歴史・人名

旧唐書

 旧唐書(巻199上「東夷」)<付・劉仁軌伝>
旧唐書』(くとうしょ)は五代時代の後晋国の政治家であった劉句(リュウク=887~948)が編纂した正史。
倭国に関しては巻199上の「東夷」条に記載されている。
 『旧唐書』は倭人国について「倭国」と「日本国」の二つを記している。その違いは「日本国」条の最初にやや詳しく記述するが、かなり曖昧な説明になっており、古来より史学の論争点となっている。

  < 倭国 >

 倭国は古の「倭奴国」なり。京師を去ること一萬四千里、新羅国の東南の大海の中にある。(略)東西は五ヶ月かかる広さで、南北は三ヶ月かかる広さがある。(略)四面小島にして50余国、皆付属せり。
 その王の姓はアマ(阿毎)氏。一大率を置き、諸国を検察す。(略)官を設くるに12等あり。(略)衣服の制、すこぶる新羅に類せり。
 貞観5(631)年、使いを遣わし、方物を献ぜり。太宗その道の遠きをあわれみ、所司に勅して歳貢を無くさしむ。また、新州刺史・高表仁を遣わし、節を持たせ、往きてこれを撫せり。表仁綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還れり。
 (貞観)22年に至り、また新羅に付して表を奉じ、以って起居を通ず。

(注)
倭奴国・・・倭国はもとの「倭奴国」、つまり漢の武帝から金印をもらった奴国であるとする。奴国が九州島にあるのは疑いないから、倭国は九州を本貫とする国家であるとしてよい。
 そのことは京師すなわち唐の都・長安(現在の西安)から1万4千里という距離表記でも適合する。魏志倭人伝に拠れば、朝鮮半島の帯方郡(現在のソウル近郊)から九州島までは1万里(海路)であったから、残りの4千里が唐の都・長安から帯方郡までの距離ということになるが、距離的には若干短いようにも感じられる。

すこぶる新羅に類せり・・・北部九州にあった倭奴国は馬韓(百済)が南九州、西九州に強いつながりを持っていたのに対し、辰韓すなわち後の新羅の影響が強かった地域である。この「すこぶる新羅に類せり」という表現は、そのことを裏付けている。

王子と礼を争い・・・西暦631年に到来した高表仁と礼をめぐって争った王子とは、北部九州の旧奴国の王子であろう。漢帝国から倭国の王者として認められた(金印の受領)誇りが、一介の使者に過ぎない高表仁の横柄な態度に反発をしたのではあるまいか。

  < 日本国 >

 日本国は、倭国の別種なり。その国、日のヘリに在るが故に、日本を以って名と為す。あるいは曰く、倭国自らその名の雅びならざるをにくみ、改めて日本と為す、と。あるいは云う、日本はもと小国にして倭国の地をあわせたり、と。
 その人にして朝に入る者、多くは自ら大なるをほこり、実を以って対せず、故に中国はこれを疑へり。
 また云う、その国界は東西南北各数千里、西界と南界は大海にいたり、東界と北界には大山ありて限りとなす。山外はすなわち毛人の国なり。

 長安3(703)年、その大臣・朝臣真人来たりて方物を貢ぜり。朝臣真人はなお中国の戸部尚書の如し。(略)真人、好んで経史を読み、文を解せり。容止温雅なり。(略)

 開元の初め(716、7年頃)、また、遣使来朝あり。因みに、儒士をして経を授くるを請う。(略)その偏使・朝臣仲満、中国の風を慕い、因って留まりて去らず。姓名を改めて朝衡となせり。仕えて左補闕・儀王友を歴たり。衡、京師に留まること五十年、書籍を好めり。放して帰郷せしめんとするも、逗留して去らず。
 
 天宝12(753)年、また遣使して貢ず。

 上元中(760~762年)、衡をえらびて左散騎常侍・鎮南都護と為す。

 貞元20(804)年、遣使来朝す。学生・橘逸勢、学問僧・空海を留めり。

 元和元年(806)、日本国使・判官・高階真人、言を上ぐ。前任の学生、芸業やや成れり。本国に帰ることを願い、すなわち臣と同じくして帰らんことを請う、と。これに従はしむ。

 開成4(839)年、また遣使朝貢す。
 
(注)
日本国・・・外交史上はじめて「日本」が使われたのがこの『旧唐書』である。ただし日本という命名の由来がよく分からない。
 最初の段落はその由来を書こうとしているのだが、編著者にも捉えきれないでいるようだ。
 「日本」を含む説明文は四つある。それを列挙すると、
   ① 日本は倭国の別種である。
   ② 日(太陽)に近い辺りに位置しているので「日本」とした。
   ③ 倭(国)が自らその雅びでない名を嫌って「日本」とした。
   ④ 日本はもと小国であったが、倭国の地を併せた。
 ①②④は同じ質の文で、ともに一時的には列島内に「倭国」と「日本」が同時に存在していたことを示している。
 ところが問題は③である。③は①②④とは違い、倭国がそのまま「日本」を名乗ったというように取れる。しかしそれだと①で言っている事とは真っ向から対立する。つまり「同種だが、ただ名前だけを変えただけ」ということになってしまうのである。
 ①②④を併せて解釈すると、「日本」は倭国とは政権が別の国家で、倭国よりは日に近いすなわち東に存在し、しかも倭国がなんらかの理由で衰えたのを合併し、列島の統一王権を形成した国である、と言うことができる。 その国とは、紛れもなく「大和王権」であろう。
 倭国が日本に併合され統一国家が生まれたのは、上の<倭国>記事の最後の年号・貞観22年すなわち648年と<日本>記事最初の年号・長安3年すなわち703年の間のことである。648年から703年の間に生起した九州倭国を揺るがせた大事件と言えば、663年の「白村江の戦い」の他にはない。したがって前の段落で「なんらかの理由で衰えた」原因こそがこの「白村江の戦い」でなければなるまい。戦いは海戦で、倭国の水軍400艘が海の藻屑になったと言われる消耗戦であった。これにより九州倭国は立ち直れないほどの痛手をこうむったのである。 
 そのために対外的には倭国として権力を振るってきた九州国家は勢いを失い、変わって畿内大和王権が「日本」という新国家体制(唐の制度にならった律令体制)を建設し、列島を統一したのであった。おおむね天武王朝から文武王朝の時代にかけてそれは完成したと見てよい。

朝臣・真人・・・粟田真人のこと。文武天皇の大宝元年(701)に遣唐大使として入唐。同じ使節の中に山上憶良らが加わっていた。養老3(719)年没。

朝臣・仲満・・・阿倍仲麻呂のこと。遣唐使として入唐(大使は多治比県守)し、そのまま死ぬまで中国に留まった。中国で位を得て、名を「朝衡」と変えている。唐の6代皇帝・玄宗と7代皇帝・粛宗の治世50年近くにわたって仕えた。最終的な地位「鎮南都護」は地方長官の一つ。8代皇帝・代宗の大歴3(770)年没。

   <付・劉仁軌伝>

  劉仁軌は唐の将軍で、660年から663年にわたって行われた「唐・新羅対百済・倭の戦争」において活躍した人物である。『旧唐書』では「巻八十四巻・列伝三十四」が、いわゆる「劉仁軌伝」になっている。
 劉仁軌伝は上述の「倭国伝」「日本国伝」を併せた位の記事の量であるが、ここでは「倭・倭人」に関する部分のみ取り上げている。

 俄かにして、余豊、福信を襲って殺し、また遣使して高麗および倭国に往かせ、兵を請わしめて以って官軍を拒めり。
 右威衛将軍・孫仁師に詔して、兵を率い、海に浮かび、以って之の援けとなさしむ。仁師、既にして仁軌等と相合い、兵士大いに振るえり。

(注)
余豊と福信・・・扶余豊(フヨ・ホウ)のこと。百済31代義慈王の子で扶余隆(フヨ・リュウ)の弟。
 倭国に人質となって滞在していたが、故国の危機のため、帰国していた。日本書紀の「舒明天皇紀」によれば、その3年(631)3月条に「百済義慈王、王子・豊章を入質せしむ」と見える。また、同じく書紀の「天智天皇紀」の元年(663)に「正月、百済の佐平・鬼室福信に矢を十万隻、糸五百斤、綿一千斤・・・(略)、を賜う。(略)この月、唐人・新羅人ら高麗を撃つ。高麗救いを国家に乞う」とあり、さらに「五月、大将軍大錦中・阿曇比羅夫連ら、船師170艘を率いて豊章らを百済国に送る」とある。
 631年から663年まで30年余りを倭国で人質として過ごしていた余豊であったが、660年に滅ぼされた百済王室最後の血統ということで、百済再興のため倭の水軍とともに半島へ渡った。しかし佐平という最高の臣・福信を疑って殺害し、結局は祖国を捨てて逃亡してしまう(後述)。

劉仁軌・・・仁軌の地位は分かっていないし、生年・没年も不明であるが、同僚の孫仁師が「右威衛将軍」という大和朝廷での「右兵衛督(うひょうえのかみ)」クラスであったことを考えると、「左兵衛督」ほどの高位の武官であったと思われる。

 扶余隆、水軍および糧船を率い、熊津江より白江に往き、陸軍と会し、同じく周留城に趣く趣けり。仁軌、白江の口において倭兵に遇い、四戦にかち、その舟400艘を焚けり。煙焔は天に漲り、海水みな赤く、賊衆大潰せり。
 余豊、身を脱して走れば、その宝剣を獲たり。偽りて王子・扶余忠勝・忠志ら士女および倭衆ならびに耽羅国を率いて使いし、一時に並びて降りれり。百済の諸城はみな帰順すれど、賊師・遅受信、任存城に拠りて降りざりき。

(注)
白江・・・白村江のこと。百済の首都である熊津(扶余)を流れる錦江の下流の河口一帯を指している。陸軍と会同したという「周留(ツル、スル)城」はそこに最も近い城塞であった。

舟400艘・・・倭国側の被害数をここでは400艘とするが、上述の「天智天皇紀」五月条では「船師170艘を率いて」とあるように170艘であった。二倍以上も違うその理由を、私見では次のように考えている。
 つまり、倭国公認の艘数は確かに170であったが、認定以外の船が多数、九州諸国から行っていたのではないか――ということである。
 その一つの証拠が、『肥前風土記』に見える「白水郎(あま)」の記事で、肥前五島の小値嘉島で隼人に似た白水郎がいて、牛・馬を何十頭となく飼っていたという。この白水郎たちはその牛馬を船で九州諸国に売り捌いていたのであろうが、こういった「水軍ではないが、船を自在に操れる船師」もたくさん動員されたのではないかと思われる。それら倭国未公認の船を合わせたら400艘にもなった、ということだろうと考えるのである。
 彼等は水軍ではないが、いったん事あれば水軍の一翼を担ったに違いない。そもそも余豊を百済に連れて行った将軍の阿曇比羅夫も、元をただせば、そのような海上交易の一族であった。

倭衆・耽羅国の投降・・・倭国によって百済王に就任したと思われた余豊が逃亡したあと、百済王家の忠勝・忠志はじめ臣(士)や官女たちとともに投降したのが、倭衆と耽羅国であった。
 倭衆とは阿曇比羅夫に率いられて行った兵士だけではなく、五島の白水郎のように船運に長じているが故に徴発されて戦地に赴いた人々も含めての「倭衆」であろう。「倭兵」と言っていないことに注意する必要がある。
 また、ここで唐突に「耽羅国」が登場するが、耽羅国は現在の済州島のことで、九州島から百済への航路の中にあるといってよい島で、やはりそのような海上交易の関係から倭国に肩入れし、白村江の戦いに参加したのではないかと思う。

旧唐書>の項は終り 

中国史料に見る倭人