歴史・人名

磐井の乱

磐井の乱・・・・・527年継体天皇は任那へ進出を図る新羅に対して、朝鮮半島へ出兵しようとしましたが筑紫(九州北部)の国造(長官)磐井が反乱をおこし出兵を妨害しました。
大和朝廷は反乱を収めるため大連の物部麁鹿火を送り磐井を滅ぼしましたが、この間任那の領土は新羅に攻め取られ、やがて日本は任那を失うことになります。

九州古代史・筑紫の磐井

私が昔一通り調べたことのある「筑紫の磐井」について、いろいろと考えたことを記してみました。よろしかったら、私の地元九州の古代史、読んでやってくださいまし。

《注意》とりあえず完結していますが、あとで何か付加するかも(謎)。
目次

   文献でみる「磐井の乱」
   「磐井の乱」はどう読まれたか
   「磐井の乱」の時代(五世紀)
   「磐井の乱」の時代(六世紀)
   磐井という「登場人物」
   「磐井の乱」勃発から終結へ
   ポスト「磐井の乱」の時代
   結び
   筑紫の磐井~文献集

筑紫の磐井~文献でみる「磐井の乱

ここで言及している古文書は、「こちら」に別掲してあります。随時参照して下さい。
磐井の乱」について

記紀にしるされた古代史における最大の地方の反乱、それが「磐井の乱」です。日本書紀(以下書紀)による「磐井の乱」の話の筋は、次のようになります。

継体天皇二十一年の夏六月、九州筑紫国造磐井は豊肥二国を占拠すると同時に、朝鮮半島からの「朝貢」船を略奪しました。そして、任那に遠征する近江毛野臣の軍に対して妨害行為を起こしました。これが、「磐井の乱」の始まりです。これらの反乱の原因として書紀は、任那東部を占領して倭と対立する新羅が、磐井に対して「貨賂」を送ったことを挙げています。「ともに同じ釜の飯を食った仲」の磐井との交戦によって、近江毛野臣は任那へ遠征することができませんでした。

この事態に対し、天皇は磐井討伐の詔を発します。討伐軍の大将軍は、武勇で知られた物部一族の、麁鹿火大連です。同じ年の秋八月、天皇は詔によって筑紫以西の全権を与えます。

翌年二十二年の冬十一月、物部麁鹿火大連率いる討伐軍は、筑紫国御井郡(筑後平野)で交戦します。激しい戦闘となりましたが、結局は反乱側の首魁である磐井が討伐軍に斬殺され、反乱は鎮圧されます。磐井の息子である葛子は、罪を贖うために朝廷に対して糟屋屯倉(福岡平野か)を献上しました。
記述された「磐井の乱

磐井の乱」について、私たちが知りうる文献は前述の書紀を含めて、次のとおりです。

   古事記 (継体天皇)
   日本書紀 巻第十七 継体天皇紀
   釈日本紀の引用による「筑後風土記」逸文

古事記における記述

古事記における「磐井の乱」は、書紀に比べて極めて簡潔に記述されています。内容は、竺紫石井(磐井)が天皇の命令に叛いたことと、物部荒甲(麁鹿火)と大伴金村によって殺されたことの二つです。書紀と異なる点は、古事記には磐井が「国造」であるとは記述されていないことです。

興味深いのは、この「磐井の乱」が古事記に記述された最後の「事件史」的な事項であることです。仁賢天皇以降の古事記の記述は、そのほとんどが即位と崩御、その皇后皇子皇女に関するものでしかありません。その中で「磐井の乱」は、この時代にて突出した出来事であることが、この記述から理解できます。おそらくは、古事記を最初に語った人にとって、極めて印象の強い出来事であったのでしょう。その異常な記述は、「磐井の乱」という事件への信憑性を高めてくれます。
筑後風土記逸文における記述

筑後風土記自体は他の多くの風土記同様散逸してしまったために、現存はしていません。しかし、筑紫の磐井について記述した部分が「釈日本紀」に引用されており、その部分は今でも読むことができます。

引用文には、筑紫君磐井の墳墓に関する記述があります。この墳墓には石人と石盾が並べられ、東北の隅にある衙頭という区画には、「解部」と「偸人」の石人、石猪、石馬、石の殿、石の倉と、石で作られた造形物があることがわかります。福岡県八女市の岩戸山古墳にはこの記述通りの区域が存在し、ここから石人・石盾・石馬が出土されております。この記述によって、筑紫の磐井の墳墓は岩戸山古墳に比定することができました。皇族以外での被葬者の確定は、飛鳥朝以前では筑紫の磐井唯一人です。

また、その石人石馬が破損した由来において、「磐井の乱」について言及しています。書紀で磐井が斬殺されたのに対し、筑後風土記逸文では豊前国上膳(不詳)へ逃亡し、よその土地で死亡したと記述してあります。それに激怒して兵士が石人石馬を破損せしめたがために、この地で重病人が多く発生したというのが話の筋です。ここで語られる磐井は、あたかも義経伝説の如き判官びいきの筋の流れとなっております。同時に、磐井に関わる造形物の破損によって、呪いまたは祟りの物語が発生していることにも注目できます。おそらくは、磐井という物語に呪術という要素を見出すことができるのかもしれません。

ついでに、直接筑紫の磐井に関係はありませんが、「筑紫君」という姓の一族にまつわる呪術めいた物語が、「釈日本紀」に引用されて言います。この引用文では筑紫の名前の由来について語っており、その中の第三説において「筑紫君」の祖先である「甕依姫(みかよりひめ)」が登場しています。その語りの中では甕依姫が巫祝となって、旅人に祟りをなす荒ぶる神を調伏することに成功しています。前述の磐井が祟りの原因となるのと同様、「筑紫君」が呪術に対して関係の深い一族であるという理解が可能となります。おそらくは、「君」という姓を持つ人々の職掌の根源となるのではないでしょうか、そして、「大」の付く「君」も・・・。
日本書紀をよむにあたって

なお、書紀が磐井のことを国造としるされているのに対して、筑後風土記逸文では「筑紫君磐井」と記されてあります。上記の三文献において、磐井の職掌についてはいずれも異なった記述となっております。この点については、実際に磐井が国造であったかどうかという以前に、この時代に「国造」という職掌が存在したのかという問題もあります。ともかくも、上記の三文献を照合することで、「磐井の乱」について把握することができます。それでも、やはり事件の内容は書紀が最も詳しく記述されており、事件についての分析は書紀に頼らざるを得ません。

ここで問題となるのが、いかなる方針に基づいて書紀を文献として採用するかです。従来から喧伝されている説ですが、記紀、特に書紀は、大和朝廷特に天皇が日本を支配することを正当化するために記述された文書であり、その記載内容すべてが事実に基づいているのではなく、権力に都合の良いように記述されており、内容をそのまま信じてはならないというのがあります。しかし、人類における歴史の記述は共有された物語であり、その記述内容と事実の差は削減できても解消することはできません。また、文書の記述の目的が明解であれば、目的とは関係のない記述についてはある程度の中立性を見込むことができますし、同時に書き手の目的からその裏をかくような分析も可能です。これによって、書紀の書き手によるバイアスを解消したうえで、書紀を史料として採用することが可能となります。

それでは、書紀を中心とした文献を注意深く使用しながら、「磐井の乱」とは何だったのかについて分析を進めていきます。

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筑紫の磐井~「磐井の乱」はどう読まれたか

ここでは、過去において「磐井の乱」がどのように読まれてたかについて、先人の研究を元に記述していきます。同時に、私がみた限りにおいての問題点も記述していきます。
「民衆の反乱」という語られ方
「民衆の反乱」説について

最初に挙げるのは、「磐井の乱」とは九州の民衆が大和朝廷に対する反乱であったという説です。

この説においては、大和における政権によるたび重なる朝鮮出兵のため、直接負担を強いられた九州地域の人々が不満を爆発させ、「磐井の乱」とよばれる反乱となったとされています。おそらくは、朝鮮への出兵ともなれば九州が兵站のために「搾取」され、その不満が昂じて反乱に及んだというのでしょうか。この説が提唱されたのは1950年代ごろで、主に林屋辰三郎氏や門脇禎二氏等によって論じられました。その後において否定されたこともあった朝鮮出兵については、この頃はまだ肯定的であったのが興味深いです。

   林屋辰三郎「継体・欽明朝内乱の史的分析」1952年
   門脇禎二「磐井の反乱」(『世界史におけるアジア』1953年)

「民衆の反乱」説の問題点

しかし、「広開土王碑」から確認し得る限りにおいても、朝鮮出兵は4世紀から続いていたと考えられます。であれば、なにゆえに6世紀になって不満が発生したのか、私には理解できません。朝鮮出兵の負担ゆえの反乱であれば、もう少し早い時期から発生しても良いはずです。そして、4~5世紀において九州でこのような反乱が何ゆえ発生し得なかったのか、この説では解明し得るとは思えません。であれば、反乱の理由は不満の爆発ではなく、この時代(6世紀)に固有な事象に由来すると考えるべきです。

あと、出兵負担に対する不満であれば、兵役の忌避や逃亡などのような消極的な反抗の方が発生し易いはずです。反乱のような積極的な反抗では、敗北したときのリスクを考慮すれば及び腰になるのが普通でしょう。それが、何ゆえ「朝貢」船の略奪や討伐の詔となる程の大規模な反乱となるのでしょうか(たとえ「朝貢」船略奪が「潤色」としても、討伐の詔まで記載するのは尋常とは思えません)。やはり、これは積極的な企みのもとに発生した事件と判断すべきでしょう。
「国土統一戦争」という語られ方
「国土統一戦争」説について

従来の研究が「大和の政権という中央権力に対する反乱」と定義していたのに対し、こちらは「国家形成期における国土統一戦争」とする研究です。つまり、前項がすでに本州~九州においては国家が成立していたとみなすのに対し、こちらでは全国を統一した政権はいまだ存在しなかったとみなしています。そして、本州~九州における政権統一は、「磐井」政権の征服後としています。このような説は、下記の方々によって発表されました。

   鬼頭清明「日本民族の形成と国際的契機」(『大系日本国家史』1 1975年)
   吉田晶「古代国家の形成」(『岩波講座日本歴史』2 1975年)
   山尾幸久『日本国家の形成』1977年

この「語り」を可能とするのが、やはり記紀における「潤色」の可能性でしょう。つまり、大和の政権は記紀に都合の悪いことは書き得ない、国土統一はより昔であればこそ大和の政権による支配を正当化し得る、というものです。となれば、磐井は反乱者なんぞではなく、実は九州における独立した国家の首長ということになります。また、私たちが呼んでいる「磐井の乱」も、本当は大和の地方政権による侵略戦争だったことになります。
「国土統一戦争」説の問題点(記紀の潤色の有無)

記紀の潤色という「可能性」は、日本の古代史研究において極めて強力かつ多様な想像力を働かせることに役立ちました。しかし、この「磐井の乱」において記紀の潤色の可能性は本当にあったのでしょうか。というより、「国土統一戦争」の隠蔽という行為は、記紀の書き手の利益になるのでしょうか。潤色の有無の判断は、何が書き手の利益であるのかを考慮せねばなりません。さもなくば、それは単なる想像の世界の「可能性」でしかないでしょう。

もし、「磐井の乱」が実は「国土統一戦争」であると仮定します。そのとき、征服側の書き手が「国土統一戦争」としてそのまま記述した場合、いかなる不利益があるのでしょうか。大和による九州の「征服」であるならば、それ自体大和の政権にとっては成功物語でこそあれ、不名誉な物語とはあり得ません。むしろ、他国への征服成功という物語こそが、自国の物語において強力に語り得る題材なのです。後の時代の「軍記物」と呼ばれる物語において、強く語り得るのは戦いの勝利という「成功」の物語なのですから。

この「征服」の功労者が存在するとすれば、物部氏や大伴氏でしょう。両氏族にとっては、氏族の名誉を語り継ぐべく是非とも記紀への記載を要求するでしょう。記紀編纂時においては、物部氏本家こそ滅ぼされてもその支族である石上氏は存続しておりますし、大伴氏に到っては奈良朝の有力貴族です。彼らの目を盗んで「潤色」が行なわれたのでしたら、果して彼らが黙ってこれを見ているとは思えません。このように、書き手の利益を考慮する限りにおいて、「国土統一戦争」を潤色するという可能性を追求するのも如何なものでしょうか。

「国土統一戦争」説の問題点(象嵌銘)

残念ながら、このような研究成果が発表された後で、整合性が取り難い考古学的発見がありました。1978年に埼玉県・稲荷山古墳出土鉄剣の象嵌銘の発見です。ご存知の方も多いと思われますが、この象嵌銘によりワカタケル大王による関東の地方支配(稲荷山古墳被葬者を通した間接的支配)が明らかになりました。この象嵌銘より、すでに発見されながら記載された王の名前が不確定であった熊本県・江田船山古墳出土鉄剣の象嵌銘が、やはりワカタケル大王が記載されていたと判断することができました。

いずれの象嵌銘も、ワカタケル大王との緊密性を言挙げすることによって、被葬者の地域支配を正当化する文面となっております。稲荷山古墳の方は、被葬者が「杖刀人首」というワカタケル大王の近侍の衆であったことを記載しており、自らの地方支配の源泉がワカタケル大王であることを示す内容となっております。江田船山古墳の方は「典曹人」とあり、やはりワカタケル大王の近侍の衆であるという推定が可能となり、しかも「服此刀者長寿」との記載からすれば、この鉄剣の保持が肯定的な意味として捉えられています。

このワカタケル大王は、雄略天皇に比定して問題はありません。そして、雄略天皇は継体天皇の皇后の祖父にあたります(皇后の母が雄略天皇の娘である)。であれば、継体天皇の2世代前の時点で、すでに関東から九州まで大和の政権による支配がなされていたことになります。もちろん、大和の政権が直接九州を支配していた訳ではなく、おそらくは上記の被葬者の如き地方支配者を通した間接的な支配であったのでしょう。ただ、その地方支配者も大和の政権との緊密性を強調することによって、地方支配が可能であったと考えられます。

これだけを見ても、磐井が九州における独立した国家の首長であるとは想像できません。肥後ですら大和の政権の支配下にあるのに、筑紫が大和の政権の支配から逃れられていたとは到底考えられません。やはり、独立国家の首長という磐井像は困難と思われます。
「国土統一戦争」説の否定

ついでに言うと、磐井の墓とされる岩戸山古墳は、前方後円墳です。筑紫が独立国家であれば、なにゆえ「国土統一戦争」で対立していた大和の政権と同様の葬送様式である必要があるのでしょうか。前方後円墳という葬送様式を磐井が採用しているということは、むしろ磐井も大和の政権の影響下にあったと判断すべきです。でなければ、いかなる合理的な説明も不可能です。

やはり、「国土統一戦争」として「磐井の乱」を語ることは不可能です。「磐井の乱」は、記紀にある通りの反乱であったのでしょう。であれば、磐井はなぜ反乱をおこしたのでしょうか?

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筑紫の磐井~「磐井の乱」の時代(五世紀)

今度は、「磐井の乱」の頃がいかなる時代であったのかを探っていきます。この時代より一世紀ほど遡りながら、この頃の日本の時代の流れを探ることで、「磐井の乱」の要因を捉えてみます。
五世紀の日本と朝鮮半島

書紀においては、磐井は新羅から「貨賂」を受け取ったとあり、また、朝鮮半島の国々からの「職貢る船」を妨害したとあります。「磐井の乱」を捉えるには、朝鮮半島と日本の国際関係について考慮する必要があります。では、そのころの朝鮮半島はいかなる時代だったのでしょうか。
「三国史記」が語る「倭」の進出

古代朝鮮歴史書である「三国史記」には、「倭」による新羅への侵攻の記事がいくつか記載されています。ただし、書紀・神宮皇后紀が記述する「三韓征伐」の記事のように、高(句)麗・新羅・百済が大和政権の「西蕃」となったという記事はありません。このことから、神宮皇后紀のような「三韓征伐」は、書紀の「潤色」であるという説が支配的でした。特に、任那に設置されたと言われる「任那日本府」の名称が、いまだ「日本」という国号の存在しない時代であることは、「潤色」の疑念をさらに拡大させております。

「三国史記」の「新羅本紀」における、各世紀毎の「倭」の侵攻の記事件数は、以下のとおりです。同時に、侵攻に関連した記事も記載します。

   一世紀以前:3件
   二世紀: 2件
   三世紀: 7件
   四世紀: 5件
   五世紀:16件
   六世紀: 0件
   「倭国王、使を遣わし、子の為に婚を求む。阿[冫+食]急利の女を以て之に送る。(第二、訖解尼師今三年<312>三月条)」
   「倭国、使を遣わし婚を請えり。辞するに女、既に出嫁せるを以てす。(第二、訖解尼師今三十五年<344>二月条)」
   「倭王、移書して交を絶つ。(第二、訖解尼師今三十六年<345>二月条)」
   「倭兵、猝かに風島に至り、辺戸を抄掠す。(第二、訖解尼師今三十七年<346>条)」
   (この間に、「倭」の侵攻記事2件<364>,<393>)
   「倭国と好を通じ、奈勿王の子、未斯欣を以て質と為す。(第三、実聖尼師今元年<402>三月条) 」
   (この間に、「倭」の侵攻記事3件<405>,<407>,<415>)
   「王弟未斯欣、倭国自り逃げ還る。(第三、訥祗麻立干二年<418>秋条)」
   (このあと、「倭」の侵攻記事は<431>,<440>,<444>,<459>他)
   (佐伯有清編訳「三国史記倭人伝 他六篇」岩波文庫 より)

実聖尼師今元年<402>の記事のように王族を「質」と為すことはあったものの、おおむね五世紀まで「倭」の侵攻による対立状態が続いていたものと思われます。対立状態にあったとの記述からは、書紀の「三韓征伐」とは完全に倒立しています。

同じ「三国史記」の「百済本紀」においては、「倭」による侵攻記事は見られません。その代わり、下記の記述のように「倭」との友好関係を示す記事が、阿[(草冠)+辛]王六年<397>から[田+比]有王<427>まで7件存在します。なお、「高句麗本紀」においては、「倭」による侵攻記事や友好関係の記事は存在しません。

   太子時代の腆支が倭国の質になった記事(阿?王六年<397>他2件)
   倭国から百済への使の記事(3件)
   百済から倭国への使の記事(2件)

およそ「三国史記」の記述は、書紀の「朝貢」や「西蕃」という記述とは隔たりがあります。しかし、新羅・百済両国において「質」という記述があることには、決して見落としてはなりません。特に、ここでの「質」は「倭」に対してであって、「倭」からの「質」が存在しないことに注目すべきです。このような関係では、「倭」と新羅・「倭」と百済それぞれ両国の力関係において、いずれも「倭」の方が勝っていたと判断することは決して不当ではありません。その力関係の差とは、即ち実際の軍事活動によるものではないかという推定を可能とさせます。
広開土王碑文」が語る「倭」の進出

高句麗王である広開土王の業績を示した「広開土王碑」の碑文には、高句麗が「倭」と交戦したという記述がしるされています。主な記述は、以下の通りです。

   「百残(百済)・新羅は、旧是れ属民にして、由来朝貢す。而るに倭は、辛卯の年を以って来りて海を渡り、百残・□□・新羅を破り、以て臣民と為す。(辛卯年条<391>)」
   「九年己亥、百残、誓いを違えて、倭と和通す。(九年己亥条<399>)」
   「王、平穰に巡下す。而(すなわ)ち新羅、使を遣わして、王に白(もう)して云く。倭人、其の国境に満ちて、城池を潰破し、奴客を以て民と為せり。王に帰して命を請うと。(同上条)」
   「十年庚子、歩騎五万を遣わして、往きて新羅を救わ教む。男居城従(よ)り、新羅城に至るまで倭、其の中に満つ。(十年庚子条<400>)」
   「官兵、方に至り、倭賊、退く。(同上条)」
   「来背急追。任那加羅従抜城に至る。・・・倭、満ち、倭潰ゆ。(同上条)」
   「十四年甲辰、而(すなわ)ち倭、不軌にも帯方界(黄海・京畿道付近)に進入す。(十四年甲辰条<404>)」
   「倭寇、潰敗、斬殺するもの無数なり。(同上条)」
   (佐伯有清編訳「三国史記倭人伝 他六篇」岩波文庫 より)

この「広開土王碑」自体、広開土王の業績を褒め称えるのが目的で建立されたのであり、その記述がそのまま事実とすることには注意すべきです。特に、「倭」の戦いが「倭満倭潰(十年庚子条)」や「倭寇潰敗斬殺無数(十四年甲辰条)」と表現するあたり、業績を美化させるための脚色が入っているという疑念を防ぎえません。逆にいえば、少なくとも敗北はしたものの「倭」が朝鮮半島に実際に侵攻したことについては、どうやら現実に発生した事件であったことが理解できます。

この五世紀初頭の朝鮮半島における大和政権の侵攻は、書紀では「三韓討伐」として成功して「朝貢」せしめたとあり、「新羅本紀」では大和政権に「質」を差し向けたもののその「質」は逃亡、「広開土王碑文」では「倭寇潰敗斬殺無数」という惨めな結果に終わったとあります。それぞれ、記述者という主観の目や耳を通して記述されたものである以上、いずれかが真実であるというわけではありません。その点では、この侵攻の結末は「藪の中」と言えなくもありません。

   なお、「広開土王碑文」の内容については、「発見」した日本軍参謀本部によって石灰で碑文を「改竄」したという説があります。しかし、現実に私たちが目にする碑文は、「倭満倭潰」toka「倭寇潰敗斬殺無数」toka「改竄」行為の不足が見受けられます。それが事実とすれば、なにゆえにこのような都合の悪い文面を「改竄」できなかったのか、説明ができません。この説について賛同することは、どう控えめに考えても賢明ではありません。。
   また、辛卯年条の「来渡海破百残□□新羅以て為臣民」については、「倭」が半島に「渡海」したと解釈すべきではなく、その逆で百済・新羅が「倭」へ「渡海」したと解釈すべきという説もあります。であれば、碑文の語りは「倭寇潰敗斬殺無数」ではなく、領土征服成功を称える語りとなるべきです。「倭」の「潰敗」を殊更に強調し得るのは「倭」が侵攻して来たが故であり、百済・新羅に侵攻されるような「倭」の「潰敗」が王の偉業として語り得るとは考えられません。

大和政権の朝鮮進出はあったのか

大和政権の朝鮮進出について考えると、新羅に関しては、大和政権への「朝貢」が一時的になされたことは想像することができます。おそらくは、高句麗と「倭」を天秤に載せるような政策をとっていたのでしょう。それゆえ、「広開土王碑文」での語りでは、ある時期は倭の「臣民」となり、またある時期は高句麗の「旧是属民」とされたのです。少なくとも、常時大和政権の「西蕃」ではなかったと考えられます。

そして、百済に関しては、大和政権との連携が緊密であったことを疑う必要はありません。それが、書紀の語りにおける「西蕃」にせよ、あるいは「百済本紀」の語りにおける「質」にせよ、大和政権を優位とする国交関係であることは間違いありません。それは、「広開土王碑文」の「百残違誓而倭和通」という語りによって、さらに現実味を帯びてくるようです。

さらに、任那(加耶諸国)はどうでしょうか。「広開土王碑文」辛卯年条の「来渡海破百残□□新羅以て為臣民」の「□□」は、碑文の落剥によって漢字二文字分が読めなくなっています。おそらくは、そこに入る漢字は「加羅」でしょう。百済・新羅を「臣民」と為したのに、九州から最も近い任那地域を攻略できなかったとは到底考えられません。それは、十年庚子条の広開土王が逃げる「倭」を追って「任那加羅従抜城に至」ったという記述から考えれば、そこが「倭」にとて逃げ帰るべき拠点であることが分かります。どうやら、任那においても百済と同様か、あるいはそれ以上の大和政権との緊密な関係を想起することは、決して不当ではありません。
五世紀の日本の政治体制

前項では、五世紀においては百済・任那と緊密かつ大和政権優位の国交関係があったことを示しました。それを踏まえて、五世紀の日本の政治体制はいかなるものかを記述していきます。
半島南部から得られる富

「国は鉄を出し、韓・[さんずい+歳](わい)・倭、皆従いてこれを取る。諸の市買には皆鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」。これは、「魏志」弁辰伝における三世紀記述で、のちの任那地域の様子を表しています。この頃から、朝鮮半島南部は鉄の一大産地となっており、倭も「これを取」って国内へ持ち帰ったことが分かります。「鉄艇」と呼ばれる短冊状の鉄の塊が五世紀の日本から発掘されるそうですが、これらは金海・釜山からの搬入品であるとされています。鉄の加工技術こそは日本に在地化したものの、その原料となる鉄の塊は、五世紀になっても半島南部に依存していたようです。

おそらくは、任那地域を日本が実効支配していたことは間違いありません。それは、「金官」や「安羅」や「己?(もん)」や「帯沙」などの小首長国の連合体であったと考えられます。これらは、六世紀に入るまで百済や新羅・高句麗に侵食されずに小首長国連合を保つことができました。それは、「倭」による覇権がなければ早々と併呑されていったことでしょう。その見返りとして、鉄の原料である「鉄艇」を「倭」は得ることができたと考えることができます。

なお、任那地域には日本の特徴的な古墳の形態である、前方後円墳を見る事が出来ます。慶尚南道の松鶴洞古墳や全羅南道の長鼓山古墳がそれです。いずれも五世紀頃に築造されたと考えられる古墳で、任那地域と思われる半島南部の海岸近く立地しています。任那地域が「倭」の覇権に依存していた以上、日本兵の常駐はありえるわけです。おそらくは、「倭」の覇権に関わった日本人(混血の可能性もある)の墳墓ではないでしょうか。

   この項の記述は、熊谷公男氏の「日本の歴史03・大王から天皇へ」(講談社)を結構参考にしております。

富の再分配システムとしての朝廷

ここで、大和政権によって地方支配を正当化していった「杖刀人首(埼玉・稲荷山古墳)」や「典曹人(熊本・江田船山古墳)」が、その正当性を文言にして刻んだ鉄剣を保持していたことを思い出すことができます。この他にも、「王賜」の銘がある千葉県市原市稲荷台古墳から出土した鉄剣や、大和朝廷の「臣」の姓である「額田部」の銘がある島根県松江市岡田山古墳から出土した鉄剣など、大和政権との関連をしめす文言が鉄剣に記されています。鉄の剣という物体が単なる兵器ではなく、大和政権の地方支配の象徴として表されていたことに、私たちは注目すべきです。

半島南部の覇権の見返りに、大和朝廷は任那地域から鉄を得ることができます。おそらくは、鉄の他にもより高度な文化の製品を得ることがあったことでしょう。その鉄等を地方に分配(あるいは下賜)することによって、地方の首長は地方支配を正当化します。鉄は兵器や農耕具となり、地方に富をもたらすことができます。その見返りとして地方は大和政権に服属し、大和へ出仕し、時には半島南部へ兵士として動員されたことでしょう。その兵士を以って、大和政権は半島南部の覇権を維持します。このような富の再分配と軍事力の集中のシステムがあったのではないか、このように想起することができます。

つまり、地方から見れば、鉄こそは大和政権であると。鉄というメタファーこそ大和政権のシステムであると。兵器や農耕具となって地方に富をもたらす鉄を「土産」として地方に導入する権力こそ、大和政権の地方支配であると。

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筑紫の磐井~「磐井の乱」の時代(六世紀)

更に、「磐井の乱」直前に至って時代がどのように変化したのかを探り、「磐井の乱」の要因に迫ります。
六世紀における半島南部の政治状況の変化

半島南部の政治状況は、「磐井の乱」直前に至って急激に変化します。百済・新羅それぞれの関係記事から、政治状況の変化を示します。
百済の滅亡と再興、南進

「三国史記」の「百済本紀」によれば、蓋鹵王二十一年<475>に百済は高句麗の攻撃を受け、一度滅亡します。しかし、処刑された王の遺族や遺臣によって王都を漢城(現ソウル)から熊津(忠清南道)に移し、百済は再興を遂げます。その時に大和政権の助力があったことが、書紀の雄略紀二十一年条からわかります。結果的に、百済は北辺の領土を高句麗に略奪され、国の重心が南方へと移動したことになります。

百済の南遷は、さらに南の任那地域を当然ながら圧迫するはずですが、「百済本紀」にはそのような記事は見当たりません。その代わりに、書紀には百済が任那地域を侵食していったと考えられる記事がいくつかあります。

   顕宗紀三年条<487?>:紀生磐宿禰、帯山城・爾林(いずれも任那地域)を巡って百済と戦い、敗北して任那より帰還。百済、任那の者を殺害(、占領?)。
   継体紀三年条<509?>:任那にいる百済の逃亡農民を百済に強制送還。
   継体紀六年十二月条<512?>:百済、大和政権への調貢時に、任那の上下??(たり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)四県を請い、割譲される。
   継体紀七年六月条<513?>:任那地域の「伴跛(はへ)国」に己?(こもん)を略奪されたことと百済が大和政権に主張。
   継体紀七年十一月条<513?>:大和政権が己?・帯沙を百済に付与。
   継体紀九年四月条<515?>:大和政権の物部連某が伴跛国と交戦するも、逃亡。
   継体紀十年五月条<516?>:百済が己?にて物部連某をねぎらう。

磐井の乱」直前には、任那地域の首長の一つである伴跛国と大和政権が交戦に至っています。おそらくは、任那地域の首長達と大和政権の関係がこじれてきた可能性があります。それと前後して、大和政権は任那地域の一部を百済に割譲していきます。百済が軍事活動で任那地域の一部を占領し、大和政権がそれを追認したのかもしれません。少なくとも、百済に任那地域の一部の支配を許容したことは確かであります。このような情勢の変動は、半島南部から大和政権にもたらされる富にも影響したと考えるべきでしょう。
新羅による任那地域への進出

大和政権・百済・任那地域の関係が動揺する頃、任那地域の北東にある新羅も、独自に任那地域への接近をはかっていました。これに関する「三国史記」の「新羅本紀」の記事は、次のとおりです。

   [火+召]知麻立干三年三月条<481>:高句麗と靺鞨が新羅に侵攻、百済・加耶との連合軍によって撃破。
   [火+召]知麻立干十八年二月条<496>:加耶国から尾の長い白雉が送られる。
   法興王九年三月条<522>:加耶国王、新羅に花嫁を請い、与えられる。
   法興王十一年九月条<524>:新羅は南部国境地帯の勢力を拡大、加耶国王と会盟。
   法興王十九年条<532>:金官国王、王妃・王子とともに来降。

磐井の乱」勃発が西暦527年と考えられますので、最後の記事は「磐井の乱」の後となるものとして、「磐井の乱」直前に新羅と任那地域内の加耶との接近があったことが理解できます。書紀の記述と合致させるならば、新羅と加耶の接近は、大和政権と任那地域との関係悪化・百済による任那地域の侵食の直後であることになります。おそらくは、半島南部における情勢の変化こそが、新羅と加耶の接近という事態に走らせたことは想像に難くありません。

そして、大和政権にとって新羅と加耶の接近は、「鉄」の供給地である任那地域の分断と見なされたことでしょう。おそらくは、任那地域を弱体化した百済に預けることで、「鉄」の供給を維持したかったのではないでしょうか。しかし、横から新羅が任那地域の一部に手を掛けようとします。それは即ち、「鉄」の供給のみならず、「鉄」の供給によって維持していた大和政権の地域支配の危機でもあります。
六世紀における政治状況の変化と磐井

ここで、ようやく視点を半島南部から日本に移し、大和政権と磐井をめぐる政治状況について語ります。
磐井の乱」の記述と政治状況

まず、書紀が記述した「磐井の乱」の発端となった磐井の行動について、再確認します。いずれも、継体紀二十一年の六月条です。

   近江毛野臣率いる任那派遣軍の妨害行為
   半島南部からの「朝貢」船の略奪
   豊肥二国の占拠

磐井による「朝貢」船略奪の意味

最も重視すべきは、磐井が半島南部からの「朝貢」船を略奪したことです。「朝貢」という言葉には、本来は貢物以上の価値を意味する政治的象徴の取引という行為の方が強調されます。しかし、前頁で示したとおり、半島南部からの「朝貢」は大和政権の地方支配を維持するシステムの一環であります。半島南部から「鉄」が「朝貢」という名目で大和政権に供給され、大和政権の地方支配の一環として地方に供給されていきます。であれば、この「朝貢」は大和政権の生命線とも言えます。

大和政権からもたらされるはずの「鉄」を磐井が横取りすることによって、大和政権による地方支配維持システムは停止を被ることになります。それと同時に、システム上の大和政権の地位を磐井が簒奪することが可能となります。それは、半島南部情勢の流動化で「鉄」の供給がただでさえ不安定化しつつあった大和政権にとって極めて致命的で、大和政権による地方支配を崩壊の危機に至らしめかねません。一方の磐井にすれば、大和政権に成り代わる新たな支配者への現実的な方策となります。

そして、豊肥二国の占拠の意味も私達は理解することができます。大和政権の地方支配システムに成り代わり、豊肥二国を磐井が地方支配システムに再編したことを示します。豊肥占拠に軍事行動があったかどうかは不明です。少なくとも、大和政権による地方支配維持システムが豊肥二国では一時的に機能しなくなったことは確かです。それは、かねてより半島南部の政治情勢が流動化し、それが地方への「鉄」の供給量に影響したがゆえに、豊肥二国が動揺した結果かもしれません。
磐井による任那派遣軍妨害の意味

磐井が近江毛野臣率いる任那派遣軍を妨害したことは、さらに重要な事件です。書紀では、任那地域の南加羅(ありしひのから)・[口+碌-石]己呑(とくことん)がすでに新羅によって併呑されていたことが示されています。これは、「新羅本紀」の法興王十一年九月条の新羅南部国境地帯の勢力拡大記事と同期していると考えられます。半島南部の政治状況は、ついに大和政権と新羅との対立が鮮明化していたことが理解できます。

磐井が任那派遣軍を妨害した直接の原因として、書紀は新羅が密かに賄賂を磐井に与えたことを記述しています。結局磐井は敗者となるのですから、新羅からの賄賂という記述をそのまま信じることは危険です。しかし、新羅から磐井への何らかの働きかけがなかったとは言い切れません。おそらくは、賄賂のような下賎な取引ではなく、新羅・磐井いずれの利益となる取引の存在を想定すべきです。

これは私の推測ですが、新羅が占領した任那地域の「鉄」は、新羅を介して磐井に渡るような盟約があったかもしれません。それが書紀の記述する賄賂と解釈されたとも考えられます。そうであれば、[任那(百済)]->[大和政権]->[地方支配]というシステムに成り代わり、[任那(新羅)]->[筑紫磐井]->[豊肥支配]というシステムが構想されたことでしょう。それは、大和政権からの離脱すなわち「九州独立」を現実化ならしめるのに充分であるように思えます。

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筑紫の磐井~磐井という「登場人物」

ここまでの説明により、「磐井の乱」というものが単なる反乱でなく、大和政権による地方支配システムの崩壊の危機の表出であることが理解できました。ここでは、「磐井の乱」という事件の流れを語る前に、史料で理解し得る限りの筑紫の磐井の人物像について触れてみましょう。
「筑紫君」という氏族

まず、筑紫の磐井の姓である「筑紫君」について語ります。
「筑紫君」の勢力とその範囲

筑紫の磐井の墳墓とされる岩戸山古墳は、福岡県八女市にあります。この岩戸山古墳のある丘陵は東西に長く広がり、多くの古墳が存在します。岩戸山古墳同様に有名なのが、八女郡広川町にある「石人山古墳」です。直弧紋(○と×を組み合わせた文様)の模様が刻まれた家型石棺と、それを守護するが如く直立する「石人」が特徴的です。築造時期は岩戸山古墳より早く、筑紫の磐井の祖父の代の首長が被葬者と思われます。

筑紫の磐井が筑後国八女郡地域を主に支配していたことは、墳墓の場所からいえば間違いありません。また、継体紀二十二年十二月条には磐井の子息である葛子が「糟屋屯倉を献りて」という記事があり、この「糟屋屯倉」も勢力範囲内にあったことが理解できます。おそらくは、筑前国糟屋郡に比定するのが適当であると判断できます。これが正当であれば、「筑紫君」の支配範囲は筑前・筑後両地域に渡っていたと考えることができます。

ちなみに、糟屋郡内の多々良川の河口付近は、昔は箱崎神宮付近の砂洲によって囲まれた潟湖であります。古来から潟湖は港湾施設として利用することが多く、多々良川の河口付近も港湾施設としての役割を果たしていたのかもしれません。これに「糟屋屯倉」が隣接しているとすれば、これは単なる倉庫のみならず、重要な物流拠点として存在していたと推測ができます。もしかしたら、後世の博多が担うことになる重要な港湾をも、「筑紫君」が支配していたのかもしれません。そして、筑紫君も大和政権による朝鮮半島への覇権に協力していたという推測も可能となります。
「筑紫君」による実効支配能力

「釈日本紀五~筑後の国号」が引用する「筑後風土記逸文」の、「此両国之間山に峻狭の坂」も、筑紫君の重要な支配地点であると推測できます。現在の福岡県筑紫野市原田が、これに相当します。付近には筑紫神社があり、「祖甕依姫(みかよりひめ)」という「巫祝」の活動拠点と推測できます。ちなみに、この地点は筑前・筑後・肥前の三国界になります。おそらくは、肥君とともに呪詛的な能力によって「坂」という異界を調伏し、あるいは調伏の物語を根拠に、筑前・筑後の「筑紫君」と肥前の「肥君」による政治的分割支配を行ったと考えられます。

「肥」の由来は、書紀・景行天皇紀十八年五月条の記述に従えば、有明海に出没する「不知火」の「火」であります。また、肥前風土記の記述には、崇神天皇の命により熊本県益城郡の土蜘蛛(大和政権に服従しない人々か)を討伐した功績により、「肥君」の姓を賜った「健緒組」という人物が登場します。これら伝承は、肥君の地方支配を大和政権によって正当化されたと同時に、肥君が有明海沿岸地域~肥前・肥後両地域の支配圏を保持していた氏族であると推測できます。

筑紫君と肥君は、政治的呪術的に協力することで境界の設置を可能とする関係を築いていたことが理解できます。この肥君との協力関係を語る物語は、「磐井の乱」での「豊肥二国の占拠」という事態の真相を示唆してくれます。おそらくは、書紀がしるす武力による占拠という記述は誤解もしくは曲解であり、筑紫の磐井が決起した際には、少なくとも肥の国はこれに協力したものと思われます。それは、「磐井の乱」が大和政権によって極めて深刻な事態でもあります。
筑紫の磐井の人物像

筑紫君という氏族は、政治的かつ呪詛的に筑前・筑後を伝統的に支配していたことが理解できます。今度は、その地位を受け継いだ筑紫の磐井個人について語ります。
書紀がしるす筑紫の磐井の地位

   「今こそ使者たれ、昔は吾が伴(ともだち)として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき。安(いづくに)ぞ率爾(にはか)に使となりて、余をして[人+爾](い)が前に自伏はしめむ」

上記は、継体紀二十一年夏六月条がしるす、近江毛野臣に対する筑紫の磐井の台詞です。この記述からは、近江毛野臣と筑紫の磐井が「同じ釜の飯を食った仲」であったことを表しています。近江毛野臣は、その姓から推測すれば近江国(滋賀県)や上野国(群馬県)・下野国(栃木県)と関連がある氏族と推測することができます。本拠地が大きく異なる同士が、このような「伴(ともだち)」の関係になることができたという時代に、私たちは注目すべきでしょう。

異なる本拠地の首長同士が「伴(ともだち)」の関係になることができたのは、おそらくは半島への覇権に伴う活動における共同行動なのでしょう。なれば、両者は前述の地方支配システムの恩恵を享受できた点で、利益を共有していた同士ということになります。あるいは、埼玉稲荷山古墳被葬者や熊本江田船山古墳被葬者のように、大和政権の「大王」の近侍の衆として出仕していた可能性も捨てきれません。いずれにせよ、大和政権の地方に対する求心力の強さに起因することは間違いありません。

この書記の記述は、筑紫の磐井がすでに独立した九州の「王」であったとする一部の古代史ファンの期待を打ち砕いてくれます。これまで説明したように、九州はすでに大和政権の全支配地域の一部となっていました。その一部地域の地方支配を行う筑紫の磐井は、天皇の直参である「臣」と同格ということになり、それは即ち天皇の臣下の一人にすぎないことになります。
墳墓が語る筑紫の磐井像

前述の岩戸山古墳には「釈日本紀十三」の記述のとおり、「衙頭」と呼ばれる区画に石人・石馬が並べられております。そのなかで興味深いのは、裸で地に伏す偸人(ぬすびと)の像です。この盗人は猪を盗んだ咎で、裁きを受けている姿を表しています。盗人を裁く人物は見当たりませんが、おそらくは被葬者たる筑紫の磐井でしょう。この盗人の像は、裁きによって住民に安寧秩序をもたらす筑紫の磐井という物語を語っているのでしょう。この「衙頭」と呼ばれる区画は、筑紫の磐井の政治的な物語を語る劇の舞台で、語られる筑紫の磐井とは住民に安寧秩序をあたえることが可能な権力なのです。

しかし、その物語の劇の舞台である「衙頭」が設置してあるのは、前方後円墳という大和政権固有の葬祭様式の墳墓です。その「衙頭」の従属性は、語られるべき磐井の権力は大和政権に従属する範囲に限定されていると示されているように感じます。現実問題として、盗人を裁くが如き権力の発露は筑紫君の勢力範囲に限定されており、大和政権から見た磐井は天皇の臣下なのです。筑紫君の勢力範囲の外部との軋轢があった場合、その権力の発露は大和政権下で限定されたものになりかねません。

そのような事態を考慮すれば、この「衙頭」という舞台が示す権力の物語は空虚なものにしか感じられません。それを最も感じ取っていたのは、大和政権という外部の存在を知っていた筑紫の磐井本人ではないでしょうか。墳墓を造営した人々は筑紫の磐井の権力を言祝ぎ、石人によって劇の物語として語らしめます。しかし、その物語の空虚さを熟知していた筑紫の磐井には、ジレンマの原因でしかありません。もしかしたら、「磐井の乱」という進退極まる事態に追い込んでしまったのは、このジレンマゆえかもしれません。
「筑紫の磐井、決断す」

大和に出仕した筑紫の磐井という姿を想像するのは、実証主義精神に反する行動かもしれませんが、「登場人物」として語らしめるには心地よい誘惑です。その誘惑のままに「登場人物」としての筑紫の磐井を語らしめてみます。

代々筑紫君という名門の家に生まれ、首長の地位を継承する人物として生育した磐井です。その若い彼に、筑紫嶋を離れて遠く大和へ出仕するという出来事がありました。故郷を離れた大和盆地での宮廷出仕という経験は、筑紫嶋では得られない経験をしたことでしょう。筑紫君を超える権力として君臨する天皇という存在を実感したのも、この時が初めてでしょう。そして、磐井同様に出仕する他地方の首長の姿も目にすることができました。彼らとは友情を育むこともありましたし、時には若気の至りで喧嘩に及ぶ時もあったかもしれません。後に決定的な対立を引き起こす近江毛野臣も、その時の友人の一人だったでしょうか。

天皇への出仕という経験を積み重ね、筑紫嶋に戻った磐井は筑紫君の首長の地位を継承します。彼の地域内での治世は、住民に安寧秩序をもたらす裁きの力であったことでしょう。実際に、住民を困らせていた盗人を成敗したのかもしれません。それを目にした住人には、筑紫の磐井の裁きに従えば、平安な生活を送ることができると認識したことでしょう。後の「磐井の乱」で官軍に刃向かった兵士は、その筑紫の磐井の裁きの力を強く確信していたことと思われます。

しかし、時代は大和政権による地方支配システムの下り坂に差し掛かっていました。博多湾では、筑紫の磐井が大和政権による半島南部への覇権のために、相当な協力を行ったことでしょう。しかし、その見返りとしてもたらされる「鉄」などの魅惑的な物品は、半島南部の政治情勢の流動化によって先細り化していきます。政治情勢の流動化となれば、筑紫の磐井に強いられる負担の増加にも繋がります。その負担をめぐって、大和政権直下の兵士と筑紫住民との間で諍いが続いていたと想像するのは、決して不当ではありません。盟友である肥君からも、同様の不満を耳にしていたことでしょう。

続発する大和政権とのトラブルに悩む筑紫の磐井は、考えます。このまま大和政権による地方支配システムの末端に安住することで、果たして筑紫の住民への安寧秩序が維持できるのか。見返りの「鉄」は年々減少するのにもかかわらず、負担は増大、あちこちで天皇直参の兵士とトラブルが続いている。くすぶり始めている不満が、大和政権との協力関係を保持している我が筑紫君に向けられる可能性もある。なにしろ、自分は大和への出仕経験を持ち、墳墓の祭祀様式まで大和政権の様式なのだから。

そんな時でしょうか、新羅からの内密の使者が筑紫に来訪したのは。使者の口を通して、大和政権に代わって「鉄」などの物品を貢ぐという新羅王の言葉が伝えられます。その代償として、大和政権からの離脱を要望します。使者がもたらす新羅王の甘言は、筑紫の磐井にとって魅惑的だったことでしょう。それは、筑紫嶋の危機を自らの手で解決する目途が立ったという確信に直結します。そして、彼はいよいよ決断を行います。

しかし、その決断は、新たな悲劇の始まりでもありました。

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筑紫の磐井~「磐井の乱」勃発から終結へ

ここでようやく、「磐井の乱」という事件の流れを語ることができます。しかし、その結末を知っている私たちにとっては、悲劇的な語りしかできません。
磐井の乱」の経過
筑紫の磐井の決断

書紀が記述した「磐井の乱」の発端となった磐井の行動について、再提示します。いずれも、継体紀二十一年の六月条です。それらの行動の意味については、以前に語った通りです。

   近江毛野臣率いる任那派遣軍の妨害行為
   半島南部からの「朝貢」船の略奪
   豊肥二国の占拠

いずれも、大和政権による地域支配システムからの離脱を目論んだ行動で、これにより筑紫の磐井の意志は公のものとなりました。決断の意志の指向が「九州独立」であることは、間違いありません。

その決断と行動は、もはや後戻りはできない危険な「賭け」ではあります。しかし、新羅と「鉄」がある限りにおいて、勝算があったのは筑紫の磐井の方であると確信できます。そして、盟友たる肥君との連携も、その確信を一層強固にしたことでしょう。豊の国の首長である「豊国直」については、筑紫君や肥君との関係を示す記録が見当たりませんので、筑紫の磐井とどれほどの連携があったかはわかりません。しかし、書紀の記述者に「占拠」と言わしめたからには、相当の連携を想像することは不当ではありません。おそらくは、筑紫君や肥君と同様の利害の一致を見たのではないでしょうか。
大和政権の決断

磐井の乱」によって、大和政権による地域支配システムに刃が向けられたことは、大和政権にこの事態の深刻さを痛感せしめることになります。それは、「磐井の乱」勃発の二ヶ月後の継体天皇二十一年八月に、すぐさま討伐の詔が出されたところに顕れています。半島南部からもたらされる「鉄」などの物品が入手できなくなれば、それは他地域に対する地域支配システムの崩壊にも直結します。ひいては、大和政権そのものの存亡にも関わりかねません。

この危機を痛切に感じていたのが、当時「大連」という地位に就いていた、大伴金村です。仁徳天皇の直系男子が絶えたという事態に対し、応神天皇五世王の男大迹王を仁賢天皇娘の婿に据えて「継体天皇」として擁立して、大伴金村は危機を乗り越えました。そして、新たな危機が九州から到来するにあたり、迅速に鎮圧軍を動員することで、大伴金村はこの危機を乗り越えようとします。このような危機に対峙できる人物が大和政権に存在したことについて、私たちは注目すべきです。

この鎮圧軍の「大将軍」となったのが、金村同様に「大連」の地位にある物部麁鹿火です。天皇の直参の姓が「臣」であるのに対し、大和政権の職業軍人の姓は「連」になります。「使者」であった近江毛野臣という「臣」ではなく、物部麁鹿火という職業軍人の「連」が派遣されたことは、鎮圧への強大な意志の現われと見るべきでしょう。

   なお、書紀の記述では、その次の記述が継体天皇二十二年十一月となっております。私は、この記述は継体天皇二十一年十一月の誤りであると考えております。理由として、討伐の勅から御井郡での戦いまで時間が長すぎるというのもあります。それ以上に、継体天皇二十一年に修正しても前後の記述に問題がなく、むしろ記述の流れからすればすっきりするからです。

決戦・筑後平野

継体紀の二十二(二十一?)年十一月条には、磐井の軍勢と大和政権の鎮圧軍が御井郡にて交戦に至ったことが記述されています。御井郡は、現在の福岡県三井郡に相当し、久留米市の北東側に広がる筑後平野の南部に位置します。中央には筑後川が東から西へと大きな流れを作っておりますので、両軍は筑後川をはさんで対峙していたのかもしれません。

注目すべきは、この十一月の時点ですでに三井郡北部が大和政権の鎮圧軍によって占領されていることです。鎮圧軍は近畿から船団によって輸送されたと思われますので、上陸地点が必要となります。その上陸地点が、のちに豊前国府が設置された豊津付近であれば、筑豊地方を横切り、最短の陸路で三井郡に達することができます。もしかしたら、筑紫の磐井に協力していたはずの豊前地域の首長が、大和政権に篭絡されたのかもれません。そして、筑紫の磐井の本拠地へと悠々と進軍することができたと考えられます。

そして、この時点で新羅が何らかの助力をしたという記述はありません。三井郡北部が大和政権の鎮圧軍によって占領された時点で、おそらくは博多湾も鎮圧軍が掌握したものと思われます。ここに至っては、新羅の勢力も九州上陸はできません。それ以前に、新羅が筑紫の磐井を助力する意思を持っていたかどうかも不明で、本当は九州に内乱を引き起こすことだけが目的だったかもしれません。少なくとも、北部九州以外に筑紫の磐井を助ける勢力は存在しません。九州の軍勢のみで、鎮圧軍と戦うほかはなかったのです。
筑紫の磐井の最期
死闘、そして敗北

九州の軍勢は、必死で大和政権の軍と戦いました。それは、双方の存亡がこの死闘にかかっていたからです。大和政権が九州から駆逐されれば、同様の反乱が他の地方にも続発し、大和政権は瓦解することでしょう。一方の九州勢には、退路がありません。敗北すれば、より過酷な大和政権による収奪が待ち受けています。

しかし、歴史の記述は死闘の末の残酷な結末をしるしています。遂に筑紫の磐井は捕縛され、斬殺されたと、書紀の記述には残されています。同様の地方反乱を抑制するためにも、「犯罪者」である筑紫の磐井は大和政権によって斬殺されねばなりませんでした。

前にも触れましたが、継体紀の二十二(二十一?)年十二月条には、筑紫の磐井の息子である葛子が、糟屋屯倉を大和政権に献上して死罪を逃れたとしるされています。この時点で、筑前国は筑紫君の勢力範囲から離脱したのでしょう。筑後国でも、筑紫君の勢力が大きく削減されたことは想像にかたくありません。
物語として語られる「筑紫の磐井」

筑紫の磐井は、死にました。しかし、筑後の住民が語る物語のなかでは生き続けていたことが、「釈日本紀十三」の記述で理解できます。記載された古老が語る筑紫の磐井は、鎮圧軍には斬殺されずに豊前の山中へと逃げることができたとあります。もちろん、書紀と同様の大和政権側による記述ですので、筑紫の磐井の「敵前逃亡」については割り引いて読むべきでしょう。記述には険しい山の深い谷で命を落としたとありますが、より遠い場所へと落ち延びていったと語られてもおかしくはありません。

この筑紫の磐井の伝承は、のちの源義経の逃亡の物語を髣髴させます。その物語を語らしめたのは、義経同様の「判官びいき」の感情ゆえでしょうか、あるいは生前に筑紫の磐井が布いた「善政」の物語が忘れられないためでしょうか。そして、大和政権軍は感情のままに石人を破壊したがために、この地方に疫病をもたらしてしまった悪役として語られています。おそらくは、声にならない占領軍への怒りが、物語の基底に込められていると考えられます。

あるいは、筑前・筑後の悪霊を封じ込めた呪術力を持つ筑紫君という印象が残っていたため、その呪術を占領軍が破ったことが疫病の原因だと語らしめたのかもしれません。

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筑紫の磐井~ポスト「磐井の乱」の時代

磐井の乱」は終結しました。その後の日本がどのように変質していったのか、記述していきます。
北部九州以外の反乱

磐井の乱」の原因を大和政権による地方支配システムの崩壊に求めたことは、前述したとおりです。そうであれば、北部九州のみならず他の地域でも反乱が発生した可能性もあります。そして、書紀の記述を分析すれば、その可能性を正当化し得る「事件」を推定することができます。
武蔵における抗争

磐井の乱」勃発よりおよそ八年後、安閑天皇元年(西暦534年か)における書紀の記述に、武蔵国における首長同士による抗争の発生をみることができます。抗争の当事者は「武蔵国造笠原直使主」と「同族小杵」で、武蔵の「国造」の地位をめぐって「相争」ったとあります。このとき、上野国の地方支配の首長と推定できる「上毛野君小熊」なる人物が、小杵の陣営に支援を行います。一方、使主は大和政権の支援を受けます。上毛野君小熊の支援により小杵は、使主の謀殺を試みます。しかし、使主は東国から「京」へ逃亡し、大和政権の助力によって逆に小杵を誅殺することに成功しました。

書紀の語りに従えば、「性阻有逆・心高無順」な小杵に殺されそうになった使主が、大和政権の「臨断」によって保護されたことになります。しかし、見方を変えれば、笠原直一族における地位の抗争を東国内部で解決することに対し、大和政権がこれを許容しなかったという解釈も可能です。少なくとも、上毛野君小熊による東国内部での「臨断」は否定されたのです。さらに想像をたくましくすれば、笠原直小杵や上毛野君小熊が筑紫の磐井と同じ立場にあったのではと考えることもできます。つまり、実際に発生したのは大和政権に対する東国の「反乱」ではなかったのではと。

この事件解決により、使主は「武蔵国造」の地位に就くことができ、その謝礼として、「横渟(よこぬ:埼玉県比企郡?)」・「橘花(たちばな:川崎市)」・「多氷(おほひ、『氷』を『末』の誤記とする説あり)」・「倉樔(くらす、『樔』を『樹』の誤記とする説あり)」の屯倉を設置、大和政権に奉ります。この筋立てが、「磐井の乱」の結末と類似していることに私たちは注目すべきです。「磐井の乱」でも、筑紫君葛子は糟屋屯倉を献上しているのです。東国の武蔵国においても、九州の「磐井の乱」の如き反乱を想像することを禁じ得ません。
上総における「事件」

同様に、安閑天皇元年四月の書紀の記事では、房総半島の地方支配を行っていた「伊甚直稚子」が重い「科」によって「伊甚屯倉」を献上したとの記述があります。「伊甚」とは、現在の千葉県夷隅郡の語源と考えられます。同じ記事には、この屯倉付近の郡を分割して上総国を設置したとあります。「科」の内容は、真珠の上納ができなかった伊甚直稚子が膳臣大麻呂に詰問された際に、逃亡して後宮に闖入して春日皇后の御不興を買ってしまったことです。

物語自体は、上総国の由来を語るユーモラスな筋立てになってはおります。しかし、この由来譚の原型とは明らかに地方支配を行う首長への締め付けであり、粛清劇でもあります。特に、筑紫君葛子同様に屯倉を献上したことを考慮すれば、地方支配の方法の変質が東国においても発生したと推定すべきでしょう。その原因に、大和政権による地方支配システムの崩壊が東国にも及んでいたと判断することは、決して不当ではありません。その犠牲者の名前として、「闖入者」の汚名で語られた「伊甚直稚子」が存在するのです。

この筋立てによる屯倉設置の記事は、「廬城部連枳[草冠+呂]喩(きこゆ)」が安芸国の「廬城部屯倉」を献上したとする、安閑天皇元年閏十二月条にも記述されています。こちらは、廬城部連の娘の幡媛が物部大連尾輿の「瓔珞(くびたま)」を盗んで、春日皇后に献上したという罪によるものです。やはり、こちらも上総における「事件」と同質であると見なすべきであり、この時期にこのような粛清劇が集中したことを想像することができます。
屯倉設置記事が語る地方支配の変質
設置された屯倉

書紀における安閑天皇の御世の記事は、ほとんどが屯倉設置の記事で占められています。特に、安閑天皇二年五月条には、下記の通り全国規模による屯倉設置の記事が記載されています。

   継体天皇二十二年条
       筑紫国:1個所<糟屋>
   安閑天皇元年条
       武蔵国:4個所<横渟・橘花・多氷・倉樔>
       上総国:1個所<伊甚>
       安芸国:1個所<廬城部>
   安閑天皇二年五月条
       筑紫国:2個所<穂波・鎌>
       豊 国:5個所<みさき・桑原・肝等(かと)・大抜・我鹿(あか)>
       火 国:1個所<春日部>
       播磨国:2個所<越部・牛鹿>
       備後国:8個所<後城・多禰・来履・葉稚・河音・婀娜胆殖・婀娜胆年部>
       阿波国:3個所<春日部>
       紀 国:2個所<経湍(ふせ)・河辺>
       丹波国:1個所<蘇斯岐(そしき)>
       近江国:1個所<葦浦>
       尾張国:2個所<間敷・入鹿>
       上毛野国:1個所<緑野>
       駿河国:1個所<稚贄>

残念ながら、安閑天皇二年五月条における屯倉設置記事には、「磐井の乱」や武蔵での「抗争」の如き「事件」は記載されておりません。当然ながら、屯倉設置という大和政権からの要求に対して、その地方の首長が喜んで屯倉を供出したとは考えられません。しかし、筑紫や武蔵にて誅殺された謀叛人の末路については、その首長も情報を得ているはずです。そして、その騒乱に対する大和政権の態度がいかに本気であったかも。あるいは、地方の首長が地方支配システムに依存し過ぎたために、その弱体化と運命を共にしたのでしょうか。結局は、いずれの地方の首長達は、不承ながらも屯倉の供出に従ったと推察することができます。

大和政権による全国屯倉設置の事業は、実際は何年かの期間に実施されたと見るべきです。書紀における屯倉の列挙という記述は、むしろ、この時代における大和政権の並々ならぬ強大な意志が反映されている読み取るべきでしょう。その意志の裏には、従来の地方支配システムの崩壊による危機感が顕れていると見るべきです。
屯倉が示す支配体制の変革

安閑天皇二年九月三日条には、桜井田部連・県犬養連・難波吉士に「屯倉の税を主掌らし」める詔の記事が記載されています。おそらくは、上記の通り列挙した全国各地の屯倉に向けて、徴税を行うべく記載の人物を大和政権内部から派遣したものと思われます。あるいは、宣化天皇元年五月条にある通り、尾張地方の首長らしき尾張連なる人物が、蘇我大臣稲目宿禰の命により尾張屯倉の穀(もみ)を運ぶ役目を負ったように、大和政権より何らかの官職を任命された者もおります。こちらの方は、地方の首長が大和政権の官職に組み込まれ始めたと解釈すべきでしょう。

継体天皇以前における地方の支配は、筑紫の磐井のような地方の首長の手に委ねられていました。大和政権との紐帯が、すでに論じた通りの五世紀における地方支配システムであり、地方首長の大和への出仕経験でした。当然、徴税のような政治行為は従来地方首長が保持していたはずです。しかし、ここで記述されている内容は、徴税という政治行為が大和政権が任命した官人に委ねられたことを示しています。その政治行為を実施する拠点が屯倉であり、集中する屯倉設置の記事は大和政権による地方支配の変革が実施されたことを伝えています。

前述の五世紀における地方支配システムの崩壊は、地方支配を行った首長層をも弱体化せしめたのでしょうか、紛争も大和政権にすっかり鎮圧されました。そして、その後に出現したのが、屯倉の設置による大和政権の地方への直接支配です。それは、岩戸山古墳の石人が裁判劇を通して語ったような磐井の地方支配政治を否定し、大和政権が任命した官人に地方権力を集中せしめる体制への変革です。この変革は、強大な中央政府による「国家」の誕生を意味すると同時に、磐井のような地方首長の「黄昏」でもありました。であれば、あの「磐井の乱」という「事件」は、「黄昏」の中に一瞬だけ煌いた「閃光」だったのでしょうか。
そして九州は、半島南部は・・・
那津官家の成立

安閑天皇が二年目で崩御し、その同母弟である宣化天皇が即位します。その年(西暦536年か)の五月条の書紀の記述にて、那津官家の成立を示しています。那津官家の設置理由として、筑紫・肥・豊の三国の屯倉が遠く運搬に不便な場所にあり、穀物を一箇所にまとめて貯蔵する必要があることを挙げています。実際に、福岡市博多区の比恵遺跡にて大型倉庫群の遺構が発見されております。那津官家がこの福岡市博多区に実在していたことは、間違いありません。

書紀の記述における那津官家設置の目的は、非常の事態に備えて民の命を守るためとあります。そして、翌年十月条には任那・百済救出のために大伴磐・狭手彦の兄弟が筑紫へ派遣されたあたり、軍事行動のための拠点として設置されたことも考えられます。このとき、磐が筑紫に残留して「政を執」ったとあることから、那津官家が九州における地方支配の拠点であると判断することが妥当でしょう。

なお、後の七世紀には九州に大宰府政庁が設置されますが、その機能はすでに那津官家として六世紀の時点から存在していたのです。後の大宰府政庁による九州の政治体制は、「磐井の乱」を契機として始まったと解釈しても間違いではありません。
任那滅亡と百済

そして、九州の海の向こうの朝鮮半島南部においては、この時期に任那が滅亡していたものと考えられます。三国史記新羅本紀法興王十九年条には、金官国王が王妃・王子とともに新羅へ来降したことを伝えております。一方、書紀の欽明天皇紀元年(西暦540年か)九月条には、大伴大連金村が「任那を滅ぼした」と諸臣に誹られたことを理由に隠居したという記事があります。また、二年三月条には百済王が「日本の天皇が任那復建の詔を出した」と発言する記事を載せております。おそらくは、この時点ですでに任那地域は殆どが百済や新羅に併呑させられたのでしょう。

かつて、地方支配システムの源泉であった「鉄」等の物資を供給した、任那は消失しました。その役割を継続したのは、大和政権の助力で任那の一部を併呑することができた百済かもしれません。しかし、百済は高句麗や新羅からの侵攻を受け、国力を疲弊させていきます。「鉄」等の物資の安定供給どころか、軍事物資も大和政権の軍事力も必要な状況に追い込まれたのです。そのような緊迫した状況下で、欽明天皇紀十三年(西暦552年)十月条にて語られたのが、百済からの仏教公伝の記事です。

百済がもたらした仏教は、日本を仏教の国へと変貌してさせていくことになります。そして、後の時代においては、仏教寺院が地方支配の末端に付随しながら、全国各地へと拡散していきます。皮肉なことに、その時代には任那はおろか、高句麗・百済という国すらも地上から消失していたのです。

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筑紫の磐井~結び
結び

磐井の乱」とは何であったのかを問うにあたり、継体~欽明天皇の時代の前後の流れを追跡しました。そして、「磐井の乱」という事件は、大和政権における地方支配が変質したこの時代において、象徴的な出来事であることが理解できました。

余談ですが、稲荷山古墳出土鉄剣の象嵌銘が発見される前までは、日本の王権は「継体王朝」による国家統一によって成立したという言説が支配的でした。また、書紀の記述についても同様で。「継体・欽明王朝」による「捏造」という説が強い影響力を保持していました。どうやら「継体・欽明王朝」なるものは、良い意味でも悪い意味でも日本古代史研究において魅惑的な存在であることは間違いありません。

その理由を考えれば、記紀の語りに従った限りにおいても、やはり継体~欽明天皇の時代が大和政権における大きな変革の時期として認識できるからでしょう。地方の実効支配を行って中央に君臨する大和政権の政体は、この時代より始まったと解読することができます。その強大なる中央政権の出現の語りが、「継体王朝」という物語を生み出したものと思われます。それが、書紀の「継体・欽明王朝」による「捏造」説に繋がったのは、何とも皮肉なことではあります。

継体~欽明天皇の時期が歴史の分岐点であるとするならば、そこに至るまでの道のりは下り坂であり、その向こう側には上り坂があります。これまで私は、五世紀の古代日本は上りの頂点で、六世紀に入って古代日本は急激な下り坂に差し掛かったという考えに「賭け」ていました。この「磐井の乱」における私の考察は、その私の「賭け」を正当化することに成功したと密かに確信しています。さらなる私の無謀な「賭け」を白状すれば、確実性の高い史料が欠如したいわゆる「謎の四世紀」こそ、実は古代日本の上り坂の時代であったとも考えています。

ただ、「筑紫の磐井」そのものの記述については、語り尽くせていない事項がまだまだ存在します。特に、北部九州の古墳を特徴付けする「装飾古墳」や「石人石馬」に付いては、その重要性を認識しつつも本稿の筋立ての中に盛り込むことができませんでした。また、北部九州における古代史の流れを追求するならば、「邪馬台国」の時代の「クニ」との連続性を考慮する必要がありますが、こちらにも言及はしていません。今後、何らかの「補説」という形式で、これらに言及できればと考えております。
参考文献(順不同)

   倉野憲司校注「古事記」岩波文庫
   坂本太郎他校注「日本書紀」岩波文庫
   佐伯有清編訳「三国史記倭人伝」岩波文庫
   井上秀雄訳注「三国史記」東洋文庫・平凡社
   吉野裕訳「風土記」東洋文庫・平凡社
   吉村武彦編「古代を考える~継体・欽明朝と仏教伝来」吉川弘文館
   小田富士雄編「古代を考える~磐井の乱」吉川弘文館
   森浩一編「日本の古代5~前方後円墳の世紀」中央公論新社
   岸俊男編「日本の古代6~王権をめぐる戦い」中央公論新社
   熊谷公男「日本の歴史 第03巻~大王から天皇へ」講談社
   阿部猛他編「日本古代史研究事典」東京堂出版
   武田幸男編「新版世界各国史~朝鮮史」山川出版社
   狩野久「部民制・国造制」(「岩波講座 日本通史 第2巻」岩波書店)

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筑紫の磐井~文献集

ここでは、「筑紫の磐井」に関する古文書を提示します。
古事記 (岩波文庫「古事記」より)
(継体天皇)

この御世に、竺紫(ちくし)の石井(いわい)、天皇の命に従はずして、多く禮なかりき。故、物部荒甲(もののべのあらかひ)の大連、大伴の金村の連二人を遣はして、石井を殺したまひき。
日本書紀 (岩波文庫「日本書紀」より)
巻第十七 男大迹天皇(おほどのすめらみこと) 継体天皇

二十一年の夏六月の壬辰の朔甲午に、近江毛野臣(あふみのけなのおみ)、衆六万を率て、任那に往きて、新羅に破られし南加羅(ありしひのから)・[口+碌-石]己呑(とくことん)を為復(かへ)し興建てて、任那に合せむとす。是に、筑紫国造(ちくしのくにのみやつこ)磐井、陰(ひそか)に叛逆くことを謨(はか)りて、猶預(うらもひ)して年を経。事の成り難きことを恐りて、恒に間隙を伺ふ。新羅、是を知りて、密に貨賂(まひなひ)を磐井が所に行りて、勧むらく、近江毛野臣の軍を防遏(た)へよと。是に、磐井、火(ひのくに)・豊(とよのくに)二つの国に掩(おそ)ひ拠りて、使修職(つかへまつ)らず。外は海路を邀へて、高麗・百済・新羅・任那等の国の年に、職(みつきもの)貢(たてまつ)る船を誘(わかつ)り致し、内は任那に遣せる毛野臣の軍を遮りて、乱語(なめりごと)し揚言(ことあげ)して曰はく、「今こそ使者たれ、昔は吾が伴(ともだち)として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき。安(いづくに)ぞ率爾(にはか)に使となりて、余をして[人+爾](い)が前に自伏はしめむ」といひて、遂に戦ひて受けず。驕りて自ら矜(たか)ぶ。是を以て、毛野臣、乃(すなは)ち防遏(た)へられて、中途にして淹(さはり)滞りてあり。天皇、大伴大連金村・物部大連麁鹿火(あらかひ)・許勢大臣男人(をひと)等に詔して曰はく、「筑紫の磐井反き掩ひて、西の戎(ひな)の地を有つ。今誰か将(いくさのきみ)たるべき者」とのたまふ。大伴大連等僉(みな)曰さく、「正(たひら)に直しく仁(めぐ)み勇みて兵事に通(こころしら)へるは、今麁鹿火が右に出づるひと無し」とまうす。天皇曰はく、「可」とのたまふ。

秋八月の辛卯の朔に、詔して曰はく、「咨(あ)、大連、惟[玄+玄](こ)の磐井率はず。汝徂(いましゆ)きて征(う)て」とのたまふ。物部麁鹿火大連、再拝みて言さく、「嗟(あ)、夫れ磐井は西の戎の[女+奸](かだましき)猾(やつこ)なり。川の阻(さが)しきことを負(たの)みて庭(つかへまつ)らず。山の峻(たか)きに憑(よ)りて乱を称(あ)ぐ。徳(いきほひ)を敗りて道に反く。侮り[女+曼](おご)りて自ら賢しとおもへり。在昔道臣より、爰(ここ)に室屋に及(いた)るまでに、帝を助(まも)りて罰つ。民を塗炭に拯ふこと、彼も此も一時なり。唯天の賛くる所は、臣が恒に重みする所なり。能く恭(つつし)み伐たざらむや」とまうす。詔して曰はく、「良(すぐれたる)将の軍(いくさだち)すること、恩を施して恵(うつくしび)を推し、己を恕(おもひはか)りて人を治む。攻むること河の決くるが如し。戦ふこと風の発つが如し」とのたまふ。重(また)詔して曰はく、「大将(おほきいくさのきみ)は民の司命なり。社稷(くにいへ)の存亡(ほろびほろびざらむこと)、是に在り。[日+助](つと)めよ。恭みて天罰(あまつつみ)を行へ」とのたまふ。天皇、親(みづか)ら斧鉞を操りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕制(かと)らむ。筑紫より西をば汝(いまし)制れ。専賞罰(たくめたまひものつみ)を行へ。頻に奏すことに勿煩ひそ」とのたまふ。

二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子に、大将軍物部大連麁鹿火、親ら賊の帥(ひとごのかみ)磐井と、筑紫の御井郡に交戦ふ。旗鼓相望み、埃塵相接(つ)げり。機を両つの陣(いくさ)の間に決めて、万死(みをす)つる地を避らず。遂に磐井を斬りて、果して疆場(さかひ)を定む。

十二月に、筑紫君葛子、父のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられむことを恐りて、糟屋屯倉を献(たてまつ)りて、死罪贖(あが)はむことを求す。
筑後風土記逸文 (平凡社「風土記」より)
筑後の国号~「釈日本紀五」

公望が考えるところによると、筑紫の国の風土記にいう、-筑後の国は、もとは筑前の国と合わせて一つの国であった。昔、この二つの国の間の山にけわしくて狭い坂があって、往来する人の馬のシタクラ(鞍の下に敷く蓆)が摩り尽されてしまった。それで土地の人はシタクラ尽しの坂といった。第三説によると、昔この堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)があった。往来の人は半数は助かり、半数は死んだ。その数は大変多かった。それで「人の命尽しの神」といった。その時、筑紫君と肥君らが占って、筑紫君らの祖甕依姫(みかよりひめ)を巫祝として祭らせた。それから以後は、路を行く人は神に害されなくなった。このことによって筑紫の神という。第四の説によると、その死者を葬るためにこの山の木を伐って棺を造った。このため山の木が尽きようとした。それで筑紫の国という。のち二つの国に分けて前(みちのくち)と後(みちのしり)としたのである。
筑紫の磐井~「釈日本紀十三」

筑後の国の風土記にいう、-上妻の県。県の南方二里に筑紫君磐井の墳墓がある。高さは七丈、周囲は六丈である。墓の区域は南と北とはそれぞれ十六丈、東と西とはそれぞれ四十丈である。石人と石盾と各六十枚が、交互に並んで列をつくって四方にめぐらされている。東北の隅にあたるところに一つ別になった区画があって、名づけて衙頭(がとう)という。《衙頭は政所(まつりごとどころ)である。》その中に一人の石人があって、ゆったりとして地上に立っている。名づけて解部(ときべ)という。その前に一人の人がいて、裸で地に伏している。名づけて偸人(ぬすびと)という。《生きていたとき猪を盗んだ。それで罪の決定を受けようとしている。》側に石猪が四頭いる。贓物(ぞうもつ)と名づける。《贓物とは盗んだ物のことである。》その処にまた石馬が三疋、石の殿が三間、石の倉が二間ある。古老はいい伝えていう、雄大迹の天皇(継体天皇)のみ世にあたって、筑紫君磐井は豪強・暴虐で皇化に従わない。生きている間に、前もってこの墓を造った。突如として官軍が動員され、これを襲おうとしたがその勢力に勝てそうもないことを知って単身、豊前の国に上膳の県に逃げて、南の山のけわしい峰の間で生命を終わった。そこで官軍は追い求めたがその跡をうしなった。兵士たちは憤慨やるかたなく、石人の手をうち折り、石馬の頭を打ちおとした。古老はいい伝えて、上妻の県に重病人が多いのはおそらくはそのせいではあるまいか、といっている。
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