歴史・人名

難波京

難波京(読み)なにわきょう
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
難波におかれた都。古くは,応神天皇の大隅宮 (おおすみのみや) ,仁徳天皇の高津宮が『日本書紀』にみえ,その後,欽明天皇のときに,祝津宮 (はふりつのみや) の名がみえる。さらに孝徳天皇の大化1 (645) 年大和の地を離れて,交通の便利な難波に遷都した。これを難波長柄豊碕 (ながらのとよさき) 宮といった。その位置は,現在の大阪市の東淀川区と北区にまたがる地域であった。その後,斉明天皇のとき飛鳥 (あすか) に都を移し,天武天皇のとき,難波に遷都を企てたが実現しなかった。聖武天皇は神亀3 (726) 年藤原宇合 (うまかい) を知造難波宮事に任じて,皇居の造営を行い天平6 (734) 年に完成した。その位置は,現在の大阪市中央区法円坂のあたりといわれる。

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百科事典マイペディアの解説
古代の都。その皇居を難波宮という。仁徳天皇の難波高津宮は伝承上の存在で位置未詳。今の大阪市中央区法円坂(ほうえんざか)1丁目・馬場(ばんば)町付近の台地から前期・後期2時期の宮殿跡が発見されている。前期難波宮は孝徳天皇の難波長柄豊碕(なにわのながらとよさき)宮,後期難波宮は聖武天皇が再建したものと考えられる。遺構は1954年からの調査で内裏(だいり)・大極殿(だいごくでん)・朝堂院(ちょうどういん)の部分が明らかになっている。→恭仁京/平城京/難波津
→関連項目大阪[市]|紫香楽宮|聖武天皇|中央[区]|都城制

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世界大百科事典 第2版の解説
7世紀中葉から8世紀末まで,現在の大阪府の上町台地を中心とする古代難波にあった日本の都。1954年以来の発掘調査によって,上町台地北端部の大阪市中央区法円坂町の地を中心に前期・後期2時期の宮殿址が発見された(図)。前期難波宮は孝徳朝の難波長柄豊碕(ながらとよさき)宮,後期難波宮は聖武朝に再建された奈良時代の難波宮の遺構であると考えられる。前期・後期難波宮ともに主として内裏・朝堂院など中心部の状況が明らかにされており,その宮域は未確認であるが約1km四方と推定されている。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

645年(大化1)12月の難波遷都に伴って難波長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)が造営されて以来、奈良時代の難波宮を経て8世紀末に廃絶するまで約150年間難波に存続した都城。大阪市の上町(うえまち)台地を中心とする古代の難波の地には古くは応神(おうじん)天皇の大隅宮(おおすみのみや)、仁徳(にんとく)天皇の高津宮(たかつのみや)、欽明(きんめい)天皇の祝津宮(はふりつのみや)などの宮室が設けられたことが『記紀』に記されている。また『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』『万葉集』『正倉院文書』には難波宮に関する数多くの記事や歌が残されている。難波宮の所在地については、上町台地北端部に求める上町説と、現在の大阪市北区辺とする下町説があって、江戸時代以来論争が続いた。1953年(昭和28)中央区法円坂町より鴟尾(しび)の破片が出土したことが直接のきっかけとなって、翌年より山根徳太郎を中心とする発掘調査が開始された。以来30年余にわたる発掘調査の結果、大阪城南の中央区馬場町・法円坂一丁目一帯の地に、前期・後期に二大別される宮殿遺跡が発掘され、孝徳(こうとく)朝の難波長柄豊碕宮以来聖武(しょうむ)朝の難波宮に至るまで、一貫して難波宮が上町台地上に営まれたことが明らかにされた。

 前期難波宮は、652年(白雉3)完成した孝徳朝の難波長柄豊碕宮が天武(てんむ)朝まで存続していたのを利用して、それを一部改修して再用した難波宮で、686年(朱鳥1)正月全焼したことを示す火災痕跡(こんせき)をとどめている。前期難波宮の規模と構造は、北に内裏(だいり)、南に朝堂院を置く藤原宮以降のわが国宮室の原型としての特色をよく示している。後期難波宮は、726年(神亀3)より式部卿従三位(しきぶきょうじゅさんみ)藤原宇合(うまかい)を知造難波宮事に任じて造営に着手し、734年(天平6)ごろ完成した奈良時代の難波宮にあたる。後期難波京の存在については734年の宅地班給記事などから推定されているが、前期難波宮に藤原京と同様の条坊制に基づく京が存在したかどうかについては意見が分かれている。前期、後期難波宮の中軸線上に朱雀大路(すざくおおじ)に相当する古道痕跡(こんせき)が認められることや、四天王寺(してんのうじ)近辺に藤原京と同じ一辺約265メートルの方格地割が残っていることなどを手掛りに、難波京の復原が試みられている。難波宮跡は内裏・朝堂院跡を中心に約8万9000平方メートルが国の史跡に指定され、難波宮史跡公園として環境整備が進められている。

[中尾芳治]

『山根徳太郎著『難波の宮』(1964・学生社)』▽『上田正昭編『日本古代文化の探究 都城』(1976・社会思想社)』▽『直木孝次郎編『難波京と古代の大阪』(1985・学生社)』▽『中尾芳治著『難波京』(『考古学ライブラリー46』1986・ニュー・サイエンス社)』

難波宮跡公園

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世界大百科事典内の難波京の言及
【都城】より

…この藤原京が当時は〈新益京〉とよばれたことからも知られるように,それ以前,少なくとも天武朝初年にすでに行政区画としての京が成立していたことは確実であるが,その京が都城制にのっとっていたかどうかは不明である。また藤原京以前,やはり天武朝に存在した難波(なにわ)京には,すでに羅城が設けられており,遺存地割などからも藤原京と相似た都城構造をもっていたことが推測されているが,その詳細や成立年代は確かでない。さらに天智朝の近江京についても,それが条坊制による都城を形成していた確証は今のところない。…