歴史・人名

樽本地区について

樽本地区について

斑尾山の北側、沼の原湿原から関川に流れ込む土路川に沿って、上流から上樽本、中樽本、下樽本と言う集落が続く、更にその下流に土路と言う集落があり、全体を豊葦地区と呼んでいる。

古代の官道「東山道」の支路として考えられる中で、現在の豊葦地区の歴史平安時代にさかのぼると考えられます。

この地区の歴史的資料は少なく、どの位の資料があったかは不明であるが、明治35年の春の大火により、唯一歴史資料が集められていたとされる中樽本村の公民館が総戸数25軒中20軒と共に焼失し、更に解明は困難になっています。

 周辺地域の歴史的資料から考えるに、起源は今から1000年前、「東山道」の支路が整備された頃と思われます。

 「平家物語」に木曽義仲(1154~1184年)と不和になった源頼朝が義仲を討つために信濃に出陣すると、義仲は「依田」の城(長野県丸子町)を出て信濃と越後の境にある熊坂山に、寿永2年(1183年)陣を構えたとあり、又その前、1180年に依田城を本拠地にして、1181年(治承5年)6月14日横田河原(長野市)にて、越後の豪族「城助茂」(じょうすけもち)を討伐し、翌15日には関山を通り、越後国府(上越市)に入り、越後守となっている。この時妙高山に一光三尊阿弥陀如来を安置したと記録にあります。

越後国府に入った義仲は、北陸を固めるために各地の城を築かしています。

 また、寛冶3年(1089年)に作られたとしている、「往昔越後之図」別名「寛冶之図」と呼ばれるものがあるが、この図によれば、妙光山(妙高山)、関川、大田切、小田切、松崎、大鹿の地名が記されていて、これらを見ても、これらの時代に先人が入植していたものと考えられます。

上樽本の集落成立は、同地区の小出家の過去帳に小出家の祖は源平時代の武将で一族を率いて、豊臣、徳川に仕え信濃守に従ったとあり、豊臣滅亡後は、戦乱の余波を受けて一族を率いて樽本に逃げ込み、焼畑農業を行い、開拓をして住みついたと伝えられています。

小出家の祖である秀政は、秀吉と同じ尾張中村の生まれで、小出秀政と長男、吉政は慶長5年(1600年)の関が原の戦いでは西軍につくが、二男の小出秀家が東軍方として活躍し、その功にて秀政、吉政も許され、但馬出石藩6万石の旧領を任せられています。しかし、出石の小出宗家は世継ぎがなく断絶してしまい、その後徳川家康の勢力が強大となり、豊臣との対立抗争の時代になるが、どうした事情か大阪夏の陣 (慶長20年、1615年)には徳川勢についています。その後元和5年(1619年)秀政より三代目、吉政の二男吉親(よしちか)が初代、京都園部藩城主となり小出家は、その後10代にわたり園部藩を領しています。10代小出英尚(ふさなお)は、慶応3年(1867年)12月に入京して市中見廻り役を務め、鳥羽・伏見の戦いには参加せず、情勢によっては明治天皇を園部城に移すという新政府の戦略に応じ、翌年1月から城郭の緊急改造を行っています。その後吉親は信濃守に国替えをしたとあり、小出家一族もこの吉親に同行し樽本に居残ったと言われます。小出家の守り神である観音堂(もぐさ観音)は信濃国田上の分霊とされていて、小出家の過去帳最古の法名は寛永7年(1630年)で、小出吉親の時代と大体一致しています。

上樽本は、周りを山に囲まれ人目につかず、守るには容易な地であり、また土地が肥え、農作物が豊かで充分自活できる環境に着目したのではないでしょうか。

開拓当時、土路川の西側に小出家が、東側と下樽本に木賀家が番人として見張り、敵の侵入に備えたという記録があります。

木賀家の祖も、源平時代の武将であると思われます。源頼朝の家臣で木賀善司吉成という文武に優れた武士で、ある時病にかかり死期を迎えようとしている時、老僧に「西の方の温泉がある、それに浸かればきっと良くなる」と言われ、老僧と共に箱根の地まで来、老僧が「涌甘露消減除衆病悩」と唱えると温泉が湧き出し、建久4年(1193年・鎌倉時代の始まり)のことである。善司はありがたく温泉に浸かると病が治った。以来、この温泉を木賀と呼びこの地を木賀の里と呼ぶようになったと伝えられています。現在も箱根に木賀温泉はあり、木賀の里というバス亭もあります。

小出家、木賀家双方の祖が源平時代の武将であり、源頼朝の家臣とするならば、木曽義仲の討伐のためにこの地に来たものか、それとも義仲と共にこの地にきて、何らかの事情にて山深く移り住んだものとも考えるとしたとき、小出家の歴史のある戦乱を避けこの地に移り住んだとある時代より古い時代に、両家の祖はこの地に移り住んでいたことになります。

源平時代の武将として一族を率いてこの地に入植したとしたら1200年前後となり、1550年前後には樽本城等が出来、集落が形成し始めていたはずであります。小出家の祖吉親が信濃に国替えし、一族とこの地に来たとすれば1630年前後となり、小出家の祖政重(秀政の父)が尾張の国中村の出身と、どういうつながりがあるのだろう。当時越後を治めていた平氏の「城助茂」(じょうすけもち)と源氏との争いは、義仲が城助茂を討つ前からあり、この時越後に入った源氏の武将にも関係があるのかもしれません。

小出氏をさかのぼると、藤原為憲という人の周りからはじまる。桓武天皇(かんむてんのう・737~806年)の皇子「葛原親王」の孫に「平高望」(たいらのたかもち・889年平の姓を賜る)の子「平良文」(たいらのよしふみ。平将門の叔父にあたる家柄)の娘と藤原椎幾との子が藤原為憲であります。

藤原為憲の7世「行政」(二階堂の姓を名のる)の9世の孫の「時氏」が信濃国伊那群に住むようになって「小出氏」を称した。その時氏の孫「祐重」が尾張国愛智群中村に住むようになったと記録にあります。

「多聞院日記」(たもんいんにっき・興福寺の学侶・多聞院英俊法印の日記)には、「小出播磨守は大政所の妹を妻にして、太閤一段の御意合なり」と記され、「寛政重修諸家譜」にも、秀政の室を「豊臣太閤秀吉の姑」としています。同じ尾張国中村の出身として早くから秀吉に仕えていたと思われ、岸和田城主になったのは、天正3年(1585年)である。秀吉の死のときは、片桐旦元と共に秀頼の補佐を依頼され、関が原の戦いの時は、秀頼の補佐として大阪城に居たらしく、秀吉の信頼も厚かったと思われます。

信濃国伊那郡に住むようになった「小出氏」が源平の時代の流れ、源氏・平氏の様々な経緯により、この地に来たのではないかと考えます。

木賀氏もさかのぼると、後醍醐天皇(ごだいごてんのう・1288~1339年・第96代天皇)の第8皇子「宗良親王」(むねながしんのう・1311~1385年)の子「タダナガ親王が至徳3年(1386年)源朝臣姓を賜ることにはじまり、それから4世貞安の時、祖父江氏・富田氏と共に、木賀氏を称しています。祖父江氏は尾州津島を中心に活躍し織田家に仕えています。

「宗良親王」も南朝勢力の挽回の為、全国を戦い歩き文和元・正平7年(1352)には南朝から征夷大将軍に任ぜられたともいい、越後を転戦して興国5年(1344)には信濃国大河原(長野県伊那大鹿村)に南朝武士「香坂高宗」を頼り、正平10年(1355)には越後から信濃諏訪に抜けています。「宗良親王」は30余年ここ信濃伊那群大河原を拠点にしていたために「信濃宮」と呼ばれています。

 小出家・木賀家とも年代は違うが信濃国伊那に関係があり、これは東山道・古東山道において、伊那という地が関東・越後・関西など各方面に分かれる要所であり、信濃国府の近くでもあり、政治的、戦略的などに関係があったのではと考えられます。

両家の祖の言い伝えが1180年代(源平時代・平安時代終期)に始まり、次に歴史に出るのは1590年代(安土桃山時代)からであり、この間の、鎌倉時代、(1199~1335年)室町時代(1336~1570年)は戦国時代であります。越後の国上杉と信濃までを治める武田、の戦いの他、越後内での勢力争い等の中で慶長12年(1608年)に福島城(上越市港町)に移るまでの約250年間は動乱の時代でありました。

春日山に近い樽本城は、信越国境に近いことから重要な役割を果していたようです。城主は上杉謙信の臣下で「樽本弾正」と伝えられ、大字樽本甲字城に所在した中世の山城であり、現在は城跡中央に薬師堂がまつられています。春日城を守るために頸南地域には、確認されているだけでも35の城館跡を数えています。

川中島の戦いの為、上杉の軍勢がこの地を通り信濃に向かった記録もあります。

しかし、樽本に住む、本来武士の系統の人々がどのように戦国の世に関わったかは不明であります。

 この樽本地区が、忍びの者的性格をもつ里の可能性を想像します。古くから戸隠講がこの地区にも発達しており、九頭竜権現に対する信仰があったと思われ、戸隠の山伏や衆徒により情報の交換、様々な教えが伝えられたのではないか。その証としてこの地にも「烏踊り」が独特の歌詞にて伝えられています。時代により豊臣、徳川双方に仕えたこと、もう一つの地域名「豊葦村」の葦は、草にも例えられた忍びの者の例えに関係があるのでは、また、武士の系統である者が、重要な陸路の近くで農民に姿を変え、田畑を耕して信越国境の道筋警備をしていたことなど、戦乱時代、周辺の勢力争いの中に重要な役割を持ち影響を与えたのでは、また情報を元に一族を守るため戦乱の世の流れを読んで来たとも想像できます。

現在、樽本地区を守り、住む人々は70歳を超える高齢の人が多いが、言葉使い、気品の高さ、人への接し方などは、祖が武士であることを思わせるに疑いようのないところであります。

信濃の国の山を越え、そして奥沼部落跡(沼の原湿原周辺)を通り、樽本に入る所に越後方面を見渡せる高台がある、樽本地域、頚城平野、春日山、日本海、佐渡島、そして、入り組む山なみは、様々な歴史の移り変わりを想像できる絶景の場所であります。

 豊葦村=伝説、口碑によると約1000年前とされ、正長年間(1428~1429年)に信濃の奈良沢村と樽本村の国境を両国の立会いで定めたとされている。

 樽本村=古くから山を越え信濃との交通路があり交流も盛んであった。江戸期から明治22年(1889年)までの村の名である。江戸初期は上樽本村と別れていたが、のちに樽本村一村となる。天和4年(1684年)には、樽本と記されている。

この頃より国境の争いが活発になり、元禄15年(1703年)信濃の国水内郡、北条村、顔戸村、富倉村、奈良沢村と越後の国頚城郡、小沢村、平丸村、長沢村、樽本村とが山婆獄、経塚平、斑尾山にかけて、境界を争った。原因は、国境を越え、薪や材木をみだりに切り出した事にあったと記録にはあります。

 元禄15年11月22日幕府の判決は越後の言い分となり、現在の県境とほぼ同じものであります。