歴史・人名

試論(Historical)

大宝以前の逸年号-逸年号論序説-(Historical)

2.試論

さて、ここからは、実在性の高いと思われる順に、各年号について見てみよう。
2-1.「法興」

まずは、「法興」だ。
これは、「法隆寺釈迦三尊像」銘に見える。

   法興元卅一年、歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗[余/心]。・・・(略)・・・二月廿一日癸酉、王后即世。翌日、法皇登遐。癸未年三月中、如願敬造釈迦尊像并侠侍及荘厳具竟。(略)使司馬鞍首止利仏師造。

また、『釈日本紀』に引く「伊予温湯碑」にも、見えている。

   法興六年十月、歳在丙辰。我法王大王、与恵[公/心]法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験欲叙意、聊作碑文一首。(以下略)

前述したように、この「法興」年号は、『二中歴』を始めとした年代記類には見えない。僅かに『和漢年契』の系列が、「一説」として載せるだけだ。
これも、『二中歴』系列の年号群の中に、無理やり取り込もうとした「苦心」の後が見られる。
従って、他の「逸年号」群とは、孤立した存在だ。
また、六国史やその他の書物にも一切現れない。(ただし、「法隆寺釈迦三尊像」や、「伊予温湯碑」を題材として聖徳太子の伝記を綴る『上宮聖徳法王帝説』のような本は、別。また、『源平盛衰記』に「法興元世」は見える)
従って、この二史料から、「法興」年号について考えることとしよう。
両史料には、年号に加えて「干支」が付せられている。これによって、元年を逆算すれば、法興元年は、崇峻天皇四年辛亥(五九一)に当る。この点は、所説一致しており、定説と言っていい。
だが、問題は「崇峻天皇四年」という中途半端さだ。
『日本書紀』には、この年に格別「法興」年号建元を思わせるような記事はない。
従来から、この年を「元年」とする「法興」年号に対し、様々な解釈がなされてきた。
たとえば、伴信友は、法興寺起工の年を崇峻四年とし、これによって「法興」年号がまず建てられたとする(『長等の山風』)。
「法興寺」との関連に注目した説であり、同様の主張をする論者は数多い。
だが、この説は所功の指摘するように(「大宝以前の公年号」『年号歴史』)、「法興寺」起工の年が崇峻四年に当ることの明証を欠く、というよりも、

   (崇峻元年)是歳、百済国、使并せて僧恵総・令斤・恵[穴/是]等と遣わし、仏の舎利を献ず。・・・(略)・・・蘇我馬子宿禰、・・・(略)・・・始めて法興寺を作る。<崇峻紀、元年>

という記載にも合わない。また、「元興寺縁起」などにも全く見えない。
むしろ、逆に、実在し実用されていた「法興」年号にちなんで、「法興寺」と名付けられたと考えるのが、自然な理解だ。(現在も「慶應」「明治」「大正」「昭和」等、年号を冠する団体・組織・企業は数多い。これと同じだ。だが、逆はあり得ない)
やはり、「法興寺」建立と同年代に、「法興」年号がすでに実用されていた可能性が高いと考えられるのである。
正確には「法興寺」命名の時期だ。崇峻元年から、推古四年の「完成」までの期間の大半が、崇峻四年から少なくとも推古三十年までの「法興」年間であったことは疑い無い。
「法興」年号にちなむ命名の可能性は充分に考えられるのだ。
さて、「法隆寺釈迦三尊像」について、古田武彦は、ここに示される「法皇」は聖徳太子を指すのではなく、九州王朝の王者を指すのだとする(『法隆寺の中の九州王朝』)。
私も大方この説に賛同したい。
今、その論点を簡単に紹介しよう。

1、「法皇」「太后」「王后」

いずれも、「天子」にまつわる用語だ。「太后」は「天子の母」。「王后」は「天子の妻」である。従って、「太后」の息子で「王后」の夫である「法皇」はまぎれもなく「天子」その人である。
従って、終生「太子」のままで世を去った聖徳太子ではない。

2、没年

聖徳太子は、『日本書紀』によれば、推古二十九年二月五日に没した。

   二十九年春二月己丑朔癸巳(五日)、半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨ず。<推古紀、二十九年二月>

一方、「上宮法皇」は、法興三十一年の明年の二月二十一日、つまり、推古三十年に当る年に没した。
没年も一年ずれており、命日も異なる。
金石文たる「法隆寺釈迦三尊像銘」を採って『日本書紀』を捨て、推古三十年二月二十一日を本当の聖徳太子の命日と考える論者も少なくないけれども、今は、慎重を要する。
なぜなら、まさに、「両者は同一人物か否か」が、今、問題だからである。
「不一致がある」という事実を確認すればよい。
『日本書紀』にしても、聖徳太子という主役級の(しかも、たった百年程度前の)人物の没年を間違えた、などとは、そう簡単には思えないのである。

3、「法興」年号

古田は、さらに「法興」年号が「九州年号」の一端に属すことを論証の一に挙げている。
その論証は、前述した『襲国偽僭考』の「一説」(実は『和漢年契』)に基づくものであり、問題がある。
つまり古田は、『襲国偽僭考』に「法興」が見えることのみによって、これが「九州年号」たる証拠と考えている。
だから、ここでの論証に「使える」のだが、今は、「法興」が「九州年号」なのかを問題にしているのだから、当然、この「論証」を差し引かねばなるまい。

4、推古天皇不在

銘文には、「推古天皇」が登場しない。「鬼前太后」が亡くなり「上宮法皇」、「王后」が次々と病に倒れ、「法皇」の治癒を仏に願い、「法皇」の没後、その冥福を祈る為に作られた「釈迦三尊像」・・・というストーリーの中に、当時の最高権力者であるべき、推古天皇は一度も登場しない。これは、この像が「天皇家のお膝元」で作られたのであれば、あまりに不可解だ。しかも、「法皇=聖徳太子」であるとすれば、なおいっそう不可解である。

これらを踏まえ、「上宮法皇」が決して「聖徳太子」に当り得ないことを示し、この同じ時代に「天子」を名乗り得た人物として、『隋書』の「多利思北孤」を挙げる。
(『隋書』[イ妥]国伝の記載が天皇家ではなく「九州王朝」を指すことは、かわにし「九州王朝とは」参照)
さて、私は、古田の論証のうち3の部分を差し引いても、充分に「上宮法皇=多利思北孤」は成り立つと考えている。
だから、古田とは逆に、「上宮法皇=多利思北孤」の立場から、「法興」年号が「九州年号」であるのだと、主張したい。
当然ながら「九州王朝の天子の冥福」を祈るこの「像」に記された年号が「九州王朝の天子の制定した年号」以外であるとは考えられないのである。
(なお、例えば1の問題や4の問題を「逆手にとって」聖徳太子が実は「天皇」だった、という類の説が多く存在するが、そうであれば『日本書紀』にそう記載されないこと自体が、避けられぬ矛盾だ)
2-2.「白鳳」「朱雀」

次は「白鳳」「朱雀」の両年号だ。

   (神亀元年、七二四)十月丁亥朔、治部省奏言、勘検京及諸国僧尼名籍、或入道元由、披陳不明、或名存綱帳、還落官籍、或形貌誌黶、既不相当総一千一百二十二人、准量格式、合給公験、不知処分、伏聴天裁。詔報曰、白鳳以来、朱雀以前、年代玄遠、尋問難明、亦所司記注、多有粗略、一定見名、仍給公験。
   (神亀元年十月丁亥朔、治部省、奏して言わく「京及び諸国の僧尼の名籍を勘検するに、或は入道の元由、披陳明らかならず。或は名、網帳に存り、還りて官籍に落つ。或は形貌、黶を誌して既に相当せざるもの総べて一千一百二十二人。格式に准量して公験を給う合(べけ)れども、処分を知らず。伏して天裁を聴く」と。詔報に曰く「『白鳳以来』『朱雀以前』年代玄遠にして、尋問明らめ難し。亦、所司の記注多く粗略有り。一に見名を定めて仍りて公験を給え」と。)<続日本紀、聖武紀>

七二四年の聖武天皇の詔報に、「白鳳」「朱雀」の両年号が使用されている。
この「白鳳」「朱雀」については、「白雉」「朱鳥」という『書紀』に記載の有る年号と同じ、というのが通説だ(坂本太郎等)。
事実、『大織冠伝』や『古語拾遺』などに現れる「白鳳」年号は明らかに「白雉」と同じ時代を指している。

   白鳳五年秋八月、詔曰、尚道任賢、先王彝則、[衣+臼]功報徳、聖人格言、其大錦冠内臣中臣連、功[イ牟]建内宿禰、位未允民之望、超拝紫冠、増封八千戸。俄而天万豊日天皇已厭万機登遐白雲。<恵美押勝『大織冠伝』>
   (白鳳)十二年冬十月、(斉明)天皇幸于難波宮、即随福信所乞之意、思幸筑紫、将遣救軍、初備軍器。十三年春正月、御船西征…至秋七月…天皇崩于朝倉行宮、皇太子素服称制、…天皇喪至自朝倉宮、殯于飛鳥川原、十四年、皇太子摂政。<同>
   故以白鳳五年歳次甲寅(六五四)、随聘唐使、至于長安、住懐徳坊慧日道場、依神泰法師作和上、則唐主永徽四年(六五三)、時年十有一歳矣、始讃聖道日夜不怠、従師遊学十有余年、既通内経、亦解外典、文章則可観、隷則可法。以白鳳十六歳次乙丑(六六五)秋九月、経自百斉来京師也。<恵美押勝『貞慧伝』>
   至于難波長柄豊前(孝徳)朝、白鳳四年、以小花下諱部(いむべ)首作斯(さかし)、拝祠官頭、令掌叙王族宮内礼儀婚姻卜筮。夏冬二季御卜之式、始起此時。作斯之胤、不継其職、凌遅衰微以至于今<齋部廣成『古語拾遺』>

だが、「白雉」(六五〇~六五四)、「朱鳥」(六八六)という「年代」を考えれば、これらの時代が「年代玄遠」というのも奇妙な話である。
また、「白鳳」年間は明らかに「白雉」よりも長い。天智の期間をも含んでいたようだ。
従って、「白雉」「白鳳」の年号は全く同一というわけではない。
坂本は、「白鳳」を「白雉」の異称と見なした上で、「白雉」年号が五年で終わったことを世に周知しなかった為に世人は「白鳳」年号継続を信じた為だと言う。
だが、そうであれば、「白鳳」だけが十数年も続くという史料事実を説明できない。
世人が「白雉」=「白鳳」年号の継続を信じたのであれば、「白雉」も続くという史料状況でなければならないのではないか。
実際は、「白雉」は明らかに五年で終わりだ。「白鳳」だけは二十年ほどは確実に続いている。
やはり、「とってつけた」解釈の観は拭えない。
また、「白雉」の異称が「白鳳」と言うが、そのような事例が他にあるだろうか。
勿論、中国や朝鮮にも「忌避字」の関係で別字で代用した例はあるが、ここはその例ではないだろう。
さて、これとは異なる「白鳳」「朱雀」年号を記載する史料が中世以降多く存在する。

   (1)厩坂寺。天武天皇即位元年、白鳳十二(癸未)(六八三)年、都大和国移高市郡時、山階寺改而号厩坂寺。<興福寺伽藍縁起>昌泰三年(九〇〇)成立。
   (2)元年壬申八月、天皇幸野上宮、立年号為朱雀元年。太宰府献三足赤雀、仍為年号。<皇円『扶桑略記』天武>皇円(一一一二~六九)。
   (3)大嘗会。天武天皇御宇白鳳二年癸酉十一月始之但歌不見。<藤原清輔『袋草紙』大嘗会歌次第>一一五八年頃。
   (4)其年の八月に御門は野上の宮に移り給たりしに、つくしより足三ありし雀の赤を奉りしかば、年号を朱雀元年と申侍りし。其明年の三月に、備後国より白雉を奉りたりしには、朱雀と云し年号を白鳳とぞかへられにし。<水鏡、天武>一一九五年頃。
   (5)天武 十五年(元年壬申)(中略)又年号アリ。朱雀一年(元年壬申)白鳳十三年(元年壬申、支干同前、年内改元歟)朱鳥八年(内一年)。<慈円『愚管抄』皇帝年代記>一二二〇年。
   (6)天武元年七月ニ彼皇子ヲ被誅キ、同八月ニ太宰府ヨリ三足ノ赤雀ヲ献ズ。仍テ年号トス。朱雀是也ト左大臣経宗被申ケリ。大外記頼業ハ白雉ヲ改テ白鳳トシテ、十一月ニ大嘗祭ヲ被行キト申ケレバ、忽ニ改元アリケルトカヤ。<源平盛衰記、顕真一万部法華経事>一二五〇頃。
   (7)宮(天武)名乗テ憑マントオボシテ、丸ハ浄見原ノ宮也。深ク汝ヲ憑ト宣ヘバ、長者畏テ聟ニ取奉テ、隠シ置奉ル。(中略)其後長者東夷ヲ催テ、白鳳元年壬子、始テ不破関ヲ置テ、美濃国ニテ軍構シ給ヘリ。<源平盛衰記、三井寺僉議附浄見原天皇事>一二五〇頃。
   (8)後記(千満撰)云、或説云(中略)或説云、天智六(丁卯)(六六七)年定恵和尚生年二十二入唐。白鳳七(戊寅)(六七八)帰朝。同年十一月改大織冠聖朝移倉橋山多武峯、其上起十三重塔(云々)或説云、白雉四年入唐。天智六年重入唐矣。旧記云、定恵和尚白雉四(癸丑)(六五四)年夏五月随遣唐使入唐。高宗永徽四年也。在唐習学二十六年、高宗儀鳳三(戊寅)(六七八)年、伴百済使帰朝。白鳳七年秋九月、同年起十三重塔矣(已上)<多武峯略記、草創>鎌倉期。
   (9)コレヨリサキニ、孝徳ノ御代ニ大化・白雉、天智ノ御時白鳳、天武ノ御代ニ朱雀・朱鳥ナンド云号アリシカド、大宝ヨリ後ニゾタエヌコトニハナリヌル。<北畠親房『神皇正統記』文武>一三三九年。

(1)~(8)は、「白鳳」元年、「朱雀」元年を共に天武天皇元年壬申に当てるものだ。(1については、後に再び論じる)
これらを総合すると、天武元年にまず「朱雀」年号が建てられ、次に「白鳳」年号が建てられたのだとする。(ここで、「白鳳」元年を翌癸酉年に当てる説も存在する。→『扶桑略記』等)
「白雉」=「白鳳」や「朱鳥」=「朱雀」から見れば、「白鳳」「朱雀」の順序も異なるのである。
次に(9)は、また異説だ。天智の時に「白鳳」、天武の時に「朱雀」年号があったというのである。
これは、『二中歴』にも一致する記載だ。
また、(1)は、割註の干支が正しければ、六八三年の出来事の記載なのであろうが、一方で、「天武天皇即位元年=白鳳十二年」と見なすことも可能だ。
反対にそのように見なければ、「天武天皇即位元年」という記述が意味を為さないのである。だとすれば、「白鳳元年」は「辛酉」年に当り、『ニ中歴』のそれと一致することとなる。
これらの史料状況を垣間見ると、「白鳳」「朱雀」が決して「年代」の固定した「年号」ではないことが、ハッキリする。
大きく分けて三系統ある。
1は、「白雉」「朱鳥」と同じ時代を含むもの。
2は、「朱雀」「白鳳」ともに天武初年の「祥瑞改元」とするもの。
3は、「白鳳」は天智。「朱雀」は天武とするもの。
『二中歴』系統の諸本と言えども同様である。
実際、「白鳳」「白雉」「朱雀」「朱鳥」の各年号については、諸本の異同が多い。
また、『日本書紀』に「白鳳」「朱雀」なしという事実や聖武天皇の詔報の解釈によれば、これが「九州年号」の一つであった可能性は高いのだが、決定的な根拠は無い。
これが率直なところだ。
2-3.「大化」

さて、『日本書紀』に記載のある最初の年号が、「大化」だ。

   天豊財重日足姫(皇極)天皇四年を改めて、大化元年と為す。<孝徳紀、即位前紀>

ところが、実際の孝徳朝時代の史料・金石文には、「大化」年号を記したものがほとんど無い(「宇治橋造橋碑」がその唯一の存在であるが、これも現存するものではない)。
このことから、その実在・実用を疑う論者が多く出ている(佐藤誠実等)。
さて、中世文献に目を移すと、そこには、「持統朝の大化年号」を示す記述が多く存在する。

   太上天皇持統天皇。大化三年譲位於軽皇太子。<藤原清輔『袋草紙』諸集人名不審、万葉集>一一五八年頃。(岩波新大系本による)
   大化三年八月一日、譲位於軽太子、尊号曰太上皇。凡太上皇之号始此時也。<歴代皇紀>
   大化三年二月に東宮とす。<藤原資隆『簾中抄』>鎌倉初期頃
   一、持統 十年(元年丁亥)(中略)此御時年号アリ。此御時ノ始ニ大津皇子謀反ノ事アリテ被殺給ニケリ。朱鳥ノノコリ七年。大化四年(元年乙未)<慈円『愚管抄』皇帝年代記>一二二〇年。
   一、文武 十一年(元年丁酉)(中略)大化三年(元年戊戌)二月為東宮。(中略)大化残一年。無年号三年。大宝三年(元年辛丑)<同>

いずれも、六九五年を元年とする。
これもまた、『二中歴』系統の諸本に一致するものだ。
こちらを正として、『日本書紀』の記載を訂正する論者もある(重松明久)。
だが、これも、奇妙である。なぜ、『日本書紀』が「持統朝の大化年号」を消す必要があるのか、という、根本の問いに答えることが出来ないのである。
また、所功をはじめとして、大多数の論者は、この「持統朝の大化年号」を後人の作為であると見なすが、これもまた、「なぜ、日本書紀に逆らってまで、このような作為をせねばならないのか」という根本の問いは不可避だ。
いずれの場合も、根本的な問題に対する回答が得られないのである。
袋小路だ。
私は現在の所、孝徳朝の「大化」は、近畿天皇家制定の年号、持統朝の「大化」は九州王朝制定(時代的には、白村江の敗戦後であるが、「大義名分」上は年号を制定しうる存在だったと考えている)と思うが、勿論、確証は無い。
少なくとも、「年号を制定し得る勢力は複数有り得る」ことを前提に、論じなければなるまい。
そうでなければ、先の「袋小路」に迷うほかは無いのだ。
2-4.「善記」「明要」「僧聴」「定居」

以下は、各「逸年号」に対し、簡単に史料を紹介し、現在の私の見解を述べてみたい。
まず「善記」だ。

   香椎宮縁起云、善紀元年(壬寅)従大唐八幡大菩薩(傍書、大帯姫也)日本還給不知之間、求御住所給、筑前国香椎居住給、其後新羅国悪賊発来為日本打取之日、乍奉入胎之四所君達依満当月之給取白石給御裳腰指給云、若是石有験、我胎子今七日之間不生給、我石神奉祈誓給合戦給、既戦勝還給、石有験過七日四所君達産給、穂浪郡山辺集住給後、求各御住所給移住之給、故名大分宮、件白石御正体尚大分宮留給、如是之間、聖母大帯姫并四所君達併日本我朝領掌給、対人民領掌給、発誓言云。<神吽編『八幡宇佐宮御託宣集』>正応三(一二九〇)に編纂開始、正和二(一三一三)完成。

これが、私の知る「善紀」年号の最も古い出現例だ。
ここでは、「大帯姫」(息長足姫=神功皇后と同一視される)の時代のこととして現れている。
『ニ中歴』その他の諸本が継体の時代とするのと大きく異なる。(干支は同じ)
ここでいう「大帯姫」が本当に神功皇后その人と同一人物なのかどうかは、甚だ疑問だ。
九州各地に存在する「大帯姫」伝承をくまなく検証する必要があろう。
ここでの「善紀」年号はその伝承とワンセットだ。
決して、「継体」の時代にとらわれる必要はないのである。

次に「明要」と「僧聴」だ。

   明要元年(癸亥)停結縄、刻木始成文字。<宗像大菩薩御縁起>鎌倉末期頃。
   人王卅代欽明天皇御宇僧聴五年仁、自新羅国献釈迦金銅像。<同>

注目されるのは、「明要」年号だ。

   明要十一年(元辛酉文書始出来結縄刻木止畢)<ニ中歴>

このように、『二中歴』所載の割註の原典である可能性が有る。
ただ、干支も異なるし、『宗像大菩薩御縁起』によれば、「明要」→「僧聴」の順であって順序も異なる。

   抑聖徳太子御誕生之時代相尋上古侍レハ、年号ハ異説金光三年(五七二)壬辰歳也。自金光三年至于今文保元(一三一七)年過方已七百廿八年也。<聖徳太子伝記、太子初生>文保二(一三一八)年成立。

聖徳太子伝記』には「金光」のほかに「勝照」「端政」の各年号が見える。
いずれも、聖徳太子伝説の一環として記載されているが、もともとは別の人物に対する伝承だったかもしれない。

   琳聖太子(中略)本朝ニ渡ラセ玉フ此ハ推古天皇十九年辛本暦号定居元年トカヤ。<大内譜録長門記>
   誠ニ由来ヲ申セバ、百済国ノ王子琳聖太子ト申セシガ、日本周防国多々良ノ浜ヘ定居二年ニ来迎シ大内ニ住居シ玉ヒ、国ノ守護所ノ人ヲ縁トシテ民百姓ヲシタガヘ、武英ヲ以テ国ヲ切取ル事ツヽガナク、次第次第ニ繁昌シテ、義隆卿ニ至マデ廿六代、年ノ数ヲカゾフレバ、九百四十年トゾミエニケル。<大内義隆記>天文二十年(一五五一)。

戦国の大内氏が、「百済王子」の血を引く(と伝えられる)ことは、著名であるが、その伝承の中に、「定居」年号は現れる。
この「定居」年号は、通常、推古天皇の時代とされるが、それでは、「法興」年号と重なってしまう。
ここに、『ニ中歴』系統が「法興」を脱落させた要因があるようにも思われる。
私は、「定居」年号は干支一巡遡った、欽明時代の年号と考えるのだが、いかがであろうか。

私は、『ニ中歴』のような「年号表」の類でなく、こういった、各種史料から、各年号の性質・性格を分析して、はじめて、偽作・真作や、制定者は誰なのかといった問いに答えることが出きるのだと考える。
従って、今はまだ、全てが保留だ。
今後のより詳細な研究を待つほかは無いのである。