歴史・人名

石橋湛山

石橋湛山

いしばし たんざん
美術人名辞典の解説
石橋湛山
ジャーナリスト・政治家。東京生。日布上人の長男。早大卒。東洋経済新報社社長となり、のち自由党に入り吉田内閣の蔵相、また鳩山内閣の通産相となる。自由民主党総裁・日ソ協会会長・日本国際貿易促進協会総裁に就任する。昭和48年(1973)歿、89才。

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デジタル大辞泉の解説
いしばし‐たんざん【石橋湛山
[1884~1973]政治家。東京の生まれ。東洋経済新報社に入社し、自由主義的立場から普通選挙論などの論陣を張った。第二次大戦後、蔵相・通産相を歴任。昭和31年(1956)石橋内閣を組織したが、約2か月で病のため総辞職。中国やソ連との交流促進に尽力。→岸信介

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百科事典マイペディアの解説
石橋湛山【いしばしたんざん】
評論家,政治家。東京生れ。早大哲学科卒。《東京毎日新聞》を経て東洋経済新報社(《東洋経済新報》)に入り,自由主義的経済評論家として活躍,大正デモクラシーをリードする一人となった。
→関連項目岸信介内閣|国際電気[株]|松尾尊【よし】

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
石橋湛山 いしばし-たんざん
1884-1973 大正-昭和時代のジャーナリスト,政治家。
明治17年9月25日生まれ。身延山久遠寺法主杉田堪誓の子。母方の姓をつぐ。明治44年東洋経済新報社に入社。自由主義にたつ論客として活躍し,昭和16年社長。21年第1次吉田内閣の蔵相。翌年衆議院議員(当選6回)。29年日本民主党結成にくわわり,保守合同後の31年自民党総裁,首相となるが,病気のため2ヵ月で辞任した。中ソとの親善に尽力。昭和48年4月25日死去。88歳。東京出身。早大卒。著作に「湛山回想」など。
【格言など】事実に合わない理論なら,その方がまちがいなのだから訂正すべきものだ(「自由主義の効果」)

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江戸・東京人物辞典の解説
石橋湛山
1884〜1973(明治17年〜昭和48年)【経済評論家・政治家】満州放棄、軍国主義反対を唱えた気骨のジャーナリスト。 戦後は政治家として活躍。大正・昭和期の経済評論家・政治家。東京都生れ。早大卒。1911年(明治44)東洋経済新報社に入社、主幹・社長を歴任。戦前に満州放棄を主張するなど、大正デモクラシー期から昭和戦前期に硬骨の言論人として活躍した。第二次大戦後は、第一次吉田内閣の蔵相として積極財政を推進。1947年(昭和22)新憲法下初の総選挙に当選するが、1ヶ月で公職追放となる。その後、鳩山内閣で通産相を務め、鳩山退陣後の1956年自由民主党総裁選に勝利。その直後、病に倒れ僅か2ヶ月で辞職。1959年訪中し、石橋・周恩来声明は、日中国交回復の基礎となった。

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世界大百科事典 第2版の解説
いしばしたんざん【石橋湛山
1884‐1973(明治17‐昭和48)
評論家,政治家。のちの身延山久遠寺法主杉田湛誓の長男。東京に生まれ山梨で育つ。早大文学部哲学科で田中王堂の影響を受ける。《東京毎日新聞》を経て1911年東洋経済新報社に入り,24‐46年,主幹,専務,社長として同社を主宰。同社の急進的自由主義の伝統を継承,内における民主的政治体制の樹立と,外における帝国主義外交の廃止,とくに植民地放棄の主張をもって,大正デモクラシーの思想的頂点に立った。早くからケインズ理論に学び,30年,浜口雄幸内閣の金解禁は経済界に打撃を与えると反対し,経済評論家としての名声を高めた。

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大辞林 第三版の解説
いしばしたんざん【石橋湛山
(1884~1973) 政治家。東京生まれ。早大哲学科卒。東洋経済新報社社長を経て、第二次大戦後第一次吉田内閣蔵相。1956年(昭和31)自由民主党総裁となり、内閣を組織したが、病に倒れ三か月足らずで辞職。日中・日ソ交流促進に尽力。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
石橋湛山
いしばしたんざん
[生]1884.9.25. 東京
[没]1973.4.25. 東京
ジャーナリスト,政治家。早稲田大学文学部を卒業後,東洋経済新報社に入社し,自由主義経済を主張して,ジャーナリズムに論陣を張ったが,戦後自由党に入って政治家となり,第1次吉田内閣の大蔵大臣をつとめ,まもなく公職追放にあった。追放解除ののち鳩山内閣の通産大臣を経て,1956年 12月自由民主党総裁選挙に僅差 (2,3位連合) で岸信介を破り総裁に就任,首相となった。しかし,翌年2月病気のため引退を余儀なくされた。特に共産圏との親善に力を注いだことは有名。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
石橋湛山
いしばしたんざん
(1884―1973)
経済評論家、政治家。東京生まれ。早稲田(わせだ)大学文学部哲学科を卒業後、1911年(明治44)東洋経済新報社に入り、編集局長を経て1941年(昭和16)社長。東洋経済新報社は自由主義を編集の基本に据えていたため、社説を担当していた石橋もその立場から満州事変や五・一五事件を厳しく批判し、政府の軍国主義政策に反対した。第二次世界大戦前・戦中の石橋の主要な活動舞台は経済評論であった。井上準之助(いのうえじゅんのすけ)の財政緊縮政策に対して積極財政論を展開した「金解禁論争」は有名。戦後、自由党に入り、1946年(昭和21)総選挙に出馬したが落選。第一次吉田茂内閣の蔵相に就任し、生産復興第一主義を中心とした積極財政によってインフレ政策を推進。1947年衆院選で当選(静岡2区)したが公職追放となる。1951年の追放解除後、自由党に復帰するが、岸信介(きしのぶすけ)らと反吉田の新党運動をおこし除名され、1954年鳩山一郎(はとやまいちろう)総裁の日本民主党結成に参画し同党最高委員。同年吉田内閣退陣後、鳩山内閣で通産相。保守合同(自由民主党成立)の翌1956年12月鳩山後継総裁選挙で岸信介と争い総裁となり、石橋内閣を組閣。しかし肺炎のため十分に政策実施を行わないまま翌1957年2月わずか3か月で総辞職した。その後、中国、ソ連を訪問し、日ソ協会会長に就任するなど共産主義諸国との交流促進に活躍した。昭和48年4月25日死去、88歳。[荒 敬]
『全集編集委員会編『石橋湛山全集』全15巻(1970~1972・東洋経済新報社) ▽全集編集委員会編『石橋湛山――自由主義者の歩み』(1973・東洋経済新報社) ▽長幸男編『石橋湛山――人と思想』(1974・東洋経済新報社) ▽石橋湛一、伊藤隆編『石橋湛山日記』上下(2001・みすず書房) ▽松尾尊兌編『石橋湛山評論集』(岩波文庫) ▽姜克実著『石橋湛山――自由主義の背骨』(丸善ライブラリー) ▽井出孫六著『石橋湛山と小国主義』(岩波ブックレット)』
[参照項目] | 石橋湛山内閣 | 東洋経済新報
[補完資料] | 靖国神社廃止の議 難きを忍んで敢て提言す(石橋湛山

石橋湛山

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世界大百科事典内の石橋湛山の言及
【東洋経済新報】より

…1919年10月4日号から週刊となる。植松考昭,三浦銕太郎(てつたろう),石橋湛山らが軍国主義,帝国主義に抵抗して,自由主義的民主主義の論陣を張った。そのため,第2次大戦中は厳しい弾圧にあったが,これと戦って発行を続けた。…

※「石橋湛山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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