歴史・人名

隈部親永

隈部親永
?~天正16(1588)
 隈部氏は代々菊池氏に仕え、城、赤星と並ぶ菊池三家老のひとつであった。
 菊池家は第22代当主・能運の死去により宗家が断絶した後、政隆、武経、武包と当主が転々とし、大友家から義武が立てられて一応落ち着いた。
 しかし天文19(1550)年、菊池義武は兄・大友義鑑に対して反乱を起こし鎮圧された。このとき、隈部親永は山鹿郡水野に居城していたが、同じく三家老のひとつである赤星親家は乱鎮圧に功があったとして菊池家の本城・隈府城を与えられた。その後、領地問題から赤星親家と対立した親永は永禄2(1559)年、親家に猿返城を攻撃されたが城を出て合瀬川において親家を討ち破った。さらに親永は龍造寺隆信の援助を受けて、親家の子・統家が守る隈府城を攻め統家を追放した。以後、隈府城を本拠としている。また、三家老のひとつである城親冬が城村城から隈本城に移った後、嫡子・親安を城村城に入れ、永野城にも一族を入れた。
 天正13(1585)年、島津氏が肥後に侵攻して来たが、難攻不落で鳴る隈部氏の城砦群は一年余の籠城で一城も落ちず、島津義久は親永と和議を結んだ。
 九州征伐後、肥後国人衆は本領以外没収となり、親永の所領は他の国人衆同様半分以下とされた。そして、肥後の統治を任されたのは佐々成政であった。
 しかし、佐々成政が検地を実施すると親永ら国人衆はこれに反対して挙兵した。この一揆は、隈部親永を頭として肥後全域に広がる大規模なものであった。成政は早速5000の兵で隈部親永の隈府城を攻めた。隈府城を支えきれなかった親永は嫡子・親安の守る城村城へ逃げ込み、1万5000人で籠城した。成政は城村城攻めを開始したが、その隙に甲斐親英、菊池武国、赤星氏、城氏らが率いる3万余の国人衆が成政の隈本城を囲んだため、成政は隈本城に戻り一揆軍の一部を内応させて撃退した。しかし、城村城はその後も成政の猛攻に耐え、9か月もの籠城となった。この状況を知った秀吉は成政を尼崎に呼びつけ、天正16(1588)年5月切腹を命じた。さらに秀吉は肥後近隣の黒田、立花、毛利、島津など諸大名に動員令を発し一揆鎮圧を命じた。そして大軍を受けた一揆勢に黒田孝高が和議を申し入れて来たため、一揆軍は開城し、親永は立花氏に、親安は毛利氏に預けられた。その後、親永と親安は切腹を命じられている。