歴史・人名

朝鮮半島の情勢

 1世紀から5世紀にかけて朝鮮半島の各国の勢力圏はどのようになっていたのであろうか。

 紀元前後の朝鮮半島情勢

 ① 箕子朝鮮

 朝鮮半島において実質的最初の国家は箕子朝鮮である。箕子朝鮮が興った明確な時期は解らないが、前12世紀に殷王朝王族の箕子が朝鮮の地を治め始めたと言われている。 

史記』によれば、始祖の箕子は、中国の殷王朝28代文丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また「犯禁八条」を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。

箕子朝鮮成立 ( 前 1122 年 - 前 200 年 )関連概念 : 朝鮮半島 現中国
箕子朝鮮 殷 周

箕子朝鮮(きしちょうせん)は、韓氏朝鮮ともいう。
朝鮮古代の伝承上の王国。

【伝承に見る箕子朝鮮】

始祖の箕子は、殷成立時中国王朝の最後の王であった___の叔父で,彼は、甥の無道な政治を諌めた賢人であったという。

前1122年に、周成立時、___が殷を滅ぼしたとき,彼は、箕子に、黄河東北の朝鮮を封じたらしく、また,戦国時代、儒家の孔子は,箕子を最も代表的な賢者として尊崇したとされる。

箕子は、朝鮮において「8条の教え」をつくり,民を教化したので,民は、門戸を閉めなくとも物が盗まれないようになったというが、彼の孫の箕準の代に、燕からの亡命者衛満によって滅亡させられる。(衛氏朝鮮成立)
箕準はこのとき、南方に逃れ,辰国に依って韓王を称したという。

【箕子伝承の発生と展開】

箕子の伝承は,中国の儒者の一学説からおこり,楽浪郡の役人がこの説を受け入れ,3世紀には、朝鮮の「慕華思想」「儒教崇拝」の高まりによってますます発展した。
このような箕子伝承が流布し定着したのは、中国古典の「箕子伝承」を利用して自己の系譜の装飾をはかったことに始まるとされる。

その後、高麗成立時、儒教が隆盛になるにつれて、貴族や知識人に支持され,平壌に「箕子陵」や「廟」が建立された。

また、李氏朝鮮成立時代に入ると、「箕子井田の跡」が喧伝されるにいたり、また、儒教が国学となったので,この伝説が史実として政策的にもとりあげられた。

しかし,近代以後に「民族意識」が高揚し,自国文化が尊重されるようになると,あべこべにこの伝説は否定されることになる。

 ② 衛氏朝鮮
画像の説明
 秦が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した(紀元前214年)。その子の準王の代になると、秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加した。紀元前195年、燕王盧綰の部将であった衛満が朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城(平壌)を攻落し王権を簒奪して、衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。『後漢書』には「初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。」と記されており、衛満に破れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となったという。

 漢の遼東大守は皇帝の裁可を得てこの衛氏朝鮮を承認したため、衛満は自分の支配地域と漢との交易を独占することになり、財物と兵器を蓄えて強大化した。その勢力圏は平安北道を除く朝鮮半島のほぼ全域と中国東北地方を含み、数千里四方に及んだ。

 ③ 漢四郡

 孫の右渠に至る。右渠は漢の意のままにはならなかったため武帝は朝鮮を帰服させようとし、紀元前109年-紀元前108年、遠征を行い、衛氏朝鮮は滅ぼされた。その故地には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ漢の領土となった。

 漢としては漢四郡を作ってはみたものの経費がかさむので次第に縮小化されていった。前82年には真番・臨屯が廃止され、臨屯郡北部の6県と玄菟郡の1県が楽浪郡に編入された。玄菟郡はその後段階的に縮小移転している。この結果、楽浪郡は25県を抱えた。『漢書』地理志によるとその戸数は6万2,812戸、口数は40万6,748人あった。楽浪郡の郡治所は朝鮮県(衛氏朝鮮の王険城、今の平壌)に置かれ、郡の南部には南部都尉が置かれていた。AD313年までこの地に存在していた。

 ④ 高句麗

 紀元前1世紀中頃から漢の玄菟郡・高句麗県に付属していた支配地域は出費が嵩むとして放棄され始めた。替わって夫余や高句麗などを冊封する間接支配へ切り替えられた。
 高句麗は紀元前37年に夫余の王族である朱蒙により建てられたとされる。朱蒙の母は東扶余王の金蛙と出会った際に、黄河の神の娘を自称し遊びに出た先で天の子と出会い軟禁されていたと訴えたが、信用されず東扶余王の元に連れて行かれた。やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。金蛙は卵を動物に食べさせたり踏ませたりしようとしたが動物や鳥は卵を守ったため卵を母親へ返し、暖めていると朱蒙が産まれた。朱蒙は子供の頃から非常に弓が上手く(朱蒙は弓の名手の意味)、これを危険視した夫余の人々は朱蒙を殺すよう勧めるが王は拒んだ。その後、馬飼いをしていたが策略によって王を駄馬に乗せ自らは駿馬を手に入れると、夫余の人々は再び朱蒙の殺害を企てるが、危険を察知した母の助言により友と共に脱出して卒本へ至り高句麗を建てたという。

 朱蒙が建国したとされる卒本の地は、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)であり、都城の卒本城は五女山山城に比定される。建国後間もない2年に後漢の光武帝の下へ使者を送って朝貢した際、それまでの高句麗候から王へ冊封されている。しかし、3年には、第2代の瑠璃明王が隣国に在った夫余の兵を避けるため鴨緑江岸の丸都城(尉那巌城)へ遷都したと伝えられる。

 ⑤ 三韓

衛氏朝鮮や漢四郡の時代には「韓」とはよばれていなかったが、真番郡の語源として「真」が後世の辰韓、「番」が後世の弁韓に相当する。

<馬韓>衛満が箕子朝鮮を滅ぼした際に箕子朝鮮の最後の王、準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻め落として韓王となって馬韓を支配したという。馬韓という名は、乾馬国を中心とする韓の諸国の意味である。「慕韓」ともかかれる。馬韓は西部に位置し、ほぼのちの百済の領域である。辰韓や弁韓と比べると大国と小国の規模の落差がはげしく、臣憤活国・伯済国・目支国・臣雲新国・乾馬国の5国が有力だった。そのうちの伯済国がのちの百済となった。言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。辰韓や弁韓と比べると、凶悍でなかなか魏の支配におとなしく従わず、統治のむずかしい民族であった。馬韓諸国は次第に百済に取り込まれていった。

<辰韓>辰韓の人々はその昔、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人であるといわれている。その時、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。そのため、秦韓ともいう。辰韓はもともと6国であったが、後に分かれて12国になり、そのうちの斯蘆国が後の新羅になった。辰韓人は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。この地はのちの新羅の本拠地にあたり、洛東江より東・北の地域である。言語は馬韓と異なり弁韓と類同し、中国語とも類似していた。辰韓の12カ国は「辰王」に属していて、辰韓はそれで一つの政治勢力だった。秦から来た秦人は王にはならず、辰王は馬韓人であった。辰韓の中心だった斯蘆国はそのまま新羅へと成長していき、周辺諸国は次第に新羅に統一されていった。

<弁韓>朝鮮半島南部の洛東江下流地域には、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて黄海沿岸に位置する山東半島・遼西・遼東半島の物と非常に類似した様式の土器を用いる住民が定着しはじめた。彼らは農耕生活をしながら支石墓を築造し、青銅器を用いる文化を所有していた。 紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景に社会統合が進み、1世紀中頃になると社会統合が進み、弁韓諸国が登場してくる。また、この地域は豊かな鉄産地の保有と海運の良好な条件に恵まれていた。

『三国志』魏書弁辰伝によると、辰韓人と弁辰人は習俗が、風俗や言語は似通っていた。土地は肥沃で、五穀や稲の栽培に適している。蚕を飼い、縑布を作る。鉄の産地である。市場での売買では、鉄が交換されており、それは中国での金銭使用のようであった。また倭人とも習俗が似ており、男女とも入れ墨をしていたとある。武器は馬韓と同じであった。礼儀がよく、道ですれ違うと、すすんで相手に道を譲った。

 もと12カ国に分かれていたが、その中で狗邪国・安邪国・半跛国が強国だった。大雑把にのちの任那でほぼ洛東江より西・南の地域である。辰韓と弁韓とは居住地が混在していたとされ、各国の比定地は洛東江を境にしてほぼ二つに分かれている。

  伽倻時代、金海には「金官伽耶」があった。3世紀までの狗邪韓国が前身である。もともとは内陸にあったが、3世紀頃洛東江河口部の勢力が大きくなり、金官時代をむかえた。これは洛東江河口に立地するために、その奥にある伽耶諸国の出口を押さえていたことと、日本との海上路、日本海や黄海への航路等を押さえられたからである。日本との交易の拠点となったため、弥生土器や甕棺、巴型銅器、翡翠製品、黒曜石の石器など倭系の遺物が多く出土する。一方で、九州からは、伽耶やこの地を経由したと思われる楽浪系の遺物が多く出る。また、中国の王莽時代の貨泉と炭化米が出土している。また、後の時代にこの地域から前方後円墳が発見されており、倭との関係は継続していると思われる。


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