って埋めるのではなく、高く盛り上げた山に横から入れるという異なる発想のものだ。古墳の副葬品は、それ以前には見られない馬具が増え、金冠など騎馬民族好みのものもあらわれる。宗教も文化もまったく違うことになったということだ。この大きな変化がどのようにして起こったかが4世紀の空白に隠されている。

4世紀が空白になったのは、三国時代を統一した晋が崩壊して以来、漢民族の王朝が南に後退し、華北は五胡十六国と言われる遊牧民族の支配するところとなってしまったからだ。4世紀は世界的な民族移動の時期である。ヨーロッパでもゲルマン民族の大移動があった。ゲルマン民族はヨーロッパ各地に侵入し、古代秩序を壊していくつもの国が生まれた。アジアでは匈奴・鮮卑に押された扶余族が朝鮮半島に南下していく大移動があった。

中国では匈奴、鮮卑といった胡族の侵入が古くからの問題で、秦の始皇帝はそのために万里の長城を作った。しかし、歴代王朝は遊牧民を排撃したばかりではなかった。遊牧民は機動性があり戦闘にはめっぽう強い。三国時代には強い兵士を求めて対立する各国は、積極的に遊牧民を招き入れもしたのだ。その結果、華北に入りこんだ騎馬民族が農耕民族を従える形で国を興すことになった。五胡十六国は、いわば軒先を貸して母屋を取られたようなものだ。

朝鮮半島から日本への民族の流れは、こういった4世紀の民族移動のもっと前から継続していた。気候が温暖で水が豊富な日本は農耕、取り分け米作に適している。江南から朝鮮半島に米作が伝わるとともに、それまでの粟、高粱といった作物から米作への転換が起こり、農耕に適した地を求めて海峡を渡ることが必然になった。朝鮮は米作には寒すぎる。最初に海を渡ったのは、朝鮮半島南岸にいた倭族であり、これが拘邪韓や邪馬台からなる海峡国家=倭国を形成した。

遅れて海を渡った韓族は、まだ倭族の支配が及んでいなかった辺境の地に進んで、ここに定住して弥生人と混血していった。出雲、大和といった地域だ。日本の金属文化はどこかに始まり、それが広がったのではなく、一斉に立ち上がっている。それはこうした辺境の地に韓族が入り込んでいったからである。日本ではすでに弥生時代の後期には稲作が始まっていたが、韓族が持ち込んだ金属器による優れた農耕で開拓が進み、とりわけ平地が多く水利の良い大和に大きな集落が生まれ出した。

大和や出雲に北九州を中心とする銅剣銅矛とは少し趣の異なる銅鐸文化が育っていったのはその担い手が異なったからだ。銅鐸の元になったとされる馬鐸は朝鮮でも倭族がいた南岸ではなく韓族がいた新羅地域に多く出土している。金属材料は中国から朝鮮を通して北九州さらに出雲・大和に米との交換で流通した。この銅鐸・銅矛共存の体制が4世紀まで続いていた。

4世紀の民族移動の影響は、朝鮮半島にも及んだ。ツングース系の騎馬民族である扶余が侵入し、戦闘力を買われて、支配者に重宝され、やがて支配者の地位を奪って行くということがここでも起こった。元来遊牧民は定住せず、狩猟を基本とした生活をしていたが、騎馬の機動性を用いて農耕民の村落を略奪するようになっていった。略奪を定期化して税と称して定住すれば、それで国家が成立する。

帯方郡を破壊して高句麗を打ち立て、太白山脈の東では新羅、西では百済といった国を作った。もちろん、半島南部の倭種地域にも侵入したが、海峡国家である倭の主部は北九州にあったから、そこにとどまらず海峡を渡った。

北九州にも騎馬民族文化の影響がみられる遺跡がある。しかし、日本で騎馬民族を積極的に受け入れたのは北九州の倭族ではなく、むしろ畿内の韓族・弥生人集団だ。蝦夷との抗争が避けられず騎馬民族の戦闘力が有用だったからだ。北九州には倭国の強固な基盤があったから、支配権を得にくかったから畿内に向かったのかもしれない。銅鐸文化を持った農耕民族に、騎馬民族的な活力を与えることで、古墳文化を生み出していった。それが瞬く間に日本全土に広がったのは騎馬民族の戦闘性にもあるが、やはり経済的には、鉄の生産にあっただろう。砂鉄から鉄器を作ることが始まりこれが、周りを圧倒して行った。

日本書紀にこういった騎馬民族侵入の片鱗を見るとすれば、それは応神朝になる。応神天皇は北九州に生まれ、畿内で実権を振るったが、両親と言われる仲哀天皇も神効皇后も実在性が薄い。日本書紀は応神天皇が西から騎馬民族を率いて大和にやってきた人物であることを物語っている。これは、神武東征のモデルとも重なる。ホムダワケから始まる河内のワケ王朝は何から別れたかと言えば、それは扶余族本流から別れ出たものと言うことになる。

鉄の国産化で朝鮮半島からの金属供給を軸にした小国家群の共存関係は崩れ、大和が強力になって行く。北九州の海峡国家の隆盛は、金属流通の意味を失って衰退していかざるをえない。海峡をまたいだ交流は薄れ次第に朝鮮半島の倭族は日本から切り離されて行く事になる。任那・伽那はこういった人々が騎馬民族と混血して立てた国である。

ヤマト王権は、渡来した騎馬民族が土着の農耕民族を支配する形で生まれてきたのだから、扶余族系の政権だったことになる。機動性に富み、各地へ影響を広げていった。出雲や九州の国々も大和に従うようになっていったが、海峡国家の半島部分は、取り残された。

日本書紀は朝鮮半島を支配していたかのように書いているが、その実質は見えない。朝鮮はもはや外国ではあったが、大和政権にとっては出自の地であるから、こだわりだけが残っていたに過ぎない。はっきりと朝鮮が外国になるのは、新羅が唐と組んで任那地域をも含んだ支配を確立させた時からである。任那日本府の滅亡・白村江の敗戦と記録しているが、朝鮮半島南部にあった倭種的な国が消滅したと言う事である。

ヤマト王権の成立は七世紀

考古学的検討と中国文献から、日本の古代は、海峡国家から北九州へと発展したことがわかる。これは「古代の日本は海峡国家」で書いた。そうすると、卑弥呼の邪馬台国が九州にあったことも確実ではあるが、ここからヤマト王権による統一国家への過程がまだ解明されていない。九州王朝説では「磐井の乱」がヤマトの制覇であるとしているし、「壬申の乱」が王朝交代だと言う説もある。

しかし、二王朝の対決といった構図を確認するにはには、あまりにも痕跡が少ない。これが邪馬台国九州説の弱点だと言える。武器の発達も十分ではないし、文字がなくては統制のとれた軍事組織も作れない。この時代の戦争は、小競り合いの連続のようなものにならざるを得ない。決着には長い年月がかかり、したがって大きな痕跡が残るはずだ。二大王朝の対決には無理がある。

僕は日本の王権が王朝などと言える確固としたものになるのはもっと後代のことだと考えている。小国の分立が続いたが、これらの小国は時には争いもしただろうが、基本的には共存が続いた。これは銅鉄の流通があったことから演繹される。それが、徐々に1つの王朝にまとまっていったのである。この時期を日本書紀は随分と昔にすり替えているが、実際には6世紀なのだと考える。

砂鉄を使った鉄の精錬が始まり、金属が国産化されると、海峡国家の必然性が失せていった。大きな平野があり水源の得やすい畿内の生産力が高まっていったのは当然だろう。古墳文化が発展し、九州をしのぐようになっていったが、どちらもまだ王朝と呼べるような強固なものではなく、したがって対決的な大戦争は起きない。古墳は大和に多いが、実は全国各地に分布している。大規模古墳も備前に多かったりするので、ヤマト王権が全国を支配していたことを示すものではない。この当時の王権がどのようなものであったかは、万葉集からもうかがえる。

万葉集の一番目の歌:


籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも


籠(かご)よ 美しい籠を持ち 箆(ヘラ)よ 美しい箆を手に持ち この丘で菜を摘む乙女よ きみはどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? この、そらみつ大和の国は、すべて僕が治めているんだよ 僕こそ名乗ろう 家柄も名も


これが本当に雄略天皇の歌であるかどうかは疑問があるのだが、天皇が一人で畑に出かけ、女の子に声をかけている。大和全域を治めているのは自分であると自己紹介しなければならない。5世紀の王権とはこの程度のものだったのだ。

日本書紀の592年には蘇我馬子が崇峻天皇を殺害した記事があるが、特に大事件にはなっていない。後には全国を支配し、特別な家系とされる天皇家ではあるが、この時点ではまだ数ある有力豪族のひとつにすぎず。たまには部族間の争いで殺されることもあったことになる。6世紀の王権はまだこんなものだった。

日本書紀は8世紀になって書かれたものであるから、崇峻を天皇などとしており、馬子は家臣ということになっているが、実際にはヤマトにいくつもの部族があり、そのうちの有力なものが大王と名乗ったに過ぎない。万世一系は日本書紀がこれらを結び付けた後付けのつながりである。だからあちこちに齟齬が生まれる。

九州にも大和にも小国が分立し、有力なものが大王を名乗ったりしながら、徐々に、富を集中させたヤマトに政権を収斂させて行った。この過程を合理化するためのストーリーが形作られ神話となっていった。出雲の豪族に配慮して国産みの神話を作り、九州の部族とは、神武東征でつながりをつけ、最終的には日本書紀という形で統一国家への合意をしていったのである。

日本書紀はある意味で、各部族が合意した統一国家への合併協定である。もちろんこの間、違った歴史を主張する部族もあったが、それは強制的に統合された。日本書紀が編纂される少し前708年の大赦で禁書を所持していたものは大赦の対象から外すという記事がある。書記とは異なる歴史書もあり、異論を唱えて「挾藏禁書」の罪に問われた人が実際にいたということだ。これも6世紀にはまだ単一王権による支配は完成していないことを示す根拠である。

各地の部族が折り合いを付けて、ヤマト王権を統一国家の王権と認めるようになったのは日本書紀の編纂される少し前、天武がヤマト族の覇者となり、初めて天皇を名乗り出した頃と言うことになるから7世紀である。神話で使われた手法は当然、後代にも使われただろう。日本書紀がすべてフィクションだというわけではない。文字が使われ出してからは断片的な記録はあったはずだ。しかし、そのつなぎ合わせが作為の結果だ。継体を五代の皇孫としたり、天武を天智の弟としたりしたのがそれにあたる。

ヤマト王権は4世紀から徐々に発展し、九州や出雲と折り合いをつけて、次第に全国に政権合意を広めていった。その完成は実に7世紀、日本書紀完成の直前である。具体的で詳細な記述に惑わされてはならない。もとになった記録から取ったものであっても、そのつなぎ合わせは政治的合意によるものであり、大王を血縁関係で結んだのは創作である。

古代日本の様子

日本が初めて歴史に登場したのは、1世紀に書かれた漢書地理誌である。まだ弥生時代であり、稲作も始まってはいたが食物採集の補助程度で、餓死は日常であり、天候が良ければ人口が増え、悪ければ減るという時代だ。働かないで暮らす大王や大勢の役人を養う生産力はないから、統一国家とかは考えられもしない。せいぜいの所いくつかの邑を支配する酋長がいたにすぎない。それでも、中には朝鮮半島に使いする酋長がいたので、「楽浪海中に倭人あり、100余国を為す」と書かれている。

2世紀の後漢書になると「永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う」とあり、倭国王を自称する者も出てきたが、支配領域は小さなものだっただろう。やはり弥生時代で、国家組織が生まれていたとは考えられない。貢ぎものとしては、奴隷以外になかった。「帥升」が歴史上最初の日本人の名前だ。そのほかにも30国が使いを出していた。

3世紀には魏志倭人伝がある。魏志倭人伝といえば、邪馬台国までの経路・距離が専ら論議されるが、それだけでなく、日本の風俗もいろいろと記述している。正始元年(240年)、魏が北朝鮮に置いた出先機関である帯方郡の太守は、梯儁(ていしゅん)を派遣して倭奴に詔書・印綬をさずけた。伝聞ではなく、梯儁自身の見聞を記述したものと見ることができるからかなり信頼が置けるものだ。

帯方郡から見て、日本列島の有力な国の一つが邪馬台国であった。女王卑弥呼が支配し、一大卒を派遣して巡察行政をさせていたことがわかる。温暖で、冬も夏も・生(野)菜を食する。とあり、海南島と似た気候のように書いてあるが、多分朝鮮経由で来ると日本を非常に暖かいと感じたのだろう。海流の関係で朝鮮は日本よりかなり寒い。身分制が整い、上下の別がはっきりしていた。犯罪率は低く、刑罰は奴隷化と死刑と厳しかった。海に潜って魚や貝を採るのが得意で、大人も子どもも、みんな顔に刺青をしており、刺青の仕方は色々で身分階級で異なる。

一夫多妻制で妻が3,4人いるが、風俗は淫らではない。冠はかぶらず鉢巻をする。服は縫わず結ぶだけの単衣だというから、「神代」の服装とは大分イメージが異なる。婦人は真ん中に穴を開けてかぶる貫頭衣、化粧品として朱丹(赤い顔料)をその身体に塗っている。まだ靴はなく、裸足で歩いていた。文字はなく、縄の結び目などで記録していた。3世紀は日本書紀で言えば神効皇后の時代だが、もし皇后・息長足姫が実在したならば、顔に刺青をして、赤い顔料を塗りたくり、布に穴を開けて被った裸足のお姉さんということになる。全体としては、かなり未開な様子であるが、そのとおりだったにちがいない。

こういった生活の様子は日本の記録には現れない。当事者は、当たり前のことを書く必要性を持たないのだが外国人は珍しく感じる。明治の初期の様子を書いたイザベラ・バードは、日本人の女性が歯を黒く染めた奇怪な化粧をしていることや、乳房をあらわにして街を歩いていることなどを書いているがこれは事実だ。ついでに証言しておくと、昭和30年代でも。腰巻だけで夕涼みをしている婆さんをよく見かけた。

衣類は主として麻だったようで、紵麻(からむし)で麻布を作っていると書いてある。このころすでに養蚕が行われており、絹織物を作っているとも書いてある。牛、馬、羊などはおらず、牧畜はやっていない。もちろん兵隊はおり、矛・楯・木弓をもちいていた。木弓は下がみじかく、上が長くなっているという後代の和弓と同じものだ。矢は竹製で、矢じりは骨とか鉄だったとあるから、鉄器も使用されていたことがわかる。

外交関係はかなり活発で、記録も具体的だ。卑弥呼が魏に使いを出したのは、景初二(三)年だが、そのときの正使は「難升米(なしめ)」副使は「都市牛利(としごり)」と名前も記録されている。倭からの貢物は、男生口(どれい)四人、女生口六人、班布二匹二丈であるからたいしたものではない。布一匹は大体2人分の着物を作るだけの分量だ。まだ生産力も低く、これといった特産物も無かったのだろう。これに対して魏からの返礼は凄い。

絳地(あつぎぬ)の交竜錦(二頭の竜を配した錦の織物)五匹
絳地の粟(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張
絳(せんこう:あかね色のつむぎ)五十匹
紺青(紺青色の織物)五十匹
これに加えて、遠路はるばる来たことを讃えて特別プレゼントを与えている。
紺地の句文錦(くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦の織物)三匹
細班華(さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわした毛織物)五張
白絹(もようのない白い絹織物)五十匹
五尺刀二口
銅鏡百枚
真珠五十斤
鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)五十斤
おそらく当時の倭国の国家予算を超えるようなものだっただろう。臣下の礼を取り、朝貢したくなるのも尤もなことだ。正始四年にも使いは来ており、このときは「伊声耆(いせいき)」「掖邪狗(ややこ)」ら8人だった。
朝貢したのは、邪馬台国だけではない。一応は邪馬台国に従属していたかも知れないが、狗奴国などは、独自の外交を行っている。邪馬台国は日本にいくつもあった国の一つに過ぎなかった。狗奴国の男王「卑弥弓呼」も帯方郡に使者を送り、正始八年の太守報告報告には、「載斯(さし)」・「烏越(あお)」という使者同士が互いに争ったことが書いてある。

帯方郡としては、「張政」を日本に送り、「難升米」を説得して調停しようとした。しかし、張政が日本に着いた時には、卑弥呼は亡くなっており、盛大な葬儀が行われていた。100人もの女官を殉死させて、径百余歩の墓を作った。男王が立ったが諸侯の納得が得られず、壱与(13歳)に卑弥呼の後を継がせてやっと決着がついた。「張政」の帰路に「掖邪狗」ら20人が壱与の使いとして付いて来た。このときの具物は

男女生口三十人
白珠五千(枚) 真珠?
孔青大句(勾)珠(まがたま)二枚
異文雑錦(異国のもようのある錦織)二十匹
で、少し生産力が高まっているとも見受けられる。「卑弥呼」「卑弥弓呼」「難升米」「都市牛利」「載斯」「烏越」「伊声耆」「掖邪狗」と8人もの具体的な人名が出てくるし、中国との交流もなかなか盛んで具体的な事実も残されている。しかし、日本の記録には、一切の片鱗が認められない。この時代と日本書紀の時代とには、明らかな断絶がある。
倭の様子を記述した文章が7世紀の隋書でも見られる。魏志を下敷きにしているから、同じような記述もあるのだが、仔細に見ると、倭国の状況が変わっていることがわかる。遣隋使の答礼使として来日した裴世淸の報告によるものだ。7世紀末には、漆塗りの沓が生まれていた。仏教が普及していることも書かれている。80戸毎に「伊尼翼(いなき)」を置き、10の伊尼翼が「軍尼(くに)」になるといった行政機構も生まれている。服装も男は筒袖の上着と袴のようなものを着ており、衣服は縫われるようになった。鉢巻はやめて貴人は金銀の冠をするようになった。女性は縁取りのついたスカート「裳」を着ている。酒を飲んだり博打をしたりする者も観察しているし、盟神探湯(くがたち)といった裁判風習も見ている。中国の歴史書は、こういった変化も記録しているのだ。

中国の歴史書によれば古代日本の様子が見えるのだが、これは日本書紀が描く日本の姿とはかなり異なる。日本書紀では、すでに4世紀ころから、立派な着物を着て、威風堂々とした政権が存在したことになっていろのだ。日本書紀を読む場合には、粉飾に注意しなければならない。

文字使用の始まり

日本に文字文化が生まれたのはいつごろのことだろうか。日本書紀では、応神天皇の15年(285年)に百済から王仁が『論語』と『千字文』をもたらしたのが公式な漢字の伝来となっている。古事記的に120年ずらせば405年だが、これを信じるとそれ以前の時代にも詳細な記述があることと矛盾する。実際はもっと早いと言うのが大方の見方だ。

だが、僕はもっと遅いと見ている。読み書きすなわち文字文化の普及に筆と紙は不可欠だ。木簡や粘土に刻み込みでは長い文章はありえない。その意味でもいくら早くとも5世紀以後であると考えるのは順当なことだ。

文字だけについていえば、三世紀の銅鏡にも見られるが、字画の左右が反転したり、記号的なものと混用されたり、単なる模様として使われていることが明らかなものがある。文字が文字として機能していなかったことがわかる。卑弥呼は魏に使いを送ったが文書は携えていなかった。魏志倭人伝は使者の尋問記録である。

倭の五王(413-502)は朝貢に文字を使ったと考えられるが、おそらく丸投げして渡来人に書いてもらったのだろう。中国風の名を名乗っているのは、まだ日本には文字で書き表した名前がなかったからだ。天皇のいわゆる和風諡号は記紀の執筆の時に生み出されたもので、こんな長たらしい名前が文字を使わず伝わっていたとは思われない。「みこと」などという語尾も「尊」「命」といった文字に依存し、文字の無い時代には無かったのである。

倭の五王に限らず、卑弥呼や難升米といった名前も現代の感覚からすると随分変わった名前だ。日本語自体が文字の導入で大きく変わったはずだから、当然名前についても文字使用以後とは異なる。

稲荷山古墳出土鉄剣に115文字の象嵌があったことから、471年には、ある程度の文字使用があったことは事実と認められる。しかし、656年に書かれた隋書には、「文字なく、ただ木を刻み縄を結ぶのみ」と書かれているから、隋代(581年 - 618年)初期にもまだ日本に文字は普及していなかっただろう。

記紀を古文として文語体で読み下しているが、文語体自体が文字が使われ出してから発明されたものだ。文字使用が始まる前の日本語は口語だけのはずだが、それがどのようなものであったかも今では定かではない。

少しづつ広まっていった文字の使用は、読み手書き手の数が一定整ったある時点で爆発的に使われだす。文字の普及は、国家機構の形成と同時進行するのである。それ以前には、いかなる命令も声の届く範囲に限られていたし、口約束だけで物事を決めなければならなかったから、族長の支配はあっても国家と言えるような組織ではあり得ない。

遣隋使は国書を携えて海を渡ったからこの時には文字が使われるようになっていた。推古朝、聖徳太子の時代だ。仏教が伝来し、飛鳥に寺院などが建てられた頃になる。この時代でさえ、多利思北孤といった奇妙な名前が自らの署名として中国に伝わっているからまだ過渡期だ。聖徳太子などといった漢文調の名前も記紀編纂時代に作られたものだろう。

無文字文化から文字文化への変化、すなわち文字使用が始まり、文語体の日本語が形成され、日本に国家が形成されたのは、倭の五王以降で、遣隋使以前すなわち600年頃だと思われる。

国家に至るまでには、その準備期として、何代かの政権交代や権力統合があったはずだが、その経過が文字で記録されることはなかった。文字によらない口承や記憶はあやふやなものである。現代でも、自分の祖々父が何をしていたかを聞いている人がどれだけいるだろうか。

記紀の記述で事実と確認できる最古のものは、推古28年(618年)のハレー彗星だが、これは現代の天文軌道計算と一致する。前代未聞の大事件として記録されているが、ハレー彗星はその80年前にも地球に接近したはずだ。当時の人がだれもそのことを知らなかったというのだから、何の記録もなく、口承も伝わっていなかったと言うことを示している。

記紀を読み解く前提として、いつから文字の使用が始まったかが大きな論点のはずだが、それについて論じたものは少ない。記紀はまるで昔から文字があったかのように装って読み手をたぶらかしていることに注意する必要がある。

古事記と日本書紀のなり立ち

記紀の成り立ちを考える前提として文字の使用がいつ始まったかが重要であるが、これに言及する人は少ない。文字を獲得した国家が最初にやることは自らの正当性を担保する歴史の編纂である。記紀以前にも何らかの書物があったかもしれないが、そう古いものではなかったはずだ。政権は長期にわたって勝手な歴史記述を許したりしない。

656年に書かれた隋書には、「文字なく、ただ木を刻み縄を結ぶのみ」と書かれているから、鉄剣に文字が刻まれたりはしたが、記録手段として実用的に用いられはしていなかっただろう。しかし、推古期には何らかの記録があった。推古28年(620年)12月朔の夜「天に赤き気(しるし)があり、長さ1丈あまり、 形は雉(きじ)の尾に似たり」という記述はハレー彗星の接近で軌道計算と一致するし、628(推古36年4月10日)の日食記事も正しい。

逆に考えれば、日食や彗星はそれ以前にもあったはずだが、これが最古の記録と言うことは、それまで記録の手立てがなかったことをも示している。文字による記録はこの頃始まったと推定される。ただし、書紀の推古・舒明はβ群に属し、後から天武記の記述と共に全面的に書き改められたものだから、内容的には当時の記録をそのまま反映したものだと認めるわけには行かない。

断片的な記録としては雄略期にさかのぼることもあり得る。日本書紀が巻14の雄略記から書き始められていることは、近年の文体研究ではっきりしたと言える。それ以前の部分がβ群であり、雄略記はα群に属す。これまでも、雄略記は古い儀鳳暦を使い、その前の部分が逆に新しい儀鳳暦になっていることや、巻13に巻14の引用があったりすることから、日本書紀は雄略記から書きだされたとは言われてはいた。

日本書紀の執筆が雄略記から始められた理由は、想像でつなぎ合わせたものであったにせよ、それがおそらく当時さかのぼることのできる最古の伝承だったからだろう。それ以前はまったく資料がなく書きようがなかったのである。神代から雄略までは、β群として、後代に政治的に付け加えられた完全な創作神話であると考えるべきだ。

日本書紀によれば、歴史書編纂は681年に天武天皇のもとで開始された。川島皇子・忍壁皇子を筆頭に大臣級の編集委員を定め、中臣連大島と平群臣子首を執筆担当者に指定して始まった。しかし、当然、資料不足だから順調には進まなかった。持統天皇の代、691年には、18氏に対して、氏族の墓記を提出させている。各氏族はそれぞれに先祖の業績を伝えていたからだろう。それらは、互いに矛盾する内容になっていたであろうし、まとめるどころか、更なる混乱に陥ったにちがいない。

その後、歴史編簿がどうなったかの記事は日本書紀にはない。続日本紀には720年の記事として、舎人親王が歴史書の完成を報告したことが書いてある。30巻物であるから、これが現在伝わる日本書紀であることは間違いない。39年を費やしたことになる。39年というのは、、天武天皇から命ぜられた人々が、そのまま完成させたと考えるには長すぎる年月だ。

続日本紀には、713年に諸国の風土記を撰進させたことが書いてあり、714年には紀清人と三宅藤麻呂に国史を撰する旨の詔が下されている。紀清人は五位の下級貴族、三宅藤麻呂は七位の下役人である。下役人の名が歴史書に出てくるのは珍しい。この二人が編集の実務担当者であった。八世紀になって仕切り直しで新たな編纂が始まったことになる。これが720年の史書完成につながった。

史書は一つではなく、もう一つ古事記がある。古事記の方は、その成り立ちを序文に書いており、やはり天武天皇が命じたのが発端であるとしていて、712年元明天皇の時に、稗田阿礼が「誦習」していたものを、太安万侶が校閲して四ヶ月で完成した。歌謡なども入れて物語風になっている。書紀よりも八年早く完成したことになる。大筋では両者の記述は、似たようなものだが、表現には大きな違いがあり、言葉使いはことごとく違うと言っても良い。

この二書の関係が大きな謎である。国史編纂を同じ時期に二つも命じるというようなことが、あり得るのだろうか。八年前に完成していたはずの古事記に、日本書紀は全く言及していない。続日本紀にも古事記に関する記事は全く出てこない。古事記の編纂については、序文で語られているだけで、他に一切の歴史記録がないのである。

こういったことから、古事記偽書説というのが古くからあり、賀茂真淵が言い出している。日本書紀には九世紀の写本があるし、完成直後から宮中での講義が行われているのに対して、古事記の写本は一番古い真福寺本が1320年であり、完成から600年後のものだ。完成から百年も経ってから弘仁私記に初めてその存在が記述された。百年もの間、読まれた形跡がないのだ。

古事記の序文というのは内容的には上表文になっており、用命天皇にこの書物を献上した経緯が書いてある。四字句や六字句を多用する華麗な文体(四六駢儷体)であるが、これは、文選などをお手本にしている。最後を「誠惶誠恐、頓首頓首」で結んでいるが、これは進律疏表にある唐の儀礼言葉で、日本では平安時代に用いられたのだから、712年ではおかしい。

こういったことが、古事記は後世に書かれた偽書ではないのかと疑われた理由だ。しかし、だれが何のために上中下三巻の大作の偽書を作ったのかが理解できない。筋書きとしては、日本書紀とほとんど同じであり、何か別の事を伝えようというものではないからだ。稗田阿礼とか他の文書には出てこない怪しげな人物の口承であるとか、五位の下級貴族に過ぎない太安万侶が著者だということも、国家事業らしからぬ経緯だ。しかし、太安万侶の墓碑が見つかり、編者の実在性が確認されるに及んで、偽書説は勢いがなくなっている。

決定的なのは、上代特殊仮名遣いである。古くは日本語に八種の母音があったことが知られているが、これは徐々に消えて行き、現代の五母音になった。音の違いで漢字を使い分けることが行われたが、古事記本文は、日本書紀よりもはっきりと使い分けが行われており、特に「モ」に二種あることがわかった。古事記のほうが、古い文章でなければならない。序文だけは、後から付け加えられたものであると考えるしかない。

(1)古事記本文、(2)日本書紀α群、(3)日本書紀β群、(4)古事記序文というのが執筆の順序ということになる。同時代に二つの歴史書が進行したという矛盾を解決する解釈として、古事記は日本書紀編集の途上で書かれた下書き、あるいは草稿であった考えるのが妥当だ。

歴史の書き出しは世界の創生から始まるのだが、各氏族にはそれぞれの信仰や伝承があり、一致することは難しい。政権は氏族連合であり、お互いの思惑や利害を協議しながらの執筆には時間がかかる。下書きのようなものをまとめて行ったのが古事記の原型である。その事務局を担ったのが五位太安万侶と稗田阿礼だった。実際の文章は呉音表記に長けた百済人などを動員した。

神話の調整に手間取る間にも、文字の普及は進み、様々な記録が生み出されるようになってきた。統一見解を急がねばならない。継体期の混乱を隠し天皇の正当性を確保するために、ある程度資料もある巻14雄略記から先行して書きだすことになった。漢音表記の編年体など正史としての体裁も取り入れた。紀清人と三宅藤麻呂を新たな事務局として任命し、続守言、薩弘恪など白村江から連行した唐人に漢音表記で文章を書かせた。これが日本書紀のα群である。

α群の著述と並行して進められてきた神話部分の調整がまとまり、太安万侶たちの事務局から草案が示された。単なる草案であったのだが、これが後世古事記として世に出ることになった。万世一系で神から天皇へ続けることや、出雲系の神話も取り入れた構成にすることなどを議論し、神武天皇のあと欠史八代でつなぎ、神功皇后を卑弥呼に対応させるなどの基本的事項は承認された。武烈以降が系譜のみになっているのは、すでに日本書紀のα群で記述がなされているからである。

しかし、この草稿は古い呉音表記のものだったし、編年がなく正史としての体裁を欠いていた。だからそのままでなく、この草稿を取り入れ、天皇をさらに神格化して新たな体裁で書き直されたのが日本書紀のβ部分である。同じプロジェクトの内部での下書きなのだから、もちろん引用文献には挙げられない。草稿自体は事務局の太安万侶が保持することになった。

安万侶が下書きを保持しており、それが子孫に伝わっていった。百年後、弘仁年間に行われた歴史講義で博士を務めた多人長は安万侶の子孫である。講義の中で古事記を持ち出したことが弘仁私記に載っている。古事記に序文を付けて世に広めたのは多氏である。多人長は太安万侶が日本書紀の編集にも携わったと紹介している。家伝の書に箔をつけることが必要だったのだ。決して嘘をついたわけではない。用命天皇に下書きが提出されたことは事実だろう。

こうして日本には、記紀二つの初期歴史書が残ることになった。しかし、この影響は日本書紀の編年にも現れてしまった。中国の歴史書を見れば、紀元前にも歴史が及び、漢の時代なのに日本では天照大神ではいかにも信用が薄い。古事記で14代は名前まで決めてしまったから、天皇の数を増やすわけにも行かず、当時でも不自然であるとの懸念はあったが、寿命を引き伸ばすしかなくなったのである。神と人間の中間にある存在だから、平均在位60年の寿命も合理的と解釈したのであろう。

神武天皇の即位を辛酉年としたのは偶然だ。当時入手できるようになった暦法を引き延ばした年代にあてはめて行った結果である。干支は60で繰り返すことを元に日本書紀の年代から実年代への換算を試みている人もいるが、引き伸ばしが先にあって年代を後付けして行ったのだから無理だろう。月齢を表記してしまっているから、60年ずらすことは実際上出来ない。

世に言う讖緯説は、記紀編纂当時誰も知らなかった。辛酉革命の原典も中国文献に見出せず、900年頃になってから三善清行が作り上げた俗説である可能性が高い。三善清行の讖緯説は逆に神武即位を論拠にしているから、もし、神武即位が、辛亥であれば、辛亥革命説になっていた代物である。政争の強敵、菅原道真を追い落とすための手段だったに過ぎない。雄略以前は何の根拠もない創作神話なのである。

古代日本の政変と疫病

医薬の知識が全くなかった時代には病気に対して「おまじない」しか打つ手はなかった。伝染病の被害はことさら大きなものであっただろう。しかし、伝染病はどこからか病原菌が伝わってこなければ蔓延しない。実は原始時代には伝染病は多くなかったのではないかとも思われるのである。

一番古い伝染病は結核で、弥生人の人骨からもカリエスが見いだされる。しかし、縄文人にはこれが見えない。結核は移住してきた弥生人が持ち込んだものだ。伝染病が流行するには条件があり、必ずしも病原体がありさえすれば広がるものではない。結核の発生が多くなったのは、産業革命で劣悪な環境の中での長時間労働に人口が集中したことによるものだ。青空のもと野外で農作業に従事する限り、結核が重大な伝染脅威になることはなかった。

咳逆つまりインフルエンザは渡り鳥が運ぶから、どこへでも飛んでいく。日本にも古くからあったに違いない。日本書紀にも疫病のことは早い時代から何度も出てくる。病名は特定できないが、インフルエンザであったことは十分考えられる。

赤痢が文献に出てくるのは、三代実録の貞観三年(861年)であるが、それ以前から痢というから消化器系の病気で、中に死に至るものがあったからこれは赤痢だろう。上下水道が十分でなかったから、都市に人口が集中すれば当然のごとく発生する。そのため遷都が必要になった。しかし、一気に全国に広まり、人口を左右するような爆発的流行は起こらなかった。

人口を減らすような大流行は14世紀の黒死病(ペスト)が知られている。世界人口を4億5000万人から3億5000万人にまで減少させたほどだが、これはネズミを保菌者としてノミが媒介するものだった。中国に始まり、ヨーロッパで爆発的に増殖して世界中に広がった。しかし、日本は流行を免れた。日本に繁殖していたのはヒトノミであり、ネズミとヒトの両方に寄生するケオプスネズミノミが日本にはいなかったからである。

人から人への空気伝染の場合、動物の生態とはかかわりなく、防ぎようもない広がりを見せる。伝染経路としては国際交流がその発端になる。新たな伝染病がもたらされた場合、免疫が皆無だから爆発的な流行になる。南米のアステカ文明が滅びたのもスペイン人が持ち込んだ痘瘡(天然痘)による人口減少が寄与している。

日本でも、最初に起こった危機的大流行は痘瘡(天然痘)によるものである。それまであった風土病的な伝染病や結核では、爆発的な流行は起こらない。インフルエンザも繰り返されてある程度の免疫下地が形成されている。しかし痘瘡に対する免疫は皆無だった。朝鮮との交流が増えて、仏教伝来と時を同じくして痘瘡が持ち込まれ、日本最初の疫病大流行となった。

『日本書紀』敏達天皇十四年(585年)の記事がによれば、膿疱(できもの)が出来て死ぬものが充ち満ちた(發瘡死者充盈於國)。身を焼かれ打ち砕かれたようになり泣きわめいて死んで行く(身、如被燒被打被摧 啼泣而死)という症状の重さを持った膿疱であることと、致死率の高さからこれは痘瘡であると推定されるのである。

これをめぐって、古来神をあがめず仏教などというものを取り入れるからだとする物部氏と、仏像を焼いたりしたから疫病が流行るのだとする蘇我氏の対立となった。大和政権の成立期における一大政争は痘瘡に起因しているのだ。

奈良時代、735年にも大流行があった。流行は九州から始まり(大宰府言。管内諸國疫瘡大發)夏から冬にかけて豌豆瘡(わんずかさ)が流行り、死者を多く出して(自夏至冬。天下患豌豆瘡[俗曰裳瘡]夭死者多)賦役を免除しなければならなかった(五穀不饒。宜免今年田租)と続日本紀は書いている。豆のように盛り上がった瘡だから痘瘡であることに間違いないだろう。一般には裳瘡(もかさ)とも言われていた。

2年後の737年にも再び九州から疫病が流行して農民の多数が死んだ(大宰管内諸国。疫瘡時行。百姓多死)。このときは流行が各地に広がり、平城京でも皇族や政治の実権を握っていた藤原四兄弟が相次いで死ぬという大惨事になった。橘諸兄による政権への移行という転換をもたらした。大流行の2年後には免疫が残っているから、同じ流行が繰り返されるとは考えにくい。疫瘡と言うだけで、豌豆瘡という言葉は使われていないから、これは症状がよく似た麻疹(はしか)であったと考えられる。成人の麻疹は重症化して死亡することも多い。

疫瘡の大流行は平安時代995年にもあって、赤斑瘡(あかもがさ)と表現されている。盛り上がるよりも赤く広がるという特徴に合致するから麻疹である。この時も政権中枢の大混乱をきたした。中納言以上の上達部14人の内8人が死んで藤原道長が一気に政権を握るきっかけとなった。

痘瘡の方が致死率が高く、治ったとしても「あばた面」が残る。麻疹は幼少の時にかかれば軽く済むことも多い。こんなこともあって、痘瘡が最も恐れられた疫病であった。痘瘡には二度かからないことが知られており、軽く患ることで重症を逃れようとする試みはあったが、人痘接種による予防は致死率20%ほどもある危険なものだった。日本でも緒方春朔が試みたりしている。

人間には発症しない牛痘を使って疑似的な毒素で免疫を発現させるという画期的なアイデアで種痘を開発したのはジェンナーであるが、王立学会には認められず、1798年に「牛痘の原因と効果についての研究」を自費出版してこれが普及した。歴史を左右するほどの大病を安全に予防できるようになったと言うのは驚異的な出来事である。1823年に来日したシーボルトによってこの知識は伝えられたが、実際に摂取されたのは1849年にドイツ人医師モーニッケによるものが最初である。痘瘡への関心は非常に高かったから日本での種痘は急速に広まった。日本では1955年以来発生を見ていない。

いまでこそ痘瘡は絶滅した病気だが、日本史においては何度も歴史を動かす決定的な要因として働いたのである。

小野妹子の行き先

聖徳太子が607年に小野妹子を隋に送った、遣隋使がわが国外交の始まりであると教科書にあり、少年達はこれを信じて年号を覚えたりもした。遣隋使を歴史的事実と考える根拠は日本書紀の記述なのだが、実は日本書紀にも遣隋使のことは一言も書いてない。

どう書いてあるかと言えば、小野妹子は「遣唐使」と書いてあるのだ。607年にまだ唐の国は無く、隋の時代だからということでこれを勝手に遣隋使と読み変えた本居宣長の解釈が今も引き継がれている。

日本書紀が編集されたのは、遣隋使よりも100年経ってからなのだが、その目的は姉妹書である古事記の前書きにあるように「いろんな俗説があって万世一系の歴史が正しく伝わっておらず、これを正す」ためであった。それまでにも「日本旧記」などいくつかの歴史書があったのだが日本書紀によって「統一」された。

だから目的に合わない所は容赦なく書き換えられた。編者は隋のことを知らなかったのではない「隋書」もよく読みこんだあとが見られる。隋が滅びて唐に変わったなどという易姓革命の思想が万世一系の皇国史観に不都合なので、唐は昔から万世一系唐であったという立場で貫いたのだ。4回出てくる遣隋使の記述は全て大唐に派遣されたことになっている。日本書紀を書いた頃には、もう当時の人は生きていない。好きなように書いても文句は言われなかったのだろう。

遣隋使以前にも中国との交流はあった。魏志に卑弥呼が載っていることを考慮して神功皇后の統治を書いた。倭の五王が朝貢もしていがこれは完全に無視している。別の系統の政権なのか、ともかくもその時代の記録は大和朝廷にはなかったようだ。大和政権にはナショナリズムが芽生えており、中国に対して臣下の礼を取る姿勢を持たなかった。だから五王の取り扱いに困ったあげくに無視することにしたのだろう。実効的には大和朝廷としては遣隋使が初めての外交ということになる。

中国側にも遣隋使の記録はあるが、こちらは当然、日本が辺境の東夷であり野蛮な民族であると言う立場で書いてある。隋書にも倭の使節の記録が4回出て来るが日本書紀とは符号しない。最初の600年のものは日本書記にまったく記述が無く、2回目の607年が日本書紀の一回目と合致する。答礼使裴世清を送り返してきた608年の3回目のあと610年の帝記にも記述があるが、日本書紀にはなく、「その後遂に絶えぬ」とそれ以降になる622年の遣隋使をも否定している。

隋書は50年後に書かれた物だから日本書紀の記事より同時代性は高い。中国には帝記、起居注の記録を残す伝統があるし、言い伝えなら50年後と100年後では随分違うだろう。日本を蛮族と見る偏見は考慮しても、裴世清が日本に行って来て、報告もしたわけだから、日本の様子等についての信頼性は高い。日本書紀の編者も隋書を読みこんで、それに合わせた記述をしたはずだ。607年の記事も隋書に合わせて書いた創作の可能性さえある。なにしろ隋を唐とさえ書くくらいだ。

日本書紀が無視した第一回の遣隋使の記録を見てみよう。尋問記録だから倭王の事を聞かれてオオキミと答えた。日本では偉い人を名前で呼ばない。この地位の根源は天孫アマタリシヒコなのだが、これを隋では姓が阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雉彌と捉えた。王妃は倭語でキミ(后)になるし王子はワカミタフリである。源氏物語に出てくる「わかんとおり」の語源だろう。

政情を聞かれて「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けざる時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねる」とわけのわからないことを口にした。おそらく倭王は天と日を兄弟とするような大人物で、朝は夜明け前から仏道修行に励み、夜が明けたなら現実世界の諸事を取り仕切るというような事を言いたかったのかもしれないが、結果は「此太無義理」でたしなめられて終わった。

風俗としても刺青が多く、文字は無いし、貫頭衣のような原始的な衣類となれば、100年後の大国日本としては芳しい記事ではないので無視したのだろう。倭王が男だったと読めることが問題になっているが、720年代の常識ではオオキミは大王でも大后でも構わない。法隆寺薬師如来光背の銘文では推古天皇(女帝)を大王と書いている。無視して後世問題になる記事ではないと判断しただろう。

第二回の記事は608年でこれが遣隋使の最初とされているが中国側から見れば二番煎じで印象が薄いし、日本側にも、ただ「行った」と言うだけでしかない。小野妹子は蘇因高という中国名まで持って達者に渡り合ったとしているが中国側の記録には全く登場しない。小野妹子が隋煬帝に謁見しておれば書が与えられたはずだが、日本書紀は百済人に盗まれて無くなったと書いている。おそらく面会は出来なかったのだろう。

持って行った国書は、「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」といった空気の読めない内容で叱られてしまい、面会に至らなかったのだ。後世、国威発揚の名文として持ち上げられたりしているが、他にも匈奴が出した「天所立匈奴大単于、敬問皇帝、無恙...」といった文例も多くあり、特に尊大な文章ではない。文自体に問題はないのだが隋の皇帝にしか使ってはいけない天子という語を使ってしまったのが間違いと言うことになる。日本書紀の編者もこれを国威発揚とは受け取らずむしろ文法の間違いとして恥じたのだろう。国書のことは、意外と思われるかも知れないが、日本書紀に一切書いてない。

この使節の重要なところは文林郎の裴世清を答礼使として倭国に派遣させたことだ。高句麗に手を焼いていた隋としては高句麗の背後を脅かす倭には興味がそそられただろう。608年裴世清の来日は飛鳥寺の丈六光背の銘文からも確認できる。中国からの使者が来たことで大歓迎した様子が日本書紀にも隋書にも述べられている。日本書紀には「裴世清親持書。両度再拝、言上使旨而立之」と書いてあるがこれはウソだろう。隋の使節が東夷の族長に最敬礼することはあり得ない。逆に天皇が再拝して書状を受け取るのが隋の「礼」である。後に訪日した唐使高表仁は天皇に礼を守らせられずに国書を渡さずそのまま帰っている。裴世清が大歓迎を受け、満足して帰ったということは、隋使に対して天皇が「礼」をつくした事になる。

ともあれ、隋から使いまで来たのに気を良くして608年には大訪問団を送った。これは3回目になるが、高向玄理や僧旻といった後に政界で活躍する人物が同行しているから日本書紀としても重要であった。しかし隋から見れば裴世清を送るのに大勢で来たとしか受け取られなかった。裴世清の報告以上の記事は無い。

日本書紀には犬上三田鍬たちの第4回がかかれているが隋では「この後、遂に途絶えた。」と無視されてしまっている。特に新奇なことがなかったからだろう。その後に送られた遣唐使は国名を日本と名乗り、明らかに唐に対して臣下ではないとの矜持を持って接しており、過去の倭の五王の臣下の礼とは縁を切る姿勢が見られる。あるいは倭の五王の政権とは関係のない新しい政権だったかもしれない。遣隋使はその中間の部分であり、名前だけでなく中身も遣唐使的に脚色されている存在なのだ。

水時計は何故四段仕掛けなのか

当然ながら大昔には時計がなかった。人々は明るくなれば起きて働き、夜になれば寝 ればいいのだからそんなものは必要もない。しかし、律令国家なるものが出来て役人が生まれると、一日に何度 も会議やプレゼンが必要となり、時刻を知る必要が生じてしまった。多くの国々では国家の成立以前から日時計 が使われていたが、エジプト等と違って日本は湿気が多い。日時計が実用になるのは一年の3分の一もないから 実際に使われることもなかった。

だから日本の最初の時計は水時計である。時刻は人為的に作られたのである。日本書紀の660年に中大兄皇 子が初めて漏刻つまり水時計を作ったと記されている。逆に言えばそれまでの国家というのは会議もろくにやら ない、いい加減なものであったということだ。時刻を定めるということは国として成り立つための最低条件でも あった。

その漏刻というものがどのようなものであったかというとき必ず出てくるのが上の図の様なものである。もち ろん日本書記に図解はない。これは唐の呂才という人が書いた書物に出てくるだけで現存しているものでもない 。中国文化の輸入に熱心だった大和朝廷はどうせこのような当時の最新技術を取り入れたに違いないと言う推定 でしかない。飛鳥水落遺跡は石作りで周りには水堀が張り巡らされているから呂才の水時計と関係があるとも思 われない。四段式は後述するように座敷に置いて特に大量の水がいらないことがポイントなのだ。

四段式水時計には高度な技術がいる。普通に上の容器から下の容器に水を落とせば、流れは一定ではない。流 量は上の水位の平方根に比例するのだから、始めは多く流れてだんだんと流れは小さくなる。これでは比例で時 間を計る訳にはいかない。

高低差が滝のように大きくて、水量豊富であれば、上の容器を絶えずあふれさせて水位が一定になるようにす ることが出来る。飛鳥水落遺跡はあるいはこのようなものだったかもしれない。しかし、これは地形が限られて おり、山の中にでも作らないことには難しい。時計が必要とされるのは、全く反対の場所、役所の中、屋内であ る。

そこで工夫されたのは、上の容器の上にさらに容器をつなぎ、水位を一定に保つ仕掛けだ。呂才の漏刻は4段 式で上から「夜人池」「日人池」「平壷」「萬分壷」とあって最後に「水海」に注ぎ込まれた水量が時間に比例 するようになっている。各段の間はサイフォンで結ばれているから、水位が下がれば高低差が増えて流量が増え るというフィードバックメカニズムが働く。これならどこの座敷にでも置ける。

ィードバックが働くかどうかをシミュレーションで計算してみたのが左の図である。図をクリックすると拡大で きる。「夜人池」に水位100cmまで入れた水がカラになるまで30時間の各段の水位がプロットしてある。 各段の高低差は50cmにしてある。「日人池」「平壷」の水位は変動するが「萬分壷」の水位は一定に保たれ 、その結果、「水海」の水位はほぼ完全な直線で増加している。「萬分壷」の水位誤差は0.5%以下である。

流量は高低差の平方根でしか変化しないからフィードバックのゲインは高くない。だから段数の多いほうが誤 差が少ないということになるが、3段でやってみると約4%になった。2段では20%にもなる。4%では積み 重なって数分の違いになるから四段との差がある。0.5%以下は当時としては較正のしようもなくこれ以上の 精度は無理だっただろう。五段にしても、水温など他の要素の誤差のほうが大きくなるから全体の精度は上がら ない。だから水時計は四段式なのである。

和気清麻呂

戦前の歴史教育では、道鏡の悪企みを打ち破り、萬世一系の天皇家を守った忠臣として和気清麻呂の名は欠かすことのできないものだった。具体的にどうやって守ったかというと、「血縁のないものは天皇になれない」という八幡神の「お告げ」を、迫害を恐れず正直に伝えたと言うことであるから、この話自体が神話でしかない。宇佐八幡宮神託事件と言われるものであるが、これでは歴史として扱い様がないから戦後の歴史教科書には名前も出てこない。

しかし、和気清麻呂という人物が実在し、神話的な業績が伝えられるほど大きな働きがあったこともまた事実の反映だろうと思われる。続日本紀には宇佐神宮の神託以外にも何度か和気清麻呂が出てくる。

もともと和気の一族は備前磐梨郡あるいは藤野郡あたりの地方豪族だった。その元をたどれば、おそらく製鉄技術を持って大陸から渡来した一族だっただろう。渡来系として知られる秦氏と近く、また先祖神に鐸石別命とか稚鐸石別命といった石にちなんだ名前が出てくることから推察される。藤野郡の地方豪族は七世紀になって大和族の支配が全国に及ぶとこれに従属して地方官となって行った。国司は中央から派遣されるが、郡司は土着の豪族に与えられた地位である。平城京が出来て律令制が整って来ると地方官はその子女を釆女あるいは衛士として都に送ることが義務付けられた。磐梨別乎麻呂の娘、広虫とその弟清麻呂が都に出仕したのは七五〇年頃のことだ。

大和の国は豪族の連合体から天皇家を中心とする統一国家への変貌を見せており、行政を担当する官僚の出現が必要だった。それまでは、蘇我、物部といった有力豪族の連合体で出来ていた政権を大和朝廷が単独で支配するようになり、独自の政策を、有力部族に頼らずとも隅々まで行き渡らせることが出来る機構が生まれていた。しかし、そういった機構の実質は権力を持った有力者が握り、政争が繰り返されることになった。藤原不比等長屋王、藤原四兄弟、橘諸兄、そして藤原仲麻呂と、目まぐるしい政権の変遷があった。奈良時代というのは皇位をめぐって大和族内での争いが絶えず、血を血で洗う内紛の連続だった。十七条憲法も律令も、下々に与えられた法であり、天皇や有力者を規制する条項は何も無いのだから止むを得ない。

清麻呂が出仕して登用されたのは兵衛という警備担当の下級職で従八位下の位階だったはずだ。年季があければ国に帰ることも出来たのだが、姉弟は都に残った。文書が巧みだったので、おそらく当番表の作成とか見回り計画の設定とかの、計画管理の手腕を認められたのだろう。当時、読み書きのできる人はそう多くなかった。文章力、企画力が評価され、七六五年には従六位になっている。従六位は少佐であり、衛士から番長、少志、大志、少尉、大尉を経なければならない。四年に一度の進級試験があったのだが、全部合格したとしても本来ならここまでで二〇年かかるはずだ。それを一五年で駆け上がったのだから異例の出世ではある。中国の制度をまねていたが、科挙ほど厳格なものではなかったようだ。高官の師弟でないものは、清麻呂のように従八位から試験で進級しなければならなかったのだが、高官の師弟はもっと上位から始められる隠位の制があり、地位は世襲的側面も含まれていた。

清麻呂の場合も、孝謙天皇のお側付きとなった姉広虫の引きがあったことは十分伺える。女官の場合、位階を世襲できないのだが、試験制度はなく、気に入られれば役割りに合わせて位階が上がり、弟への配慮を天皇に頼むことも出来たはずだ。孝謙天皇も、藤原仲麻呂の傀儡から離脱し、自分なりの政治を進めるために子飼いの官僚を必要としていた。藤原仲麻呂の乱があって、その後の混乱を治めるには有能な官僚が役立ったから、このときの貢献も大きかったと思われる。それまで藤野別真人清麻呂などと呼ばれていたはずだが、このころから和気宿禰清麻呂を名乗るようになっている。

孝謙天皇は女帝であり、草壁皇子の皇統を次代に引き継ぐ使命を帯びて即位したのだが、未婚で自分には子孫がおらず、見通しが立たなかった。相次ぐ内紛・粛清で継承権者も枯渇し、天武系列は自滅しかかっていた。血を血で洗う抗争にも疲れ、仏教への傾斜を強めていたところに現れた道鏡を重んじるようになった。藤原仲麻呂の指図で淳仁天皇に譲位をして上皇となっていたが、これにも不満を持っていたのだろう。仲麻呂を追放して自ら重祚して称徳天皇に返り咲いた。しかし、皇太子を選任できない状況は変わらず、皇位承継への展望を失った称徳天皇は、日本をチベットのような祭政一致の仏教国として行くことを思いついた。

一方で留学生や識者の間では唐に習った専制国家としていく方向が模索されていた。世襲権力を無色の官僚が支えて行くという形態だ。宗教国家か専制国家か、この分岐点に立ち、祭政一致の実現を拒否する矢面に立ったのが清麻呂だったのではないだろうか。

称徳天皇自身は仏教に帰衣し、天皇でありながら道鏡を師とする出家の身であった。しかし、国全体としては、チベットのようには宗教化しておらず、皇位をめぐって、新たな政争の元になるのは明らかだった。抵抗が強く、そう簡単に宗教国家に進むことは出来ない。「道鏡を皇位につければ天下泰平」と言う宇佐八幡宮の神託というのは、これを進めるための方策の一つだっただろう。この神託を確認する任務が清麻呂に与えられた。この出発を前に、清麻呂は従五位下に進級し、貴族の中に入ることになった。六位までは地下と言われる一般人である。広虫は常に天皇の身辺にあったし、孝謙上皇とともに出家したりしている。称徳天皇は清麻呂を協力者とみなしていたように思われる。

宇佐八幡宮の神託を確かめに行けとは、どういうことだったのだろうか。宇佐に行っても八幡神に会えるわけがない。巫女の口から出てくる言葉は同じはずだ。称徳天皇は、清麻呂の報告を皇位禅譲に官僚たちを同意させる儀式として演出するつもりだったのではないだろうか。清麻呂は出発までにかなりの時間を取っている。この間、周囲の官僚たちとの議論を繰り返し、重大な結論を出したに違いない。なにくわぬ顔で出発して、八幡神のお告げとしての報告で、祭政一致路線を挫折させたのである。

八幡神と対話してきたなどといい加減なことを言うな、とはいえない。対話を命じたのは天皇なのである。自らの策略を逆手に取られた称徳天皇の怒りを買い、清麻呂は大隈に流された。この時の称徳天皇の宣命は、感情的な怒りに満ちたものであり、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)、別部広虫売などと改名させたりもしている。しかし、抵抗の大きさを思い知らされ、祭政一致自体はあきらめざるを得なかった。やがて称徳天皇の死去で、祭政一致路線は自滅した。日本にはそれほどに根付いた宗教基盤がなかったから所詮無理な体制だったと言うことだろう。称徳天皇が後継者を決められなかったことから、皇統は天智系の光仁天皇に移った。

清麻呂は中央に復活する。しかし、天皇家を守った功労者という評価が当時からあったわけではなさそうだ。従五位に戻されたが、十年後の七八一年、桓武天皇が即位して、従四位下に進級するまで官位は据え置かれている。道鏡も下野薬師寺別当に左遷はされたが、処罰されたわけでもなく、道鏡事件の真相については謎が残る。とりわけ、最初に神託を持ち込んだ習宜阿曾麻呂がその後多島守そして日向守に栄転していることなどは、事件そのものが道鏡追い落としのために仕組まれた罠だったという説を生み出している。

桓武天皇は母親が渡来氏族であったため、皇位継承者とは見なされず、大学頭などの官職についており、清麻呂とは同僚といった関係にあった。父親の白壁王が光仁天皇となり、皇后井上内親王が廃されることで、予期せず即位することになってしまった。陪臣が必要となった桓武天皇は、かねてその力量を知っていた清麻呂を登用することにした。

桓武天皇の信任を得た高官としての、清麻呂の活躍はむしろここから始まる。播磨・備前の国司となり行政手腕を発揮した。具体的に何を整備したかは記録が明らかでないが、藤野郡は和気郡と改められたのだから、多いに功労があったのだろう。

七八六年には従四位上で摂津太夫・民部卿となり、神崎川と淀川を直結させる工事を達成した。奈良の都は大和川の堆積が進み、下流の河内湖へ淀川水系の水が流入することによる氾濫が日常的となっていた。淀川水系の水を大阪湾に流すことで、大和川の逆流を防いだのだが、同時に淀川水系を使った物流路を作ることにもなり、後の長岡京、平安京の造営への布石ともなった。

七八八年には、上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうとしたがこれは失敗している。九〇〇年後、中甚兵衛の新大和川工事が行われたのと同じルートであるから目の付け所は良かったが、当時の技術に台地の岩盤は固すぎたのである。しかし、むしろ延べ二三万人を投じた大工事撤収の手際よさに着目すべきだろう。こういった工事は、政策担当者の意地で長引いて、政権の崩壊要因となったりするのが普通だからだ。清麻呂の見極めは的確だった。あくまでも冷静な計画判断力が発揮できる人物だったのだ。

奈良仏教の悪弊も有り、部族政治の呪縛が続くだけでなく、流水事情が悪くなった奈良は疫病にも悩んでいた。なんらかの解決策が必要であり、その一つとして、長岡京への遷都が検討されていた。淀川の物流も使えるようになり、難波宮の資材を長岡京の造営に再利用するといったアイデアも清麻呂が提案したものだと言われている。こうした長岡京造営への実務上の効労が桓武天皇の信頼を高めていった。

河川工事で学んだことは大きく、これをもとに長岡京の建設を中止して平安京の造営を建議した。平安京は桂川と賀茂川に挟まれ、さらに南には淀川の大きな水流があるので都の中に縦横に流水を巡らすことができる。これなら、大きな人口が張り付いても、疫病に対策に悩むこともないだろう。七九三年には自ら造営太夫となり建設計画を推進し七九四年に平安遷都にこぎつけた。和気朝臣清麻呂の位階も従三位になった。これは皇族でない官僚としては最高位だと言える。

それまでの政治というのは、すべからく権力闘争であり軍事だった。それ以外で功労を挙げた人はいなかったと言っても良い。和気清麻呂には民政という新しい分野を切り拓いたとという独創性がある。最下位から最高位まで民政功労で昇った事跡が後日の神話的な伝説を生み出したのだろう。

備前磐梨から中央政界に踊り出て、世襲貴族の仲間入りをしたかに見えた和気氏も、平安京で藤原氏の天下となってからは、政治的には、あまり出番がなかった。しかし技術的・学術的伝統を保持した家系となり、医学薬学を担当するようになって行った。代々典薬頭などを勤めている。和気種成の「大医習業一巻」が和気医道の集大成だろう。その後、もう一つの医道家系である丹波氏と合流して半井を名乗るようになり、明治になるまで半井医道が将軍家御用、和漢医学の中心であった。本家は半井になって、江戸に移ったが、傍系の和気氏も畿内の医道系で続いたようだ。江戸時代の百科事典「和漢三才図会」の序文は京都の和気仲安が書いている。

現在「和気」という姓は全国に600位あり、畿内全域に少しと、あとは岡山、愛媛、栃木に集中的に存在している。畿内の和気氏は、おそらく半井から外れた傍系の子孫だろう。愛媛の和気氏は讃岐国那珂郡の因支首(いなぎ・おびと)が八六六年に和気公の姓を賜ったことによるもので、清麻呂とは別系統になる。清麻呂が都で初めて和気を名乗ったのであるから、清麻呂が備前の出身であったにせよ、もともと岡山に和気を名乗る一族があったわけではない。岡山県和気郡には和気町もあるが、ここには「和気」を名乗る人はいない。

しかし、清麻呂の系統から、平安末期に武士となり、備中で帰農した一族があり、寛永年間に児島湾の干拓を始めた和気與左衛門が知られている。児島湾は当事、倉敷。松島村あたりまで入り込んでいた。弟の六右衛門清照は備中高松城付近に広がっていた沼地の干拓を行った。岡山の和気氏は彼らの子孫と考えられ、松島村と高松村にその系図が残っている。

栃木県の和気氏は「ワキ」と読み、塩谷郡の高原山麓に分布している。玉生村に系図があるが、これによれば清麻呂の子孫、典薬頭和気葉家が、「罪なくして下野国塩谷郡に流さる」ということが栃木和気氏の祖ということである。代々高原山神社の神官を務めているので、親族だけでなく、氏子へも苗字分けして広まったかも知れない。現在栃木県が「和気」姓の最も多い県となっている。

遣唐使の憂鬱

古来交易は多くの利益を生み、人々の冒険心をかきたてた。フェニキア人は帆船を駆使して地中海を渡ったし、アラビア人は隊商を組んでシルクロードを踏破した。ところが、古代の日本ではそのような貿易文化は生れなかった。朝鮮半島や中国大陸との行き来はあったのだが大きな発展に結びつかなかったのだ。

おそらく、日本は小さいながらも、当時必要なものは何でもある豊かな土地だったからだろう。水が豊富でどこでも米が取れたし、木炭の材料には事欠かなかった。海は近くてどこでも魚は取れた。衣類は麻から作れたし、木綿もすぐに自給できるようになった。鉄や銅でさえ当時の精錬技術からすれば十分な産出があった。

これは中国も同じで、ヨーロッパと異なり、ことさら貿易に頼ることがなかったので、統治の都合上鎖国が基本的な政策となった。強大な中国は中華思想から周辺諸国を隷属させて当たり前であり、交易は国家間の朝貢ということで行われた。中国の天子の徳を慕って貢物を持ってくる蛮族に、多大な褒賞を与えるのが朝貢貿易の形だ。中国は権威を高めることが出来るし、蛮族の方は大きな利益を得られる。

それなりに交易の恩恵があり、日本でも新しい文化にあこがれて遣唐使はなり手が多かったのではないかと思われるのだが、実はまったくそうではない。遣唐使の場合、どうも派遣をいやがることが多かったようだ。天平宝字5年の遣唐使、石上宅嗣は紆余曲折のあげく結局辞退した。宝亀8年の大使、佐伯今毛人は羅生門まで出かけたところで動かなくなってしまった。承和元年の副使、小野篁は仮病を使ってまで逃げようとして罰せられた

遣唐使に選ばれるのを嫌がった大きな理由は航海の危険性にある。まったく無傷で往復する例はないくらい危険の大きいものだった。そもそも、嵐の多い9月に南シナ海に乗り出すのが無謀なのだが、正式使節は1月1日の朝義の礼に参列しなければならないのだから仕方が無い。中国に到着さえすれば国賓待遇なのはいいのだが、だからこそ早く行き過ぎると正式使節だとの説明が難しくなる。一番遭難しやすい時期を選んで出かけるのだから危険この上ない。

航海が困難だっただけでなく、正使に与えられた任務はまともに考えれば達成不可能なものだからたまったものではない。遣唐使の時代の日本は、もはや倭国ではなく、強烈なナショナリズムが支配していた。天孫降臨の神国日本と言う定式化が日本書紀でなされ、日本は世界の中心であるという思想が公式に採用されてしまっていた。これは唐の中華思想と完全に矛盾する。

日本が世界の中心であるなどと言うことが対外的に通用するはずもないのだが、遣唐使にはそれが背負わされた。唐に行って堂々と神国日本を主張するのが当然という風潮だ。しかし、現実には難破船と変わらぬ状態で唐土にたどり着くのがやっとだ。流民だと疑われるのも当然の状態だが、唐の地方役人の取調べを受けて、なんとか誰も知らない日本という国からの使節だと釈明しなければならない。

下手をすれば地方に留め置かれ任務は果たせない。何百人もの一行全員が長安に行きたがるのだが大抵人数制限を受けるから、この交渉も大変だ。長安にたどり着くことが出来たとしても、長安には各国から使節が朝貢に来ており、その中で日本をアピールするのは並大抵ではない。日本が大国だと証明するものなど何もない。唐の皇帝に会見できるかどうかはひとえに大使の才覚にかかっている。大使には容姿端麗であることが必須とされた位だ。空気が読めない唐の皇帝への尊大な国書を持たされていることも気が重い。なんとか会見できたとしても、席次が新羅より下にされたりしたら大変だ。実際、席次では毎回もめた。

唐はもちろん中華思想に凝り固まっている。周辺諸国は天子の徳を慕って朝貢し、臣下の礼を取って皇帝にま見える。礼を欠いては会見すら難しい。平身低頭、土下座したりしてなんとか機嫌を取る必要がある。しかし、帰国すれば、対等もしくは日本が上位であるかの報告をせねばならない。小野妹子は隋からの国書を旅の途中で盗まれたなどと言ってごまかした。随員の多い後世の遣唐使ではそうも行かない。下手な国書を持って帰れば内地でぬくぬくと過ごす官僚たちからの叱責は免れない。唐からの国書は結局1つも記録に残っていない。

大体、遣唐使に選ばれるのは、相応の身分まで出世した人が条件になる。唐の皇帝に対して失礼にならない配慮だ。さらに教養高く容姿などでも日本が高貴な国であることをアピールできなければならない。そういった人は日本におれば元々出世が約束されているようなものだから何も命がけで冒険をする意味がないのだ。

日本と唐の根本的な位置づけの違いから、日本から見て、まともな成果は得られるはずもない。そんなことがわかっていて遣唐使に選ばれるのは政敵による陰謀としか考えられないのだ。だから遣唐使は憂鬱な日々を送る。菅原道真の建議で遣唐使が廃止されて平安貴族たちは一様に胸をなでおろしたことだろう。

讖緯説と古代天皇の寿命

日本書紀が記述する古代の天皇は、いずれもやたら長生きしている。神武天皇は、一二七歳まで生きたとされるし、十五代応神天皇まで百歳以上が続出していることになる。この不自然さには、誰でも疑問を持つから、これを讖緯説で説明することが古くから行われている。讖緯説とは中国の漢代の末から盛んになった思想で、歴史や政治上の変革を占星術や暦学の知識によって解釈し予言しようとする説である。

明治の初めにこれを言い出したのは、那珂通世であり、神武天皇の即位日が太陽暦の二月十一日であることを算出したことで知られる歴史家だ。那珂通世によれば、干支が一巡する六〇年を一元とし、二一元を一蔀(ぼう)として、一元ごとの辛酉の年や甲子の年には変革がおこり、さらに一蔀すなわち一二六〇年ごとに国家に大変革がおとずれるというのが讖緯説である。神武天皇の即位は、国家の始まりであるから、この一二六〇年ごとの辛酉の年でなければならないからということで、日本書紀の記述は、時間を引き伸ばさざるを得なかったというのだ。

この説が広く通説のごとく受け入れられているようだ。日本書紀の一年を半年に読み替えたり、あるいは記事のない年を省いたりして編年を再生しようという試みが、今もいろいろとなされている。しかし、讖緯説は周期を定めるだけで、絶対年代を定めるものではない。基準となる革命があって、そこから一二六〇年を神武即位としたということになる。

一体何を基準にしての一二六〇年なのかというと、当然それは六〇一年となるが、この年には特に大きな事は起こっていない。推古天皇が即位して九年目に斑鳩宮を建立した年である。ころころと都が変わる時代に、斑鳩遷都がそんなにも大きな国家の変革であったのかというところで、この説に疑問が生じる。一二〇年後の日本書紀が書かれた頃から見れば、この他にも大事件はいっぱいあった。こんなものを基準にして国の始まりを規定するのは、どう考えてもおかしいことになる。

讖緯説の基準年がおかしいということの原因の一つは、那珂通世の誤解にあるとも言われている。讖緯暦運説というのは、もう少し複雑である。陰陽五行に基づき、日食、月食、地震などの天変地異又は緯書によって運命を予測する。先秦時代から起こり漢代から盛行した。鄭玄(一二七―二〇〇)が集大成したといわれる。原文は失われているのだが、三善清行の『革命勘文』(九〇一年醍醐天皇に献納)には鄭玄の引用と思われる文が残っている。

「鄭玄曰く、天道は遠からず、三五にして変ず。六甲を一元と為す。四六、二六交相乗ず。七元に三変あり。三七相乗じ、二十一元を一蔀(ぼう)と為す。合わせて千三百二十年」とある。よくわからないような計算だが、結論は、一二六〇年ではなく、一三二〇年が周期である。

那珂通世は、「二十一元を一蔀と為す」だけを取り出して、当てはめを行った。だから何でもない普通の年を、辛酉革命の基準にしなければならないなどという変なことになった。では一三二〇年周期で考えると、基準になる年がいつかと言えば六六一年天智天皇が非公式に即位(称制)した年になる。正式な即位は六六四年だ。このほうが少し大事件ではあるが、革命が起きたといえば、四年前の六四五年大化の改新のほうが、大々的に詔勅も出していて、それにふさわしい。だから、この根拠もやはり釈然としない。

原典が読めないので、定かではないが、「四六、二六交相乗ず」は四元、二元が交互に変となると読め、これだと、最初の七元で変は三回ではあるが六元周期で、「三七相乗じ」とする理由がない。「三五にして変ず」は干支か一五巡する一八〇年の周期と理解できるらしいのだが、これとの重なりをとれば、七二〇年周期となる。二巡で一四四〇年だから、一三二〇年には合致しようがない。那珂通世が単純化して、「二十一元を一蔀と為す」だけを取り出しのは、こういう事情からだろう。そもそも、讖緯説は天下世界を対象とした宇宙の原理でなくてはならず、日本だけを対象とした地域によって異なる基準年を導入するなどと言うことはありえない。

鄭玄の原典が存在しない理由は、魏以降は、排斥されて禁書になったからだ。易姓革命によって王朝の交代を正当化する物騒な学説なので、安定な政権運営に、大変都合の悪いものだった。実際、新の王莽は、これを利用して漢から政権を簒奪したし、謀反合理化に度々使われた。そのため、儒教からも異端とされたり、偽書と規定されたりもした。ただし、革命が唱えられたことは事実であるが、それに周期性があったり、辛酉年に起こるなどという事を記述する文献は、実は残っていない。禁書で消滅したものかどうかはわからない。

日本では、九〇一年に好事家の三善清行が、讖緯説をほじくりだし、改元を上奏したのがその始まりである。本当の革命が起こらないように、改元して厄逃れをしようと言うのがその主旨だ。それ以来、辛酉年には改元が行われるのが定着したが、逆に言えば、この上奏があるまで、讖緯説は普及していなかったということになる。それ以前には、改元も行われていない。辛酉年に大変が起こったことを列挙して、論証したのだが、この時、神武即位が辛酉年であることに気がついて、根拠のひとつにした。しかし、辛酉年に注目しただけで、蔀による大革命には触れていない。三善清行の目的はライバルである菅原道真を追い落とすために、噂として流した道真たちの挙動を、革命を意図するものだと強調することにあった。辛酉が意識されればそれで良かったのだ。そのためか実例として挙げている歴史事項の統一性がなく、讖緯説の論証としては、ちぐはぐなことになっている。

禁書にされたような考えが、早い時期にしっかりと日本に伝わるとも思えない。日本書紀が書かれた七二〇年頃に、日本で讖緯説が常識的な寿命を無視するほど強く信奉されていたと考えるわけにはいかないだろう。異常に長い寿命の根源を讖緯説に求めるには無理がある。禁書にされたとは言え、実際に讖緯説が定着していたならば、後の中国にもその片鱗があるはずだが、実は、辛酉革命説は日本以外でまったく確認されないのだ。三善清行の創作でしかないとも考えられる。そうすると、讖緯説などとは関係なく、ただ単に適当に年代を引き伸ばしただけということになる。もし、神武即位が壬申に当たっておれば、壬申革命説が持ち出されたことだろう。

日本書紀の成立史が、この問題では大きなヒントになる。森博達氏の研究によると、α群に属する日本書紀記述の第一期は、二一代雄略天皇から始まっていたのだが、ここでは資料に基づき、人間としての天皇の寿命を記述した。歴史を書くという意識が貫かれていたのである。第一期がここから始まったということは、それ以前の資料がなかったということになる。

それ以前を付け足した第二期執筆では、歴史としては書けない部分に足を踏み入れた。神代とそれにつながる天皇の系譜が主題である。資料と呼べるものはなく、言い伝えに創作を継ぎ足した記述にならざるを得ない。この問題に先鞭をつけたのは古事記だ。古事記は、編年体ではなく、年代をあまり意識せずに記述が進んだ。応神以前に15代もあれば、神とつながってもおかしくない、十分に昔のこととして描ける。しかし、日本書紀は本格的な歴史書としての体裁を取った。中国の歴史書には紀元前の記述もあり、普通に考える15代前では、神代として不具合になることがわかった。いまさら天皇の人数を増やすわけにも行かないので、日本書紀では、寿命を引き伸ばしたのだ。

当時の考え方としては、寿命が長くなることは、そう不合理ではなかった。天孫降臨で、天皇は神の末裔であるというのが根本的な考え方であり、神は永遠のものでなくてはならない。神へとつながりを持たせなければならないから、当時の人にとっても神話であった一五代応神天皇以前については、当然寿命は長くなる。病気は「たたり」だとか不純なものの結果であると考えられていたので、人間であったとしても、神に選ばれて国を治めた過去の偉大な天皇の寿命が短くあってはならないことは、いわば常識だっただろう。そうすることによって、魏書にある卑弥呼の部分を、神功皇后に匂わすことも出来て、一石二鳥だったとも考えられる。

紀元前六六〇年、明らかに弥生時代の、まだ大きな集落や、ましては国と言えるものが存在し得ない次期に神武即位を設定してしまったのだが、もちろん、その時代に考古学的知識は皆無だったのだからしかたがないだろう。

道鏡事件はなかった?

中西康裕さんの講演を聞く機会があった。道鏡事件はなかったという大胆な学説だ。道鏡事件は、悪僧道鏡が称徳天皇をたぶらかして、皇位の簒奪を狙った事件だとされている。宇佐八幡宮の神託を偽造したのだが、和気清麻呂が八幡神の正しいお告げをもたらして撃退したという続日本紀の物語だ。道鏡と称徳天皇の男女関係がセンセーショナルに扱われることも多い。しかし、称徳没後も、清麻呂が表彰されたわけでもく、道鏡も失脚はしたが処罰されたわけではない。謎の多い事件である。

続日本紀の宇佐八幡宮神託事件部分は、2つの宣命と、その間に挿入された解説文からなっている。宣命は天皇の声明文であり、書記が記録したものだ。むろん解説文は、後日続日本紀が編簿されたときに誰かが執筆したたものである。

最初の宣命は、和気清麻呂に対する怒りと処罰が述べられている。しかし、後の宣命は、聖武、元明の事績を語り、自己の天皇としての正当性を強調し、皇位に関しては天が定めるものであり、あれこれと論議するべきでない、と読める内容だ。

道鏡を皇位につけようとして、皇位問題を持ち出したのは天皇自身だ。それに対する妨害に怒ることと、皇位について議論することを戒めるのとでは180度方向が異なる。それがわずか6日の間隔で出されていることについては、古くから疑問があった。本居宣長は、二つ目の宣命は記載する場所を間違えたものであり、本来淳仁天皇を廃帝にしたところに挿入すべきものだったのではないかとしている。

中西康裕さんは、文体研究を通して、二つの宣命が同時期に書かれていることを見出し、本居宣長などの説を否定した。宣命は漢文でなく読み下しで、助詞などが間に小さく書いてある。この書き方は一定ではなく、書記によって異なることから、二つの宣命は同じ書記によって書かれていることが明らかになったのだ。

そうすると二つの宣命の矛盾はどうしたことだろう。この間に称徳天皇は方針を変更して改心したという解釈もあるのだがそれはおかしい。和気清麻呂に対する処分は、因幡員外介への左遷から大隅への島流しへと段階的にエスカレートして行き、この時はまだそれが進行中だからだ。

途中の解説を無視して、宣命だけを分析してみると、第一の宣命では清麻呂がウソの神託を報告したと怒っているが、その神託の内容については全く語っていないことに気が付く。解説文が述べているような道鏡事件とは関連がなかった可能性がある。むしろ清麻呂が誰か皇位継承者候補(他戸王?)を挙げての皇位継承神託を上奏して怒りを買ったという方が、後の宣命との整合性がある。

二つの宣命の間にある解説文は、後世勝手に付け加えた藤原氏の策謀にすぎず、道鏡事件なるものは実在しなかったというのが所論だ。称徳没後、皇位は天智系に移り、藤原氏が擁護する皇統となったが、その正当性を強調するためには、称徳を否定してしまってはまずいのだが、ある程度貶める必要があったのだということだ。道鏡はそのために利用されたのである。

しかしながら、この説には納得できないところが多々ある。続日本紀が書かれたのは事件からわずか25年後のことだ。事件はまだ人々の記憶にあるのだから、歪曲はあるとしても、全くの捏造解説を挿入するのは難しいのではないだろうか。

ただ宇佐八幡宮の神託があっただけでなく、清麻呂をわざわざ確認に行かせた理由は何だったのか。直前に、清麻呂を六位から五位に昇進させて、大きな結果を期待していたことは間違いがない。中西さんが推測するように由義宮の造営に関する神託なら何もこんな下工作をする必要はない。清麻呂が問われたことと関係のない皇位問題を勝手に持ち出したというのも不自然すぎる。

称徳天皇にとって皇位継承問題が最大の課題だったことは言うまでもない。宇佐八幡宮の神託で演出しなければならない重大問題は皇位継承以外にあり得ない。清麻呂に宇佐八幡宮のお告げを確認する報告をさせて自分の皇位継承問題に対する決着を承認させようとした。その目論見が破たんしてしまったのがこの事件だったとみるべきだろう。

持統天皇以来の歴代女帝の草壁皇子系統へのこだわりは極めて強い。しかし、期待を寄せられた聖武天皇は皇位伝承への意欲が薄く、仏道修行への傾斜を強め、前代未聞の生前退位まで行い、出家してしまうということに至った。年若くして皇位を託された称徳天皇にとっても、歴代女帝の宿願であった草壁皇子系統へのこだわりは絶対のもので、一旦は淳仁天皇に譲位したものの、結局、同じ天武系でも、舎人親王系を認めることができなかった。第二の宣命でもこの点を強調している。

天智系など、もっての他であったから。草壁皇子系統が絶えるとすれば、聖武天皇以来の仏教帰依を進めて政教一致の新たな天皇制にしたほうがましだ。称徳天皇自身も聖武天皇に習った熱心な仏教主義者だ。祭政一致の仏教国家を目指した。これが道鏡に皇位を譲ろうとした動機である。ところがこのための工作は清麻呂の裏切りにより破たんさせられてしまった。

第二の宣命にある皇位は天の定めるものであるとする言い方は、は称徳天皇の皇位継承問題に対する居直りと読める。淳仁天皇を立てて後悔し、今度は道鏡を立てようとして反対された。皇位については、もう、なるようにしかならない。あたしゃ知らないよという宣言である。清麻呂に対する処罰は続け、道鏡の重用は続ける一方、皇位継承については何も語らなくなった。事実、道鏡の失脚、光仁天皇の擁立など全ての動きは称徳没後になってしまった。

宇佐八幡宮神託事件は称徳天皇の皇位継承策である祭政一致の仏教国家への転換が失敗したというだけの事件であり、道鏡が皇位を狙って策謀したり、清麻呂が反道鏡で奮闘した事件ではないだろう。この点では、続日本紀の解説は鵜呑みにできず、やはり後世藤原氏の脚色が含まれているとみるべきである。藤原氏の庇護のもとにある天皇の正当性が続日本紀の主題だからだ。

琉球 海洋王国の虚構

15世紀から16世紀にかけて、日本で言えば室町時代であるが、この当時琉球は中継貿易で繁栄を極めた海洋王国であったと思われているようだ。多くの歴史本がこれを書いており、小説などもこういった前提のもとに書かれているものが多い。しかし、これは本当だろうか?

琉球は海に囲まれており、古くから海外への渡航があったことは確かだ。続日本紀にも南島から大和への来訪があったことが記されており、遣唐使船が阿児奈波に漂着して帰国したことも記されている。中国でもすでに随書に琉求が現れている。地理的には中国、日本、朝鮮の中間点にあり中継貿易の結節点となる条件はある。しかしこれだけでは貿易で繁栄する要件を満たしているとは言えない。造船技術や航海術の発達や貨幣経済のような社会システムの卓越した整備が必要である。

琉球はサンゴ礁からできた島であり火山島ではない。だから小さな島ではあるが平地が多く火山島ではあり得ないような農耕の発達があった。この農耕の発達が小さいながらも独自の王国を生み出す条件となった。琉球は農業国だったのである。沖縄は早くから開けた島であり、縄文時代からの遺跡も多く見られる。しかし、サンゴ礁には砂鉄がない。鉄器文明の生まれようがないために、実に10世紀まで石器時代が続いた。外洋船の建造には多くの鉄釘がいる。その前に鉄の工具やそれを使った船大工といった職業の発生がいる。

日本での記録は、727年以来1400年代まで途絶え、この空白期間に文化の発達があって石器時代から一挙に海洋王国に発展したと言うことも奇妙だ。発達段階に応じた交流の拡大があってしかるべきだ。その後の経過もいぶかしい。それほどまでに隆興した国がなぜ、いとも簡単に薩摩に屈服するのだろうか。秀吉の朝鮮出兵に協力する名護屋城の建設資金を要求されても、薩摩からの借金に頼らなければならなかったのはなぜだろうか。交易で富を蓄積していたのではなかったのか。ペリーが浦賀に来航する前に琉球に立ち寄っているが、ペリーは琉球を世界で最も貧しい国と観察している。繁栄を極めた海洋王国と言うことには大いに疑問がある。

歴代宝案は1607年の記事で「計今陸拾多年毫無利入日鑠月銷貧而若洗况又地窄人希賦税所入略償所出如斬匱窘」と書いている。60年このかた、交易は全く利益が上がっておらず財政は困窮しているということだ。中継貿易は 尚真王の時代に最盛期を迎えたと言われるが、球陽141号が掲げる王の事績は「又三府及び三十六島をして重ねて経界を正し、税を定め貢を納れしむ。」であり、交易についてはまったく業績とは考えられていない。結果的には交易は「もうからなかった」と考えるしかない。

琉球が明に朝貢を始めたのは、1372年に揚載が琉球に派遣されて招諭してからだ。まだその頃は琉球は三山に分裂していたのだが、中山の察度を最初として、各王は競って朝貢するようになった。臣下の礼を取らなければならないのだが、わずかばかりの貢物を持って行けば多大な下賜品が手に入るのだから朝貢は非常に分が良い交易だったのである。朝貢の回数はこのころが一番多い。朝貢に対する大盤振舞いは受け入れる側にも負担が大きいので、通常は2年1貢とかに制限するのだが、この頃の明は無制限で琉球からの朝貢を受け入れている。明にとっても琉球との交易が必要だったのである。

明は元を駆逐して成立したのであるが、馬の供給地は依然としてモンゴル族の北元が支配していたから琉球馬がほしかった。北方の緊張も続いているから、火薬原料もいるのだが、硫黄は中国に産出しない。琉球は硫黄鳥島に硫黄を持っていたのである。こういった琉球物産の供給は、小さな船での朝貢だけでは足りず、明から李浩を派遣して40匹の馬と5000斤の硫黄を持ち帰るといった直接買い付けの記録もある。小さな船ではいくら朝貢があってもまだ足らないという状況が続いたのである。

物流量の不足を補うために明は琉球に大型船を供与した。それだけでなく、船を操作する人材まで派遣した。破格の厚遇と言える。それだけ、明にとって琉球との交易の必要性は高かったということである。夜間航行ので・ォる大型船と天測航法の導入で福州への無寄港直線ルートが可能になった。それまでは目視に頼った日中航法だったので航路は島伝いの与那国ルートだったはずだ。

もちろん朝貢は琉球に多大な利益をもたらした。土器しか生産できなかった琉球にとって明の陶磁器は重要だったし、砂鉄のない琉球では鉄器の入手は死活問題でもあった。鉄の農機具は農業生産を飛躍的に高めることができる。三山統一の基礎はこうした鉄の普及によってもたらされたものである。

しかし、明の支配が安定してくると硫黄の需要も少なくなり、また馬も中国本土に放牧地は十分あるのだから、琉球に頼る必要性はいつまでも続かない。それでも、琉球側にとっては鉄や陶磁器は欠かすことができないものであるから朝貢をやめるわけには行かない。物産がなく貢物に窮した琉球はこれを南方に求めた。福州からジャワスマトラに出かけ、その産物を持ち帰って明への貢物にしたのである。交換商品には明からの下賜品が使えたが往復には費用もかかるので朝貢は以前ほどの丸儲けではなくなって来た。

この時代の日本や南方への交易を中継貿易とする見方は内実がない。明への朝貢は270回もやっているが、日本への交易は15回、南方も60回に過ぎない。物流量の上からもこれが琉球を中心とした中継貿易でなかったことは明らかだろう。物流の圧倒的部分は明と琉球の間だ。南方への航路を見てみると、出発地も帰還地も福州である。だから殆どの南方交易品は福州で陸揚げされた。琉球には南方物産の出土が少ないことからもこれはわかる。交易の中継点は琉球でなく、むしろ福州であったと言える。

多くの海洋王国論者はこういった物流量を見る視点が欠落しており、交易があったと言う事だけで中継貿易だなどとする誤りを犯している。南方や日本との交易はあくまでも明への朝貢の補助手段であった。明皇帝の気を引く貢物を入手するための買い付けをやったに過ぎない。

尚徳王は、1465年に明に対し、概略次のように述べている。「近年、我が方の附搭貨物に対しては、絹物が給されていますが、お蔭で銅銭が欠乏して貢物が買えません。我が国の産物は馬と硫黄だけで他の物は他国から購入しております。どうか銅銭を給してください」。絹織物を日本や朝鮮に運んで莫大な利益をあげることなどできていない。実際、朝鮮への輸出はほとんど日本の商人頼みであり航海もしていないのだ。これからも交易は明への貢物の買い付けでしか・ネかったことがわかる。

馬や硫黄の需要がなくなると、明にとって琉球の価値は減ってしまう。1450年ころには、船の無償供与も終わってしまった。琉球には造船能力がなかったから、福州で船の買い付けを行わなくてはならなくなり、朝貢の利益はさらに薄いものになった。それでもなんとか交易が続いたのは、海禁政策により明の民間交易が制限されていたからである。明の交易は朝貢国による進貢以外は禁止されたので、琉球は一種の貿易特権を使えたことになる。

船は購入しなければならなくなってしまったが、派遣中国人たちは、久米村に中国人社会を形成し、中国語や航海術を保持していたからこれに頼って南方交易も続けることができた。彼らはいわゆる帰化人ではない。琉球王朝の家臣ではなく、琉球王は統率者の任免権も持たない。中国語で生活し、明の文化を保つ独立した存在だったのである。南方には華僑ネットワークが形成されており、これも琉球の交易に貢献した。1428年パレンバンへの交易船は、琉球王尚巴志の書状だけでなく、中国人集団の代表者懐機の書状を携えて行った。

南方交易を支えたものには、明の威光も大きい。歴代宝案にある琉球王から南方諸国への文書には、交易が経済的な目的ではなく、明皇帝への忠誠を示すためのものであることが強調されている。明の威光を使って有利な交易条件を確保していたことがわかる。

ポルトガルの東洋進出が始まり、1511年にマラッカ王国が滅びた。ポルトガルが進出して、琉球に替わって中継貿易をしたのが琉球が衰退した原因のように言われているが、ポルトガルが南方物産を大量に日本に運んだなどという事実はない。ポルトガルはヨーロッパの物品を持ち込んだのであり南方物品の交易とは関係ない。

普通に考えれば、もし琉球が中継貿易を担っていたのであれば、ポルトガルの進出で、さらに交易は広がるはずである。そうならなかったのは、琉球の交易は明の威光を背景にしたり、華僑ネットワークに頼った貢物の買い付けでしかなかったからである。そんなものはポルトガルには通用しない。ジャワに琉球船が来ていても、相手にせず、日本や中国と直接取引をした。これといった物産のない琉球には興味を示さなかったのである。

琉球の南方交易に置き換わったのは明や日本の直接交易である。明の海禁政策が弱まって民間貿易が行われるようになったから、琉球の朝貢特権は役立たなくなってしまった。日本の貿易商も進・oしてきて、琉球を素通りして明や南方に航海していった。航海能力に劣る琉球の出番は、当然なくなる。

朝鮮との交易はずっと日本経由だったが、応仁の乱以降は日本との交易も全て日本の商人が担うようになって、琉球からの派遣船はなくなった。久米村の中国人技術者も代をかさねることで琉球化して行き、久米36姓と言われる琉球王朝内の有力集団になってしまった。それと共に中国語や航海術も失われて行ったのである。

1534年に陳侃が冊封使として来琉した時には、渡航に琉球から派遣された蔡廷美の援助があったと記録している。この時はまだ在琉中国人集団が健在だったことがわかる。しかし、1570年を最後として南方交易は行われなくなった。1594年の朝貢では航路をまっとうできず、浙江(せつこう)に漂着してしまっている。航海術が失われてしまっているのだ。中山王尚寧が1607年の書簡で中国語も航海術も失われて朝貢がままならないことを嘆いている。明国の海洋技術は高度すぎて、琉球では消化し切れなかったのである。

明への朝貢による寄生でなり立っていた琉球王朝は、朝貢の行き詰まりから財政危機に陥った。秀吉から朝鮮出兵のための資金拠出を命じられた時も、これに答えることができず、肩代わりした薩摩への借金となり、これが薩摩による琉球支配の口実に使われることになったのである。それでも、中国からの輸入に頼らざるを得ない琉球は、明・清への貢物を日本から買い付けたり、倭寇との闇取引で手に入れ、赤字状態で朝貢を続けて行く事になった。赤字は米を売ることで補われた。そのため琉球の食料は常に不足することになった。琉球が海洋王国として栄えたなどと言うことは絵空事にすぎない。

高松城水攻めの戦略問題

高松城水攻めの戦略問題

備中高松城の水攻めは戦国時代、天下統一の過程における一大事件としてよく知られているが、これには、太閤記などの物語性を持った記述の普及が大きな役割を果たしている。しかし、脚色された史実が伝わったがために、実像の理解は逆に困難になった。高さ12間長さ1里の土木工事が機械力無しに12日間で出来たなどという荒唐無稽なことが書かれているからである。近年、実証的研究が進み、水攻めはもっと現実的な規模でのものであったことがわかって来て、実像も明らかになってきた。梅雨時に城の周りの増水で自然に湖水が出来る地形を見れば、水攻めも決して奇想天外な戦術ではなく、ごく自然の成り行きとして発想されたものだということがわかる。

水攻めにまつわる戦略問題に関しても、太閤記の脚色を排除して、自然な理解を試みる必要があるだろう。これまでの太閤記に影響された解釈は清水宗治の極端なまでの毛利への忠誠心に依拠しており、現実味が薄すぎる。清水宗治が毛利に特別な恩義を感じる根拠として息子源三郎の誘拐事件が持ち出されているが、別に毛利が救い出してくれたわけでもなく、救出のために、有給休暇をくれただけのようなものだから、特別な忠誠の根拠としては貧弱としかいいようがない。清水は土豪だから元々はこのあたりを支配していた浦上家に仕えたはずで、それが毛利に仕えるのはいわば寝返りであり、主君に対する忠義を全うするならむしろ毛利と戦うことにならねばならない。

この問題を理解するには、まず第一に当時の状況を客観的に見ておかねばならない。今川、斉藤、六角、三好を次々に倒して畿内を支配した織田信長の権勢が全国に抜きんでていることは誰の目にも明らかであった。上杉、徳川、伊達も従属し、もはや西国の毛利を残すのみとなっていた。毛利としてももはや織田を倒して全国制覇する意図は持ちようがなく、織田軍との戦いは、あくまでも有利な和睦をするための条件闘争でしかありようがなかった。太閤記が言うような毛利と織田の主面衝突ではなかったのだ。

このような局面で織田軍を迎え撃つ先陣を任された清水宗治は武将として非常に難しい立場に立たされたことになる。普通の戦争のように敵を撃破して勝利を収める戦いではない。3万の軍勢に5千で立ち向かわねばならないし、たとえ先陣を崩したとしても、毛利の本隊は決して全力で突撃してくれないのである。清水宗治に与えられた任務は、織田軍の出鼻をくじき、僅かの軍勢で大きな損害を与えることで、毛利の本隊との戦闘の困難を思い知らせることである。毛利は境目七城の戦いを根拠に有利な講和を狙って控えているだけだ。

だから、毛利からの指令は、先制的急襲ではなく最初から篭城戦であった。つまり、城壁を利用して落城まで果敢に戦い、しゃにむに攻める織田軍に最大限の損害を与えることである。毛利は織田軍の戦闘をよく研究していた。織田軍の身上は、桶狭間の合戦に見られるような機動性にある。即戦速攻で敵の中心部を叩く戦法だ。逆に言えば軽装備で、持久戦に対する備えがない。攻城戦は不得意である。伊勢の北畠を攻めた時も、大河内城に性急な夜襲攻撃をかけて多大な損害を出している。

境目七城の守りを固めれば、織田軍は短期決戦の城攻めを無理に行い、損害を出す。城は落とすだろうが長期の戦いで全軍の疲弊は甚しい。そこに毛利の大軍が前進してくるとなれば、織田軍は戦意を維持することも難しいだろう。毛利はまちがいなく休戦交渉で有利な条件が獲得できる。これが毛利の戦略であった。境目七城はそのための捨石でしかない。清水宗治には、難攻不落に城を持ちこたえることにより、織田方に多大の損害を与えて厭戦気分に陥いらせ、毛利優勢の講和を待つ以外に生き残る道はなかった。

しかながら、織田軍の総大将羽柴秀吉はすでに信長とは異なる独自の戦争スタイルを確立していた。大軍に十分な補給路を与え常に持久戦に備える。戦闘よりもむしろ政治交渉で従属を促すやり方である。このため、進撃は従来の織田軍の機動性からは考えられないくらいゆっくりとしたものになった。3月に姫路を出撃して、じわじわと前進し、備中高松城に表れたのはもう5月になってからである。明智光秀の謀反を予測して、わざとゆっくりした進軍をしたなどど言われる所以である。

毛利も、捨石全部が有効に働くとは考えていない。いくつかの城が早期に降参したりすることは想定している。そのために7城に軍勢を分けたのである。秀吉の政治工作は当然清水宗治にも及んだ。その内容は降伏した場合備中一国を与えるといったものだった。これは高松の土豪に過ぎない清水宗治にとって、非常に良い条件のように言われているが、実はそうではない。

備中は言うもでもなく毛利配下小早川の所領である。織田がすでに持っている所領をくれるのではなく毛利から取れと言う事だ。つまり、対毛利戦の先頭に立って主君小早川を倒せということである。毛利の本隊に向かって小勢で立ち向かえば戦場の露と消えるのは必定である。清水宗治が死んでしまえば備中一国云々の約束も無きに等しい。これで清水宗治の進退は窮まった。清水宗治には降伏と云う退路も塞がれてしまっていたのだ。

結局のところ織田軍は速攻戦略を取ると踏んだ毛利の思惑ははずれた。秀吉は高松城に短期決戦を挑まず、じっくりと水攻めにした。攻撃側には殆ど損害が出ない。補給も十分で疲労もない。あてが外れた毛利の本隊は足守川河畔に到着しても、全面衝突に踏み込んで講和の機会を逃してはならず、手をこまねくばかりだった。ついに、意に反して織田側優勢のままの講和交渉になってしまった。

秀吉は毛利に厳しい講和条件を提示してきたが、本能寺の変が起こり、条件を緩めた。しかし、清水宗治の自決にはあくまで拘った。秀吉の破格の条件を断った武将を毛利に残してしまったのでは、清水に続けとばかりに毛利の士気を極限まで高めてしまう。秀吉の政治工作を断ることの重みを天下に思い知らせる必要もあった。

一方毛利も実は清水宗治を助けることに熱心ではなかった。なぜなら、毛利にもどった清水には、秀吉の条件に見合った処遇を与える必要があるからだ。一国を与えるといっても、それは小早川や吉川の領地を取り上げなければ出来ないことだ。元就の死後結束を固める苦労をしてきた毛利に内紛のタネを作るだけである。本能寺の変を毛利方が知らなかったということはないだろう。明智光秀もあらゆるルートで情報を流した。清水宗治の自害で決着をつけることが、毛利にとっても、明智を倒して日本の支配者になると見なされる羽柴秀吉との最善の講和条件だったのである。退却する織田軍を追撃しなかったことには何の不思議もない。

清水宗治には自害して果てる以外に道は残されていなかった。しかも戦争の始めからそうなることが予想された。宗治が仏教的無常観の世界に向かうのも自然な成り行きであった。清水宗治は運命に逆らわず、辞世を残して高松城に果てた。

明智光秀の黒幕

本能寺の変・明智光秀謀反の理由についてはいくつもの説がある。古くからあるのは遺恨説で、長曾我部問題での精神圧迫も理由に挙げられることが多い。しかしこれで光秀が自暴自棄になってしまったとするのには無理がある。一万五千の軍勢はノイローゼ状態で動かせるものではない。事実、天王山でも光秀軍は統率よく戦っている。明智は確信に基づいた戦闘を繰り広げているのだ。

明智光秀も優れた武将であったが、織田の家臣全てを敵に回して勝てるほど自分が強力だと思ってはいなかっただろう。どこかにより所があったはずだ。明智光秀には黒幕がいたことになる。黒幕についても諸説あり、毛利に保護されていた足利将軍という説もあるが、毛利との連携が全く出来ていないところからも、これは違うし、もともと光秀には将軍義昭を見限って信長についたという経緯がある。最終的な利を得た豊臣秀吉や徳川家康を挙げる人もいる。しかし、こういった人たちに騙されたのならば、当然、光秀は戦いの中で事実を暴露するはずだ。この黒幕は光秀に約束事を暴露されない、あるいは確約をしないことが当たり前とされているものでなければならない。それは天皇をおいて他にない。

光秀の言葉として伝えられているものに『武士の嘘を武略と言い、仏の嘘を方便と言う。土民百姓はかわゆきことなり』 と言うのがあるが、うまく騙せば行政なんて楽なものととれる。力づくで押さえるよりも、うまく騙すことが行政のコツであるのは今も昔も変わらない。教養人としても知られる光秀は強いもの勝ちで済ませるタイプではなく、騙してでも、なんとか理屈づけすることを重視する人間だったことがわかる。

理屈人間である明智光秀が、反信長で決起するにはそれ相応の大義名分が必要だ。主君に対する謀反という封建道徳を上回る大義名分を与えることができる黒幕は誰だろうか。それは天皇をおいて他にない。天皇を味方につければ、朝臣光秀が逆賊信長を討ち取ったという構図を描けるのだ。

織田信長と正親町天皇の確執を示す文献はないが、歴代天皇というものは決して実力者との確執を表に出さないものだ。確かに信長は初期に天皇を擁護する立場を取った。それは足利将軍家にも言えることだ。信長は当初、将軍家を補佐したがその無能振りにあいそをつかした。天皇家も保護する姿勢を見せたが、実力で将軍を排除したら、すぐに擦り寄ってきた天皇にもやはりあいそをつかしたのである。浅井朝倉攻めの時には天皇を擁する大義名分を利用したが、後年には摂政、関白その他の位階を全て断った。

なぜ、位階を断るようになったのか。それは単に敵対する武将との抗争に明け暮れる立場から天下国家を統治する立場への進化である。誰の家臣にもなったことがなく、実力だけで運命を切り開いてきた信長に天皇の権威による正当化などいらない。鉄砲やキリスト教も取り入れ、楽市楽座などの旧弊を打ち壊す政策を次々に実行する信長には、もはや天皇の権威など噴飯物でしかなかった。もともと信長は徹底した合理主義者だった。父親の葬儀に灰をぶちまけた逸話もあるくらいで宗教や伝統にはとらわれないのだ。天皇はもはや確執を持つ相手ですらない、どうでも良い存在になっていた。

これは天皇にとって最悪の事態だ。源頼朝も天皇の権威に逆らい、政治の実権をわがものにしたが、征夷大将軍を受けることで一応天皇は面子を保った。足利も天皇をないがしろにはしたが、位階だけはありがたがったから天皇に任命されたという形式になった。しかし、信長は位階など眼中になかった。無階の信長が天下を治めるのでは天皇は全く無視されたことになり、天皇制の存続すらあやうい。誰でも良いが、信長だけは困る。これが天皇の本音だっただろう。天皇には動機がある。天皇は光秀に決起を促したに違いない。

正親町天皇は、変の後のわずか7日間に3度も勅使を派遣している。『明智光秀公家譜覚書』によると、変後の時期に光秀は参内し、従三位・中将と征夷大将軍の宣下を受けたという。真偽のほどはわからないが、なんらかの内示があったに違いない。少なくとも十分期待はさせた。

光秀も、天皇の権威があれば多くの武将を従わせることが出来ると考えた。信長を討ち取ったあと二条城にいた長男の信忠も討ち取っているが、信忠はかなりの軍勢をもっていた。それが、あっけなく討ち取られているのは、都の情勢としては天皇と組んだ光秀が正統派になったという認識が支配していたからだ。信忠の軍勢は四散してしまい、光秀に対抗することもできなかった。光秀が単なる反乱軍なら信忠の正規軍が動揺するようなことはない。

毛利との戦闘の真っ最中で、羽柴秀吉もそう簡単には戻ってこれないし、その間に自分が補佐役になって天皇親政の体制を整えてしまえば、徳川や毛利も有力だから、簡単に羽柴秀吉に天下が転げるわけがない。三すくみ四すくみの状態が続くはずと踏んでいたのだ。天皇の権威のもとにかなりの武将を従えておけば、いずれ羽柴、毛利、徳川のいずれかが自分に擦りよってくるだろうと考えたのも当然だ。

ところが、秀吉の転進はなんとも素早いものだった。わずか3日でとって返し、天王山の戦いになった。主君のあだ討ちと言う事で全軍を指揮する実績を作ってしまった。中国大返しを知った天皇は、勿論明智光秀を冷たくあしらった。秀吉に擦寄り、摂政関白太政大臣全部位階を授けてしまった。何のことはない光秀の挙兵は秀吉に天下を取らせるためにやったようなものだ。光秀は天皇に騙されたことになる。

天皇は、光秀への勅使に関して、勅使として派遣されたのは吉田神社の神官であるから正式ではないと言い訳をしている。それが言い訳にすぎず、本能寺の黒幕が天皇であったことは秀吉にも察しがついただろう。秀吉はこれを公には深く追求せず、むしろ蔭でそれを逆用した。借りの出来た天皇はもはや秀吉のいいなりであった。信長と異なり、秀吉は織田家の家臣として引き立てられて出世したのだ。忠誠を尽くすべき織田家を乗り越えて自分が天下を取るためには天皇の権威が必要だったのである。そして、そのことで天皇家もまた安泰になった。

秀吉は光秀の挙兵を遺恨によるものだという説を積極的に広め、これが太閤記などで浸透した。こうして本能寺の変の真実は解明されることなく歴史に埋もれたのであり、今日、光秀の挙動が謎として残された所以でもある。

女化騒動-----牛久助郷一揆

一〇月二一日は国際反戦デーと言われベトナム戦争当時から平和のための活動にとって重要な日であるが、その起源は学徒出陣記念日である。この日は実はもう一つの記念すべき事柄が重なっている。文化元年(一八〇四)一〇月二一日は牛久助郷一揆が終結した日だ。女化騒動とも言われているこの一揆には現代的意味があることを論じてみたい。

女化騒動に関しては茨城県立歴史館の図書室で見られる野口三郎家文書「女化騒動治定記」という原資料がある。閲覧を申し込むと封筒が渡され、中に古文書そのものが入っていて驚いた。今にも破れそうでページをめくるのもはばかられるようなものだ。阿見町一区南十字路には犠牲者の供養塔もある。

牛久沼は今よりも大きく広がっていたので、当時の水戸街道は国道六号よりももっと東、今で言う県道四八号線の所にあった。中村宿(土浦)から、牛久宿を経て若柴宿(龍ヶ崎)に至る道だ。荒川沖宿は牛久宿の合宿となっていた。宿場には人馬が配置され大名行列には運搬役務が割り当てられていた。問屋が請け負い、駆り出された農民には日当が支払われたが、半強制的であり賃金の過多を問うことはできなかった。

時代が進み、交通が頻繁になってくると、人馬の供出が村内では足りなくなり、近隣の村にも役務割り当てを広げることになった。これが助郷である。付近七か村に限定的に規制された定助郷では足りなくなり三四カ村の加助郷特区が一〇年の時限立法で許可された。何時の世にもこうした規制緩和にまつわる政治利権は一部の金持ちの懐を肥やすことになる。

助郷が広がるとかなり遠方の村から牛久まで行かねばならず。一日の役務日当のために往復を含め三日も四日もかけなければならない。秋の収穫や田植えの時期に三日も家を空け、なおかつ田畑を維持しようとすれば、過労死しかねない過重な労働になる。やむなく、問屋に金を払って代人を雇ってもらうことになる。結果として、問屋はまるで税金のように助郷各村から金を搾り取ることが出来た。

なんとか耐え忍んで一〇年の期限が終わろうとした時に、久野村の名主和藤治、牛久宿の問屋治左衛門、阿見村組頭権左衛門らは、交通の発展のためとして、期間の延長と百六ケ村に及ぶさらなる加助郷の範囲拡大を願い出た。これが伝わったことで農民達の我慢は限界に達した。

小池村(阿見町小池)の百姓勇七四二才と百姓吉十郎三八才、桂村(牛久)の兵右衛門四〇才らが中心になり百六ケ村に高札を立てて女化神社への蜂起結集を呼びかけた。一〇月一六日のことである。一九日未明女化原に約五〇〇人が集合、手代木村、倉掛村、花室村、などからも到着して夜には六千人にも膨れ上がった。

集まった農民を前に、かがり火に照らし出された勇七が、一世一代の口上を述べた。

「この度、大勢の皆様を相招きしことは、兼ねてより張札場に廻文の通り、近隣村々の末迄の困窮を救わんがためなり。先頭となって我等戦うは、百六ケ村のため。そのために捨てる命、如何に惜しからん。各々少しも気遣うことなかれ。」

一揆の目的が加助郷の延長が不当であることを世に訴えることであり、そのために自らの犠牲をいとわないことの決意表明である。農民は隊伍を組み、選ばれた頭取が隊を指揮した。農民たちは牛久宿に向けて進撃を開始した。

一九日、久野村の和藤治宅を襲撃。二〇日、牛久宿問屋麻屋治左衛門を襲撃。二一日には阿見村組頭権左衛門宅を打ち破った。頭取たちは、近隣への迷惑を掛けない事と掠奪の禁止を皆々に約束させた。その結果、一揆勢は富豪の家を徹底的に打ち壊したが、相手には決して危害を加える事なく女化稲荷に引き上た。

幕府は直轄天領での一揆に驚愕して、旗本や近隣諸藩に鎮圧命令を出した。農民側では軍事的にまともに土浦藩兵などと戦って勝てるわけが無いことはわかっていたので、鎮圧兵が牛久宿へ向かっているとの情報を得て、二一日の時点で解散を決めた。牛久加助郷の問題を天下に知らすことは、これで十分にできたのだ。

農民達はそしらぬ顔で村々に戻ったが、幕府の追及は厳しかった。事件後指導者三人は捕らえられ、上郷陣屋で取り調べられさらに詮議のため伝馬町牢屋に移された。当時の常として過酷な拷問で三人とも判決を待たずに獄死した。しかし、三人は共謀した他の者たちの名を一切口にしなかった。これだけの騒ぎには当然その原因が問われ、問屋側も和藤治が一揆の原因を作ったことで追放になった。助郷そのものは、その後も続いたが広範囲な拡大は行われなかった。

アナーキーな破れかぶれな一揆ではなく、整然と計画的に行われたことと、過重労働を取り上げて、規制緩和の利権に対して戦われた点が私の言う現代的意義である。この戦いに私が住んでいるつくばからも参加している。先進的な戦いがこの地であったことは是非とも顕彰されなければならないし、このことをつくばの人たちの多くに知ってもらいたいと思う。

海峡を発見した幕府隠密

間宮林蔵が間宮海峡を発見した1809年からおおよそで200年になる。いくつかの記念行事もあったようだが、業績については疑念も残るし、シーボルト事件に関して間宮林蔵の人格を疑う意見も強い。間宮林蔵の本職は密偵すなわち幕府隠密だったのである。しかし、鎖国日本で他に探検家とよべる人物はおらず、当代一の探検家であることに間違いはない。彼が偉人であったかどうかはともかく、人物像として大変面白いものを感じる。

間宮林蔵は常陸国筑波郡上平柳村で生れた百姓のせがれである。寺子屋で学び、幼い時から秀才ぶりを発揮して神童とも言われた。13歳のとき村人に連れられて筑波山に詣でたが、其の時夜を徹して「立身出世」を祈願したという。天下泰平の文政期にあって当時は、「分をわきまえる」ことが美徳とされ、百姓の子どもが侍になろうとするなど普通には、考えも及ばないことだった。「立身出世」を夢見る百姓少年は周りの大人からも確かに驚きだっただろう。この逸話が今日残っているのはそのためだ。

小貝川の改修工事に来た幕府の役人に秀才ぶりをアピールし、江戸への同行を認められ「立身出世」の糸口をつかんだ。このあたりの売り込み方は野口英世と似ている。江戸に旅立つ前に間宮家を捨てて、鯉淵村の名主飯沼甚兵衛の養子になった。家格も欲しかったし、勉学のための資金も必要だっただろう。間宮家は従兄弟が継いだ。だから本当は間宮ではなく飯沼姓のはずである。しかし後年、士分に取り立てられた時、間宮を名乗っているから、飯沼家は一時的に利用されただけである。百姓生れは、これくらいのしたたかさが無いことには立身出世はおぼつかない。

頭の回転が良くて、出世のためにはなんでもする男。これは使える。幕府は当時蝦夷地への侵略を企てていた。アイヌの土地である蝦夷をねらっていたのは幕府ばかりではない。ロシア帝国も着々と南下を進めていた。北方領土の測量は権益確保のために急務だっただろう。林蔵は測量・探検の仕事にその才覚を見込まれるようになっていった。測量・探検は決して学術的なものではなくあくまでも軍事的な事業であり、測量は諜報活動の一部であったから、幕府はこれに様々な密偵を投入した。侍は気位が高く、労働、金銭勘定も嫌がった。まして密偵などという武士道に反する仕事は毛嫌いされた。 だから林蔵のような百姓出身のものがこのような分野で重宝されたのである。

江戸でどのように暮らしたかは定かではないが村上島之允に算術や普請術を学んだ。おそらく、理解の速さは師匠を驚かすに十分だっただろう。20歳になって、村上島之允が蝦夷地に派遣された時に、従者としてこれに従った。そして蝦夷地で地図測量の第一人者伊能忠敬の知遇を得た。学べるならばだれからでも学ぶ、利用できるものは何でも利用する。林蔵は伊能忠敬の測量器を安く買い取ることに成功した。伊能も根っからの武士ではなく商家の出身である。林蔵の測量技術は高度な緯度測定も伊能忠敬に学んだものである。測量技術で普請役雇として士分の末端に取り立てられた。東蝦夷地、南千島の測量に従事した。

間宮林蔵の最大の功績である樺太探検は、最初松田伝十郎の従者として参加した事で起こった。松田が主導したラッカ岬までの測量で、樺太が島であることがほぼ推察されるようになった。林蔵は、願い出て今度は単独でその先ナニヲーまで測量して樺太が島であることを確認した。さらに、土地のオロッコ族が大陸に朝貢するのに同行し、樺太の向こうが中国大陸であることを確認した。鎖国日本で大陸に渡るようなスタンドプレーは随分思い切った行動である。またこの行動には単に命令で出かけただけでない探険家としての熱意も感じられる。

43歳で蝦夷地の測量も終わり、探検家としての仕事からは引退した。まだ石高取りには至らないが「普請役」として低い身分ではあるが参拾俵3人扶持の一応はっきりと侍と言える地位についた。仕事は引き続き諜報活動であるから密偵である。かなり変装がうまく、時には乞食に身をやつして全国を廻った。詳細は秘匿されているが東北、伊豆などで鎖国体制を脅かす状況の調査を行ったとされている。

林蔵は測量技術の習得には熱心であった。通商を求めるロシアの使節ゴローニン少佐が松前藩に捕らえられたと聞けば、経度観測の技術を聞き出しに行った。フィッセルの日本風俗備考にこの様子が書いてあるが、林蔵は非常に饒舌でゴローニンの気を引く測量図などを見せながら、何日も通い、しつこく聞き出したようだ。

シーボルトにも近づき、測量技術を習得しようとした。おそらく、ゴローニンの時と同じように、いろいろと探検の話をして、禁制の日本地図なども見せたことだろう。シーボルトは林蔵を信用して幾つかの品を送った。保身に聡い林蔵はこれを幕府に密告したのである。ただ単にシーボルトの手紙を封も開けずに上司に差し出しただけで、密告ではないという弁護論もあるが、それは成り立たない。林蔵は、密偵を稼業としていたのだ。結果がどうなるかも判っていたはずだ。「封をあけずに」というあたりがそれを示している。このため、シーボルトは追放を受け、鳴滝塾は閉鎖されたし、高橋景保は獄死した。高橋も林蔵の師匠に当たる人だ。

シーボルトは「たとえ密告者であるとしてもその功績を無視することはできない」として樺太の海峡に間宮の名をつけて報告した。このシーボルトの立派な態度は林蔵の立場をさらに悪くしただろう。シーボルトを慕う弟子たちは林蔵を裏切り者として大いに非難した。林蔵が幕府密偵であることは知識人の間に知れ渡り、フィッセルなども林蔵が長崎の出島に現われただけで、次の犠牲者を思い、引き起こした恐怖を記述している。

武士道に基づく信義が重んじられた時代には林蔵の評価は高くなりようが無かった。評判の悪い林蔵が再び持ち上げられるようになったのは、明治になって日本の対外侵略が盛んになってからである。1855年の下田条約で日本人の進出がまったく無かったにもかかわらず、樺太の帰属が未定とされたことには、林蔵により海峡が発見されたことが大きな重みとなっている。その後千島樺太交換条約で樺太はロシア領となったが再び南半を占領したりしたのも、間宮海峡を名目に出来たからだ。林蔵の貢献度は大日本帝国にとって重要なものだったのだ

領土問題では探検家の業績がものを言うが、間宮林蔵は密偵だったからこそ探検の目的を理解していたと言える。最上徳内はエトロフを最初に探検した日本人だが、「ロシア人がすでに住み着いている」という報告だから正直すぎて領土問題では使えない。今も政府には評価されていない。しかし、政府の都合は変わることがある。林蔵が石見藩の密貿易を隠密調査したことは、竹島処分つまり、「朝鮮人が自由に行き来している竹島は日本領でないから渡航することはまかりならぬ」という処置につながり、鎖国政策には役立ったのだが、今となってはこの記録が竹島が韓国領であることの、ひとつの根拠となってしまっている。ただし、この時の竹島は鬱陵島のことを指していたらしい。

間宮林蔵を偉人として顕彰するのはたいがいにした方がいい。弱点もあり、批判もあり、それを全部含めた上で、十分魅力的な人物だ。士農工商の封建制度に人々が縛り付けられていた、今から200年前の時代を精一杯生きた人物として評価できる。あの時代、才能はあっても百姓の家に生れたら、林蔵以上の生き方はあり得なかっただろう。

二宮金次郎の財政改革

薪を背負って歩きながら本を読む少年の像で知られる二宮尊徳は1787年に相模国栢山村で生まれた農民だった。財務コンサルタントとして、困窮する地方大名家の財政改革を行ったことで功績を讃えられている人物だ。単なる百姓が大名家の財務を取り仕切るに至ったのは、勤勉さと向学心の賜物だったことから、修身教科書に取り上げられ、全国の小学校に石像が建てられることになった。岡崎の石屋さんが積極的に全国を営業して回った結果でもある。

石像ばかりでなく、銅像も多かったのだが、戦時中に供出させられ現存するのは石像ばかりだ。金次郎は直接軍国主義に加担したわけではないので、戦後も長く石像が残ったが、70年代ころから、子供たちへの説明が難しくなり消えていくことになった。危ないから歩きながらマンガを読むなと指導する上でまずい。マンガでなく勉強の本であったっとしても、さっさと歩いて帰り、机に向かったほうが良く学べる。そもそも薪を運ばせる児童労働のアルバイトは違法だ。確かに、二宮金次郎が立派な人であったとしても、それを現代の子供たちがこの像から学ぶのは難しい。

尊徳(たかのり)というのは、56歳になって幕府に取り立てられた時に付けられた諱であり、非常に公式な場でしか使われない呼称である。二宮という姓も、この時初めて名乗るようになったのだから、生涯を通しての通常名は、百姓金次郎であった。実は、これも正しくなく、自筆では金治郎となっている。32歳の時小田原藩主から表彰を受け、これに金次郎と誤記されたのが今に伝わっているのだ。自伝はなく、伝聞による評伝が多いため、二宮金次郎が圧倒的な通称表記になっている。

幼少の時に先を見越して竹を植えたとか、子守で得た駄賃で堤防強化に松を植えた、落穂を拾って収穫に繋げた、菜種を植えて勉学のための灯火にした、といった少年時代の逸話は、弟子の富田高慶が明治16年に書いた『報徳記』が初出である。富田高慶も金次郎に直接聞いたわけではなく、伝聞であることを断っている。この他の原典資料はほとんど無い。金次郎の活動範囲はそう広いものではなく、修身教科書に取り上げられるまで、全国的に知られた人物ではなかったからだ。

両親を失った貧しい少年でありながら、超人的な勤勉さで働き、先代が失った田畑を取り戻した。一方で、寝る間も惜しんで勉学にも励み、学識を身につけているから、確かに学童のお手本になる素晴らしい人物であったことは間違いない。体格も人並み外れて大きかった。

猛烈に働いて土地を買い戻したというが、当時の賃金では、7俵の収穫を得る土地の代金を2年で稼ぎ出すことは不可能だ。親の代で洪水に流されて耕地を失ったのだが、金次郎がやったのは、「残ったわずかばかりの田畑」を使った財テクだったのである。自分の食うものも節約して、「米貸し」「金貸し」をやった結果だ。貧乏でも財テクが出来るというのは、独創的なアイデアには違いない。ただの働き者ではなくて、財テク手腕をもっていたことが、彼を日本初の財務コンサルタントにした要因だったのである。

家督再興の評判が伝わり、小田原藩家老、服部家の財務コンサルタントになった。武士社会では、金銭を蔑む風潮があり、物を買うにしても値段の事は口に出さないという原則があったくらいだ。財政は、むしろ放漫経営が美徳とされていた。農民にしても、その日暮らしで計画性を持っていないのが普通であった。どこにも経済観念と言うものがなく、貨幣経済が進展するとともに財政の行き詰まりが生じていたのである。年貢の取立てですら、一俵、二俵といった単位で数え、俵の中身はまちまちという状態だった。金次郎が、小田原藩での一俵を四斗一升に統一することを提案した。武士・農民社会に経済的合理主義を導入したというのが二宮金次郎の功績だろう。

服部家の家政での功労を知って、小田原藩は野州桜町の村財政に金次郎を起用することにした。このとき一応士分に取り立てたとは言われているが、「名主役挌」だから、百姓と侍の中間的な身分だ。桜町での財政再建に成功した噂が広まると、あちこちからコンサルタント就任の要望が来るようになった。栃木、茨城など関東各地で手腕を振るったし、相馬中村藩でも事跡がある。ついには幕府も金次郎を「普請役挌」として侍身分に取り立てて、日光天領の改革に当たらせた。江戸時代に百姓が武士に取り立てられるというのは、もちろん稀なことだった。

財政再建に対する金次郎の手法は、現在では当たり前な、きっちりと予算を立てて財務を管理するということが、その大部分を占める。当時の武家には経済的合理主義がまったくといっていいほど無かったから、この効果は大きかった。倹約による無駄使いの削減の一方で、開墾や用水といった設備投資による増収を図った。

開墾や用水の事業には資金が必要だが、金次郎の改革が領主受けした理由の1つは、民間事業として行うため、領主の負担が少なかったことである。講を作り、多くの人に出資させ、これから用水などの資金を調達した。講というのは信用金庫みたいなもので、ここからの投資は利子を伴って出資者に還元される。自らも出資したし、貧しい庶民にも、僅かばかりの金を出資させ、利子で増やすことを勧めた。結局、事業資金や利子は、受益者となる農民の借金となるのだが、借金返済のキーとなるのは勤勉労働だ。

農民たちに「やる気」を起こさせなければ、返済不能となり、この方式は破綻する。だから農民に対する教育指導に重点が置かれた。金次郎の道歌が多く残されているが、まあ言ってみれば「死ぬ気で働け」といった標語集のようなものだ。重税とか社会体制への批判は全くない。『社会が悪いだの政治が悪いだの文句を言わずにせっせと働け、働けば幸せになれる。贅沢せずに貯金しろ。貯めれば利子で豊かになる』一口に言えば、これが金次郎の教えるところだ。今でも、中小企業の叩き上げ社長なんかには金次郎信奉者が多い。

実際には、一番の成功例である桜町改革では、小田原藩の公的資金がかなり投入されており、民間活力ばかりに依存した改革は良く見てみると必ずしも成功というわけでもない。公的資金の投入も、バラマキではなく、個々の農民の貧窮度や生活態度にまで立ち入って、融資枠や利率を査定している。金次郎の恣意的判断とも言えるきめ細か過ぎるような仕法には、当然反発もあったようだ。しかし、領主としては、税収さえ増えればそれでいいのだから、金次郎に全て一任して事を進めた。

『殿様が借金のあるときに人民が困窮するのは天命だ』といった言葉も残している。現代で言えば、「消費税増えるけど、残業増やして頑張りましょう」といったスタンスだから、為政者にも都合が良いものだっただろう。『四季に春と秋があり、一日に昼と夜とがあるように、現在の政治が悪いのはちょうど夜だからで、このときにはただ自分を修養して明日を待つよりほかに方法がない』というのが政治に対する見解であり、社会変革の視点はない。

しかし、「パチンコなんかやってないで、まじめに働こう」的な教えは常に正しい。農業振興の情熱も感じられる。実際、事業がうまく行けば出資者も受益者も共に潤う。金次郎の教えは、報徳教として半ば宗教的な崇拝を受けるようになった。儒教とか仏教の教えはあったが、これらは、金を儲けるとか働くなどと言うことを無視した高邁すぎる教えであったから、庶民には報徳教の方が生活の指針として受け入れやすかった。開墾や用水といった事業も合わせて行って、単に掛け声だけでなかったことも、農民側に受け入れられた理由だ。

現在の財政政策では、倹約一点張りである金次郎の手法は必ずしも正しくない。経済循環にとって、消費を増やすことも必要だからだ。低金利の時代、利子を生むような財テクは危険も伴う。開発に民間資金が活用できるのも、短期で収益がでる小さな規模の開発に限られる。自助努力には限度があるのだ。働き詰めの金次郎は、子供が重病にかかっても頓着することなく勤務し、子供が死んでしまうに及んで、とうとう女房から見放され離婚された。これも現代の視点からは美談と言えない。二宮金次郎は、やはり、過去の人物なのだろう。

枡の謎解き

二宮金次郎が小田原藩領での枡改革を行ったことが良く知られているが、それまでの枡がそれほどいい加減なものであったわけではない。年貢計量の基礎となる枡については、幕府の重要施策として早くから取り組まれており、きっちりと検定も行われていた。その枡にかかわる謎を解明してみよう。

二宮金次郎が行ったのは、一俵を規定するための専用枡を決めることだった。一俵にどれだけの米を詰めるかは、俵材料の都合もあるから、全国まちまちだった。幕府が石高の換算に用いていたのは、三斗五升だが、越後では五斗とする位の開きがあった。小田原藩内でさえ違いがあり、これを利用して差益を得るものもあった。そのため、藩内での統一が必要だったが、どの規格を採用するかは、各自の主張があって決め難い状況にあった。二宮金次郎が説得力のある標準を発案して枡改革が行われたと伝えられている。

「小田原藩枡改革覚書」によれば、この枡は、一尺方形で深さ八寸八分で米という字が八十八と分解できることで説得力を持たせたものだ。この大型枡で三杯を一俵とすると計量も早い。ところが、詳細を見ると、深さ8.8寸はいいのだが、縦横は10.033寸という、如何にもの端数がついている。これでは、せっかくの語呂合わせの説得力が台無しとも見える。なぜ、このような端数がついたのだろうか。

計算をしてみると、一尺の方形枡の場合、一俵が40.72377升になり、一升の整数倍にならない。ぴったり、41升にするために、一辺を10.033とする補正の必要が生じたのだ。一尺方形で説得して、いざ実施の時点で幕府からクレームがついたのではないだろうか。一升の整数倍にしないと幕府公認の一升枡で検証できないからだ。

江戸幕府は一升の計量に非常なこだわりを持っていた。江戸と京に枡座を作り、ここで検定した「新京枡」以外の使用を禁止していたのである。「新京枡」は、それまで、織田信長が定めて、広く流通していた「京枡」に対抗した新規格で、いわば江戸幕府の基礎となったものだから、幕府の威信のかかった枡なのである。

一尺の方形枡に端数が現れた理由は、この新京枡による幕府の一升の定義が、64.827立方寸であることから来ている。これまた中途半端な数で、これなら一尺方形枡に端数が出るのは当然だろう。しかし、この数字は商人や税務関係者は「武者船」とか「虫や鮒」などと語呂合わせで覚えておく必要がある重要な数値だった。

「虫や鮒」の根拠は、幕府の新京枡の寸法が4.9寸×4.9寸×2.7寸であることに由来する。計算するとこの容積が64.827立方寸になる。それ以前に使われていた京枡の場合、5寸×5寸×2.5寸でわかりやすい。新京枡は京枡の縦横を0.1寸縮め、深さを0.2寸伸ばして計算を面倒にしたことになる。変わらない大きさに見せかけてちょっと大きくした年貢取立ての姑息な手段だったなどという解釈がなされているようだ

しかしながら、この解釈には納得できない。地方役人ならまだしも。幕府がそんな姑息な手段を用いる必要はない。堂々と年貢を定めれば良いだけのことだ。枡の切り替えには相当な努力が必要だったわけで、それなりの理由が必要なのである。それは一体何だったのだろうか?なぜわかりやすい京枡を継承しなかったのだろうか。

二宮金次郎の枡改革の逸話が有名になったことから、一斗枡も尊徳仕法であると誤解されているようで、茨城県筑西市の花田村には尊徳仕法の一斗枡というものが残っている。その寸法は32cm×32cm×17.5cmであると公表されているが、この寸法では一斗にならない。0.5cm単位で読み取る計測では、0.5cm以下に端数が出て正確な値にならないのは当然とも言える。この枡の本当の寸法は「寸、分、厘」で測らなくてはならない。

逆算して、本当の寸法がいくらであるべきかを考えて見よう。枡を製作するには寸法を指定しなければならない。工作精度を考えれば、厘(0.33mm)の単位で寸法指定されていたはずだ。工作精度から考えてそれ以下はあり得ない。

厘以下の半端を出さずに一斗の枡を作る寸法の組み合わせは限られている。縦横の長さを10寸から11寸の間で厘の単位で決めて、深さがいくらになるかを計算して、整数からのずれをプロットしたのが、上の図である。見やすいように、対数目盛りで、発散を防ぐために0.0001足してある。整数に近いものはあるが、きっちり整数となるのは、9寸8分と10寸5分の時だけであることがわかる。極端に扁平なものも含めると、厘の桁で一斗枡を構成する組み合わせは、全部で54通りある。

縦横を10寸5分とすると深さは5寸8分8厘となり、これでぴったりとした一斗枡になる。一升枡とほぼ相似形である。花田村の枡は、縦横31.82cm、深さ17.82cmでなくてはならない。実測値とも符合する。同様に考察できて、一合枡は、縦横二寸四分五厘、深さ一寸八厘が解となる。

これを京枡で行うとどうなるか?やってみた結果、京枡では一斗や一合の枡がうまく出来ないことがわかった。厘の桁で良い整数の組み合わせがないのだ。可能な組み合わせは15通りあり、全く出来ないわけではないのだが、一合枡は底の浅いものになるし一斗枡は深く、一升枡と似た形にならなくなってしまう。なぜうまく整数にならないかと言うと、490、270は7、5、3、2の4種類の因数を含むが、500、250は5と2しか因数に含まれないので、掛け算を縦横と深さに分けるやりくりが出来ないからだ。ちなみに、5寸8分8厘は2×2×3×7×7厘という因数の組み合わせになっており、10寸5分は3×5×7である。

京枡から新京枡への転換は、一斗や一合を正確に定義して、計量を確立するために必要だったのである。わざわざ因数を増やすために五寸という切りの良い値から一分ずらした値にしたのだ。実際、この近辺で新京枡寸法以外に一斗や一合の枡をうまく作れる数値はあまりない。新京枡は数学的発見であったとも言える。江戸時代の初期に、こうした整数論的考察をして新京枡を提案した人物は、一体誰だったのだろうか?京枡統一令は1669年に出ているが、新京枡が作られ出したのは、寛永の頃といわれている。

一方で、尊徳枡については、実在に疑いが生じた。10.033寸などという寸法では、40.99299升となり、本当はぴったりと41升にすることはできない。木材やカンナを使って「毛」の精度で工作することも現実性がない。改革の目的は、一俵を定めることだったのだから、尊徳枡は、その理由に使われただけで、実際には一斗枡や一升枡を使うこともできたはずだ。花田村の一斗枡が尊徳仕法と伝えられたのは、そういった事情によるかもしれない。探しては見たが、容量41升である本物の尊徳枡はどこにも現存していないようだ。

坂本龍馬異論

昨今の評価では、明治維新と言えばすなわち坂本龍馬の活躍となる。坂本龍馬は完全に英雄視され、いかに偉大な人物であったかの逸話には事欠かない。しかし、実はこれは70年代80年代からの現象でしかない。それ以前には坂本龍馬の名前はここまで有名なものではなかった。

実際、坂本龍馬が明治維新で何をやったかというと定かではない。薩長連合を作ったのは龍馬だと言うが、薩摩長州を代表して決断したのはあくまでも木戸孝允であり、小松帯刀だったし、薩摩の藩論をまとめたのは西郷・大久保だった。長・薩・幕の3すくみになれば薩長の連合はいわば自然の成り行きでもあるし、奇想天外な発想ではない。薩長の連合を説いた人は龍馬に限らず大勢いた。

海援隊と言う組織を立ち上げたことも龍馬の事跡だが、海援隊は高々30名のもので、明治維新に果たした役割は大きくない。日本海軍へも伝統は何等引き継がれていない。幕府の海軍練習所の残党を引き連れていったものではあるが、教育組織ではなかったので人材もたいして排出していない。明治政府で役割を果たしたのは陸奥宗光くらいのものだ。

岩崎弥太郎との関連で海援隊の貿易事業の先駆性が言われるが、岩崎は海援隊員ではない。活動は短期間でたいして貿易も実績がない。いろは丸事件に至っては、積荷が無かったことが沈没船の引き揚げでわかり、和歌山藩から賠償金を取った事は詐欺でしかなかったことが最近明らかになっている。

坂本龍馬の思想が先見的だったことも言われるが、特に著作があるわけではなく影響を与えるものではなかった。「船中八策」と言われる伝聞があるが、出典は明らかではない。自筆で書・ゥれたものは「新政府綱領八策」というもので、もっと簡略な政策事項の羅列に過ぎない。その内容も特に画期的なものとも言えない。当時の人なら誰でも似たようなものを挙げたにちがいない。

実際、横井小楠も「国是三論」「国是七条」「国是十二条」を書いているし、その内容は似ている。「船中八策」が五箇条の御誓文の元になったと言われるが根拠はない。御誓文の作者は由里公正である。由里は横井小楠の弟子だからそちらの影響が強いだろう。船中八策も横井小楠の影響を受けただけのものかも知れない。龍馬が乙女姉に書いた手紙の「日本を今一度洗濯いたしたく候」という文言は有名だが、実はこれも横井小楠の受け売りなのだ。

新政府を立ち上げたのは、天皇が顧問(議定)や議員(参与)を定めて議論で決する小御所会議だが、このやり方は船中八策と同じだ。しかし、これは岩倉・大久保の合作で生まれたものであり、彼等が船中八策を読んだわけではないだろう。当時の情勢としてはこうでなくては前に進めなかったから、誰しも同じ事を考えたのだ。船中八策を読んだかもしれない山内容堂や後藤象二郎などの土佐閥は会議には参加したが蚊帳の外におかれていた。「かもしれない」と言うのは船中八策には原本がなく、後出しで明治元年の「藩論」の中で引用されているだけだからだ。

坂本龍馬は下役の出身で少年時代は特に目立たなかったし、成長した後にはすぐに脱藩してしまったのだから、土佐に殆ど影響力がなかった。岩崎弥太郎とは死ぬ間際まで面識が無かったし、板垣退助も龍馬とはすれ違いだった。龍馬亡き後を引き継いだかに言われる後藤象二郎との関係も、手紙を見れば龍馬は後藤を「先生」と呼び、後藤は龍馬に「君」と書いている。子弟は全く逆である。

だから坂本龍馬は素浪人としてあちこち渡り歩き、放言しただけと言われても仕方がなく、明治時代には、今では誰も評価しない、高山彦九郎や蒲生君平と同じ扱いになっていた。当時、脱藩して諸国を遍歴しながら尊皇攘夷をアジって廻った浪人は沢山いたのである。明治政府は勲功により龍馬家督の相続を認めたが石高は15人扶持という評価だった。せいぜい下士官の待遇でしかない。

明治初期には、維新の立役者は誰かといった評論が盛んに行われたのだが、維新三傑論では西郷、木戸、勝を挙げており、坂本龍馬を入れて四傑にしろなどといった異論も無く定着した。山脇之人の十傑論も明治17年に出版されていて江藤新平、横井平四郎、大村益次郎 、小松帯刀、前原一誠、広沢兵助、岩倉具視 を三傑に加えているがこれにも坂本龍馬は入っていない。やはり異論はなかったようで、その後これで定着した。坂本龍馬については、あまり知られていなかったと言う事だ。

十傑は明治になるまで生き残って元勲として明治政府で活躍した人に限られているのだから、暗殺されてしまった龍馬が除外されているという解釈もあるが、龍馬が暗殺されたのは大政奉還の後だし、横井小楠も龍馬以前に蟄居させられ、明治になって出仕した途端に暗殺されて政府では何もしていない。坂本龍馬が本当に重要な人物ならそんな切り分けはやらないだろう。

横井小楠の方は人物として評価が高かったことがわかる。勝海舟は龍馬を評価していたことで知られるが、弟子の一人としか見ていない。勝が『氷川清話』に「俺は恐ろしいものを2度見たことがある」として西郷隆盛と横井小楠に会ったことを挙げている。西郷が幕府をも倒すほどの実力者であり恐ろしいのはわかるとして、一介の思想家に過ぎない横井小楠が恐ろしいとは、ひたすらその思想の影響力にある。坂本龍馬はそれほどでもなかったと言うことだ。

忘れ去られた名前である坂本龍馬が復活したのは日露戦争の時の事だ。土佐は、薩長土肥の一角を占めてはいるが、地の利に恵まれず全国区で活躍した人物が少なかった。薩長に頭を抑えられ、何かにつけて割を食っていた土佐閥には、新政府まであと一息の所で坂本・中岡が死んだことが悔やまれた。坂本が生きていたなら、などという思いが根強くあったのだ。宮内大臣だった田中光顕が昭憲皇太后のバルチック艦隊撃破を予言した夢の話を聞き込んだ。この、夢枕に現れた侍を坂本龍馬だとして宣伝したのである。

以来、龍馬の名前は少し知られるようになり、いろんな本にも登場するようになった。真山青果が戯曲『坂本龍馬』も書いた。しかし、知名度はまだまだ低く、大方の人の明治維新は三傑、十傑の活躍で占められていた。大仏次郎の鞍馬天狗40巻は映画にもなり大衆に広まった。このお話には近藤勇、桂小五郎、西郷隆盛、伊藤俊輔、井上聞多、あるいは横井小楠など実在の人物が数多く出てくるが、坂本龍馬は出てこない。

今のような龍馬像が浮き上がったのはひとえに司馬遼太郎の「竜馬が行く」がベストセラーになって、鞍馬天狗の明治維新観が覆されてからだ。根底には明治維新のとらえ方の転換があった。明治維新を主導したのは王政復古の勤皇運動だったのだが、それでは現代から見た意味合いがあまりにも空虚で、どの物語も主人公が命を掛ける意義に乏しくなってしまう。その・スめ、明治維新をむしろ近代化改革として捉えたいという願望があるのだ。単なる尊王論者を超えた明治維新人格を期待され、司馬遼太郎の創作がこれに合致したのである。龍馬ではなく「竜馬」としたのは、司馬の創造した人物であるという意味だった。

万次郎と彦の接点

長い鎖国の時代を超えて、日本人の目が世界に見開かれるようになった時に、いち早く英語を身につけたのは、漂流した庶民だった。中浜万次郎とジョセフ彦が、鎖国日本に風穴を開けたと言える。二人が、世界をどのように理解したのか、そして日本が二人をどのように受け入れたのかは、大変興味深い。同じ時代に、同じ分野で活躍した二人ではあるが、実は驚くほど接点が少ない。共同して何かをやり遂げる意思を持ったのではなく、それぞれに時代を生き抜いたということだろう。

万次郎は一八二七年に生まれた土佐の漁師のせがれだった。父が死に、子供のときから漁に出た。何の教育も受けず、日本語の読み書きもできなかった。一四歳の時に、足摺沖で遭難し、十日間漂流して鳥島にたどり着く。絶海の孤島で半年あまりを過ごし、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助された。ハワイで下船して帰国を望む仲間と別れて捕鯨船に残り、一年四ヵ月の航海を続け、マサチューセッツ州・フェアヘーブンについた。万次郎の英語は、この航海中に耳から学んだものだ。若さゆえの好奇心が、日本で最初の英語習得者を生んだ。

船長に見込まれ、ここで教育も受けた。三年間の教育で、数学、測量、航海、造船なども学んだ。航海士となった万次郎は、大型捕鯨船に乗り込み、二年がかりで世界一周を果たしている。船を下りたあと、カリフォルニアで金鉱探しに参加して、これで金を稼ぎ、帰国を策した。学んだことを日本に伝えたいと言う気持ちもあったし、故郷には帰りたかったであろう。ハワイから上海に渡り、日本への便船を待ち、翌年沖縄に上陸した。

一八三七年に播磨で生まれた彦が一三歳で遭難したのは、二三歳の万次郎が上海にいたころになるから、丁度すれ違いということになる。彦は漁師ではなく、見習いに過ぎなかったが、船乗りあるいは商人だった。寺子屋にも通い、多少は読み書きも出来たことが、万次郎との大きな違いだ。伊勢大王崎沖で廻船栄力丸が暴風雨に巻き込まれ、二ヶ月洋上を漂流して、米商船オークランド号に救われた。

サンフランシスコで一年余り、船員たちの庇護の下、下働きをして暮らし、ペリーの日本遠征に乗船して帰国することになった。彦の最初の英語は街で覚えた生活英語だった。香港まで来たが、ペリーの船を待つ間に、気持ちを変え、サンフランシスコに戻る。このまま鎖国日本に戻ることに不安を覚えたのだ。日常生活に事かかない英語を身につけていたと見える。自分の意思でアメリカで生活することを選び、教育を受けるために、キリスト教徒にもなった。

こうした心の自由は、当時の日本人にはあり得ないようなものだった。たとえば、同僚の仙太郎は、ペリーと共に浦賀に着いたが、幕府の役人を見ると、土下座するばかりで一言も発することは出来なかった。後年、宣教師に連れられて帰国したが、外国人居留地から一歩も出ることはなかった。鎖国日本の桎梏は厳しく日本人の心まで支配していたのである。実際、同時代に漂流してある程度の英語を習得した日本人は、他にもかなりいたのだが、それを役立たせたという点で万次郎と彦だけが特別だった。

比較してみると、万次郎のほうが帰国の願望が強かったし、そのために日本の制約を受け入れ、決してキリスト教徒にならなかった。帰国してからは、幕府や藩にも従順で身分をわきまえた行動に終始した。彦はもっと解き放たれており、キリスト教徒となることにも躊躇しなかった。アメリカ国籍をとり、日本の身分制度を蹴飛ばしてしまう行動を取った。生まれは十年違うのだが、激動期の10年の違いが大きいのかも知れない。

琉球に着いた万次郎は、薩摩に送られ、さらに土佐に送られ、白州に引き出されての詮議を受けた。蘭学が盛んになり、土佐藩でも万次郎が得てきた知識に関心があった。万次郎を城下に留め置き、士分に取り立てた。士分といっても、御扶持切米を与えられる「御小者」だから、中間のさらに下で、苗字もなしである。

黒船が来航し対外対応が必要となった幕府は、情報を得ようとして万次郎を江戸に差し出させた。このとき、普請役格となり、中浜万次郎を名乗ることになった。直参であるが、二十俵二人扶持だから、下役であり、結局一度も江戸城に登城することはなかった。江川英龍の住み込み秘書といったところだ。江川邸で多くの幕臣に英語を伝授したが、二度目にペリーが来たときも、幕府からの信頼が得られず、通訳はしていない。英語以外の専門知識は捕鯨と航海術だったので、幕府在任中は、この指導が大きな仕事になった。

彦のほうは、教育を受けたあと商人を目指した。ブキャナン大統領と面会したりして、活動の範囲も万次郎より広い。米国市民権を取り、日本に帰っても鎖国令の処罰を受けないように考えた。日本には、神奈川に領事館を作る公使ハリスの私的通訳としてやってきた。アメリカ人に日本の身分制度は通じない。幕府の重役といえば殿様なのだが、彦はものおじすることなく対等な交渉相手として振舞っている。このあたりは、完全に時代を超えている。

彦が神奈川に来たころ、万次郎は江戸の軍艦教授所で航海術を教え、「鯨漁之御用」となり、洋式捕鯨の定着を試みていた。外国人は江戸に立ち入りが許されなかったので、万次郎と彦が出会うことはなかった。黒船騒ぎは一段落して、日本で求められることが言葉だけから、言葉で伝えられる内容に移っており、万次郎も文明を伝えようとしていたことがわかる。しかし、航海術は文献も豊富になって来ていたので長くは続かなかった。捕鯨は万次郎の専門分野であるが、これについては、日本の漁師に学ばせることがなかなか難しく、あまり進展しなかったようだ。

幕府は、一八六〇年に遣米使を渡航させることになったが、これは両者が関わるものであった。ハリス公使の通訳である彦は派遣調整の窓口でもあったし、万次郎は幕府が抱える最良の通訳である。しかし、この時も、万次郎は幕府には信用されなかった。身分制度のもとでは、漁師出身者を表舞台に立てることはなかったのだ。正使が乗るポーハタン号ではなく、護衛船咸臨丸の通訳となった。彦はポーハタン号を訪れ、村上摂津守などの使節と会見しているし、友人ブルック大尉を咸臨丸に見舞っているが、自伝にも万次郎と会ったという記録はない

咸臨丸の航海については、福沢諭吉が詳しく書き残しているが、これにも万次郎は、ほとんど出てこない。諭吉と万次郎がウエブスターの辞書を買った、と一言出てくるだけだ。初めて訪れるアメリカの事を知っている万次郎に、色々と教わっても良さそうなものだが、その様子がない。土佐の漁師であった万次郎がアメリカで得た知識は、捕鯨と航海に限定され、社会制度や自然科学の広い理解は出来ていなかったのではないだろうか。諭吉も通訳の資格で乗船している。諭吉、彦、万次郎は得意分野が被り、お互いに敬遠するところがあったのではないだろうか。

彦は、サンフランシスコの街中で暮らし、社会制度や、商取引についても知見を持っていたから、万次郎よりも視野が広い。ハリスの通訳を退任して、横浜での商売を試みている。日本初の新聞紙を発行したりもした。大政奉還に揺れる日本で、「国体草案」を提言し、この中で二院制議会を作り、諸大名が合議する院と百姓町人を代表する院を設けることを提言しているのは画期的だといえる。坂本竜馬の船中八策どころではない。

咸臨丸が出航したあと、日本は反動で尊皇攘夷熱が高まり、ヒュースケンの暗殺などもあって危険が感じられたので、彦は一度アメリカに戻る。このときリンカーン大統領とも面会し、今度は、アメリカ領事館の正式な通訳官として日本に戻った。遣米使節団から戻った万次郎は、鳥島や小笠原に出かけての調査を行うなどの任務をやっているから、彦との接点はない。大政奉還の大波が訪れ、幕府も調査をやらせる余裕がなくなり、万次郎を薩摩に貸し出すことになった。

この頃、彦は、グラバーに誘われて領事館を辞して、拠点を長崎に移した。やはり、商売で身を立てたいというアメリカンドリーム的な発想が続いていたようだ。茶の輸出をもくろんでいたし、鍋島炭鉱開発にも関与した。薩摩に呼ばれた万次郎は、上海などに行って軍艦や武器の買い付けを手伝うことになった。グラバーは武器商人でもあったので、薩摩藩士と共に長崎にも出張した。長州が薩摩名義で武器を購入したのはこのときである。一八六七年一月六日に、万次郎と彦が対面したことは確実である。しかし、その感想とか、二人が何を話したかについては何も記録がない。

1968年は明治の政変があり、世の中が変わった。もはや武器も高値で売れなくなり、グラバー商会は倒産して、彦は神戸に住み着くようになった。彦はグラバー商会つながりで薩長と通じていたし、神戸で伊藤博文などと知り合い、明治政府とのつながりができた。神戸事件は無名の伊藤博文が政府中枢に駆け上がって行くきっかけとなった事件であるが、政治的な立ち回りが早い伊藤のような人物が、自ら通訳するようになり、もはや彦などに頼るようなことはなくなっていた。

彦は大蔵出仕となって、造幣局の設置や商業教習を行うが、ビジネスをやりたいという気持ちは変わらず、茶の輸出を行う。彦のビジネスはそこそこ儲かったようだが、一市民としての暮らしに終わった。浜田彦蔵を名乗ったが、最後は外人墓地に葬られている。結果としてはあまり成功だったとはいえない。万次郎は、幕府がなくなったあと土佐に帰るが、新政府から呼び出されて、開成学校で英語を教えることになった。明治政府の遣欧使節団に加わり世界をもう一度回ったが、大きな表舞台に出ることはなかった。

なぜ征韓論が内戦にまでなったのか

征韓論が大問題となった明治6年と言う時期は、重大な内政問題が山積みであり朝鮮と戦争するどころではなかったことが今では誰にでもわかる。だから征韓論が大勢を占め、その始末が政府の分裂から内戦にまで至ったことはなかなか理解しがたい。明治政府の参議筆頭であった西郷隆盛が政権を放り出してしまう必要がどこにあったのか。これを解くには明治維新とは一体何だったかに遡らなければならない。明治維新は大きな変革ではあったが、庶民にとっては、幕府でも天皇でも結局おなじことであり、言わばどうでも良いことだった。政争の中身的にも武士と武士の争いでしかなく、民衆には社会的な必然性もなかった。だから近代化などということは、当時の文献の何処にも勿論出てこない。明治維新は、全く観念的な武士たちの哲学論争の結果なのである。

徳川幕府崩壊の大元を作ったのは水戸光国である。幕府が発足し、民心も安定したところで、国のイデオロギー的基礎を固める作業が必要となり、それが大日本史の編集であった。かつてヤマト政権が行ったように、歴史を書き換え、日本が徳川氏の支配になることが運命付けられており、萬世一系の徳川氏が唯一の正当政権であることを基礎付けるべきだった。少なくとも日本書記などが都合よく歴史を改竄したものだということをはっきりさせておくべきだった。ところが、水戸光国はヤマト政権の作った日本書記などをそのまま正史として採用してしまった。徳川氏は2代目以降も、天皇から征夷大将軍を委託されて政権を担当する形式になったのである。

これでは将軍が徳川氏であることに何の必然性もない。武家の中心規範は理屈をこねずに主君にしたがうことだから、天下泰平のうちはそれでもよかった。多少異論があっても「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」と言う朱子学のテーゼで議論を終わらせた。しかし、外国船が出没し、外国と条約を結ぶなどということになると国の主体がどこにあるのかが当然問題になってくる。黒船の大砲の威力に対抗できず、右往左往の醜態をさらすとなれば幕府の正当性がますます疑われるようになる。

攘夷で始まった幕府批判は、国学の流行に結びつき、たちまちのうちに日本中が国学イデオロギーで塗りつぶされるようになった。国学とはすなわち狂信的な天皇崇拝の思想だ。神国を護るために、サムライテロが荒れ狂った。おびただしい人々が暗殺されたが、一面、この狂気が外国人を恐れさせて居留地にとどめ、国内市場を外国資本が支配してしまうことを防いだともいえる。幕府公認の歴史書「大日本史」が正しいとすれば幕府は潰れねばならない。もう誰にも国学思想は押し留めることが出来なかった。国学の帰結である王政復古の要求は日増しに強くなったが、徳川幕府は全く反論していない。幕府には対抗理論が存在しなかったのだから仕方がない。せいぜいが公武合体を画策して日延べするくらいの抵抗策しかなかった。

国学のイデオロギーは萬世一系の天皇を頂く日本が唯一の神の国であり、天皇が世界に君臨する存在であることを主張する。ヤマト政権が権威付けに作り出した神話であり、もちろんこんなものが国際的に通用するはずがない。中国には中華思想を軸とする厳然たる秩序があり、朝鮮や琉球は冊封体制に組み込まれている。キリスト教国から見れば、日本が神の国であるなどと言うことなどお笑いでしかない。しかし、当時の人士はこれをよりどころとして信じ、命をかけたのである。

現実が困難であればあるほど理論は先鋭化する。何が真実かを実力で示そうとする。日本を神の国とする国学イデオロギーの行き着くところは世界制服しかない。佐藤信淵は早くも1823年に「混同秘策」で世界制服論を述べている。吉田松蔭も「獄是帳」で「国力を養い、取り易き朝鮮、満洲、支那を切りしたがえ、」とやはり世界制服論を展開している。明治維新をもたらした思想はそのまま海外侵略へ日本を駆り立てることになる。

しかしヤマト政権が掲げた天皇制のイデオロギーは、実は過去に一度挫折している。中国のあまりの強大さのために、日本も東夷として朝貢せざるを得なかった。中華冊封体制に組み込まれ文化的にも従属した。それゆえ、再挑戦の明治王政復古にとって中華思想の克服は中心的な課題となった。明治維新は中華思想を克服せずには完結しないものだったのだ。朝鮮王朝が明治政府の通商を断り、中華冊封体制の堅持を決めたことは、勤皇の志士には国学イデオロギーの挫折を強要されたに等しかった。

だから、まだ新しい政府の何も整わないにもかかわらず「征韓論」が持ち上がった。これは単なる政策の優先度争いではない。考え方としては明治維新の完成と征韓論は一体のものだった。実際、征韓論に対して真正面から反対を唱えた人は誰もいない。王政復古を推進する限り反対する理由はないのだ。西郷はじめ多くの人々が征韓論を唱え、政府部内でも多数派を形成した。しかし、欧米視察帰りの現実派が陰謀でこれをひっくり返したのだ。公家の戦争恐怖を利用して策略的にこれを押さえ込んだし、天皇の裁可という切り札を使われると征韓派ももう従うほかない。現実主義になりきれない征韓派は、これは我々の目指した明治維新ではないと、下野せざるを得なかった。

おそらく征韓論が現実にそぐわないとは意識していただろう。それでも征韓派は明治維新を貫きたかったのだ。明治維新は国学の理想に熱狂した精神運動だった。この理想のために殉じることがもっとも気高いこととされ、実際に多くの有能な人々が、立派であるからこそ死んだ。吉田松陰、久坂玄随、高杉晋作、坂本竜馬、武市半平太、など数え上げればきりがない。西郷隆盛や前原一誠には、自分がこれらの人々から死に遅れた自責の念が強かったにちがいない。だからあくまでも明治維新の理想を貫き、ことの流れに身をまけせて死んでいくことを望んだのである。

近年、西郷隆盛の征韓論を擁護する論調が出てきているが、先に使節を送る二段階論といきなり兵隊を送る一段階論に大差はない。事実、西郷は朝鮮での軍事作戦まで立てている(広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」)。後年の日清戦争での朝鮮侵攻経路は、このとき西郷が考えたものと同じだ。最終的には征韓派はすべて西郷の二段階案に同調したから西郷が征韓論の中心人物になった。西郷は自分が使節となり、烏帽子直垂で出かけて日本こそが神の国だと説得するつもりだった。もちろん朝鮮との間に妥協点を見出すような外交は西郷の忌み嫌うことだ。腹を割って話せばわかると本気で思ったかもしれないが、所詮外国には通用するはずがない理屈だ。死に場を求めている西郷はその場で切腹するつもりだったかもしれない。維新の理想に殉じて死ぬことこそ西郷が求めていたものだからだ。

征韓論が頓挫して、大久保や伊藤のような「不純」な志士達が主導するようになってやっと明治政府は近代化を方向とすることが出来るようになった。しかし、国学思想の呪縛は節々で現われ、第二次世界大戦が終わるまで日本を戦争の世界に引きずったのである。

日清戦争・成歓の闘い

大日本帝国の歴史は戦争の歴史である。開国以来日本は戦争を重ねてきた。その第一歩が日清戦争であり、日清戦争の緒戦が成歓の戦いであり、そのまた最初の衝突が世に言う安城渡の戦あるいは佳龍里の戦闘である。華々しく戦争の世界にデビューした日本の姿を伝える講談調の書き物には事欠かない。どれもが、待ち伏せして襲い掛かる清国兵の大軍、軍人戦死第一号である松崎大尉の鬼神の奮闘、死んでも喇叭を吹き続けた壮烈喇叭手など、様々なエピソードを持って語られ、日本が輝かしい最初の勝利を手にした事を伝えている。

しかし、事実は多少異なり、実はこの戦闘で、見方によれば日本は負けたのではないかということが今からここに書く主題である。戦闘詳報や当時の新聞記事などを調べて、定説と異なる結論を得たのだ。というより、この戦闘はあまりにも伝説化されていて批判的に検討されたことがなかったのではないだろうか。

日清戦争は1894年8月1日に始まり、翌年4月17日に終わった日本と清国の戦争である。明治維新で中国、朝鮮より一足早く近代化を成し遂げた日本は、早速西洋国家の後追いで対外進出を始めた。明治維新早々に征韓論というのがあって、朝鮮に攻め込むことが議論されたが、結局は政府内部でまとまらず、逆に国内で分裂して、西南戦争を始めてしまった。それがこんどは「朝鮮の独立を守るために清国と戦う」などと言うことになった。宣戦布告文の草案が何種類かあって其の中には「清国及び朝鮮国に対して宣戦を布告する」なんてのもあるくらいだから実にいい加減な理由付けだ。

そのころ朝鮮では東学党の農民一揆があちこちに起こり政情不安であった。朝鮮は清国に援助を求めた。清国は朝鮮の「宗主国」を自認しており朝鮮に問題が起これば軍が駆けつける安保条約のようなもので結ばれていた。ところがこの状況に対して、清国軍では日本人の安全は守れないとして、(例によって)在留邦人の保護という理由をつけて日本も清国を上回る大軍を朝鮮に派遣してしまった。広島にあった第5師団に大島義昌が率いる混成旅団が編成され、これに広島11連隊と岡山21連隊が属した。喇叭手美談で知られる木口小平も白神源次郎も21連隊の兵卒である。

広島は、山陽鉄道が開通して広島までの鉄道が使える様になったので、兵器・兵員の集中拠点として大変都合がよかった。広島から宇品港を出て朝鮮半島に出撃することも出来る。日本軍は西郷隆盛らが征韓論で作戦検討したとおり、仁川に上陸し、そのまま京城まで行ってしまった。朝鮮王宮に押し入り、朝鮮軍を武装解除して国王を捕虜にしたのだからこれは日朝戦争と言っても良いはずのものだ。抵抗が少なかったので華々しい戦闘にはならなかった。それでも1等卒早山岩吉が戦死しているし韓国側にも戦死者が出ている。この時点ですでに戦死第一号が松崎大尉であると云う定説が崩れる。

捕虜にした国王に「清国軍を追っ払って欲しい」と言わせて、これで清国に対する宣戦布告の理由が出来た。宣戦布告文案からは「及び朝鮮国」が抜けた。大義名分が出来たのが7月23日、7月25日には清国が日本に対抗して増援兵を送るために英国からチャーターした輸送船を襲っていきなり千人以上を殺してしまった。日本軍は真珠湾でもそうっだったが、不意打ちを食らわすのが得意の戦術で、思いっきりひっぱたいておいてから、「喧嘩だ。さあかかってこい。」と叫ぶのである。豊島沖海戦と呼ばれる輸送船襲撃事件は、まだ宣戦布告も出していない時点だから実に乱暴な話だといえる。沈む輸送船から投げ出された千名の清国兵を助けず皆殺しにしてまったのは残虐行為だが、当時のいい加減な国際法には違反していないそうだ。

清国軍は京城に攻め込むというようなあつかましいことは出来ずに京城のかなり南にある牙山を本拠に農民一揆の討伐を行っていた。増援軍は皆殺しにしてしまったから、当面は数的にも日本軍が有利である。早期の開戦が望ましい。日本としてはまず牙山の清国軍を叩こうと言うことで混成旅団が南下した。23日の王宮占拠から25日の豊島沖海戦、29日の成歓の戦いまでの実に素早い動きは充分に計算された計画に基づくものであったことがうかがい知れる。時期早尚として一時は退けた征韓論から20年。練りに練った作戦を展開したのだ。

素早い動きが出来た理由の一つは、もうひとつの日本の得意技、「補給をしない」と言うことである。太平洋戦争では補給のことをよく考えていなかったために負けたようなことを言うが、実際はよく考えた上で補給はしないことにしたのである。大島旅団からの補給の要請に対して、答えた大本営の6月29日の訓令はそれを明確に述べている。補給隊を送れば、その補給隊の食料まで送らなくてはならなくなり、きりが無い、戦争と言うのは補給無しで身軽にして始めて戦えるものだ。補給の要請なんてとんでもない。もうこれからはこんなことを言って来るな。そんな事をあからさまに書いている。

というわけで、食料や馬は原則現地調達つまり略奪でやることになった。確かに理屈は通っている。登山隊のことを考えれば、ほとんどの人員はベースキャンプから第一、第二キャンプへの補給隊になっている。山頂へのアタック2人に対して50人からの登山隊を組織する。まともに補給すれば50人中2人しか戦わないことになるのだ。逆に言えば古来、遠征軍とか侵略軍とかは全て略奪でやって来たということだ。日本軍はこれを徴発と言っているが、徴発とは強制的に入手することで値段は買い手が勝手に決める。値段をゼロにすれば強盗である

補給を徴発でまかなうと言うのも実は楽ではない。それはそうだ。だれだって略奪されるのは好きではない。当然、現地の人は軍隊を見れば逃げ出すし、食物は隠す。馬なんかを取られたら農耕も出来なくなるから大変だ。徴発された人足は当然隙を見て逃げ出す。木口小平も白神源次郎も、第3大隊に入っており、隊長は古志正綱少佐であった。生真面目な人で上層部の信用も厚かったので、旅団が苦労して略奪した50頭ばかりの馬と人足をこの第3大隊で預かっていた。ところが牙山に向かって進軍し始めて3日目の夜、この馬と人足に荷物ごと逃げられてしまった。そのため混成旅団は食料不足に陥ってしまった。参謀長長岡外史に怒られた古志少佐は責任を感じて自殺してしまう。これが日本軍戦死の実質二人目であるがもちろん公式には戦死とはなっていない。第3大隊は大隊長不在のまま戦場に赴くのである。この混乱が第三大隊の兵士たちに無残な死に方が生れた遠因とも考えられる。

混成旅団の戦闘詳報によれば、7月28日は素砂場で野営し、7月29日早朝2時に牙山に向けて出発した。出発時刻からもわかるようにこれは単なる行軍ではなく夜襲をねらった出撃である。宣戦布告はまだだが、情況はもう開戦したも同じで、清国兵はおそらく牙山の手前に進出して来ていて明け方に成歓あたりで衝突することが予想された。連日雨が降り続いていたので、道は糠り、闇夜の行軍である。安城渡で河を渡った。ここでは戦闘は行われていない。この戦いを安城河の渡河作戦とする書き物は、詩吟の定番である「松崎大尉戦死の詩」など全て間違いと言うことになる。

ここから成歓までは田圃の中の細い一本道となる。いくらなんでも敵が山峡の要害で待ち受ける成歓まで、この細い道を縦列になって歩いて行く手はない。旅団は二手に分かれ、主力左翼隊は山伝いに東に迂回して成歓の東から攻撃する。右翼隊は陽動作戦でそのまま街道を進んで成歓の西に出るということになった。白神たちの第3大隊は右翼隊で、先頭は松崎直臣大尉が率いる第12中隊。後に続くのが10中隊と9中隊、第7中隊で、工兵中隊や衛生隊が後尾になった。おそらく木口は第12中隊、白神は第9中隊にいたと思われる。報告に出てくるのは将校ばかりで兵卒については所属すらなかなか明らかにできない。

20分ほど歩いて秋八里の手前600mの所まで来た。「キリン洞」と書いているが「佳龍里(キョロン)」だろう。雲の切れ目に弦月が出てうっすらと物が見えるようになった。前方30メートルのところに家が何軒かあり、そこに清国軍の「師」旗が2本見えた。と思ったら急に家の蔭から射撃が始まった。猛烈な射撃でおそらく400人からの軍勢だと判断したと報告しているが、戦闘詳報は必ず敵を多く報告するものだ。小屋の後ろに隠れるくらいだから実際には200人くらいだっただろう。清国軍の突然の射撃に反撃する形で戦闘が始まったとしている。木口小平はおそらくこの一斉射撃で死んだのではなかろうか。喇叭を吹く余裕はなかった。中隊長の松崎大尉もこの時死んだだろう。松崎大尉は日清戦争の戦死第一号ということもあって、その戦死は美化されて大々的に語られている。突撃してサーベルで切りまくったことになっているが、それではこの突然の一斉射撃とつじつまがあわない。戦死第一号はこの200丁以上の銃による30mの至近距離からの一斉射撃によるものと考えるしかないからだ。

第12中隊は道路から田圃に飛び降りて左側散開して伏せた。後続の中隊もそれぞれに田圃の中に入って泥まみれで散開して前方の家屋に向かって射撃しながら突撃の体制を準備した。第7中隊と第10中隊の一部は右側に回って射撃した。3時45分、突撃命令で600人が一斉に襲い掛かった。このとき進軍喇叭が鳴り響いたことは従軍した新聞記者が記録している。部隊が突撃すると清国軍はかなわぬと見て背走した。暗くて敵味方入り混じった状態では追い討ちの射撃も充分には出来なかった。一応は敵を追い払ったのだから日本軍の勝利ではある。しかし、清国側の記録では、逃げる日本軍を水構に追い落して打撃を与えて、さっと引き揚げたと言うことになっている。

この「水構に追い落として」と言うところは日本側の記録にも出てくる。21連隊の戦闘詳報にも時山中尉以下24人が溺死した書いてあるが詳しい情況は書いてない。いくつかの通俗本ではもう少し詳しく説明してある。当日は闇夜であり、泥まみれで突撃の際、増水した田圃は渕との区別がつかなかった。第7中隊の時山少尉は第7中隊と第10中隊の1分隊づつ計23人を率いて右翼側から突撃する命令を受けたが、そこは運悪く渕になっており、深みにはまって全員が沈んでしまったと言う。重い装備を背負って、泥沼に踏み込んでしまったのだから泳ぎ様も無い。溺死が多かったことからこの戦いを渡河作戦だとする解釈が生れたのだが事実は異なる。

当初の報告では時山中尉は行方不明で、溺死の事実は隠されていたが、正式な報告でははっきりと溺死と記述している。これには、敵の死体を数えたら将校1と兵卒20でしかなかったことがからんでいる。この日の日本軍の損害は合計35名だから溺死の24名を除外しないと清国軍より大きな損害となる。結局、佳龍里で戦死は将校1兵卒5で日本軍の勝利が正式報告と言うことになった。激戦と言われるにしてはあまりにも少ない損害と驚かざるを得ない。

通俗本の溺死状況をはじめ、よく言われている成歓戦の様子は疑わしいところがかなりある。「時山中尉が第7中隊と第10中隊の2分隊を率いて」と言うのも実に妙だ。時山中尉は第3大隊第7中隊の第1小隊長で、配下に5分隊70名ばかりを指揮しているのである。戦闘のさなかに自分の小隊の1分隊だけと全く別の大隊の1分隊を率いて行動するわけが無いだろう。戦闘詳報にある「第7中隊の1分隊と第10中隊の1分隊を右翼に増強し」を勝手に時山中尉に結びつけたものだろう。屍体検案書が残っている溺死者は2人だけだが二人とも第9中隊だ。一方、野戦病院の記録からは第12中隊3人第10中隊3人第7中隊1人がこの日全体の戦死者になっている。第9中隊は戦死の記録がなく、死亡15名だからほぼ全員が溺死である。結局、時山中尉とあと7人の第7中隊員と第9中隊の15人が溺死したことになるが、これは別段時山中尉に率いられての特別の行動ではないだろう。白神源次郎は第9中隊だから溺死したものの1人と考えられる。

ではどのようにして溺死することになったのだろうか。軍の記録以外にも一次資料はあって、大阪毎日新聞の高木利太、東京日日新聞の黒田甲子郎がこの日従軍している。二人とも進軍喇叭の響きを文章に伝えているが、喇叭手のことについては何も触れていない。これからも喇叭手美談が現場で生まれたものではなく、内地で作られたものであることがわかる。注目されるのは黒田甲子郎の記事で「一部は少く背進し瀦水中に陥りたる兵士十数名は最も憐なる態にて退き来るを以ってここは畢竟枝隊の敗戦と見受けられたり」とあるから、戦闘詳報には一言も書いてないが、日本軍が一時的にせよ「背進」つまり逃げたことは確かだろう。清国側の記録の通り、逃げる時に水溝に落ちたのかあるいは、攻撃の時に落ちたのかのどちらかだろう。

水死体を実況見分した報告書によれば17体を発見した場所は安城川の支流につながる水構で、佳龍里からは北に400mほども離れている。だから、「突撃」で落ちるには少し遠すぎる場所だ。行軍隊列が長くなって、戦闘が始まった時点では9中隊7中隊はまだ川を越えずにいたとも考えられるが、工兵隊、衛生隊が渡河して川堤に布陣したのだから、これらの中隊はもっと前進位置になければならないし、実際10中隊7中隊の分隊は右翼へ回って射撃している。つまり、ここの地形としては退却する以外に水構に落ちることは出来ないのである。

さらなる疑問は緒戦の部分にもある。清国軍は堂々と「師」の旗2本を掲げているのだから「伏兵」はないだろう。そもそも、佳龍里の集落は成歓街道からは100mも離れている。ただまっすぐ行軍していたのでは30mの距離には近づけない。清国軍は単に野営していたのではないか。まだ宣戦布告前で開戦はしていないし、真夜中の三時だ。「師」の旗2本を見て、日本軍はこっそり近づいて寝込みを襲おうとしたのではないだろうか。街道からはずれ30mまで近づいたところで清国軍は日本軍の襲来に気づき、あわてて撃ってきた。こう考えないと30mの至近距離から待ち伏せしていた400名が一斉射撃したことになり、先鋒の12中隊で戦死者が僅かに4名しかいないのは説明がつかない。

計画的な一斉射撃ではなかったがかなり猛烈な射撃と思われたので、日本軍も慌てて一旦は逃げた。なにしろこれまで一度も本格的な戦闘を経験したことのない兵隊たちだ。先頭部隊である12中隊が攻撃を受け、続く10中隊も浮き足立った。まだ川堤から遠くないところにいた7中隊、9中隊は、慌ててばらばらに逃げようとして一部が転落した。これが9中隊7中隊にまたがって溺死者が出た理由だ。しかし、清国軍は追ってこなかったし、日本軍の軍勢は倍以上あり、優勢なので体制を整えて反撃することにした。日本軍が再び前進すると清国軍は撤退していった。...というのが本当のところではなかろうか。突撃したと言う日本軍の本隊では戦死者が殆ど出ていない。最初の射撃戦以外に清国軍の攻撃はあまりなかったとすると12中隊の戦死者4名はやはり最初の射撃の時のものに限られる。攻撃を受けた第12中隊第1分隊の木口小平は、弾丸が心臓を貫く即死で、進軍喇叭を吹く前に死んだ。進軍喇叭を吹いたのは12中隊にいたあと二人の喇叭手北田文太郎か奥津友太郎だと言うことになる。

あまり華々しくもない最初の戦闘も軍国日本としては美化せざるを得なかった。逃げて溺れた戦争も武勇伝に変えられてその後の戦争のモデルとなったのである。

木口小平の真実

岡山から伯備線で一時間、備中高梁に行くと木口小平の記念碑がある。知らない人も多いだろうが、年配の老人は必ず知っている有名人だ。戦時中、むりやりにでも覚えさせられた名前で、最近また有名にしようという動きもある。「つくる会」のアナクロ教科書が戦前復帰で木口小平を復活させた。ところがその記述を見てみると、「死んでもラッパを手から離さなかったとして、その当時、有名になった。」となっている。「手から離さなかった」だけなら単なる死後硬直でしかない。ラッパを"口からはなさずに"死んだと言う職務遂行の執念がこの美談のポイントなのだから、とんでもない誤りと言える。

この教科書は内容が杜撰で初歩的な誤りが多いそうだが、自らが主張する重要部分ですらこの程度のいい加減さで作られているのには驚かされる。政治的主張だけがあって、子どもたちにまともに歴史を教えるつもりの全く無い教科書である。第三期国定教科書の「キグチコヘイハ、シンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ」は、われわれ団塊世代でも親から何度も聞いて覚えているくらいだから、戦中世代にはよほど脳みその奧まで刷り込まれたフレーズだったはずだ。

実際にどのように扱われたのかを調べて見ると、ラッパ手の武勇伝は早くも日清戦争直後から教科書に出てくる。しかし、その名前は木口小平ではなくて白神源次郎となっている。尋常小学校修身教科書は「しらがみげんじろうは、いさましいらっぱそつでありました。げんじろうはてっぽうのたまにうたれても、いきがきれるまでらっぱをふいてゐました」と書いている。岡山県浅口郡水江村(現倉敷市)には明治二十九年に建立された記念碑もあり、日清戦争直後から大変有名になって、「姓は白神名は源次郎……」と言う歌も出来たことがわかる。だから「当時有名になった」のは木口小平ではなくて白神源次郎である。

日清戦争当時はまだ国定教科書と言う制度はなかったのだが、明治35年(1904年)に国定教科書が出来ると共に「アトデミタラ、コヘイハ、ラッパヲクチニアテタママデ、シンデヰマシタ」と名前が改められ、最終的には先出の「シンデモラッパヲ」のフレーズになったというのが事の次第だ。なぜ7年あまりも経ってから教科書の登場人物の名前が突然変わると言うことになったのだろうか。原因は広島の第五師団司令部にある。

明治政府が徴兵制を敷いて、これまで武士の専権行為であった戦争に庶民を駆り立てることとなった。初めての対外戦争である日清戦争では本当に百姓・町人の兵隊で戦意高揚できるのか非常に不安だったのである。そのためどうしても下級兵の戦争美談が必要になった。海軍では三浦虎次郎という18歳の三等水兵を「まだ沈まぬか定遠は….」の勇敢なる水兵として歌い上げた。陸軍でも終始力強い進軍ラッパを吹いて全軍を励ましていたラッパ手が戦死したという話に飛びついて尾鰭をつけた英雄談を作り上げて発表した。つまり、戦争美談が先にあって名前はあとから当てはめたのである。このラッパ手に該当する兵隊はいるのかと広島第五師団を通して21連隊に問い合わせた所、戦死したラッパ手として白神源次郎の名が帰ってきた。この話ははたちまち有名になり、新聞報道され、錦絵になり、歌も出来た。白神源次郎は庶民の英雄となり、国民の戦意は高揚し広報作戦は大成功だった。

白神源次郎がどのような人物であったかというと、元は高瀬舟の積越人足であったが、徴兵されて岡山21連隊でラッパ手となった。分隊ラッパ卒というのは戦闘部隊ではあるが実際に武器を持って戦うわけではないので兵隊の中でも軽く扱われ、二等兵が当てられる。兵役中白神の力強いラッパはかなり評判が高かった。21連隊のラッパ手と言えば白神の名前が出てくる存在であった。どうせ誰も戦死の現場でラッパの位置を確認したわけでもないので、21連隊の戦死したラッパ手として問い合わせがあれば、白神の名前が返ってきたのも当然であろう。白神源次郎は徴兵され訓練を受けただけで満期除隊したのだが、日清戦争が始まり再び予備役召集を受けた。このとき27歳で1等卒であるからもはやラッパ手ではない。白神は戦闘員として戦死したものの一人だ。

白神は成歓の戦で戦死したがラッパ手ではなかったと言うことは直後から言われていた。陸軍としてはもともと誰でも良かったのだから、白神の名でどんどん宣伝した。しかし、戦争が終わって公式戦史をまとめる段になって困ったことが起きてしまった。広島第五師団の大島旅団が仁川に上陸して最初の戦闘である成歓の戦では、前日から続く雨のため道は水田と区別がつかぬほど水にあふれて行軍が難航した。佳龍里 で待ち伏せしていた清国兵の小屋からの狙撃で戦闘が始まり、結局清国軍を蹴散らしたのだが、夜間で視界が遮られ、運悪く水溝に落ちて23名が溺死してしまった。白神もその中にいたのである。溺死ではラッパの吹きようがないではないか。

戦闘中のことだから溺死であれ弾丸死であれ名誉の戦死で良さそうなものだが、そうも行かない事情があった。佳龍里で戦死した敵兵は将校1、兵卒20でしかない。35名が死んだ日本軍は溺死した23人を戦闘外としないことには、初めての本格的戦闘で負けたことになる。清国軍が巧妙な待ち伏せで打撃を与えてさっと引き揚げたと言うのでは困るのだ。実際、清国側の戦闘記録ではそのような記述になっている。23人の溺死は、当初の戦闘詳報では隠していたが、結局公表することにした。このため白神源次郎の扱いも変えなくてはいけなくなってしまった。

日清戦争における兵卒の扱いはひどいもので、どの戦闘詳報を見ても兵卒の名前は出てこない。防衛省防衛研究所は当時の手書きの戦闘詳報を保持していて、今では○秘資料も公開されているが、将校については戦死の情況などが書かれていても、兵卒は単なる数でしかない。もちろん、ラッパ手の記述はどこにもない。白神源次郎の話は「日清戦争軍人名誉忠死列伝」(尚古堂,明27)にも出てくるし、通俗本にもなっているのだが、著者も資料がなくて書きようがなかったのだろう、中身は隊長松崎大尉や大島旅団長のことばかりになってしまっている。もともと何も書いてないのだから戦闘詳報で名前を取り違えたなどということでも、もちろんない。

さすがに、8月15日になって旅団から正式に出した戦死者名簿には兵士全員の名前が載っている。第五師団は同じ日に戦死したラッパ卒木口小平の名を見つけ出して、「諸調査の結果、かの喇叭手は白神にあらずして木口小平なること判明せり」と一年後に発表し直すことになったのである。そこで今まで誰も知らなかった木口小平の名前が急に出てきた。白神は溺死だが木口の方は確かに弾に当たって死んでいる。屍体検案書もあって、「左胸乳腺の内方より心臓を貫き後方力に向かひ深く侵入せる創管を認む」だから即死で、息も絶え絶えに喇叭を吹きつづけたなどということはありえない事もわかる。

「日清戦争名誉戦死者人名録」(明治28年、金城書院)にも、白神など1000人ほどの名を網羅しているにもかかわらず、木口の名はないから、木口の戦死については全く噂にもならなかったようだ。一度発表して有名になってしまったものを誰も知らない二等卒に取り替えるのは容易ではない。7年後になって国定教科書を作る時点で書き換えを無理やり断行することになった。無論、後の小国民は最初から木口小平だったとして暗誦させられることになった。

戦死と言っても鉄砲玉に当たるばかりではない。成歓の戦では21連隊の戦死者35名のうち白神源次郎を含む23名が溺死だった。日清戦争全体でも日本軍の死者は13488人だが、本当の戦死はその一割にもみたない。11894人が戦病死で、コレラ5991人、赤痢1660人、チフス1326人になっている。台湾出兵での病死が大きい。日本軍はこの当時から一切補給を行わず、食料は略奪による現地調達を最初から決めこんでいた。せっかく略奪した馬に逃げられたと言うことで責められ、白神たちの大隊長古志少佐は戦闘の前に自殺している。これも指揮の乱れで溺死者を出した原因だろう。補給の無い戦場で下級兵卒の苦難はひどいものだっただろう。だからこそ、英雄木口小平が必要だったわけでもある。

「終始力強い進軍ラッパを吹いて全軍を励ましていたラッパ卒」と言う意味では実は白神も木口も当てはめようがない。日清戦争は1894年8月1日に宣戦布告であるから、二人が戦死した1894年7月29日の成歓の戦は公式には戦争が始まる前の小競り合いでしかない。しかも戦闘が始まるやいなや戦死してしまったのだから全軍を励ますどころではない。あえて当てはめるなら平壌戦まで戦って死んだ21連隊のラッパ手、船橋孫市と言うことになるだろうが、そのような訂正はなかった。戦争美談というのはこのようにいい加減なものではある。

後日名誉の戦死を大いに称えられたたが、木口も白神も実は何の恩賞にもあずかっていない。当時は、戦死で一階級特進等と言う制度は無かったし、勲章も死後には与えられなかった。一方、内地から出撃を命じただけの第五師団長野津道貫は戦功で男爵となり、年額千円の恩給を受け取るようになった。昔から戦争で得をするのは偉い人、損をするのは庶民と決まっている。

2.26事件を解明する

2.26事件は、日本が戦争の泥沼に踏み込んで行く端緒となった反乱事件である。しかし、これが何に対する反乱であったのかが定かでないし、何を意図し、何が青年将校たちを思い詰めさせた原因だったのかも、実のところ、よく理解されてない。

実は2.26事件の原因は帝国憲法にあり、明治維新の過ちから来る当然の帰結であった。

法律の素人である伊藤博文が作った大日本帝国憲法には、いろいろと欠陥があるのだが、最大の問題は、ありとあらゆる権能を天皇に集中してしまった点にある。全ての大臣は天皇が直接任命する。総理大臣という規定はなく、首相は大臣たちの中の非公式なリーダーに過ぎない。大権を軍事と民政に分けてその両方を統括するのは天皇だけである。陸軍大臣・海軍大臣は大元帥の直属の部下であるから、首相といえども、天皇を通してしか、指示を出せないことになる。政府が軍のする事に口出しするのはの統帥権の干犯である。

それでも、維新元勲が政治を担っていた明治の時代には、軍と政府間に問題は生じなかった。元勲は全て武士であったから軍人だったとも言える。誰もが軍人として戊辰戦争を戦った経験を持っていたから、直接的に軍の内部にも影響力を持っていた。軍人と政治家の区別はなかったのである。しかし、維新元勲の時代が終わると事情は変わってくる。軍人は職業として戦争をするようになったし、当然のことながら政府は軍人でない官僚たちが担うようになった。政府は軍から分離されざるを得ない。

軍人にとってはこれが不満だった。軍事を知っている自分たちが維新元勲の跡継ぎであるはずなのに、政府中枢から排除されるようになったと感じたのである。明治維新の理想からはずれ、様々な社会問題が生まれたのは、政治を軍から遠ざけだせいだという考えが軍の中に染み渡るようになった。この頃、士官学校・陸軍大学といった職業軍人の養成課程が確立され、社会からは分離された閉鎖的な集団を形成するようにもなっていた。

第一次世界大戦が終わり、世界が軍縮に向かうころから、世界の趨勢を無視できない政府と権益を守ろうとする軍に溝が広がり始めた。困ったことに、こういった事態が起こると収拾がつかなくなる構造を大日本帝国憲法は、最初から持っていたのだ。

平時の軍は戦功での評価がないので、完全な学歴社会になる。帝国憲法の構造上、士官学校を首席で卒業すれば、その時点で何年か後に、総理大臣といえども口出しできない地位に就くことが決まってしまうのだ。だから、青年将校をおろそかに扱うことは出来ない。

こんなことから、青年将校たちは、社会経験が薄いにも関わらず、自らが特権を持ったエリートであると意識し始める。平時には、本務である戦闘がないので暇でもあり、関心は政治に向かう。桜会、一夕会といった政治団体が軍の内部に生まれ、派閥化して行った。

こうした政治派閥がお手本にしたのは明治維新であり、彼らは昭和維新を標榜することになった。明治維新は、結局、薩長の青年将校たちが起こした武力クーデターであった。明治維新を礼賛する限り、天皇を担いでおきさえすれば、クーデターは許されると言う考えを否定することは出来ない。

彼らは平然とクーデターを実行する主張を繰り返し、特権意識をあらわにしていた。議論を尽くすよりも、命を懸けて武力を用いるのが美徳だとする価値観まで見受けられる。実際に10月事件、3月事件といったクーデター未遂事件を起こしているが、まともな処分はされていない。クーデター容認論は軍全体に染み渡っていたのだ。明治維新を正当な行為とみなす限り処分などできない。「軍部の独走」は、大日本帝国憲法のもとで、最初からプログラムに組み込まれてしまっていたのである。

この当時、政府を運営していたのは、政党の代表者たちであったが、その実態は官僚出身の政治家だった。財閥や地主層の意向を受けて、経済政策を軍事に優先させようとしたのだが、折からの世界恐慌で困難に陥り、そのしわ寄せは労働者・農民に困窮を強いるものとなっていた。これが政党政治の腐敗と映り、クーデターの必要性を確信させるもととなっていたことも否めない。しかし、救民を口にはしたが、具体的な施策はなく、もちろん、これがクーデターの目的であったわけではない。

天皇が支配する理想的な神の国である日本で、なぜ労働者・農民が苦難しなければならないのか、それは、「君側の奸」が天皇の意向を妨げているからだとする単純な考えは、軍事しか頭にない青年将校たちにもわかりやすかったのである。大川周明や北一輝の「理論」がもてはやされた。出世して重要なポストに就いている「君側の奸」を取り除くことは尋常な手段ではできない。自らの命を捨る覚悟の志士の決起が必要だとするテロリズムの結論は容易にでてくる。

どの派閥も、基本的な政策主張は同じだ。軍事最優先で、軍縮に反対し、軍事予算を増やすことにつきる。それが大元帥である天皇への忠誠であるとするところも同じだ。ただそれをどのように実現するかで、温度差が生まれた。武力を使って強引にやれば良いとする皇道派と、武力を使うことも辞さないが、まず陸軍大臣などの地位を使って政府をねじ伏せるという統制派が主な流れになった。

当然ながら、陸軍大学出身者など、軍の主流に近いところに統制派が多く、連隊など現場に近いところに皇道派が多かった。反軍縮でも、皇道派は兵員の増強を第一の課題としたが、統制派は軍備の近代化に熱心だった。陸軍大学を出た「天保銭組」に対する士官学校だけの「無天組」の反感も対立に輪をかけた。

どちらも、様々な問題の解決を領土の拡大、対外侵略に求めた。皇道派はソ連主敵論を唱え、ソ連領土への侵攻を策していたが、統制派は中国を十分平定してからソ連に立ち向かう主張をした。相手には広大な面積があるのだから、冷静に見れば、どちらもそう簡単ではなく大言壮語の競い合いのようなものだと言える。

考え方もさることながら、派閥の常として、交友関係によるつながりや、機密費の奪い合いという側面もあった。皇道派の陸軍大将荒木貞夫は、取り分けこうした派閥形成に熱心であり、組織を横断して青年将校を集め、酒を飲んだり、議論をしたりで人気を集めた。こうした青年将校の支持をバックに、軍内での地位を高めようとしたのだ。酒席の費用は軍の機密費から出ていた。

荒木が陸軍大臣になったこどで、極端な派閥人事が始まった。統制派と思しき人物を地方に飛ばし、中央を皇道派で固めた。荒木が体調を崩し、真崎甚三郎大将にこれを引き継ごうとしたが、あまりに極端な派閥人事に対する反発からこれに失敗した。永田鉄山が軍務局長になり、今度は統制派による皇道派排除が始まった。

危機感を覚えた皇道派は、相沢三郎による永田鉄山暗殺事件を起こした。このことで、さらに皇道派は孤立を深める結果となった。統制派に一撃を加え、クーデターで軍事政権を作る主導権を握る以外に派閥の劣勢を回復する道がなくなった。ぐずぐずしていると、外地に飛ばされ勢力が首都圏から失われてしまう。だから準備不足のまま2月26日に決行されたのである。

2.26事件は、政府に対する反乱であったと同時に統制派に対する反乱でもあった。軍は皇道派を容赦なく鎮圧するのに依存なかったのだが、政府に対する反乱は軍主流も是認するところだったため、反乱軍に対する態度は揺れ動くことになった。準備不足がたたって、大物と現場の連携が取れず「玉を取る」ことには失敗した。天皇にはクーデターを支持する必然性がないから、「君側の奸」を殺され、激怒するだけであった。荒木・真崎といった皇道派首魁は無関係を決め込み、見放された青年将校たちの蜂起は、部隊を持ちながらも戦闘することもなく終結した。

しかし、政治の実権を軍が握るという思惑は成功し、それがために泥沼への道を引き返すことが出来なくなってしまった。統制派の路線で中国侵略を進めたが、粘り強い抵抗は止まず、資源確保のために南方にも侵略の手を広げて、アメリカなどとも衝突せざるを得なくなった。結果は、周知のとおり第二次世界大戦による帝国の破滅をもたらす結果となった。大日本国憲法のもとでは、避けようのない自滅への道筋であり、2.26事件はその始まりだったのである。

民族独立と太平洋戦争

人類に大災害をもたらした第二次世界大戦を積極的に評価しようとする謬論が再び勢いをつけている。その俗論の一つに日本の南方進出によってアジア・アフリカ諸国の独立がもたらされたと言うものがある。

一般的には、遅れて西洋文明を取り入れながら、経済発展を果たした日本に対する評価は高く、アジアアフリカ諸国にとってこれは励ましになるものではある。しかし、これは戦争中の占領に限定してまで評価されると言うことにはならない。俗論の信奉者は欧米の支配と戦うアジアの国日本の姿が独立運動の契機になり、日本と関係が薄いアフリカの独立運動まで日本の戦争のおかげだとまで言うのだ。

アジア・アフリカの独立運動はもっと早く、第一次世界大戦の時代まで遡る。ガンジーがインドで不服従運動を展開しだしたのは1920年であり、有名な「塩の行進」も1930年に行われている。ビルマでも運動が進み1939年には自治領になった。インドネシアでもスカルノたちが国民党を結成したのは1927年である。エジプト、イラン、イラク、サウジアラビア、アフガニスタンが独立したのも30年代である。孫文や金日成の自立運動も30年代からあるが日本はこれに敵対した。これらはすべて日本の南方進出以前のことである。

確かに日本の占領中に独立した国もある。フィリピン、ラオス、ビルマ、カンボジア、ベトナムがそれだ。しかし、植民地を他国から奪う場合、一旦独立させるのは帝国主義の常套手段である。オスマントルコからエジプトを独立させその後イギリスが植民地にした。メキシコからテキサスを独立させてその後アメリカが併合した。日清戦争の名目は朝鮮独立だったが結局日本が併合した。満州国を中国から独立させたのは日本の支配化に置くために他ならなかった。形式的に独立をさせても、やがては自国の支配下に置くための一歩に過ぎない場合が多い。

ベトナムは日本軍が支配してパオ・ダイに「ベトナム帝国」を作らせたが傀儡でしかなかった。日本軍の徴発により200万人が餓死する事態に対してホーチミンたちはベトミンゲリラを組織し、日本が敗北するとともに蜂起してベトナム共和国の独立を宣言して再支配しようとするフランスと戦った。「ベトナム帝国」は日本軍と共に消えてしまったのでベトナムの独立とは関係がない

日本軍がフランスから独立させたラオス王国は傀儡のようなものだったので敗戦で独立宣言を撤回し、その後ベトナムと対抗させるためにフランスにより、また独立させられた。両国ともラオスの建国を援助したとはいえない。独立運動は共産ゲリラ化してその後もラオス政局が安定しない基を作った。

フィリピンは1934年に自治領となり、10年後に完全独立する法案が成立していたから、すでに独立は目前だった。1943年に日本軍が上陸して1年早く独立させたことになるが、形式的に過ぎず、実際には日本軍の軍政のもとに置かれた。軍票乱発による経済混乱がフィリピンの民衆を苦しめ、独立運動はゲリラ化して日本軍と戦った。戦後、アメリカが新たな政府を独立させ、その政府が続いているが今もゲリラとの抗争は続いている。

ビルマではアウンサンたちが日本軍に期待してイギリスと戦ったが、日本軍は真の独立をいやがり、バーモーに傀儡政府を作らせた。アウンサンのビルマ国軍は傀儡政権に対して反乱を起こし、逆にイギリス軍に協力した。ビルマでの日本軍は宴会に明け暮れる腐敗のあげくインパールに手を伸ばして崩壊した。敗戦とともに首脳が日本に亡命してビルマ国はなくなった。イギリス軍と協力して日本軍と戦った勢力が戦後も独立運動を続け、1948年になって独立を果たしたのが今のミャンマーになっており、日本の作った傀儡政権であるビルマ国とは全く関係がない。

インドネシアはスカルノたちが日本軍と協力して民衆を組織したのでその後の独立と日本の統治が一応つながっているが、日本統治中は独立させずインドネシア人に強制労働を強いてロームシャなどという言葉が残った。結局インドネシアの独立は戦後になってからである。独立を認めないオランダとの抗争に日本軍の武器が使われたり、数千人と言われる日本軍の残留兵が独立運動を助けたりしたが、これは軍の命令に背いた個人の行動であり戦争政策とは関係が無い。

カンボジアは日本軍がインドシナに進攻した機会を捉えてシアヌーク王が独立を宣言したが国民運動を基礎にしたものではなかった。だから、ロン・ノルが軍事クーデターを起こし、クメールルージュがゲリラ戦を展開してロン・ノル政権を倒し、ポル・ポト政権の極端な農本主義を経て王国に復帰しているという複雑な経緯をたどり、日本軍が建国達成に寄与したとはいえない。

いずれの国々も、日本軍のおかげで幸せな独立を果たしたといえる物ではなく、もとからあった独立運動に日本軍の支配介入が重なっただけである。もちろん戦後15年たってアフリカ諸国の独立が相次いだ時にこれらの国々に習ったわけでもない。アフリカ年と言われる1960年当時、東南アジアの国々はアフリカが見習うような状態ではなかった。

独立背景に寄与するのは国連の成立とその援助が大きい。1949年に国連が「世界人権宣言」を採択して植民地支配が不当であると認め、1960年に「植民地独立付与宣言」が採択されると植民地の独立を否定することは何処の国も出来なくなった。日本軍の戦争がこれらの宣言と何のかかわりも無いことは自明だろう。

日本がアジアにありながら、西洋文明を取り入れて独自の経済発展をとげたことは多く賞賛されており、アジア・アフリカの国々で評価が高いし、日本に対して好意的でもある。しかし、それは日本の侵略を正当化するものでは全く無い。

日本の侵略については様々な言い訳がなされている。日本がしたのは「いい侵略」ということらしい。欧米と異なり植民地に教育を普及してその国の発展に役立ったというのもその一つだが、これは単に時代が違うだけの話だ。植民地の思想統制が必要な時代になっていたから教育を普及したまでで、教育の普及は日本だけでなくナチスも熱心に行った。ヨーロッパの国のように教育が本国でも一部の特権階級だけのものだった時代に侵略した場合には、教育の普及などという発想があるはずも無いだろう。

朝鮮の植民地経営は赤字で、朝鮮へのインフラ支出は税金を大幅に上回るものだったと言うのもある。朝鮮からの利益の多くは、三井、三菱といった財閥の懐に入り、これらの本社は東京であったから、朝鮮の税収にならなかったのは当たり前である。

朝鮮が日本の植民地になって以後人口が増えた事を「いい侵略」の根拠にするのもあるが、植民地になったところは、全て人口が増えているのが事実だ。侵略国の軍隊などが常駐するために衛生改善などは当然行われる。植民地化も文明開化ではあるのだが、住民の大きな犠牲が伴う。朝鮮でも植民地になってから、農業技術の進歩で米の増産が大いに進んだ。にもかかわらず、日本への輸出を差し引きすると朝鮮人一人当たりの口に入る米は減った。これが植民地化による開化の実際だ。

ミッドウエー海戦と北の島々

アッツとキスカはいずれもアリューシャン列島にあるアメリカの島だった。しかし、2600人が全滅したアッツと6500人が生還したキスカでは、戦争に狩り出された人たちの明暗を大きく分けることになった。

奪還を目指すアメリカ軍がせまる中、アッツには援軍も食料・弾薬も送らず、全員が戦死することを命じたのだ。一切の援軍を求めることなく自ら徹底抗戦の道を選んだと報道されたが、もちろんウソである。これが「玉砕」という言葉の始まりだった。大本営はアッツを戦略的価値がなく犠牲を払ってまで占領し続けるにあたらずとして見捨てたのである。

キスカのほうは、脱出作戦が行われた。6500人という人数からも、貴重な航空兵が含まれていたこともあって脱出作戦を取らないわけには行かなかった。当初、潜水艦による輸送が試みられたが輸送量が小さく、艦船による強行輸送が試みられた、これが運良く深い霧に助けられて成功した。もぬけの殻を攻撃した米軍をあざ笑うような書置きを残していた。日本軍が撤退を恥としなかった例は珍しい。それだけ戦略的価値がないことが明らかだったのだ。

明暗は分かれたが、戦略上重視されなかった点は同じだ。では、なぜそんな所を占領したのかということになる。この二つの島は無人島であり、占領にも戦闘はなかった。爆撃を受けて、銃手は高射砲を撃ったが、ほとんどの歩兵は戦わずして引き揚げたことになる。いったい何のために占領したのだろうか。撤退作戦の幸運がなければキスカもアッツと同じように多数の玉砕となっていたことに間違いない。

アッツ、キスカの占領はミッドウエー海戦と同時に行われた。アメリカ側では、ミッドウエー襲撃のための陽動作戦だったと見ている。しかし、陽動作戦ならミッドウエー海戦終了と共にすぐ撤収するべきだった。そうすれば、撤退に苦労することもなく、ましてアッツを見殺しにする必要もなかったのである。事実、ミッドウエー海戦の敗北を知った山本五十六司令長官はアッツ・キスカ作戦の中止を命じている。ところが12時間後に命令は撤回され、アッツ・キスカを長期占領することになった。

これらの島は日本が占領している唯一のアメリカの領土になるから、アメリカ軍は奪回作戦を取らざるを得ない。しかし、日本にはそれに対する準備はなかった。島伝いにアメリカ本土に進撃するにはあまりにも米本土から遠い。作戦上、多くの兵力を投入する島ではないことが明らかだ。逆にアメリカ軍が基地を作っても、東京まで4000キロもあり、爆撃機の航続距離を超えていて攻撃には使えない。作戦上は双方にとって意味のない島なのだ。事実、アメリカは奪回後も島を爆撃基地として使ってはいない。

意味のないアッツ・キスカの占領がなぜ行われたというと、政治的に必要だったからである。ミッドウエー海戦の敗北は秘匿され、新聞発表は6日後に、アッツ・キスカの占領と同時に発表された。もちろんミッドウエー海戦は勝ったかのように報道されたのであるが、その詳細を見れば、4隻の空母を失い、日本軍の損失が大きいことは隠しようもない。アッツ・キスカの占領を抱き合わせなければ恰好が付かないのだ。アッツの2600人は、もうこの時点で、軍の面子のために命を捧げさせられることが決まっていたことになる。

軍は、本土への空襲を防ぐためにアッツ・キスカの占領が必要だったと位置付けているが、4000キロを往復できる爆撃機はない。その意味ではミッドウエーも同じことだ。日本からは遠く、アメリカ軍の本拠地であるハワイに近いミッドウエー島を占領しても、維持できないことは明らかだ。山本五十六はミッドウエーは、島の占領そのものが目的ではなく、占領することにより、出動してくる米国艦隊主力を撃滅することが目的であると主張した。確かに、米艦隊を撃滅してしまえばハワイだって占領できる。

実際には、ミッドウエー島を占領する前に、日本の連合艦隊は撃滅されてしまった。この時点ではまだ日米の戦力は互角だったから、地上軍を送り込む上陸作戦なのか、あるいは機動部隊による海戦なのかがはっきりしない中途半端な作戦であったことが敗因と言ってよい。

日本軍がミッドウエー島への攻撃に手間取っているうちにアメリカ空母の襲撃を受けた。航空母艦は防御が弱く、損傷を受けると航空機も使えなくなるから先手必勝である。攻撃を急ぎ、戦闘機の護衛もなく突っ込んでくるアメリカ軍の果敢な戦闘も想定外だっただろう。アメリカ軍は速攻の重要性をしっかり認識していたのだ。帝国海軍はアメリカ空母3隻のうち2隻には攻撃する事すらできず4隻の空母を失った。

問題はなぜこういった根本的とも言って良い作戦の誤りを犯したかということだ。敵空母だけでなく、地上航空基地からも攻撃を受ける場所で決戦を挑むのは不利に決まっている。ミッドウエー作戦は、司令部が行った事前の図上演習でも失敗と出てしまっている。にも拘わらす強行した理由が問われることになる。

多くの戦史家が過小評価して見逃してしまっているのは、ドゥリトル爆撃のインパクトである。開戦からわずか3ヶ月、真珠湾で米海軍を撃滅したはずなのに日本の都市が軒並み爆撃を受けたのである。被害は大きくないのだが、それは問題ではない。皇居がある帝都の爆撃を許してしまうなどということは、帝国軍人としてあり得ないことだ。近代兵器を駆使していても、当時の軍人の精神構造は前近代的な天皇崇拝のもとになり立っていたことを忘れてはならない。

対抗関係にあった陸軍からあざけられても仕方がない。予測外の奇襲だったため、日本列島を縦断されて一機も撃墜できなかったとなれば、軍の面目は丸つぶれと言っても良い。当時の報道の表には当然出てこないが、海軍の内部には、激烈な衝撃が走ったことに疑いはない。この衝撃は冷静な判断力を超えたものだったのである。

何が何でも爆撃を阻止しなくてはならない。しかし日本軍には、ドゥリトル爆撃隊がどこから来たのか皆目見当がつかなかった。SBDのような艦上爆撃機なら航空母艦だが、B25はアメリカ陸軍の大型爆撃機である。一番日本に近い陸軍基地のあるミッドウエーから来たとしか考えようがない。しかし、B25は4000キロしか飛べないはずだ。日本を爆撃して中国に着陸しても6000キロは飛ばなければならない。いつのまに航続距離が極端の増えたのかよくわからないが、ともかくミッドウエーを攻略するしかないという考えに落ち込んでしまった。ミッドウエー作戦は冷静な作戦判断を超えて、ミッドウエー島上陸ありきで始まった作戦なのだ。

アメリカ軍は、航空母艦が陸軍のB25を積んで日本近海まで進出し、大型爆撃機を空母から発進させるという曲芸をやったのである。空母が風上に向かって全力で航行すれば発進できると言うアイデアは民間航空出身のドゥリトル中佐が発案した。陸軍と海軍が対立していた日本の軍人には想像もつかない発想である。当然、B25の着艦は無理で、中国まで飛ぶしかない。それでも燃料が足らずに全機が失われはした。ドゥリトル空襲はアメリカ軍にとってもギリギリの決死隊的な攻撃ではあった。しかし、これが日本軍をミッドウエー作戦に追い込んで墓穴を掘らせる結果となったのである。

ミッドウエーで機動部隊を失って以降、まともに戦争に勝つための作戦は立てられず、まにあわせのものばかりとなり、それも全て裏目に出た。これに付き合わされた国民はたまったものではない。アッツのような玉砕があちことで始まり、200万の日本人が軍の面子のために命を捨てさせられたのである。

本土爆撃の始まり

本土爆撃といえば、太平洋戦争の末期に日本全土が空襲を受け、一方的なダメージをこうむった事と理解されている向きがある。しかし、本土爆撃は戦争末期ではなく、開戦後すぐに始まっているし、全く一方的なものではなく、攻撃側のアメリカ軍にも多くの戦死者が出ている。

本土爆撃の最初は真珠湾攻撃による開戦のわずか四ヵ月後である。真珠湾の奇襲攻撃は大勝利と宣伝されたが実は失敗だった。戦略の全ては奇襲攻撃で米機動部隊を壊滅させてしまう事の上に組み立てられていた。真珠湾から出払っていたアメリカの機動部隊を取り脱がしてしまった時点で、大日本帝国の戦略は破綻したと言える。

真珠湾攻撃が失敗に終わった結果、米軍の真珠湾基地も、その出先であるミッドウエー基地も健在なままだった。それでも、すぐに東京が爆撃されるわけではない。当時の爆撃機に目一杯燃料を積み込んだとしても、十二時間の飛行が限界だったが、ミッドウエー基地から東京へは片道で九時間かかり、往復は無理だった。

東京から六時間以内と言えばグアムとかテニアンになるが、さすがにこれはまだ日本の勢力圏になっていた。日本の連合艦隊は健在であり、まだアメリカが日本近海を制圧するような状況ではなかった。

この時点で東京を空襲すると言うのは、民間航空あがりのドウリトル中佐のアイデアによるものだ。航続距離の長い陸軍のB二五爆撃機を改造して海軍の航空母艦に積んだら、遠方を爆撃できると考えた。陸海軍が対立し、硬直した考え方の大日本帝国には思いも及ばないような作戦だ。第一、民間航空のパイロットを中佐にしたり、ましてそのアイデアを参謀本部が取り入れたりするはずも無かっただろう。日本軍は爆撃後も一体これらの飛行機がどこから来たのか皆目見当がつかなかったくらいだ。

制海権が無くとも、一時的に空母を日本に近づけることはできる。爆撃機を飛ばして、攻撃を受ける前に逃げ帰ればいいのだ。ミッドウエーと東京の中間点まで空母を進出させれば六時間の射程に入るから、十分攻撃できる。しかし、空母が逃げ帰ってしまったのでは、爆撃後の帰還が出来ない。いや、大型爆撃機の、揺れ動く空母への着艦自体がそもそも不可能だろう。

帰還せず、そのまま飛んで大陸の中国軍支配地域に着陸するとすれば、なんとか十二時間の飛行時間でたどり着ける。燃料はぎりぎりだからかなりの冒険ではある。大きなB二五を短い空母の甲板から発進させることだけでも冒険だ。空母が向かい風を全速で走れば、海面すれすれで飛び立てるが、ちょっと失敗すればお終いだ。フル装備の航空隊基地が一杯ある日本本土を、戦闘機の護衛もなく爆撃するのは無謀とも言える。

よく日本軍の特攻隊とかの勇敢さが語られるが、なかなかどうして、アメリカ軍も勇敢なものだ。人間は戦場に送り込まれると命に対する感性を失ってしまう愚かさを持っている。後のミッドウエー沖海戦でも、米爆撃隊の損失を恐れぬ攻撃は、特攻隊のようなものだ。戦力はほぼ互角であったのに、日本海軍が破れたのは、このためと言っても良い。ゼロ戦にことごとく撃ち落されながらも、わずかな援護で爆撃機の出撃を続け、ついに命中弾が出て、一挙に勝敗が決まったのがその経過だからだ。

空母をどこまで日本本土に近づけられるかが成否のポイントであったが、予定より早く日本軍に発見されてしまった。ぐずぐずして迎撃体制を整えられてしまえば、撃ち落されるだけだ。燃料不足を承知で一六機が発進した。

日本側は、空母を発見はしたが、艦載航空機の射程に入るのは翌日になるだろうとの観測をした。まさか陸軍のB25を空母から発進させるとは思わなかったのである。翌日の海戦を担う第二艦隊を迎撃に向かわせが、米空母は逃げ帰ったあとだから、もちろんこの出撃は空振りに終った。

覚悟の上だったとはいえ、爆撃後の燃料不足は深刻だった。浙江省のいくつかの滑走路を国民党軍が確保し、ここで給油して重慶に向かうのが飛行コースだったが、たどり着けず東シナ海や沿岸部に不時着してしまった。一機はウラジオストックに向かいソ連軍の捕虜になった。結果的に一六機全部が失われた。しかし、乗員の多くは中国人に助けられて生還することが出来た。

爆撃機は、昼頃に日本上空に到着、東京、横浜、名古屋、神戸を爆撃した。二五〇キロ爆弾数発を積んでいるだけだから、大きな戦果は挙げていないが、八七人が死に、四六六人が負傷しているからかなりの爆撃ではある。初の本土爆撃は米国の士気高揚にとっては大きなものだった。それよりも大きな成果は、帝都爆撃という、未だかってない事態で帝国軍人に大きな衝撃を与えた事だ。日本上空を縦断した爆撃だったのに、一機も撃墜出来なかったというのは汚辱だっただろう。本土爆撃はまったく想定外で防備体制が整っていなかったのだ。

真珠湾の大勝利に続き、各地で連戦連勝のはずなのに首都が爆撃される。あってはならない爆撃で、威信を傷つけられた帝国軍人は何が何でも米陸軍の前進基地ミッドウエーを制圧する作戦を立てなければならなくなった。ミッドウエー海戦を決意したのだが、これは戦略的には行き詰まりでしかない。遠く離れたミッドウエーを制圧するには、陸上部隊で占拠するしかないが、ハワイ攻撃の前進基地とするには日本から遠すぎる。弾薬補給が出来ないから維持も難しい。ミッドウエー作戦は本土爆撃に対する報復で面子を立てる意味しかない。

面子のために意味の無い戦闘をするわけにも行かない。ミッドウエー海戦の作戦要領に「敵機動部隊を、おびき出して殲滅する」ことを付け加えて意義付けた。とんでもない。おびき出されたのは日本軍のほうだ。両面ねらいは如何にもまずい作戦だ。地上爆撃の上陸作戦なのか、魚雷攻撃の対艦作戦なのか、目的がはっきりしなくなってしまった。これでは弾薬の積み替えに時間を浪費するばかりで戦術的にも勝ち目はない。周知の通り、ミッドウエー海戦は帝国海軍の完敗だった。威容を誇る帝国連合艦隊は壊滅した。

開戦四ヶ月ですでに本土を爆撃され、六ヶ月で艦隊を失い、もはやアメリカに攻め込む手立ても無い。軍首脳部には、この時点で戦争に勝つ見込みのある作戦の立てようが無くなってしまった。事実これ以降の作戦は、戦争を引き伸ばして、敗戦を遅らせるための作戦ばかりだった。結局、この後の三年間でやったのは犠牲者を増やすことだけだ。高級軍人の意地と面子のためだけに命を捧げさせられた国民にとって、これ以上に迷惑な話はない。

日本もアメリカに名目的な本土爆撃を仕掛けたが、潜水艦で運んだ偵察機によるものだったし、折からの雨で森が湿っていたので、小さな焼夷弾では山火事も起こせなかった。潜水艦による本土「艦砲射撃」もやっているが、ポンプ小屋をつぶしただけで全く戦争のレベルではない。現地ではFBIが対応し、捜査の結果日本軍の仕業とわかったというから、テロの扱いでしかない。

グアムやサイパンを米軍が奪取してからは、B29による爆撃が恒常的に行われるようになった。ターボチャージャーを付けたエンジンで高々度の飛行ができ、酸素マスクも持たない日本の戦闘機には攻撃のしようもないのだから、一方的な攻撃に思える。しかし、実際には四千機中七百機もが撃墜され、米軍も三千人以上が戦死している。

高々度からの爆撃ではジェットストリームにあおられて命中精度が落ちるから、低空に下りて爆撃することを命じられたからだ。大量の爆弾を積むために機関銃などの防御兵器も取り外された。そのため、高射砲で撃ち落されたり、迎撃機に撃墜されたりするものが増えた。

多くの民間人が犠牲になる都市爆撃は日本が中国で始めたものだが、アメリカもこれに倣った。都市爆撃で大量虐殺の効率を上げるために、自軍の犠牲をもいとわず低空飛行を命じたのだ。アメリカ側でも高級軍人の面子のために多くの兵士が死んだことになる。これは、タワラや硫黄島での不必要に性急な上陸でも同じ事が言える

戦争とは実におろかなものだと言うしかない。

特攻隊の真実

「君のためにこそ俺は死ににいく」は石原慎太郎がプロデュースした特攻隊映画だが僕はこのタイトルを見て、昔学徒兵だった先生と話した時のことを思い出した。あの馬鹿げた戦争に多くの人々が抵抗なく駆り立てられて行ったことが不思議で、「本当に天皇陛下のために死ぬ気だったんですか?」と聞いてみた。「いや、大学生は天皇とかお国のためで死ぬ気になるほど単純じゃない。しかし、日本全体が危機に瀕していて国民同胞のためには死ぬことも必要だという考えにはコロリと丸め込まれてしまったのだよ。」と言うのが先生の答えだった。

最近の愛国心宣伝の手口はこれに近づいている。文科省の「心のノート」は田舎の風景や、隣人、郷土への愛着を持ち出し巧みに「国家」への「愛」に導く。安倍前首相が提唱した「美しい国日本」もこういったすりかえを狙ったものだ。死にに行く若者の悲しみを描いているこの映画は戦争賛美の映画ではないという弁護もがあるが、もちろん世の中に戦争賛美の映画などと自称するものはない。戦争そのものが「平和のため」に行われているくらいだ。露骨な表現の「国のため」を、「君のため」と言い変えて、やんわりと戦争賛美を注入する所がこの映画の悪質な意図だろう。

「コロリと丸め込まれ」たのだが、よく考えてみれば「死にに行く」ことはちっとも「君のため」にはならなかった。もはや戦局は敗色濃厚であり、特攻隊は少しでも有利な講和を得ようとしてのことだった。「有利」とは誰のためのものだったのか。講和を有利にして、強大な軍部を温存したかったのか、帝国天皇制を続けたかったのか、婦人参政権は無いままにしたかったのか、財閥は解体せずに経済を支配させたかったのか、不在地主による小作制度を温存したかったのか、華族・平民などと言う身分制度を残したかったのか。もちろん「君のため」ではあり得ない。

石原に限らず、すりかえイデオロギーと若者の死のロマンチシズムを結び付けた特攻隊信奉者は結構いるものだ。神風特攻隊は評判の悪い自爆テロとは違うと主張して止まない。特攻隊は軍事施設を目指したものだからテロではないなどと言っても9.11では一機は米国防総省に突っ込んだわけで、もちろん参謀本部ペンタゴンは軍事施設だ。こういった人たちはあまりにも特攻隊の真実を知らない。冷静に考えれば自爆テロなんか馬鹿馬鹿しくてやっておれない。 特攻隊員は犬死させられた戦争の犠牲者である。

なぜ特攻隊自爆テロが馬鹿馬鹿しいかと言えば、まず、命中率が低いことである。人が操縦しているから必ず当たると思えば大間違いだ。飛行機というのは翼があり、その設計が難しいことでもわかるように少し狂えば、空気力学的に軌道がそれてしまう。上空から急降下したとしても、目標艦船からは雨霰のごとく弾丸が飛んでくる。目標に近づけば近づくほど弾には当たりやすくなり、全く弾を受けずに突っ込むことはあり得ない。パイロットに当たらずとも、翼の端に当たっただけでも軌道がそれ、結果的にはほとんどの特攻機は海に突っ込んでしまった。ねらいがつけば翼がない爆弾のほうがよほど命中しやすい。大岡昇平が調べた特攻の成功率は7%である。

通常の艦船攻撃では多数の攻撃機を用意して敵弾を分散させることで飛行機側の被弾確率を下げる。被弾確率が下がれば、それだけ敵艦船に近づけるので爆弾の命中確率も上がる。米軍では100機200機という多数の攻撃機を集中して戦艦大和のような重装備の艦船もたいして犠牲を払わずに沈めてしまった。特攻隊の場合、数機だけで出撃するのだから大量の防空砲火が集注し被弾確率が極めて高いのも当然である。とりわけ、近接信管(注1)が装備された後期には、米軍高射砲の命中率はほぼ100%になった。ほとんどが敵に近づく前に撃ち落されてしまうのだから馬鹿馬鹿しい。

さらに馬鹿馬鹿しいのは、うまく命中したとしてもその威力が大きくない事だ。爆弾を落とせば、速度はsqrt(2*g*h)で 600mの高さからだと重力だけでも時速400kmになるのだが、これが急降下の速度に加算される。ところが飛行機につけたままだと翼が邪魔になってとてもそんなスピードは出ない。九九式軽爆の最高速度は250km/hでしかない。空中で爆弾がはじけて、破片が飛び散っても軍艦は沈まない。軍艦の装甲を破壊するには突っ込む速度が大切なのだ。

威力の小さい特攻で効果を上げるためには爆弾を大きくする他ない。最初250キロ爆弾を積んで行ったのだが500キロとか750キロを積むようになり、重たくてヨタヨタと敵艦に近づくことになったのだから、またまた成功率は下がってしまう。

ところが日本軍の記録では特攻の命中率は高いことになっている。特攻攻撃の成果を見届ける偵察機は撃ち落されては困るので、もちろん敵艦船にはあまり近づけない。よく見えないから、つい贔屓目の報告をしてしまう。場合によっては戦友の無駄死にを報告するに忍びなく「空母轟沈」などと誇大な報告もしてしまう。台湾沖海戦の成果などはほとんど架空のものだったことが知られている。こういった誇大報告に基づいて特攻攻撃が有効なものとされてしまい、全機特攻などという方針が決められた。

最初の神風特攻隊である関大尉の敷島隊は5機で、米機動部隊主力に攻撃をかけ、その成果は2機が空母に突入して轟沈させ1機が別の空母に大火災を起こし、他の1機が巡洋艦を轟沈し、打ち落とされたのは1機ということになっている。これが事実なら大成果と言えるが、実のところ攻撃対象は機動部隊主力ではなく輸送空母船団つまり、輸送船に飛行甲板を取り付けて航空機を積めるようにしたものの集まりに過ぎなかった。

後の特攻とは異なり、レイテ沖海戦で米主力が手を取られている隙を突いての攻撃だったので途中で敵戦闘機の迎撃に出会うこともなく無傷で目標艦船に到達出来たのだが、ファンショウベイに向かった2機は打ち落とされたし、ホワイトプレーンズに向かった1機は艦橋をかすめたが被弾して海上で爆発した。キトカンベイでは1機が甲板に接触したが、海に落ちた。つまり、精鋭を選んだ最初の特攻でも5機の内4機は不成功だったわけだ。

しかし最後の1機は、セイントローに突っ込み改造輸送船の飛行甲板を打ち破った。丁度そこが弾薬庫になっていたために引火して大爆発で、セイントローは沈没してしまった。輸送空母ではあったがともかくも空母が沈没したことは米軍も認めた。誇大報告ではあったが後のものに比べればまだ謙虚なもので、一応実質的成果はあったことになる。大本営発表では何隻も撃沈させているのだが、実は「空母を沈没させる」ことは真珠湾でも果たせなかった(注2)日本海軍の夢であった。この偶然的な成果がその後の「全機特攻」に至らしめる契機になったことは間違いない。

結果的には熟練のパイロットを多く失い、日本のパイロットは技量的にも下手糞な即製パイロットばかりになり通常航空戦でも米軍に歯が立たなくなってしまった。実は技量の高い操縦士の場合、挑飛爆撃と言う特攻なんかより遥かに有効な手段があり、万朶隊の佐々木伍長などは特攻に出撃しながら、何度も戦果を挙げて生還した。初期の特攻では司令官がさんざ特攻訓練をさせた挙句に、責任逃れに「各自が最も効果的と判断する攻撃方法を取れ」と訓示してしまったことを逆手に取ったわけだ。なんとか敵艦まで飛べるだけの即製操縦士が特攻に出かけても、それは自爆テロにさえ至らぬ単なる自殺でしかなかった。これが特攻隊の真実である。

「死にに行く」のはちっとも「君のため」ならなかったばかりか戦争にさえ役立たなかった。特攻で全く成果があがらなくなった後期では、やたら「記念日」の出撃が多い。もはや戦果などどうでもよく、出撃させることで闘っているというポーズを取ったにすぎない。高級軍人の単なる面子のために死んだ隊員ほど気の毒なものはない。発案者の大西中将が隊員の亡霊に悩まされ、終戦の日に自殺してしまったのも、まあ当然のことだ。

(注2)ホーネット、レキシントンなどは修復不能にまで破壊されて米軍の手で処分されたが轟沈ではない。ヨークタウンは航空戦ではなく潜水艦の魚雷攻撃で沈んだ。

(注1)飛行機は高速で飛んでおり、高射砲の弾が直接機体に当たることは難しい。だから時限信管を使い、あらかじめ決められた時間に爆発するようになっていた。爆発時に敵機が半径20m以内位におれば損壊させることが出来る。しかし、実際には発射前に時間を設定するのが難しく、急降下爆撃などに対しては、設定する余裕がなかった。だから重装備の戦艦大和なども航空機の急降下爆撃に弱かった。ところが、米軍は大戦中に近接信管を開発した。近接信管を装備した砲弾は電波を発し、反射で敵機が近くにいることを検知して自動的に爆発する。これで、特攻機が突っ込んで来ても、必ず当たるようになった。近くで20mも狙いをはずすのは難しいくらいだ。末期の特攻機は全部撃ち落された。

予科練とは何だったのか

「今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦の 七つボタンは桜に錨」という歌はかなりの人が知っているし、多くの人が予科練を太平洋戦争の飛行士養成機関として認識している。しかし、予科練では毎日操縦訓練を行い、卒業生は飛行機乗りとなって、特攻などで、多くは、愛機と共に空に散って行ったと言う、半ばロマンチックなイメージを持っているならそれは間違っている。

予科練で本格的な飛行訓練をやった事実はないし、修了生全体の中では、戦死は8%でしかない。多くの予科練生は全く空を飛ばなかったのだ。そもそも「予科練」という学校は無かった。予科練習生というのは、海軍航空隊に所属した兵隊の身分の一つに過ぎない。階級としては、最下級の四等水兵にあたる所から始まる。

日本の軍隊は、長州藩の奇兵隊なんかがその先駆けだが、武士が、百姓町人を集めて鉄砲を持たせた所から始まった。だから、身分意識が強く、将校は自らを武士と意識して、兵隊や一般市民を見下していた。軍隊では一般市民を「地方人」と呼ぶのが常だった。地方人を徴兵して兵隊にする。一銭五厘と言われていたように、召集令状の切手代だけでいくらでも集められる。鉄砲を持たせて少し扱い方を教える。あとは上官の命令には、いつでも従うように、いじめて根性を入れればそれで良い。絶対服従を叩き込むのが訓練であった。

これには一応の理由がある。当時の戦争の勝敗を決するものは野戦兵力の突撃だった。突撃の時はなるべく早く前進したほうが、銃撃される時間が短くて被害が少ない。命を惜しんで、逡巡していると却って大きな被害を出すのだ。守る側も、阻止線を破られたら自分の命が無くなるのだから、果敢な突撃には浮き足立ってしまう。だから命令一下で命知らずの突撃が出来る軍隊が強い軍隊だった。そんなわけで日本陸軍の訓練というのは体罰・苛めで命を惜しむ気持ちを麻痺させる根性教育が中心になった。

海軍の場合は少し様相が異なる。陸軍のように兵隊を根性だけで戦わせるわけには行かない。砲術や航海術は士官のものだが、その補助にも一応の知識・経験がいる。これを担うのが古参の志願兵である下士官だった。術科学校で教育した下士官が戦争の兵力となった。一般の水兵といえば、甲板磨きや見張りといった程度の雑用しか無いのである。現場指揮官になり得ず、年功を食っても兵卒扱いされる下士官の不満の捌け口が必要だった。だからここでも、陸軍と同じような「しごき」体罰が横行した。艦船のピラミッド組織を守るためには底辺が必要だったのだ。

日本の軍隊ではこうした身分制度と「いじめ」「しごき」が組織の根幹的要素となっていた。ところが、飛行機となるとそうは行かない。上空では一人でエンジン調整から銃撃、通信など全てやらねばならないし、航空力学や電気回路の知識もいる。そう簡単にだれでも乗れるものではないのだ。飛行機に最下層の兵隊は要らない。当然、ピラミッド組織を作ることは出来ない。航空部隊というのは軍隊組織になじまなかったのだ。これが遅くまで日本海軍が巨艦巨砲主義にしがみついた一因でもある。

初期のころは飛行機は将校の専有物で、飛行訓練を行うのは「海軍飛行学生」という兵学校出身の将校に限られていたが、一九三〇年代になると、海軍の戦闘が爆撃機や戦闘機を多用する航空機戦術主体になってきて、飛行機を指揮官であるはずの士官の専有物としておくわけには行かなくなった。いくら巨艦巨砲主義であっても、やはり、空を飛ぶ兵隊は必要だったのだ。

海軍の飛行機は航空母艦から出撃するのだが、飛行機搭乗員を養成するために陸上に航空隊を作った。海軍の兵隊から選抜して「飛行練習生」あるいは「操縦練習生」として航空隊で操縦訓練をしたが、思わしくなかった。当時の一般の人たちは、もちろん飛行機に乗ったことはないし、自動車の運転もしたことがない。尋常小学校卒が普通だったから学識も足りない。ピストンやシリンダーという言葉も知らないし、エンジンなど見たことも無いのが普通だった。全く経験のないものを学ぶのは、特に年を取ってくると難しい。今でも携帯電話の使い方は高校生が一番詳しい。うんと若いときに飛行機乗りの勉強を始めたほうが良い。

そんな事で高等小学校程度の子供たちを最初は横浜、次いで霞ヶ浦の航空隊に集めた。これが予科練乙種である。だから予科練という学校は無い。予科練習生というのは航空隊における身分でしかない。その後、一般学はもう少し勉強しておいたほうが良いと言う事で、中学四年終了程度の子を集めた。これが甲種予科錬生だ。予科練はあくまでも「飛行予科」練習生であり、飛行練習生となる前の教育を受ける所だ。したがって、カリキュラムは殆どが、手旗信号とか、鉄砲の撃ち方とかの軍隊教育と数学、機関学、爆薬学、弾道学といった座学だった。それに帝国軍人精神を鍛える体育科目が加わった。体罰・苛めも相当なものだった。飛行訓練をする所ではなかったのだ。

アメリカでは航空機が増えたころから、将校をどんどん飛行機乗りに登用し、将校の枠を広げたのだが、帝国海軍では将校は指揮官であって現場で闘う兵隊ではないという観念をくずすことは無かった。海軍兵学校の飛行学生は最後まで少数に留まった。空を飛ぶ魅力につられて、予科練を志願した子どもは多く、選抜はかなりの競争となった。中学四年と五年の一年の募集時期の違いだけだったのだが、予科練はあくまでも下士官養成のためで、幹部養成の海軍兵学校とは根本的に違っていた。

海軍は、航空兵力拡充にはあくまでも消極的で、予科練にしても、太平洋戦争を仕掛けた1940年でさえ、甲乙あわせて1,190人しか採っておらず、次の年でも3,752人でしかない。パイロットの養成には時間がかることを考えれば、この人数は決定的な間違いである。アメリカでは、1940年の時点で、士官候補生16,773人に搭乗員教育を始めたし、次の年には89,973人に増やしている。数が一桁違うし、しかも全員が仕官待遇だ。将校は兵隊を使うものだなどという観念は持たず、学識、技術を持った者は高待遇にするのが当然だという認識だった。教育の内容も、変な軍人精神論ではなく、きっちりと科学的な知識と十分な飛行訓練に時間を取った。乗員訓練が第一の課題だとして優秀なパイロットを戦場から引き戻して教官にすることさえやった。

日本の場合は、マリアナ沖海戦やガダルカナルで熟練飛行士を失って見て初めて航空兵の不足に気が付いた。航空機は生産できても、癖の強いゼロ戦を使いこなせる熟練パイロットがいないのだ。丙種予科練生など即製のパイロットを送り込んだが技量的にも米軍に太刀打ちできないことになって、たちまちのうちに、飛行機自体を消耗してしまった。

1944年になって急に予科練を114,773人に増やしている。時既に遅く、日本にはこれだけの訓練をする飛行機が無かった。それにも関わらす1945年の半年でまた58,599人をいれている。これまたとんでもない大人数だ。もちろん彼等は飛行機には乗らず、一部は他の特攻兵器に乗ったが、大部分は土方仕事に使役されただけで、戦死すべくもなかった。徴兵年齢に達しない者を徴用して飛行場整備などの労務に使役したにすぎない。

人数的にはこうした「飛ばない予科練生」が圧倒的に多いので、初期の予科練生が多く戦死しているにも関わらず、全体の8%しか戦死していないという統計になるのだ。もっとも、飛行場整備が安全なわけではもちろんない。宝塚航空隊所属の第16期予科練生は鳴門海峡の要塞建設に派遣され、途中で住吉丸が銃撃されて、ほぼ全滅の憂き目にあった。15年戦争の公式戦死者で最年少の15歳を記録した。

予科練は志願制だったが、中学では配属将校が志願を強力に勧め、この頃には半強制的なものでもあった。身長が足らず、不合格とわかっていても、志願して受験させられたくらいだ。予科練のための航空隊に飛行場はいらない。高野山宿坊や宝塚歌劇学校など宿舎さえあればどこにでも作られた。飛行機による特攻も、アンパン地雷を抱いて戦車の前に飛び込んでの自爆も、命を差し出す上では同じだということで訓練させられた。予科練とは、結局、徴兵年令にも達しない少年を戦争に狩り出す方策でしかなかったことになる。

飛行機乗りになるという夢を抱いていた生徒は騙されたようなものだ。ここまで来ればそれをごまかし様もない。福岡航空隊司令の飛田健次郎大佐は、予科練生を前に「おまえたちは海軍にだまされたんだ」と謝ったという。しかし、予科練生の不満を押さえつけるように制裁・暴行はエスカレートした。「バッター」と言われる、こん棒を使っての痛打などがその最たるものだった。

終戦になってからも、予科練の不運は続いた。学校でなかったことが禍いしたのだ。海軍兵学校は学歴となって、大学への編入などが認められたので戦後に要職について活躍した人が多い。しかし、予科練は学歴とは認められず、故郷に戻っても、中学中退のままとなった。どこの町でも予科練帰りといえば、軍隊でいじけた不良の集まりとして鼻つまみになった。安藤組の安藤昇などのヤクザはそのなれの果てだ。

予科練自体が悲劇であるが、生き残った予科練生も戦争の被害者である。しかし、予科練時代を華やかな青春時代と懐かしむ人も多い。その後の生活の辛苦からみれば、そうとでも考えざるを得ないのだろう。中には戦後苦労の末、各方面で活躍している人もいるが、それらの中に予科練を評価する人はあまりいない。前田武彦は予科練で受けた教育を「優しさなんか一つも無かった。死んでいく人間に対して棒で殴ったりしていた」と番組の中の発言で批判している。児童文学の寺村輝夫も予科練で毎日「君が代」を歌わされた一人だが、「君が代はどうしても歌いたくなく、その後一度も歌わなかった」と語っている。

日米はなぜ戦ったのか----太平洋戦争の原因 ----

太平洋戦争は日本軍による真珠湾の奇襲に始まった。開戦への経過については様々な俗論がある。曰く「海軍は反対したが陸軍が押し切った」。曰く「タイピストが休みで通告が遅れてしまったが奇襲のつもりはなかった」曰く「天皇は開戦に反対だった」。どれもこれもいい加減な話ではあるが、それもいろいろと謎が多いことの反映である。

戦争に至る前になぜアメリカとの対立を深めたかも経過的には不可解なところが多く残されている。日本帝国のまず第一の敵はソ連だった。シベリア出兵以来の敵国でもあり、社会体制が全く異なる国で、天皇制廃止などと恐ろしいことさえ平気で言うから、帝国軍人には許しがたい存在でもあった。陸軍は満州・中国についで蒙古から絶えずソ連への侵入を企てていた。1936年11月25日の日独伊三国防共協定は同じくソ連を敵視するヨーロッパとの連携で、ソ連を挟撃する体制を組んだことになる。この確固とした戦略方針からはアメリカとの戦争は出てこない。むしろソ連軍に挑みかかった1939年 5月11日のノモンハン戦闘の方が本道である。

ところが、ドイツはノモンハン戦闘の真っ最中にソ連と10年の中立条約を結んだ。ドイツのやりかたは全く信義にもとることになる。しかるに、日本帝国はドイツに抗議することもなく、なおいっそう連携を深めていくのだ。秘密資料は明らかにされていないが、ノモンハン事件は独ソ不可侵条約を促進するために仕掛けた日独連携プレーだったかもしれない。これはこの後の日ソ中立条約でも言えることだが、ソ連との条約は日独共にまったく実をともなっていない。最初から虚偽の条約なのである。

ドイツは第一敵国ソ連と不可侵条約を結んで、フランスとポーランドをまず手中に収める。当然これは英国等との戦争になる。1940年 9月23日 にはドイツのフランスに対する勝利に便乗して日本が北部仏印進駐を果たした。これで日独伊の三国の協定は軍事同盟に格上げされた。もともと中国を支援する英米は日本の友好国と言うわけではなかったが、日本も英米との対立を強め、ドイツに倣ってソ連との5年の中立条約を結ぶ。ところが、日ソ中立条約が結ばれるやいなや、ドイツはソ連に攻撃をかけた。日ソ中立条約はソ連に隙を作らせてドイツの電撃作戦を成功させるための芝居だったかもしれない。

日本が本気でソ連と友好を結ぼうとしたのなら、これまたドイツの信義が問われる問題であるが、日本はますますドイツとの信頼関係を深める。日本がソ連との友好を全く考えていなかったことは関特演つまり関東軍特種演習に示されている。特演というのは単なる演習ではない。陸軍の動員には時間がかかるから戦争は必ず特演という形で始まるのだ。真珠湾出撃もニイタカヤマノボレの電文がこなかったら特演と呼ばれていたはずだ。ドイツの電撃作戦に呼応して70万の大軍を満州国境に集結させ、その総力ぶりは、甲子園野球すら中止させるほどのものであった。日ソ中立条約からわずか三ヵ月後のことだがまったく中立どころではない。

このとき天皇も裁可した『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』では、「独「ソ」戦争の推移帝国の為有利に進展せは武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」と言う条約破りの決定までしている。このことで日ソ中立条約も実質廃棄されたとみるべきだろう。後にソ連が終戦間際に連合国側で参戦したことをあげつらっても噴飯物でしかない。しかも不意打ちではなくソ連は1945年4月に条約破棄を通告しているのだ。

結局、関特演は戦争にいたらなかった。その理由はノモンハンで苦汁をなめた陸軍はソ連との全面戦争に踏み切れず、海軍が主張する南方侵出に大方向転換をしたからだ。日米開戦はむしろ海軍主導だ。もし、今すぐソ連に立ち向かわないなら、長引く世界戦争を勝ちぬくには南に行くしかない。同盟国ドイツとの戦争にアメリカが加わるのは時間の問題だし、そうなれば日本は石油の供給源を失う。南方の石油を確保しておくことが戦争遂行の上では絶対に必要だ。1941年6月にはオランダとの石油交渉を打ち切った。武力で石油を確保する宣言のようなものだ。 7月28日の南部仏印への進駐で、アメリカとの対決姿勢も明確にしたことになる。仏印進駐でアメリカがそこまで怒るとは思わなかったなどという回想もあるが、それは「オトボケ」だろう。開戦は7月2日の御前会議で決定したと言える。

当然ながらアメリカは石油の禁輸という経済制裁に出た。外交的にはまだアメリカとの石油輸入交渉を続けているが、日本はもう7月の段階で「戦争も辞さずの決意で交渉に臨む」と決定しているから、この交渉の成り立ち得ないことは自覚していただろう。アメリカの盟友であるイギリスを攻撃しているドイツとの軍事同盟に身を置きながら、中国侵略を続けるための石油を供給しろとは虫が良すぎる交渉だ。まさかアメリカが要求を呑むはずもないのだが、ハルノートではっきりと断られるまで交渉を続けた。記録によれば交渉の当事者は結構真剣に交渉している。これは、アメリカにはヨーロッパやアジアの戦争に巻き込まれたくないという世論も強かったからで、日本に万が一の期待を抱かすような態度もあったようだ。

ハルノートではアメリカの要求が中国からの撤退と日独伊3国同盟の解消であることをはっきりと示した。しかし、日本が要求を呑まなかったらどうするとは書いていない。経済制裁はすでに行っており、要求に答えなくとも何もしないというのだから論理的にはこれが真珠湾攻撃の理由ではあり得ない。しかし日本側には事情があった。アメリカと断絶したままで戦争するために日本は南方諸島に侵攻して石油を獲得するつもりであったが、そうなればフィリピンを領有するアメリカとの衝突は避けられない。戦争を覚悟して出撃したアメリカ艦隊と正面衝突してもかなわない。交渉が続いているうちに奇襲することが必至なので、最後回答が出てしまうと一刻も早く戦闘を開始する必要があった。軍と政府の温度差がなくなり一路戦争へと突き進むきっかけは確かにハルノートではあった。

軍の動きは政府に先行しており、ハルノートが出た11月26日にはもうとっくに戦争に出発してしまっていた。公式に開戦を決めたと言われる12月1日の午前会議は2時間で終わり、天皇は発言もしていない。連合艦隊旗艦の戦艦長門は10月6日に横須賀を出港。「9軍神+1」の特殊潜航艇による特攻隊などは早くも4月15日に編成され、11月18日には真珠湾に向けて「伊22」で倉橋島を出港している。その他の空母群も早くから12月7日の真珠湾攻撃を目指した航海を開始しており、戦争はすでに始まっていた。最近の研究では一部の新聞記者でさえ11月13日には12月7日の攻撃予定を知っていたというくらいだ。ハルノートが出ようが出まいが12月7日には戦争が始まっていただろう。日清戦争でも日露戦争でも日本政府が宣戦布告するのは軍が戦闘を始めてからだった。

こうして日米開戦までの経過を見てみると、日本帝国は石原莞爾の世界最終戦総論のような構図に動かされていたことがわかる。ソ連ともアメリカとも場合によってはドイツとも戦う。その相手の順序は単なる戦術に過ぎない。世界は必ず食うか食われるかであり、恒久的な平和共存はありえないという考えは当時の日本では軍部に限らず一般的な認識にまでなっていた。今でこそ笑止な言葉だが、当時としては侵略は「する」か「される」かであり、自衛とはすなわち侵略することだった。だから自衛のための大東亜戦争戦争などと言うあきれるような言辞が飛び交っていたのだ。

第一の敵国がソ連であったことから日独伊三国同盟となり、アメリカとの戦いに必然的に行き着いた。ノモンハン事件中の独ソ中立条約で、3国協定を解消し日英米対独伊ソの路線を取ることも出来たのだが、松岡洋右などの親独派の情報を昭和天皇は信じてしまったのである。昭和天皇はこの事を後世まで根に持っていて、それまで、頻繁に参拝していた靖国神社への行幸を松岡が合祀されたと聞いたとたんに一切取りやめてしまった。

たしかに欧州の情勢はロンドンに爆撃の手が及び、モスクワ陥落も近いように言われていた。しかし、真珠湾攻撃の時点ですでにレニングラードの独軍は苦戦に陥っていた。松岡の情報網がいい加減だったにすぎない。真珠湾の3日後に独米戦が始まっているから、奇襲はもちろんドイツと示し合わせてのことだ。アメリカと戦う勝算については天皇も何度も質問したし、繰り返し検討された。当時の論調は、著者も出版社も隠してしまって今の日本では手に入らない本に多く記述されている。シカゴ大学の蔵書にはこういった戦時中の日本語文献がかなりあって面白い。

アジアを支配する日本と欧州を支配するドイツがアメリカを挟撃する。奇襲攻撃で太平洋艦隊の大半を沈めておけば、南方で石油を確保する時間的余裕は十分にある。アメリカは日本の20倍の生産力を誇るが、南方資源を手に入れれば日本の生産力は軽く3倍になる。ドイツは全欧州の生産力を投入するのでアメリカの半分はある。それでもまだ生産力に差があるが、戦争は生産だけではなく軍事力の戦いだ。挙国一致で戦える日本と、民主主義と称して勝手な振る舞いを許しているアメリカでは集中力がちがう。戦争が長引けばアメリカ国内には厭戦気分が蔓延し、革命含みの労働争議が頻発するはずだ。日露戦争の時のようにこの機を狙って有利な講和が期待できる。

これが、昭和天皇が率いる日本帝国の読みだったが、見事にはずれた。真珠湾では機動部隊の主力である空母を一隻も捉えられなかった。これで制海権を確保する筋書きが全部狂ってしまった。しかし、最大の問題は松岡洋右によってもたらされた欧州情勢の傲慢な不正確さだった。ドイツが負けて日本だけが世界を相手にしたのでは勝ちようがない。だから昭和天皇にとって、松岡だけはどうしても許せない存在なのだ。昭和天皇は政治家としても軍人としても中々の傑物だった。2.26事件の時の軍部に有無を言わせぬ指揮などを見ても器量がにじみ出ている。それが、40歳の男盛りに松岡ごときに迷わされたのは正に痛恨の極みであったろう。なんとか局地的勝利で和平のチャンスをねらったが、結局ポツダム宣言まで負け戦を繰り返してしまったのである。

1939年 8月23日 独ソ不可侵条約(10年)
1939年 9月15日 ノモンハン事件終結
1939年 9月 1日 ポーランド侵攻
1939年 9月 3日 イギリス・フランスがドイツに宣戦布告
1940年 5月10日 フランス侵攻を開始
1940年 6月14日 パリ占領
1940年 9月23日 北部仏印進駐
1940年 9月27日 日独伊三国軍事同盟
1941年 4月13日 日ソ中立条約(5年)
1941年 6月22日 対蘭石油交渉打ち切り
1941年 6月22日 ドイツがソビエト連邦に宣戦布告
1941年 7月 2日 日本陸軍は関特演70万兵力動員
1941年 7月 2日 御前会議 「国際信義上どうかと思うがまあよろしい」
1941年 7月28日 南部仏印への進駐
1941年12月 7日 真珠湾を攻撃
1941年12月11日 ヒトラーはアメリカに対して宣戦布告
1942年 1月 1日 連合国共同宣言
1943年 2月 スターリングラードでドイツ第6軍が敗北
1944年 6月 6日 ノルマンディー上陸
1945年 2月11日 ヤルタ協定(ドイツ降伏後90日以内にソ連参戦)
1945年 4月 5日 日ソ中立条約 廃棄通告
1945年 8月 9日 ソ連参戦

従軍慰安婦問題

第二次世界大戦における日本の反省事項のひとつに従軍慰安婦の問題がある。性に関する裏の存在で有ったため、戦後も七〇年代まで取り上げられることがなかった。千田夏光「従軍慰安婦 “声なき女”八万人の告発 」(一九七三年)が問題提起となり、事実が認識されるようになった。しかし、公式な資料の発掘が難しく多くの論争を呼ぶことになった。もちろん従軍慰安婦というのは千田夏光の造語であり正式名称であったわけではない。従軍看護婦や従軍記者などの用語も同じように誰かが作った造語だ。警察の用語としては「陸軍慰安所従業婦」などと言うのが記録に残っている。

慰安所はどの部隊にもあったといわれるが、もちろん公式なものでないから表立った設置規則などはない。これを根拠にその存在すらも政府は否定していたものだ。勝手に業者が戦地で営業していたもので軍は関与していないというのが公式見解だった。しかし、部隊長名で値段を告示したり、憲兵が運営を検査したり、あるいは設置命令を受けた士官の手記が発見されたりすると、設置は合法的だったとか強制はなかったとかの言い逃れをするようになった。

慰安所は合法的だったか?

戦前の日本では、売春は公然と認められていたのだから、戦地でも売春業者が軍隊を相手に商売をしたのは当然ではないのか?と云う人がいる。しかし、いくら戦前でも売春やり放題ではなかった。「貸座敷、引手茶屋、娼妓取締規則」と云う法規制があり、「強制」とか「虐待」とかが伴う売春は法律違反だったのだ。売春が本人の自由意志によることを確認するために、まず、本人が自ら警察に出頭して娼妓名簿に登録することが必要だ。また娼妓をやめたいと本人が思うときは、口頭または書面で申し出ることを「何人といえども妨害をなすことを得ず」とされていた。営業はどこでおこなっても良いものではなく「貸座敷」と認定された特定の建物の中だけで許された。だましたり、強制したりして売春婦を集めることを防ぐために「芸娼妓口入業者取締規則」で売春婦のリクルートを規制していた。日本も婦女売買を禁止する国際条約(一九一〇)や児童の売買を禁止する国際条約(一九二五)に加盟しており、売春を目的とした身売りは、「本人の承諾を得た場合でも」処罰しなければならなかったのだ。

もちろんいつの世にも法の裏街道を行く無法者はいるわけで、売春はこういった無法者が横行する世界ではあったが、大日本帝国では軍が税金を使って無法者と同じ事をしていたことになる。慰安所は貸し座敷の認可を受けていないし、慰安婦の登録もなかったし、慰安婦の自由意志の確認などされた形跡はまったくないのだから、軍の慰安所は売春規則を守っていない。国内法的には完全な違法行為である慰安所が作られたのは法律を上回る「軍の力」によるものだ。占領地では軍の司令官がすべての法権限を持っていたから、国内法を無視することも出来たに過ぎない。

戦地での強姦事件があとをたたず、「皇軍の威信低下」が危ぶまれたので慰安所はこれを防ぐ目的で作ったそうだ。こうしたモラルの低下を引き起こすような戦争こそが反省されるべきであったのだが、対応の方向が間違っていた。確かに設置のされかたは様々で、業者が部隊に取り入ったりする場合もあったし、軍が設営して慰安婦を徴募した場合もあるが、部隊長名で利用規定や料金を定め、軍医や憲兵を配置して実効支配しているのだから軍の組織の一部であり従軍慰安婦であったことに間違いはない。慰安所の普及は隅々にまで及び、全ての部隊に慰安所があったと云っていいほどで慰安婦にされた人の数も二十万人に達したと言われている。

二十万人という数字はあやふやなものだが、関特演での必要慰安婦数の試算というのがあって、これを全体に適用すれば出てくる数字だし、総督府とも関係が深かった自民党の政治家荒船清十郎が講演の中で出した数字でもある。秦邦彦氏が別の試算をしているが、実人数」と「延べ人数」の混同と言う誤りをおかしており、これを正すとやはり二十万人になる。

強制連行はあったか?

慰安婦の徴募について強制連行はなかったと主張するのが最新の言い逃れだが、強制がなかった事を積極的に示す証拠が提示されたことは全くない。娼妓取締規則に基づいた自由意志の確認でもやっておればはっきりした根拠があるのだが、そんなことはやっていない。「私が強制連行をやった」と云う内容の本が出版されたことがあり、その本の証言があやふやであったことが話題になったが、もちろんこれは強制連行が「無かった」と云う根拠にはならない。

朝日新聞がこの出版を報道したことが逆に攻撃の対象になり、このあやふやな本だけが慰安婦問題の根拠だとする宣伝が行われた。どのような圧力が新聞社にかかったのか定かでないが、朝日新聞は20年後になって、わざわざこれが誤報であったと紙面で謝罪した。このことで、当時の資料がかなり明らかになった今も、強制連行はなかったと思わされている人はかなりある。権力による歴史の偽造はこのようにして進むのだろう。

慰安婦の徴募はいろいろな手段で行われた。日本の国内で行われたと同じ様な「身売り」もあり、なるべく穏便な手段で集めるのがやはり基本ではあっただろうが、「○月×日までに慰安婦××名送れ」などという軍の電文(例えば台電九三五号)も残っているように、軍の命令系統を通じた指令だ。徴集現場も、員数あわせには手段を選んでおれなかっただろう。強姦事件で軍規の乱れを防ぐためと理由づけたのだから、期日までに十分な数の慰安婦を確保することも軍事作戦の一部だったのだ。 徴募に関してはヤクザが軍の命令として動き回ったことが各地の警察記録にある。

強制があったことには確実な証拠がある。最も確実な証拠のある軍による強制連行の例はインドネシアで起こった「白馬事件」とよばれている事件だ。白馬というのは当時の隠語で「白人女性に乗る」ことを意味しているようだ。インドネシアには数カ所に白人女性を使った慰安所があり、総計六五名のオランダ人被害者の事例が記録されているが、特に有名なのが一九四四年二月新設のスマラン慰安所の事例である。

これは南方軍管轄の第一六軍幹部候補生隊が十七歳以上のオランダ人女性をスマラン慰安所に連行して、少なくとも三五名に売春を強制した事件で、まぎれもない軍による強制と言える。オランダ抑留民団が必死の抵抗を示し、陸軍省から捕虜調査に来た、小田島薫大佐への直訴に及んで、軍中央も知らないでは済まされないことになった。オランダへはすでに様々なルートで事態が知らされており、国際世論の反発を招くことが必至の状況だったので、軍はやむなく二ヶ月後にこの慰安所を閉鎖する処置をとった。小田島大佐は陸軍省の捕虜管理部であり、これらの女性は慰安所に送られる前から収容所に入れられていたので、捕虜虐待問題として扱われたが、戦闘員でもない一七歳の女の子を捕虜というわけにもいかない。これは、どう見ても住民虐待つまり慰安婦事件そのものだ。

こうした日本側の処置などが、記録に残ってしまったことと、被害者が白人だったことで、連合国の追求がきびしく、関係者が戦犯に問われて裁判記録が残ってしまったことが今では決定的な証拠になっている。朝日新聞の追跡調査で、関係者が事実を認めた証言をしている。インドネシアでのオランダ人慰安婦についてはオランダ政府の調査報告書が出ており、白人慰安婦は総数二〇〇から三〇〇人と推定されている。報告書は客観的なもので「自発的」な慰安婦の存在も認めているが、それはごくわずかだ。こういった証拠を示すと、今度は一部の兵隊の逸脱行為であって、例外的なものだという言い逃れも出てくる。しかし、この事件はそういった言い逃れも許さない。

強制連行を行ったのは方面軍直属の士官候補生隊であり、逃亡兵でも敗残兵でもない、れっきとしたエリート部隊の組織的行動だ。 連合軍のバタビア裁判では、この件で人道上の罪として、死刑一名を含む十一名の有罪が宣告されている。死刑になったのは強制連行を指揮し、自らもオランダ人女性に暴力をふるって強姦した少佐である。全体の首謀者と考えられる大佐は戦後復員していたが、戦犯容疑で呼び出しを受けた時点で自殺した。組織的犯罪に対する裁判だから命令されて強制連行に加わっただけの兵士は罪を問われていない。「個人的逸脱行為」は通用しない。 「希望者だけに限れ」という司令部の命令が十分伝わらなかったせいで、軍に責任はないというのも有るが、司令部が「希望者に限れ」と命令していたにもかかわらず、その命令に従わなかったのが事実ならば「抗命罪」でさらに重い罪に問われるはずだ。しかし、軍はいっさい処分を行わず、この事件に関する軍法会議は無かった。

「強制連行」の事実が陸軍省まで伝わったにもかかわらず、慰安婦の幽閉処置を解除しただけで、軍としては何等処分を行わなかったことは重要な点だ。陸軍刑法では「戦地又ハ帝国軍ノ占領地ニ於テ婦女ヲ強姦シタル者ハ無期又ハ一年以上ノ懲役ニ処ス。」とあり、慰安婦の強制連行・集団強姦は、もちろん日本軍の軍規に照らしても大きな罪だったわけだが、まったく処分の対象としなかった所に、慰安婦の強制連行に対する軍の考え方が示されている。関係者を処分しなかったのは第十六軍司令部あるいは南方総軍司令部の判断だが、もちろん第十六軍だけが特殊な判断基準を持っていたという根拠はない。

日本軍では慰安婦の強制連行を罪悪とする考えが無かったのだ。女性や土人(現地人)を蔑視し、命を捨てる覚悟の皇軍兵士が女を犯したくらいで処罰されるべきでないという思い上がりがあり、略奪をなんとも思わぬ教育がなされていた。慰安所の設営にも罪の意識がないから、中曽根泰弘は戦後も慰安婦問題がクローズアップされるまで、自分の選挙パンフにニ三歳の若さで軍の主計長として、慰安所を設営したことを自慢していたくらいだ。

事件は頻発していたにもかかわらず、日本軍が実際に、強姦や住民虐待で処分した実例は非常に少ない。罰則はあっても実際上は、お咎めなしだったと言える。強制連行・集団強姦は、組織的意図的に黙認されていた。軍人や軍に雇われた無法者が強制する売春があちこちで黙認され、オランダ抑留民団 のようなバックをもたないアジア人はみな泣き寝入りしていた。それが慰安婦問題の実態だ。一度は閉鎖されたスマラン慰安所も白人ではない慰安婦を使って後に再開されている。再開後の慰安婦徴募についてはバタビア軍事裁判でもとりあげられなかった。連合国側でも、アジア人の人権についての意識が不十分だったのだ。

朝鮮半島での強制連行

慰安婦の証言はもちろん重要だが、それにたよらずとも、極東軍事裁判関係文書の中からモア島で五人の現地女性を兵営改造の慰安所に強制連行した中尉の尋問記録(検察文書五五九一号)が見つけられているなど、確実な軍の強制連行の例は他にもある。中国での裁判でも 一一七師団長鈴木啓久中将が慰安婦の誘拐を行ったという 筆供述書を提出している。強制連行の証拠はいくらもある。

それでも強制連行はなかったという主張があちこちで行われているのは、朝鮮半島での状況の混同によるものだ。「強制連行」という言葉のイメージからは、軍人が銃剣を突きつけて無理やり連行するといった白馬事件のような情景が思い浮かぶが、朝鮮は戦地ではなく「国内」だったので、軍が直接表にでるようなことは起こりえない。そのかわり憲兵警察制度を使って、行政組織や警察に徴収を肩代わりさせることが出来た。やり方が巧妙悪質になっただけで本質的には同じことだ。

朝鮮総督府の資料は終戦時にほとんど処分されて残っていないから、こうした強制連行の実体を具体的に示すことは難しい。それを逆手にとって「証拠が無い」と居直っているのだ。慰安婦問題の研究者である中央大の吉見教授が「朝鮮半島では強制連行の証拠は見つかっていない」と発言したことを拡大解釈して「強制連行の証拠は一切ない」などと言いふらしている。

慰安婦を強制的に集めるためには、「看護婦にする」とか「工場で働かす」とかで遠くへ連れだし、慰安所で強姦してしまうことも行われた。日本に反抗した親をとらえて、親を助けたければ慰安婦になれとせまったケースもあった。憲兵や警察が、女性を拘束して、列車に乗せてしまうと云う例もある。村長や自治会長等を通じた徴集の割り当て等も行われたようだが、慰安婦の証言でも、日本に協力した朝鮮人の行動などについては、なかなかはっきりしない点がある。どのような場合でも、慰安所に到着した時点で娼妓取締規則にあるように本人の自由意志であることを確認し、強制されたり騙されて来た者は、家に帰すべきだったわけだが、それが行われていないことは確実だ。直接命じてやらせたにしろ、黙認したにしろ、軍の責任で行われたことに違いはない。

日本は男性朝鮮人・中国人を多数強制連行して鉱山やダム建設現場で酷使したことがはっきりしており、しかも軍規は強姦・略奪に甘かったとなれば、よほどはっきりした無罪証拠を発見しないかぎり、朝鮮でも大量の強制連行があったと考えるべきだ。多くの強制された慰安婦がいたことは韓国では常識になっている。「証拠がなければ強制連行があったとは言えない」は日本側の勝手な理屈でしかない。 安倍晋三がブッシュ大統領に話をしたときも、この点をとがめられたようだ。

朝鮮での慰安婦徴集の違法性で議論の余地がないのは、未成年者を徴集したことだ。現在日本で裁判をおこしている九名の元慰安婦達は全員が二一歳未満であり、この場合、国際条約によれば、本人が了承したとしても慰安婦とする事は処罰の対象としなければならないはずだ。もちろん、この人達は強制をうけて慰安婦になったと詳細な証言をしている。

慰安婦の悲惨な実態

女性が不特定多数を相手に、性奴隷としての生活を強いられることは屈辱であり、悲惨このうえないことは自明だろう。慰安婦は将校用、下士官用、兵用にわけられ、将校用には内地から来た日本人のプロがあたり、アジア人は兵用として、ひどい場合には、わらむしろで囲っただけの「部屋」の前に、兵隊が並んで順番を待つ「公衆便所」状態だった。休む間もなく次々に何人もの「処理」をさせられる代償として軍が勝手に決めた定額料金を受け取るのだ。連隊長の許可を得なくては外出もできない監禁状態の場合もあり、衛生状態も悪く、前線近くまで連れていかれた人では、終戦まで命があった人は多くなかったかもしれない。

資料の中にはミッチナ文書のように慰安婦の生活が「安楽な生活」であったかの記述のあるものもあるが、よく読めば朝鮮人、中国人の慰安婦は未経験者が大半で、未成年者も多かったと言う違法性が読みとれる。親の借金の肩代わりの前金に縛られ、仕事内容も騙されていたことも書いてある。とても安楽などという状況ではない。戦後も、過去を隠してひっそりと生きて行かねばならなかった。元売春婦などと名乗り出るのは容易ではない。現在名乗り出ているのはごく一部で、親類縁者に迷惑のかからない、独居の人がほとんどだ。

慰安婦は高収入だったか?

慰安所の料金は昭和13年当時「兵 一円五〇銭、下士官 三円、将校 五円」などと決められていた。相手によって値段が大幅に違う妙な設定だが、軍が有無を言わさず値段を決めたから出来たことだ。実際は軍が「キップ(花券)」を発行して、階級に応じて給与から天引きしたようだ。慰安婦は値段交渉の余地なく花券を持った客の相手をさせられた。

当時の兵士の給与が月一〇円程度だったので五円というのは相当高い金額に見える。しかし、当時の内地のサラリーマンの月給は一〇〇円くらいだから、むしろ兵士の給与が異常に低かった。これは兵士の給料というのは、住居費、食費、被服費が差し引かれたあとの小遣いという意味合いだったからだ。軍人も自宅から通勤するサラリーマン的な位置、中尉くらいになると月給一〇〇円だった。

客の九〇%は下級兵士だったわけだから「売り上げ」も知れている。一日一〇人としても月三〇〇円くらいで、その多くは経営者の懐に入ったはずだから、「高給取り」のはずがない。支払いは軍が勝手に発行する通貨「軍票」での支払いだったから、戦後は紙くずになった。

しかし、元慰安婦の中にはかなりの金額の貯金があったとして、その返還を求めている人がいる。これには少し事情がある。その人の説明によると、これは給与ではなく、「チップ」をためたものだそうだ。一部の慰安婦はチップを沢山手にしたことになるが、貯金の日付けをみると、殆どが終戦間際になっている。

軍票というのは何の裏づけもなく印刷した通貨だから、あまり通用価値はなかったが、公式には内地の円と等価と言うことになっていた。軍がいくら軍票を発行しても内地がインフレにならないように、外地で貯金はできても内地(朝鮮を含む)で引き出すことは出来ない定めになっていた。それでも、事情がよくわからない慰安婦たちは収入をせっせと貯金したのだ。

兵士たちは他に使い道もなく、内地に送金もできない「軍票」を慰安婦にチップとして渡したものが多くいたようだ。特に終戦間際には、紙くずになることが確実で、大量発行で超インフレ的に使用価値を失っていた軍票を持っていてもしかたがないので、どっさり慰安婦にくれてやったのだろう。

軍票は当時の慰安婦の生活にとってもなんの役にも立たないものではあった。国に帰っても引き出せない郵便貯金は詐欺のようなものだ。しかし、今となってみれば、円通貨と等価という当時の公式見解を利用して、返還をもとめることも論理として成り立つから、慰安婦が一矢を報いたことになる。しかし、これを根拠に慰安婦が高収入だったなどと言うのは、もちろんデマである。

慰安婦はどの軍隊にもあったのか?

残虐な戦争に売春や強姦行為はつきものと云われるが、日本軍には異常な密度でそれがおこり、慰安所を制度的に持つ様になった。軍人は買春があたりまえとする考え方の異常性には軍の内部にすらも批判はあって、陸軍病院の早尾軍医中尉は論文で「軍当局ハ軍人ノ性欲ハ抑エル事ハ不可能ダトシテ支那婦人ヲ強姦セヌヨウ慰安所ヲ設ケタ、然シ、強姦ハ甚ダ旺ンニ行ハレテ支那良民ハ日本軍人ヲ見レバ必ズコレヲ恐レ」と指摘している。

現代の軍隊はどこも慰安所を持っていまないし、当時もイギリス軍やアメリカ軍には軍の慰安所はなかった 。ドイツ軍には小規模な慰安所があったそうだが、強姦事件多発のためではなくもっぱら性病の管理のためだった。戦後、占領軍が日本で慰安婦を要求したと云うまことしやかな噂 が流れたこともあるが事実ではない。日本政府が、アメリカ軍上陸の前に売春施設を勝手に作っただけだ。近代軍隊でほぼ全軍にわたる規模でこのような事をしたのは大日本帝国だけだろう。

 戦場の緊張を長期に渡って続けるには無理がある。通常の軍隊は帰休制度を持ち、ローテーションを組んで戦うのだが、日本の兵士は消耗品扱いで、一度出征すれば死ぬまで戦わされた。兵站・補給を考えぬ無理な戦線の拡大は、兵士に略奪を日常とする生活を強いた。倫理観が荒廃し、強姦事件が起こるのもあたりまえだ。慰安所を作らないと強姦が多発すると発想しなければならない戦争と云うものが、そもそもの国策の誤りだったのだ。

慰安婦議論と証拠

慰安婦問題全体から言えば、強制連行の事は一部の問題だ。最初は否定意見もあった慰安所の存在はもはや確定したし、政府や軍の関与もはっきりした。未成年の少女を騙して慰安婦にした非道性も否定する人は少ない。軍人が直接脅して慰安婦にした例も占領地では確認された。ここまでくれば個々の慰安婦の証言に裏付け証拠を要求してみても、いちゃもんに過ぎず、歴史事実としての認識には決着が付いたと考えられる。

それでも、朝鮮半島での強制連行に直接証拠がないかぎり強制は無かったことになるなどと言い張る人がいる。証拠がなければ「なし」になるのが論理だと言うのだ。このような人たちは政治的意図から物事を論議しているために、歴史事実の認定が裁判の有罪無罪にすりかわってしまっているのだ。

裁判は「多くの真犯人を取り逃がすほうが、ひとつの冤罪をつくるよりましだ」の原理に基づいて「証拠がないかぎり無罪」とする、片寄った判断をする。歴史事実の認定はどちらが合理的に事実と思われるかを公平に判断する。歴史ではどのような事実も決定的な証拠が無いのが普通だから、傍証を固めていって定説をつくりあげて行くのだ。

日本軍は自由に証拠の隠滅が出来たし、慰安婦はその境遇から、記録を残せる立場になかった。決して自慢にならない、忘れてしまいたい過去に関しては証言だって簡単には得られない。やっと重い口が開いたのは50年もたってからだった。こういった条件を抜きに議論すれば、終戦時に日本が行った記録の大量抹殺がまんまと成功することになる。慰安婦問題に限らず、朝鮮総督府関係の資料は意図的な焼却が行われたこともはっきりしています。歴史の風化を許さず、全体的な目で起こった事実を見つめて行く事が大切なのではないだろうか。

古代日本の様子

日本が初めて歴史に登場したのは、1世紀に書かれた漢書地理誌である。まだ弥生時代であり、稲作も始まってはいたが食物採集の補助程度で、餓死は日常であり、天候が良ければ人口が増え、悪ければ減るという時代だ。働かないで暮らす大王や大勢の役人を養う生産力はないから、統一国家とかは考えられもしない。せいぜいの所いくつかの邑を支配する酋長がいたにすぎない。それでも、中には朝鮮半島に使いする酋長がいたので、「楽浪海中に倭人あり、100余国を為す」と書かれている。

2世紀の後漢書になると「永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う」とあり、倭国王を自称する者も出てきたが、支配領域は小さなものだっただろう。やはり弥生時代で、国家組織が生まれていたとは考えられない。貢ぎものとしては、奴隷以外になかった。「帥升」が歴史上最初の日本人の名前だ。そのほかにも30国が使いを出していた。

3世紀には魏志倭人伝がある。魏志倭人伝といえば、邪馬台国までの経路・距離が専ら論議されるが、それだけでなく、日本の風俗もいろいろと記述している。正始元年(240年)、魏が北朝鮮に置いた出先機関である帯方郡の太守は、梯儁(ていしゅん)を派遣して倭奴に詔書・印綬をさずけた。伝聞ではなく、梯儁自身の見聞を記述したものと見ることができるからかなり信頼が置けるものだ。

帯方郡から見て、日本列島の有力な国の一つが邪馬台国であった。女王卑弥呼が支配し、一大卒を派遣して巡察行政をさせていたことがわかる。温暖で、冬も夏も・生(野)菜を食する。とあり、海南島と似た気候のように書いてあるが、多分朝鮮経由で来ると日本を非常に暖かいと感じたのだろう。海流の関係で朝鮮は日本よりかなり寒い。身分制が整い、上下の別がはっきりしていた。犯罪率は低く、刑罰は奴隷化と死刑と厳しかった。海に潜って魚や貝を採るのが得意で、大人も子どもも、みんな顔に刺青をしており、刺青の仕方は色々で身分階級で異なる。

一夫多妻制で妻が3,4人いるが、風俗は淫らではない。冠はかぶらず鉢巻をする。服は縫わず結ぶだけの単衣だというから、「神代」の服装とは大分イメージが異なる。婦人は真ん中に穴を開けてかぶる貫頭衣、化粧品として朱丹(赤い顔料)をその身体に塗っている。まだ靴はなく、裸足で歩いていた。文字はなく、縄の結び目などで記録していた。3世紀は日本書紀で言えば神効皇后の時代だが、もし皇后・息長足姫が実在したならば、顔に刺青をして、赤い顔料を塗りたくり、布に穴を開けて被った裸足のお姉さんということになる。全体としては、かなり未開な様子であるが、そのとおりだったにちがいない。

こういった生活の様子は日本の記録には現れない。当事者は、当たり前のことを書く必要性を持たないのだが外国人は珍しく感じる。明治の初期の様子を書いたイザベラ・バードは、日本人の女性が歯を黒く染めた奇怪な化粧をしていることや、乳房をあらわにして街を歩いていることなどを書いているがこれは事実だ。ついでに証言しておくと、昭和30年代でも。腰巻だけで夕涼みをしている婆さんをよく見かけた。

衣類は主として麻だったようで、紵麻(からむし)で麻布を作っていると書いてある。このころすでに養蚕が行われており、絹織物を作っているとも書いてある。牛、馬、羊などはおらず、牧畜はやっていない。もちろん兵隊はおり、矛・楯・木弓をもちいていた。木弓は下がみじかく、上が長くなっているという後代の和弓と同じものだ。矢は竹製で、矢じりは骨とか鉄だったとあるから、鉄器も使用されていたことがわかる。

外交関係はかなり活発で、記録も具体的だ。卑弥呼が魏に使いを出したのは、景初二(三)年だが、そのときの正使は「難升米(なしめ)」副使は「都市牛利(としごり)」と名前も記録されている。倭からの貢物は、男生口(どれい)四人、女生口六人、班布二匹二丈であるからたいしたものではない。布一匹は大体2人分の着物を作るだけの分量だ。まだ生産力も低く、これといった特産物も無かったのだろう。これに対して魏からの返礼は凄い。

絳地(あつぎぬ)の交竜錦(二頭の竜を配した錦の織物)五匹

絳地の粟(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張

絳(せんこう:あかね色のつむぎ)五十匹

紺青(紺青色の織物)五十匹

これに加えて、遠路はるばる来たことを讃えて特別プレゼントを与えている。

紺地の句文錦(くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦の織物)三匹

細班華(さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわした毛織物)五張

白絹(もようのない白い絹織物)五十匹

五尺刀二口

銅鏡百枚

真珠五十斤

鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)五十斤

おそらく当時の倭国の国家予算を超えるようなものだっただろう。臣下の礼を取り、朝貢したくなるのも尤もなことだ。正始四年にも使いは来ており、このときは「伊声耆(いせいき)」「掖邪狗(ややこ)」ら8人だっ

朝貢したのは、邪馬台国だけではない。一応は邪馬台国に従属していたかも知れないが、狗奴国などは、独自の外交を行っている。邪馬台国は日本にいくつもあった国の一つに過ぎなかった。狗奴国の男王「卑弥弓呼」も帯方郡に使者を送り、正始八年の太守報告報告には、「載斯(さし)」・「烏越(あお)」という使者同士が互いに争ったことが書いてある。

帯方郡としては、「張政」を日本に送り、「難升米」を説得して調停しようとした。しかし、張政が日本に着いた時には、卑弥呼は亡くなっており、盛大な葬儀が行われていた。100人もの女官を殉死させて、径百余歩の墓を作った。男王が立ったが諸侯の納得が得られず、壱与(13歳)に卑弥呼の後を継がせてやっと決着がついた。「張政」の帰路に「掖邪狗」ら20人が壱与の使いとして付いて来た。このときの具物は

男女生口三十人

白珠五千(枚) 真珠?

孔青大句(勾)珠(まがたま)二枚

異文雑錦(異国のもようのある錦織)二十匹

で、少し生産力が高まっているとも見受けられる。「卑弥呼」「卑弥弓呼」「難升米」「都市牛利」「載斯」「烏越」「伊声耆」「掖邪狗」と8人もの具体的な人名が出てくるし、中国との交流もなかなか盛んで具体的な事実も残されている。しかし、日本の記録には、一切の片鱗が認められない。この時代と日本書紀の時代とには、明らかな断絶がある。

倭の様子を記述した文章が7世紀の隋書でも見られる。魏志を下敷きにしているから、同じような記述もあるのだが、仔細に見ると、倭国の状況が変わっていることがわかる。遣隋使の答礼使として来日した裴世淸の報告によるものだ。7世紀末には、漆塗りの沓が生まれていた。仏教が普及していることも書かれている。80戸毎に「伊尼翼(いなき)」を置き、10の伊尼翼が「軍尼(くに)」になるといった行政機構も生まれている。服装も男は筒袖の上着と袴のようなものを着ており、衣服は縫われるようになった。鉢巻はやめて貴人は金銀の冠をするようになった。女性は縁取りのついたスカート「裳」を着ている。酒を飲んだり博打をしたりする者も観察しているし、盟神探湯(くがたち)といった裁判風習も見ている。中国の歴史書は、こういった変化も記録しているのだ。

中国の歴史書によれば古代日本の様子が見えるのだが、これは日本書紀が描く日本の姿とはかなり異なる。日本書紀では、すでに4世紀ころから、立派な着物を着て、威風堂々とした政権が存在したことになっていろのだ。日本書紀を読む場合には、粉飾に注意しなければならない。

日本国憲法と国連憲章

日本国憲法は見事な体系性を持っており、法律条文としては、完成度の高いものだ。これが、軍人の集まりに過ぎないGHQから出された草案に基づいているとは驚くしかない。GHQ民生局は、実は、法学者集団であり、日本国憲法は、当時の最高水準の法学的英知を結集したものであった。民生局長ホイットニー准将は法学博士でもあったくらいだ。当然、同時期に作られた国連憲章とも関連がある。

日本国憲法と国連憲章の前文を比較してみよう。

日本国憲法は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と先の大戦に関する深い反省と人権を基礎とすることへの移行を宣言している。

国連憲章は、「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し」と、やはり大戦の反省と人間の尊厳を共通の価値観とすることを強調している。

人としての権利=人権を価値観の基礎に据え、平和と民主主義実現を目指す考え方は両者に共通したものと言える。この他にも日本国憲法と国連憲章は相補性を持っており、同じ考え方に基づいたものだと考えられる所が多い。日本国憲法はGHQ民生局次長のCharles L. Kades大佐が中心となって起案したとされているが、この人は、ハーバード大学大学院で学び、ルーズベルト大統領のニューディール政策を担当している。GHQ民生部に配置された優れた法学者の一人だ。

国連憲章を起案したのは米国務省特別政務室長のAlger Hissだが、この人もCharles L. Kades大佐と同じ年(1926)にハーバード大学法科大学院に入っているから同級生だ。ニューディール政策で政府機関入りをしているのも共通だから、年来の同僚ということになる。国連憲章と日本国憲法は、こうした人的つながりからも密接な関係がある。Alger Hissはヤルタ会談からサンフランシスコ会議で事務局を率い、国連憲章を起草しただけでなく、国連の枠組みも彼の手によるところが大きい。国連の生みの親とも言える。

国連憲章の平和に関する考え方は、国連憲章2条4項に示されているように、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力よる威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」と、武力行使を全面的に否認する立場だ。

これは、日本国憲法では9条1項に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と示されている。

日本国憲法9条2項では、それを具体化するために「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と軍備の放棄と交戦権の否定を定めているが、国連憲章はこれにどう対応しているのだろうか。

国連では、平和を守るために「集団安全保障」という考え方をする。これは集団的自衛権とは全く異なる。集団的自衛権=軍事同盟、集団安全保障=相互制裁協定とすれば、わかりやすいかもしれない。

一国が単独で自国の安全を保障しようとすれば、他国に優る軍事力を持つ以外に方策はない。各国が皆これを追求すれば、際限ない軍拡を引き起こす。二度にわたる世界大戦はこうした軍拡競争の結果とも言える。古くからこれを補う方法として軍事同盟が考えられていた。しかし、軍事同盟は、仮想敵国を想定して対立を深めるばかりであり、双方の軍事同盟が広がることで、より深刻な大戦争になる結果を引き起こした。

「集団安全保障」は、もし加盟の一国が他国を侵略したりする非道を働いた場合、他のすべての国が一丸となってこれに対処することを前もって約束する仕組みだ。仮想敵国を作らず、自ら制裁を受け入れることを表明する協定になる。国連加盟により、各国はこの協定に参加することになり、この運営は安全保障理事会が担っている。

こうした仕組みが機能すれば、どの国も他国に優る軍事力の必要が無くなり、軍拡競争の連鎖を断ち切ることができる。軍事力を低減した国の安全も保障することができる。これが国連の目指す方向性なのだ。日本国憲法9条2項は最も先進的にこうした国連の目標を実践しようとするものであったと言える。逆に、憲法9条の文言が現実性をもっているのは、軍備がなくとも国の安全が保障されるという、国連機構の存在に基づいている。国連憲章と日本国憲法は相互に強い関連性を持っていることがわかる。

軍備と戦争は必ず自衛という形で現れる。国連が世界の恒久的な平和のために集団安全保障の体制を取るということは、集団的自衛権は勿論のこと、各国の個別自衛権をも基本的に否定する立場であることを示している。将来的には世界から軍備をなくして行くことを目指しているのだ。こうした国連の示す道筋を一国の憲法として体現したものが、日本国憲法第9条ということになる。国連を基盤とする限り、よく言われるように国家は、個人の自衛権と同じく、永遠不滅の自衛権を持っているなどという議論は成り立たない。

そもそも個人の自衛権なるものも、少なくとも日本では認められていない。アメリカでは、個人の自衛権を認める立場で、銃の保有を許可している。腕力の強い相手に対して、自衛するためには銃の保持が必須だからだ。アメリカの銃保持論者がいつも言うことは、「警察が来るのが間に合うとはかぎらない。銃なしで君はどうやって家族を守れるというのか」である。

日本人は経験からも個人の自衛権を放棄したほうが却って安全であることを理解している。個人の自衛権に固執するのは過去の考え方であり、人類の進歩は、個人の自衛権を放棄する方向にある。アメリカでもそうした道が模索されているところだ。実は国家にしてもまた同じ事が言える。国連に依拠して自衛権を放棄していくのが文明の進む道である。日本国は世界に先駆けて、憲法9条で国連の目指すところを実践しようとしたのだ。

自衛権の議論では、軍事技術の発達も考慮に入れなければならない。ミサイルなどの兵器が発達してしまった現在、隣接する国から発射されたミサイルは短時間で目標に到達してしまい、これを防ぐ手立てはない。社会は発達した交通網や通信網に大きく依存するようになっており、戦時体制の構築も実際上はできない。すべての国は貿易に大きく依存するようになっており、戦争で貿易が途絶えただけでも経済が崩壊する。こういったことから、もはや、武力による侵略も、武力による自衛も現実的なものでなくなったと言える。軍備は、実際の役には立たず、軍事産業の利益を保護するだけのものとなっている。この現実に直面して、アメリカでさえ、軍備の縮小を始めているくらいだ。

しかしながら、歴史の進歩は平坦ではない。国連と日本国憲法は共に様々な苦難を強いられることになった。日本では、国連憲章の起草者がAlger Hissであったこともあまり語られない。実は、Alger Hissとその他の政府機関スタッフの13人が、共産党の秘密党員だったとしてその後排斥されたのである。Alger Hiss自身はスパイだということで査問され、結局、5年の実刑を受け、弁護士資格も剥奪された

ソ連の崩壊後暴露されたの機密文書でも、スパイ行為の事実はなく、密告者が自己の密告価値を高めるための虚偽であった可能性が高い。証拠とされた文書の内容も何等秘密となるものではなかったのだが、秘密だということでで中身を十分公開しないまま、秘密保護法違反の判決が下された。日本でも問題になっている秘密保護法というのは、このような使われ方をするものだということを認識する必要がある。

1975年になって、「秘密文書」がでっち上げであったことがわかり弁護士資格の回復は果たしたが、いまも完全な名誉回復はされていない。起草者のことを語ってしまうと、アメリカは、国連設立が共産主義者の陰謀であったという立場に立っている事になるし、事実、軍事同盟を広げ、G5、G7といった国連を外れた枠組みを推進するようになった。

日本国憲法も歴代自民党政府によって、蹂躙されて行くようになった。その後の日本政府は自衛権を固有の権利とする立場を取り、自衛は軍備ではないという屁理屈で軍備を拡大した。そして最近は歴史の流れに逆らって、自衛の範囲を集団的自衛権にまで拡張した。

日本政府によれば、集団的自衛権(right of collective self-defense)は「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」である。自衛は武力ではないという立場での言い回しだが、普通に言えば軍事同盟に基づいて他国の戦争に参戦する権利ということになる。ここまで拡張すれば、任意戦争権と同じようなものである。かつて日本は満州国を作りこれを足場にしてさらなる中国侵略を進めた。日満議定書は、

「日本國及滿洲國ハ締約國ノ一方ノ領土及治安ニ對スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約國ノ他方ノ安寧及存立ニ對スル脅威タルノ事實ヲ確認シ兩國共同シテ國家ノ防衞ニ當ルベキコトヲ約ス之ガ爲所要ノ日本國軍ハ滿洲國内ニ駐屯スルモノトス」

とまさに集団的自衛権をその侵略戦争の正当化の根拠としている。集団的自衛権なるものを認めれば、あらゆる戦争が正当化されてしまう結果になる。集団的自衛権の導入が、これまで政府が取ってきた自衛力は武力ではないといった憲法解釈すら崩してしまい、立憲主義の根本に抵触することから改憲論者からも批判が起こるのは当然である。このような「権利」が国連憲章でも認められているという主張が、自民党政府によってなされているが、こういった「権利」は国連の設立趣旨に反することは、明らかである。

しかしながら、国連憲章が、個別的・集団的自衛権を容認する文言を持っていることもまた事実ではある。

第51条は、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基づく権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。」

と、集団的自衛権を容認する文言になっている。実際、集団的自衛権という文言は国連憲章で初めて使われたものである。しかし、「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という限定をつけており、その後の安全保障理事会による処置より下に位置付けている点もあって、手放しで奨励しているものではなく、非常に限定的に仕方なく認めていることがわかる。国連の主旨を損なう恐れのある51条には経緯があり、実は国連憲章の原案には入っていなかったものだ。

国連憲章は1944年9月にワシントンDC郊外にあるダンバートン・オークス邸で起草された。しかし、ここでは完全な合意に至らず、1945年6月のサンフランシスコ会議で最終的に署名された。何が問題になったかというと、安全保障理事会の採決方法であった。サンフランシスコ会議では5大国の拒否権が導入された。国連憲章の第2条1項には「そのすべての加盟国の主権平等の原則」を謳っているが、5大国の拒否権は明らかにこれに反する。

アメリカでは、「大統領の権限を他国にゆだねるようなものだ」と、国連加盟に反対する意見が強かった。アメリカは国際連盟にも加盟していない。結果的にはわずか6週間の審議で加盟を決議した。世界大戦の惨禍を前にして、何とかしなければいけないという機運の高まりが、伝統的なアメリカの姿勢を覆したのだ。拒否権はアメリカ議会をなだめるための妥協だった。しかし、議会保守派には、Alger Hiss一派にしてやられたとの悔悟が残った。これが、Alger Hissたちを陥れる動機にもなったのだろう。

その結果、大国の拒否権によって集団安全保障機能が麻痺するという危惧が出てきた。ラテンアメリカ諸国は、チャプルテペック規約に署名し、第二次世界大戦終了後に相互援助条約を締結することを約束していた。こういった地域的な集団安全保障も5大国の承認なしには動けなくなる。この危惧は、援助義務を約束したアラブ連盟規約に署名したアラブ諸国にも共有されていた。

地域的集団安全保障についての議論が行われたがうまく合意することができなかった。 52条では「地域的取り決め又は地域的機関が存在することを妨げるものではない。但し、この取極又は機関及びその行動が国際連合の目的及び原則と一致することを条件とする。」と、地域的な集団安全保障を認めることにしているが、53条では、「いかなる強制行動も、安全保障理事会の許可がなければ、地域的取極に基づいて又は地域的機関によってとられてはならない。」と結局これを否定している。

地域的取きめによる安全保障の代わりということで、51条を入れることをアメリカが主張して決着したのが現在の国連憲章である。小国の集まりとなる地域的取り決めに代わって、大国も利用しやすい集団的自衛権を部分的であれ、容認する条項とした。これは地域を飛び越えた軍事同盟に道を開くものであったし、事実、北大西洋条約機構や日米安保条約など、その後のアメリカの国際政策は大きく、この条項に依存し、またソ連もワルシャワ条約を結んで冷戦の体制が築かれていった。

国連憲章51条の集団的自衛権は、大国の権限を容認しなければ発足が難しかったという歴史的経緯から、やむを得ず限定的に許容されたものであり、国連本来の主旨からは、消滅して行かねばならないものである。冷戦構造が消滅した今日、軍事同盟の解消が言われており、国連の目指す平和な世界の実現を進めるべき時であるにもかかわらず、日本が集団的自衛権を持ち出すのは、まったく歴史に逆行する行為と言えよう。

アメリカは、国連を都合よく利用しようとしたが、Alger Hissたちにより設立された国連は、アメリカの思い通りになるものではなかった。軍事同盟や、G5、G7といった別の枠組みを作り出すことで、国連をないがしろにしてきたことは、日本国憲法が歴代自民党政府によってゆがめられて来たことと符合する。

それでも、現在ほとんどの国が加盟する国連を無視して世界は成り立たなくなっているし、確かに国連は半世紀以上も大戦争をくい止めてきた。日本国憲法が、日本政府の急速な軍拡の歯止めになっているのも明らかである。日本国憲法は、わずか57年しか持たなかった大日本国憲法を越えて、深く日本に定着してきており、もはや民主主義や人権も、言葉の上では改憲案でさえ消すことは出来なくなっている。昨今の性急な改憲の動きは、こうした日本国憲法の浸透を食い止めようとするあせりから生じているとも考えられる。人類は進歩しなくてはならない。粘り強く改憲に抵抗し、日本国憲法を生き延びさせることが歴史に対する我々の貢献である。

歴史と善悪

 「南京大虐殺はなかった」とか「満州国は中国のため」とか、復古調の右翼的論調がかなり蔓延している。このような人たちはいくら事実を突きつけられても見ようとはせず、「正義の日本人がそんなことをするはずが無い」とひたすら信じるのみだから、まともな論争にもならない。バブル崩壊後に落ち目となった日本の国力に落胆し、昔の夢を追いたい気持ちの現れであろう。あせりからくる右傾化現象と言える。

中には一応、論を立てる人もあるが、このたぐいの論者に共通して言えることは、判断の基準を失い「善悪」を単純に「強弱」に置き換えてしまうことである。歴史を表層で見てしまうと「勝てば官軍」としか考えられない。家康にしろ秀吉にしろ、どのような姑息な手段を使っても、政権を取ってしまえば、建国の功労者で有り、英雄と評価されるのが常である。政権獲得を争いとしか見ず、社会の発展からの必然性に目を向けなければ確かにそう見える。とどのつまりは15年戦争で日本が「悪」とされるのは戦争に負けたからだと、本気で考えてしまうのだ。

 大虐殺をやったのは日本ばかりではない、アレキサンダー大王の遠征は大虐殺の連続だった。中国との戦争はお互い様だ。フビライの遠征軍が博多湾に攻め入ったのは高々800年前のことだし、第二次世界大戦の連合国だって、植民地を持っていた。だから、日本のアジア侵略は、特段非難されるべきことではない。............と、いうわけだ。

 歴史に善悪を考える時、重要なことは人類の進歩という概念である。 昔、腕力の強い者が王と称して、他人から税を取り立ててもなんら不思議はなかったが、今それを行えば強盗でしかない。古代に奴隷制はあたりまえであったが、今それを行えば、気違い沙汰だろう。人類は進歩しているのである。こうした人類の進歩に追いつけず、古い倫理基準に固執していることが、歴史において悪と非難されるものなのだ。

 過去においては阿片貿易も「正当な商行為」として認められていたが、今ならだれしも悪と判定を下すだろう。空を覆う煤煙は頼もしい工業近代化の象徴であったが、今では公害の元凶とされる。善悪の基準は変化しているが、これは、ご都合主義でころころと評価が変わるといったことではない。人類がそれだけ進歩した結果として、高い倫理性が要求されてきたのである。現在「正当な商行為」として許されている武器の輸出や、開発途上国に飢餓をもたらすかもしれぬ食料の大量輸入も、人類社会が発展すれば極悪非道の非難を受ける日が来るだろう。

 第一次世界大戦が帝国主義諸国間の争いでしかなかったのに対して、第二次世界大戦では、連合国に「露骨な侵略主義」と闘う倫理上の優位性があったことを否めない。後発の日本は、人類の趨勢がすでに露骨な侵略を認めない段階に達していたのに、まだ19世紀的な侵略を押し進めたのだ。戦争の現場でも、人類の進歩に対する感性がなかった。古代の戦争では当たり前であった「強制連行」や「従軍慰安婦の徴発」等も、人類がもはやそのような蛮行を許さない段階に進歩した時点で行ったから非難されるのである。

 遅れて国際舞台に登場した日本は、西欧の古い基準に学び、新しい進歩を受け入れることに失敗した。民主主義の時代となっても、絶対主義天皇制を保持したままで、神の国としての使命を果たすべく戦争に邁進した。これを悪でないと考えるのは、やはり無理だ。だからこのような過去を悔後をもって振り返ることは自虐でもなんでもない。人類の進歩を見つめ、国のモラルを考えて行く上で必要なことなのである。しっかりと歴史を見つめ、日本国憲法で日本が獲得した倫理性の優位を失わず、人類の先進部分としての日本をぜひ築きたいものである。

戦争の歴史

歴史は言うまでもなく戦争だらけではあるが、いったいどのようにして戦争が生まれたのだろうか。ものごとには全て始まりと終わりがある。ならば戦争の存在が終わることはあるのだろうか。戦争が終わるとすればどのようになくなるのだろうか。戦争の歴史を少しつぶさに見てみよう。

もちろん戦争の始まりは喧嘩であっただろう。話は単純で腕力の強いものが勝つ。これが喧嘩の常識だ。しかし、単に自分の腕力だけに頼らず、助っ人をかき集めるというやからが現れると、当事者自身の腕力よりも、いかに多くの助っ人を用意できるかが喧嘩の決め手になった。喧嘩はだんだんと規模を拡大して行った。

槍や刀などの武器が発達すると、腕力というよりも、こうした武器の数、武器を使う人数が重要となり、ますます多くの人を巻き込んだ、大規模な喧嘩が行なわれるようになった。こうなると喧嘩には、政治的要素が入ってくる。喧嘩の首謀者には、多くを従わせる統率力、喧嘩の正義を確信させる弁舌のさわやかさが、重要になってくる。武器の使用により、争いには必ず死人がでることにもなった。こうして生まれた「政治と結びついた多くの死傷者を出す喧嘩」が戦争である。ただの大喧嘩ではない。

喧嘩の原因には様々なものがあった。宗教とか民族の対立は現代にも残された紛争の原因ではあるが、これを直ちに戦争に結びつけるのは早計である。仏教と神道のように共存できたものもあるし、多様な民族が交じり合って暮らしている例は多い。紛争の原因と戦争の発生は別物である。あらゆる利害の不一致が戦争の原因となった。

人類が一人一票などと言う決定方法を思いついたのは、まだずっと先のことである。古くは、相互に利害が異なる物事を決着するには、専ら神の御宣託が用いられていた。しかし、次第に変化が始まり、人類は物事を巫女の言葉よりも戦争で決着することを好むようになっていった。とりわけ、どちらに政治力があるかを如実に示すことが重要な、王位をめぐる争いには、戦争が有力な解決方法となった。社会の発展とともに戦争の規模は、どんどん大きくなっていった。

しかしながら、助っ人の数には実は限りがあった。大声で指揮しても、声の届く範囲は限られている。第一、助っ人を頼むといった戦争の準備にも話し合いが必要だった。オルグ活動、日頃からの付き合いには、もちろん限りがある。戦争の規模にはおのずと限りがあったため、日本では奈良・平安時代の戦争は言って見れば小競り合いの積み重ねであり、勝負がつくには長い年月がかかった。まだ戦争は万能ではなく、大化の改新のように、政治決着には、戦争よりもむしろテロが有効だったことも多い。

戦争の規模のさらなる拡大は、朝廷子飼いの武人では無く、新興勢力である武士によって行われた。御恩と奉公の主従関係でしっかりと結ばれた独特の倫理観を共有しており、理由を問わず主君の戦闘に無条件で参加するのであるから、オルグ活動に時間が要らない。こうして武士の登場により小競り合いの積み重ねではなく、一気に勝敗を決める大軍勢の「合戦」というものが可能になった。戦争は政治対立のさらに有効な決着方法となったのである。神様のお告げは完全に問題解決の手段からははずれた。

この時代に特徴的なことは、数ではなく、超人的な豪傑を獲得することが戦争の決め手であったことだ。豪傑を何人かで取り囲んでも、最初に踏み込んだ一人は必ず殺される。誰しも殺されたくないので踏み込まない。だから烏合の衆よりも強い一人の豪傑が有用だったのだ。豪傑としても、自分の戦闘ぶりを主君にしっかりと認識してもらう必要があったので、戦場では大声で名を名乗り一対一で対戦することが多かった。豪傑が倒されればあとは散を乱して逃げ出すと言う事が多かったようだ。

雑兵と呼ばれる狩り出された農民の役割は、戦闘よりも、むしろ武将のための馬の世話や食料、武器の運搬に終始していた。雑兵が武将を倒すと言うことはあまり無かった。装備が格段に違うし、食い物も違う。馬の後を追って戦場に走るだけでへとへとになるし、最初から戦意などないからだ。この時代の戦争は、武士たちの争いであり、もちろん、とばっちりを食うことはあったが、一般人は傍観者でも有り得た。

劉備も曹操も頼朝も、戦国の武将は全て豪傑を召抱えたがった。しかし、世界史的に見れば、こういった豪傑主義よりも、集団戦術のほうが強力であることは明らかだ。ローマでは、軽量で鋭い鉄製の武器が出来るようになる段階で、次第に集団戦法が生み出されるようになった。文化的にも文書指示が普及して、歩兵の集団訓練が出来たからだ。武器さえよければ特に超人である必要はない。ローマの歩兵軍団は、相手がどんな豪傑であろうとも長い槍で一気に集団でぶつかる戦術を取り、圧倒的な強さを見せた。

日本で最初に集団戦術を取り入れたのは、武田の騎馬隊であるとされているが、これは怪しい。世界では騎馬が戦力の決め手となったが、日本馬は背も低く蹄鉄も無かったし、舌鐙では戦闘的な乗廻しは難しい。むしろ騎馬の武将の指揮のもとに、歩兵が長槍を戦闘に突撃したと言うのが実際だろう。戦国時代の末になるとこのような集団戦術が徐々に普及した。徴兵された雑兵の活用であるが、まだ十分な威力を持つものではなかった。織田信長の強さは、雑兵の位置づけを変え、刈り集めの百姓動員ではなく、常備兵力として集団訓練したことによる

集団戦術を決定的にしたのは鉄砲の登場であった。弾込めに時間がかかり、発射も不安定だったが、集団に組織すれば一斉射撃でどんな豪傑も殺傷することが出来た。当時の鉄砲の射程は数十メートルで弾込めに2,3分かかったので、例え三段撃ちを行ったとしても効果があったのは緒戦の一斉射撃だけであっただろう。しかしいきなり多数の武将を戦死させられては相手側の打撃は大きい。鉄砲の過多が戦争の勝敗を決めるようになっていった。こうなってくると鎧や兜は役に立たず、むしろ機敏な動きを妨げるだけのものとなる。豪傑の活躍する場も無くなってしまった。徴兵され戦争に巻き込まれる人は格段に増えた。

世界では鉄砲の発達とともにますます集団戦術が発達し、銃撃部隊が戦争の中心になり、戦争は政治問題の唯一の解決手段として定着した。戦勝国は賠償金を取り、領土・資源を獲得し、国民生活は豊かにもなった。国民戦争と言われる概念が生まれ、一般の人々も戦争に巻き込まれることになった。国民全体を動員することに成功したナポレオンの強さは、傭兵に頼る王国軍を圧倒した。政治はすなわち戦争であるという時代になったし、人々にとって戦争に参加することは生きた証であり、美徳とさえなった。正々堂々と戦って勝利することが正義とされたのである。市民生活においても決闘が紛争解決の正式手段とされた。しかし、日本では徳川300年の太平時代となり、さらなる戦争の発達は無かった。

幕末の戊辰戦争を経て、日本でも戦争の仕方は大きく変わり、西南戦争では徴兵された歩兵による銃撃戦が士族の抜刀隊を圧倒した。世界からは遅れたが、日本もたちまち戦争の世界に飛び込んで行き、一番遅くまで戦争の世界にしがみくことになった。時代は戦争万能の時代であり、物事を最終的に決着させるには戦争によるほかない。平和は戦争によってのみもたらされると多くの人が信じていた。

西洋諸国から学んだのは散兵狙撃と密集突撃の戦術である。特に後者は大日本帝国の殆ど唯一の戦術として用いられて行く。前方に展開する敵に対して、縦列のまま密集して一斉突撃する。もちろん、先頭の何人かは撃たれるが大部分は敵陣に踊りこむことが出来る。これには一種の心理戦が含まれ、勇敢に素早く進むほど損害は少なく、躊躇があるほど損害が大きくなる。突撃されて浮き足立てばもちろん命中率も下がるので、思い切って突撃すれば先頭にさえ被害が無いことも多かった。日清戦争は大日本帝国がこの突撃戦術に確信を持つ根拠になった。以来、帝国陸軍の根幹は戦争の技術ではなく「必勝の信念」に置かれるようになった。

鉄砲の出現で鎧兜が役に立たなくなったのと同様に、大砲の出現は城壁をも無用にした。やわらかい地面に穴を掘った塹壕のほうが砲撃から身を隠すには適することがわかった。塹壕陣地の登場である。日露戦争では機関銃が登場し、もはや歩兵の突撃では突破できないほどの速射が行われるようになった。日本軍は犠牲を増やすことでこれに対処し、多くの戦死者を出しながらかろうじて勝った。勝ったことで学ぶチャンスを逸してしまった。日露戦争を見学した欧米各国では早急に軍備を転換し、第一次世界大戦では塹壕を掘って縦深陣地を構築し、機関銃を装備してマジノ線など互いに突破できない防衛線を築いた。戦場はどちらも攻撃できない膠着状態を生じた。ものごとの決着をつける手段としての戦争は万能ではなくなって来たともいえる。防衛のための軍備という概念はこの時代の産物である。

この当時から、あまりにも多くの死傷者を出す戦争に対する疑念が起こって来た。もはや戦争の勝利が無条件の正義ではなくなってきた。理想論として戦争の廃絶が言われだし、パリ条約や国際連盟の結成が行われた。一方で、資本主義の発達により、植民地を獲得することが先進国の宿命であると考えられ、帝国主義国間の争いは、戦争によるほか解決の手段がないとも考えられるようになった。戦争が、政治問題の最終解決手段であるとの認識は依然として維持されたのであるから、平和は理想論に過ぎなかった。

第一次世界大戦で導入された塹壕陣地による防衛戦も突破できないわけではなく、迫撃砲による近接砲撃で機関銃座を一つ一つ潰して行き、最後に歩兵が突撃するという方法が有効だった。しかし、砲弾を大量消費する迫撃砲攻撃は補給が大問題で、兵站を無視した日本軍では十分に行われず、損害を無視した突撃が相変わらず繰り返された。もっと有効な戦術は戦車による制圧である。戦車による攻撃が登場すると、突破できない防衛線は無くなってしまった。戦争の仕方は、またもやすっかり変わってしまったのである。しかし日本は、旧態依然とした「必勝の信念」による突撃にたよるままだった。

野戦で戦車がいかに力を発揮するかは、ノモンハンでのソ連軍との衝突で惨々思い知らされたのだが、このことは終戦まで秘匿された。国家分裂状態の中国軍との戦闘では突撃戦術がまだ有効だったが、強国との戦争にそんなものが通じるわけがない。太平洋戦争でアメリカと日本の歩兵の激突は一回も無かった。ガダルカナルでは一方的に歩兵の突撃を繰り返したが、ただ戦死者を増やすばかりで何の成果もなかった。

さらに大きな変化をもたらしたのは、航空機の参入である。大量の航空機による戦闘部隊ができると、海戦でも陸戦でも航空機による攻撃が決め手となった。真珠湾で米空母を破壊できなかったことで、すでに日本海軍の敗北は決定的だった。航空機による都市空襲が行われるようになると、兵士たちだけでなく、一般市民にも被害を拡大し、多くの一般人が戦争で死亡するようになった。

陸上戦闘は、航空機と戦車で決着が着く時代になった。徹底した爆撃のあと、戦車に先導されて上陸する歩兵の役割は残敵掃討だけである。アメリカ軍にもパラオや硫黄島で戦死者が多数出ているが、これは指揮官の作戦ミスに過ぎない。残敵を過少評価して、戦車を十分配備せずに歩兵を上陸させてしまったのだ。戦車も航空機もない状態で、勝つ見込みもなく戦わされた日本軍兵士はまさに犬死であったが、アメリカ兵も死ななくて良い所で多く死んだことになる。これらの戦闘に学んで沖縄では十分な配備を行なったので、もはや米軍は上陸で大きな損失を出すこともなくなった。

このように歴史を一貫して戦争は進化してきた。逆に言えば、戦争は決して永久不変なものではなく、政治問題の解決手段として有効であったから、発達したものでしかないことがわかる。現代における戦争も、この観点で見直す必要がある。政治問題の解決手段として有効でなくなった時には、もはや戦争の必然性がなくなるのだ

今の大国間の全面戦争では核ミサイルで全て決着が着く。しかし、核兵器の使用は世界の批判を浴びて政治的には損失が大きく、実際には使えない。政治的批判が大きく高まってしまえば政治目的は達成できないのだから、核兵器には政治問題の解決能力が無いのだ。それでは通常兵器のミサイルが有効であるかというと、そうでもない。高度に発達したミサイルは、標的よりも値段が高いと言う矛盾に突きあたる。戦争は大きな転換点に行き着いた。

航空機とミサイルで全て決着がつく時代の戦争というものは余りに戦費が高くつく。ミサイルや核兵器などは維持管理だけでも、とんでもない財政負担になる。戦争は武器の発達を促し、武器の発達とともにその規模を拡大してきた。その武器が、実際には使えないほど発達してしまったということだ。戦争への参加範囲も拡大し、一般市民を必ず巻き込むので、周到な世論誘導がなければ、戦争を始められない。これもたやすくは無い。

日本は日清戦争で戦費をはるかに上回る賠償金をせしめて、それが製鉄所建設などの工業化の源泉になったのだが、戦費を上回るような賠償金を取るなどということは、もはや出来ない。戦争は、勝っても負けても大きな負担になることが明らかになった。徴兵も容易でなくなり、戦死者家族に対する補償なども大きな財政負担になる。多くの問題を一挙に解決する手段として際立っていた戦争の有効性は失われてしまった。戦争には、政治問題の解決手段としての能力がなくなったのである。

この70年、大国どうしの全面戦争は一度も起きていない。もちろん地域紛争のようなものは続いているが、雌雄を決する対決は無かった。戦争を始めるより、なんとか折り合いをつけたほうが安上がりに決まっているからだ。弱小国への侵略でさえ、結局採算が合わずにアメリカはベトナムから撤退した。大国による小国支配は残っているが、採算性が高い、巧妙な方法に転換している。多国籍企業による資本提携やマスコミ支配といったやり方だ。

こう考えると、今各国にある軍備は実は無駄なものであることがわかる。イラクやアフガニスタンで武力は使われているが、問題をこじらせるだけで、政治問題の解決には何等役に立っていない。各国が実際には役に立たない軍備に多額の予算をつぎ込むのは愚の骨頂であり、軍事産業に対する奉仕でしかない。戦争の歴史は、もはや終わったのである。

日本国憲法が戦争を放棄しているのは、決して理想論だけから来るものではない。現実的に歴史的役割を終えた戦争を見放したのである。宗教や民族の対立は依然としてあるが、戦争でそれらが解決するとは誰も思わないだろう。資源が全くない日本にだれが攻め込むものか。日本が資源国に攻め込んだとしても、代償があまりにも大きく、それに見合う利益が得られるはずもない。

しかし、戦争で利益を得る人と犠牲を払う人が別であることから、戦争の危険は全く無くなったわけではない。戦争で利益を得る人が突っ走ることはできる。それでも、多くの人々を戦争に引きずり込むことは、難しくなって来ている。日本国憲法の下で、遅々とした発展ではあるが、人々の意識は高まり、たやすく命を投げ出さないようになって来てはいるからだ。

戦争の現実が見えず、まともな判断ができないバカだけが戦争を煽るが、やがて人類がそれを見破ることは確実である。日本国憲法の先見性は、改めて評価されるだろう。

地方の時代はやってくるのか?

「地方の時代」などと言う言葉がt使われ一時はブームにもなった。しかし、いまだにそのような時代の片鱗もない。過疎の村々は年寄りしかいないし、鉄道もどんどん地方は廃線になっている。TPPで農業が壊滅すれば地方が滅びる時代にすらなりかねない。「地方の時代」という言葉は単なる願望によるものでしかないかのように思われる。

昔に遡って「地方の時代」考証してみよう。日本の古代はもちろん地方の時代だった。大和政権が国中を制覇しても、地方は半独立で独自に運営されていた。それは通信手段が未発達なためのやむを得ぬ状況としての「地方の時代」であった。文字文化が普及し、律令が整うと次第に中央集権化されて、隅々まで統治が行き届くようになった。奈良時代には公地公民で完璧な中央集権が達成されたことになっている。

これで「地方の時代」は終わったのかといえばそうではない。律令制度の結果、地方豪族は消滅し、租税は国庫に一元化され、地方自治は無く、5年ごとに交代で中央から派遣される国守が地方を治める、こうした役人はすべからく実力主義で科挙により選抜される。という筋書きではあったが、実際は違っていた。

中央集権は崩壊せざるを得ない弱点を持っている。人事は中央だから、真面目に5年も地方に行っておれば、政界から脱落してしまう。皆、代理者を派遣して自分は中央に残った。陰位ということで、高級官僚の子弟は家柄で試験に合格したから事実上の世襲制になってしまった。有力者は荘園と称する国税免除特区を手に入れるようになった。

権力は中央に集中しても土地は動かせない。中央集権のもとで、結局地方は荒れるに任された。中央集権では地方に散在する最も基本的な生産資産である「土地」を有効に使えないということだ。農民達は自らの安全を保つため自衛するようになり、都から零落してきた武人を頭に頂いて、独自の武士道イデオロギーで強固な結束を持つ集団を形成していった。これが武士の起こりだ。

鎌倉幕府は決定的な中央集権の崩壊を意味し、再び「地方の時代」となった。武士は地方に土着し、農業生産を指導した。経済は新たな発展を見た。発達の結果再び「地方の時代」になったのである。守護地頭は中央からの派遣ではなく、世襲制で、何代にもわたりその地方の発展と命運を共にした。これは地方の発展を促しはしたが、その権力の根源は中央の威光ではなく地方の実力と言うことにもなった。無秩序な地方の時代の欠点はここにある。実力で合い争う戦国時代になってしまった。

騒乱を経て結局落ち着いたところは江戸幕府という官僚化した武士による中央政府が地方を支配する幕藩体制であった。中央集権と地方分権の折衷であったと言える。民衆の統治は各藩それぞれに行われ藩札などの通貨発行権まで地方にあった。だから、江戸時代は今日から見ればやはり「地方の時代」だったとも考えられる。

再び中央集権が復活したのは明治の王政復古で、廃藩置県で幕藩体制は無くなってしまったし、地方の権限はごく限られたものになった。高等文官試験ということで科挙も復活した。知事は内務省からの派遣だったし、官吏も上部は中央からの派遣だった。地方自治なるものはもはや存在しなくなった。その一方で地方から上京した人材が文明開化を押し進め中央集権の集中力を発揮した。どの地方にも藩校や寺子屋が普及し、人材育成の体制があった。長い間地方に蓄えられたエネルギーが一気に集中した効果は大きい。

同様な現象は、ヨーロッパでも見られ、イタリアやプロシアは小国分立から統一国家の形成で急速な発展を果たした。アジアの朝鮮や中国では十分な封建制の発達がなく、古代の中央集権のまま来た。朝鮮などはソウルだけが都市であり地方都市の発達はないままであった。これが、近代化の速度が遅い原因であったと考えられる。日本の場合、長い封建制の「地方の時代」があったのからこそ急速な近代化を達成できたのだ。

明治の中央集権化は徹底したものだったが、それでも徳川300年で形成された「地方」は健在であった。もちろん、土地所有権の流動化が小作と不在地主を生み出し、地主の資本蓄積が都市の工業を興したのではあるが経済のバックボーンは依然として農業だったからだ。農業は土地に硬く結びついており動かすことができない。これが中央への経済の吸い取りを防いでいた。

中央集権による集中力の発揮は瞬発的なもので長続きはしない。中央集権が進むと、地方は荒れる。工業化が進んでしまった今では、過度な中央集権のもとで、地方の衰退が進んでいる。農業の没落で地方経済は沈滞し、文化的にも地盤沈下が進んでいる。例えば東大入学者の三分の一は東京圏であり、地方からの入学は人口比を考慮してもかなり少ない。人材供給源としての地方も成り立たなくなってきているのだ。

戦後、新憲法の下で地方自治が導入された。これは再び地方の時代を形成する機会ではあったし、工業化された時代にこそ地方の住人が自らの身を守るための自治が必要だったのだが、その意味は理解されないままに年月が経過した。自治体は補助金に釣られて年とともに中央政府の下請け機関化し、憲法が求めた地方自治は失われていった。農業の衰退が地方を決定的な衰退に落とし込んだ。

それでは再び地方の時代がやってくるだろうか?もはや農業を基盤とすることはないから土地の必要性は薄い。もし、地方の時代が来るとすれば、それは距離が意味を成さなくなるときだろう。ITの発達で、人々が、ネットワーク経由で仕事をするのが当たり前になれば、東京からの距離は関係がない。毎日出勤するのではなく、在宅勤務なら景色がよい、空気の綺麗な所に住みたいだろう。国会がネット上で運営されるならば議員はだれも地元を離れない。自然と権力は地方に分散される。会社の本社も特に所在地がなくともネットワーク上にあればよいことになる。

風景や空気・環境が生産に欠かすことのできない大きな資産と考えられるようになれば再び地方の時代がやってくる。案外、そんな日は遠くないのかも知れない。それまでは、中央集権のために地方は浮かび上がれず、バックボーンを失った日本全体がたそがれて行くのも仕方がないことだろう。


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