歴史・人名

第二章(Historical)

九州王朝説の意義(Historical)

第二章

古田は、『失われた九州王朝』の最後で、「豪族」という語について語っている。私の考えでは、この一節に、九州王朝説の最重要思想が記されている。長文だが引用しておこう。

   ある論者はいうかもしれない。”要するに中国側は九州の豪族をながらく相手にしてきた。それだけのことではないか”と。この論者の観念は、いわば不治の病に冒されている。”日本列島の中に王朝は天皇家だけであり、他はすべて豪族だ”―これこそ、『古事記』『日本書紀』という天皇家の「正史」を貫く絶対のイデオロギーだ。もちろん、古代史の中でも八世紀以降については、これは一応正当な表現であろう。つまり、『古事記』『日本書紀』の成立時点(八世紀初頭)においては、事実なのである。問題は、その時代の限定された事実を、それよりも過去の歴史全体にまでおしひろめようとした点にある。
   ”永遠の過去から、天皇家は日本列島中、唯一の王朝なのだ。もし、現象的に天皇家の存在が日本列島中の一地方の一豪族のように見えていた時代がつづいていたとしても、問題ではない。それは、「天皇家の全日本列島支配」という大義名分を、他の九十九パーセントの地域の人々がただ知らなかっただけにすぎないのだ”と。これが天皇家の弁証法だ。つまり、中国を中心とする東アジアの国際社会で、認められていようが、いまいが、あるいはまた、日本列島の中で具体的にどれだけの部分を統治していようが、いまいが、そんなことは一切問題ではない。要は”日本列島の主人公は、はじめから天皇家だった”という根本概念から、日本列島上のすべての歴史展開を見る。―これが『古事記』『日本書紀』を貫く根本”秘義”であった。
   この”秘義”に、二十世紀の現代までの、日本列島内のすべての学者・知識人・一般人の意識は連綿と犯されつづけてきたのである。戦争中に「八紘一宇」というスローガンがあった。”地球上の全領域は、天皇家の統治下の一つの家である”ということだ。”もちろん、現在の現象では、天皇家は日本列島と東アジアの一画を支配しているだけだ。だが、そんなことは問題ではない。他の九十五パーセントの地域は、いまだこの大義を知らないでいるだけなのだ。しかし、歴史の真相においては、永遠の過去から天皇家は全地球の統治者なのだ。そして、その大義は未来の歴史において確実に実現されてゆくであろう”―これが「八紘一宇」の弁証法であり、日本軍国主義独自の論理となっていた。当然、この論理は破綻した。少年時代のわたしたちにこの論理を吹きこもうとしていた人々も、今は口をつぐんでしまった。だが、今も見逃されている。この「八紘一宇」の論理は、先にあげた「天皇家の弁証法」の論理的発展にすぎなかったことを。
   この二つのちがいは、「天皇家の弁証法」という同一の観念を、過去に及ぼすか、それとも未来に及ぼすか、それだけだ。いわば、全くの一卵性双生児といっていい。すなわち、天皇家を中心とした宗教的政治理念をもって、信実の具体的な歴史をおおう―そういう肝心の一点を固く共有しているのである。「八紘一宇」主義は消え去った。人々はそう思って安心している。しかし、”それは九州の一豪族にすぎない”と、そういうとき、人々は気がつかない。みずから「八紘一宇」と同一の論理の夢の中に眠っていることを。この本の中の論証で、わたしの望んだこと、それはわたしたちの父祖の歴史をなお支配しつづけている、「過去に向けられた八紘一宇の論理」の亡霊との妥協なき戦いだ。
   もし、わたしが、かりに妥協を行ない、ここに発掘したものを、「一個の王朝の歴史ではなく、九州の豪族の歴史」だ、といいかえたとしよう。日本の中の歴史意識の”病んだ”多くの人々は、それで安心するかもしれない。しかし、それはただ、それだけのことだ。世界の古代史の中の数多くの王朝の歴史を見、その真実の歴史を知ってきた、日本以外の人間たちの健全な常識は、決してこれを認めることがないであろう。〈『失われた九州王朝』第五章、四〉

「八紘一宇」の思想と、記紀そのものの持つ思想が、実際にどのようなつながりを持つのか、それは、日本思想史上、重要な問題だ。古田の直感にも似た結びつけが、果たしてどのような史料的裏付けを以て、示されるのか、それとも示されない(事実に反する)ものなのか、その検証は、今は置いておこう。今の問題は、少なくともそこにはない。問題は、なぜ「豪族」と言うことが「八紘一宇」の思想と結び付くと、古田が見なしたのかという点にある(付言しておこう。今や、「豪族」という語は、すっかり廃れてしまった。代わって「地域国家」や「共同体」といった語が流行っている。しかし、それは、まさに「流行」の問題であって、古田がここで「豪族」の語を批判した背景は何も変わってはいない。むしろ「地域国家」なる語はその問題性を隠蔽してしまうという意味で、より「悪質」であるとさえ言える。)。

さて、天皇は大和の一豪族である、と言えるだろうか。古田の考えでは、それは言えないのだ。なぜなら、豪族とは、天皇家以外の、家柄のよい勢力のことであって、天皇家より格下だからだ。「日本列島の中に王朝は天皇家だけであり、他はすべて豪族だ」と古田が記紀を要約するとき、少なくとも古田はそのように見なしているのである。古田の九州王朝説の最大のポイントは、「九州王朝は一時期、天皇家よりも格上だった」という点にある。「豪族」という語を使った瞬間に、そういうことを言える可能性は吹き飛んでしまう(「地域国家」という語であれば、一見、問題はないように見えるが、なぜ、それを「国家」と言ってはいけないのだろうか。なぜわざわざ「地域」を冠さねばならないのか。)。なぜなら、「豪族」とは、「天皇家に支配されるべき人々」のことだからだ。古田の問題意識は、むしろその点に向けられている。

こういった問題意識を、「豪族」の一語で隠蔽し、安心する人々、それを古田は「不治の病」と言っているのである。

記紀のイデオロギーは、平たく言えば、天皇家支配の正当化ということだ。「今、支配下にある全ての地域は、かくかくしかじかの理由で、はじめから天皇家に支配されるべき土地だった」と言いたいのだ。それは、過去に遡れば、「支配されるべきだったのに支配されていなかった」地域を見出すことになるし、その地域への「侵略」の正当化となる。それと全く同じ論理を、当時支配の及んでいない東北地方に及ぼせば、それは東北地方への「侵略」の正当化となる。同じ論理を朝鮮半島に及ぼせば…。

「豪族」なら納得し、「王朝」(或いは「国家」。古田にとって二つはほとんど同じ意味だ)なら納得しない。そういう論者がもしいるとすれば、少なくとも、こうした記紀のイデオロギーに対し、何らかの声明が必要となろう。

しかしながら、多くの論者は「国家」という語の使用の方に、躊躇を覚えるかもしれない。だから、より問題を鮮明にするには「国家」に関しての議論を深めておく必要があるだろう。

戦後の日本史において、国家の段階発展説は、重要な役割を果たした。「マルクス主義」的(実際はエンゲルスによるところ、その後の「マルクス主義者」によるところが大きいと言われている。「マルクス主義」が、マルクスそのものとはいささか別の道を歩んできたことは、既に多くの指摘がなされていることではある。)段階発展説により、古代史研究の礎石は築かれたと言って過言ではあるまい。

古田は、このような国家段階発展説に、反対している(『日本列島の大王たち』古代は輝いていたII、朝日新聞社、一九八五年)。

   では、国家とは何か。それはいつ発生したか。
   この問いには前提とされるべき概念がある。それは「国家」の定義だ。「国家」というものの定義をいかに与えるか。それによって、当然ながら発生時期は決定される。
   たとえば、近代国家の概念をもって、本当の国家だとしてみよう。当然、少なくとも江戸時代以前は、国家以前ということになろう。
   また自主独立、他国の武力などに依存せずとも、自己防備しうることを、その一条件に入れたとすれば、わたしたちの社会(現代日本。他の多くの国々も共に)は、国家以前と称しうるかもしれぬ。
   これほど奇矯の言を弄したのは、他でもない。要は古墳時代の国家をもって国家概念を構成すれば、弥生期の社会は当然国家以前となる。さらに弥生時代の国家をもってえられた国家概念をもって基準尺とすれば、縄文期の社会は当然国家以前となる。自明のことだ。まさに判断の帰結は、基準尺の影なのだから。
   したがってわたしは端的に、次のように考える。縄文期には、縄文的国家があり、弥生期には弥生的国家があり、古墳期には古墳的国家があった、と。〈『日本列島の大王たち』第一部、第三章〉

古田は、文化や文明の発展の度合いによって、ある時点から「国家」となる、という見方を拒否する。それによって、「国家以前」を不当に軽視することになるのだと言う。もちろん、誰もが、ある一時期を以て、国家発生の瞬間と定められるはずがないことは知っている。国家発展説が、そのはじめから、文明の漸次的発展を考慮してきたことは、言うまでもないことだ。それに、考古学の目覚しい発達は、縄文時代は国家以前である、というかつての常識を完全に覆したと言っていい。

だが、ここで真に重要なのは、実はそのことではない。古田の主張に沿えば、縄文的国家と弥生的国家の間には、機構上の、或いは文化・支配理念上の共通性は必要とされない。なぜなら、近代国家と縄文国家の間に機構上の共通点は必要とされないからだ。縄文には縄文的国家があり、弥生には弥生的国家がある、とは、あくまで年代上の区別を言っているが、同じように、中国には中国的国家があり、ギリシアにはギリシア的国家がある、ということも可能だろう。

国家発展段階説の最大の問題点は、世界のあらゆる国家を、同一性の軸の上に還元してしまうことにある。ヘーゲルにおけるそれは、西洋的理性であり、それは既に多くの批判を見た。リベラルな民主主義国家の成立によって、歴史は終わったのだという、アレクサンドル・コジェーヴ―フランシス・フクヤマの理論(フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』)は、その一つの極点だった。「マルクス主義」における経済を中心とした発展論も同様だ。こうした広い意味での「進歩史観」は、今日、多くの批判に遭っている。

問題は、国家の発展史にあるのではない。ある国家が成立する時、それ以前の国家から、何の影響も受けないと考えるのは、あまりに空想的だと言わなければならない。正の遺産であれ、負の遺産であれ、純然たる継承であれ、反発であれ、何らかの影響関係を持つことは、当然のことだ。それを歴史学の立場から、一つ一つ追跡する作業、それを無駄とは思わない。そうした意味での発展史は、多くの成果をもたらすであろうし、現にもたらしている。

古田が反対しているのは、現代の学者なり研究者の目から見て「このあたりから国家と呼べるだろう」とか、「いやまだまだ国家とは呼べない」とか、予め基準を決めておいて、各時代・各領域の「国家」を認定するような作業なのだと言っていい。それはとりもなおさず「現代の目から古代を見る」視点なのだと言っていいだろう。古田が反対するのは、そのような視点なのである。もちろん、ある一定の基準尺を以て比較を行なったり、検証を進めていくこと、そのこと自体は、歴史学にとって必要なことではある。しかしながら、その基準尺はあくまで現代の学者の決めたことなのであって、古代そのものの理解には、不可欠というわけではない。むしろ、「古代の側から現代を見る」ことが求められるのである。

一つの幻想がある。それは、「天皇家による統一の前は、小国分立だった」というものである。

このような議論は、まず、『漢書』の次の記事を基礎においてなされる。

   夫れ楽浪海中に倭人在り。分かれて百余国を為す。〈漢書、地理志〉

以降、『宋書』の倭王武による上表文に至るまでの間、日本列島は小国が分立しており、それをはじめて統一したのが天皇家の大和朝廷なのだ、というのである。もちろん、その統一の時代、統一した国家の形態については、諸論のあるところだ。統一国家の出現は、大宝律令前夜まで待たなければならないとか、推古朝には確実に統一国家が形成されていたとか、いや応神の頃には既に統一国家の原初的な機構は整っていたのだ、など、様々だと言える。形態にしても、諸豪族の連合国家だとか、古代的専制君主国家だとか、様々に議論されている。

総括するに、大宝律令の完成を以て、専制君主国家としての、統一国家が形成されたと見るのが、最も主流だろう。このような見方の背景に、先の「進歩史観」が反映されていることは言うまでもない。しかしながら、ここには同時に、「統一」という用語をめぐる、一つの重大な問題が隠されている。

律令国家体制によって、初めて強力な統一国家が誕生したのだという。では、それ以前は、日本列島に「国家」はなかったのか。日本列島はたった一度も統一されたことはないのか。金印の倭王がたとえ、九州の一部を支配下においていただけだったとしても、それをなぜ「統一」と言ってはいけないのだろうか。東北や南九州に支配の及ばぬ八世紀日本を「統一」と呼ぶにも拘らず、だ。

そもそも、今の日本列島は、一つの国であるべきだったのか。「統一」の意義さえ問題だ。八世紀を「統一」と言うなら、北海道、東北地方や沖縄は、「統一」とは無関係の地域である、と言っているのと同じだ。北海道や沖縄は、(朝鮮半島や台湾や満州がそうであるように)本来組み入れられるべきではないのに、不当にも侵略した地域であろうか。そうであるなら、関東は?南九州は?と問いを進めねばなるまい。大和朝廷が、少しずつその支配領域を拡大していった、とは、裏を返せば、他の自立した領域を次々に侵略していったとも言えるのではないか。そういった議論を全て無効化し、隠蔽してしまうのが「統一」という用語のあり方なのである。

既に網野善彦は、このような思想性について、「日本」「日本人」という議論から、疑問を投げかけている。

   ここで再三のくり返しになるが、あらためて強調しておきたいのは、「日本人」という語は日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉であり、この言葉の意味はそれ以上でも以下でもないということである。「日本」が地名ではなく、特定の時点で、特定の意味をこめて、特定の人々の定めた国家の名前―国号である以上これは当然のことと私は考える。それゆえ、日本国の成立・出現以前には、日本も日本人も存在せず、その国制の外にある人々は日本人ではない。「聖徳太子」とのちによばれた厩戸王子は「倭人」であり、日本人ではないのであり、日本国成立当初、東北中北部の人々、南九州人は日本人ではない。
   近代に入っても同様である。江戸時代までは日本人でなかったアイヌ・琉球人は、明治政府によって強制的に日本人にされ、植民地になってからの台湾では台湾人が、朝鮮半島では朝鮮人が、日本人となることを権力によって強制されたのである。(網野善彦『「日本」とは何か』日本の歴史00、講談社、二〇〇〇年、八十七ページ)

網野が批判するのは、日本列島は昔から一つの国家であり、一つの文化を持つという幻想だ。「統一」という用語は、そのような幻想を暗黙のうちに潜ませてしまう。もちろん、ことは網野の言うほど単純ではない。網野自身も言うとおり、ここには「民族」の問題は除外されている。網野の論法に従えば、現在、アイヌという国がない以上、アイヌ人はいないということになるし、朝鮮半島が南北に分断されている以上、韓国人と北朝鮮人は全くの別だ、ということになる。そのことは網野も十分承知しているだろう。だから「民族」の問題を除外するのだ。

網野が言いたいのは、そのことではなく、日本列島が昔から一つだったというのは、全くの幻想であり、事実に反する、という一事に尽きる。

古田が「天皇家一元主義」と言って批判するのは、まさに同じ幻想に対してなのだと言っていい。日本列島が一つである、というのは、歴史的に見て、天皇家による一元的支配の結果だからである。現にアイヌ、琉球人を抹消し、台湾人、朝鮮人を抹消しようとした、その根本思想が「八紘一宇」であり、その「統一」という概念にあった。戦後になって、表向きにはそのような思想は姿を消した。しかし、今でも、日本列島は昔から一つの国家であり、一つの文化を有するのだというとき、その思想性はより精密に隠蔽されてしまうという意味で、より悪質なのだ。古田が真に批判するのはそのような思想性なのだ。

ところで、「天皇家による統一の前は、小国分立だった」という幻想に立ち返ろう。「統一」という語の問題については既に述べた。次は「小国分立」という語だ。「統一」が問題である以上、「小国分立」も同じ問題を共有している。

地域国家論というものがある。主に門脇禎二が主張する概念だ。出雲、吉備、筑紫、そして大和などは、律令国家体制による「統一国家」の出現前は、「地域国家」としてそれぞれの発展を歩んできた、というものである。各地域における国家体制の成立自体は、私も否定するところではない。問題を用語法に集中させよう。門脇にとって「地域国家」とは「統一国家」と対を成す概念だ。従って、ここでは統一/地域という対立が、更に言えば、中央/地方という対立が残されたままなのだ。律令国家体制を整えた大和朝廷を唯一の「統一国家」と見なす門脇にとって、中央とは徹頭徹尾大和以外にないのであって、どんなに出雲や吉備の政権を重視してみたところで、これは、朝廷/豪族の区別の焼き直しに過ぎない。古田は、門脇が「氏姓制度」を以て、出雲王国の大和朝廷への編入を見るその仕方に反論する。「氏姓制度」の淵源は、むしろ出雲の側にあるのだ、と。だから、「臣」姓を持つことがすなわち大和朝廷への編入と見るのは、誤りなのだ、と(古田『古代史を疑う』駸々堂、一九八五年)。。ここで古田が言いたいのは、「氏姓制度」にせよ、他の制度にせよ、出雲と大和が等しく、「国家」である限り、その間の伝播の関係は、双方向とも吟味されなければならない、ということだ。門脇は、「大和が中央として出雲を編制した」とは考えても、決して「出雲が中央として大和を編制した」とは考えない。大和と出雲は、門脇にとって決して等置されえないのだ。それを古田は攻撃するのだ。門脇にとって、大和は予定された統一国家なのである。

そもそも、「地域国家」という語は、それ自身、矛盾だ。国家である以上、国家の内部に中央/地方があるのであって、国家の全体が「地域」である、などということはありえない。なぜ、単に「国家」と呼ばないのか。その点に、地域国家論の思想性が隠されているのである。

しかしながら、各地の多様な国家、という概念そのものは、古田も強調するところではある。

   最初に「王朝」という言葉について。王朝というからには、自主独立性をもっていなければならない。他の権力からの支配を受けたり、他の政権に服属している従属権力、つまり「地方政権」について、これを王朝と呼ぶことはできない。もちろんこの場合、大陸側の中国との間の封冊関係、中国の天子からの「倭王授号」問題などとは性質が異なる。
   さて、この日本列島の中で”独立した政権が存在する”とはどういうことか。また何によってそれと分かるのか。それは、考古学的な出土物、例えば矛や銅鐸等、その分布図と深い係わりがある。つまり、一定の分布をもっている出土物(銅器など)を、その文明圏のシンボルと見なすと、私たちはそこにひとつの文明圏の存在を認めることができる。文明圏というからには、当然、政治・軍事を伴っている。そう考えるのが、少なくとも古代国家においては常識である。
   文明圏のシンボル、つまり金属器等の出土物が広範囲に分布しているとき、その中で最も集中的に出土する地域、ことに銅器ならその鋳型の最も集中出土する領域、そこがその王朝の中心地帯と考えて、ほぼ間違いがないであろう。これに反し、出土地域として第二、第三位くらいの場所をとって「~王朝」と呼ぶような向きの論者もある。しかし、学問上の定義から見れば、問題であろう。(古田武彦『まぼろしの祝詞誕生』新泉社、一九八八年、二百八十八~二百八十九ページ)

先にも述べたとおり、古田の言う「王朝」の用法は、「国家」とそれほど違いは無い。古田は、ここで「国家の定義」の与え方を述べている。それが、出土物の分布による判定だ。ある一定の「時代区分」に立ったときの、日本列島内での、「中心」の見出し方について述べている、と言っていい。古田によれば、弥生時代には、日本列島には少なくとも二つから三つの「王朝」を見出せるのだと言っている。

ところで、このような王朝観を古田自身は「王朝多元説」とか「多元的国家」と呼んだりもしている。これに対し、原田実は、この「多元的国家」という見方が、古田に始まったものではなく、それ以前の論者―例えば藤間生大―にも見られたものだと言う。確かに、「多元的国家」とでも言うべき、各々の地域における古代国家のあり様についての研究は、ますます盛んになっていると言えるだろう。事実、例えば、門脇禎二の示した「地域国家」の基準は以下のようである。

   要は、地域国家・王国という以上、王権とそれなりの統治機構、独自の支配領域、それぞれの支配理念あるいは独自の文化、という三つの条件が指摘できないと、国家といってはいけないと思っています。(門脇禎二『古代日本の「地域国家」と「ヤマト王国」』下、学生社、二〇〇〇年、六十一ページ)

古田の言うような、「国家」あるいは「王朝」の定義と、門脇のそれとは、一見すると、ほとんど変わるところは無い。古田が即物的に、考古学的出土物のみをその基準に据えたのに対し、門脇は統治機構・理念・文化といった精神的・社会的(あるいは「上部構造」)をその基準に据えてはいる。しかしながら、各地域の独自性を以て、「国家」の基準に据え、古代に数多くの国家を見出そうとする点では、両者に根本的な違いは無いように見える。しかし、原田は、古田のこうした主張(原田によれば、稲荷山古墳の鉄剣出土を契機としてなされた「王朝多元説」)が、初期の九州王朝説における国家像(「多元史観」)と矛盾するのだと言う。

   この時点(古田「多元的古代の成立」(一九八二年)を指す―河西注)で古田氏が説いた「多元史観」とは、日本列島の権力中枢が多元的な勢力の間を移行していくというものであり、藤間氏のいう「多元国家」像とは異なることが明らかである。
   ところが、一九九一年一月、文京区民センターが(ママ。「で」か―河西注)行なわれた古田武彦講演会で古田氏は、九州だけでなく吉備なども無視できないのではないか、との質問に答え、次のように述べている。
   私は九州王朝一元史観ではないわけでありまして、多元史観なわけですね。私のいっているのは、多元史観が大事であると、多元史観というのは今おっしゃいました出雲であるとか、吉備であるとか、日向であるとか、そういったところの、それぞれの歴史を大事にしていくということでありまして、その一つを原点にして、全部を説明していく、というやり方をしないということなんです。だから近畿天皇家一元主義にかわる九州王朝一元主義をとるというんじゃないんですね。(「大嘗祭と九州王朝の系図」『市民の古代』第十三集、新泉社、一九九一)
   「それぞれの歴史を大事にしていく」という言い方からは日本列島の権力中心という問題が欠落している。これでは藤間氏の「多元国家」像とは実質的な差はないということになるではないか。(原田実「「多元」と「王朝」」『幻想の多元的古代』批評社、二〇〇〇年、十二~十三ページ)
   古田氏が本来唱えていた「多元史観」とは、日本列島を代表する権力中枢が多元的な勢力の間を移行するというものであった。しかし、ここで新たに説かれた「王朝多元説」とは、複数の王朝が古墳時代の日本列島に並立したというものである。
   これでは藤間氏の説いた多元国家のモデルと大差ないものになってしまう。そして、これ以降、いわゆる古田史学における「王朝」の基準は不透明なものとなっていくのである。(同、十七ページ)

藤間生大をはじめとして、現在に至るまで、「多元的国家」やそれに類する主張は、実のところ、「統一」以前の小国家分立を言っているに過ぎない。古田もまた「多元的国家」を言うことで、当初の主張を不透明なものにしてしまったという原田の指摘は、その意味で正しいと言うべきだろう。原田は、初期の「多元史観」は、実は九州王朝一元主義あるいは中国一元主義に陥っているのだと非難する(更には、藤間生大のような「多元的国家」に対しても、否定的な見地に立っているようである)。

なるほど、原田の言うように、古田の「多元史観」は、「日本列島を代表する権力中枢が多元的な勢力の間を移行するというもの」であるという定義は、全く正しい。しかしながら、ここから原田のように、九州王朝一元主義に結び付くとすれば、それは、「日本列島を代表する王者は、一人しかいない」という、「統一」の幻想を繰り返すものに他ならない。古田が、出雲―九州―近畿という権力中枢の交代劇を描き出すとき、古田自身もその「統一」の幻想から自由ではなかったことは、関東王朝や東北王朝の命名の際の古田の躊躇を見れば、明らかだ。

   「東北王朝」―この言葉を採用すべきか否か。いや、歴史学的厳密性において、採用しうるのか。この迷いだった。
   従来の、日本の古代史学では、近畿天皇家にしか、この二字を”許さ”なかった。タブーだった。けれども、わたしはこれに反対した。「九州王朝」の語を創出し、使用したのである。その理路は次のようだ。
   先ず、志賀の島の金印は、博多湾岸の王者(倭奴国の国王)に与えられた。また弥生の倭国の中心(邪馬壱国)は、筑紫にあった。倭の五王も、「日出ずる処の天子」も、筑紫の王者であった。これを「王朝」と呼ばずして、「分流」たる近畿天皇家にのみ「河内王朝」「大和朝廷」などの呼称を用いるのは、不当である、と。これだった。
   また「出雲王朝」の語を使用した。大国主命からニニギへの「国ゆずり」を、重大な史的事件と、わたしは見なした。これ、「大義名分の移動」を、筑紫(九州王朝)側が主張したものである。とすれば、「ゆずられた」側のみに「王朝」の語を用い、「ゆずった」側に「王朝」の語を用いないのは不当。そのように思惟したのである。
   また、埼玉稲荷山の黄金銘鉄剣をめぐり、「関東に大王あり」とし、やがて「関東王朝」の理念に到着した。
   以上は、わたしの探究経験において、いずれも”鏤骨の苦渋”の結果、ようやく肯定しえたところであった。
   だが、今回、「東北王朝」の用語に対しては、以前以上の”ためらい”、否、むしろ、拒否反応がわたしの中に存在したことを、率直に告白しておきたい。(『真実の東北王朝』駸々堂、一九九〇年、三百七十一~三百七十三ページ)

原田の言うとおり、出雲―九州―近畿という一つの「王統」から、「関東王朝」の概念を提出して後、「東北王朝」に達するまで、古田は、「統一」の思想を免れてはいなかった。なぜなら、九州王朝を「王朝」と呼ぶのは、その「分流」が「王朝」と呼ばれるからであり、出雲王朝を「王朝」と呼ぶのは、九州王朝に政権を「ゆずった」からである、と言っているのである。それは、いわば、近畿天皇家一元史観に「先立つ」一元史観なのだとも言うことが出来るだろう。まさに「統一」の幻想の中にいる。

このような幻想を脱して、古田が、東北王朝に―古田によれば、それは「九州王朝」に対立する存在である―に、「王朝」の語を認めたときに、古田の「王朝多元説」は、成立しうるのである(それでも、「関東王朝」以降、しばらくの間、古田自身が「地域国家」或いは「多元的国家」のほうへ傾いたことは否めないだろう。)。

このようにして、「多元史観(ある権力中枢が多元的な勢力間を移行する)」と「王朝多元説(日本列島内には、複数の権力中枢が同時に存在することがありえる)」を見るとき、二つは両立し得ないどころか、車の両輪として、不可欠の概念となるだろう。ここで言う、「王朝多元説」が実のところ、「地域国家(門脇)」や「多元的国家(藤間)」とは、似て非であることは、今や、明らかであろう(原田の批判は、結局のところ、このような古田の概念の発展を無視し、単に表面的な矛盾に対する「一貫性」の問題に集約しているがためになされたものである、と言わざるを得ない)。