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第5章 推古朝の謎(Historical)

九州王朝説批判-川村明(Historical)

第5章 推古朝の謎
21.裴世清は有明から来た?

 第2章で、七世紀の倭都は筑紫ではありえないことを論証した。ところが第4章の分析によれば、俀国と推古紀の間には、裴世清の帰国年次や王の名と性別などに齟齬があることもわかった。この矛盾はどう解決したらよいのだろうか。
 この謎を、俀国伝の行路記事を再検討することにより、“『隋書』の俀国と『日本書紀』の推古朝は、やはり別の王朝だった”とする方向で解決しようという試みがある。本節では、そのような説の一つを紹介しよう。

 古田氏は、『三国志』の「至」の全用例を調べて、魏志倭人伝では「至」に動詞が先行すれば主線行路、先行しなければ傍線行路とみなす解読案(以下半沢英一氏に従って「古田読み」と呼ぶ)を提示した。もっとも、その根拠となる「論証」自体は、坂田隆氏により批判されたが、「『漢書』西域伝と魏志倭人伝」で示したように、『三国志』の先行史書である『漢書』の西域伝では、「至」字が古田読みのとおりに使用されていたのである。
 では、この古田読みをそっくりそのまま『隋書』の場合にも当てはめたらどうなるであろうか。このアイデアに基づいて独自の解読を行ったのが、森俊道氏の「二人の倭王論(上)」(『東アジアの古代文化』21号所収)である。本節ではこれを参考に、更に詳しく論じよう。

 『隋書』の夷蛮伝の中から、当該国までの行路を記述した行路記事や、他の国との位置関係について述べた記事のうち、「至」字を含むものを全て抜き出したのが【資料19】である。その各用例を眺めると、「至」に動詞が先行していないのは、δの俀国伝の行路記事を除けば、表題の国又はその都に到着した場合(γの「至流求」、εの「至於赤土之界」「月餘、至其都」)と、傍線行程かもしれないθの「至大室韋」の場合に限定され、それ以外の「至」にはすべて動詞が先行している。それらの中でもγ、ε、ζの例は、間違いなく行路記事で、実際に行き至っている例なので、古田読みに従っているといえないこともないが、α、β、η、θの例は、実際に行き至ったという例だといってよいかどうか必ずしも明確でなく、『隋書』の夷蛮伝だけではこれ以上の分析は無理である。
 そこで、魏志倭人伝の場合に『三国志』に先行する『漢書』を調べたのと同様に、『隋書』に先行する北魏の歴史を記録した『魏書』(帝紀と伝は554年に成立)の夷蛮伝について同様な調査をしたのが【資料20】である。その各用例を眺めると、当該国までの経路を直線的に説明しているβ、γ、ζでは必ず「至」に動詞が先行しており、そうでなく、隣国の説明文であるα、δ、ε、η、θ、ι、κでは、「至」に動詞が先行していないことが分かる。これは、『魏書』の夷蛮伝では「至」の用法が古田読みのとおりになっていることを示している。

 そこで、“『隋書』俀国伝の著者は、先行する『魏書』夷蛮伝の「至」字の用例に倣った使い方をした”という仮説を立ててみよう。すると、【資料8】俀国伝のπにある一支国(=壱岐)、竹斯国(=筑紫)、秦王国の3国は、「至」に動詞が先行していないので「傍線行路」、すなわち単なる隣国の説明に過ぎず、裴世清の主線経路には含まれていないことになる。これに対し、その前のοの「竹島」の前の「行至」では、「至」に動詞「行」が先行しているので「主線行路」に含まれていることになる。これを俀国伝の行路記事に当てはめてみよう。まずο~πにまたがる次の部分に注目しよう。

a 經都斯麻(=対馬)國、迥在大海中。又東至一支(=壱岐)國

 現実の地理では壱岐は対馬の東南であるにもかかわらず、壱岐(一支国)は「東至」と書かれているのは奇妙である。なぜなら、俀国伝では、その冒頭に「俀國在百濟・新羅東南」とあることからわかるように、方角を八分法で記述しているからである。
 そこでaの「東至」の起点を対馬ではなく、その直前の「大海」であると考えたらどうであろうか。すなわち「迥在大海中」の主語を「裴世清らを乗せた舟」であると仮定するのである。こうすると、この「大海」も行路の中の一経過地点となり、この「大海」から見て東に一支国があるということになる。すると、その大海から壱岐が東に見えなければならないので、対馬から舟が大海に出た方角は南ということになる。すなわち、主線行路では対馬から南下を続けたことになる。

 すると、次の主線行路は【資料8】σの「又經十餘國、達於海岸」であるから、対馬から南下したところに十余国があり、それを伝って海岸に達した、ということになる。

    対馬
    │ \(東南)
 主  │  \ 
 線  大海── 壱岐───筑紫───秦王国
 行  │ (東)   傍線行路→ (東)
 路  │
 ↓ 十余国
    │
    │
    海岸──都

 実際に地図で確かめると、対馬の南には五島列島がある。すなわち五島列島の島々が「十余国」で、それを伝って到達する海岸というのは、有明海岸ということになる。そこで俀王の使者が出迎えに来てやがて都に着いた、というのであるから、俀国の都というのは熊本平野のどこかにあったということになる。
 つまり『隋書』の記す俀国というのは九州にあった大和とは別の国であり、しかも都は熊本近辺であって筑紫ではないので、第2章の結論とも矛盾しない、というわけである。

 ところで、一支國、竹斯國、秦王國という傍線行路の国々のことがなぜわざわざ記されているかというと、その直後のρに「其人同於華夏、以爲夷洲、疑不能明也。」とあるように、傍線行路にある秦王国が、中国とそっくりな国だったので珍しいから特記したということで説明できるのである。

 さて、以上の解読の是非について吟味する前に、この結論を裏づけるかに見える、初唐に日本を訪れたもう一人の中国の使者高表仁の目的地についての異説を紹介しよう。
22.噴火に遭遇した高表仁

 【資料5】『唐会要』倭国条のβに、唐の使者高表仁が倭を訪れたときの記事がある。問題は、その細注部分にあるので、その前後をあらためてここに引用しよう(《 》内は細注)。

a  貞觀十五年十一月、使至。太宗矜其路遠、遣高表仁、持節撫之。
b  表仁浮海數月方至。
c  《自云 路經地獄之門、
d 親見其上氣色蓊鬱、
e 又聞呼叫鎚鍛之聲、
f 甚可畏懼也。》     (唐會要 巻九十九 倭國)

 これと同様な記事は、『冊府元亀』の中にも出てくる。

g  高表仁爲新州刺史。貞觀中倭國朝貢。太宗矜其道遠、詔所司無令歳貢。又遣表仁持節撫之。
h  表仁浮海數月方至。
i  云 路經地獄之門、
j 親見其上氣色葱鬱、有烟火之状、
k 若鑪鎚號叫之聲、行者聞之、
l 莫不危懼。            (冊府元龜 巻六六二 奉使部 絶域)

 『唐会要』のc~fに対応するi~lの部分が地の文になっているが、ほぼ同内容である。

 さて、『唐会要』のbでも『冊府元亀』hでも、「表仁浮海數月方至」とあるように、高表仁は海路で倭国にやって来て、その途中で「地獄之門」を経たと書いてある。
 続けて『唐会要』にはdに「親(みずから)、その上の気色が蓊鬱(煙が盛んに立ち込めるさま)なのを見た」とあり、『冊府元亀』ではjに「有烟(=煙)火之状」とある。また、次のeやkでは「鎚鍛の声」すなわち「つちで打ち鍛えるような声」が聞こえたとか、「もし行く人がこの鑪鎚の号泣の声を聞いたら恐れないはずがないだろう」などと書かれている。
 これは高表仁が倭国に赴くとき、火山の噴火に遭遇したことを意味するように思われる。fやlでそのときの恐怖を語っているが、火山のない中国の人にとって、火山の噴火は恐怖以外の何物でもなかったであろう。
 そして、cやiに、「門」を経た、という表現があるが、bやhにあるように、海路だったのであるから、これは、狭い「海峡」を通った、という意味ではないかと思われる。
 つまり、この短い記事が示している事件は、“高表仁らは、倭国に来る途中である海峡を通った。そのときすぐ近くで火山が噴火していた”ということだと解釈できる。それでは、この海峡とは具体的にはどの海峡で、噴火した火山とは具体的にはどの火山だったのであろうか。

 日本放送協会出版『火山列島日本』カラーページ「日本活火山分布図」には日本列島のすべての活火山が掲載されている。これらによると、全部で83ある活火山のうち、その大半である70の火山が中部、関東、東北、北海道、千島に集中しており、西日本、すなわち近畿、中国、四国、九州には、過去に噴火した火山も含めて次の火山しか存在しない(しかも近畿と四国には皆無)。

中国地方 大山、三瓶山
九州地方 鶴見岳、九重山、阿蘇山、雲仙岳、霧島山、桜島、開聞岳
南西諸島 薩摩硫黄島、口永良部島、中之島、諏訪瀬島、硫黄鳥島、西表島沖

 しかも町田洋著「火山噴火と環境」(古今書院『火山灰考古学』所収)の27頁に、日本列島全体の火山を、最新噴火年代別に図示したものがあり、これによれば、過去二千年以内に噴火したことのある火山となると、中国地方の2火山は除外される。しかも、海峡の近くにある火山となるとさらに限定され、中部九州の雲仙岳、南九州の桜島、開聞岳の計3火山のみとなる。
 ちなみに関東以北であっても、海峡の近くにある火山というのは津軽海峡近くの恵山と恐山しかなく、高表仁もさすがにここまでは来なかったと思われるので、結局、高表仁が通った「地獄の門」の候補は、九州の雲仙岳、桜島、開聞岳のいずれかということになる。
 以上によれば、高表仁の目的地たる倭都は九州にあったということになる。なぜなら、もし別の場所(例えば大和)へ行くのが目的なら、火山が噴火している真っ只中に、その近くの海峡をわざわざ通る必要はなく、火山の噴火を避けて、別の所から上陸すればよいからである。

 さて、高表仁が噴火に遭遇した火山をさらに特定できないであろうか。高表仁が倭国を訪れたのは、aとgによれば、唐の貞観年間、すなわち7世紀の前半である。
 雲仙岳は、有史以来、1657年まで文献には噴火の記録がない。桜島は、噴火の記録は古い方から708年、716年、717年、764年と続いているが、それ以前の資料はない。開聞岳は、怪しげな「懿徳天皇御宇薩摩國開聞山湧出」(神代皇帝紀、鹿児島史官記録)という「BC520~BC477年の記録」を除けば、『三代実録』による874年より過去には遡れない。
 ところが火山灰の発掘調査によると、それ以前の噴火の存在が実証されるのである。思文閣出版『火山噴火と環境・文明』の168頁に、町田洋氏が南九州の各地を発掘調査して作成した火山灰層の図が載っている。それによれば、土器などからわかる各時代の地層と火山灰の層は次のとおりである。

             |///////////|← 紫コラ(開聞岳)貞観16年

  平安時代奈良時代 →| |    (この貞観は日本の年号で、西暦874年)

             |///////////|← 青コラ(開聞岳)

  古墳時代弥生中期 →| |

             |///////////|← 暗紫ゴラ(開聞岳)

弥生時代中期~縄文後期 →| |

             |///////////|← 黄コラ(開聞岳)

  縄文時代後期~中期 →| |

             |///////////|← 御池火山灰(霧島山)

  縄文時代中期~前期 →| |

             |///////////|← 池田火山灰(池田湖)

     縄文時代前期 →| |

             |///////////|← アカホヤ火山灰(鬼界カルデラ)約6,400年前

  縄文時代早期(後半) →| |

             |///////////|← (桜島)

  縄文時代早期(前半) →| |

             |///////////|← 薩摩火山灰(桜島)約11,000年前

  縄文草創期~細石器 →| |

             |///////////|← (桜島)

旧石器時代(西丸尾遺跡) →| |    姶良Tn火山灰

             |///////////|← 入戸火砕流(姶良カルデラ)約22,000年前

 旧石器時代(上場遺跡) →| |

             |///////////|← 阿多溶結凝灰岩(阿多カルデラ)約10万年前

 これによると、古墳時代弥生中期の層と、平安時代奈良時代の層の間、高表仁が倭国を訪れた7世紀を含む時間帯に、開聞岳の火山灰からなる層(図の“青コラ”と書いた部分)が存在している。つまり、開聞岳の噴火が高表仁の遭遇した噴火の筆頭候補となるのである。
23.倭国九州説の疑問点

 さて、第21節と第22節は、一見俀国伝と推古紀の矛盾を見事に解決しているように見えるが、冷静に見ると、いくつかの疑問点が存在する。
 まず、第21節の俀国熊本平野説であるが、このような古田読みによると、【資料8】のτの置かれている位置の説明がつかなくなるのである。τの一文は、通常の大和への直線的な読み方ならば、ようやく目的の海岸に達した段階で、来た道を振り返り、「筑紫から東にこの海岸に着くまでにたどった国々は、みな俀国の属領である」と述べていることになり、何の問題点もない。ところが、古田読みによると、このτは、到着した海岸とは何の関係もなく、経路の途中で分岐した脇道である筑紫とその東方領域に関する説明ということになる。ところがρも同じく脇道の秦王国の説明であり、σは海岸での出迎え記事という主線行路の記事なのであるから、τはσの直後ではなく、σの手前に来なければおかしい。

 また、「至」の用法を、夷蛮伝だけで帰納してよいかどうかという問題もある。もし『隋書』の夷蛮伝以外にも調査の範囲を広げれば、『隋書』の煬帝紀には次のような例がある。

a 戊申、車駕至京師。(隋書 煬帝上 大業五年二月条)

 これは「至」に動詞が先行していないが、車駕が京師に到着した、というのであるから、実際に行き至っている。これと同じ形の文は他にも多数存在する。また次のような例もある。

b 丁卯、上至東都。己丑、還京師。(隋書 煬帝下 大業十年十月条)

 ここで「上」は天子の意味で、「至」には動詞が先行していないが、行って帰って来た、というのだから「脇道の説明」ではあり得ない。また逆に、『旧唐書』には次のような例もある。

c 東北至新羅、西渡海至越州、南渡海至倭國、北渡海至高麗。(旧唐書 百濟)

 この例では、隣接する国々の説明なのに「渡海至」のように「至」に動詞が先行している。

 また、第22節の高表仁の来倭記事について言えば、仮に高表仁が「九州倭国」と大和の両方を訪れたと仮定しても、舒明記によれば、高表仁は対馬の方から来て難波に到着しており、九州南端の開聞岳を経由した形跡がない。つまり高表仁が噴火に遭遇したというのが事実であったとしても、その火山は日本列島の火山ではないかもしれないのである。もし高表仁が南方から島伝いに対馬までやって来たとすれば、日本列島以外の火山の噴火に遭遇したのかもしれず、その場合、第22節の論証が成立しないことは言うまでもない。

 さらにこの説の大きな問題点は、第20節で述べた帰国年次を巡る矛盾が解消しないことである。
 この説のとおりだとすると、推古紀と『隋書』による限り、裴世清は来日して大和も九州の俀国も共に訪れたと考えるしかないが、推古紀によると、推古16(608)年の裴世清帰国時に小野妹子が同行した(【資料15】θ)。したがって、裴世清は608年(大和に寄ったあとで熊本の俀国に赴いたと考える場合はそれ以降)に日本列島を離れて唐に向かったことになる。一方小野妹子は推古17(609)年9月には唐から帰国している(【資料15】ι)ので、裴世清と小野妹子は、推古17(609)年9月以前に唐に着いていたことになるが、これは裴世清が大業6(610)年正月に中国に到着したという第20節の分析結果と矛盾してしまう。
24.推古紀の年次のずれ

 古田氏は、『邪馬壹国の方法』所収「日本書紀の史料批判」で“推古紀の裴世清来朝前後の年次は、実際の年次より12年過去にずれている”という説を発表した。すなわち、推古16年の裴世清の来朝は、俀国伝の大業4年の来朝より12年後の、別の遣使だった、というのである。これが事実であれば、前節で挙げた疑問点は根本から解決することになるが、はたしてそう都合よく行くであろうか。以下でその説の内容を紹介し、検証しよう。

 推古紀において、次のような史料事実がある。

a  中国の使者裴世清の官職が、『隋書』では文林郎、推古紀では鴻臚寺掌客と、異なっている。しかもこの両者は「品」が異なる(文林郎の方が上位)。
 
b  裴世清は、推古紀では国書を持参したが、『隋書』では国書のことなど書かれていない。
 
c  推古紀では、中国のことを、隋代についても一貫して「唐」と呼んでいる。
 
d  舒明3(631)年条には百済王の義慈が登場するが、この年の百済王は武王であり、義慈王の在位期間(641~661)には含まれていない。
 
e  推古17(609)年条には「呉国」に乱有りと書かれているが、この時期に中国に乱と呼ぶべき事件がない。しかし約10年後、乱有りという表現に相応しい初唐の混乱期が到来した。しかもこの乱の一時期、619年9月~621年5月の間、江南地方に「呉」という国が存在した。
 
f  推古16年8月条に裴世清が持参した中国皇帝の国書の中に「朕欽承寶命」という語句がある。ところが『隋書』と『旧唐書』によれば、隋~初唐における中国皇帝の自称の中で、隋の煬帝には「寶命」の語の使用例が無く、唐の初代皇帝(高祖)のみが使っている。

 これらの史料事実から、古田氏は次のような仮説を立てた。

g  推古紀から舒明紀にかけて、『日本書紀』の紀年は実際の年次より12年過去にずれている。

 従って、例えば推古16年の実年代は、608年ではなく620年ということになる。

 確かにこう仮定すると、まずdやeの矛盾は解消する。なぜなら、舒明3年は実は643年であり、推古17年は実は621年だった、ということになるからである。
 また、推古16年も、620年、つまり中国は唐の高祖の時代であり、裴世清の持ってきた国書も唐の高祖からの国書だったということになり、fの矛盾も解消する。
 また、cの持つ意味を調べるため、推古紀の中から中国の呼称を含む文すべてを抜き出してみよう。これは古田氏も実行したが、氏の調査には漏れがあるので、ここでは【資料21】として改めて抜き出してみた。これを見ると、◆を付けたθ、κ、ν、οを除き、中国のことをすべて「唐」と呼んでいる。一方、隋の滅亡は618年であるから、『日本書紀』の紀年によれば、これは推古26にあたる。すると記事α~μにおける中国の国号は「隋」のはずで、これを「唐」と書いているのは一見不思議である。ところがgを仮定すると、隋が滅びた618年は、実は推古14年だったということになるので、α~οはすべて唐代の出来事になり、推古紀では文字通り「唐」を「唐」と呼んでいることになる。これはcの謎を見事に解明しているように見える。
 この結果、俀国伝の裴世清来朝と推古紀の裴世清来朝は別事件だった、ということになるので、aやbの謎も解決するだけでなく、両史書の間に存在したその他もろもろの齟齬の理由も一挙に説明がつく、というわけである。これは本当であろうか。

 実は、仮定gは新たな矛盾を引き起こすのである。【資料21】のνによれば、推古26(618)年に高麗の使者が来て「隋の軍が攻めてきたのを返り討ちにしたので、その時捕まえた捕虜等を献上しに来た」と言っている。ところがここでgを仮定すると、νは実は630年の出来事だったということになる。ところが『旧唐書』高麗伝に次の記事がある。

h  其王高建武、即前王高元異母弟也。武徳二年、遣使來朝。四年、又遣使朝貢。高祖感隋末戦士多陷其地。
 五年、賜建武書曰、「朕恭膺宝命、…」。於是、建武、悉捜括華人、以禮賓送、前後至者萬数、高祖大喜。
 七年、……。

	(舊唐書 高麗)

 hの太字部分によれば、武徳5(622)年から次の記事の年次である武徳7(624)年までの間に、高麗王の建武が、唐の高祖から賜った書にほだされて、隋との戦争で得た捕虜を悉く探し出して中国に返したので、高祖は大いに喜んだという。すると、捕虜を悉く中国に返してしまったあとで捕虜を日本に献上することは不可能であるから、先のνの事件は、当然これ(622~624)より前の出来事でなければならない。つまり先程の「νは630年の出来事だ」という結論とは矛盾してしまうのである。

 それでは、推古紀の年代にずれがないとしたら、a~fの事実はどう説明されるのだろうか。

 まずcであるが、【資料21】のα~οを注意深く眺めると、そこには次のようなルールが存在していることがわかる。

i  推古紀では、原則として中国のことを「唐」と呼んでいる。「唐」以外の国号が出てくるのは、外国人(◆印を付けたうち、はθ・κ・οは百済人、νは高麗人)の発言の中に限られる。

 つまり、“推古紀では、中国の国号を、外国人が喋った部分は喋ったとおりに記録しているが、それ以外の部分では、『日本書紀』が編纂された時点の国号「唐」に書き換えている”という仮説で説明がついてしまうのである。
 では、なぜ『日本書紀』の編纂者は、わざわざそんな編纂当時の国号への書き換えなどしたのだろうか。それは、『日本書紀』の編纂態度を考えれば理解できることである。なぜなら『日本書紀』は、古事記なら「倭」とあるところを編纂当時の国名である「日本」に書き換えたり、「評」を編纂当時の名称である「郡」に書き換えたりしているからである。
 なお、γとξでは、直接引用中でありながら「唐」と書かれているが、γは外国人ではなく日本人の発言であり、ξはそれが話された時点の国号が既に唐なのであるから、iとは矛盾しない。

 次に、fについて調べよう。古田氏は「日本書紀の史料批判」第二節で、隋と唐前期における中国の天子の自称の全用例を挙げている。これを【資料22】に挙げておいた(ただし、唐については、則天武皇后以降は省略した)。
 確かにfにいうとおり、裴世清の持参した国書に出てくる「朕欽承寶命」の中の「寶命」という語に注目すれば、この語は〔舊唐書〕高祖 (1)にしか出て来ない。しかし「欽承」という語の方に注目すれば、これは〔隋書〕煬帝 (5)にしか出て来ないのである。つまりこのような論法は、どの単語に注目するかで結論が変わり、恣意的であるといえよう。
 なお、古田氏は、寶命(=天命)を欽承(=受ける)できるのは王朝の初代に限られるから、このような表現が許されるのは、隋・唐いずれも初代皇帝でなければならないという。しかし、「欽承」の語は単に「受ける」という意味とは限らない。「承」には「受けつぐ」「引き継ぐ」の意味もあり、実際【資料22】の〔隋書〕煬帝 (5)によれば、煬帝は、景業(=大事業)を「欽承」した、と述べているのであるから、この「欽承」は「受けつぐ」という意味であることは明らかである。すると、「欽承寶命」も、「寶命を(前代の文帝から)受けついだ」という意味になり、初代よりも、逆に二代目である煬帝にこそ相応しい表現であることがわかる。

 次にeを検討しよう。ここでいう推古17(609)年条の「呉国」というのは【資料21】θの百済僧道欣らの発言の中に出てくるものであるが、「呉」という国名は、もう一箇所、κの百済人味摩之の発言の中にも出てくる。κによれば、百済人味摩之が帰化してきて「呉に学んで伎楽舞を習得した。」と言うので、味摩之を桜井に住まわせて少年達に舞を習わせたという。すると、もしこの「呉」が、初唐の間にわずか1年8ヶ月程度存在しただけで、しかも別の百済人が乱のために入れなかったとまで証言している「呉国」のことだとしたら、そこに入り、落ち着いて、人に教え得るほどまでに舞を習得することができたとはとても思えない。従ってこの「呉国」は初唐の乱のときの「呉国」のことなどではなく、推古紀では「呉」の名が出てくるのは百済人の発言の中に限られている(θとκ)ことから、「呉」というのは中国南部を表す百済人特有の語法であると考えるべきであろう。

 さて、dやeは確かに年代のずれがあると思われるが、これらはいずれも百済に関係する記事である。つまり問題は、百済関係記事の年代のずれが他の記事の年代のずれの根拠になるかどうかなのである。古田氏は、eの年次のずれを、その前年の裴世清来朝年次のずれの根拠にしているが、実は、dについても、その翌年に次の記事が存在している。

j  大唐遣高表仁、送三田耜、共泊于對馬。(舒明紀4年8月条)

 すなわち高表仁の来朝記事がdの翌年に存在する。従って、もしeが裴世清来朝記事の12年のずれの根拠になるのなら、同じ理由で、dも高表仁来朝記事が12年ずれている根拠になるはずである。ところが、高表仁の来朝は唐代の出来事であり、既に第12節で調査したように、唐代の国交記事については、中国史書と『日本書紀』の間で年代のずれも内容の齟齬も一切存在していなかった(そもそも、高表仁の大和来朝が中国史書の倭国への高表仁来朝の12年後の別事件だったとすれば、裴世清も高表仁も共に、九州王朝を訪れたちょうど12年後に大和を訪れたということになり、偶然にしては出来過ぎている)。従って、次のように結論せざるを得ない。

k  『日本書紀』では、百済関係の記事に年次のずれがあったとしても、それに隣接する他の記事(例えば中国の使者の来朝)の年次まで一緒にずれているとは限らない。

 従って、dやeの年代がずれているからといって、eの前年の裴世清来朝年次もずれているという証拠にはならないのである。

 次にbであるが、要するに、もし推古紀と俀国伝の裴世清来朝記事が同一事件であるとしたら、『隋書』が国書のことにふれていないのはおかしい、というわけである。しかし、史書にはすべての情報を記録するわけではないのだから、俀国伝では国書のことなど重要でないと判断して省略したのかもしれず、あえて不審とするのは当たらない。それどころか、gを仮定すると別の矛盾が生じるのである。古田氏は、gという仮説を立てる前は、裴世清の持参した国書が中国史書に出て来ない理由を次のように説明していた。

l  『隋書』の俀国は九州王朝であり、当時の大和朝廷は日本列島を代表する王朝ではなかったので、そもそも『隋書』では独立した伝は立てられなかった。

 すなわち、独立した伝がないのだから、その国への国書についても書きようがない、というわけである。ところがgを仮定すると、推古紀の裴世清来朝は唐代の出来事ということになる。すると、わざわざ皇帝の国書まで持参したという裴世清の来朝の事実が、『旧唐書』日本伝の方に書かれていないのはおかしいのではないだろうか。少なくとも「国書が書かれていない」ことを矛盾と考えるなら、「遣使の事実自体が書かれていない」ことも矛盾と考えるべきであろう。

 さて、最後に残ったaであるが、これについては、池田温氏が『日本歴史』第280号所収「裴世清と高表仁」で次のように述べている。

m  文林郎が散官もしくは学芸文筆の名誉職なのに比し、鴻臚寺掌客は対外折衝の実務に携わる職事官であり、外国遣使の任務をおびたものもありうる。

 つまり、裴世清は両官職を兼務していたというわけである。私もこの理解で問題ないと思う。ところが古田氏は、“隋書の場合、本人のたずさえていったはずの国書(中国の天子の詔書)の中に「鴻臚寺の掌客」と明記されていたにもかかわらず、その正式官名を中国側史官が一切捨てて記さず、たまたま兼有していた(もしくは前官の)名誉職の類のみ記す、そんなことがありうるだろうか”と疑問を呈している。しかし「正式官名」とは何だろうか。兼務なのだから、どちらも「正式官名」である。国書には対外折衝者としての実体に即した肩書きである「鴻臚寺掌客」の方を名乗り、正史たる『隋書』には、鴻臚寺掌客(正九品)と文林郎(従八品)のうち上位の肩書きである文林郎の方を記しただけのことだと考えれば、何ら矛盾はないのである。
25.丈六光銘の証言

 前節では、推古紀と俀国伝の数々の矛盾の理由を一挙に解決するかに見えた「推古紀の12年のずれ」仮説が成立しないことを見てきた。本節では、その念押しともいえる「丈六光銘」について述べよう。丈六光銘というのは、元興寺にある丈六仏の光背に書かれていたという銘文のことである。ただ丈六仏の光背そのものは現存していないが、そこに書いてあったという銘文が推古朝遺文の一つである『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に引用され、現在に伝えられている。『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の当該部分を【資料23】として掲げておいた。
 この「丈六光銘曰」以下の部分には、「廣庭天皇」すなわち書紀の天國排開廣庭(欽明)天皇や、「多知波奈土與比天皇」すなわち書紀の橘豐日(用明)天皇や、「止與彌擧哥斯岐移比彌天皇」すなわち書紀の豐御食炊屋姫(推古)天皇などが出て来るので、『日本書紀』の歴代天皇にまつわる事象が書かれていることは明らかである。

 さて、この丈六光銘は『日本書紀』とは独立な史料価値を持つ。なぜなら、これは次ような特徴を持つからである。

 その一。【資料23】のγを見ればわかるように、丈六光銘には裴世清に同行した使者の名(遍光高)が記されている。これは記紀にも中国史書にも出現しない丈六光銘独自の情報である。

 その二。丈六光銘には蘇我稲目と馬子の名が出て来るが、その表記は、それぞれ「巷哥伊奈米」「有明子」という一文字一音表記で、書紀のそれと異る。

 その三。δの段落には当の丈六仏がγの明年の己巳年、すなわち推古17年に完成して元興寺に安置された、と書かれているが、実はこの年次は推古紀の主張する年次とは異なる。実際、推古14年条には“夏四月乙酉朔壬辰、銅繍・丈六佛像並造竟。是日也、丈六佛像坐於元興寺金堂。”とあり、同じ事件が推古14年のことになっている。

 その四。推古紀では裴世清は唐の使者と書かれているが、丈六光銘では、来朝時点の国号の隨になっている(【資料23】のγ参照)。

 さて、この丈六光銘には、戊辰年に大隨國の使者裴世清がやって来た、という記事がある(【資料23】γの段落)。この戊辰という干支は、βの推古13年の干支が乙丑であることから換算しても、推古元年の太歳が癸丑であるという推古紀の記事から換算しても、どちらでも推古16年に当たり、推古紀の裴世清来朝年次と完全に一致している。ところで通常の年表で『日本書紀』の推古16年を西暦608年(=大業4年)に当てているのは、この干支によるのである。従って、『日本書紀』と同じ干支の年に裴世清が来朝したと書いてあるということは、丈六光銘も「裴世清が大業4年に大和を訪れた」と主張しているわけである。しかも先述のように裴世清を「大隨國」の使者と書き、推古紀のように国号を「唐」に書きなおすようなこともしておらず、これが俀国伝にある裴世清来朝のことを指すことに疑問の余地はない。

 ところが、これに対して古田氏は、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に引用された「丈六光銘」なるものは、実物の光背銘を引用する際に、『日本書紀』の影響を受けて改竄されている可能性があると主張する。例えば前述「その四」で述べた「唐」でなく「隨」と書かれていることについても、“実物の丈六仏の光背の原文には「唐」と書いてあったのを、『日本書紀』の干支による年次では隋代になることから、これを「隋」に書き換えて引用した”と想定するのである。また、魏志倭人伝の「景初二年」を『日本書紀』神功紀で「景初三年」に書き換え、その際、人名の「難升米」を「難斗米」と誤って引用している例を挙げ、これと同様に、丈六光銘の「隨」も「隋」の、引用時にありがちな誤記であるかのように印象付けようとしている。

 しかし実は、この「隨」という文字は、以下に述べるように誤記どころではないのである。

 諸橋大漢和によれば、隋の国号は本来は隨であり、文帝が全国を統一した際に、隨字を諱んで国号を隋に改めたのだという説明がある。確かに隋の前代の周のことを記した『周書』には次のような記述がある(『宮崎市定全集7 六朝』隋代史雑考の指摘による)。

a  壬辰、以柱國隨國公楊忠爲大司空。(周書 紀第五 武帝上 保定二(562)年五月条)
b  隋國公楊堅・廣寧侯薛廻…。(周書 紀第六 武帝下 建徳四(575)年七月条)

 これらによれば、この562~575年の間に国号を隨から隋に改めたように見える。また『隋書』では、終始隋字が使われ、隨字を使っている所はないため、諸橋大漢和の記述は正しく、従って、隋代の作である丈六光銘が隨の字を使うはずはないように思える。

 ところが、宮崎市定氏の同論文によると、王昶著『金石萃編』には、もっと根本資料である金石文資料では、隋代はもちろん唐初まで、実は隨と隋を混用して区別がないことが指摘されているという。
 そこで、孫引きの危険を避けるため、隋代の金石文について直接調べてみることにした。中国の中州古籍出版社発行の『北京圖書館蔵中國歴代石刻拓本匯編』という金石文の拓本を集めた大全集があり、その第9巻と10巻に隋代の金石文の拓本が計334例集められている。それらの中でも国号に隋字を用いたものの方が大多数を占めるが、中には【資料24】に見るように、隋代の真只中に、隨や、その略字である随を隋のかわりに使用しているものが存在する。つまり、丈六光銘の隨字は、あやしいどころか、逆に隋代に現実に使われていた正しい表記だったのである。しかも隋代の金石文において隨字を国号表記に使用している例は少なく、また『隋書』や『日本書紀』でも隨字を使用している箇所は存在しないにもかかわらず、丈六光銘でこの字を使用しているということは、もし実物を写す際に「唐」の字を“書き直した”ものだとすれば意味不明の用字選択であり、やはり実物に隨とあったのをそのまま写したと考えられるのである。

 以上で、丈六光銘は書紀とは独立の史料価値をもつことがわかり、大業4年に大和に裴世清が訪れたことは決定的になった。これは、推古紀の12年のずれ仮説が成立しないという前節の結論を裏づけるものである。

 以上長々と論じてきたように、“『隋書』の俀国は九州にあった”とする方向で推古紀と『隋書』の齟齬を解消しようとする試みは、結局うまく行かないことがわかる。そうなると、『隋書』か推古紀のどちらか又は両方に、事実を伝えていない部分があると考えざるを得ない。『隋書』が誤っているとする説は昔からあるが、王の名や性別、国交年次などの、普通は間違えにくい内容の食い違いを、すべて中国側の錯覚のせいと見なすのも不自然である。むしろ推古紀の方にも誤りあるいは意図的な書き換えがあるという可能性を考える必要があろう。