歴史・人名

朝鮮半島の古代 扶餘・・・卑弥呼の時代、三世紀

朝鮮半島の古代 扶餘・・・卑弥呼の時代、三世紀

魏志扶餘伝によると、三世紀頃の扶餘の状態はこのように説明されている。

「広さは二千里四方。戸数は八万戸。宮殿や倉庫、牢獄がある」
「山陵や広澤が多く東夷の内では最も平らで広々としている。五穀には良い土地であるが
五果は生えない」
「君主が居て、家畜の名を冠した官名をもつ臣下が居る」
「集落に豪族がいて下戸を奴僕としている」
「大は数千戸、小は数百戸」
「産物は名馬や赤玉、.てん、狖、美珠である」
「弓矢、刀、矛を兵器として使う。各家に自分の鎧と武器を備えている」
「国の古老は、昔の亡人であるという」

これから推測できることは、戸数八万戸を有し、君主とそれに仕える官僚がおり、宮殿、倉庫、牢獄がある。
これはかなり整った行政組織をもっていたとも考えられるが、この官名の前に馬、牛、猪、狗などの動物の名前を架しているところから、国といってもそれぞれ動物のトーテムをもつ部族集団の集合体の極めて原始的なものであったことが想像できる。
その部族の長にそれぞれのトーテムの名前を冠して官名としたのであろう。
また、それぞれの集落に豪族がいて、数千戸から数百戸を支配している。
地形は平坦で草原地が多いことは果樹がなく、穀類が豊富なことから推察される。
土地が平坦でありl、名馬や`テンや狖を産するところから、五穀を栽培し、牧畜や狩猟が主な産業であったことがわかる。
又、古老の言によれば、先祖は亡命人であることは濊と同じである。
武器は弓、刀、矛を使い、鎧や武具は各自家に備えている。恐らくこれは各自自弁であったものと思われる。

扶餘は元は玄菟郡に属していたが漢末に遼東太守、公孫度の勢力が強くなると、扶餘王、尉仇台は遼東郡に属した。
扶餘には「濊王之印」がある。
これは、前にも説明したが、濊の主体が北方に逃げ、扶餘を建国したことの証拠である。以前、濊は漢より「濊王之印」を受けていたが、漢の武帝の朝鮮侵攻にあたり、濊王などの濊の主体が、この印を持って北に移動して扶餘を建国したのである。

こうして見てくると、扶餘は王は存在していたが、一貫して漢の属国であった。
しかも、玄菟郡や遼東郡に属し、地方官である遼東太守や玄菟太守の支配下に置かれていた極めて弱小な存在であったと言うことができよう。