歴史・人名

旧唐書と新唐書(Historical)

倭国と日本(Historical)

1.旧唐書新唐書

旧唐書』には、日本列島について、特異な記載をしている。「倭国伝」と「日本伝」だ。ここでは、

   倭国は古の倭奴国なり。<旧唐書、倭国伝>
   日本国は倭国の別種なり。<旧唐書、日本伝>

とあって、明確に両者が別国であることを示しつつ、日本国が倭国の「別種」、すなわち、倭国と何らかの関係を持ちつつも、別れた種であることを告げている。はっきり言えば、日本国は「倭人の国」であっても「倭国」ではない。という意味である。

   高麗は出自、扶余の別種なり。<旧唐書、高麗伝>
   百済国の本も亦た、扶余の別種。<旧唐書、百済伝>

高麗(高句麗)も百済も、もともとは、「扶余」という沿海州付近の遊牧民族とも騎馬民族とも言われる集団の一派であったことは著名だ。扶余を母体とし、そこから別れ出た種である。倭国と日本についても、これが参考になるだろう。

さて、この『旧唐書』の前に当たる、『隋書』においては、「[イ妥]国伝(隋書にはこう記す)」のみであって、「日本伝」はない。また、「日本」という名も出てこない。『隋書』以前の各書についても同じだ。『旧唐書』において、初めて「日本」は中国史上にデビューすることとなったのである。

さて、古田武彦は、『旧唐書』以前の書に見える「倭」が実は九州に都した、天皇家とは全く別の王者を中心とした国家であることを、論じている(『失われた九州王朝』他。また、かわにし「九州王朝とは」参照)。一方の「日本」が天皇家による所謂「大和政権」を指しているのだとする。

では、「日本伝」の記述を見てみよう。

   (1)日本国は倭国の別種なり。
   (2)其の国日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。
   (3)或は曰く『倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す。
   1.或は云わく「日本は旧小国、倭国の地を併す」と。其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う。
   2.又云わく「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」と。
   』と。<旧唐書、日本伝>

(3)は、通常は、以下のような読まれ方をすることが多い。

   或は曰く、「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す」と。或は云わく「日本は旧小国、倭国の地を併す」と。其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う。又云わく「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」と。

また、古田武彦は次のように読んだ。

   或は曰く、「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す」と。或は云わく「日本は旧小国、倭国の地を併す。其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う」と。又云わく「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」と。

その上で、次のような解釈をしている。

(1)において、「倭国」とは、この「日本伝」の前にある「倭国伝」の「倭国」を指している。九州王朝である。今言う「日本国」とは、その倭国の別種だ、と言っている。(3)では、理由はともあれ、「倭国」自らが「日本」を称したのだと言っている。(3)-1.では、「日本」すなわち「日本伝」の対象たる「天皇家の日本」は、「倭国」を併合したのだと言っている。これをまとめて、

1 「倭奴国」から「多利思北孤」に至る九州王朝の「倭国」が連綿と存在した。
2 その「倭国」が自ら「日本」を称した。
3 近畿大和の一豪族だった天皇家が、これを征服し、併合した。
4 そのとき、天皇家は、「日本」の国号を継承し、やはり「日本」と名乗った。

と見なした(古田武彦『失われた九州王朝』。また、かわにし「九州王朝とは」参照)。

私は以下のような読みがよいと思う。

   或は曰く、『倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す。或は云わく「日本は旧小国、倭国の地を併す」と。其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う。又云わく「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」と』と。

私は「曰」と「云」の使い分けを注視して、このように読んだ。勿論、大意に影響は無いのであるが、私は、通説や古田説のように、旧唐書編者が、日本命名の諸説を収集したというよりは、「日本について記載のあった書」を引用したように見えるのである。

いずれにせよ、ここにはいくつかの日本国の誕生のいきさつが記されている。(2)は、旧唐書編者の採用した、日本国号命名の根拠である。(3)は、その異説だ。倭国が自ら日本を名乗ったのだと言うものである。ここで、さらに2つの情報を添付している。1.は(3)の説と矛盾するように見える。1.を受けて「其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う」といい、更には、と続けて、2.を紹介している。即ち、この1.2.は、少なくとも旧唐書には採用されなかった説である。だからこそ、地の文ではなく、引用という形をとっているのである。(私の読み方をした場合、「其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う」という判断は、旧唐書編者ではなく、「ある書」の判断ということになる)

さて、読解上の相違を踏まえて、先の古田の解釈は、はたして正しいのであろうか。私は、必ずしも古田のような時系列でことが進行したようには見えないのである。『旧唐書』のこの部分は、歴史の叙述を目的とした個所ではないからだ。あくまでも、『旧唐書』が、「確実な情報」として提供できたのは、(1)と(2)だけである。(3)以降は、あくまでも(2)を補強する為の記述である。従って、古田がこの記述をもって、「九州王朝が日本を称した」というのは、あたらないのである。『旧唐書』の文面を精視すれば、以下のような事実に気がつくだろう。(1)(2)のように、『旧唐書』の地の文においては、

倭国」=直前の倭国伝に記載された国(=九州王朝)
「日本」=これから語る「日本伝」の叙述対象となる国(=近畿天皇家)

と、「倭国」「日本」の「言葉の定義付け」がしっかりしている。その一方で、(3)やその中で紹介される「或云」「又云」の「倭国」「日本」の定義付けは曖昧である。

   A 倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す
   B 日本は旧小国、倭国の地を併す

この二つの文面がいずれも事実を語っているのだとすれば、「倭国」「日本」の意味がAとBで異なるのだ、と考えざるを得ない。

古田は、Aについては、

倭国」=九州王朝(改称前)
「日本」=九州王朝(改称後)

と見なし、Bは、

倭国」=九州王朝(改称前)
「日本」=近畿天皇

と見なしているのである。

さて、この「言葉の定義」の問題は、『旧唐書』の次の『新唐書』でより鮮明となる。まず、『新唐書』には、「倭国伝」はなく、「日本伝」のみである。ただし、たとえば、「白村江」の叙述においては、あくまで、「倭国」と記されていたりと、「倭国」「日本」の書き分けは、存在している。その一方で、『旧唐書』においては「倭国伝」に記載されていた内容も『新唐書』日本伝には一部見える。

   (1)日本は古の倭奴なり。京師を去る万四千里。新羅の東南に直る。海中に在りて島にして居す。東西五月行、南北三月行。(略)
   (2)其の王の姓、阿毎氏。自ら初主を号して天御中主と言う。彦瀲に至る凡そ三十二世、皆尊を以て号と為し、筑紫上に居す。
   (3)彦瀲の子、神武立つ。更えて天皇を以て号と為す。徙りて大和州に治す。次に綏靖。(略)
   (4)次に欽明。欽明の十一年、梁の承聖元年(五五二)に直る。
   (5)次に海達。次に用明。亦、目多利思比孤と曰う。隋の開皇(五八一~六〇〇)の末に直り、始めて中国と通ず。
   (6)次に崇峻。崇峻死して、欽明の孫女雄古立つ。次に舒明。次に皇極。(略)煬帝(六〇四~六一七)に至り、其の民に錦綫冠を賜う。(略)
   (7)太宗の貞観五年(六三一)、使者を遣し入朝す。帝、其の遠を矜み、有司に詔して歳貢に拘るること毋からしむ。新州刺史高表仁を遣し、往きて諭くに、王と礼を争い平ならず。肯えて天子の命を宣らずして還る。久しくして、更に新羅の使者に附き書を上る。
   (8)永徽(六五〇~六五五)の初、其の王孝徳、即位し、改元して白雉と曰う。虎魄の大なること斗の如き・碼碯の五升器の若きを献ず。時に新羅、高麗・百済の暴する所と為り、高宗、璽書を賜い、出兵し新羅を援けしむ。未だ幾ばくもせず孝徳死す。
   (9)其の子・天豊財立つ。死し、子・天智立つ。明年、使者と蝦[虫夷]人、偕に朝す。
   (10)天智死し、子・天武立つ。死し、子・総持立つ。咸亨元年(六七〇)、使を遣し高麗を平ぐるを賀す。
   (11)後に稍く夏音を習い倭の名を悪み、更えて日本と号す。使者自ら「国、日の出る所に近し。以て名と為す」と言う。或は云わく「日本は乃ち小国、倭の并す所と為る。故、其の号を冒す」と。
   (12)長安元(七〇一)年、其の王文武立ち、改元して太宝(七〇一~七〇四)と曰う。朝臣真人粟田を遣し方物を貢る。

(1)は、「日本」の地理描写である。ここでは、「倭国」と同様の描写が為されている。(2)は、「其の王」とあって、この「其」は当然「日本」を指すから、「日本の王の姓は阿毎氏」と語っている。「彦瀲」(うがやふきあへず)に至るまでは、「日本王」は筑紫城にいた、というのである。(3)以降は、神武を始めとした、「天皇」の系譜が連綿と続く。注目されるのは、(5)だ。ここに至って、「始めて中国と通」じたのである。(7)~(10)の記事はそれぞれ、以下の書物に見える記事である。

   (7)貞観五年、使を遣わし方物を献ず。太宗、其の道の遠きを矜み、所司に勅して、歳貢せしむこと無からしむ。又、新州刺史高表仁を遣わし、節を持して往きて之を撫さしむ。表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。二十二年に至り、又、新羅に附して表を奉じ、以て起居を通ず。<旧唐書、倭国伝>
   (8)十二月癸丑、倭国琥珀、碼碯を献ず。琥珀の大なること斗の如し。碼碯の大なること五斗器の如し。<旧唐書、高宗紀上、永徽五年>
   高宗の永徽五年、倭国、虎珀・馬脳を献ず。高宗、之を[小刷]撫す。仍りて云わく、王の国、新羅・高麗・百済と接近す。若し危急有れば、宜しく使を遣わし之を救うべし、と。<唐録>
   (9)(顕慶四年、六五九)十月、蝦夷国、倭国の使に随い、入朝す。<冊府元亀、外臣部、朝貢>
   (10)咸亨元年(六七〇)三月、[[四/厂]/[炎リ]]賓国、方物を献ず。倭国王、使を遣わし、高麗を平ぐるを賀す。<冊府元亀、外臣部、朝貢>

以上のように、別の書物では、「倭国」として登場していても、「日本伝」に記載されているケースはあるのである。(5)や、「白村江」の際の記述で明らかなように、『新唐書』においても、

倭国」=九州王朝
「日本」=天皇

という「定義付け」は変わらないように見える。この一方で、ある書物には「倭国」のこととして描かれた事件が、『新唐書』においては、「日本国」の事件として描かれているのは何故だろうか。

また、(11)の例は、やはり、異様だ。「後に稍く夏音を習い倭の名を悪み、更えて日本と号す」とある部分の「倭」「日本」は、

倭国」=天皇家(改称前)
「日本」=天皇家(改称後)

であるかのようだ。一方、「日本は乃ち小国、倭の并す所と為る。故、其の号を冒す」の部分は、釈然としない。そもそも、この文はどういう意味なのだろうか。「日本は乃ち小国、倭の并す所と為る」は、とりあえず良い。文脈ははっきりしている。ところが、「故、其の号を冒す」が意味不明である。「冒」の主語はいったい誰なのか。「倭国」なのか「日本」なのか。「其」が指しているものは、「日本」のほかには考えられないから、「冒」の主語は、「倭国」としか思えぬ。では、「号を冒す」とはどういう意味だろうか。「冒姓」と言えば、他人の姓を語ることである。

   故に青、姓を冒し、衛氏と為す<漢書、衛青伝>

従って、「号を冒す」とは、「他国の国号を語る」という意味だろう。通釈すれば、「日本はすなわち小国であり、倭国によって併合された。このため、倭国は日本の国号を語った」という意味になる。だが、なぜ、「倭国」は併呑した小国の名をわざわざ語ったのであろうか。

これらの疑問を解く鍵は、「倭国」と「日本」の「言葉の定義付け」の問題にあるようにも思うが、それは、後の論証によって明らかとなるだろう。少なくとも、中国側は、

倭国」=九州王朝
「日本」=天皇

という位置付けを明確にしながらも、なお、これに当てはまらないケースを多く内蔵しているのである。混乱、とまでは言わないが、「倭国」「日本」の分別は非常にあいまいなものであった形跡が認められるのである。