歴史・人名

第1中間期

エジプト史

第1中間期
(前2200年頃~前2040年頃、第7~10王朝)

第6王朝(古王国)の崩壊から第11王朝(中王国)による再統一までの混乱期。一時的に無秩序状態に陥っていたためほとんど記録が残されておらず、王名もかなり曖昧。古王国崩壊の原因は気候変動にもあるという説があり、中東全域で長期に及ぶ乾燥化が始まり、エジプトではナイル川の水位が下がり、第1中間期を通して飢餓が蔓延、子供を食べてしまうこともあったそうな。

第7王朝
首都メンフィス、継続20年。

支配地はメンフィス周辺とデルタ地帯の一部に過ぎず、デルタ地帯の多くはアジア人に乗っ取られ、上エジプトでは各地のノモスが独立していた。マネトの記録によると、70日間に70の王が在位したという。

第8王朝
継続30年。
第19王朝時代に書かれた「アビュドス王名表」などを中心とした記録から17人(20数人?)の王がいたとされるが、考古学的資料によると存在の可能性が高いものは末期の4人のみである。
多くの王がペピ2世のホルス名「ネフェルカラー」を名乗っていることから、第6王朝から受け継いだ王権の正当性を主張し、保持しようとしていたことが窺える。
第1中間期唯一のピラミッドは第8王朝のカカラー王のもので、内部にはピラミッド・テキストも残されている。

(歴代王)
メンカラー→ネフェルカラー2世→ネフェルカラー3世→ジェドカラー→ネフェルカラー4世→メルエンホル→ネフェルカミン→ニカラー1世→ネフェルカラー5世→ネフェルカホル→ネフェルカラー6世→ネフェルカミン→カカラー→ネフェルカウラー→ネフェルカウホル→ネフェルイルカラー2世
第9王朝
ヘラクレオポリスの州侯「ケティ1世」が上下エジプト全域の支配権を手にして成り立った。首都はもちろんヘラクレオポリス。継続30年。
上下エジプト全域と書いたが恐らく本当に全域を支配できたわけではない。
後にテーベの州侯が独自に勢力を拡大してアビュドス近辺より南の地域の一部を支配下に収め、第9王朝の支配から離脱した。(後の第11王朝)

(歴代王)
ケティ1世→ →ネフェルカラー7世→ケティ2世→セテト→ →メリ…→ジェド…→フ…→ →ウセル…
第10王朝
第9王朝の後継。9と10に分かれているのはマネトの記述によるもので、なぜその様に分類したのかは謎。

テーベに成立した第11王朝と対立し、激しく争った。「ケティ3世」の時代、第11王朝の王「アンテフ2世」による攻撃があり、一時は上エジプト第10州までが第11王朝の支配下に落ちた。しかしケティ3世はアシュートの州侯「テフィーブ」の協力の下でこの攻撃を退け、逆に南下してアビュドスを占領した。この成功を背景に第11王朝との間に元のアビュドス北の国境線で停戦するという合意を結び、その後は友好関係の構築に尽力した。

こうして南方国境を安定させると、ケティ3世は下エジプトの統制回復に力を注ぐべく軍を北に向けた。海岸に至るまでアジア人を撃退し、彼らによって破壊された土地は行政区に分け、都市を築いてアジア人を撃退する為の兵士で満たした。

ケティ3世はまた、王子「メリカラー」に『メリカラー王への教訓』という文書を残し、王の責務や王権観、倫理、政治的な問題、その状況下で取るべき政策について論じた。かなりの部分が現存しており、当時の歴史を知るための第一級の史料となっている。教訓の中ではアジア人の対策法がかなり具体的に記されていて、それとは別に南方(第11王朝)との間の友好を保つように述べられている。(曰く、南方からは絶対越えてこないらしい。信じていいの?)

ケティ3世の没後、メリカラーが王位についた。メリカラーは下エジプトに侵入していたアジア人に対抗する為にメンフィスに1万人の兵士と役人を駐留させ、更に下エジプトの防備を強化する為にメリカラー自らが建築事業を強力に推進した。

彼は先王の教訓を守って南方と争うことはしなかったが、南方の側から戦争を仕掛けられ、やむを得ず開戦した。第10王朝は劣勢に回り、これを見たヘルモポリスなどの第10王朝の有力州侯が次々に第11王朝に寝返り、前2040年頃、本拠地ヘラクレオポリスは陥落、第10王朝最後の王(メリカラーの後継者。名前は不明)が最終的な闘いに負け、上下エジプトは第11王朝のものとなった。

(歴代王)

メリハトホル→ネフェルカラー8世→ケティ3世→メリカラー→?

第11王朝
上エジプト第4州は古王国時代には取るに足らない一村落に過ぎなかったが、従来のヘルモンティスからテーベに州都が移されてから大発展を遂げた。前2133年頃に「アンテフ1世」が王を名乗って第11王朝を立て、第10王朝と対立した。
アンテフ1世の弟「アンテフ2世」の時代にはヒエラコンポリスからエレファンティネまでに至る地域の支配権を得ることに成功し、北方ではアビュドスを征服してアビュドス北の境界線を第10王朝との国境とした。その後停戦となり、「アンテフ3世」の治世を挟んで前2060年頃「メンチュヘテプ2世」が即位した。
治世14年目、アビュドスで反乱が発生。メンチュヘテプ2世はこれを迅速に鎮圧し、更に第10王朝への反撃を続け北進。戦況は優勢であった。前2040年頃、第10王朝打倒に成功し、エジプト中王国時代が始まった。(中王国へ続く)
『メリカラー王への教訓』

第18王朝時代のパピルス紙(古代エジプトで作られていた紙)の写しが残っている。

(以下抜粋)

「力あるために話術に巧みであれ。人にとって舌は剣であり、言葉はいかなる戦闘にもまして勇敢である。心聡き者を誰も出し抜くことはできぬ。」

「賢王の知識を知る者は彼を攻撃せず、いかなる禍も彼に近づくことはない。」

「パンとビールだけで満足しとけ」