歴史・人名

第1章 中国史書の「倭」と「日本」(Historical)

九州王朝説批判-川村明(Historical)

第1章 中国史書の「倭」と「日本」
1.『通典』パニック

 従来の古代史学では、文献の信憑性に関する一般的な方法論があまり明確でなかった。これに対し、九州王朝説の提唱者である古田武彦氏は、次のように明確な方法論を提示した。

a  同時代史書と後代史書が矛盾する場合は、同時代史書の記述の方を信用する。

 このaを前提にすれば、『三国志』『宋書』『隋書』をはじめとする中国史書は『記・紀』のような国内文献より成立が早いので、中国史書の記述の方を正しいと見なし、逆に『記・紀』に九州の王朝についての記事が無いことを「誤り」とみなすことができるわけである。
 さて、殆どの中国史書は方法論aによって『記・紀』の記述に優先されることになるが、一つだけ例外がある。それは720年に完成した『日本書紀』よりはるか後代の945年に成立した『旧唐書』で、aだけではこれを『日本書紀』の記述に優先することはできない。ちなみに古田氏は、『旧唐書』の依拠史料の成立が『日本書紀』の成立より早いから『旧唐書』の方が信用できるというのだが、依拠史料の成立が史書の成立より早いのは『日本書紀』も同じであり、これは正当な論法ではない。
 そこで古田氏は次の方法論を追加する。

b  当該王朝で作られた史書は自分自身の利害による加削がありうるから、利害のない外国史書の記述の方が客観的で信用できる。

 この方法論により、国内文献である『日本書紀』より外国史書である『旧唐書』の方が信用できる、と主張できるのである。
 さて、このような方法論aとbに従う限り、『三国志』から『旧唐書』までの中国史書はみな信用でき、前節のa~gを根拠にした九州王朝説も正当化されるように見える。
 ところが、このような認識に水を差すような史料が存在する。それは『旧唐書』より一世紀以上も前の、801年に成立した『通典』という中国史書である。これはいわゆる正史ではないが、唐が滅びる前にできた、初唐までの歴史を記録した名著とされる史書である。そもそも正史というのはその記述対象である王朝が滅びたあとでなければ編纂できないわけであり、唐が滅ぶ前に成立した『通典』が正史でないのは当然で、そのことをもって軽く見ることはできない。むしろ初唐の出来事の記述に関する限り、正史である『旧唐書』よりもはるかに同時代史書に近いので、むしろ信憑性が高いと考えるべきである。
 この『通典』は200巻からなり、最後の16巻が「邊防」という正史の夷蛮伝に相当する章になっていて、歴代史書に出てくる過去から初唐までの計193か国の伝が東夷、南蛮、西戎、北狄に分けて書かれている。その中から東夷の「倭」の条全文を【資料1】にかかげておいた。
 【資料1】のαには『後漢書』から『隋書』までに出現する倭国の風俗や中国との国交記事が要約されている。そしてβは舒明紀にも出てくる高表仁の来朝記事で、『旧唐書』の倭国伝にも書かれているが、成立はこの『通典』の方が早いので、現存中国文献の中ではこのβが最初の高表仁来朝記事になる。また、γは魏志倭人伝でお馴染みの記事である。
 さて、問題となるのはδの冒頭部分である。そこに、倭の一名は日本、すなわち日本というのは倭国の別の名前に過ぎない、という意味の記述がある。これは『旧唐書』の“日本と倭は別国だ”という記事とは明らかに食い違っている。しかも『通典』は『旧唐書』と同じく中国史書であり、方法論bによって排除することができないし、また『通典』の方が成立が早いので、方法論aによっても排除することができない。これは「九州王朝説」にとって都合の悪い史料事実ではないだろうか。
 これを“後で誤りであることを確認して訂正することもあるから、成立の早い史書の方が信用できるとは限らない”といって「解決」するのは、方法論aの自己否定である。成立年代の違う史料群の中から自説に都合のよい史料を選んでよいことになるからである。
 また、“『通典』のδは九州王朝が先に国号を「日本」と改称したことを指しているのであって『旧唐書』の記事とは矛盾しない”と主張する人もいる。しかしδに続くεには、有名な大和の人物である粟田真人の朝貢記事が出て来るのであるから、この「日本」はやはり大和のことを指していることは明らかで、このような解釈は無理であろう。
 また、δより手前、βの記事の最後に「由是遂絶」と書かれていることに注目し、“これは、それまでの倭国である九州王朝との国交がここまでで絶え、九州倭国を引き継いだ大和の日本国が朝貢してきた、という意味である”と主張する人もいる。
 しかし、『通典』の中で「倭一名日本」という記事は、倭の条に一回出てくるだけでなく、実は辺防一の序文にも既に次の形で出て来ている。

c  又歴代史倭國一名日夲在中國直東。扶桑國復在倭國之東、約去中國三萬里。蓋近於日出處。(通典 邊防一 序文注記)

 ここでは「歴代史の倭国」すなわち『三国志』から『隋書』までの伝に出てくる倭国の一名が「日本」である、と言っているのであるから、δの倭をβ以前の倭と別物であると見做すことはできない。
 それではβの「由是遂絶」というのはどういう意味なのか。まず『通典』邊防の条から「遂絶」及びそれに類する表現の用例を探してみると例えば次のような例がある。

d  [牛羊]牱渠帥姓謝氏、舊臣中國、代爲本土牧守。隋末大亂、遂絶。大唐貞觀中、其酋遣使修職貢。勝兵戦士數萬、於是列其地爲州。(通典 邊防三 [牛羊]牱)

e  昆彌國、一曰昆明、西南夷也。…漢武帝得其地入益州部、其後復絶。諸葛亮定南中、亦所不至。大唐武徳四年、…。至十二月、遣使朝貢。(通典 邊防三 昆彌國)

 これらの例では「絶えた」直後に同じ国からの朝貢記事がある。したがって、たとえ「絶」と書かれていても、その国との国交が絶えたという意味だとは限らないことがわかる。
 では問題の倭の条βの「由是遂絶」の「絶」とはどういう意味なのか。実はこのβと同じ事件を、『旧唐書』や、これにやや遅れて成立した中国史書である『唐会要』では次のように記している。

f  貞觀十五年十一月、使至。太宗矜其路遠、遣高表仁、持節撫之。表仁浮海數月方至。表仁無綏遠之才、與王争禮、不宣朝命而還、由是復絶。
 永徽五年十二月、遣使獻琥珀・瑪瑙。琥珀大如斗、瑪瑙大如五升器。(唐會要 巻九十九 倭國)

g  貞觀五年、遣使獻方物。太宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遣新州刺史高表仁、持節往撫之。(舊唐書 列傳百四十九 倭國)

 fには『通典』と同様に「由是復絶」とあるが、すぐ直後に同じ倭国が朝貢して来ている。しかも『唐会要』は『旧唐書』と同じく倭と日本を別国としているので(後述)、この「絶」は倭国との国交が絶えたという意味ではありえない。それではどういう意味なのだろうか。gによれば、貞観五年の遣使のとき、中国の天子が所司(=長官)に「もう毎年朝貢して来させないように」と命じたというのであるから、この「絶」は、単にそれまで頻繁に来ていた朝貢が一旦跡絶えたという意味に過ぎないことがわかる。
 以上見てきたように、『通典』の「倭一名日本」を九州王朝説と矛盾のないように解釈しようとする試みは結局うまくいかないことがわかる。
 では方法論aとbにより、『通典』の「倭一名日本」が真実で、大和一元説の方が正しい、と結論すべきなのであろうか。
 実はそのように単純な話にはならないのである。といっても『通典』問題がうまく解決できて九州王朝説が救える、ということではなく、逆に九州王朝説にとってはもっと深刻なことになるのである。
2.『新唐書』日本伝も一元説だった

 『通典』問題の解決を急ぐ前に、少し飛んで、北宋で1060年に書かれた『新唐書』を考察する。この史書は、もともと五代十国の動乱時代に書かれた『旧唐書』が、唐代後半に関して史料不足による不備が目立つため、宋による中国統一により、動乱時代に参照できなかった史料が参照できるようになったことをきっかけに作られたものである。本紀10巻、表15巻、志50巻、列伝150巻の計225巻からなる大部の史書で、日本列島に関して言えば、初めて倭国なしの日本伝のみになる中国史書ということになる。
 さて『新唐書』といえば、日本伝の中にある次の記事が一部で話題になってきた。

a  日夲乃小国、爲倭所并、故冒其號。

 なぜ話題になったかというと、『旧唐書』の日本国伝の「日本舊小國、併倭國之地」という記事と、倭と日本の併合・被併合関係が一見逆だからである。
 しかし、最初から各論に入ると木を見て森を見ない議論になってしまう恐れがあるので、『新唐書』日本伝の全体を【資料2】として掲げておいた。
 同資料を一見して明らかなように、中国史書の日本列島の伝としては初めて歴代天皇の名前が出てくる。しかも単に出てくるというだけではなく、日本伝そのものが、最初のαと最後のβを除いて天皇の年代記の構成になっている。そして冒頭で引用したaの記事も、αやβの中ではなく、持統天皇の年代記の中に出てくるのである。どうして『新唐書』日本伝が今までの史書の倭国伝や日本国伝とまるっきり違うスタイルになったのか、という分析は次節で行うことにして、今回は“『新唐書』日本伝の著者は「倭」と「日本」の関係をどのように考えているのか”について調べてみる。
 そのために一番手っ取り早いのは、『新唐書』日本伝の中から「倭」又は「日本」という語が出て来る箇所をすべて抜き出してみることである。そしてその結果は、αの冒頭にある次のbと、持統の代にある次のcとdであり、これがすべてである。

b  日夲、古倭奴也。

c  後稍習夏音、惡倭名、更號日夲。

d  使者自言「國近日所出、以爲名。」
 或云「日夲乃小國、爲倭所并、故冒其號。」
 使者不以情、故疑焉。又妄夸其國。

 『新唐書』日本伝の著者の考えが書かれているのは、これらの中でも地の文、すなわちbとcの記述であると考えなければならない。そして、bとcを組み合わせると「日本は昔の倭奴であり、持統天皇のときに倭の名を嫌って国号を日本と改称した」ということになる。これは「大和一元説」に他ならない。
 さて、この「『新唐書』日本伝の著者は大和一元説を主張している。」という意外な事実には、他にも証拠がある。

 その1。αの部分は、次のような『旧唐書』の倭国伝(日本国伝ではない)の冒頭の文章と、太字の部分を除いて殆ど同一である。

e  倭國者古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏。置一大率、検察諸國、皆畏附之。設官有十二等。其訴訟者匍匐而前地。多女少男、頗有文字、俗敬佛法。

 したがって、『新唐書』の著者は、日本国なるものを、歴代の史書に出てくる倭国と同一視していることがわかる。

 その2。αの末尾に「其王姓阿毎氏」とあり、これはその1から倭国の王と見なしているが、その直後の神代から神武にかけての記述で「初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二丗、皆以尊爲號、居筑紫城。彦瀲子神武立。更以天皇爲號。徙治大和州」と、『記・紀』の“天孫降臨”から“神武東征”までの説話と同じ事を記しており、これは(大和朝廷の公式見解としては)大和朝廷の歴史であり、倭国と大和朝廷を同一視していることを意味する。

 その3。用明の代を見ると、用明天皇と「目多利思比孤」を同一視している。この「目多利思比孤」というのは、既に『通典』倭条(【資料1】αの“隋文帝開皇二十年”に始まる段落の冒頭部)に「自多利思比孤」とあり、その孫引きと思われるが(『通典』の元代の版本では「目多利思比孤」とあり、『新唐書』の表記と完全に一致する。)、この一文から、『隋書』俀国伝の「多利思北孤」に相当する人物と、大和の天皇である用明天皇を同一視していることがわかる。

 その4。『新唐書』に先行する歴代の正史には、次のf~kに見られるように、倭国は昔から中国と国交があったのだ、ということを明記している。

f  魏時有三十國通好。(晋書 倭人条)

g  倭國在高驪東南大海中、世修貢職。(宋書 倭國条)

h  倭國在帶方東南大海島中、漢末以來立女王、土俗已見前史。(南齊書 倭國条)

i  至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遣使朝貢魏、以爲親魏王。(梁書 倭条)

j  魏時譯通中國三十餘國、皆自稱王。(隋書 俀國条)

k  世與中國通。(舊唐書 倭國条)

 ところが『新唐書』日本伝では、実際に読んでみれば明らかなように、用明の代より前に中国と国交があったとは一切書かれていない。しかも、冒頭のαとそっくりだということで引用した『旧唐書倭国伝のeと比べてみると、『新唐書』では、『旧唐書』のeを引用する際に、「世與中國通」という部分を捨てている。これは『新唐書』日本伝の著者が「歴代の正史に明記されている倭と中国の国交は史実ではない。」と考えていることを意味する。

 以上で、『新唐書』日本伝の著者が、『通典』と同じくいわゆる「大和一元説」を主張していることが確かめられた。
 この節の最後に、冒頭に挙げたaの「日夲乃小国、爲倭所并、故冒其號」という記事について考えてみよう。この記事は、その前後の文を含むdを見ればわかるように、実は『新唐書』の地の文ではなく、引用文なのである。しかも最後に「故疑焉」とあることからわかるように、これは『新唐書』の著者自身の考えではなく、著者自身がその信憑性を疑っている伝聞情報に過ぎなかったのである。
3.『新唐書』日本伝の情報源

 『新唐書』の書かれた北宋と南宋(960~1279)の時代の歴史を記した『宋史』は、元の1345年に完成した本紀47巻、志162巻、表32巻、列伝255巻の計496巻という大部の正史である。
 この『宋史』列伝外国七の日本条に次の記事がある。

a  雍熈元年、日本國僧奝然與其徒五六人、浮海而至、獻銅器十餘事、并本國職員令・王年代紀各一巻。(宋史 列傳 外国七 日本)

 すなわち雍熈元(984)年に、日本の僧の奝然がやってきて、『王年代紀』などを献上してきた、というのである。この984年という年は、『旧唐書』が成立した945年と『新唐書』が成立した1060年の間に当たる。したがって『旧唐書』の著者はこれを参照することはできなかったけれども『新唐書』の著者には参照できたことになる。従って『新唐書』日本条(以下「日本伝」と略)は、この『王年代紀』をその最大の情報源にしたであろうことは容易に察しがつくが、幸いなことに、『宋史』日本条には「其年代紀所記云(その年代紀の記すところに云う)」としてその内容がかなりくわしく引用されていて、その引用部分と「日本伝」とを比較することにより実証的に確かめることができる。その『宋史』日本条の「其年代紀所記云」に続く『王年代紀』引用部分の全文(以下「年代紀」と略)を【資料3】として掲げておいた。
 これと前節で引用した「日本伝」を比べれば、「日本伝」が奝然の『王年代紀』をベースに書かれたことは一見して明らかであるが、きちんと論証することができる。

 証拠1。「日本伝」の欽明のところに「欽明之十一年直梁承聖元年」という意味不明の記事があるが、これに対応する「年代紀」の欽明のところを見ると、「即位十一年壬申歳、始傳佛法於百濟國、當此土梁承聖元年」という意味の通じる仏法初伝記事になっている。つまり、「日本伝」の欽明の記事は、「年代紀」の欽明の記事から年次部分のみを抜粋したため無意味な記事になってしまったのだということがわかる。(ちなみに「年代紀」に「當此土梁承聖元年」とあるが、中国のことを「此土」と呼んでいるので、これはもとの『王年代紀』の記事ではなく、『宋史』日本条の著者が付けた注釈と思われるが、おそらく『王年代紀』には干支か天皇の在位年数などの形で書かれていたものを中国人にわかりやすい形に翻訳したものであろう。)

 証拠2。天皇の名前が、「日本伝」では光孝天皇までで終わっているが、「年代紀」の方は、この後も延々と円融天皇まで続いている。そして「年代紀」の光孝天皇の最後に「光啓元年に当たる」と書かれていて、次の宇多天皇の所には「この土(=中国)の(五代)梁の龍徳年間に寛建寺という僧が入朝した」と書かれている。このうち光啓は唐の年号、龍徳は五代梁の年号なので、「日本伝」の著者は光孝までを唐代の天皇と判断し、『新唐書』の記述対象である唐代までの天皇で記述を打ち切ったものと思われる。ところが実際には宇多天皇までは唐代の天皇で、龍徳年間(921~923)は、次の醍醐天皇の時代だから、「日本伝」はこの『王年代紀』を参照して誤った判断を下したことがわかる。

 証拠3。「日本伝」の用明のところに次の記事がある。

b  亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。(新唐書 日本条)

 つまり、用明天皇の代に初めて中国と通じた、と書いてある。一方、「年代紀」の国交記事を眺めると、百済との国交記事は、応神のところの文字伝来記事と、欽明のところの仏教伝来記事があるものの、中国との国交記事は用明の代にある次の記事が初出である。

c  當此土隋開皇中、遣使泛海至中國,求法華經。(宋史 日本条)

 したがって「年代紀」に従えば、確かに用明の時に「始めて中国と通じ」たことなる。また更にcによると、用明の時、隋の開皇年間に中国に渡ったというのだから、これと『隋書』や『通典』等による開皇年間の(自)多利思北(比)孤の朝貢記事を併せ考えれば、用明=目多利思比孤とするbの記事が得られることになる。

 証拠4。「日本伝」では、日本の年号として孝徳「白雉」、文武「大寳」、聖武「白龜(靈龜の誤?)」、孝謙「天平勝寳」の4年号が出て来るが、「年代紀」でも日本の年号として全く同じ孝徳「白雉」、文武「大寳」、聖武「寳龜(靈龜の誤?)」、孝謙「天平勝寳」が出て来て両者一致している(ただ、「靈龜」がそれぞれ別のものに誤っているのは奇妙な現象ではある)。

 以上で『新唐書』日本条が奝然の『王年代紀』をベースに書かれたことがわかる。
 『王年代紀』は、見てのとおり「大和一元史観」で書かれているので、これをベースに書かれた『新唐書』は、『旧唐書』の「倭国・日本国別国説」を踏襲せず、同じく大和一元的に書かれている『通典』の立場に戻ってしまったわけである。
 また『宋史』日本条には、天子が『王年代紀』を見て、奝然のことを感心して話した内容が記されている。

d  太宗召見奝然、存撫之甚厚、賜紫衣、舘于太平興國寺。上聞、其國王一姓傳繼、臣下皆世官、因歎息、謂宰相曰「此島夷耳、乃世祚遐久、其臣亦繼襲不絶。此盖古之道也。中國自唐季之亂、寓縣分裂、梁・周五代、享歴尤促、大臣世冑、鮮能嗣續。朕、雖徳慙徃聖、常夙夜寅畏、講求治本、不敢暇逸。建無窮之業、垂可久之範、亦以為子孫之計、使大臣之後世襲禄位、此朕之心焉。」(宋史 日本条)

(和訳)  太宗は奝然を招いてこれを厚くなぐさめ安んじ、紫衣を賜り、太平興國寺に宿泊させた。太宗は、その国王は一つの姓で継承され、臣下もみな官職を世襲にしていることを聞き、嘆息して宰相にいうには、「これは島夷にすぎない。それなのに代々の位は遥かに久しく、その臣もまた継襲して絶えない。これは思うに、古の道である。中国は、唐末の乱から中国が分裂し、梁・周の五代は歴をうけること最も短く、大臣の世家はよく嗣ぎ続けることが少なかった。朕は、徳は先聖にはずかしいけれども、常に早朝から深夜までつつしみ畏れ、政治の根本を講求し、あえて安閑とはしない。無窮の業を建て、可久の範を垂れ、またもって子孫の繁栄を計り、大臣の後をして世々禄位を襲わさせるのは、これが朕の心である」と。(岩波文庫本による)

 つまり、宋の天子は「中国と違って万世一系の日本はすばらしい」と歎息したというのだから、そのような認識を持つ宋朝で作られた『新唐書』が、日本を一元王統的に記述しているのは当然のことだったのである。
4.『旧唐書』の解釈は誤っていた

 いよいよ『旧唐書倭国伝と日本伝の史料批判に移る。『旧唐書』は、五代十国時代の後晋で945年に完成した正史である。本紀20巻、志30巻、列伝150巻の計200巻から成り、日本列島に関する記述では、倭国伝と日本国伝が別々になっているのが特徴で、正史では初めて日本という国名が出てくる史書でもある。
 『旧唐書』の列伝第149上の東夷伝は、高麗、百濟、新羅、倭國、日本の計5カ国の伝で構成されている。その中から最後の倭国と日本の全文を【資料4】として掲げておいた。
 さてここで問題となるのは日本伝のδ~ηの記事の信憑性である。しかしその前に、まず『旧唐書』の著者が主張していることがらは何なのかを正確に把握する必要がある。
 まず明らかなように、δは「日本と倭は別の国である」という主張を、εは「日のはてにあるので日本と命名した」という主張を、ζは「倭国が自ら倭という名前を嫌って日本と改名した」という主張を、ηは「日本はもと小国で、倭国を併合した」という主張を表わしており、これらを素直に読む限り、δ、ζ、ηの三者は互いに内容が矛盾している。すなわち「倭」と「日本」という二つの単語に関して、δは「別々の国の名前である」説、ζは「前者が後者に国名を変更しただけで実体は同じ」説、ηは「後者が前者を併合してしまった」説という、互いに両立しない別々の説であることは明らかに見える。
 ところが古田氏は、これらδ、ζ、ηが全部正しいのだとして「九州倭国がまず日本と改名し、その後大和がこれを併合し、併合された九州日本の国号を盗んだ」と解釈している。このような解釈は成り立つのであろうか。
 まず第一のポイントは、θの最後の「故に中国はこれを疑う」という記事である。中国人は一体何を疑っているのであろうか。
 第二のポイントは、δとεは地の文なのに、ζとηは「或曰」や「或云」で始まる引用文になっている、ということである。
 そこで、δ、ε、ζ、ηの各情報が倭国伝・日本伝の他の部分と整合性があるかどうかを調べてみることにする。
 まずδの「日本と倭は別の国である」という情報は、『旧唐書』東夷伝の構成と整合性がある。なぜなら『旧唐書』の東夷伝自体が倭国と日本を別項目にしているからである。
 次のεの「日の辺にあるので日本と命名した」という情報は、特段他の部分から得られる情報とは関係がなく、従って矛盾もない。
 ではζとηはどうだろうか。これらはそれぞれ倭国を主語にしてみれば、ζは「倭国が国号を改称した」ということを、ηは「倭国が他の国に吸収されて消滅してしまった」ということを意味している。これは倭国にとってみれば一大事件であり、もしこれが史実なら、「倭国伝」の方にこそその旨が明記されるべき情報である。
 事実、『旧唐書』の夷蛮伝では唐の間に滅びた国がいくつかあるが、それらがどのように書かれているかを見てみよう。

a  吐谷渾自晉永嘉之末、始西渡シ兆水、建國於羣羌之故地、至龍朔三年爲吐蕃所滅、凡三百五十年。(舊唐書 西戎 吐谷渾)

b  又有勃律國、在罽賓・吐蕃之間。開元中頻遣使朝獻。八年、册立其王蘇麟陀逸之爲勃律國王、朝貢不絶。二十二年、爲吐蕃所破。(同 同 勃律國)

c  至景龍二年、又來入朝、拜爲左威衛將軍、無何病卒、其國遂滅、而部衆猶存。(同 同 波斯國)

 このように滅びた国は滅びた旨が、その滅びた国の伝の中に明記されている。また東夷では朝鮮半島の国々が白村江の戦い等で滅びたが、それらはどのように記事に反映しているだろうか。まず高麗は、總章元(668)年12月の条に次のように書かれている。

d  高麗國舊分爲五部、有城百七十六、戸六十九萬七千、乃分地置都督府九・州四十二・縣一百、又置安東都護府以統之。…(聖暦二年)…分投突厥及靺鞨等、高氏君長遂絶矣。(舊唐書 東夷 高麗)

 すなわち高麗は分割され、中国直轄の都督府(都督は一地方の軍事を司る役)や安東都護府が置かれて高麗は滅亡し、最後は突厥と靺鞨により吸収された、と書かれている(「分投」の「投」は「託する」の意)。
 また百済の場合は次のとおりである。

e  顯慶五年、命左衛大將軍蘇定方統兵討之、大破其國。…其國舊分爲五部、統郡三十七、城二百、戸七十六萬。至是乃以其地分置熊津・馬韓・東明等五都督府、…。
(儀鳳二年)其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分、百濟之種遂絶。(同 同 百濟)

 つまり高麗と同様に顯慶五(660)年に分割され、都督府が置かれて滅亡し、最後は新羅と渤海靺鞨に吸収されたことが、いずれも当該国の伝に明記されている。
 さて、ここで倭国の条を見てみると、γの貞観22年に朝貢してきたという記事で終わっており、滅亡したとか日本国によって吸収されたなどという記事は一切ない。従って、以上の史料事実による限り、次のように結論せざるを得ない。

f  『旧唐書』の著者は、倭国が滅びたとか日本国に吸収されたとは考えていない。

 一方、国号の改定には次の例がある。

g  靺鞨、蓋肅愼之地、後魏謂之勿吉、在京師東北六千餘里。(舊唐書 北狄 靺鞨)

h  聖暦中、自立爲振國王、遣使通于突厥。…(貞元)十四年、…進封渤海國王。(同 同 渤海靺鞨)

i  烏羅渾國、蓋後魏之烏洛侯也、今亦謂之烏羅護、…。(同 同 烏羅渾)

 このように、いずれも地の文で記されており、もし『旧唐書』の著者が、倭は日本に改名したと思っているなら、ζのように引用文としてではなく、地の文で書いたはずである。以上の史料事実から、やはり次のように結論せざるを得ない。

j  『旧唐書』の著者は、倭国が国名を日本に改称したなどとは考えていない。

 以上により、次のような結論が得られる。

k  δとεの主張は『旧唐書』の他の部分と整合性があるが、ζとηは他の部分と整合性がない。

 このことは何を意味するであろうか。δとεは地の文で、ζとηは引用文である。そしてζとηの直後のθには「中国はこれを疑う」と書いてある。すなわち、中国が疑っているのは、その直前の引用文であるζとηのことだったのである。
 つまりζの「倭国が日本と改称した」とかηの「日本が倭国を併合した」という記述は、史実であるかないか以前の問題として、そもそも『旧唐書』の著者自身が「誤りであろう」と疑っている命題だったのである。
5.『唐会要』の「倭」と「日本」

 前節では、『旧唐書』日本伝の記事のうち、「倭が日本と改称した」「日本が倭を併合した」という二つの記事が、実は『旧唐書』の著者が主張している情報ではないことを確認した。しかしそれでも「日本と倭とは別国である」という情報は『旧唐書』の著者が正しいと認識していることもわかったので、これは一見すると、『旧唐書』は九州王朝説を支持しているかのように見えるが、実はそうは簡単にいかないのである。
 というのは、同じく「倭と日本は別国である」と書かれていながら九州王朝説と矛盾する史書が存在しているからである。それは『旧唐書』完成に遅れること36年、北宋の建隆2(981)年に成立した『唐会要』という史書である。これは100巻から成り、最後の巻94以降が正史の夷蛮伝にあたり、全部で79か国の伝がある。
 また同書は唐の貞元年間(785~804)に書かれた『会要』と、その続編として853年に書かれた『続会要』(二書とも現存せず)を引き継いで作られたものである。
 さて、この『唐会要』も、『旧唐書』と同じく倭国と日本国の伝を別立てにしているが、その全文を【資料5】として掲げておいた。
 ただし倭国伝と日本伝は、間に巻99の16国、巻百の20国の伝が挟まれ、隣接していない。
 さて、本題に入る前に、倭国伝のβの高表仁の来朝記事の年次について言及する。βでは貞観十五年となっているが、『通典』『旧唐書』『新唐書』では貞観五年となっている。これは、最古の史料に従っても、多数決に従っても、また『日本書紀』で高表仁を出迎えたのが舒明4(632=貞観6)年であることからしても、貞観五年の方が正しく、『唐会要』の貞観十五年の方が誤りだと思われるが、このことはまた、別の根拠によっても確かめられる。
 『唐会要』の夷蛮伝は、東夷・南蛮・西戎・北狄という分類がなく、混じり合っていて国の配列に何の規則性もないように見えるが、実は各伝の最初に書かれた遣唐記事の年次に注目すると、ある一定の規則があるように見える。試みに、倭国伝のある巻99の国名と各国の最初の遣唐記事を、順番に列挙してみたのが【資料6】である。
 同資料の☆印と★印の所に若干の前後はあるが、概ね最初の遣使記事の年次が古い順に国が配列されている様子がわかる。ここで、もし倭国の貞観十五年(βの記事)が貞観五年の誤記であれば、倭国も含めて、その前後(東女國~曇陵國)は年代順に並ぶことになり、本来は貞観五年と書かれていたことを示す一つの傍証となる。
 さて本題に戻る。『唐会要』の倭国と日本国の記事は『旧唐書』と大変よく似ている。『旧唐書』の場合は倭国=九州王朝、日本国=大和、という解釈が一応可能だったが、『唐会要』でも同じ解釈が可能であろうか。
 確かに日本国の方はνに粟田眞人、ξに阿倍仲麿(仲満、朝衡)が出て来るからそう考えてもよさそうに見えるが、倭国の方ではそうはいかない。なぜなら、『旧唐書』では日本伝の方にあった開成4(839)年の朝貢記事が、『唐会要』では倭国伝の方(η)に存在し、しかも「薜原朝常嗣」の名が出て来る。これは実に平安時代に当たり、この当時のことを記した『続日本後紀』の839年8月条には次の記事があるので、ηの「薜原朝常嗣」というのは、ここに出てくる「藤原朝臣常嗣」のことであることは明らかである。

a  大宰府飛驛、上奏入唐大使藤原朝臣常嗣等歸着之由、兼使等奏状。(續日本後紀 巻八 仁明天皇 承和六年八月癸酉)

 つまり『唐会要』では日本国の条だけでなく、倭国の条にも大和の遣唐使のことが記されているのである。
 しかもこれだけではない。その直前のζに大暦12(777)年の遣唐記事があるが、これは奈良時代に当たり、『続日本紀』の777年6月条には、次のような大和からの遣唐記事があるので、この遣唐使を指していることがわかる。

b  勅遣唐副使從五位上小野朝臣石根・從五位下大神朝臣末足等。(續日本紀 光仁天皇 寳龜八年六月朔)

 ここでまた脇道に逸れるが、この777年の使者の名前に注目してみよう。『続日本紀』の使者小野朝臣石根(イハネ)と大神朝臣末足(スエタリ)の名前が、ζでは大使が「朝楫寧」、副使が「総達」となっていて、名前が一致していない。ところが『続日本紀』のbの直後には次のように書かれている。

c  大使今毛人。身病弥重、不堪進途。宜知此状。到唐下牒之日。如借問無大使者、量事分疏。其石根者著紫、猶稱副使。其持節行事一如前勅。

(和訳)  大使の今毛人の病はますます重く、出発するのに堪えられない。この状況を承知し、唐に到着して牒を渡すとき、もし大使がいないことを問われたら、状況を判断して申し開きをせよ。石根は紫(代表を意味する)の衣服を着用して、なお副使と称せよ。節(せつ)を持って職務を実行することは、以前の勅のようにせよ。(講談社学術文庫『続日本紀』による)

 つまりこの時の遣唐使は、大使が不在で石根が大使の代役を仰せつかったのだが、『唐会要』では大使が「朝楫寧」であるとはっきり書いてあり、石根=朝楫寧であることは間違いない。そして、『唐会要』と『続日本紀』がそろって使者の名を2人挙げているのであるから、残る一人も同一人物、すなわち末足=総達であることは確かだと思われる。これは839年の「藤原朝臣常嗣」を「薜原朝常嗣」に間違ったのに比べると違い過ぎるように見えるが、石根 → イシネ → シーネー → 楫寧、末足 → スエタル → ソンタル → 総達、といった風に、耳で聞いて中国側が勝手に漢字を当てはめたのかも知れない。小野妹子 → 蘇因高のような例もあるだから、このような「発音のずれ」を伴う翻訳は十分ありえたのではないだろうか(この観点は『隋書』俀国伝の人名の食い違いについても解決の糸口を提供するものと思われる)。
 本論に戻って、大和の遣唐使が倭国伝にも日本国伝にも登場する『唐会要』では、倭国=九州王朝、日本国=大和、と見なすことは不可能であることがわかった。
 また、『唐会要』の倭国・日本国をよく見ると、他にも『旧唐書』の主張とは異なる点がある。例えば「倭が日本と改称した」という記事が倭国伝の方にも書かれている(εの記事)が、『唐会要』倭国伝の著者はこの情報について特に肯定も否定もしておらず、「倭の名を嫌ったから改めたのだろうか」とその理由を想像して述べているだけである。
 一方、日本伝にある「倭が日本と改称した」という内容の記事κは、『旧唐書』と違って冒頭が「或曰」ではなく「或以」となっていて引用文ではない。すなわち次のμの「故中国疑焉」で疑われている対象には含まれていないのである。つまり、θ~κは、「日本と倭は別国で、日の縁にあるから日本と名付けたが、或いは(そうではなく)倭がその名を嫌って日本と改称しただけなのかもしれない。」と読め、『唐会要』日本伝の著者はκの内容については特に肯定も否定もしておらず、これは『唐会要』倭国伝の立場と一致している。
 つまり『旧唐書』『唐会要』には共に「日本は倭国の別種である」とあるのに、意味するところは異なっているのである。
 以上『通典』『新唐書』『旧唐書』『唐会要』の四文献を分析してきたが、2つの国名「倭」と「日本」に関して、これら4史書は全て異った認識を持っていて、しかも『旧唐書』を除く3文献はすべて九州王朝説とは矛盾しており、このような史料状況のもとで『旧唐書』だけを取り上げて、九州王朝説の証拠と見做すのは恣意的である、ということが分かったのである。
6.「倭一名日本」の情報源

 『新唐書』の「大和一元史観」の情報源は、宋代に日本の使者が中国に提供した『王年代紀』という一冊の書物だった。そして『新唐書』はほぼこの『王年代紀』の(天孫降臨に始まる)万世一系史観をほとんど鵜呑みにして書かれていた。このことは、「中国史書は、知った事実を客観的に書ける立場にあるから内容は信用できる」という第1節のbとして挙げた方法論そのものに疑問を抱かせるものである。なぜなら「知った事実」そのものが「歴史事実」なのかどうかがそもそも問題だからである。すなわちこの場合、中国史書の信憑性は、提供された情報の信憑性に帰着されるのである。従って、情報源の探求が決定的に重要になるのである。
 そういう観点から、本節では長らく宿題にしていた『通典』の“倭一名日本”という記事の情報源を探ってみることにする。『通典』のこの記事と、それに続く部分を再掲すると、次のとおりである。

a  倭一名日夲、自云「國在日邊、故以爲稱」。武太后長安二年、遣其大臣朝臣眞人貢方物。(通典 邊防第一 倭)

 まず、“倭一名日本”に続く“自云「國在日邊、故以爲稱」”の部分に注目してみよう。この“自ら云った”というのはいつのことであろうか。『通典』にはその年次が書かれていないが、『唐会要』の倭国伝にはそれが書かれている。それは次の部分である。

b  則天時、自言「其國近日所出、故號日本國。」蓋惡其名不雅而改之。(唐會要 巻九十九 倭國)

 つまりそれは則天武后の時(684~704)だというのである。では、この期間に日本列島側と中国とが接触したのは具体的にいつのことであろうか。それを知るために、各史書から、唐代の国交記事を全て抜き出してみたのが【資料7】である。
 同資料の国交記事からわかるように、則天武后の時代(684~704)に中国に遣使を送ったのは、長安2年(702年。史料によっては701又は703)の粟田真人の朝貢記事だけである。ということは、『唐会要』に記す「其國近日所出、故號日本國。」と自ら言った、というのはこの朝貢、即ち第6次遣唐使の時ではないかと思われる。そこで西暦702年前後の『続日本紀』の記事を調べてみると、慶雲元(704)年の7月条に次の記事がある。

c  秋七月甲申朔、正四位下粟田朝臣眞人、自唐國至。初至唐時、有人來問曰「何處使人?」答曰「日本國使。」我使反問曰「此是何州界?」答曰「是、大周楚州塩城縣界也。」更問「先是大唐、今稱大周。國號縁何改稱。」答曰「永淳二年、天皇太帝崩。皇太后登位、稱號聖神皇帝。國號大周。」問答畧了。唐人謂我使曰「亟聞海東有大倭國。謂之君子國。人民豐樂、禮義敦行。今看使人、儀容大浄、豈不信乎。」語畢而去。(續日本紀 慶雲元年七月条)

(和訳) 秋7月1日に、正四位下の粟田朝臣真人が唐から太宰府に帰った。初め唐に着いた時、人がやってきて「どこからの使人か」と尋ねた。そこで「日本国の使者である」と答え、逆に「ここは何州の管内か」と問うと、答えて「ここは大周の楚州塩城県の地である」と答えた。真人が更に尋ねて「以前は唐であったのに、いま大周という国号にどうして変ったのか」というと、答えて「永淳2年に天皇太帝(唐の高宗)が崩御し、皇太后(高宗の后、則天武后)が即位し称号を聖神皇帝といい、国号を大周と改めた」と答えた。問答がほぼ終って、唐人がわが使者に言うには「しばしば聞いたことだが、海の東に大倭国があり、君子国ともいい、人民は豊かで楽しんでおり、礼儀もよく行われているという。今、使者をみると、身じまいも大変清らかである。本当に聞いていた通りである」と。言い終って唐人は去った。(講談社学術文庫『続日本紀』による)

 この冒頭部分で、真人一行は、まさに「日本国の使者だ」と名乗っている。そして問答が終ったあとの唐人の発言からわかることは、真人らが「日本から来た」と言っていながら、中国人は真人らを倭国からの使者だと認識していることである。これは省略された問答の間に真人らが「倭の一名は日本という」という情報も同時に提供したことを意味しているのではないだろうか。これこそ『通典』の“倭一名日夲、自云「國在日邊、故以爲稱」”の情報源に他ならないと言える。そこで改めてaをよく見れば、その情報を得た年次は、この記事の直後に「武太后長安二年」と明記されている。
 つまりaの「倭一名日夲」というのは、大和からの使者である真人らから得た情報の単なる受け売りだったのである。

 以上をまとめよう。第1節でbとして「当該王朝で作られた史書は自分自身の利害による加削がありうるから、そのような危険のない外国史書の記述の方が客観的で信用できる」という方法論を提示した。しかしこの「方法論」は正しくなかった。なぜなら、『通典』の「倭一名日本」の情報源が実は粟田真人のもたらした情報であったとか、『新唐書』の情報源が日本からもたらされた『王年代紀』だったという例が示すように、外国史書というのはいつでも史実を知って書かれているとは限らず、“自分たちの利害によって事実を改竄しているかもれない”当該国の使者の書物や発言を鵜呑みにして書かれた例が存在するからである。これは九州王朝説を導いた方法論そのものが誤りであったことを示している。