歴史・人名

邪馬台国の卑弥呼と倭の五王

邪馬台国の卑弥呼と倭の五王
卑弥呼歴史
魏志倭人伝の「邪馬台国ルート」と倭国大乱を素直に読めば、
「邪馬台国の場所 = 九州中部から北部」
は間違いない(と思う)。

また、中国の正史「二十四史」から倭の歴史年表を作ると、
・西暦57年~190年、中国から見た倭は「奴国」で、場所は福岡市近辺。
・西暦178年~184年、九州北部を中心に倭国大乱が起こった。
・西暦184年~、倭国大乱をおさめるため、国人は卑弥呼を女王に共立した。

というわけで、女王・卑弥呼が誕生したきっかけは倭国大乱ということになる。ところが、注意深く読むと、
倭国大乱をおさめるために、卑弥呼を女王にした」
とあるだけで、
卑弥呼が大乱をおさめた」
とは書いてない。ではその後、どうなったのだろう?

じつは、魏志倭人伝(三国志・魏書)に、その後の倭が記されている ・・・

景初二年(238年)6月、倭の女王が大夫を派遣して帯方郡(朝鮮半島の魏の拠点)にもうで、魏の皇帝に朝貢することを求めた。その年(238年)の12月、卑弥呼は使者を遣わし、男の奴隷4人、女の奴隷6人、布2匹2丈を献上した。魏の王はそれにこたえ、卑弥呼を「倭王」と認めた。

また、「梁書」では ・・・

魏の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑弥呼は初めて朝貢し、魏から「倭王」と認められ、仮の金印紫綬をさずかった。(同じ記述が中国・二十四史「北史)」にもある)

どうやら、卑弥呼は倭の内乱を平定したようだ。魏志倭人伝では238年、梁書では239年、卑弥呼が中国の魏王に使者を派遣し、倭王として認められたとあるからだ。ところで、倭国大乱が始まったのは180年頃なので、乱がおさまるまで60年もかかった?それとも、その前に乱は平定されていた?それを解く鍵は、
「公孫淵が誅殺された後、卑弥呼は初めて朝貢した」
にある。

「公孫淵(こうそんえん)」は、三国志の時代、「遼東」を支配した独立勢力である。遼東は中国と朝鮮半島の中間にあり、倭人が中国に行く際、必ず通る地域であった。その遼東を牛耳っていた公孫淵が死んだので、中国への遣使を再開できた、というわけだ。

遼東は中国の春秋時代、戦国七雄の一つ「燕」の領地だった。紀元前108年、中国の漢王朝は朝鮮半島を支配するため、楽浪郡(現在の平壌)を設置したが、その時、遼東も支配下に入った。ところが、238年、突然、公孫氏が遼東を占領する。そのため、倭人が中国(魏)に行けなくなったのである。その後、卑弥呼が遣使を再会する239年まで、中国の書から倭の記述が消えるので、つじつまは合っている。

公孫淵は油断のならない人物だった。魏と呉の両方に愛嬌を振りまきながら、突然、呉を裏切って、魏に帰順。その後、魏が支配する帯方郡と楽浪郡を占領し、燕王を称したのである。怒った魏王は公孫淵を滅ぼすことにした。魏軍の総司令官は、司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)である。蜀の諸葛孔明の宿命のライバルにして、魏随一の名将。

ということで、”寝技”が専門の公孫淵に勝ち目はなかった。238年8月、ロクな戦いもなく、燕軍は壊滅、公孫淵父子はじめ一族郎党、首をはねられた。こうして、帯方郡、楽浪郡、遼東は魏にもどり、「倭 → 朝鮮半島 → 中国」ルートが復活したのである。

さて、これらの史料の行間を読めば、卑弥呼が初めて朝貢した239年まで、倭国大乱が続いたとは思えない。それ以前に、倭国大乱は平定されたが、公孫淵の謀反で中国(魏)に行けなかったのだろう。この公孫淵事件は、中国・二十四史の一つ「晋書(しんじょ)」にもあり、次のように記されている ・・・

宣帝(司馬懿仲達)が公孫氏を平定すると、その女王(卑弥呼)は遣使を帯方郡に送って朝見し、その後も朝貢が続いた。文帝が相となると、また数回やって来た。前泰の初め、遣使が重ねて入貢した。

さて、ここに新しい情報がある。公孫氏が司馬懿仲達に討たれてから、前泰の初めまで、倭が積極的に朝貢したというのだ。「前秦」は五胡十六国時代、中国の長江(揚子江)以北全域を支配した大国である。前秦の存続期間は「351年~394年」なので、「前泰の初め」は351年以降。つまり、倭は、238年~351年、熱心に中国に使者を送っていたことになる。

ただ、
公孫氏を平定した後、朝貢したのは卑弥呼
とあるが、
「前泰の初めに朝貢したのは卑弥呼
とは書いてない。そもそも、「前泰の初め」は西暦351年~で、卑弥呼が生きているはずがない。というのも、梁書によれば ・・・

正始中(240-249年)、卑弥呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに殺しあったので、再び卑弥呼の宗女「臺與(とよ)」を王として立てた。その後、また男の王が立った、いずれも中国の爵命を拝受した。

つまり、卑弥呼は240~249年に死んでいる。とすると、「前泰の初め(西暦351年)」の朝貢は、卑弥呼も臺與もありえない。

ここで、一度整理しよう。
・180年~、倭国大乱が勃発した。
・~189年、倭国大乱をおさめるため国人は卑弥呼を共立した。
・239年、倭王・卑弥呼が初めて朝貢した。
・240~249年、卑弥呼は死んだ。
・~351年、倭は頻繁に朝貢した。

ということで、351年の朝貢は、少なくとも卑弥呼ではない。

ところが ・・・

この間に倭に「政変」が起こった気配はない。うっかりすると、351年の朝貢も卑弥呼に思えるほどだ。つまり、351年までは、倭の政権は卑弥呼、あるいは卑弥呼を継承した王統であった可能性が高い。つまり、「九州政権」。さて、ここで新たな問題が発生する。いつ、九州政権からヤマト王権(大和朝廷)に移ったか?

■倭の五王
梁書によれば ・・・

魏の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑弥呼は初めて遣使を以て朝貢し、魏は親魏王と為し、仮の金印紫綬を授けた。正始中(240-249年)、卑弥呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、再び卑弥呼の宗女「臺與」を王として立てた。その後、また男の王が立った、いずれも中国の爵命を拝受した。

晋の安帝時(396-418年)、倭王・讃(さん)がいた。讃が死に、弟の珍(ちん)が立った。珍が死に、子の済(せい)が立った。済が死に、子の興(こう)が立った。興が死に、弟の武(ぶ)が立った。斉の建元中(479-482年)、武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に除した。高祖が即位すると、武の号を征東大将軍に進めた。

いわゆる、「倭の五王」の記述である。ざっくり言うと、
「西暦396年~482年、倭に、讃、珍、済、興、武の五王が立った」

「倭の五王」は、中国・二十四史の「南史(なんし)」、「宋書」にも出てくる。内容は梁書にくらべ、かなり詳細だが、五王の名前は同じ。では、この倭の五王とは一体誰をさすのか?

「日本書紀」から、
・讃 → 履中天皇
・珍 → 反正天皇
・済 → 允恭天皇
・興 → 安康天皇
・武 → 雄略天皇
とする説がある。この説に従えば、396年には九州政権からヤマト王権(大和朝廷)に移っていたことになる。

ところが、中国・二十四史によれば、西暦600年以降、「倭」と「日本」が明確に区別されている。

それを素直に読めば、

1.【倭】:邪馬台国・卑弥呼を継承する王統(九州政権)

2.【日本】:ヤマト王権(大和朝廷)

もし、これが事実なら、九州政権からヤマト王権に移った時期は、600年以降になる。さて、真実はどこに?この謎は、邪馬台国の場所より、さらに深い。

《つづく》

by R.B


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邪馬台国と大和朝廷
■空白の4世紀
邪馬台国の卑弥呼が死んだのは西暦240~249年。そして、日本の歴史が明らかになるのは592年以降(飛鳥時代)。では、249年~592年の間、日本で何が起こっていたのか?

じつはこの間、確かなことは何もわかっていない。266年~413年、中国の文献から倭の記述が消えてしまうからだ。そのため、「空白の4世紀」と言われている。ただ、中国・二十四史を丹念に読めば、少なからず倭の記述がある。そして、その中に、この時代を明らかにする鍵が含まれているのだ。

邪馬台国の場所は九州北部に間違いないだろう。さらに、卑弥呼が死んだ後も、邪馬台国または邪馬台国を継承した九州政権が存続し、中国に朝貢したことも確かである。また、同じ頃(西暦300年)、奈良盆地に大規模な前方後円墳が出現する。前方後円墳は大和朝廷の象徴なので、この頃、奈良に大和朝廷(ヤマト王権)が興ったことは間違いない。そして、この王権が飛鳥時代に継承され、今の王室につながっている。

ということで、日本の政権が、遅くとも7世紀までに、邪馬台国を継承する九州政権から、大和朝廷(ヤマト王権)に移ったことは確かだが、それがいつ、どのような形で起こったか分からない。それどころか、邪馬台国と大和朝廷ヤマト王権)の関係もはっきりしない。そこで、邪馬台国から大和朝廷(ヤマト王権)までの空白の4世紀を追う。時代は、290年~650年。

ここで、
1.「奴国 → 邪馬台国」を継承する九州政権を「邪馬台国王統」
2.奈良で興った大和朝廷(ヤマト王権)を「大和朝廷」
と呼ぶことにする。

■邪馬台国王統
中国・二十四史「北史」によれば ・・・

西暦239年、卑弥呼は初めて朝貢し、魏王から仮の金印を授かった。西暦240~249年、卑弥呼が死んで、男王が立った。ところが、国中が服従せず、互いに殺し合った。そこで、卑弥呼の宗女「臺與(とよ)」を王に立てると、混乱はおさまった。その後、再び男王が立って、中国から爵位を拝命した。その後も、中国への朝貢は続いた。西暦600年、倭王「阿毎」が遣使を王宮にもうでさせた。

阿蘇山があり、そこにある石は天に火柱を昇らせる。如意宝珠があり、色は青く、鶏卵の大きさで、光り、魚の眼の精霊だという。新羅や百済は、倭は大国で、珍しい物が多いので、これを敬い、常に使者が往来している。

以上を整理すると、卑弥呼が死んだ後も中国への朝貢が続き、西暦600年には倭王「阿毎」が立った。さらにその後、阿蘇山の話が出てくるので、倭王「阿毎」の国は九州とみていいだろう。ということで、西暦600年頃、中国からみた倭は、まだ邪馬台国王統だった可能性が高い。

つぎに、中国・二十四史「旧唐書」をみてみよう ・・・

倭国とは古の倭の奴国である。四方の小さな島々と五十余国が、この奴国に属している。その王姓を「阿毎」といい、諸国はみな畏怖している。西暦631年、遣使が方物を献じた。西暦648年、また新羅(朝鮮王朝)に倭の使者が来た。

この部分は重要だ。「倭国」は昔の「奴国」のことで、王姓を「阿毎」といい、西暦631年と648年に遣使した、とはっきり書いてある。先の「北史」と読み合わせれば、
「西暦648年までは、中国から見た倭は奴国を継承する邪馬台国王統」
は間違いない。そして、西暦600年の王は「阿毎氏」だった。また、倭王「阿毎」の名は中国・二十四史の「隋書」にも登場する。

さらに、中国・二十四史「梁書」、「南史」、「宋書」には、「倭の五王」の記述がある。内容をかいつまむと、
「西暦396年~482年、倭に、讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の五王が立った」

この「倭の五王」と誰をさすのか?「日本書紀」に出てくる大和朝廷の大王(おおきみ)の系譜から、
・讃 → 履中天皇
・珍 → 反正天皇
・済 → 允恭天皇
・興 → 安康天皇
・武 → 雄略天皇
とする説がある。

この説に従えば、396年には、倭の政権が邪馬台国王統から大和朝廷に移っていたことになる。ところが、前述した中国・二十四史によれば、648年、中国から見た倭はまだ邪馬台国王統である。しかも、倭の五王の名「讃、珍、済、興、武」は見るからに中国風。大和朝廷とは考えにくい。この時代、邪馬台国王統は中国の遣使に熱心だったので、中国に敬意を表し、中国名に変えたのかもしれない。というわけで、倭の五王は邪馬台国王統と考えるのが自然だ。じつは、それを裏付ける決定的な証拠がある。

旧唐書」はさらに続けて ・・・

日本国は倭国の別種である。その国は「日の出(いずる)」の場所にあるので、日本と名づけた。また、倭国はその名が雅(みやび)でないを嫌い、日本に改名したともいう。日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。

この記述は決定的だ。西暦648年の倭国の遣使の後、初めて「日本国」の名が出てくる。しかも、
「日本は昔小国だったが、倭国を併合し、日本と改名した」
とある。この「倭国を併合した国」が、大和朝廷と考えて間違いないだろう。つまり、後の大和朝廷(ヤマト王権)は、小国(奈良 → 畿内)から始まり、倭国(邪馬台国王統)を併合し、日本に改名したのである。

ということで、
「邪馬台国王統から大和朝廷に移行したのは西暦650年頃」

■大和朝廷(ヤマト王権
中国・二十四史に「日本国(大和朝廷)」が登場するのは、650年以降である。では、どのような経緯で大和朝廷が成立したのだろう。この時代、日本はまだ文字を持っていないので、考古学に頼るしかない。

西暦300年頃、奈良盆地に大規模な前方後円墳が出現する。その後、400年頃、畿内でも造られるようになり、450年以降、全国に拡大する。ところが、600年頃には全く造られなくなる。これらの考古学的事実から、大和朝廷の歴史を推定すると ・・・

大和朝廷は西暦300年に興り、400年に畿内を制圧、450年頃から全国に勢力を拡大する。そして、600年以降、前方後円墳が造られなくなるので、この頃に大和朝廷の権威が確立した。これは、「592年に飛鳥時代が始まる」と一致する。

ということで、考古学的見地から、邪馬台国王統から大和朝廷への移行は西暦600年以降と考えられる。これは、先の中国・二十四史の記述と一致する。では、どのような経緯で邪馬台国王統から大和朝廷に移行したのだろう。ところが、前述したように、邪馬台国と大和朝廷の関係すら分かっていない。

ただ、仮説はいくつかある。
1.邪馬台国王統は大和朝廷よって滅ぼされた。
2.邪馬台国王統が東征し、畿内を平定、大和朝廷を確立した。
3.狗奴国が邪馬台国王統を滅ぼし、東征し、大和朝廷を確立した。

ところが、前方後円墳は西暦300年~600年にかけて、奈良を中心に広がっていくので、前方後円墳は邪馬台国王統とは関係がない。だから、大和朝廷は邪馬台国王統とは独立した勢力で、併存していたと考えるべきだろう。しかも、邪馬台国王統は中国の朝貢に熱心で、領土拡大の形跡がない。ということで、
「邪馬台国王統は大和朝廷に征服された」

ただ、「邪馬台国王統が東征し、大和朝廷になった」説には根拠がある。日本書紀や古事記に、神武天皇が九州の日向から近畿へ東征したことが記されているからだ。日本書紀と古事記は、大和朝廷を讃える書なので、その創始者が滅ぼされた畿内出身であるはずがない、というわけだ。

だが、別の考え方もある。奈良発祥の大和朝廷が日本を統一したが、古代に、中国王朝からお墨付きをもらったのは邪馬台国王統である。それに敬意を払って「神武天皇東征記」が生まれたのかもしれない。これは、古代ローマ帝国とエトルリアの関係に似ている。

古代イタリアでは、ローマ帝国に先行してエトルリア文明が栄えた。エトルリア人は高度な文明をもち、隣国のローマ人たちを野蛮人とさげすんだ。それが祟って、エトルリアはローマに征服され、完全に破壊されたのである。ところが、一方で、ローマはエトルリアの文明をしっかり継承している。たとえば、ローマ水道に欠かせない「アーチ」は、エトルリア人の発明である。

さらに、ローマ人はエトルリア人にコンプレックスをもっていた。ローマの貴族たちは、自分の家系にエトルリア人の血が混じっていることを自慢したのである。このような関係は、邪馬台国王統と大和朝廷にも当てはまるかもしれない。

■邪馬台国王統と大和朝廷の比較年表
最後に、邪馬台国王統と大和朝廷を比較した歴史年表を記す。

この歴史年表を俯瞰(ふかん)すれば、
1.古代の日本は、中国から「倭」とよばれた。
2.倭は九州政権で、「奴国 → 邪馬台国 → 邪馬台国王統」と続いた。
3.400年頃、奈良に大和朝廷が興り、邪馬台国王統と併存した。
4.その後、大和朝廷は600年頃までに日本全国に権威を広めた。
5.650年頃、大和朝廷は邪馬台国王統を滅ぼし、日本を統一した。

これで、飛鳥時代以前の日本の歴史も明らかになった。もちろん、あくまで仮説だが。それでも、当たらずとも遠からずと思うのですが、いかがでしょう?

《完》

時期
邪馬台国王統(倭国
大和朝廷(日本)
紀元前107年 ・倭は100余国からなる。
・中国王朝に定期的に朝貢。
57年 ・倭の奴国は中国の後漢に朝貢し、皇帝から金印を授かる。
※奴国は現在の福岡市近辺。
107年 ・倭王・帥升が中国の後漢に朝貢。
※57年に後漢に朝貢した奴国のこと。
107~180年頃 ・帥升の流れをくむ奴国で男の王が70~80年間、倭を支配する。
178~184年 ・帥升の流れをくむ奴国の支配が終わり、内乱がはじまる。
倭国大乱
~189年 ・倭の内乱をおさめるため、女王・卑弥呼が立つ。
238年 ・遼東の公孫淵が謀反を起こし、帯方郡と楽浪郡を占領し、燕王を称する。
※倭と中国を結ぶルートが遮断され、倭が朝貢が中断。
238年6月 ・倭の女王・卑弥呼が帯方郡に使者を送り、魏の皇帝に謁見することを願い出る。
238年8月 ・魏の将軍・司馬懿が帯方郡と楽浪郡を奪還し、公孫淵一族を滅ぼす。
※倭と中国を結ぶルートが回復。
238年12月 ・魏の皇帝が、倭の女王・卑弥呼を「親魏倭王」と認める。
247年 ・帯方郡の太守が魏の王都(洛陽)におもむき、倭の女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみここ)が攻防している様を説明する。
※狗奴国は邪馬台国の南方にあった宿敵。
240年~
249年 ・卑弥呼が死ぬ。
・その後、男の王が立つが、国中が服従せず、内乱状態に陥り、1000人余りが殺される。
卑弥呼の宗女「壹與(とよ)」が13歳で女王になり、国の混乱は収まる。
300年 ・奈良盆地に大規模な前方後円墳が出現する。
351年 ・邪馬台国を継承した邪馬台国王統が中国に朝貢する。
396年 ・倭の五王の初代、讃(さん)が朝貢する。
400年 ・畿内で前方後円墳がさかんに造られる。
443年 ・倭の五王の3代、済(せい)が朝貢する。
450年 ・日本各地で前方後円墳が造られる。
462年 ・倭の五王の4代、興(こう)済が朝貢する。
479年~
482年 ・倭の五王の5代、武(ぶ)が中国の梁の武帝から、征東大将軍に叙せられる。
592年 ・飛鳥時代が始まる(崇峻天皇)。
・日本で前方後円墳が造られなくなる(大和朝廷が日本の大半を支配?)。
・国号が「日本」に変わる。
600年 ・倭王・阿毎が朝貢する。
631年 ・倭国が唐の太宗に朝貢する。
倭国は昔の奴国と記述あり。
648年 ・倭国が新羅(朝鮮王朝)に遣使。
650年頃 邪馬台国王とが大和朝廷に征服される。 ・中国の書に「日本国」がはじめて登場。「日本は昔、小国だったが倭国を併合し、日本と改名した」とある。
650年以降 大和朝廷が日本の統一王権を確立する。
by R.B


http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-161/