歴史・人名

武田信昌

武田信昌

1447~1505
父・武田信守
子:武田信縄、武田信恵

 武田信重の子武田信守は若くして病死し、康正元年(1455)、その子武田信昌が9歳で家督をつぎ、跡部景家が守護代となった。これより跡部氏が専権をふるうことになるが、しかし、成長した武田信昌によって、寛正6年(1465)、19歳の時に守護権回復の為に跡部父子を討つ為に挙兵し排除に成功。
跡部一族は滅亡。
 武田信昌は在世中の延徳4年(1492)に隠居して家督を長子武田信縄に譲るも、後見として8年もの間補佐する。ほぼ40年間守護職の座にあった。
 この期間は前代に比べれば安定的といえるが、しかし、例えば文明14年(1482)には「甲州地下一揆起こる。翌年2月一揆人々討死」(『王代記』)とみえているように、従来の国人一揆のほかに地下一揆も起こっているような状況があった。
 一方ではこの頃より信濃勢の甲州乱入なども断続的に起こっており、領国経営が危機的状況であったことに変わりがない。
 前述したように、武田信昌は延徳4年に家督を武田信縄に譲ったが、それに不満の弟武田信恵が反乱を起こした。武田信昌も武田信恵側を支持して、これ以後ほぼ15年間にわたって、両派の対立による内乱が続いた。この頃から書き始められた都留郡内地方の年代記である『勝山記』では、「甲州乱国二成始ル也」とあって、甲斐での戦国時代の到来を告げている。
 この内乱は、永正4年(1507)に、武田信縄の跡をついだ武田信直(武田信虎)の勝利によって終結し、この後、武田信虎が国内の反守護勢力を一掃し、領国の統一を実現するとともに、近隣戦国大名領への侵略を開始していった。

武田信重━━┳━武田信守━┳━武田信昌━━━武田信縄━━━武田信虎
      ┣━穴山信介 ┗━武田信恵
      ┣━小佐手永信
      ┣━八代基経
      ┣━下曽根賢信
      ┣━周檜(恵光寺)
      ┣━以珍(報恩寺)
      ┣━武田又三郎
      ┣━武田其阿
      ┣━神竜寺
      ┣━安国寺
      ┗━武田光重
       (武田金丸)

松前家