歴史・人名

白村江の戦い

白村江の戦い
663年、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍の海戦。

大和政権以来、朝鮮半島南部に足場を持った日本は百済との友好関係を保ち、仏教やその他の文化の受容など百済からのものが多かった。その百済が新羅に滅ぼされると、復興のために日本は水軍を派遣したが、663年に唐・新羅連合水軍と白村江で戦い、大敗した。白村江は「はくそんこう」と読んでよいが、日本では「はくすきえ」と読み慣わしている、朝鮮の西海岸、錦江の河口付近。まず、660年に百済が新羅によって攻められて滅亡したとき、日本は百済救援の軍を起こしたが、斉明天皇(女帝)が筑紫で没したので中止となった。(『万葉集』の額田王の有名な歌「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな」は、このとき斉明天皇に従って西に向かう船上で詠んだものである。)次に中大兄皇子が即位して天智天皇となると、663年、水軍を百済復興に向かわせ、白村江で唐・新羅の連合軍と戦った。戦いは日本側の大敗となり、ほぼ全滅した。この敗戦で日本は朝鮮半島における足場を完全に失った。
Episode 古代日本の復員兵
 日本の奈良時代の史料『続日本紀』には、白村江の戦いから約40年たった、慶雲4年(704年)5月26日、唐の捕虜になっていた日本兵3人が、遣唐使の帰国に際して許されて帰国したという記事がある。太平洋戦争中にグァム島で27年ぶりに発見された横井庄一さんや、ルバング島の小野田寛郎さんたちは捕虜になったわけではないが、戦争は今も昔も同じような境遇の人間をつくってしまうわけだ。<『続日本紀』1 p.82 直木孝次郎ら校注 東洋文庫>

白村江の戦い

 661年、新羅と唐の連合軍に攻められた百済が、ついに滅亡してしまいました。

 しかし、百済の残党軍は再起を図り、日本に人質として来ていた百済の皇子、余豊璋の百済送還と日本からの援軍を要請します。当時の日本は、斉明天皇が没し、中大兄皇子が天皇位には就かず政治を主導し始めた時でした(この政治体制を称制といいます)。中大兄皇子は、「よっしゃ、百済を復興させよう!」と考え、兵を動員することにしました。



 まずは662年、余豊璋を百済へ送還すると同時の派兵を実施します。そして翌年に兵力増強し、

 阿倍比羅夫率いる日本&余豊璋率いる百済連合軍

  VS

 新羅&劉仁軌率いる唐の連合軍

 による海戦が始まりました。

 これを、白村江の戦い(はくすきのえ)といいます。その結果は、日本・百済連合軍の見事な敗北で、余豊璋は高句麗に逃れ、行方不明に。これによって、ついに百済は歴史から姿を消しました。



 さあ、真っ青になったのは北九州の長津宮にいた、中大兄皇子です。

 余勢を駆って新羅、唐の連合軍が日本に攻め込んできたらひとたまりもないぞ! さあ、どうした!と、いうわけ。おまけに、全ての豪族が百済寄りの姿勢であったわけではないので、「負け戦によくも出陣させたな!」と、中大兄皇子への責任問題も浮上する恐れがある。いやいや、そもそも全ての土地と人民は国のものだ!という公地公民という強烈な中央集権政策の評判が良かったわけではなかった。



 そこで、豪族達から人気のあった同母弟の大海人皇子を取り立て、自らの権力基盤を固めることにしました。また、官位を19から26に増やし、より多くの中小貴族・豪族に朝廷へ進出する機会を増やします。また、公地公民・・・の原則を許し、民部(かきべ)・家部(やかべ)など私有民を部分的に認めることにしました。



 こうした、それまでの路線を修正した改革案を、「甲子の宣」(かっしのせん)といいます。

 これは一定の評価を得ることが出来、なんとか国内の不満を抑えることが出来ました。そして、海から唐・新羅に攻められては困る、ということで都を東へ遷都することに。不満の声は高かったようですが667年、近江大津宮へと移しました。



 さらに同年、中大兄皇子はついに即位します(天智天皇)。さらに、これだけでは安心できない天智天皇は、現在の福岡市の南に大野城と、長い城壁である水城(みずき)を築城し、ここに常駐の軍隊である防人(さきもり)を配置(兵士は主に関東から徴発)。また、この頃に大宰府(だざいふ)と呼ばれる九州における大和政権の政庁を本格的に整備したようです。



 この他に、長門城や屋島城など、朝鮮の技術を取り入れた朝鮮式山城を西日本各地に築城させています。