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皇極天皇(第35代)と乙巳の変~建国後、はじめての譲位

皇極天皇(第35代)と乙巳の変~建国後、はじめての譲位


2019年08月29日 公開

吉重丈夫

飛鳥板蓋宮跡
飛鳥板蓋宮跡(奈良県明日香村)

知っておきたい皇位継承の歴史

令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は皇極紅玉天皇と乙巳の変天皇をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。

第35代・皇極天皇
世系30、即位49歳、在位4年、宝算68歳

皇紀1254年=推古2年(594年)、敏達天皇の曾孫、押坂彦人大兄皇子の孫、茅渟王の第一王女として誕生された宝女王で、母は桜井皇子(欽明天皇の皇子)の王女・吉備姫王である。

皇極天皇皇位継承図皇紀1290年=舒明2年(630年)1月12日、宝女王が37歳で舒明天皇の皇后に立てられる。

皇后・宝女王の父は茅渟王(生年不詳)で田村王の異母兄(異母弟)で兄弟であるから、舒明天皇は宝女王の伯父に当たる。

舒明天皇との間に、中大兄皇子(天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人皇子(天武天皇)が誕生された。

皇紀1301年=舒明13年(641年)10月9日、夫帝・舒明天皇が49歳で崩御される。

皇紀1302年=皇極元年(642年)春1月15日、継嗣となられる皇子が定まっていなかったので、宝女王が皇極天皇(女性天皇であるが女系天皇ではない)として49歳で即位される。そしてこの年を皇極元年とされた。

この時、舒明天皇の第二皇子の中大兄皇子は17歳であった。他に有力皇位継承候補者として中大兄皇子の異母兄で第一皇子・古人大兄皇子(母は蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女)、山背大兄王(厩戸皇子の王子)がおられた。このような状況下、皇位継承者を決めかねる状態で、取り敢えず中継ぎとして先帝・舒明天皇の皇后・宝女王が皇極天皇として即位されたのである。

皇極天皇の在位中は、蘇我馬子の子・蝦夷が大臣として、その子・入鹿と共に国政を担った。

皇紀1303年=皇極2年(643年)4月28日、大和国飛鳥板蓋宮(奈良県明日香村岡)に都を遷される。

また舒明天皇には、蘇我馬子の娘・法提郎女を母とする古人大兄皇子がおられ、大臣・蘇我入鹿蘇我氏の血をひく古人大兄皇子(従兄か従弟)を皇極天皇の後嗣に擁立しようとして、まず障害となる有力な皇位継承資格者・山背大兄王(厩戸皇子の王子)を攻め滅ぼした。こうして蘇我入鹿が皇位継承問題に強引に干渉する。

蘇我氏系図古人大兄皇子は蝦夷の甥、入鹿の従兄弟である。

皇紀1303年=皇極2年(643年)11月1日、入鹿は小徳・巨勢徳太臣(こせのとこたのおみ)と大仁・土師娑婆連を遣わして斑鳩宮の山背大兄王(厩戸皇子・聖徳太子の王子)を襲撃させる。

山背大兄王は一族を引き連れ斑鳩宮から脱出し、生駒山に避難された。家臣の三輪文屋君は、「東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし」と進言するが、山背大兄王は戦闘を望まれず
「われ、兵を起こして入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。この故にわが一つの身をば入鹿に賜わん」(『日本書紀皇極紀』)
と言われた。

山背大兄王は上宮王家(聖徳太子家)一家と共に11月11日、自害し果てられた。15年前の推古36年には、蘇我氏一族である境部摩理勢(馬子の弟・蝦夷の叔父)が山背大兄王を擁立しようとしたので、これを知った蘇我蝦夷(入鹿の父)が境部摩理勢を攻め滅ぼしている。蝦夷の子・入鹿はここでいきなり皇位継承者・山背大兄王を滅ぼした。

乙巳の変

蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼしてから1年半余りの後、皇紀1305年=皇極4年(645年)6月12日、「乙巳の変」が起きる。

半島三韓から進貢の使者が来朝し、皇極天皇ご臨席のもと、宮中で献納の儀式が行われた。儀式の最中、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足藤原鎌足)が天皇の御前で蘇我入鹿を誅殺する。

「これは一体何事か」と天皇に詰問されたのに対し、中大兄皇子は平伏し「入鹿は王子たちを全て滅ぼして皇位を傾けようとしています。入鹿を以て天子に代えられましょうか」とお答えになる。天皇は直ちに退去された。

翌13日、入鹿の父・蘇我蝦夷は自害した。これで権勢を縦ままにしていた蘇我本宗家が一瞬にして滅亡する。

蘇我馬子が「崇峻天皇弑逆事件」を起こして、その孫の入鹿が「乙巳の変」で誅されるまで53年、半世紀余り、蘇我氏が皇位を壟断していた。

蘇我馬子は崇峻天皇を弑し、皇位継承候補者の穴穂部皇子、宅部皇子を殺害し、子の蝦夷は山背大兄王擁立を主張した蘇我境部摩理勢を殺害し、孫の入鹿は皇位継承候補者・山背大兄王を殺害した。

こうして蘇我氏は馬子、蝦夷、入鹿と三代にわたって天皇や皇位継承候補者を次々に亡き者にし、皇位継承に大きく介入したのであった。

皇位の譲位の始まり

「乙巳の変」の翌々日6月14日、皇極天皇は在位4年で退位され、同母弟の孝徳天皇に譲位される。皇子である中大兄皇子に皇位を譲ろうとされたが、中大兄皇子は中臣鎌足と相談の結果、皇弟・軽皇子(孝徳天皇)に即位を願い、中大兄皇子が皇太子になられる。皇極天皇が皇弟・軽皇子に皇位を譲られた。中大兄皇子は「乙巳の変」の当事者であり、さすがに即位は控えられたのである。

譲位

ここで建国以後1300余年にして初めて皇位の譲位が行われる。それまでは皇位はいわゆる終身制であり、皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われていた。皇位継承の方法の大変革となり、以後、皇位の譲位というものが頻繁に行われるようになる。皇位継承の仕方が多様化したといえるが、その反面皇位継承に関係者の思惑が入り、争いを巻き起こす結果ともなった。

なお、明治の御世以後は、また旧に復して皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われることになった。

ところが皇紀2678年=平成30年3月9日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法施行令」が公布され、今上天皇陛下から皇太子への譲位が行われることとなった。法律があっても陛下のご意向が優先されるという本来の皇位継承が行われることとなった。皇位の継承といった日本の国体に関する基本事項については、陛下のご意向と皇族に関する慣習法が憲法や皇室典範に優先するということが実証されたのである。