歴史・人名

立川健二/山田広昭『現代言語論』(Historical)

書評(Historical)

立川健二/山田広昭『現代言語論』

立川健二/山田広昭『現代言語論』新曜社、1990年

これは、私に一つの転機を与えた本です。2002年の「独り言」を読み返してみると、その傾倒振りがうかがえます。
すでに、今では、「記号論」は、流行が去り、過去のものとなりつつあるようですが、少なくとも私に一定の影響を及ぼした1冊である、と言っていいと思います。
ただ、「衝撃」というほどではなかった。これは、率直な私の印象です。
ここで展開されているような議論、特に、「読む」ということをめぐる議論は、私にとってすでに知られていた。
それだけに、ここで展開される議論は、私には、とても受け入れ易く、事実、すんなりと私の中に入ってきた、と言えるでしょう。
ですから、今まで、うすうす感じていたような言語に関する理解を、はっきりとさせてくれた、という意味で、非常に気持ちよい気分にさせてくれました。
もちろん、これは、私の「育ってきた時代」が関係しているのかもしれませんね。
1980年代に日本の記号論は最盛期を迎えたようですが、私はその時代に様々な知識を形成してきた。
ですから、私にとって、これらの議論は、無意識のうちに溶け込んでいたのかもしれません。
さて、しかしながら、私は、立川健二が力説するような、言語論には、今や、必ずしも賛成できません。
立川健二は、ソシュールの〈通時態〉を、次のように説明します。
「〈共時態〉とは、「語る主体の意識」に問うことによって取りだされる言語(ラング)の静止状態のことで、これは恣意的価値のシステムを構成している。恣意的価値のシステムというのは、いいかえれば、否定的な関係体としての記号のシステム、表意的差異(=対立)のシステムということと別ではない。それにたいして、〈通時態〉とは、「語る主体の意識」を逃れ去り、主体の無意識のうちに、時間のなかで生起する出来事の場である。」
確かに、ソシュールは、〈通時態〉を、「歴史的研究」と区別しました。
ですから、立川の言うように、〈通時態〉とは、言語の変遷の、歴史ではなくメカニズムを研究する分野である、と見なすことは、正しいのです。
しかし、そのメカニズムを、立川のように無意識との関係で語ることは、デリダが差延という言葉で語ろうとしたのと同じように、柄谷行人の言葉を使えば、独我論なのであり、「聴く立場」を一歩も逃れない、神秘化なのです。
言語が変遷するのは、ソシュールが正しく指摘しているように、「交通の力」によるのであり、そこでは、「社会」(共同体ではなく)が問題となるのです。
もちろん、このような視点は、立川も意識しており、柄谷行人を参照しながら、自身も「誘惑する立場」を強調します。
しかし、立川がわざわざ「誘惑」をそのモデルに選んだように、彼にとって、言語の問題は常に一人の人間の内面の問題に向けられており、それは、誤りではないでしょうが、私はそこから「社会性」の問題へ進むことが難しいと言う意味で少々の不満を覚えます。
もっとも、こうした視点を少なくとも私に提供してくれたのは、この本であり、ここから柄谷行人への橋渡しとなったことは、少なくとも私に関する事実として記しておいたほうがいいのでしょう。