歴史・人名

相合元綱

相合元綱

(あいおう もとつな)

????-1524

毛利氏 四郎 少輔三郎

◇父:毛利弘元 子:敷名元範

 安芸・毛利氏一族。相合殿と呼ばれた。長兄興元の遺児幸松丸死後、異腹兄元就が後を継いだことに不満を持った。元就暗殺を画策し露見、元就に討たれる。尚、毛利氏相伝の兵法書が興元死後、なぜか元綱に伝わっており、元綱死後、元就が入手したといわれる。

「相合 元綱 () (あいおう もとつな)

毛利元就の異母弟で,元就と毛利家の家督を巡って争い,若くして無念の死を遂げています。

毛利弘元の子ですが,側室の子であったことから,毛利氏を名乗らず,与えられた船山城のあった地名・相合を姓として名乗っていたといわれています。

元就とは,安芸・武田氏と雌雄を決した有田城での戦い(有田中井手の戦い)などでともに奮戦するなど決して普段から仲が悪かったわけではなかったようですが,毛利家当主で甥の幸松丸が幼くして急死すると,周囲の重臣やそれを後押しする尼子氏の口車に乗せられてか,はたまた抗しきれずか,元就を討つための兵を催す計画に加担したといわれています。

しかし,これを事前に察知した元就側により,討ち取られてしまいます。」
「相合 元綱(あいおう もとつな、生年不詳 - 大永4年4月8日(1524年5月11日))は、戦国武将・毛利氏一族。毛利弘元の3男で、毛利興元・毛利元就の異母弟(三男・庶子)。通称は相合四郎(あいおうしろう)・少輔三郎(しょうのさぶろう)。子は敷名元範。本来の姓は毛利であるが、所領の名を取り姓を「相合」と名乗った。本姓は大江氏毛利氏大江広元の四男毛利季光に始まるため)。

毛利弘元の3男として生まれる。武勇に秀でた武将で「今義経」の異名を取ったと伝わる。1517年の有田中井手合戦で、兄の元就と共に武田元繁を討つなどの活躍を見せた。また、元就とも仲が良かったといわれる。

1523年(大永3年)、甥(興元の子)で当主であった毛利幸松丸が9歳で病死すると、異母兄の元就が後継者となることが決定した。これに対し、桂広澄・坂広秀・渡辺勝らが、元綱を当主に擁立しようとした。一説には、尼子豊久毛利氏の娘婿として当主に立て、元綱は後見人となる予定であったとも言われる。元綱らは元就の暗殺を計画したが、元就に気付かれ、先手を打たれて殺害された。尼子氏の謀略により、憤死したとも伝わる。

元綱派は尼子氏の有力家臣の亀井秀綱を後ろ盾としており、この内紛に尼子経久の意志が絡んでいることは明白であったため、元綱殺害後、元就は尼子氏から離反し大内氏への接近を図るようになった。

元綱の子の元範は幼少であったため、罪を許された。後に敷名姓を名乗り、毛利氏家臣として働いている。

なお、毛利元就には、子の毛利隆元、吉川元春、小早川隆景に兄弟の絆を大切にするように諭したという逸話が伝わるが、それはこうした悲劇を経験したからであると言われている。」