歴史・人名

韓国併合 岩波

韓国併合
(海野福寿著、岩波新書388 1995年刊)

第一章 朝鮮の開国
第二章 “軍乱”とクーデター
第三章 日清戦争前後
第四章 日露戦争下の韓国侵略
第五章 保護国化をめぐる葛藤
第六章 韓国併合への道

あとがき
参考文献
付 録  江華島(カンファド)事件を口実に朝鮮の開国に成功した日本は、清国との角逐や欧米列強との利害調整をくり返しつつ、日清・日露戦争をへて、一九一〇年、韓国を「併合」する。
 それは同時に、朝鮮政府・人民の粘り強い抵抗を排除する過程であり、苛酷な弾圧の歴史でもあった。
 朝鮮植民地化の全過程を、最新の研究成果にもとづいて叙述する待望の通史。

海野福寿(うんの・ふくじゅ)  1931年東京に生まれる、1961年東京大学大学院(農業経済学)博士課程修了
 専攻-日本近代史、近代日朝関係史、現在-明治大学文学部教授
 著書-「明治の貿易」(塙書房) 「恨――朝鮮人軍夫の沖縄戦」(河出書房新社) 「日本近代思想大系20 家と村」(共編、岩波書店) 「日本の歴史18 日清・日露戦争」(集英社) 「日韓協約韓国併合条約」(編著、明石書店)など
 あとがき  1995年4月  海野福寿 top

 本書は、朝鮮の開国から韓国併合までの日朝・日韓関係を外交史を中心にまとめたものである。
 外交史の専門家でもないわたしがその気になった契機は、一九九三年一一月ピョンヤンでひらかれた「日本の戦後処理問題に関するピョンヤン国際討論会」への参加である。
 その討論会でわたしたちは、「従軍慰安婦」や強制連行問題を報告の中心にすえたが、朝鮮民主主義人民共和国側の報告は、個々の問題をふまえながらも、日本の朝鮮支配全体の責任を問うものであった。
 それは「従軍慰安婦」や強制連行があったから日本の「植民地」支配が悪かったのではなく、「植民地」支配そのものが正当性・道義性を欠いていたから「従軍慰安婦」や強制連行問題をひきおこしたのだ、といっているようにわたしには思われた。
 日本が謝罪を求められているのは個々の不法行為にたいしてではなく、朝鮮民族をまるごと支配した愚劣な行為にたいしてであり、問われているのは日本人のモラルの再生状況なのである。
 しかも、わたしたちが歴史的事実として自明のことのように思ってきた日本の朝鮮「植民地」支配は、その成立に合法的根拠がなく、不法・不当な強占(かんちょむ=軍事占領)が一九四五年の解放までつづいたのだ、と彼らは主張する。
 韓国でも同じような意見が少なくないが、日本の朝鮮支配をどのように規定するのか、「植民地か強占か」という問題は、まもなく再開されるであろう日朝国交正常化交渉の「基本問題」として論議されるであろう。
 歴史学のうえでもとりあげられるに違いない。
 本書の主要テーマもこの点にかかわる。
 しかし、にわか勉強のわたしかたどりついた結論は、共和国の歴史学者の主張とはやや異なる。
 韓国併合は形式的適法性を有していた、つまり国際法上合法であり、日本の朝鮮支配は国際的に承認された植民地である、という平凡な見解である。
 だが誤解しないでほしい。
 合法であることは、日本の韓国併合植民地支配が正当であることをいささかも意味しない。
 当時、帝国主義諸国は、紛争解決手段としての戦争や他民族支配としての植民地支配を正当視していた。
 彼らの申し合わせの表現である国際法・国際慣習に照らして、適法であるというにすぎない。
 日本はその適法の糸をたぐって、国際的干渉を回避しながら韓国を侵略し、朝鮮民族を支配し、「朝鮮の人民の奴隷状態」(カイロ宣言)をつくりだしたのである。
 わたしたちにとって考えるべき問題の本質は、併合にいたる過程の合法性如何ではなく、隣国にたいする日本と日本人の道義性の問題ではないか、と思う。
 ところで、「韓国併合」はしばしば「日韓併合」とよばれる。
 山辺健太郎氏も自著を『日韓併合小史』と題された(一九六六年初版、岩波新書)。
 しかし、正確には「韓国併合」とよぶべきではないだろうか。
 なぜなら、日本“が”韓国“を”併呑(へいどん=飲込む)した併合条約の正式名称は「韓国併合に関する条約」であり、当時の新聞なども多くが「韓国併合」と称していたことにくわえ、国定教科書もまた、基本型は「韓国併合」だったからである。
 国定教科書の場合を少しくわしくみてみよう。
 併合の翌一九一〇年発行の第二期国定教科書の表現は「韓国の併合」、第三期(一九二〇~二一年発行)と第四期(一九三五年発行)は「韓国併合」、そして第五期(一九四一年発行)は「併合」ということばさえ避けて「内鮮一体となる」という記述になる。
 第六期(一九四三年発行)では、「〔韓国皇帝が〕統治権をお譲りにな」り、「〔天皇が〕韓国併合の詔をおくだしにな」る、とする。
 戦後の第七期(一九四六年発行『国のあゆみ』)では、「わが国が韓国を併合しました」である。
 改訂のたびに、そのときどきの時代的要請をうけて、さまざまな表現を使いわけているものの、「韓国併合」が基本であって、「日韓併合」という表現はみあたらない。
 おそらくは、今日ひろく使われている「日韓併合」「日韓併合条約」という表現が定着したのは戦後のことではなかろうか。
 わたしはいま、これ以上この問題をつまびらかにする材料をもたないが、あるいは、日本が韓国を併合したという語感をうすめ、対等合併感をにじませようとする意図が潛んでいたか、と勘ぐりたくもなる。
 語感としてそのような印象が生ずるのは否めまい(ただし、山辺氏の名著がこれとはまったく無関係であるのはもちろんである)。
 本書を『韓国併合』と題したゆえんである。
 朝鮮史について晩学のわたしに根気よくつきあい、ときには共同研究で腕を組んで下さるソウル大の安秉直(アンビョンジク)教授、東国大の金洛年(キムナギヨン)助教授、高麗大の李憲昶(イホンチャン)副教授をはじめ、先輩諸氏から受けた学恩に感謝するとともに、訪韓のたびに懇切なお世話をいただいている辛善徳(シンソンドク)氏ご一家にこの機会にお礼申し上げる。
 また、編集部の井上一夫・大山美佐子両氏との韓国料理をつつき合っての談論も執筆促進剤となった。
 井上氏とは『日本近代思想大系』についで二度目のおつきあいである。

      参考文献
   日本で刊行された主な関係書(史料集を除く)のみを掲げた

浅田喬二編『“帝国”日本とアジア』(近代日本の軌跡10)吉川弘文館、一九九四年
井口和起編『日清・日露戦争』(近代日本の軌跡3)吉川弘文館、一九九四年
石井寛治『開国と維新』(大系日本の歴史12)小学館、一九八九年
石坂浩一『近代日本の社会主義と朝鮮』社会評論社、一九九三年
海野福寿『日清・日露戦争』(日本の歴史18)集英社、一九九二年
海野福寿編『日韓協約韓国併合条約』明石書店、一九九五年
大江志乃夫『日露戦争の軍事史的研究』岩波書店、一九七六年
     『日露戦争と日本軍隊』立風書房、一九八七年
梶村秀樹著作集刊行委員会編『梶村秀樹著作集』一~六巻、別巻、明石書店、一九九〇~九三年
姜在彦『朝鮮近代史研究』日本評論社、一九七〇年
    『近代朝鮮の変革思想』日本評論社、一九七三年
    『朝鮮の攘夷と開化』平凡社、一九七七年
『朝鮮近代史』平凡社、一九八六年
姜東鎮『日本言論界と朝鮮』法政大学出版局、一九八四年
姜萬吉著、小川晴久訳『韓国近代史』高麗書林、一九八六年
君島和彦・坂井俊樹編『朝鮮・韓国は日本の教科書にどう書かれているか』梨の木舎、一九九二年
金義煥『近代朝鮮東学農民運動史の研究』和泉書院、一九八六年
金圭昇『日本の朝鮮侵略と法制史』社会評論社、一九九一年
琴秉洞『金玉均と日本-その滞日の軌跡』緑蔭書房、一九九一年
芝原拓自『日本近代世界史的位置』岩波書店、一九八一年
芝原拓自解説『対外観』(日本近代思想大系12)岩波書店、一九八八年
須川英徳『李朝商業政策史研究』東京大学出版会、一九九四年
高崎宗司『“妄言”の原形――日本人の朝鮮観』木犀社、一九九〇年
     『“反日感情”韓国・朝鮮人と日本人』講談社、一九九三年
武田幸男編『朝鮮史』山川出版社、一九八五年
武田幸男・宮嶋博史・馬淵貞利『朝鮮』(地域からの世界史1)朝日新聞社、一九九三年
田保橋潔『近代日鮮関係の研究』上下、朝鮮総督府中枢院、一九四〇年(復刻版あり)
鄭在貞著、石渡延男・鈴木信昭・横田安司訳『新しい韓国近現代史』桐書房、一九九三年
藤間生大『壬午軍乱近代東アジア世界の成立』春秋社、一九八七年
中塚明『日清戦争の研究』青木書店、一九六八年
    『近代日本の朝鮮認識』研文出版、一九九三年
    『近代日本と朝鮮』(第三版)三省堂、一九九四年
中村哲・堀和生・安乗直・金泳鎬編『朝鮮近代歴史像』日本評論社、一九八八年
中村哲・梶村秀樹・安来直・李大根編『朝鮮近代の経済構造』日本評論社、一九九〇年
西尾陽太郎『李容九小伝』葦書房、一九七八年
朴殷植著、美徳相訳『朝鮮独立運動の血史』1・2、平凡社、一九七二年
朴宗根。『日清戦争と朝鮮』青木書店、一九八二年
旗田巍『日本人の朝鮮観』勁草書房、一九六九年
    『朝鮮と日本人』動草書房、一九八三年
旗田巍編『朝鮮の近代史』大和書房、一九八七年
旗田巍先生古稀記念会編『朝鮮歴史論集』下巻、龍渓書舎、一九七九年
浜下武志『近代中国の国際的契機』東京大学出版会、一九九〇年
韓相一著、衛藤瀋吉ほか訳『日韓近代史の空間』日本経済評論社、一九八四年
阪東宏『ポーランド人と日露戦争』青木書店、一九九五年
藤村道生『日清戦争』岩波書店、一九七三年
     『日清戦争前後のアジア政策』岩波書店、一九九五年
古屋哲夫『日露戦争』中央公論社、一九六六年
彭沢周『明治初期日韓清関係の研究』塙書房、一九六九年
マッケンジー著、渡部学訳『朝鮮の悲劇』平凡社、一九七二年
宮嶋博史『朝鮮土地調査事業史の研究』東京大学東洋文化研究所、一九九一年
森山茂徳『近代日韓関係史研究』東京大学出版会、一九八七年
     『日韓併合』吉川弘文館、一九九二年
山中速人『ハワイ』岩波書店、一九九三年
山辺健太郎『日韓併合小史』岩波書店、一九六六年
      『日本の韓国併合』太平出版社、一九七三年
渡辺勝美『朝鮮開国外交史研究』東光堂書店、一九四一年
岩波講座『近代日本と植民地』1~8、岩波書店、一九九二~九三年
岩波講座『日本通史』近代1~4、岩波書店、一九九四年~九五年
朝鮮史研究会編『新版・朝鮮の歴史』三省堂、一九九五年
日韓歴史教科書研究会編『教科書を日韓協力で考える』大月書店、一九九三年
歴史学研究会編『日朝関係史を考える』青木書店、一九八九年
溝口雄三・浜下武志・平石直昭・宮嶋博史編『アジアから考える』1~7、東京大学出版会、一九九三~九四年

付録 top

1 日韓議定書  2 第一次日韓協約  3 第二次日韓協約 4 第三次日韓協約  5 韓国併合に関する条約
原文は片仮名。現代仮名遣いとし、句読点・振仮名を付した。

1 日韓議定書(『官報』明治三七年二月二七日)

日韓議定書 日韓両国政府代表者は、本月二十三日、次の議定書に調印せり。
   議定書
 大日本帝国皇帝陛下の特命全権公使林権助及(および)大韓帝国皇帝陛下の外部大臣臨時署理陸軍参将
 李址鎔は各(おのおの)相当の委任を受け、次の条款を協定す。
第一条 日韓両帝国間に恒久不易の親交を保持し、東洋の平和を確立する為め、大韓帝国政府は
     大日本帝国政府を確信し、施政の改善に関し其忠告を容(い)るること。
第二条 大日本帝国政府は大韓帝国の皇室を確実なる親誼を以て安全康寧ならしむること。
第三条 大日本帝国政府は大韓帝国の独立及領土保全を確実に保証すること。
第四条 第三国の侵害により若(もし)くは内乱の為め、大韓帝国の皇室の安寧或は領土の保全に危険ある場合は、
    大日本帝国政府は速に臨機必要の拑置を取るべし。
    而(しこう)して大韓帝国政府は右大日本帝国政府の行動を容易ならしむる為め十分便宜を与うること。
    大日本帝国政府は前項の目的を達する為め、軍略上必要の地点を臨機収用することを得ること。
第五条 両国政府は相互の承認を経ずして、後来、本協約の趣意に違反すべき協約を第三国との間に訂立することを
    得ざること。
第六条 本協約に関連する未悉の細条は大日本帝国代表者と大韓帝国外部大臣との間に臨機協定すること。

   明治三十七年二月二十三日   特命全権公使       林 権助 印
   光武八年二月二十三日     外部大臣臨時署理陸軍参将 李 址鎔 印

2 第一次日韓協約(『官報』明治三七年九月五日)

日韓協約 去月二十二日、日韓両国政府代表者は次の協約に調印せり。
一、韓国政府は日本政府の推薦する日本人一名を財務顧問として韓国政府に傭聘し、財務に関する事項は
  総て其意見を詢(と)い施行すべし。
二、韓国政府は日本政府の推薦する外国人一名を外交顧問として外部に傭聘し、外交に関する要務は
  総て其意見を詢(と)い施行すべし。
三、韓国政府は外国との条約締結其他、重要なる外交案件即(すなわち)外国人に対する特権譲与若(もし)くは
  契約等の処理に関しては予(あらかじ)め日本政府と協議すべし。

3 第二次日韓協約(『官報』明治三八年一一月三二日号外)
 外務省告示第六号
 本月十七日、韓国駐箚帝国特命全権公使及同国外部大臣は下記協約に調印せり。
   明治三十八年十一月二十三日 外務大臣 伯爵 桂 太郎
 日本国政府及韓国政府は、両帝国を結合する利害共通の主義を鞏固(きょうこ)ならしめんことを欲し、
 韓国の富強の実を認むる時に至る迄、此の目的を以て下の条款を約定せり。
第一条 日本国政府は、在東京外務省に由り今後韓国の外国に対する関係及事務を監理指琿すべく、
    日本国の外交代表者及領事は外国に於ける韓国の臣民及利益を保護すべし。
第二条 日本国政府は、韓国と他国との間に現存する条約の実行を全うするの任に当り、韓国政府は今後、
    日本国政府の仲介に由らずして国際的性質を有する何等の条約若(もし)くは約束をなさざることを約す。
第三条 日本国政府は、其の代表者として韓国皇帝陛下の闕下に一名の統監(レジデント・ゼネラル)を置く。
    統監は専(もっぱ)ら外交に関する事項を管理する為め、京城に駐在し、
    親しく韓国皇帝陛下に内謁するの権利を有す。
    日本国政府は又、韓国の各開港場及其の他日本国政府の必要と認むる地に理事官(レジデント)を置くの
    権利を有す。理事官は統監の指揮の下に、従来、在韓国日本領事に属したる一切の職権を執行し、
    並に本協約の条款を完全に実行する為め必要とすべき一切の事務を掌理すべし。
第四条 日本国と韓国との間に現存する条約及約束は、本協約の条款に抵触せざる限り、総て其の効力を
     継続するものとす。
第五条 日本国政府は、韓国皇室の安寧と尊厳を維持することを保証す。
    この証拠として下名は各本国政府より相当の委任を受け本協約に記名調印するものなり。

   明治三十八年十一月十七日  特命全権公使 林 権助
   光武九年十一月十七日  外部大臣 朴斉純

4 第三次日韓協約(『官報』明治四〇年七月二五日号外)
 日韓協約 明治四十年七月二十四日、韓国京城に於て伊藤統監と韓国総理大臣との間に締結せられたる日韓協約次の如し。
 日本国政府及韓国政府は、速に韓国の富強を図り韓国民の幸福を増進せんとするの目的を以て、次の条款を約定せり。
第一条 韓国政府は施政改善に関し統監の指導を受くること。
第二条 韓国政府の法令の制定及重要なる行政上の処分は、予め統監の承認を経ること。
第三条 韓国の司法事務は普通行政事務と之を区別すること。
第四条 韓国高等官吏の任免は統監の同意を以て之を行うこと。
第五条 韓国政府は統監の推薦する日本人を韓国官吏に任命すること。
第六条 韓国政府は統監の同意なくして外国人を傭聘せざること。
第七条 明治三十七年八月二十二日調印日韓協約第一項は之を廃止すること。
 この証拠として下名は各本国政府より相当の委任を受け本協約に記名調印するものなり。
   明治四十年七月二十四日   統監  侯爵  伊藤博文
   光武十一年七月二四日  内閣総理大臣勳二等 李完用
    
5 韓国併合に関する条約(『官報』明治四三年八月二九日号外)
 朕、枢密顧問の諮詢を経たる韓国併合に関する条約を裁可し、茲に之を公布せしむ。
  御名 御璽
   明治四十三年八月二十九日
     内閣総理大臣 侯爵 桂 太郎
     外務大臣   伯爵 小村寿太郎
条約第四号
 日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下は、両国間の特殊にして親密なる関係を顧い、相互の幸福を増進し東洋の平和を永久に確保せんことを欲し、此の目的を達せむが為には韓国を日本帝国に併合するに如(し)かざることを確信し、茲(ここ)に両国間に併合条約を締結することに決し、之が為、日本国皇帝陛下は統監子爵寺内正毅を、韓国皇帝陛下は内閣総理大臣李完用を各(おのおの)其の全権委員に任命せり。
 因てこの全権委員は会同協議の上、次の諸条を協定せり。
第一条 韓国皇帝陛下は、韓国全部に関する一切の統治権を完全且(かつ)永久に日本国皇帝陛下に譲与す。
第二条 日本国皇帝陛下は、前条に掲げたる譲与を受諾し、且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す。
第三条 日本国皇帝陛下は、韓国皇帝陛下・太皇帝陛下・皇太子殿下竝(ならびに)其の后妃及後裔(こうえい)をして
    各其の地位に応じ相当なる尊称、威厳及名誉を享有せしめ、且之を保持するに十分なる歳費を供給すべきこと    を約す。
第四条 日本国皇帝陛下は、前条以外の韓国皇族及其の後裔に対し、各相当の名誉及待遇を享有せしめ、
     且之を維持するに必要なる資金を供与することを約す。
第五条 日本国皇帝陛下は、勲功ある韓大にして特に表彰を為すを適当なりと認めたる者に対し、
     栄爵を授け且恩金を与うべし。
第六条 日本国政府は、前記併合の結果として全然韓国の施政を担任し、同地に施行する法規を遵守する韓人の
    身体及財産に対し十分なる保護を与え、且其の福利の増進を図るべし。
第七条 日本国政府は、誠意忠実に新制度を尊重する韓大にして相当の資格ある者を、事情の許す限り
     韓国に於ける帝国官吏に登用すべし。
第八条 本条約は、日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下の裁可を経たるものにして、公布の日より之を施行す。

この証拠として両全権委員は本条約に記名調印するものなり。
明治四十三年八月二十二日  統監  子爵 寺内正毅
隆熈四年八月二十二日  内閣総理大臣 李完用

第一章 朝鮮の開国

 一 外交慣例をめぐる紛糾
 二 江華島事件――軍事力による開国強要
 三 砲艦外交――「修好条規」の締結
 四 解釈をめぐる対立
   一 外交慣例をめぐる紛糾 top

江華島(カンファド)に刻まれた戦いの跡

 ソウル市内を貫流する漢江(ハンガン)に沿って北西へ七〇キロ、自動車で一時間あまりの所に江華島がある。
 臨津江(イムジンガン)と合流して大河となった漢江が島の北側を流れ、東側は黄海と漢江を南北につなぐ江華水道によって、ナイフで切りさいたように本土から引き離されている。
 しかし現在では、全長七〇〇メートルの江華橋でむすばれているから、島といっても、川向こうという感じである。
 思いのほか南北朝鮮の境界線に近く、朝鮮にんじんの名産地開城(ケソン)も、幅広い漢江を渡れば十数キロと聞いた。
 そういえば江華島にも、日除けの寒冷紗(かんれいしゃ)で覆われたにんじん畑が多い。
 朝鮮戦争のとき、開城方面から避難してきた農民がもたらしたものだという。
 この静かな、ひなびた農村には、古くからの戦いの歴史が刻まれている。
 江華島は天然の嶮に守られた首都防衛の戦略的要地だった。
 高麗時代の一三世紀、高麗全土がモンゴル軍の馬蹄に蹂躙されたときには、国王高宗は王都開京(開城)を放棄して江華島に遷都、江華城に立てこもっている。
 高宗はここで、焼失した高麗大蔵経の版木を再版彫造し(一二五一年完成、慶尚南道陝川(ハブチョン)郡の海印寺(ヘインサ)に現存)、モンゴル調伏を祈願して二八年間も抗戦したが、ついに一二五九年にモンゴルに降伏した。           関係略年表(1) 嘉永7~明治12

1854(嘉永7、安政元、哲宗5)年 3月、日米和親条約調印。
1860(万延3、哲宗11)年 この年、崔済愚が東学を創唱。
1864(文久4、元治元、高宗元)年 4月、崔済愚処刑。
1866(慶応2、高宗3)年 10月、フランス艦隊江華島攻撃(丙寅洋擾)。
1868(慶応4、明治元、高宗5)年 1月、王政復古宣言。4月、宗義達(対馬藩主)朝鮮通交事務取扱となる。
1869(明治2、高宗6)年 1月、樋口鉄四郎(対馬藩家老)を朝鮮へ派遣、「皇」「勅」書契問題おこる。
1870(明治3、高宗7)年 1月、佐田白茅を朝鮮へ派遣。10月、吉岡弘毅を朝鮮へ派遣。
1871(明治4、高宗8)年 6月、アタリカ艦隊江華島攻撃(辛未洋擾)。9月、日清修好条規・通商章程調印。11月、岩倉具視らを欧米へ派遣。
1872(明治5、高宗9)年 9月、花房義質を朝鮮へ派遣、朝鮮政府退去を要求。草梁倭館を接収、日本公館とする。
1873(明治6、高宗10)年 8月、閣議、参議西郷隆盛の朝鮮派遣決定。10月、西郷の朝鮮派遣を無期延期、征韓派5参議下野(明治6年10月政変)。 12月、閔氏政権成立。
1874(明治7、高宗11)年 5~10月、日本軍、台湾出兵。9月、日本公館長森山茂と東莱府使との閧に交渉開始合意。
1875(明治8、高宗12)年 2月、森山茂理事官、釜山着任、朝鮮政府と意見対立(7月、金継運との会見拒否、9月、帰国)。
 9月、「雲揚」、江華島・永宗島攻撃(江華島事件)。10月、参議木戸孝允、朝鮮政策につき意見書提出。12月、参議黒田清隆を朝鮮派遣全権大使に任命。
1876(明治9、高宗13)年 1月、森有礼公使、李鴻章と会談。清国政府、朝鮮国王に開国を勧告。2月、黒田全権ら江華島に上陸(11日より交渉開始)。日朝修好条規調印(27日)。5月、第1回修信使(金騎秀)来日。8日朝修好条規付録、日本国人民貿易規則(通商章程)調印。
1877{明治10、高宗14)年 9月、花房義質代理公使を開港交渉のため朝鮮へ派遣、成功せず。
1878(明治11、高宗15)年 9月、朝鮮政府、釜山港輸出入品につき朝鮮商人に課税(12月廃止)。
1879(明治12、高宗16)年 4月、琉球藩廃止、沖縄県設置。6月、花房代理公使、朝鮮政府と開港交渉(仁川開港を断念)。
 ちなみに、井上靖の歴史小説『風涛』は、太子?(チョン)、のちの元宗が降表をささけてモンゴル入朝のため江都を出発するところから始まる。
 一七世紀には、朝鮮の臣属を求めて侵入してきた清の大軍によって江華島(こうかとう)が占領され(丙子胡乱(ビャンジャホラン)、一六三六年)、さらに下って一九世紀後半、江華島はふたたび外敵の砲火を浴びた。
 フランス人神父殺害の責任追及を名目としたフランス艦隊の侵入(丙寅洋擾(ビョンインヤンヨ)、一八六六年)、そしてアメリカ商船焼き打ち事件の調査・報復を理由としたアメリカ艦隊の攻撃(辛未洋擾(シンミヤンヨ)、一八七一年)である。
 ともに真の目的は、朝鮮の開国強要であった。
 清国・日本についで、朝鮮も開国させようという列強の飢えた波がひたひたと島に打ち寄せ、海辺を洗っていた。

江華水道を臨む江華島の砲台(復元)

鎖国攘夷政策の強化

 江華島(カンファド)には、一七世紀から一八世紀にかけて築造された砲台を中心として六つの鎮(チン)、七つの堡(ホ)、五三の敦(トン)があり、外敵に備え兵力を強化していた。
 洋擾(ヤンヨ)などで、それらの要塞の多くが破壊されたが、現在では、そのいくつかが民族のしたたかな戦いを記念する歴史的文化財として復元されている。
 模造ではあるが、いかにも古めかしい砲口装填式の「紅夷砲」の砲門が、鈍く光る江華水道の油のような水面をにらむ。
 しかし、照準装置のない旧式大砲の性能が劣ることは、のちに日本の軍艦「雲揚(うんよう)」が交戦したとき、たまたま「一弾の本艦を飛越するあるのみ」という艦長の報告からみてもあきらかである。
 せいぜい二○○~三〇〇メートルしかない幅の水道とはいえ、航行する敵艦を撃破するにはまったく不十分であった。
 劣悪な旧式兵器であるにもかかわらず、朝鮮軍兵士は勇敢にたたかい、その頑強な抵抗が、強力なフランス艦隊・アメリカ艦隊を撃退した。
 魚在淵(オジェヨン)将軍以下、朝鮮軍の将兵は旧式兵器で戦い、弾丸が尽きれば白兵戦に転じ、つぎつぎに戦死したという。
 十数人の死傷者を出したアメリカ軍は、いったんは広城堡を占領したが、結局、攻略を断念せざるをえず、えるものがないまま撤退した。
 丙寅・辛未洋擾でフランスーアメリカの侵略行為をしりぞけたことは、国王高宗(コジョン)の父で執政として実権を掌握していた大院君(興宣君呈応=フンソングンハウン。一八二〇~九八)に自信をあたえた。
 危機を回避することができたのは排外攘夷主義の正しさによる、と理解した彼は、中華世界のもとでの朝鮮国家を外圧から守るためには鎖国攘夷政策の強化こそ唯一の道である、と誤信した。
 欧米諸国を夷狄(いてき)として排斥し、伝統的な朝鮮支配体制と朱子学的道徳を堅持することを強調した「衛正斥邪」思想がおこり、それを主張する一派の政治的影響力もつよまった。

慣例無視の外交文書

 丙寅、辛未洋擾のあいだに、日本では維新政府が成立した。
 不平等条約の重荷をせおって誕生した新政府は、早々に対外和親・開国進取・万国対峙・国権拡張を国是にかかげた。弱小国日本を欧米諸国なみの近代独立国家として国際社会に認知させるためである。
 そのひとつは文明開化・富国強兵の線にそいながら条約改正事業にむかい、もうひとつは、その裏返しとしてアジア近隣諸国に対する国権外交へ走った。
 とくに朝鮮にたいしては、当初から侵略の志向をのぞかせていた。
 たとえば外交通の木戸孝允(たかよし)は一八六八年(明治元)末以来、ことごとに征韓を主張していた。
 その根底にあるのは、江戸時代に醸成された朝鮮蔑視にまみれた歴史観である。
 新政府は、王政復古を通告するための使節を朝鮮に派遣することにした。
 その任にあたったのは以前から対朝鮮外交の窓口であった対馬藩である。
 六八年一二月、対馬藩家老樋口鉄四郎らが使節として釜山(プサン)におもむく。
 だが彼らが持参した書契(しょけい=外交文書)に、「皇室」、「奉勅」の文字があることが問題となった。
 朝鮮にとって、「皇」「勅」は宗主国である清国皇帝のみが使用しうる文字である。
 それをあえて用いて朝鮮に迫るのは、日本が朝鮮を隷属させる野望をもっている証拠とみた。
 また、署名・印章も従来とことなったものを使用しており、慣例を無視した形式・表現であった。
 朝鮮側は、「規外」であり「違格」であるとして反発する。
 その後も維新政府は朝鮮に外交使節を送り、釜山での交渉は一年余におよんだが、交隣(隣国との対等の通交)の慣例についていっさいの変更を認めない大院君政権下の朝鮮政府は、終始、書契受理と交渉をこばみとおした。
 このような朝鮮の措置を「無礼」「侮日(ぶにち)」と受けとめた木戸や外務当局は、征韓熱をかきたてる口実とする。

アジア朝貢(ちょうこう)体制とは

 前近代のアジアには歴史的に形成された朝貢体制があった。それは朝貢国の君主が中国皇帝からその国の国王であることを認知されて冊封(さくほう)をうけ、中国皇帝に臣属し、朝貢をおこなうことを基本形態としている。
 李氏朝鮮(一三九一~一九一〇年)はその典型であり、清国に臣属する藩属国として清国を宗主国と仰いでいた。
 宗属関係という。
 しかし、ここでいう朝貢体制はもっとふくらみをもった多元的な体系である。
 アジア的世界の国際的秩序の外交・交易原理として作用し、それぞれの民族や国家が独自性を保持しつつ、相互にその存在を認めあう共存の体制である。
 宗属というきびしい上下の縦糸と地域結合のゆるやかな横糸とで織りなす粗布で覆われたアジアは、中国を中心にアジア全域にわたる有機的システムと交易ネットワークを展開させていたのである。
 それは近代的な支配-被支配の権力関係、搾取-被搾取の経済関係とは次元を異にする。
 一八七三年(明治六)、日清修好条規の批准書交換のため清国を訪れた外務卿副島種臣(そえじまたねおみ)は、清朝宗属関係について清国の見解をさぐった。
 外交事務担当機関である総理衙門(がもん)をおとずれた副使柳原前光(さきみつ)の質問にたいし、総理大臣は、藩属国である朝鮮とは「旧例を循守(じゅんしゅ)し、封冊献貢の典を存する而已(のみ)」であって、清国は朝鮮の「内政教令」や「和戦権利」には関与するものではない、と答えている。
 朝貢体制下の宗主国と藩属国との伝統的関係にもとづく見解である。
 その意味では、日清両国に両属していた琉球はもちろん、朝鮮と交隣関係にあった日本もまた、外縁部ではあるがアジア朝貢体制につつまれていた、といってよい。
 いま、日本政府は条約改正のために小西洋をめざして出発したが、この朝貢体制の伝統的秩序にいかに対応していくか、というぬきさしならない問題に当面せざるをえなかった。
 朝貢体制を前提にして国家対等の関係を再編していくか。
 それとも朝貢体制を否定してアジア的世界から離脱し、これに挑戦するか。
 歴史的事実としては後者の道を歩んだことになるが、それが唯一不可避の選択肢だったのではない。
 後述するように、欧米諸国は朝鮮との開国に際して、一方で理念としての朝貢体制、清朝宗属関係を認めながら、他方では近代的な国家間関係を規定する条約をむすんでいる。
 西欧世界の論理をもって一方的にアジア的秩序に変革を迫るのではなく、まずはアジア的世界に参入する順序をふんだのである。
 日本もまた。清国とのあいだに七一年九月、日清修好条規を調印していたが、それは両国関係の平等、清国主導による条約締結、領事裁判権の相互承認等を規定し、総じて「対等」な内容の条約であった。
 これを清国側からみれば、従来の中華的秩序における「対等」性を近代的条約形式になぞらえて承認したのである。

対朝鮮政策の基本姿勢

 そのとき、すでに日本政府は、朝鮮にたいしては清国に向きあうのとは異なる姿勢でのぞむことを含めていた。
 一八七〇年四月、外務省から太政官(だじょうかん)あてに出された「対朝鮮政策三箇条」という資料がある。
 その第一の策は、「御国力充実迄(まで)」朝鮮との交際を廃止しよう、というもの。
 第二の策は、まず皇使として木戸孝允を派遣し、王政復古通告の国書受理拒否を責め、通商条約締結をもちかけ、これを朝鮮側が拒否するならば武力発動におよぶ、というもの。
 そして第三の策は、朝鮮「懐撫」のため、宗主国である清国と「比肩同等」の条約締結を先行させ、ついで朝鮮を「一等を下し候礼典」で扱い、「遠く和して近く攻る」の方策をとろう、というもの。
 前述の「日清修好条規」締結は、この第三の策を実行する手はじめてあるが、第三策は展開次第では第二策に転ずる可能性をもつ。
 七三年七月、清国出張から帰国した副島外務卿の、清国の対朝鮮不干渉確認の報告を受け、征韓が外交的紛糾をひきおこさないと知ると、同年八月一七日の閣議は、皇使として参議西郷隆盛の朝鮮派遣を決定した。
 しかし、欧米巡遊から九月一三日に帰国した右大臣岩倉具視は、この決定を不当とし、内治優先、朝鮮遣使の不急をとなえて、西郷はじめ参議板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣と対立した。
 岩倉に同調した参議は木戸孝允と大久保利通。結局は岩倉の主張が勝利し、西郷ら征韓派五参議が下野することになった。
 いわゆる明治六年十月の政変である。だがこのとき、岩倉・大久保・木戸ら内治派の朝鮮認識、対朝鮮政策が、西郷ら征韓派のそれとそれほどへだたっていたわけではない。
 政府内部の指導権争いが両派を決定的対立に追いやったのである。

対朝鮮外交の一元化

 これより先の一八七一年八月、廃藩置県により統一的中央集権国家の確立をはかった政府に、その機に、四〇〇年の長きにわたってつづいてきた対馬藩宋(そう)氏の世襲職権である対朝鮮外交権を接収した。
 翌七二年九月には、釜山の草梁倭館(チョリヤンウェグァン)を外務省の管轄下にうつし、日本公館と改称する。
 のちの日本領事館である。
 草梁倭館とは日本からの使客を接待するために設けられた客館で、費用は朝鮮側が負担し、対馬藩がその使用を認められて、公私貿易もそこでおこなわれてきた。
 こうした新政府の外交権一元化を朝鮮政府は認めなかった。
 とくに、草梁倭館の接収・整理のため、軍艦「春日」に乗り、歩兵二個小隊を乗せた汽船をともなって釜山に来着した外務大丞(だいじょう)花房義質(よしもと)にたいしては、「火輪船」(洋式船)と「江戸官員」(政府官員)の退去を要求して「撤供撤市」(不売)を実施、すべての交渉を拒否した。
 旧慣の礼を尊ぶ朝鮮側は、対馬藩吏以外の外交使節を「規外」としてしりぞけ、折衝をこばんでいたが、こうした小事件の発生が朝鮮をますます硬化させたのである。

交渉再開の気運

 一八七三年末、大院君にかわって高宗と王妃一族との閔(ミン)氏政権が成立した。
 大院君が固執してきた強列な鎖国攘夷政策はあらためられ、日本との交渉担当者は国交阻害の罪で処分、更迭された。
 しかし、新政権が開国政策に転じたのではない。旧来の日朝交隣関係の修復を求めた点では前政権と同じだが、大きな違いは対日交渉の相手として明治政府の外交機関を認めたことである。
 軟化のうごきに拍車をかけたのが清国の総理衙門からもたらされた機密情報である。
 それは七四年五月の台湾事件(日本の台湾出兵)を報じ、朝鮮へむけて、つぎなる出兵準備の軍隊が長崎で待機中、というものだった。
 征韓論の余燼がくすぶっていたが、日本に出兵準備の具体的行動があったわけではない。
 だが、その知らせは朝鮮政府に動揺をあたえるだけの影響力があった。
 武力衝突を避けたいのである。
 七四年九月、朝鮮政情視察の命をうけて釜山の日本公館長に着任していた森山茂と、釜山地方を管轄する東莢(トンレ)府使朴斉寛(パクジェグワン)らとのあいだに交渉開始の方法について協議が成立した。
 その主要点は、国書の交換を避け、大臣相当の日本外務卿-朝鮮礼曹判書、および次官相当の日本外務大丞-朝鮮礼曹参判の書契交換をもってはじめたい、というものである。
 森山は一〇月、いったん帰国し、翌七五年二月、外務少丞・理事官として副官広津弘信をともない釜山へ渡来した。
 太政大臣と外務卿から訓令を受けた正式代表使節である。
 森山理事官が携えてきた寺島外務卿の書契には、やはり「“皇”上極に登り」とか「“勅”を奉じ」という文言があったほか、草梁倭館時代の外交形式・順序から逸脱した手続きがとられていた。
 その謄本に接した朝鮮政府は、とりあえず東莢府使の理事官接見を許したうえで書契の、違格をただす方針を決め、宴享(使節歓迎の儀式)をおこなうことを森山理事官に伝えた。
 宴享は三月三一日とされたが、森山は洋式大礼服の着用と宴饗大庁正門の通行を接見の条件としてつよく主張し、旧例にのっとる宴享にこだわる朝鮮側とはげしく対立した。

一方的な交渉放棄

 朝鮮政府が固陋(ころう)というわけにはいかない。
 従来どおりの宴享、しかも今回にかぎって旧例にもとづきおこない、書契を受理しよう、という柔軟な対応を示していたのである。
 むしろ非妥協的な態度は森山理事官の側にあった。
 一八七五年四月、軍事的威嚇を背景にした交渉の必要を政府に請訓していた森山は、服装についてとやかくいうのは日本の内政にたいする干渉であり、「無礼」「侮蔑」である、という口述書を送った。
 最後通牒にひとしい。
 尊大な日本側の姿勢は朝鮮政府の反発をかったが、なおも交渉の継続を希求する立場から、七月、知日家の金継運(キムケエウン)を通訳官として釜山に派遣し、外務卿の書契だけでも提示させようとした。
 しかし、森山理事官は金継運との会見すら拒否した。
 朝鮮側からすれば、森山が宴享儀礼の末節をあらそい、かんじんの書契の提出を中止する真意をはかりかねた。
 森山は、平和的解決を指示した外務卿訓令の趣旨にもそむいて、交渉を一方的にうちきったのである。
 本書を書くうえで参考にした名著『近代日鮮関係の研究』(一九四〇年、朝鮮総督府中枢院)の著者田保橋(たぼはし)潔氏はつぎのように述べている。

 森山理事官にして、若(も)し朝鮮の政情を理解し、明治八年二月外務卿追加訓令の趣旨をも考慮して、別遣堂上訳官(金継運をさす)と会見し、書契呈納の便法を講じたならば、日韓国交調整の端緒は此(ここ)に開け、江華島事件の発生が避け難かったにもせよ、爾後(じご)全く異った経過を取ったであろう。
 朝鮮政府がさらに譲歩して外務卿書契受理の方針を決定し、次項で述べる黒田清隆全権の江華島来航中止を日本側に要請したのは、江華島事件から三ヵ月たった一二月二二日で、ときすでに遅かった。
 黒田全権派遣を予告する先報使の任で釜山に来ていた広津弘信理事官は、朝鮮側の提議をいれ、全権への上申を約したが、すでに東京を出発していた全権一行を止めることはできなかった。
 もしここで、書契の受理を契機として外交交渉を展開し、旧来の交隣関係を前提としながらその内容・形式を検討し、修好条約に改編させることができたとすれば、武力的威迫による日本側の一方的な押し付けである「日朝修好条規」とは別なかたちのものとなったであろう。
 日朝関係のスタートラインをただす最後の機会が失われた。

    二 江華島事件――軍事力による開国強要 top

軍艦派遣を決定する

 話を少しもどそう。
 強硬派の森山理事官は、一八七五年(明治八)四月、広津副官を上京させて「軍艦を発遣し、対州(対馬)近海を測量せしめ、以て朝鮮国の献証に乗じ、以て我(わが)応接の声援を為(なさ)んことを請うの議」を寺島外務卿に提出した。
 交渉のゆきづまりを打開するため、“軍艦一、二隻を派遣して朝鮮を威圧し、国論をゆさぶるのがよい”という主張である。
 寺島外務卿は、ひそかに三条太政大臣、岩倉右大臣の了承をえて、海軍大輔川村純義に軍艦派遣を要請した。
 出動を命ぜられた「雲揚」が釜山に入港したのは五月二五日。
 つづいて「第二丁卯(ていぼう)」も入港した。
 軍艦といっても「雲揚」は排水量二四五トン、「第二丁卯」も一二五トンにすぎない小砲艦である。
 ともに山口藩から新政府がひきついだ政府艦であった(雲揚は七六年紀州沖で、第二丁卯は八五年志摩半島沖で沈没)。
 予告なしの入港にたいし、東莢府は国交開始交渉中の突然の来航に抗議したが、森山理事官は在外使臣の業務督促のためである、とうそぶいてとりあわなかった。
 そのうえ観覧のため来艦した東莢府官員一八人の目のまえで発砲演習をおこない、官民を威嚇した。
 その後「雲揚」は朝鮮東海岸を北上して試鏡道永興(ヨンフン)にいたったのち、いったん長崎に帰航したが、ふたたび朝鮮半島から中国遼東半島の営口・牛荘にかけての「航路研究」の命をおび出動した。
 「雲揚」が江華水道河口に到着したのは九月二〇日朝である。
 艦長は海軍少佐井上良馨(よしか)(のちに佐世保・呉・横須賀鎮守府長官、軍令部長などを歴任、海軍大将・元帥となる)。
 井上艦長らは江華水道河口からボートで遡上し、草芝鎮に近づいた。
 飲料水を求めるためと報告書はいうが、許可を求めることもなしに、国交のない異国船が内国河川に侵入し、しかも要塞に接近することは歴然たる挑発行為である。
 これは日本政府が了解した計画的なものであった。
 それは、九月三日に釜山の森山理事官らに帰国を指示し、事件発生の情報が未着であるにもかかわらず(雲揚艦長からの報告は二八日東京着)、事件翌日の二一日に森山は釜山をたっている、といった状況証拠からもあきらかだろう。

江華島・永宗島の攻撃

 まず草芝鎮の砲台から砲撃が開始されたという。これで応戦の口実をつかんだ井上艦長は本艦を呼び寄せ、発砲を命じた。
 小砲艦とはいえ、イギリス製一一〇斤・四〇斤砲を有する「雲揚」の威力が草芝鎮のそれにまさった。
 交戦一時間半、正午におよぶと、やがて干満差のはげしい京畿湾の退潮時がおとずれた。
 黄濁した江華水道の流れがひくと、葦で覆われた岸辺が川幅をせばめながら大きくあらわれる。
 接岸が不可能になったため、井上艦長は草芝鎮への上陸を断念し退去した。
 いまでも草芝鎮の城塞には、えぐられた石垣や幹を折られた老松に弾痕がのこされているが、これはこのときの激戦の跡を伝えるものであろうか。
 ついで午後二時半ごろ、「雲揚」は永宗島の要塞を急襲した。
 永宗島は江華島から南ヘ一〇キロ、仁川の一角をなす月尾島に向かい合う小島である(現在、この島では新ソウル・メトロポリタン空港の建設が急ピッチで進み、やがて滑走路が走るであろう広大な干潟が海に向かって伸びている)。
 永宗鎮には六〇〇人の守兵がいたが、不意の砲撃に周章狼狽し、ほとんど戦わずして潰走した。
 井上艦長は二二人の将兵に上陸を命じ、城内の建物・民家を焼きはらった。
 遺棄死体三五、俘虜一六人。のこされていた銃砲などの兵器のほか、兵書から楽器にいたるまで掠奪し、「雲揚」に積みこんで帰途についた。
 日本側は二人の水兵が負傷、その一人は二二日に死亡した。山口県出身の松村千代松という一等水兵である。
 朝鮮侵略戦争最初の戦死者だろう。
 九月二八日朝、「雲揚」は長崎に帰着。
 井上艦長は、「端艇を卸(おろ)し探水せし剋へ、彼より大砲小銃を暴発したり。何故(なにゆえ)砲発せしか、上陸尋問せんとすれども、彼砲発励(はげ)しき故、不得止(やむおえず)当艦より大砲小砲を発し上陸、彼の大砲三十八、其外(そのほか)小銃品々持帰る」と川村海軍大輔あて打電、経過を報告した。

条約交渉へ向けて

 洋擾のばあいもそうであるが、加害者が被害者になりすまして「事件」を正当化する。
 朝鮮の攘夷政策を逆手にとり、挑発して事をかまえ、砲艦外交によって開国を迫る、いつもどおりの筋書きである。
 だが日本政府は、江華島事件をひきおこして絶好の攻めの機会をつかんだにもかかわらず、ただちに対応することはできなかった。
 その理由は、ひとつには決着ずみの征韓論を再燃させ、政府内保守派の島津久光らを勢いづけることを大久保利通・木戸孝允ら藩閥政府実力者がおそれたこと、もうひとつは、宗主国である清国の反応を明確には把握していなかったこと、である。
 事件発生の報告を受信した翌二九日の御前会議は、事態の推移を静観することと同時に、とりあえず釜山の日本公館と居留民保護を名目として軍艦派遣を決定した。
 出動命令をうけた「春日」は、「雲揚」や「第二丁卯」とはくらべものにならない木造大型快速艦である(排水量一二六九トン)。
 派遣の目的が朝鮮にたいする軍事的威圧であることはいうまでもない。
 一〇月三日釜山に入港した「春日」は、そのまま湾内に停泊して、同月末、任務を中牟田倉之助少将が率いる「孟春」(三五七トン)、「第二丁卯」にゆずる。
 釜山へ到着した中牟田は、儀仗兵をしたがえて上陸し、それを迎える「春日」は礼砲を発し、「孟春」もまた礼砲でこたえた。
 いんいんたる砲声は湾内に響きわたり、朝鮮官民を畏怖させたという。
 政府が対朝鮮政策の方針を決定したのは一一月に入ってからである。
 すでに前月、島津左大臣・板垣退助参議が辞職し、大久保・木戸らの主流派政権が安定度をくわえたことが、朝鮮問題解決へむけての発進をうながした。

木戸孝允の意見書

 一〇月五日、木戸参議は対朝鮮政策の政府決定を求める意見書を三条太政大臣に提出した。
 それは、“江華島事件について、まず宗主国である清国に「中保代弁(ちゅうほだいべん)」(周旋)を求め、清国が朝鮮にかわって謝罪し、適切な処置(条約締結斡旋)をするならばよし、そうでなく清国が責任を回避して日本の処理に任せるとき、はじめて朝鮮と直接交渉を開始すべきである、交渉の任にはみずからがあたる”という趣旨である。
 もちろん、事件の責任といっても、それ自体が問題なのではなく、条約締結交渉へもちこむ導入口として事件を利用しただけである。
 朝鮮と清国との宗属関係をたちきり、朝鮮を清国からひきはなしたいのが本音であるが、アジア朝貢体制を無視することはできない。
 もし対応をあやまれば、清国の干渉、妨害はもとより、武力衝突でもおきれば、南下の機会をうかがうロシアの軍事介入さえ誘いかれないのである。
 そこで、まず最初に宗主国清国に仲介を依頼するかたちをとり、それが拒否されれば、つぎに日本は朝鮮との独自交渉を開始する、という含意である。
 政府は木戸の意見を承認し、彼の朝鮮派遣を内定した。
 しかし、木戸は一一月一三日病にたおれ、使節任命を辞退しなければならなかった。

森有札の構想

 清国との交渉のための特命全権公使には外務少輔(しよう)森有礼(ありのり)が起用された。
 若き日、欧米に学び、維新後は駐米外交官の経験をつんだ森は、条約改正の準備作業についていた。
 国際法に通じ、西欧風に染めあがった森の頭脳は、近代的な「国家平等」の理念にひたっていた。
 公使拝命の一八七五年一一月一四日以降、森は三回にわたって、三条・岩倉・大久保・伊藤らに交渉方針の所見を述べている。
 そのなかで、江華島事件は「暴に対する暴を以て」生じたもので、「特(ひと)り朝鮮のみを曲なりと裁す可き者に非」ずといい、江華島事件の責任追及のため使節を派遣するのは「不要不急の条件」であり、「拙策の最拙なる者なり」と断じた。
 そうではなく朝鮮を独立国として認めたうえで、朝鮮沿海の測量と外国人の便益のための開港を朝鮮にさとすのがよい、そのために、まず隣国の清国が朝鮮を説得すべきだが、清国がそれを承諾しないばあいには、日本がその役割をにない交渉したい、と進言したのである。
 江華島事件の問責は交渉の「副言」にとどめ、朝鮮の開国交渉にあたることこそ任務だとこころえる森は、二二日外務卿寺島宗則から交付された訓令書中の「江華島の事を問い、被(こうむ)る所の暴害の補償を求め」という文言に異議をさしはさみ、これを削除させもした。
 森が危惧するのは「妄(みだり)に事を起」こしたばあいの国際的評価の失墜である。
 それは懸案の条約改正の障害にもなりかねない。
 だから万国が認める「公正の条理」にもとづく「平和使節」として行動すべきであり、もし成功すれば日本の国際的評価が高まるばかりでなく、国民も政府を信頼するであろうし、がりに交渉が決裂して戦端をひらくことになったとしても、「名義公正」であるから諸外国は日本にくみし、国民も政府を支持し離反することはあるまい。
 これが楽観的な、西欧近代主義者森の主張だった。

不調に終わった対清交渉

 森公使は一一月二四日、特務艦「高尾丸」で東京品川を出立、一二月一九日芝罘(シーフー)に着いた。
 北京に入京したのは年を越した一八七六(明治九)年一月五日である。
 森はただちに行動をおこすが、協力を期待した駐清イギリス公使トマス・ウェード、駐清ロシア公使エフゲニ・ビュツォフの答えは冷ややかだった。列国をまきこんで清国・朝鮮と交渉しようという森構想は最初からつまずいた。やむなく単独で交渉することになった森公使にたいする清国総理衙門の回答もつれない。森は、清国が朝鮮にたいして、日本から派遣される予定の全権使節を歓待し、国交をむすぶようすすめることを要請した。しかし、清国側は、“朝鮮との宗属関係は朝貢と王位の冊封にすぎず、清国が自主専行の朝鮮の国事に干渉することはない”と朝貢体制の基本を述べ、仲介を拒否した。そして他方で、七一年調印の「日清修好条規」第一条の「両国に属したる邦土も各(おのおの)礼を以て相待ち、聊(いささか)侵越する事なく、永久安全を得せしむべし」をひいて、日本が清国の属国である朝鮮を「侵越」するのは不法であると主張し、日本の朝鮮武力進出を牽制した。
 清国は、列強の干渉を誘いこむような、東アジアの武力衝突がおきることを欲していなかったし、多難な朝鮮問題で火中の栗を拾うの愚を避けたかった。それでなくとも当時の清国はイギリス・フランスとのあいだに深刻な係争をかかえ、病み疲れていた。

李鴻章(りこうしょう)との会見

 交渉の展望をもてないまま、森公使は一月二四日、保定(パオチン)府(河北省、直隷総督の駐在地)におもむき、北洋大臣・直隷総督李鴻章に会い意見を交換した。李鴻章は清国の軍事・外交の根幹を掌握していた大物政治家である。
 五三歳の李鴻章は、二八歳の新進気鋭の森をたしなめながら、重いことばをのこした。「日清修好条規」にいう「邦土」は朝鮮をふくむものである、江華島事件は朝鮮領海に侵入した日本側にも責任があり、永宗島攻撃は不法である、と。
 清国の朝鮮への仲介要請についてはことばをにごして明言しなかった。
 しかし、開戦を避けたい李鴻章は、すでに一九日に総理衙門に建策し、朝鮮にたいして江華島事件の平和的解決と日本使節を自重して迎えるよう求めていた。
それにしたがって清国政府は、朝鮮国王に勧告したのである。
 この勧告が日朝交渉に決定的な影響をあたえることになるが、森公使がそのことを伝聞したのは対朝鮮交渉がはじまる直前の二月上旬である。
 二月一二日、森が清国政府からうけとった公文には、朝鮮は清国の属邦であるから、清国政府は朝鮮のために「早籌(そうちゅう)酌弁(しんべん)し、以て彼此(ひし)相安まるを期す」(早急に措置を講じ、万事安定したい)という文面があった。
 対清交渉は、清国政府から対朝鮮勧告をひきだしたといえなくもないが、それは森公使の外交手腕によるというよりも、李鴻章の状況判断による。
 明治政府は清朝間の宗属関係につよい関心をもっていた。
 朝鮮は清の属国か、それとも条約締結権(外交権)をもつ独立国か、と二者択一的に問題を設定し、後者であると解釈して日本の政略とした。
 朝鮮を清国への服属からきりはなすためである。森公使は交渉にあたって、しばしば清国政府に朝鮮が内政外交の権利を全有することの確認を求め、「所謂(いわゆる)属国とは徒(いたずら)に空名のみ」とさえいった。
 しかし、他方で朝鮮に条約交渉に応ずるよう勧告することを清国に求める矛盾をおかしていた。
 清朝宗属関係を観念的に抹殺しても、現実の宗属関係に依存せざるをえなかったのである。

   三 砲艦外交――“修好条規”の締結 top

黒田清隆の特派

 急病の木戸にかわって特派大使(特命全権弁理大臣)になったのは、参議・開拓長官・陸軍中将里田清隆である。
 独断専行型の里田の派遣をあやぶむむきもあったが、木戸・大隈・伊藤ラインの元大蔵大輔井上馨を副使として起用し、黒田に随行させることで了承された。
 三条太政大臣が黒田全権にあたえた訓令は、江華島事件の「賠償」とひきかえに修好・通商条約をむすぶことであったが、その内諭で、たとえ朝鮮側か交渉に応ぜず、全権委員に侮辱・暴行をくわえたとしても、軍事行動を開始することを許さないとしていた。
 実際、開戦にふみきる財政的うらづけもなかったのである。
 のちに、釜山に到着した黒田が、応戦態勢強化のため二個大隊の増派を要請するが、政府は「専(もっぱ)ら平和を主とする趣意」を清国はじめ各国公使に通知してあるので、兵員の派遣は「内外に対し不可」として応じていない。
 国際的非難に神経をとがらせていたのである。
 もっとも開戦にそなえて、広島・熊本鎮台の出兵準備は交渉開始まえに完了していたのだが。
 一八七六年(明治九)一月六日、黒田特派大使は、井上副使・種田政明陸軍少将・宮本小一外務大丞・森山茂外務権大丞ら随員を率い、輸送船「玄武丸」に乗船して品川湾を出航した。
 これにしたがう艦船は六隻。
 これらに「警衛」として「日進」艦長伊東祐亨(ゆうこう)海軍少佐以下三五七人、儀仗兵として砲兵一小隊八一人、歩兵一中隊一六七人が分乗した。
 視察名目の海軍佐官二人も「高雄丸」に同乗した。のりくみの水火夫、通訳などをふくめると総員八〇〇人をこえる大集団である。

江華府にのりこむ

 一行を乗せた艦船団は対馬に寄港したのち、一月一五日に釜山に入港した。
 これよりさき、日本政府は釜山の東莢府使を通じて朝鮮政府に里田特派大使らが渡航することを一方的に通告していたが、かさねて黒田らが交渉のため江華府へおもむくことを通告した。
 一月二三日、一行は釜山を出航、江華島へむかう。
 朝鮮半島の西海岸沿いに北上して黄海の京畿湾の奥深く進入した艦隊は、江華島、済物浦(チェムルボ)(仁川=インチョン)、京畿道南陽湾(ナムヤンマン)などの水域をめんみつに測量した。
 しかし、朝鮮の官民はこれを妨害しなかった。飲料水を求めた上陸地では、住民が手伝い、たき火をして暖をとらせ、馳走をすすめ友好の情を示した所もある。交際を尊ぶのが儒教国の礼である。
 それにひきかえ日本側の態度は高圧的だった。異国船来航の事情調査のため、政府や地方官から派遣されて来艦した問情官に対する応対も、すでに朝鮮政府に通知ずみとしてまともに答えていない。
 ただ江華島に上陸し、江華府をあずかる留守(長官)と交渉スケジュールを協議する予定であることを通告しただけである。
 朝鮮政府は一月三〇日、接見大官に御営大将申憲(シンホン)、副官に礼曹尚書尹滋承(イジャスン)を任命し、日本側と折衝することとしたが、応接地は江華府ではなく、艦隊停泊地の仁川-南陽間とした。
 しかし二月四日、日本艦隊は問情官の制止をふりきって北進し、江華水道河口近くに達して、予備交渉を江華府でおこなうよう要求した。
 翌五日、森山外務権大丞は小艇二隻で江華水道を北上して甲串鎮(カブコツチン)に上陸、江華府に到着する。
 同夜、尹滋承接見副官と予備交渉を開始した。
 尹滋承は、江華府における本交渉開始を避け、接見大官・副育が停泊中の日本艦を訪問し、黒田特派大使と交渉することを主張した。
 しかし森山はこれをしりぞけ、交渉は江華府の役所内でおこない、武装した儀仗兵四〇〇人を帯同することを主張してゆずらなかった。
 二月八日、森山は尹滋承に、黒田特派大使が一〇日上陸し、一一日に交渉を開始することを通告する。

条約交渉の開始

 一八七六年二月一〇日午後三時ごろ、黒田特派大使らは江華島の、れんが色よりなお赤い、血がにじんだような土を踏んで上陸し、前日先遣させた儀仗兵に迎えられた。
 気温は三度、薄日のもれる寒い日だった。
 翌二月一一日。この日は七三年から施行された紀元節にあたる。
 交渉開始直前の正午に、停泊艦はいっせいに礼砲を放った。
 つまりは示威である。
 午後一時、江華府武人の訓練場である錬武堂で第一回会談がひらかれた。
 冒頭、黒田特派大使は日本政府の修好申し入れに対する朝鮮政府の不実をなじり、「雲揚」砲撃の責任を追及した。
 接見大官は日朝間のくいちがいを釈明したうえ、永宗島にたいする日本軍の不法襲撃は両国間の友誼に反する、と反論した。
 また、黒田は接見大官・副官への国王の全権委任の有無をただし、紛糾した。
 朝鮮には前例がなく、近代国家間の条約締結に必要な全権委任の意味が通じかねた。
 そればかりか締結すべき条約そのものの必要性さえ認めなかった。
 国交再開を中断していた交隣関係の修復と考える朝鮮にとっては、それらは慣例にないことである。
 それとは反対に、近代国際法にもとづく条約形式とその締結手続きにこだわる日本としては、国家間の重要協定である以上、省略することは許されない。
 黒田が強要した、接見大官・副官への国王の全権付与は二月一九日におこなわれた。
 二月一二日の第二回会談で、日本側は条約案と批准書案を提示し、朝鮮政府の回答を求めた。
 期限は一〇日間である。同日、済物浦へ来航した補給船「品川丸」を増援部隊の到着といつわり、さらに日本政府には後続の増派計画もある、とつけくわえて威嚇した。

条約交渉の展開

 日本側が提示した条約案を朝鮮政府は甘受したわけではないが、基本的には受け入れもやむをえないとする方針をかため、修正対案を付して接見大官に伝えた。
 二月一九・二〇日に接見大官と主席随員の宮本小一外務大丞(だいじょう)、野村靖外務権大丞とのあいだで個別条項についての折衝がおこなわれた。
 原案前文には、「大日本国皇帝陛下」に対する「朝鮮国王殿下」という尊号がつかわれていた。
 朝鮮側は、これでは対等の礼を欠くとして「大」字と尊号削除を求めた。
 協議のすえ、尊号をとり、両国号に「大」字を付すことで合意された。
 日本政府が細心の注意をはらい、かつて清国にも問い合わせたこともあわせて作成した「朝鮮国は自主の邦にして日本と平等の権を保有せり」云々(第一款)については、朝鮮政府は「別無可論(別に論ずべきなし)」として同意した。
 ただし、日本側が、朝鮮国は国際法王の主体として外交権をもつ独立国であるとして、清朝宗属関係の否定的表明としたのにたいし、朝鮮側は、逆に宗属関係-アジア朝貢体制の原理である「自主」と「平等」を表わしたものと解した。
 このズレが日清戦争にいたる日朝清関係のすきまを広げることになるのだが。
 そのほか、日本人集住地域(居留地)設置(第四款)、遭難船救助(第六款)、領海の自由測量(第七款)、開港場へ管理官(領事)の駐在(第八款)、自由貿易の原則(第九款)などは、ほとんど異論もなく承認された。
 問題があったのは日本使節(公使)の京城(漢城)常駐(第二款)、釜山以外のふたつの開港場の場所の選定(第五款)、最恵国待遇(第一二款)である。
 このうち開港は具体的な地名を特定するにいたらず、たんに京畿・忠清・全羅・慶尚・威鏡の五道のうちの二港とされた。
 また、最恵国待遇については、朝鮮政府が“将来他国と条約を締結する意思がないので無用である”としたので削除された。
 ちなみに最恵国待遇が規定されるのは、朝鮮が清・アメリカ・イギリス・ドイツなどと通商条約をむすんだのちの一八八三年(明治一六)、「朝鮮国に於て日本人民貿易の規則」第四二款においてである。
 朝鮮側が公使の首都常駐を拒否した理由は、“江戸時代の通信使のように、慶弔時などに随時使節を派遣すればよい”とするもので、近代的外交関係からすれば異例であり、問題を後にのこすが、ここでは日本側も了承した。
 日本の最大目標は、旧来の交隣関係を条約にもとづく国家間関係にあらためることだった。
 それゆえ、個別条項の不一致で交渉が不調に終わることを避け、妥協にも応じたのである。
 帰国後の黒田・井上両全権の復命書でも、「和好の大局」のために朝鮮の要求をいれ、「緊要ならざる条件一、二を刪改(さくかい=削除改定)」したと報告されている。
 また、細目については調印六ヵ月以内に再度協議し、決定するとした(第一一款)。

批准書の親署問題

 一九日の会談ではげしく意見が対立したのは、批准書の形式をめぐってである。
 日本側は、国王の親署と玉璽捺印を要求した。
 これにたいし、朝鮮側は、国法に国王親署の規定がないとし、また、国王名を刻した玉璽もなく、「為政以徳」の印章をもって裁可のしるしとしていることを理由に、断然拒否して、結論をうるにいたらない。
 二〇日夜、再開された第四回会談に出席した黒田全権は、批准書に国家元首が親署するのは国際的慣例であることをかさねて説いた。
 しかし、接見大官・副官ともに“臣下が国王に署名を乞うことは礼にそむくのでできない”とかたく拒否してゆずらず、平行線をたどった。
 批准書が国家元首の署名捺印を必要とすることは一般的にいえばそうであるとしても、例外がないわけではなかった。
 清国では批准書に「大清国大皇帝」と記し、玉璽を押すだけである。
 それにもかかわらず、なぜ黒田は固執したのか。
 伝統にこだわる朝鮮の外交手法を近代的条約形式と国際法的ルールで打破したいと考えたためとしか思えない。
 二二日、黒田は江華府から撤収することを通告した。
 交渉決裂を意味する。だが、これはポーズにすぎない。
 接見大官の要請をいれて、黒田はなお五日間停泊艦で待機することとし、井上副全権・宮本随員らをのこし帰艦した。
 軍事力をちらつかせながら危機状況をつくりだし、我意を通すという、拙劣ではあるが常套の外交手段である。
 接見大官と宮本との協議が急速にすすみ、
 ①剛国王親署をおこなわず、「為政以徳」の印章にかえて「朝鮮国君主之宝」(のち「大朝鮮国主上之宝」と修正)をあらたにつくり捺印すること、
 ②批准書交付は条約調印と同時におこなうこと、
 ③江華島事件にたいして謝意を示す「叙事冊子」(覚書)を作成すること、という了解が成立し、条約書とともに朝鮮国王の裁可を乞うことになった。

修好条約の調印

 条約書を国王が裁可し、その調印式は二月二七日ときまった。
 急遽、本艦から江華府へもどった里田全権゜井上副全権は、この日午前九時、大礼服を着用し、随員・儀仗兵をしたがえて式場の錬武堂に入場、接見大官申捶・副官尹滋承らと会見ののち、両国全権が記名捺印した「修好条規」を交換した。
 つづいて朝鮮国王の批准書と朝鮮国「叙事冊子」が黒田全権にわたされた。
 批准書には「大朝鮮国主上」と記され、「大朝鮮国主上之宝」という印文の玉璽がある。
 日本天皇の批准は三月二二日。このとき、「修好条規」が発効した。
 調印後、双方から贈答品目録が交換された。
 朝鮮国王へは弾薬二〇〇〇発をつけた回転砲一門のほか紅白の縮(ちじみ)、短銃、連発銃など。
 接見大官以下随員、江華府官員へそれぞれ刀・短銃・絹・史書・酒・たばこなどが贈られた。
 また、朝鮮側からも儒書・布帛(ふはく=織物)・虎皮などの答礼品の贈与があった。
 朝鮮国王へ贈った回転砲は、前日の試射で八〇発中六〇発余を命中させ、見物人を驚かせた威力をもつ。
 日本の軍事力を誇示したのであるが、調印を終えて黒田全権がひきあげたのち、接見大官は随員の宮本・野村らに、「我国王へ献上されし大砲及び小銃は貴国製なるか、将(はたま)た洋製なるか」と質問した。
 西洋製ならば献上品として不適当である。
 だが、おそらく輸入砲だったのであろう、砲には横文字が刻まれていた。
 答えに窮した野村は、よくはわがらぬが、と前置きしながら、“貨幣がそうであるように、日本製のものが西洋にも通ずるようにするためであり、また、製造上洋字を使用する必要がある”などと言いつくろった。
 二月一一日にはじまった「日朝修好条規」交渉は、こうして終わった。
 近代朝鮮の悲劇の幕明けであるが、調印の二七日の天気は皮肉にも晴れて気温は一〇度にも上がっていた。
 交渉にあけくれた二週間が季節を変え、春をふくんだ微風が江華島をつつんでいた。
 「雲一、風一、寒暖計五〇度(華氏)、晴雨計三〇四五」と黒田の日記にある。

   四 解釈をめぐる対立

修好条規付録をめぐって

 さきに調印された「日朝修好条規」は、あたらしい日朝関係の、いわば総論で、具体的な外交・通商事項のとりきめは、修好条規第一一款によって調印六ヵ月以内に協議されるものとされていた。
 そのひとつが「日朝修好条規付録」の協定であり、もうひとつが「朝鮮国議定諸港に於て日本国人民貿易規則」の締結である。
 日本側の交渉委員には理事官として外務大丞宮本小一が任じられた。
 以下、八人の外務省官吏が随行することになった。
 一行を乗せた軍艦「浅間」は、対馬厳原(いずはら)・釜山をへて一八七六年(明治九)七月二五日、仁川沖に投錨。
 これより宮本理事官らは小艇に乗りかえて江華水道に入り、江華島対岸の徳浦鎮(トクボジン)に上陸、通津(トンジン)・金浦(キムポ)・楊花津(ヤンファジン)を通って漢城(ハンソン)(現在のソウル、李朝時代の首都名、以下本書では漢城を用いる)に入京した。
 八月一日、大礼服を着用した宮本理事官は、はじめて朝鮮国王に拝謁する日本政府の使臣として、景福宮(キョンボククン)の修政殿で華やかな仰々しい儀式に迎えられた。その後、炎暑の八月五日から二四日まで、朝鮮側の交渉委員の趙寅煕(チョウインヒ)らと折衝をかさねることになる。
 交渉は当初から難航した。
 日本側が提起した「公使の漢城駐在」「家族同伴」「公使館設置」 「外交官の朝鮮内通行」などにたいし、朝鮮側はかたく拒否した。
 修好条約による国交成立を旧来の交隣関係の復活・修正と考える朝鮮側は、修好条規第二款にいう「日本国政府は、今より十五個月の後、時に随い使臣を派出し、朝鮮国京城に到り礼曹判書に親接し、交際の事務を商議するを得べし。該使臣或(あるい)は留滞し、或は直(ただち)に帰国するも共に其時宜(じぎ)に任すべし」とは、公使の交換ではなく、宮本理事官の派遣のように「一時の御用」で「永住と云事(いうこと)は一向承知不致(いたさず)」と否認した。
 宮本理事官の国際的外交慣例と外交官職務の意義の説明にも、趙寅熈は首をたてにふらなかった。
 清国の使臣にも前例がなく、通商に関する交渉は開港場の管理官(領事)でことたりる、という。
 はてしない応酬のすえ、宮本理事官はこの問題をとりさげざるをえなかった。
 日本公使の首都駐在問題は、その後も尾を引いた。
 一八七七年九月、“代理”公使花房義質の朝鮮「差遣」(駐在ではない)についで、八〇年“弁理”公使に昇格した花房が、一二月漢城に「差遣」され、国書を朝鮮国王に奉呈したことを機に、朝鮮政府が日本公使の駐京を黙認したため、なしくずしに解決された。
 したがって花房の宿所であった漢城西大門(ソデムン)外の清水館(京畿中営)に日本公使館が開設されたのは、八〇年一二月とされている。
 要するに、朝鮮政府はアジア朝貢体制下の日朝交隣関係の維持につとめ、その崩壊につながる異質な部分を排除したのである。
 このため、三〇〇年の歴史をもつ草梁倭館の日本人専住区域への転換は抵抗なく受け入れられた。
 しかし、あらたに日本側の地代あるいは地租負担を明記することにより(翌七七年一月さらに「釜山港居留地借入約書」調印)、それまでの「客館」としての性格は失われ、日本専管の居留地(租界)になりかわる。
 居留地では広範な自治権が認められ、それが領事裁判権とむすびついて朝鮮内における日本領土にひとしく機能し、朝鮮の主権を侵害することになるのだが。
 それはともかく、修好条規付録交渉で問題となったのは、居留地化ではなく、日本人集住地区周辺の遊歩区域の広狭についてである。
 日本側は日本里程で一〇里四方とし、その区域内における商行為を認めることを要求した。
 これにたいし朝鮮側はつよく拒否し、朝鮮里程で一〇里(日本里程換算で一里二丁二四間)四方、つまり要求の一〇分の一におさえてがんとしてゆずらなかった。
 日本の商人資本の国内侵入、日本人との抗争を危惧したためである。
 遊歩区域問題は調印前日にあたる八月二三日の第一一回会談におよんだが、結局、朝鮮側か主張する朝鮮里程一〇里を受け入れるかわりに、朝鮮側は遊歩地域に日本公館から四里はなれた、行政・商業の中心地である東莢をくわえることで妥協、決着した。
 だが、交渉結果は日本の要求どおりにはいかなかったとはいえ、朝鮮政府の無知につけこんで、開港場における日本貨幣の使用と朝鮮銅貨の輸出入自由、朝鮮沿海測量の自由活動などの条項をしのびこませていた。

貿易規則をめぐる問題

 修好条約付録の交渉にひきかえ、貿易章程である「朝鮮国議定諸港に於て日本国人民貿易規則」交渉はすんなりと運んだ。
 当初から朝鮮側が日本側提示案の大要を簡単に受け入れたが、それは宮本理事官の欺罔(ぎもう=詐欺)ともいえる狡猾(こうかつ)な手口による。
 たとえば、貿易規制品とした米穀について朝鮮側が、“例外として開港場で食糧不足になった場合にのみ認める”と主張し、調印規則の漢文では「朝鮮国港口住留日本人民、粮米及雑穀得輸出入」と居留日本人のみの米穀売買に限定したが、日本文では「朝鮮国諸港口に於て粮米及雑穀とも輸出入するを得べし」(英文も同様)と一般的な貿易品としてとり扱うよう故意に改変している。
 帰国後、宮本は報告書のなかで、「[朝鮮側は]各港居留の日本人民の食糧の為」米穀買い入れを認めたが、文章からすれば「米穀の輸出を許すに似たり」と述べ、朝鮮の輸出禁制を排除した交渉の成果を誇っている。
 あるいは、三条太政大臣が与えた指示で「通商章程中の要旨」と重要視した輸出入品不課税について、宮本理事官は「両国人民の貿易は寛裕弘通を主旨とする」(自由貿易主義)と称し、日本・朝鮮ともに不課税にもちこんだ。
 そのうえで宮本は、貿易規則調印と同時に趙寅煕あてに送った公文で、規定した港税以外のいかなる名目の課税もおこなってはならないことを確認させた。
 貿易規則を修好条約付録に比して「小事と認」めた朝鮮政府は、日朝貿易の進展を過小評価したきらいがある。
 たしかに一八七六年当時の貿易額は少なかったが、修好条約が締結されると、日本政府は一般人民の釜山渡航・貿易を許し、ついで翌七七年一月、前にもふれた「釜山港居留地借入約書」調印、さらに江原道元山(ウォンサン)開港(八〇年五月)、仁川開港(八二年九月)などによる日本商人の大量進出を背景として、日朝貿易は急速に発展し、中朝貿易をしのぐまでになる。
 たまりかねた朝鮮政府は、輸出入品の国内課税をこころみたが、協定違反とする日本側のつよい抗議によって、撤回せざるをえなかった。
 朝鮮が日本との輸出人品に課税するのは、後述する一八八三年七月調印の「朝鮮国に於て日本人民貿易の規則」によってである。

第二章 “軍乱”とクーデター

 一 不平等条約体制の成立
 二 壬午軍乱――清国の影響力が強まる
 三 甲申政変――内政干渉のクーデター
 四 宗属関係の変質と朝鮮の抵抗
   一 不平等条約体制の成立 top

 「日朝修好条規」は、まぎれもなく不平等条約であり、朝鮮を近代的外交関係にひきずりこむ重大な契機となった。
 しかし、条約締結をもって、ただちにアジア朝貢体制の東の一角が崩壊したとみるのは誤りだろう。
 むしろ、日本の性急な国権外交政策は、長い伝統がはめこまれたアジアの厚い城壁によって、いったんははじき返されたとみるべきである。
 たとえば、外交代表の首都漢城への常駐は拒否されたし、釜山以外の二港開港は遅延していた。
 日本の朝鮮侵略の橋頭堡となる居留地設置さえも、国内通商権をともなわない以上、朝鮮側が日本人の活動を一地点に封じこめたことを意味する。
 「日朝修好条規」は鎖国朝鮮の重い扉をこじあけたとはいえ、朝鮮の巧妙な対応によって形骸化されようとしていた。
 朝鮮政府が認めたのは、旧来のアジア朝貢体制に決定的な亀裂をもたらさない範囲内で「近代」の部分をつつみこむことだった。
 このような状況が反転し、不平等条約が実効化されるのは一八八〇年代である。
 それには日本の実力による再挑戦というよりも、欧米列国の対朝鮮不平等条約の締結、壬午軍乱の善後措置を通じての日清間の関係調整など、国際的なうらうちが必要であった。
 朝鮮にたいする各国不平等条約が体制として成立するなかで、その一環として日朝不平等条約が定着する。            関係略年表(2) 明治13~23
  
1880(明治13、高宗17)年 4月、花房義質、弁理公使となる。5月、元山開港。米シュウフェルト提督釜山入港、国書奉呈拒否される。8月、金弘集来日。シュウフェルト天津着、以後李鴻章と朝鮮の通商条約締結交渉に入る。12月、花房弁理公使、朝鮮国王に国書奉呈。
1881(明治14、高宗18)年 1月、朝鮮統理機務衛門設置。2月、清露間にイリ条約調印。5月、朴定陽ら来日。11月、趙秉稿来日。
1882(明治15、高宗19)年 3月、金玉均来日(8月まで滞在)。5月、朝米修好通商条約調印。6月、朝英仁川条約調印(イギリス批准せず)。朝独修好通商条約調印(ドイツ批准せず)。7月、壬午軍乱おこる。8日朝修好条規続約・済物浦条約調印。清国軍、大院君を拉致、天津へ連行。9月、仁川開港。朝清商民水陸貿易章程調印。10月、朴泳孝・金玉均ら来日。12月、横浜正金銀行、朝鮮政府と17万円借款協定成立。ドイツ人ノレンドルフ朝鮮政府統理衛門に傭聘。
1883(明治16、高宗20)年 6月、金玉均来日、借款を求めるが交渉不成立(1884年5月帰国)。10月、駐清英国公使パークス、横浜駐在独領事ツァッペとともに漢城入京、メレンドルフと条約再交渉(11月、朝英修好通商条約・朝独修好通商条約調印)。11月、清仏戦争はじまる。
1884(明治17、高宗21)年 6月、朝伊修好通商条約調印。7月、朝露修好通商条約調印。日本公使館新築。12甲申政変おこる(4日)。朴泳孝・金玉均ら日本へ亡命。井上馨外務卿を特派全権大使として朝鮮へ派遣。
1885(明治18、高宗22)年 1月、漢城条約調印。竹添公使召還。呉大澂、漢城入京。3月、福沢諭吉「脱亜論」発表。4月、天津条約調印。4月、イギリス海軍巨文島占拠。6月、スベエル、ロシア軍人傭聘協定締結のため漢城入京。メレンドルフ解任。7月、榎本武揚駐清公使、李鴻章に日清共同朝鮮内政改革案を提示。日本守備隊・清国軍、朝鮮より撤退。9月、幽閉中の大院君赦免(10月帰国)。
1886(明治19、高宗23)年 6月、朝仏修好通商条約調印。
1889(明治22、高宗26)年 2月、大日本帝国憲法公布。5月、黄海道で防穀令施行。9月、咸鏡道で防穀令施行。
1890(明治23、高宗27)年 3月、黄海道で防穀令施行。11月、第1回帝国議会召集。
アメリカの朝鮮接近

 アメリカの朝鮮進出の野望は、辛未洋擾(シンミヤンヨ)の失敗によっていったんはひるんだが「日朝修好条規」締結のしらせで、ふたたび燃えあがった。
 アメリカは当初、朝鮮の唯一の条約締結国である目本の仲介を望んだ。
 これは修好条規さえまだ思うとおりには実体化できないでいる日本にたいするアメリカの過大評価であるが、日本は朝鮮の対欧米開国を欲していなかった。
 通商独占の野心があったからである。
 アメリカの要請にたいし積極的な対応をしなかった。
 一八八〇年(明治二一)五月、釜山(プサン)へ入港したシュウフェルト提督は、国書奉呈さえ拒否され、とりつくしまもない朝鮮の対応と日本の非協力的態度をみて、仲介者を清国にかえた。
 シュウフェルトが天津に着いたのは八月二五日。
 以後、李鴻章とのあいたに朝米通商条約の実質的な締結交渉がはじまる。

李鴻章の朝鮮開国政策

 李鴻章がシュウフェルトの要請にすぐ応じたのは、すでに朝鮮にたいし開国を勧告する政策をとっていたからである。
 それは、朝鮮と東三省(中国東北部の奉天省・吉林省・黒竜江省)をうかがうロシアの南下政策と朝鮮への勢力拡大を企てる日本の侵略政策に対抗するため、欧米諸国をひきいれて露日勢力を牽制しよう、という意図にもとづく。
 朝鮮の危急はすなわち清国の危急ととらえる、自国本位の戦略である。
 ロシアとは八〇年春以降、イリ紛争(中国新疆省西北のイリ地方を、回教徒の反乱に乗じてロシアが占領、七八年割地賠償のリワジア条約を結んだが、その条約破棄をめぐって紛糾)がピークに達し、きなくさいにおいが漂っていた。
 開戦となれば、ロシアは清国防衛の前線である東三省・朝鮮をおびやかすに違いない。
 一方、日本は一八七九年、沖縄県設置(琉球処分)を強行し、清国を剌激していた。
 日清両属の歴史を有する琉球の日本への併合は、中華的アジア伝統世界の崩壊につながる。
 日本の矛先がつぎには朝鮮にむけられるのは必至とみられた。
 清国政府は李鴻章に、朝鮮政府にたいして開国するよう説得することを命じた。
 李鴻章が数年来交友関係にあった朝鮮保守派の重鎮李裕元(イユウオン)にあてた書簡がある。
 少し長いが、李鴻章の考えが明確に示されているので引用しよう(王芸生編、長野勲・波多野完一訳『日支外交六十年史』)。

 貴国は既に已(や)むを得ずして、日本と通商条約を締結したる以上は、各国も必ず之に倣(なら)わん事を欲すべく、日本は巧妙に之を利用する事も有之(これある)べく候。
 只今(ただいま)之を計るに、宜(よろ)しく敵を以て敵を制するの策を用うべく、況(いわん)や泰西(ヨーロッパ)各国と条約を締結し、以て日本を 牽制するを得べきに於てをや。
 彼の日本は其(その)詐力を恃(たのみ)み、四隣を蚕食鯨呑(さんしょくげいどん)せん事を謀り居るものにて、琉球を廃したるは明(あきらか)に其一端を顕(あらわ)せるものにして、貴国固(もと)より之に備えを為さざるべがらざる処に有之(これあり)候。
 然して日本の畏(おそ)るる所は西洋人にして、朝鮮の力を以ては日本を制するに足らざるべきも、西洋人と通商して、之と共に日本を制する時は、綽々(しゃくしゃく)として余裕有るべく候。
また、ロシアについてもこういう。

 露国の拠れる樺太(サハリン)・綏芬河(スイフェン河)・図門江(豆満江)等の処は、皆(みな)貴国と接壌し、形勢相逼(あいせま)るもの有り。若(も)し貴国先に英・独・仏・米と交通する時は、啻(ただ)に日本を牽制するのにならず、又露国の窺覦(きゆ=すきをうかがう)を杜(ふせ)ぎ得べく、露国も亦(また)必ず通好を求め来るべく候。
 「敵を以て敵を制する(以夷制夷)」、この李鴻章戦略の手のひらで、東アジアをめぐる列国の対立と同盟の組み合わせの歴史が展開することになる。
 そのるつぼのなかで朝鮮は従属の苦しみを受けなければならなかった。

朝鮮開国論の形成

 一八八〇年八月、二回目の修信使が来日した。
 修信使とは修好条規第二款により、朝鮮が日本に派遣する使節である。
 このときの修信使は礼曹参議金弘集(キムホンジブ)で、のちの甲午改革(一八九四-九五年)で開化派政権を代表する人である。
 東京滞在中に彼は、駐日清国公使何如璋(かじょしょう)、参賛(書記官相当)黄遵憲(こうじゅんけん)に接触を求め、その意見をきいた。
 何如璋は黄遵憲に指示して「朝鮮策略」を書かせ、金弘集に贈った。
 その要点は、ロシアの侵略を防ぐため、朝鮮が“中国と親しみ、日本とむすび、アメリカとつらなり、以て自強を図る”ことを説いたものである。
 つまり李鴻章の方針が、対ロシア対策を増幅させながら、駐日公使館をへて朝鮮に伝えられることになったのである。
 「朝鮮策略」を持ち帰った金弘集が国王に奏上した防露・開国論は、政府内外に論議をよびおこしたが、ついに朝鮮政府は開国の方針をえらび、八一年三月、李鴻章にそれを伝えた。
 これにより李鴻章は、朝鮮政府にかわって対米条約交渉をおこなうことになる。
 だが、これはそれまでたびたび表明してきた「属国自主」の原則をくつがえしたのではない。
 「自主」のたてまえを保ちつつ、実質的な介入にふみ出したのである。
 八二年一月には、天津へ来た朝鮮代表使節が、李鴻章に交渉を委任する国王の密諭をもたらした。

アメリカとの修好通商条約締結

 一八八一年七月、シュウフェルトと第二回会談をおこなった李鴻章は、締結されるべき条約草案を馬建忠(ばけんちゅう)につくらせた。
 馬建忠はフランス留学の経験をもち、国際法に通じ、李鴻章の幕僚としてその才能を発揮していた。
 李鴻章は馬建忠草案などをもとに最終案を作成したが、彼がもっともこだわったのは、“朝鮮は中国の属邦であるが、内治外交は均しく自主を得ている”という条項を、第一条として挿入することだった。
 伝統的宗属関係の明記である。
 だが八二年三月二五日から天津でおこなわれた第三回会談では、この第一条規定にシュウフェルトは反対した。
 結局、条約とは別に、つぎのような朝鮮国王のアメリカ大絖領あて公文を出し、確認することで妥協した。

 朝鮮はもともと中国の属邦ではあるが、内治、外交は従来すべて大朝鮮国主の権限にもとづいて行なわれてきた。……
 大朝鮮国が中国の属国であり、その従属関係の結果として、朝鮮が中国に対して当然果すべきいかなる事項も、いま盟約を結ぼうとする某国には、すべでかかわりのないことである。(陸奥宗光『塞塞録』岩波文庫版の校注による)

 条約には、暫定的ながら領事裁判権の容認、仁川(インチョン)以外の開港場での米穀輸出、最恵国待遇など、朝鮮にとって不利な条項がふくまれている。
 しかし、関税については朝鮮の自主権を原則としたうえで、輸入日用品一〇パーセント、輸入嗜好品三〇パーセント、輸出商品五パーセントとするなどのことが定められており、同じく不平等条約とはいっても、日朝貿易の無課税とはくらべようもないほどゆるやかであった。
 こうして「朝米修好通商条約」は五月二二日仁川で調印される。
 調印者は全権大臣申樓(シンホン)、全権副官金弘集とシュウフェルト。
 調印日は「大朝鮮国開国四百九十一年」(李朝の建国暦)としたあとに、わざわざ「即中国光緒八年四月初六日」と清国暦が付された。
 李鴻章は、欧米諸国との朝鮮開国にあたって、「日朝修好条規」とは異質の条約を新設し、それをもって清国の藩属国・朝鮮の対外条約の基準としたのである。
 李鴻章は皇帝への上奏文のなかで、「朝鮮に駐剳(ちゅうさつ)して外交の局に当る者は、日米両国の条約を以て常に画一に弁理しなければならぬ」と記している。日朝条約の空洞化を狙ったのである。
 朝米条約についで六月六日、馬建忠の仲介で朝鮮とイギリスとのあいだに、ほぼ同一内容の「朝英仁川条約」が調印された。
 イギリスの調印者は極東艦隊司令官のウィルズ中将。
 駐清ドイツ公使ブラントが六月三〇日に調印した「朝独修好通商条約」も、同様な内容である。

不平等条約体制の成立

 だが、ウィルズが調印した「朝英仁川条約」をイギリス政府は承認せず、批准を保留した。
 ドイツでもブラント調印の「朝独修好通商条約」の批准は拒否された。
 駐日イギリス公使として東京にいたパークスもひどく不満だった。
 パークスは一八六五年(慶応元)、オールコックの後任公使として来日し、外交上で辣腕をふるった、その人である。
 八三年九月に駐清公使に転じたパークスは、一〇月、横浜駐在ドイツ総領事ツァッペとともに漢城(ハンソン)に入京した。
 それぞれ、本国政府から条約再交渉の命をうけた全権委員としてである。
 朝鮮側の全権大臣は督弁交渉事務閔泳穆(ミンヨンモク)であるが、事実上の交渉担当者はドイツ人メレッドルフだった。
 彼は壬午軍乱(次節参照)のあと、李鴻章の推薦で朝鮮政府の外交顧問となっていた人物である。
 一一月二六日に調印された「朝英修好通商条約」(京城条約)、「朝独修好通商条約」および「付続通商章程」は、前年調印の条約とうってかわって、低い関税率、朝鮮全土への内地通商権など、不平等条項をふんだんに盛りこんだものだった。
 朝鮮政府は日本と「日朝修好条規続約」「朝鮮国に於て日本人貿易の規則」(一八八三年七月)、清国と「中朝商民水陸貿易章程」「奉天と朝鮮辺民交易章程二四条」(一八八三年三月)をすでにむすんでいたから、パークスらの要求を拒否することはできなかったのだろう。
 パークスが「イギリスの東アジア諸国とむすぶ条約のモデル」と誇称したとおり、新条約はアジア不平等条約の決定版だった。
 以後、各国との修好通商条約がこれにならう。
 ロシア(一八八四年)、イタリア(一八八四年)、そしてフランス(一八八六年)とつづいた。
 アメリカと日本も、最恵国待遇により、朝英・朝独条約が朝鮮からえた貿易上の特権にあずかったのはもちろんである。
 ここに朝鮮をめぐる列国の不平等条約体制が成立した。
 李鴻章が意図した、朝米条約基準の朝鮮開国政策は失敗したかにみえる。
 しかし、パークスはアジア朝貢体制-清朝宗属関係にはまったく手をつけず、宗主国清国の朝鮮外交後見を黙認した。
 朝英条約調印の日付けに「大朝鮮国開国四百九十二年、即中国光緒九年十月二十七日」と清国暦年を付記することもこばまなかった。
 他国のばあいも同様である。
 また、イギリスは外交代表(公使)の首都駐在を条約に明記したにもかかわらず、形式的に駐清公使に兼任させ、実際上は漢城駐在総領事に公使を代理させた。
 宗属関係に敬意を表したため、といわれている。
 駐清公使で駐朝公使を兼ねたワルシャムは、八七年二月、駐清日本公使塩田三郎に、“朝鮮独立国論に反対であり、朝鮮における清国の行為は全面的に支持される”と明言している。
 清朝宗属関係をイギリスは承認していたのである。
 実は、この不平等条約体制が成立するまえに、朝鮮国内では大事件がおきていた。
 壬午(じんご)軍乱である。

   二 壬午軍乱――清国の影響力が強まる top

朝鮮の内部葛藤

 開国の衝撃を受けた清朝宗属関係のあり方をめぐって、朝鮮宮廷・政府官僚は大揺れに揺れ、あい対立する派閥を生んでいた。
 大ざっぱに分類すると、つぎの三派になる。
 第一は、清朝宗属関係の維持に重きをおき、事大(大国に事(つか)える)交隣を主義とする、政府内主流の守旧派である。
 彼らは、日本や欧米諸国との国交も、アジア朝貢体制の部分として、これにはめこんで対応しよう、と考えた。
 第二は、現実に進行しつつある、日本をふくむ欧米列強による国際政治の変化を直視し、それらの侵略から身を守るためには、すでに崩壊の危機にさらされている清朝宗属関係に依存するのでなく、これを打破し、みずからも近代国家形成をはからねばならない、とする急進開化派である。
 第三は、以上の二派の中間に位置する穏健派で、清朝宗属関係と列国国際関係とを対立的にとらえることなく、二者併存のもとでみずからの近代化を求めようとする親清開化派である。
 彼らは、国際情勢のめまぐるしい変化にふりまわされる一方、支配階級として民衆との矛盾を深めながら、困難な近代朝鮮の歴史の舵(かじ)をとろうとしていた。

軍乱と大院君の政権復帰

 一八八二年(明治一五、壬午の年)七月二三日、漢城で兵士・市民の抗日暴動がおきた。
 ことのおこりは、兵士にたいする給米の不正支給である。閔氏政権下でおこなわれた軍制改革によって新編成された軍隊にくらべて、旧軍兵士は差別的に扱われており、不満がうずまいていた。
 それがこの事件を契機として爆発したのだった。
 この暴動を失脚中の大院君が利用し、閔氏政権の転覆を企て、日本公使館襲撃を教唆扇動する。
 いきおいづいた旧軍兵士たちは、まず兵器庫を破って武器を奪い、刑務所から仲間を救出し、ついで閔氏戚族や領議政(首相相当)であった李最応(イチュワン)ら政府要人を殺害し、その邸宅を打ちこわした。
 前年五月創設された新式軍隊(別技軍)の教官堀本礼造少尉も殺害された。
 日本公使館が、一般民衆もくわわって数千にふくれあがった群衆にとりかこまれたのは、その日の夕方である。
 投石・銃撃・放火のため防衛不能と判断した花房義質(よしもと)公使ら二八人は、公使館を放棄、重囲を突破して仁川府に逃避した。
 しかし軍乱のしらせが到着すると、仁川府を守る朝鮮兵からも襲撃され、十数人の死傷者を出し、からくも脱出して済物浦へむかった。反日の気勢はどこでも沸点に達していたのである。

 二四日は早朝から反乱の軍民が昌徳宮(チャンドククン)に押しかけ、正門の昌徳宮(トンファムン)を突破して王宮を制圧した。
 昌徳宮は李朝第三代王の太宗(テジョン)が一四〇五年に造営した離宮だが、壬辰倭乱(イムジンウエラン=文禄の役)で焼失、一六一一年に再建された王宮で、名園秘苑(ピウオン)とともに現存する。
 その亭々(じょうじょう)とそびえる老木の下で、軍乱の原因となった責任者である兵曹判書(軍部大臣)閔謙鏑(ミンキョムホ)らが惨殺された。
 国王高宗(コジョン)は、やむなく大院君を昌徳宮に迎え、政権をあけわたすことを表明せざるをえなかった。
 王妃(閔妃=ミンピ)は王宮を脱して忠清北道忠州(チュンジュ)ちかくの僻村に逃れ、隠れ住んだ。

壬午軍乱・甲信申政変の舞台となった昌徳宮の昌徳宮(ソウル)

日本政府の対応

 花房公使は仁川沖でイギリス測量艦に収容され、同艦で七月二九日深更長崎に帰着、ただちに外務卿井上馨へ事件発生を急報した。
 政府はとりあえず事実経過の調査、謝罪・賠償要求のため花房公使を全権委員に任命、居留民保護のため軍艦派遣を決定し、井上外務卿が下関へ出張して指揮することとした。
 朝鮮政府との交渉を命ぜられた花房公使にあたえられた訓令は、
 ①朝鮮政府の公式謝罪、
 ②被害者遺族への扶助料支給、
 ③犯人および責任者処罰、
 ④損害賠償、
 ⑤朝鮮軍による公使館警備、
 ⑥朝鮮政府に重大責任あるばあいは巨済島(コジェド)または欝陵島(ウルヌンド)の割譲、
 ⑦朝鮮政府が誠意を示さないばあいは仁川を占領し後命を待つこと、などである。やがて
 ⑧咸興(ハムフン)・大邱(テダ)・楊花津(ヤンファジン)の開市、
 ⑨外交使節の内地旅行権、
 ⑩通商条約上の権益拡大、などが追加された。
 そして、陸軍は熊本鎮台の一個大隊派遣、海軍は軍艦四隻、輸送船二、三隻の派遣をきめた。
 迅速な対応をはかったのは、事件の重大性のためというよりも、清国の干渉をおそれたためである。
 八月五日、駐日清国公使は、清国政府の派兵をともなう調停を伝えていた。
 これにたいし外務卿代理吉田清成は、再三、「自主の国」朝鮮と日本との問題は条約にもとづき解決する、として介入を謝絶したが、清国側は、“朝鮮は清国の属国であるから、清国が処理にあたるのは当然”として日本側の要請をはねつけた。
 政府法律顧問のボアソナードも、“日本は朝鮮を独立国と認めたのだから、日朝聞の交渉に清国を介入させるべきではないが、清国が朝鮮に干渉することは避けられないので、清国政府が照会する以前に、日本政府は朝鮮政府に要求を申し入れておかねばならない”と助言した。
 工部省汽船「明治丸」で済物浦(チェムルポ)に入港した花房全権は、八月一二日、仁川府に入った。
 先遣の近藤真鋤(しんすけ)書記官らと陸軍兵三〇〇人を輸送してきた軍艦二隻、輸送船一隻に、後続の艦船をくわえると軍艦四隻、輸送船三隻、陸軍歩兵一個大隊が仁川周辺に集結したのである。
 この軍事力を背景に、花房は、軍乱で破壊されたままの漢城に入京した。
 二〇日、花房は二個中隊を率いて昌徳宮にむかい、王宮内で高宗に謁見、ついで大院君と会見した。
 このとき、日本政府の要求七項目を記した冊子を領議政洪淳穆(ホンスンモク)に手わたし、回答期限を三日後とした。
 朝鮮政府は日本の過大な要求に回答をためらったのであろう、領議政の急務を理由に回答の延期を通告してきた。
 花房は約束違反をとがめ、二三日には護衛兵を率いて漢城を発ち、仁川にひきあげた。
 仁川に滞在した花房は、清国政府から急派されて漢城に到着した馬建忠の周旋を受け入れ、二八日から朝鮮との交渉を開始することになる。

馬建忠の干渉

 清国政府が軍乱発生のしらせを最初にえたのは、八月一日、東京駐在の清国公使黎詔忠(れいしょうしょう)からの電報によってである。
 李鴻章は生母の死去服喪中だったので、かわって北洋大臣代理の張樹声(ちょうじゅせい)が天津滞在中の金允植(キムユンシク)・魚允中(オユンジュン)に意見を問うた。
 ふたりは、事件が国王高宗の開国政策に反対する勢力のクーデターであると推断したうえで、日本がこの機会に朝鮮進出をはかるであろうから、これを抑えるため、清国の派兵と日朝間の調停を要請した。
 張樹声はただちに北洋水師提督の丁汝昌(ていじょしょう)に出動準備を命じ、上海にいた馬建忠を呼び寄せた。
 八月七日に「派兵して保護すべし」という光緒帝の命令が下った。
 藩属国の朝鮮の保護だけでなく、朝鮮で被害をうけた日本をも保護せよ、というのである。
 丁汝昌の率いる「威遠」「超勇」「揚威」の三隻の軍艦は、馬建忠・魚允中を乗せて芝罘(シーフー)を出港、八月一〇日済物浦に入港した。
 上陸した馬建忠は、情報収集にあたるとともに日朝の要人と非公式に接触した。
 また、事態の展開に軍事的に対処するため、兵員の増派を上申した。
 呉長慶提督が三〇〇〇人の兵を率い、三隻の軍艦に守られて、済物浦から南へ約四〇キロ離れた南陽湾(ナムヤンマン)の馬山浦(マサンポ)に着いたのは八月二〇日である。
 これにより日本軍にまさる兵力配置をととのえた馬建忠は、真夏の太陽のもと、休む間もなく南陽-漢城-仁川のあいだを走り、糸の切れ九日朝間の斡旋にのりだす。
 二四日には仁川の花房全権をおとずれ意見交換。二五日の再度の会見で花房から朝鮮全権との協議に応ずるという言明をひきだした。
 このとき、ふたりのあいだで大院君排斥問題が話されたかどうかわからないが、開国政策を妨害する大院君を排除すべきだという一点で、日清両国は共通の立場にたつことができたはずである。
 翌二六日、大院君拉致事件がおこる。
 大院君排斥・国王復権の基本方針は張樹声の指示によるものと思われるが、実行計画は馬建忠・丁汝昌・呉長慶によってたてられた。
 王宮はじめ城門を清国軍兵が固め、おびき出した大院君を捕え、南陽から天津へ連行したのである。
 “清国皇帝が冊封した朝鮮国王をしりぞけて政権をとるのは、国王をあざむき皇帝を軽んずるもので、その罪は許されない”というのが拉致の理由である。
 高宗・閔氏政権は復活し、閔妃は忠州からにぎにぎしく迎えられて王宮へ還った。

済物浦条約と修好条規続約

 復権した高宗・閔氏政権は、外交面ではまったく馬建忠に依存せざるをえなかった。
 馬建忠は、先に日本側が提示した要求項目について、受諾すべきもの、拒否すべきもの、交渉すべきもの、に腑分(ふわ)けして各項に対応する指示を与えた。
 朝鮮側の全権大臣李裕元、副官金弘集らが、済物浦に停泊する日本軍艦「比叡」をおとずれて交渉を開始したのは二八日夜である。
 交渉は同夜と翌二九日に集中的におこなわれ、三〇日にははやくも調印となる。
 交渉案件が短時間で決着したのは、馬建忠が事前に朝鮮側に受諾条件を指示するとともに、日本側にも要求の緩和を勧告していたためである。双方に交渉を決裂させる意思はなかった。
 軍乱の犯人・責任者処罰、日本人官吏被害者の慰霊、被害遺族・負傷者への見舞金支給、朝鮮政府の公式謝罪、日本外交官の朝鮮内地旅行などは、日本側提出のほぼ原案どおり容認された。
 また、日本側が要求した開港場遊歩地域の拡大(内地通商権)と漢城近郊の漢江河岸である楊花津の開市、咸興・大邱への自由往来問題は、朝鮮側の反対により遊歩地域を朝鮮里程五〇里(批准一年後に一〇〇里に拡大)とし、楊花津は開市することで合意された。
 朝鮮側かもっともつよく反対したのは、賠償金五〇万円と公使館警備を名目とする日本軍一個大隊の首都駐兵である。
 しかし、花房は強引につきはなし、文言の修正と但し書きの挿入しか認めなかった。
 こうした交渉結果はふたつの条約にまとめられ、三〇日に調印される。
 ひとつは、壬午軍乱の善後処置としての「済物浦条約」、もうひとつは、「日朝修好条規」の追加条項としての同条規続約である。
 前者は批准を要さなかったが、後者は修好条規の一部をなすから批准を要し、一〇月三〇日、天皇が批准した。
 批准書交換は三一日、謝罪特使として来日し、東京滞在中の全権大臣兼修信使朴泳孝(パクヨンヒョ)、副大臣金晩植(キムマンシク)と井上外務卿とのあいだでおこなわれた。

清国宗主権の強化

 「済物浦条約」調印直後の九月二日、花房全権は「大満足にまで条約を締結せり」と井上外務卿あての報告電報を打った。
 しかし、それは花房の外交手腕によるのではなく、宗主権をせおった清国の馬建忠の敏腕による。
 「大満足」の成果は、日本政府が嫌ったはずの清国の介入によりもたらされた。
 結果的には清朝宗属関係の頑強な存在をあらためて印象づけることになったのである。
 朝鮮側の譲歩による条約締結は、この年五~六月にアメリカ・イギリス・ドイツとゆるやかな不平等条約をむすばせ、日朝条約の空洞化を策して朝鮮外交の復権をはかったばかりの李鴻章・馬建忠らにとっては大きな後退だっただろう。
 その穴埋めのためには、日本にまさる力による清国の朝鮮従属化しかない。
 彼らは、そのとき、この新方針を胸にたたみこんだに違いない。
 それを実現する機会が眼前にあるのだ。
 九月一三日、光緒帝は大院君の保定(中国河北省)拘留と呉長慶麾下(きか)の将兵三〇〇〇人の漢城駐留の命令を下した。清国が軍事力を背景に宗主権強化政策を採用したのである。
 もともと宗属関係は藩属国の内治外交に干渉しない原則であったから、強化というより権力的再編といったほうがよい。
 変質である。
 清国にすがって国を守ろうとする閔氏政権の親清政策もこれをうながした。
 一八八二年一〇月、軍乱後の政策について李鴻章の指導を請うため天津に派遣された兵曹判書趙寧夏(チョウヨンハ)は、外交顧問として招聘すべき人材の推薦を依頼した。
 これにより一二月、趙寧夏の帰国(趙は弁理統理衙門事務という新設の外務省相当機関の長に就任)に同行して来朝したのが馬建常(ばけんじょう)とメレンドルフである。
 馬建常は馬建忠の兄で、ヨーロッパに留学しており、神戸大阪領事(一八八二年四月~八三年四月)の経験をもつ。
 ドイツ人ノレンドルフは、六九年に清国へ来て(当時二一歳)、海関(税関)勤務ののち、天津・上海のドイツ副領事をつとめた中国通の外交官である。
 メレンドルフは参議統理倚門事務として迎えられた。
 ふたりは一二月二七日、高宗に謁見した。
 メレンドルフは朝鮮国王が召見した最初のヨーロッパ人である。
 軍隊養成と軍制改革を依頼された呉長慶は、そのころめきめき頭角をあらわしつつあった若い部下の袁世凱(えんせいがい=八二年当時、二三歳)に命じてそれにあたらせた。
 一年半後には彼のもとで養成された二〇〇〇人を擁する新式陸軍が誕生する。
 こうして宗主国清国は藩属国朝鮮の外交・軍事に深く介入するにいたった。

「水陸貿易章程」の調印

 「済物浦条約」調印直後の一八八二年一〇月四日、「中国朝鮮商民水陸貿易章程」が李鴻章・周馥(しゅうふく)・馬建忠と趙寧夏・金弘集・魚允中とのあいだで調印された。
 清朝間にむすばれた近代的形式をぶんだ最初の条約である。
 だが、その前文で、「朝鮮は久しく藩封に列す。典礼の関する所、一切均(ひと)しく定制有り。庸(もつ)て更議すること毋(な)し」と規定して、旧来の朝貢関係が不変であることを示した。
 また、「此次訂する所の水陸貿易章程は、中国の属邦を優待する意に係り、各与国が一体均霑(きんてん=等しくうるおう)するの列に在らず」と、宗属関係にもとづく独自のとりきめてあることを明記した。
 つまり朝鮮あるいは清国と通商条約をむすんでいる諸外国は、最恵国待遇をもってこの貿易章程上の利益にあずかることはできない、というのである。
 したがって章程の「属邦優待」とは、清国が朝鮮貿易上の特権を排他的に独占することを意味する。
 貿易章程はまず、相互に商務委員を派遣(ただし清国の商務委員は漢城に、朝鮮の商務委員は天津に駐在)するとした。
 名目は自国商人の管理であるが、清国商務委員は朝鮮の通商に干渉する立場にある。翌年、李鴻章は輩下の陳樹棠(ちんじゅとう)を商務委員として朝鮮に派遣するが、総弁朝鮮商務という肩書きをもつ陳樹棠は、絶大な権限をもつようになる。
 このほか章程は、両国の「商民貿易」を建前としながら、朝鮮人の北京開桟(かいさん)とひきかえに、中国人の漢城・楊花津での開桟を認め、また、開桟地以外での物貨の仕入れ権である内地「採辧」を査証つきで容認した。
 桟とは倉庫業・運送業・問屋業を兼営する店舗の営業権である。
 これは、それまでに朝鮮が外国とむすんだ通商条約にはない規定であった。
 領事裁判権に相当する商務委員の裁判管轄権は、清国側にのみあるばかりか、原告が中国人で被告が朝鮮人であるばあいには、審理に清国商務委員がくわわることができるという不平等条項である。
 要するに章程は、宗属関係をたてに、清国の朝鮮貿易独占、内地通商支配を基礎づけるものであった。
 朝鮮経済を外国にたいしてはひらかずに、両国間だけの「商民貿易」とし、それを宗属関係の網でつつんだ、ともいえよう。
 清国商人を朝鮮国内にひきいれることによって、日本や欧米の経済進出に対抗し、抑止しようとした朝鮮も基本的にはこれに同意した。
 しかしそれは、もはや理念的な伝統的宗属関係とは異質のものである。
 清朝宗属関係の特殊性の強調とはうらはらに、内容は近代的支配隷属関係への質的移行を示していた(秋月望「朝中間の三貿易章程の締結経緯」)。

   三 甲申政変――内政干渉のクーデター top

金玉均(キムオクキュン)という人物

 金玉均が壬午軍乱を知ったのは、彼が最初の訪日(一八八二年三月~八月)をおえて帰国する途次、下関においてであった。
 開化派を代表するひとりである彼は、大院君と敵対する立場にあったから漢城帰京をはばかって仁川に滞在した。
 そのとき大院君拉致のしらせを聞いたのである。
 訪日で深く印象づけられた日本の「近代」を背にしてこの事件をみたとき、老大国の横暴は増幅してみえたかもしれない。
 国王の実父を連行し、外国に拘禁するとは許しがたい国辱である。
 それを宗主権というのなら、近代化のために宗属関係から離脱するほかない、彼がそのように考えても不思議ではなかった。
 金玉均は、近代的技術導入・軍事力強化のための洋務開化論を唱えた右議政(副首相相当)朴圭寿(パクキユス)の門下である。
 朴圭寿は一八七七年に没したので八〇年代の指導者とはならなかったが、その指導下に朴泳孝(パクヨンヒョ)、朴泳教(パクヨンギョ=朴泳孝の兄)、徐光範(ソグアンボム)、洪英植(ホンヨンシク)らの開化派が形成された。
 清国との関係を保持しつつ「近代」への軟着陸を志向した穏健開化派の金弘集(キムホンジブ)、金允植、魚允中、兪吉濬ユギルジュンらもその系統に属する。
 こうした若手開化派にたいする国王の信頼も厚く、彼らは外交・開化政策を担当する新設官庁の協弁・参議(次官・参与官クラス)等に配置され、しばしば訪日使節団、天津視察団、朝米条約締結の報聘(ほうへい)使節団などの一員として、海外の文物制度を見聞する機会をえた。
 壬午軍乱の謝罪をかねた修信使朴泳孝・金晩植・徐光範一行に随行し、金玉均が二回目に来日したのは八二年九月である。
 天皇に謁見した朴泳孝らは、政府高官とも接触し、朝鮮独立援助を要請した。
 朝鮮の自主独立を標榜してきた日本としては進出の好機ではある。
 だが、軍乱後の朝鮮は清国の大軍の制圧下にあった。政府内の意見は、山県有朋参議の積極的援助論と井上馨外務卿の不干渉論とに割れた。
 閣議は対清開戦につながりかねない積極的援助論をしりぞけながら、限定的に朝鮮独立を援助する方針をえらんだ。
 折衷論である。
 償金支払い年限の緩和、横浜正金銀行から一七万円の借款供与などがその内容で、朝鮮に恩を売り親日派の歓心をつないだ。
 朴泳孝が一二月に帰国したのちも、金玉均は東京にとどまり、政財界人や外国使節と会って交遊を深めた。
 日本側の対朝鮮策の不統一、さまざまな思惑のなかから、金玉均は日本の援助を過大に期待して八三年三月に帰国した。

クーデター計画

 八三年六月、金玉均は三回目の訪日の途についた。
 前回の訪日時に会見した日本政府高官らは、朝鮮国王の委任状があれば借款に応ずることを示唆していた。
 留学生尹致昊(ユンチホ)の帰国にあたっても、大蔵大輔吉田清成はかさねてそのことを金玉均に伝言した。
 だが、国王からあたえられた三〇〇万円の国債借り入れの委任状をたずさえて来日した金玉均にたいする日本政府の対応は一変していた。
 いまやふり向こうともしないのである。
 三〇〇万円といえば朝鮮財政一ヵ年分に匹敵する巨額である。
 財政を監督するメレンドルフの妨害工作もあったが、日本政府としても、松方財政の緊縮財政下に、政情不安定で経済力薄弱な朝鮮に巨額な資金を投ずる理由は乏しい。
 日本についでフランス・アメリカからの借款工作にも失敗し、金玉均はうちひしがれた。
 彼が“非常手段に訴えても”と思いをめぐらすようになったのはそのころであろう。
 彼は第一回訪日以来、福沢諭吉と密接な交流があり、福沢も助言を惜しまず、熱っぽく語る金玉均に維新の志士をかさね合わせてみていた。
 彼は福沢のすすめで自由党の後藤象二郎にも会った。彼は金玉均の話をどのように聞いただろうか。
 この退潮期民権運動の指導者は、あやしい目配りを朝鮮半島の上にそそぎはじめていた。
 八四年五月、帰国した金玉均の目に映った朝鮮は、以前にもまして勢力をふるう清国とそれに追随する重臣たちの姿たった。
 開化派の同志たちの活動の場はせばめられている。
 越南(ベトナム)問題をめぐる清国とフランスとの緊張の高まりから、五月に遼東半島へ移駐することになった呉長慶にかわって実権を掌握した袁世凱は、ますますふんぞり返っていた。
 しかし、越南における清国の劣勢が権威をゆさぶる。
 清国の朝鮮駐留軍の半数が移駐したことも頭上にのしかかる重圧の軽減となった。開化派は時勢の方向が自分たちにむかうことを期待した。
 日本も、清国勢力の後退を喜んだ。壬午軍乱以後、無為に過ごした失地回復の機会とみたのである。
 井上外務卿は帰国中の弁理公使竹添進一郎に因果をふくめ、一〇月、漢城に帰任させた。
 竹添は軍乱賠償金残金の返還解消を申し出るなどして国王の歓心をかう一方、金玉均らに接近して開化派のクーデター計画にくわわっていく。

クーデターの強行

 クーデター実行計画は粗末に過ぎる。粗い計画の布目からこぼれ落ちるのを防ぐのは、やりとげねばならないと信ずる開化派同志の義務感という、継ぎあての小布だけである。
 クーデターに動員できる軍事力はといえば、公使館警備の仙台鎮台歩兵第四連隊第一大隊第一中隊の一五〇人と、日本陸軍戸山学校留学から帰国した十数人の「士官生徒」と新式軍隊の一部にすぎない。
 これをもって、半減したとはいえ一五〇〇人の兵力をもつ清国軍と袁世凱の指揮下にある政府軍と敵対するのはあまりにも無謀である。
 清国の武力干渉を抑止するにいたっては無力にひとしい。
 決行日は一二月四日と決定した。
 この日の夜ひらかれる郵征局(中央郵便局)開局祝賀晩餐会に出席する重臣をみとどけたうえ、少し離れた別宮に放火し、駆けつけた守旧派高官を殺害する、という筋書きである。
 襲撃用の武器は、福沢諭吉の弟子で、漢城でハングル新聞『漢城旬報』を刊行していた井上角五郎が輸入したものという。
 しかし、放火などに失敗したため、金玉均・朴泳孝らは王宮へはしって国王を景祐宮(キョンウグン)へ移御させ、清国軍の反乱と偽って日本公使へ救援依頼をするよう国王に要請した。
 あらかじめ待機していた竹添公使と日本軍はただちにこれに応じ、国王護衛の政府軍とともに景祐宮の守りを固めた。
 国王の安否を気づかって景祐宮にかけつけだ守旧派の重臣、閔泳穆(ミンヨンモク)・閔台鎬(ミンテホ)・趙寧夏(チョウヨンハ)らがつぎつぎに殺害されたのは同夜から翌五日未明にかけてである。
 いずれも殺害者リストにあがっていた人物だった。

1884年開局の郵征局(ソウル)

 五日、開化派は新政権の樹立を宣言。新政府の中核には右議政兼左右営使(副首相兼軍部大臣相当)洪英植をはじめ、外交・軍事・財政・司法の要をにぎる高官の地位に、徐光範・朴泳孝・金玉均・尹致昊(ユンチホ)・徐載弼(ソジェビル)らがならんだ。
 同日夕、国王は昌徳宮へ還宮。新政府、が夜を徹して作成し、国王の裁可をえた近代的諸制度導入をもりこんだ諸政革新の「政綱」が、翌日発表される。

敗北と逃亡

 開化派クーデターに対し、清国軍は出動をひかえていた。
 朝鮮国王が日本公使の保護を命じていたことと、日清衝突による混乱を避けるためであるが、事態の進展はそれを許さなかった。
 清国軍を統轄する統領呉兆有(ごちょうゆう)は、袁世凱らと協議のすえ、一二月六日、兵を率いて昌徳宮に入ることをきめた。
 王宮護衛の任についていたはずの政府軍兵士の多くもこれに合流した。
 戦闘開始は午後三時ごろ。広大な昌徳宮を防衛するにはあまりにも少数の日本軍は、戦いらしい戦いもせずに王宮の一角に追いつめられた。
 包囲の環がせばめられるなかで、国王と閔妃らは逃げまどったが、敗色濃厚とみるや、竹添公使は卑劣にも日本軍の撤収を命じた。
 国王を奉じて避難する、という金玉均らの提案は国王が拒否した。
 竹添公使と日本軍は昌徳宮裏門から脱出して、七時半ごろ公使館へもどった。
 朴泳孝・金玉均ら九人も行動をともにしたが、洪英植・朴泳教らは国王にしたがい、のち清国兵に殺される。
 竹添らの公使館帰着まえに、市中は混乱状態におちいり、暴徒化した軍民により居留日本人が惨殺された。
 その数は二九人、うち女性一人をふくむ。
 居留民保護を放棄した竹添公使の責任でもある。
 この年七月新築落成したばかりの、校洞(キョドン)の公使館も襲撃された。
 もはや公使館維持を不可能とみた竹添は、七日午後、公使館に火を放ち、全員退去を命じた。
 西大門をぬけ、郊外の麻浦から漢江を下った。
 降雪のなか、凍える夜を送った一行が仁川領事館に着いたのは翌八日朝である。
 ここで一行は停泊中の「千歳丸」に収容され、日本に帰還することになるが、よるべき所を失った朴泳孝・金玉均らの同行を、竹添は露骨に嫌った。
 主謀者と自分との連繋があきらかになることをおそれたのである。
 彼らがひそかに乗船できたのは船長辻覚三郎の義侠による。
 しかし、日本へ着いた亡命者に対する日本政府の態度は冷たく、金玉均は一〇年ちかい幽閉生活ののち、一八九四年、上海で朝鮮国王の放った刺客に暗殺される。

関与を否定し通す

 甲申政変は、日本の国家権力が朝鮮の内政に干渉し、しかも武力介入して政権の交替をはかる、というおぞましい事件である。
 それにもかかわらず日本政府は、“竹添公使が金玉均らと通謀した事実はなく、保護を求めた国王の要請にしたがって王宮に入ったにすぎない”と強弁して押しとおした。
 これが牽強附会の論理であることは、当の日本政府が熟知していた。
 一八八四年一二月三〇日、軍艦三隻・護衛兵二個大隊をともなって仁川に入港した特派全権大使井上馨外務卿は、朝鮮政府との交渉にあたって、つとめて事件の経過と責任についての論及を避け、善後策を協定することを主張し、朝鮮側を承服させた。
 交渉は井上全権大使、随員の井上毅(こわし)参事院議官らと左議政(副首相相当)全権大臣金弘集、督弁統理交渉通商事務倚門趙秉鎬(チョウビョンホ)、同協弁メレンドルフらとのあいだで、八五年一月七日からはじまり、二日後の九日には調印となる。
 「漢城条約」(「明治十七年京城暴徒事変ニ関スル日韓善後約定」)である。同日付けで竹添公使は召還された。
 条約は、朝鮮が日本に公式謝罪し、被害者遺族の救恤と財産補償として一一万円を支払う、ということなどを内容とする。
 調印後のことであるが、井上は、近藤真鋤駐朝臨時代理公使あての機密文書で、竹添公使の不当な行動、壬午軍乱後の政府の開化派支援策が事件の一因となつたことを認め、交渉で事実究明をおこなったならば一我行為の不是を表証するに均(ひと)」しく、「我公使の体面を損し、主客其(その)地位を顛倒」するおそれがあるので、朝鮮政府にたいする「要求を寛減」するとともに「我公使(竹添)の凶党に関係を有せざる事実を表明」することにつとめた、と述べている。
 日朝間の事後処理は、こうして真相究明と責任問題をたなあげすることによって簡単にすんだが、より大きな問題は日清間にあった。
 朝鮮問題とくに駐兵について、朝鮮ぬきで日清両国が協定すること自体不当であるが、実は井上には対清交渉用の全権もあたえられていた。
 三条太政大臣が井上にあてた内訓には、日清両国軍の朝鮮撤兵交渉が指示されている。
 清国政府は、事件のしらせを受けると、宗主国として藩属国の内乱を調査・処理するという名目で北洋副大臣の呉大澂(ごたいちょう)を朝鮮に派遣した。
 呉大澂は八五年一月一日、随員四〇人、護衛兵二五〇人を率いて漢城に入京し、日朝交渉を監視し、朝鮮政府に譲歩を説いた。
 しかし、撤兵問題について井上全権は、清国との交渉を避け、問題をつぎに述べる天津における日清交渉に移した。

「天津条約」による撤兵

 参議・宮内卿伊藤博文を特派全権大使とし、参議・農商務卿西郷従道(つぐみち)中将同行、随員井上毅、伊東巳代治(みよじ)、牧野伸顕(のぶあき)ら一二人、随行武官一〇人という大型使節団が北京に入京したのは一八八五年三月二一日である。
 徳宗皇帝(光緒帝)への謁見はできなかったが、国書を奉呈したのち、全権大臣に任命された李鴻章の駐在地である天津で、四月三日から交渉をはじめる。
 井上外務卿が伊藤全権に指示した訓令(二月二五日)によると、清国にたいする要求事項は、事件時の清国軍責任者の処罰と漢城駐在の日清両軍の共同撤兵である。
 前者は清国軍がとった行動の不当を問うもので、容易に承諾されないことは予想ずみであり、主眼は後者にあった。
 共同撤兵といえば相互対等にきこえるが、日本側が公使館警備に職務を限定された一個中隊の暫定的駐屯であるのにたいし、清国側は現に漢城を制圧している大軍の駐兵既得権をもつのだから、事実上は清国の朝鮮駐兵権の放棄を求めたことになる。
 駐清公使榎本武揚は、後者について、将来、緊急時の出兵権を留保するならば反対しきることはあるまい、と予想していた。
 伊藤-李鴻章交渉は四月一五日まで六回にわたっておこなわれた。
 事件参加の清国軍の行動責任について清国側は、逆に竹添公使らの不法な行動こそたださるべきであるとして日本側の主張を否認した。
 結局は条約とは別に、李鴻章が、清国兵の居留日本人にたいする暴行の事実が判明すれば、軍法により厳重処分する、という趣旨の照会公文を出すことで妥協した。
 かろうじて伊藤は面目をたもった。
 共同撤兵については、清国の兵力配置上の都合もあり、イギリス公使パークスの勧告を受け入れて、了承する。
 しかし、非常時の臨時出兵については、李鴻章は宗主国の本来の権利であるとしてしつように主張し、ゆずらなかった。
 榎本公使の予想どおりである。
 結局、四月一八日調印の「天津条約」に、つぎのような一項を挿入することで合意した。

 将来、朝鮮国若(も)し変乱重大の事件ありて、日中両国或(あるい)は一国、兵を派するを要するときは、応(まさ)に先(ま)づ互に行文知照すべし。
 其の事定まるに於ては仍即(すなわ)ち撤回し、再(ふた)たび留防せず。
 日清両国は、朝鮮への派兵にあたって互いに「行文知照」、つまり事前通告することを認めあった。
 のちの日清開戦直前の九四年六月七日、清国政府が派兵の公文を照会し、日本政府もただちに朝鮮派兵を清国政府に「行文知照」したのも、この条項による。
 「天津条約」締結にあたった伊藤への全権委任状には「批准を行うを要せざるべし」とあったが、清国側が批准を求めたので日本もこれに応じた。
 五月二一日天皇批准。日清両国軍の漢城撤収はともに七月である。

   四 宗属関係の変質と朝鮮の抵抗 top

属国から保護国へ

 朝鮮へ出兵の「行文知照」を規定した「天津条約」について、のちに陸奥宗光は、「両国が朝鮮に対する均等の権力を示したる唯一の明文にして……従来、清国が唱え居たる属邦論の論理はこれがために大いにその力を減殺せしことは一点の疑いを存せず」(『蹇蹇録』)と評価している。
 しかし、「天津条約」後の清国は、朝鮮にたいする干渉を緩和しなかった。
 むしろ、内政外交不干渉の宗属原理をかなぐり捨てたかのように、干渉強化にふみこんだ。
 たとえばつぎの一例は、従来の清朝関係にはなかったものである。
 一八八五年一〇月、清国は朝鮮派遣の商務委員陳樹棠を更迭し、商務委員とは比較にならない高い地位とつよい権限をもつ駐箚朝鮮総理交渉通商事宜として袁世凱を派遣した。
 このとき、李鴻章は諸外国の例にならって外務担当の総理衙門に辞令交付の手続きをとらせたが、条約締結国の外交官とは別格の宗主国の駐在官であった(茂木敏夫「中華帝国の「近代」的再編と日本」)。
 三年まえ、馬建常とメレッドルフが政府顧問に就任したのは、朝鮮国王の依頼を受けた清国政府が彼らを推薦し、朝鮮政府が雇用するかたちであった。
 今回はそれとは異なり、清国政府が任命した袁世凱が、総理衙門の訓令をうけつつ朝鮮外交権を実質的に掌握するものである。
 朝鮮はなお形式的には国際法上の主体として外交権を保持するが、すでにその実を失いつつあった。
 八七年におきた朝鮮の公使派遣にたいする清国の干渉も、朝鮮の外交権が非自立的で、宗主国に従属するものであることを諸外国に示そうとしたことによる。
 この年六月、朝鮮政府は、修好条約締結後の最初の派遣公使として(前年発令の李憲永(イホンヨン)駐日弁理大臣は赴任せず)、駐日弁理・駐米全権・駐英独露伊仏五ヵ国全権公使を任命、派遣した。
 これにたいし清国は、公使派遣にあたっては清国皇帝の承認が必要であるとし、任地では清国公使に着任報告(先赴同赴)、儀典行事で清国公使の先に立だないこと(席次随後)、重要事項の清国公使との事前協議(要事密商)の三条件を守ることを命じた。
 また、李鴻章は朝鮮の派遣公使は三等(代理)公使とすることを求めた(糟谷憲一「近代的外交体制の剔出-朝鮮の場合を中心に」)。
 公使には全権・弁理・代理の三種類があり、三等の代理公使は外務大臣あてに派遣されるので、国家元首への謁見や国書奉呈の権がない。
 これにより宗主国清国派遣の公使と藩属国朝鮮派遣の公使との身分的格差を対外的に示すとともに、朝鮮の自主外交を封じたのである。
 近代的国際関係とは別次元の宗属関係は、条約による規定がないから、宗主国の恣意(しい)により藩属国にたいする強制はかぎりなく増大する。
 清国が根拠として宗属関係を強調すればするほど、本来の理念的な宗属関係から遊離し、近代的保護関係の支配と従属の構造に接近せざるをえなかった。

清国のはたした役割

 朝鮮にたいする清国の宗主権強化について、介入の正当性をもたない日本は傍観するほかなかった。
 しかも、柬アジアの秩序維持に清国がはたす役割は認めざるをえない。
 一八八五年四月、イギリスは朝鮮半島と済州島(チェジュド)とのあいたの多島海(タドヘ)に浮かぶ巨文島(コムンド)を不法占拠した。
 アフガンでイギリスと緊迫した関係にあったロシアの太平洋艦隊が江原道元山(ウォンサン)港をふくむ永興湾(ヨンフンマン)を占領する、とみての対抗措置たった。
 もし、イギリスとロシアのあいだに戦争がおこれば、巨文島はウラジオストクへの攻撃基地にもなる。
 この事件について八六年、李鴻章は駐清ロシア公使との交渉にのりだし、ロシアから朝鮮の現状維持・領土不可侵の保障をひきたして、巨文島からイギリス軍を撤退させた(八七年二月)。
 ここでは、アジアの国際調停機関として宗主権が有効に機能した。
 その間に日本は、清国にたいして日清両国による朝鮮の共同保護・管理を提案した。
 八五年六月に井上外務卿が駐日清国公使徐承祖(じょしょうそ)に示し、翌七月、榎本駐清公使が李鴻章に伝えた「朝鮮弁法八ヶ条」とよばれるそれは、朝鮮における清国の優位を明確に認め、政府中枢から排除されていた穏健開化派の金弘集・金允植・魚允中を復権させ、李鴻章指導のもとに改革をおこなわせる、というのである。
 ただし実施にあたっては井上が李鴻章と協議する、という規定をもりこんだ。
 日清提携によってロシア勢力の朝鮮への進出をはばもうというのだが、同時に宗主国清国の無限の権威に便乗して、日本の朝鮮への介入権を確保しようという意図もかくせない。
 李鴻章が日本政府の提案を拒否したのはいうまでもない。朝鮮に干渉しうるのは宗主国だけでなければならない。
 対朝鮮政策の手がかりを失った井上外務卿は「自然の成行を傍観するの外、致方無之(いたしかたこれなき)」状況に追いこまれる。

「引俄反清」策の登場

 支配と抑圧の体系と化した宗属関係は、藩属国の抵抗をよびおこす。
 清国の支配から離脱して朝鮮自主化をめざす方向の模索がはじまる。急進開化派は日本の力を利用してそれをおこなおうとして挫折したが、朝鮮国王はロシアに接近してそれをはたそうとし、メレソドルフがこれをたすけた。
 つぎつぎに国家主権が蚕食(さんしょく)されていく朝鮮の現実が、メレンドルフを李鴻章にたいする背任行為に走らせたのであろう。
 計画は国王とメレンドルフとのあいだだけで進められた。
 一八八五年二月、甲申政変謝罪の遣日使節の全権副官として来日したメレンドルフは、駐日ロシア公使ダヴィドフ、書記官スペエルと協議し、朝鮮に軍事教官として十数人のロシア人を傭聘(ようへい)する計画をねった。
 スペエルは甲申政変直後にも来朝し、国王に謁見、メレンドルフらとも会見した人物である。
 軍事教官の傭聘はたんに軍隊教育の問題ではない。軍事権への介入を窓口にして派遣国の影響はたちまち広がるだろう。
 あたらしい朝露関係の展開を意味するロシア軍人傭聘案を朝鮮国王、ロシア皇帝が裁可したので、八五年六月、スペエルは傭聘に関する協定をむすぶため、ふたたび来朝した。
 はじめて計画をしらされた朝鮮政府は、すでに国王の承認があるため処理に苦しんだが、すべてをメレンドルフの越権行為によるものとしてスペエルの要求をしりぞけ、李鴻章の承認をえてメレンドルフを解任した。
 清国は同年九月、保定府に幽閉していた大院君の赦免を決定する。
 清国から離反しようとする朝鮮国王に対して、政敵である大院君を帰国させ牽制しようとしたのである。
 しかし、抑圧によってロシアに通ずる道を遮断することはできなかった。
 「朝露修好通商条約」(八四年七月調印)が批准(八五年一〇月)され、八五年一〇月に漢城に着任した初代ロシア代理公使ウェーバーと国王らは連絡をとりあった。
 「引俄反清」とよばれる朝鮮の政策は、朝鮮が清国や日本と「一律平行一の拡立国」であることをロシアに語めさせ、朝鮮が第三国と紛争を生じたばあいには、ロシアが朝鮮を軍事的に保護する、という内容である。
 「俄」は俄羅斯(オロス)の略、つまりロシアをさす。
 そのための秘密交渉は八六年八月ごろまで続けられたが、動向を察知した袁世凱は、朝鮮政府を問いつめるとともに、李鴻章に国王の廃位をふくむ断乎たる措置をとるよう要請した。
 袁世凱の問責に窮した朝鮮国王・政府は、ウェーバー公使に送ったという国王印のある文書が偽書であり、ロシア公使と接触した奸臣のしわざである、といいつくろった。
 李鴻章は軍艦派遣の威迫を背景に、朝鮮の政情調査とロシア政府への事実照会をおこなった。
 しかし、清国との正面衝突を望まないロシアは、密約の事実を否認したので、李鴻章は朝露関係の進展の可能性がないと判断、朝鮮問責をうちきった。袁世凱が要請した国王廃位は見送られた。
 こうして朝鮮のロシア接近政策は封じこめられ、国王にもまさる李鴻章・袁世凱の巨大な権力のまえに朝鮮は畏伏せざるをえなかった。

日本の対清軍拡張論

 清国の朝鮮保護国化政策によって、日本の朝鮮進出の野望は制約された。
 壬午軍乱後にえた通商権益の拡大も、いわば清国の承認あってこそ実現できた。
 清朝宗属関係を観念的に抹殺したとしても、現実の、アジア国際秩序の要として作用している清国の強大な宗主権を認めざるをえないのである。
 やや後のことだが、八九年以降、朝鮮で凶作のため施行した対日穀物輸出禁止令をめぐって日朝間に紛争を生じた。
 いわゆる防穀令事件である。
 防穀令発令一ヵ月まえに日本領事に予告して施行する、という規則に反して実施したので日本商人が損害をうけた、というのが日本側の言い分である。
 賠償請求交渉は難航し、九三年五月には大石駐朝公使が最後通牒を発するまでに緊張したが、伊藤首相はひそかに李鴻章に斡旋を依頼し、李鴻章の指令をうけた袁世凱が朝鮮政府に賠償支払いを受諾させて解決した。
 現実の外交面では、日本も朝鮮における清国の指導的立場を利用していたのである。
 その一方で、壬午軍乱を契機として、日本は陸海軍大拡張にふみきっていた。
 しかしそれは、将来おこりうる日清軍事対決に備えてのことであって、開戦の決意ではない。
 福沢諭吉が主宰する『時事新報』などがあおり立てて国内に浸透した日清対決、朝鮮軍事介入論の高まりをよそに、政府首脳の判断は慎重、冷静でさえあった。
 一八八二年一〇月、右大臣岩倉具視は、三条太政大臣あての意見書で、軍拡の急務を認めながらも、それは「我より求めて戦端を開くの器具」ではなく、「朝鮮の為め日清の争端を開くに於ては、我に在て一も利する所」なし、と暗に強硬論を批判していた。
 そのうえで日清対立の根本にある、朝鮮が独立国であるか、清国の属国であるかについて、清国と一談判」するのは「策の最も下なるもの」であり、この問題は、朝鮮との条約締結国の「輿論(よろん)」にまかせるのがよい、と述べている。
 日本政府の年来の主張である朝鮮独立国論が国際的に支持されるのを期待しての発言であるが、欧米列国の外交は、清朝宗属関係の継続を黙認した。日本の主張は孤立化せざるをえない。
 また岩倉は、この意見書で、清国に「猜疑心」をおこさせるような、日本の対朝鮮保護・干渉をいましめ、「隠(おだやか)に之(朝鮮)を教唆し、之を保護する如き曖昧の政略を用ゆる」ことを「尤(もっと)も苦慮する」と述べている。
 ところが岩倉が危惧したとおりの事態が、彼の死(八三年七月)後、甲申政変とからんだ日本の無謀な介入と失敗となってあらわれ、日清対立を決定的なものとした。
 一歩ゆずって、清国優位指導権を前提にした日清共同改革論を井上外務卿が提議したとき、日本は朝鮮独立論とあきらかに矛盾する方向をたどろうとしたが、それすら李鴻章に拒否され、外交政策の方針を失った。
 中島雄書記官編「日清交際史提要」(「日本外交文書」明治年間追補第一冊)が、これにより「日本の勢力は半島より掃蕩(そうとう)せられ」、これに反して「清国は兼ての理想、即ち終には名実共に朝鮮を中国の属邦とせんとするの挙動を現し来った、」というまでに日本は追いつめられていた。
 このような状況を反転させるのが、アジアにおける帝国主義列強の対立あるいは同盟を利用しての日本の小帝国主義化である。
 一八八六年(明治一九)を転機として、外戦(侵略戦争)に向けてのさらなる軍拡が発進する。
 九〇年一二月、最初の帝国議会における山県有朋首相の施政方針演説はよく知られている。
 山県は日本の領域にあたる「主権線」の守護と国家の安全に密接に関連する地域、すなわち朝鮮の「利益線」の保護を国家方針としてかかけ、「利益線」確保のための国力・軍事力増強を強調した。
 ここに、日清戦争は予告されたのである。

第三章 日清戦争前後

 一 東学と甲午農民戦争
 二 日清開戦への道
 三 日清講和条約と王妃殺害事件
 四 開化派のたどった運命
 五 大韓帝国の成立と中立化構想の挫折
   一 東学と甲午農民戦争 top

東学とは何か

 東学は一八六〇年、慶尚道慶州(キョンジュ)の没落両班(ヤンパン)出身の崔済愚(チェジェウ)がとなえた民衆宗教である。
 民間信仰を基礎に儒教・仏教・道教などをとりまぜた独自の宗教で、キリスト教の西学に対する東方の朝鮮の学という意味で、東学とよんだ(金芝河「革命、維新、開闢」)。
 基本教理の「人乃(すなわち)天」は平等主義、人間主義思想をはらみ、スローガンの「輔国安民」「広済蒼生」(広く民衆を救う)は、外国勢力の排斥と社会革命の主張につらなっていた。
 民族的・民衆的性格をもつ東学が忠清道・全羅道・慶尚道地方に広がると、政府は社会不安を醸成する邪教とみなし、六四年崔済愚を処刑してきびしい弾圧をくわえた。
 しかし第二代教主となった崔時亨(チェシヒョン)は、布教活動をとおして南部朝鮮一帯に教団組織を確立し、『東経大典』(漢文)と『竜潭遺詞』(ハングル)を刊行して体系化した教義を広めた。
 重学教団の幹部たちは、弾圧に抗しながら、教祖の冤罪(えんざい)をはらし布教の合法化を求める教祖伸冤(しんえん)運動をおこした。
 九三年には、幹部四〇人が教祖伸冤を国王に直接訴えるため上京し、景福宮(キョンボククン)の光化門(クワンファムン)まえに三日三晩伏して「伏閤上疏」をおこなうとともに、市内の外国公館や外国人住宅に「斥倭洋」の紙を貼りつけ、外国人を緊張させた。           関係略年表(3) 明治24~35

1891 <明治24、高宗28)年 12月、朝鮮政府に防穀損害賠償要求(防穀令事件)。
1892(明治25、高宗29)年 12月、東学教徒、崔済愚の伸寃運動開始。
1893(明治26、高宗30)年 3月、東学教徒報恩集会。
1894(明治27、高宗31)年 4月、甲午農民戦争。6月、朝鮮政府、清国に援兵要請。清国・日本、朝鮮に出兵。全州和議、全羅道に執綱所設置。日本政府、清国と朝鮮内政共同改革を提議、拒否される。7月、大鳥公使、朝鮮政府に内政改革案を提示。日英通商航海条約調印。日本軍が王宮占領、大院君摂政となる(甲午政変)。豊島沖海戦(日清戦争はじまる)。甲午改革はじまる。8対清宣戦布告。第1次金弘集内閣成立。大日本大朝鮮両国盟約(攻守同盟)調印。9月、平壌占領。黄海海戦。10月、農民軍各地で決起。11月、井上公使、内政改革要領を朝鮮国王に奏上。日本軍、旅順口占領。12月、農民軍公州で敗退、全璋準捕われ処刑。軍国機務処廃止。
1895(明治28、高宗32)年 2月、北洋艦隊降伏。3月、日本銀行、朝鮮政府と300万円借款契約。4日清講和条約調印(17日)。三国干渉(23日)。8月、三浦梧楼駐朝公使となる。10月、閔妃殺害(乙未事変)。12月、断髪令公布。
1896(明治29、建陽元)年 1月、各地に義兵闘争おこる(乙未義兵)。2月、「俄館播遷」。金弘集ら殺害される。4月、徐載弼「独立新聞」発行。5月、小村・ウェーバー協定調印。6月、山県・ロバノフ協定調印。7月、徐載弼・尹致昊ら独立協会結成。月、11漢城に独立門建立。12月、「大朝鮮独立協会会報」発刊。
1897(明治30、光武元)年 10月、大韓帝国成立。
1898(明治31、光武2)年 4月、西・ロ-ゼソ協定調印。米西戦争おこる。7月、量田事業開始。9月、金鵄陸ら、皇帝・皇太子殺害を計画(毒茶事件)。10月、官民共同会開催。11独立協会に解散命令。
1899(明治32、光武3)年 9月、韓清通商条約調印。12月、「独立新聞」発刊。
1900(明治33、光武4)年 6月、義和団事件。11月、満州に関する露清協定締結。
1901(明治34、光武5)年 6月、桂太郎内閣成立、政綱に韓国保護国化を掲げる。10月、朴斉純外相来日、中立化案を打診。
1902(明治35、光武6)年 1月、第1回日英同盟協約調印。
 日本人居留民は仁川(インチョン)へ避難した。
 「伏閤上疏」の人びとは解散させられ、請願は失敗したが、三月、忠清道報恩(ボウン)郡俗離(ソンニ)に二万人余の人を集めて集会をひらいた。
 彼らの要求はもはや「教祖伸冤」をこえて、日本や西洋諸国勢力の侵入を排し大義達成をとなえる「斥倭洋倡義」(日本・西洋を斥け、義を唱える)を掲げ、他方では貪欲で暴虐な地方官吏の粛正を求めていた。
 同じころ、全羅道金溝(キムグ)でも全奉準(チョンボンジュン)らの指導で一万人余の集会、かひらかれた。
 最近の研究では教団主導の報恩集会よりも、より農民的色彩が濃い金溝集会のほうが、後述する農民戦争の直接の前提となった、として評価が高い。
 いずれにせよ東学教徒の宗教闘争から広範な農民闘争への転化の契機として、これらの集会が位置づけられている。

全奉準の蜂起

 全奉準は全羅道の穀倉である湖南平野の古阜(コブ)の農民で、東学教団の地方組織である包の統率者である接主でもあり、人びとの信望を集めていた。
 そのころ古阜郡守は趙秉甲(チョウビョンカブ)で、不当に徴税したり良民をいたぶるなどの不正をほしいままにしていた。
 全奉準はその非を唱え、弊政改革を求めたが、請願がことごとく拒否されると、一八九四年二月、一〇〇〇人余の農民を率いて古阜郡衙(郡役所)を襲撃した。
 そして趙秉甲を追放、悪徳役人を懲罰し、糧穀を奪い返し、武器庫を破って武装を固めた。
 農民軍の優勢に驚いた政府は、趙秉甲を処罰し郡守を更迭、調査官である按覈使(あんかくし)を送って説得につとめた。
 このため古阜の民乱(地域的な農民騒擾)は一時収束されたかにみえたが、四月、横暴な按覈使の処置に抗して八〇〇〇人の農民軍がふたたび決起した。
 全奉準が大将、孫和中(ソンファジュン)・金開南(キムケナム)が総管領である。彼らは五月一一日、出動した全州監営軍を井邑(チョンウブ)郡黄土蜆(ファントヒョン)に迎えて撃破した。
 古阜の農民蜂起にたいして政府は、王妃の腹心洪啓薫(ホンキェフン)を両湖(忠清道、全羅道)招討使に任じ、政府軍八〇〇大を全州へ送った。
 しかし意気あがる農民軍は五月二七日、長城で政府軍の前衛隊を破り、三一日に道都の全州(チョンジュ)を占領した。
 農民軍は一万大にのぼるといわれる。
 この農民戦争を、当時は、反国家的秘密結社である東学教団が指導した反乱という意味で「東学党の乱」とよんだが、歴史的名辞として適切ではない。
 闘争は宗教的幻想とがらみあいながらも、農民の世直し的生活権保障要求をふまえた反封建・反侵略という明確な政治目標をもった農民戦争である。
 最近では日清戦争下の第二次蜂起をふくめ、九四年の干支(えと)にちなんで甲午(じんご)農民戦争という。

壬午農民戦争関係図

執綱所コンミューン

 李王家本貫(ほんがん)の地である全州を農民軍に制圧された政府は、袁世凱に清国軍の「借兵」を要請するとともに、金鶴鎮(キムハクジン)を全羅道監司に任命し、洪啓董とともに農民軍の宣撫(せんぶ=なだめる)にあたらせた。
 全奉準は弊政改革を求める請願書を提出し、洪啓薫と交渉して改革の実行と農民軍の撤収を約した「全州和約」を六月一一日にむすんだ。
 弊政改革案は封建的身分の否定、封建的収奪の制限、土地の平均分作などをふくむ革命的綱領だった。
 「全州和約」前後から全羅道五〇郡余に農民軍の執綱所が設置され、その総本部を全州大都所とした。
 全奉準は金溝を本拠として全羅右道を統轄し、金開南は南原を本拠として全羅左道を統轄した。
 そして執綱所を通じて貪官汚吏の処罰、身分制廃止、税制改革、土地制度改革などの弊政改革に着手した。
 大都所-執綱所による農民の自治民政組織は、のちに全羅道監司金鶴鎮により公認された。
 それは金鶴鎮の道内安定策だったのでもなければ、弊政改革を後述する金弘集政権の甲午改革につなげるものでもない。
 執綱所組織は国家機構から分離しつつ、ひとつの独立した公的機構として自己を確立する道を歩みはじめていたのである。
 政治的・軍事的・社会的権力として農村コンミューンを形成した農民軍は、政府中央・地方権力と対立を深めざるをえない。このような国家機構の分裂・二重化は、権力の移行過程にあらわれる権力の二重化である(滝村隆一『革命と=ンミューン』)。
 深刻な危機におちいった政府は反革命的な弾圧にのりだし、外国軍隊を誘いこんでいく。

   二 日清開戦への道 top

日清両国が出兵

 農民軍の全州占領にあわてた朝鮮政府は一八九四年(明治二七)六月一日、袁世凱に非公式に清国軍の出動を要請、三日には公式に出兵を要請した。
 これをうけて漢城(ハンソン)駐在の清国軍は即日出動し、八日からは清国派遣隊が忠清道牙山湾(アサンマン)に上陸、忠清道一帯に駐屯した。
 清国出兵のしらせは、同時出兵の機をうかがっていた日本政府に迅速な対応をうながした。
 駐日清国公使汪鳳藻(おうほうそう)からの正式出兵通告があったのは七日であるが、すでに二日の臨時閣議は混成一個旅団の朝鮮派遣を決定していた。
 さらに五日には大本営を設置し、広島の第五師団に内命を下して兵員七〇〇〇~八〇〇〇人の混成旅団の編成に着手していたのである。
 そして出兵通告を受けた七日には、日本政府も八五年の「天津条約」第三款の「行文知照(事前通告)」(第二章 天津条約による撤兵・参照)の規定にもとづいて、清国政府に出兵を通告した。
 急遽、軍艦「八重山」に搭乗して帰任した大鳥圭介公使が、回航した「松島」「千代田」艦の海軍陸戦隊四二〇人と仁川に上陸したのは一〇日早朝である。
 大鳥公使と日本軍は朝鮮側の制止をふりきって、その日のうちに漢城へ入京した。
 派遣旅団の仁川上陸完了は一六日である。
 しかし、一一日には「全州和議」が成立し、日清両軍は朝鮮駐兵の理由を失っていた。
 「天津条約」には変乱などが解決したら、ただちに兵を「撤回」し、ふたたび「留防せず」という規定がある。
 大鳥公使と袁世凱とのあいだで一二日から始められた共同撤兵交渉では、一五日の時点で日本軍四分の三、清国軍五分の四は即時撤兵、民乱静穏化ののち全部撤兵で意見が一致した。
 だが、日本政府は駐兵と兵員増派計画をかえようとしなかった。

駐兵の口実づくり

 六月一五日の閣議は、朝鮮駐兵の口実づくりに腐心し、農民軍の日清両軍による鎮圧と朝鮮内政の日清共同改革を清国に申し入れる案をこねあげた。
 どちらも、駐兵の理由としては陸奥外相が決定をためらうほど薄弱である。
 大鳥公使からの報告も、牙山の清国軍は動かず、農民軍は平静で漢城付近も静穏であると伝えていた。
 清国に提案した共同改革案は、朝鮮の内政干渉になるという理由で清国から拒否された。
 そのうえ朝鮮政府およびロシア・イギリスをはじめとする各国公使から日清同時撤兵の要求あるいは勧告が出され、清国側は撤兵に応ずる意向を示していた。
 しかし、日本側はこれを拒否、またしても同時撤兵の機は失われる。
 このとき日清両国の撤兵が実現していたら、日清戦争はおこらなかったはずである。
 だが、賽(さい)は投げられた。
 のちに陸奥が書いた『蹇蹇録(けんけんろく)』には「何とか一種の外交攻略を施し事局の一転を講ずるの外、策なき場合となりぬ」とある。
 大量出兵した以上、無成果のまま撤兵することは国内世論の点からもできなかった。
 六月二七日、陸奥は大鳥公使に開戦の口実作成を命ずる指示をあたえた。
 大鳥は清国勢力を排除した後でなければ内政改革の実行は不可能であるが、日清軍の衝突はそう簡単にはおきないから、「内政改革を先きにし、若し之が為め日清の衝突を促さば僥倖(ぎょうこう)なり」(六月二八日陸奥あて)と考えていた。
 大鳥は七月三日、外務督弁に改革綱領を提示したのについで、一〇日には内政改革案を朝鮮政府に手わたした。
 このとき大鳥は、改革勧告を朝鮮政府が拒絶したばあいには、「兵威を以て」漢城の城門および王宮諸門を占拠してはどうか、と陸奥外相に指示を仰いでいる。次項で述べる王宮占領の計画はこのころめばえたのだろう。
 一六日、朝鮮政府は日本側提示の改革案にたいし、日本軍の撤兵が実施の前提であると回答した。

王宮占領事件

 朝鮮政府の拒否回答は予想されていた。これにたいする処置についての大鳥公使の指示要請にたいして、七月一九日、陸奥外相はつぎのように回答した。
 「公使が自ら正当と認むる手段を執らるべし」と。
 ただし「我兵を以て王宮及漢城を囲むるは得策に非ずと思われば、之を決行せざる事を望む」とも書き添えていた。
 しかし二二日を回答期限とした日本側公文による要求(清国軍の撤退、清朝宗属関係を反映する清朝間諸条約の廃棄など)にたいし、朝鮮政府が回答を渋るとみるや、大鳥公使は混成第九旅団長大島義昌少将とはかって、軍事行動にうつった。
 漢城郊外の竜山(ヨンサン)に駐屯していた歩兵一連隊などを入京させ、王宮の景福宮(キョンボククン)を占領したのである。
 この王宮占領事件は、参謀本部の公式戦史『明治廿七八年日清戦史』などでは、先に発砲した王宮守備兵との偶発的衝突から日本軍が応戦、王宮に進入した、とされている。
 しかし近年、中塚明氏による福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵の同書草案の発見(「『日清戦史』から消えた朝鮮王宮占領事件」)や『日本外務省特殊調査文書』60(日帝刈韓国侵略史料集、高麗書林)の刊行などにより、実態があきらかにされつつある。
 すなわち、あらかじめ計画された筋書きどおりに、七月二三日早暁三時ごろ、日本軍が城内に入って諸門を固め、市内を巡視する一方、歩兵第二一連隊第二大隊を中心とする「核心部隊」が迎秋門(ヨンチュムン=西門)を打ち破って景福宮に侵入、国王を虜にし、王宮内の武器を押収、制圧したのだった。
 この事件は、八月二〇日調印の「暫定合同条款」で「両国兵員偶爾(ぐうじ=偶然の)衝突事件は彼此(ひし)共に之を追究せざる可し」として封印してしまったが、平時、外国軍隊が王宮に侵入し、国王を捕えるということは、空前の暴挙というほかない。
 そのうえ清国から送還されて蟄居(ちっきょ)中の大院君をかつぎだし、日本軍制圧下の景福宮で国王と会見させ、大院君(国王の実父)をまたまた執政に任じて政務を統轄させることにした。
 閔氏政権の追放をはかったのである(甲午政変)。
 七月二七日領議政(首相相当)に任命された金弘集(キムホンジブ)を総裁官とする軍国機務処の会議員に、金允植(ユンシク)・趙羲淵(チョウウイヨン)・金嘉鎮(キムガジン)・安キョン寿(アンキョンス)・金鶴羽(キムカクウ)・権瀅鎮(クォンヒョンジン)・兪吉濬(ユギルジュン)ら開化派がくわえられた。
 軍国機務処は国政全般を合議決定する権限をもつ臨時の政府代行機関である。
 金弘集は一八八〇年の第二次修信使として渡日以来、親日的開化派とみられていた。
 甲申政変で開化派が弾圧されたのちも、穏健開化派ゆえに、ひきつづき高位をたもっていた人物である。

日清戦争はじまる

 周到な計画のもとに実行された王宮占領は、開戦の狼煙(のろし)だった。
 漢城の大島旅団長が参謀総長あてに事件発生の第一報を送ったのは七月二三日午前八時。
 一一時には連合艦隊の先発隊として第一遊撃隊が佐世保を発進し、第二遊撃隊がこれについた。
 黄海を北上し、二四日に牙山湾を偵察した第一遊撃隊の「吉野」「浪速(なにわ)」「秋津洲(あきつしま)」は、翌朝清国軍艦「済遠」「広乙」と遭遇し、交戦した。
 豊島(ブンド)沖海戦という。「済遠」は敗走し、「広乙」は座礁した。
 この海戦中、「浪速」艦長東郷平八郎大佐は、清国砲艦「操汪」に護衛され、イギリス国旗を掲げた輸送船「高陞(こうしょう)」をとらえた。
 捕獲宣言にたいし、「操江」は降伏したが、清国将兵一〇〇〇人を乗せた「高陞」は降伏を拒否、「浪速」はこれを撃沈した。
 「浪速」は救命ボートで船長ら四人の西洋人を救助したが、清国兵を見捨て、銃撃をくわえて現場を去った。
 国際法違反の疑いがある「高陞」撃沈はイギリスの世論を刺激した。
 一方、二六日(二五日ともいう)に漢城駐屯の日本軍は朝鮮政府から清国軍駆逐の委任をひきだし、南進を開始した。
 清国軍は牙山の東北二〇キロの成歓(ソンファン)に布陣して日本軍を迎撃したが、「高陞」増援部隊の潰滅で意気消沈した清国軍は、二九日、兵力にまさる日本軍との交戦で敗北した。
 翌三〇日、日本軍は牙山を制する。
 豊島沖海戦の二五日、大鳥公使は朝鮮政府から「清朝商民水陸貿易章程」「奉天貿易章程」「吉林貿易章程」廃棄を唐紹儀(とうしょうぎ)(帰国した袁世凱にかわる代理交渉通商事宜)に通告したむね、報告をうけた。
 これは二〇日以来、大鳥公使が属邦条項をふくむ清朝条約は「貴国自主独立の権利を侵害」するとして、廃棄すべきことを朝鮮政府に強要していたものである。
 八月一日、天皇は宣戦の詔勅(しょうちょく=お詞)を渙発(かんぱつ)した。
 詔勅は、朝鮮を属邦として内政に干渉し、内乱にかこつけて出兵した清国の不当性を指摘し、それとは対照的に「日朝修好条規」以来、朝鮮の「独立国の権義」を尊重してきた日本の正当性を強調して開戦のやむなき理由とした。
 戦争遂行の名分としての朝鮮の「独立自主」扶助は、日清戦争の全段階でくり返し叫ばれる。ただしそれは親日独立であって、反日独立であってはならないのである。

日本側に立つことを強要

 対清宣戦布告から一二日後の八月一三日、陸奥外相は大鳥公使に訓令し、朝鮮が清国に宣戦布告するか、さもなければ宣戦にかわるべき日本との同盟を公表するよう、朝鮮政府と交渉することを命じた。
 陸奥は戦争が日清間の交戦にとどまり、朝鮮が「中立国の如き有様」となれば、「第一には他各国の干渉を招く恐あり、第二には日本政府が大兵を同国内に派遣するの名義なく、遂に他の非難を受くるの虞(おそれ)なき能(あた)わず」と考えていたからである。
 清国の勝利を信じて疑わぬ大院君らが反発したことは想像にかたくないが、それから一週間後の八月二〇日には「暫定合同条款」が、そして二六日には「大日本大朝鮮両国盟約」がむすばれた。
 これにより朝鮮は日本側に立つことを義務づけられ、親清行動はもちろん、第三国への調停要請もできなくなった。
 大鳥公使と金允植外相が調印した「暫定合同条款」は、つぎのような内容からなる。
 ①朝鮮内政改革の施行、
 ②漢城-釜山、漢城-仁川間鉄道の早期敷設、
 ③漢城-釜山、漢城-仁川間の軍用電信(開戦前に無断架設)の条約化、
 ④全羅道内に貿易港開港、
 ⑤王宮占領事件の不問、
 ⑥朝鮮「独立自主」のための日朝委員による合同会議開催、
 ⑦王宮警備の日本軍の撤収、である。
 侵略の事実を覆い隠すかのように、その前文には、「朝鮮国の自由独立を鞏固(きょうこ)にし」、両国間の貿易振興、国交親密のためこの条約をむすぶ、と記されている。
 ついで六日後の八月二六日、「大日本大朝鮮両国盟約」が調印された。
 それは第二条で「日本国は清国に対し攻守の戦争に任じ、朝鮮国は日兵の進退及び其糧食準備の為め、及ぶ丈(だ)け便宜を与うべし」と規定した、れっきとした攻守同盟条約である。
 大鳥公使・金允植外相ともに正式の全権委員の資格で調印した。
 日清戦争の「戦場若くは戦場に達すべき通路」である朝鮮における日本軍の軍事行動は、「朝鮮政府の同意を得たるか、若(もし)くは朝鮮政府と一体の運動を為すかの実を挙ぐる事肝要」とみる日本政府は、二三日、大鳥公使や陸海軍司令官あてに、「第三国をして容易に容喙(ようかい=口出し)干渉の端」を与えるような行動をつつしむよう訓令した。
 朝鮮を日本の同盟国に擬して、国際的批判の目をそらさせようという狙いである。
 攻守同盟により日本軍は朝鮮で思いのままの人馬・糧食の徴発をおこない、朝鮮民衆の反発をかったが、そのような条約をむすび徴発の下請け機関となった金弘集政権にたいする人びとの不信感をかきたてることにもなった。

第二次農民戦争

 日清開戦による日本の朝鮮侵略に憤激した農民軍は、ふたたび決起した。
 一八九四年一〇月、全奉準・孫和中が一〇万といわれる全州・光州(クワンジュ)の農民軍を全羅道参礼(サムレ)に集結させると、それまで蜂起に消極的だった忠清道の東学組織もこれに呼応し、孫秉熈(ビョンヒ)の率いる農民軍が全罹道農民軍と忠清道論山(ノンサン)で合流した(本章初めの地図参照)。
 農民軍は南下した朝鮮政府軍・日本軍と忠清道各地で交戦したが、近代的兵器による集中射撃と包囲戦で敗退せざるをえなかった。
 決戦を公州(コンジュ)入城にかけた農民軍が公州南方の牛金峙(ウダムチ)で政府軍・日本軍と対決したのは一二月四日から七日間である。
 五〇回にもおよぶ攻防戦がくり返されたが、兵器に劣る農民軍は大敗を喫し、後退した論山・全州の戦闘にも敗れて分散した。
 全羅道・忠清道をはじめ農民軍が蜂起した各地では、政府軍・日本軍による大量殺戮がおこなわれ、財産が没収され、家屋が焼かれた。
 捕えられた全奉準は漢城で日本領事もくわわった審問を受けたすえ、翌年四月死刑に処せられた。
 金開南も捕えられ、その翌日処刑された。
 こうして甲午農民戦争は鎮圧され、農民革命の灯は消されたが、侵略者と封建権力にたいする彼らの怨念は、一八九八~九九年全羅道でおきだ英学党運動や、一九〇〇~一九〇五年忠清道・京畿道・慶尚道でおきだ活貧党の運動にうけつがれる。

牛金峙の戦跡に建つ「東学革命軍慰霊塔」(忠清南道)

    三 日清講和条約と王妃殺害事件 top

大勢が決する

 清国の優勢を確信した世界の予想を裏切って、戦局は日本軍有利のもとに進展した。
 一八九四年(明治二七)九月一六日の平壌(ピョンヤン)会戦で清国軍を撃破した第一軍(司令官山県有朋大将)は、一〇月下旬には鴨緑江(アムノクガン)渡河戦を制して清国領にふみこんでいく。
 また、平壌占領の翌一七日には、連合艦隊が清国北洋艦隊に勝利して(黄海海戦)、朝鮮から清国軍を駆逐するとともに黄海の制海権をほぼ掌中に収めた。
 そしてあらたに編成された第二軍(司令官大山巌大将)は、遼東半島占領(一一月二一日旅順占領)についで、翌九五年一月には山東半島威海衛作戦に転じ、二月一二日北洋艦隊を降伏させる。
 こうして日清戦争の大勢は決した。勢いに乗る日本は清国の講和申し入れを拒絶、講和条件を有利に導くため南進を開始して澎湖島(ぼうことう)を占領した。

講和条約の調印

 三月二〇日から下関で李鴻章との休戦条約、講和条約交渉がはじまる。
 交渉は日本側の法外な賠償要求のため難航した。
 日本側全権伊藤博文・陸奥宗光と清国側全権李鴻章・李経方(りけいほう)とのあいたで休戦条約が調印されたのは三月三〇日、「日清講和条約」(下関講和条約)が調印されたのは四月一七日である。その第一条にいう。

 清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。
 因(よつ)て右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すべし。
 日本が開戦の理由とした清朝宗属関係の廃棄を明文化し、「独立自主の国」朝鮮の保障を宣言したのである。
 思えば、日清戦争とは朝鮮支配をめぐる日本と清国との争いであった。
 両国とも不平等条約をかかえる従属国であったにもかかわらず、朝鮮侵略をかけて疑似帝国主義戦争をおこなったのである。
 そして、その勝者日本が帝国主義へ転化し、敗者清国と戦争の犠牲となった朝鮮が半植民地に転落した。
 講和条約にいう朝鮮の「独立自主」とは、清国の影響を排除したことの宣言であり、日本が朝鮮を支配することの宣言であった。

閔氏派のまきかえし

 「日清講和条約」が締結されたときの内閣は、第二次金弘集内閣(九四年一二月成立)である。
 一八九四年一〇月に大鳥公使にかわって着任した井上馨の要請により、甲申政変で日本に亡命中だった朴泳孝(パクヨンヒョ)を呼びもどして内部大臣とし、事実上、金弘集と朴泳孝の連立内閣とした。
 この内閣には、アメリカ亡命中だった徐光範(ソダワンボム)も法部大臣としてくわわった。
 井上は急進開化派を中軸にすえるとともに、改革資金として一三万円(第一銀行)、さらに三〇〇万円(日本銀行)という巨額の借款をあたえ、改革の促進をはかった。
 しかし、日清講和条約締結直後におきた三国干渉の衝撃のなかで、井上の構想は頓挫する。
 「日清講和条約」は、遼東半島・澎湖島・台湾の割譲、賠償金二億両の支払い、清国における通商上の特権付与などをふくんでいたが、批准書が交換されるまえに、ロシア・フランス・ドイツが遼東半島を返還するよう勧告し(四月二三日)、日本はそれを受け入れざるをえなかった(五月四日閣議決定)。
 日本はあらためて、清国にまさる強大国ロシアの圧力が頭上にのしかかるのを自覚しなければならなかったのである。
 井上の改革構想が崩れるなか、第二次金弘集内閣は崩壊した。
 あらたに領議政となったのは朴定陽(パクジョンヤン)。
 実権はまだ急進派の朴泳孝にあったが、朴泳孝は七月、王宮衛兵交替問題言シア公使ウェーバーの王妃接近を妨害するため、日本人士寳が指導する訓練隊に王宮護衛をまかせようとして国王の反対を受けた)がきっかけとなって失脚、日本へ亡命する。
 八月に成立した第三次金弘集内閣では、第二次内閣とは異なり、兪吉濬・趙羲淵ら若手開化派はしりぞけられ、閔氏派の沈相薫(シムサンフン)や欧米派の李範晋(イボムジン)・李完用(イワンヨン)らが起用された。
 日本の干渉に反発していた支配層である閔氏派が権力奪還をこころみ、ロシアの後援をえて開化派の抑制に成功したのである。
 親日的改革をリードしようと意気ごんだ井上公使は、九月、失意のうちに離任する。

三浦梧楼の陰謀

 井上公使にかわって駐朝公使になったのは三浦梧楼陸軍中将である。大物外交官ぞろいの歴代駐朝・韓公使のなかで、みずから「我輩は外交の事は素人である。不得手である」(『観樹将軍回顧録』)と語る三浦を起用したのは、ゆきづまった朝鮮問題の打開を国権主義者で武断的な彼の手腕に期待したからであろう。
 三浦公使の着任は一八九五年九月一日。
 彼が親露米派を排除するため、国王高宗の妃(閔氏)の殺害計画を公使館一等書記官杉村濬(ふかし)、朝鮮政府軍部兼宮内府顧問岡本柳之助らと練ったのは、それからまもなくである。
 計画は、王妃と敵対していた大院君(国王の実父)をかつぎ出し、かねてから解散がとりざたされていた日本人教官指導の洋式軍隊である訓練隊をそそのかして、大院君とともに王宮の景福宮に侵入させる、というものである。
 ただし実行主力は漢城駐在の日本軍守備隊、領事館員および警察、居留日本人の壮士たちだった。
 一〇月八日未明、計画は実行にうつされた。
 漢城郊外の孔徳里(コンドクリ)に隠棲していた大院君の連れ出しには岡本ら三十数人の日本人があたり、後備歩兵独立第一八大隊の四五〇人と禹範善(ウボムソム)指揮の第二訓練隊が景福宮を占拠する。
 光化門(クァンファムン)から侵入した第一中隊は、王宮を警備していた第一訓練隊と銃撃戦をまじえ、指揮していた洪啓薫を戦死させ、侍衛隊の抵抗を排除して王宮を制圧した。
 壮士の一群は王妃を求めて探しまわり、常殿で王妃を斬殺し、領事館警部荻原秀次郎の指示で遺体を松林にはこび、焼きすてた。
 乙未(ウルミ)事変という。

事件はどう処理されたか

 三浦公使は、事件は解散命令を受けた訓練隊が大院君と結託しておこなったクーデターであるとし、国王の依頼で出動した日本軍は、訓練隊と侍衛隊との衝突を鎮圧したが、事件そのものには日本人は無関係である、という筋書きでおしとおそうとした。
 現場で、なりゆきを目撃していたアメリカ大侍衛隊教官のゼネラル・ダイとロシア大電気技師サバチンの証言から、事実の隠蔽工作が破産してもなお、大院君の要請で参加した、と強弁した。
 国際的に苦境に立たされた日本政府は、三浦公使の解任召還と、関係日本人の退去を決定し、帰国した軍人八人を第五師団の軍法会議に、四八人を広島地裁の予審に付した。翌年一月一四日の軍法会議は、大院君の依頼をうけた三浦公使の命令にしたがった日本軍の行動を無罪とした。
 二〇日の広島地裁の予審終結決定もまた、王妃殺害状況の証拠不十分として三浦以下全員を免訴とした。
 被告のひとり杉村濬元書記官は、予審の陳述で、朝鮮内政改革は「尋常の手段」では不可能であることは日本政府も知っており、軍事クーデター計画は政府により「黙認せられたることと推測」して実行した、という。
 なぜならば、前年の王宮占領を政府は「是認」しており、それにくらべて「其の手段は遥に……穏和なりし」今回の計画を、三浦公使が前例にならっておこなったのだから罰せられる理由がなし、と述べている。
 たびたびの暴挙で道義心を失った、朝鮮通の外交官杉村に罪障感はない。
 広島監獄から放免された三浦も「沿道到る処、多人数群して、万歳万歳の声を浴せ掛け」られた、と記している。
 三浦にも日本国民にも罪責の意識が欠けていた。

   四 開化派のたどった運命 top

復活した開化派

 王妃殺害事件のあと、大幅な内閣改造がおこなわれ、第四次金弘集内閣が成立した。
 親露米派の李範晋・李完用’李允用(イユンヨン)と閔氏派の沈相董は解任され、開化派の魚允中(オユンジュン)が度支相(蔵相)、趙羲淵が軍相、徐光範が学相署理、鄭秉夏(チョンビョンハ)が農商工相署理、兪吉濬が内部協弁、張博(チャンパク)が法部協弁となり、留任の金允植外相とともに、反閔氏、反親露派としての金弘集政権を支えることになる。
 だが、朝鮮の人びとはこの内閣を信用しなかった。
 乙未(ウルミ)事変の処理にあたって、日本側の責任を追及しなかったばかりか、免責に加担し、大院君と接触した李周会(イジェフェ)と、事件には無関係の尹錫禹(ユンソクウ)・朴銑(パクソン)を犯人に仕立てあげ、極刑に処したからである。それにしても、開化派と呼ばれる人たちは一体、何をめざしていたのであろうか。
 彼らが推進した甲午改革といわれる近代化政策をみてみよう。

甲午改革をめぐって

 わずか一年半ほどの間に四たび組織された金弘集内閣のもとに参加した開化派の人びとは、それぞれの理由から海外で近代的事物を見聞した知識人である。
 彼らは祖国の近代国家への転換をみずからの課題とした。
 自己利益のために親日家だったのではない。親日的であったとすれば、心ならずも強制されたか、朝鮮独立と近代化のために必要な日本の勢力を利用しようとしただけである。
 しかし、開化派政権の成立そのものが自前の政治的力量によるのではなく、日本の軍事力による閔氏の政治的権力の制御を前提にしていた。
 生まれながらに親日の母斑をつけた、反民族的な政権を民衆は支持しなかった。
 金弘集の軍国機務処は、一八九四年一二月に廃止されるまでに二〇八件の改革項目を議決し、法令として公布した。
 翌年にかけて実施した改革をふくめて甲午改革(甲午更張=カボキョンジャン)とよぶ。
 その範囲は政治・財政・経済・司法・教育・社会などにわたるが、主なものをつぎにあげよう。

 〔政治〕 宮中と府中との分離、清朝宗属関係の廃止、近代的内閣制度の導入と官庁機構改正、科挙制度(科挙試験による官吏任用)の廃止、教学としての儒教の排除、軍隊・警察制度の改革、郵便制度の確立、地方制度改革。
 〔財政・経済〕 財政の度支衙門への一元化、予算制度の採用、幣制改革、租税金納化、度量衡の統一。
 〔司法〕 司法権の独立、近代的裁判制度の導入、縁坐法の廃止。
 〔教育〕 近代的学校制度の導入、実業教育の重視、外国語学校の設立、留学生の海外派遣。
 〔社会〕 封建的身分制度の廃止、太陽暦の採用、女子の再婚自由、早婚禁止、断髪令。
 これらのなかには農民軍が求めた弊政改革を吸収、反映させたものもみられ、封建社会を制度的に否定する近代的な改革内容にあふれていた。
 そのような意味で画期的な「上からの」ブルジョア革命を志向していた、ということができる。
 この改革が朝鮮民衆の支持をうることができたとすれば、改革は成功し近代国家としての朝鮮は日本の侵略をはねのけることができたはずである。
 しかし、政府と民衆とのよじれた関係のもとでは、改革は民衆の支持をとりつけることができなかった。
 その理由のひとつは、前述のように開化派政権成立の自主的基盤の欠如であり、もうひとつは、日本軍の朝鮮軍事占領下で改革がおこなわれたことである。
 何よりも王妃殺害事件に関して、政府が日本の責任を不問に付そうとする屈辱的な姿勢である以上、怒りと憎悪の対象となるのは当然であった。

開化派が一掃される

 「国母復讎(ふくしゅう)」を叫ぶ反日義兵闘争の直接の契機となったのは、一八九五年一二月三〇日の断髪令の公布である。
 朝鮮人は長髪と髻(サントゥ)を結う伝統をもつ。
 この年一二月から翌年四月にかけて朝鮮南部を旅行したロシア人カルネイェフ大佐とミハイロフ中尉は、朝鮮人の髻に特別の関心を寄せ、旅行記に髪の結い方や結髪式(冠礼(クァンリエ)の儀式)について詳しく書いている。
 そして断髪令が「彼らの伝統的な神聖観を侵したのみならず、朝鮮人の外観を、彼らが軽蔑して止まない僧侶にも似させる結果となり、日本人に対する歴史的な敵意は、民衆をして次のように考えることを余儀なくさせていた。
 即ち、日本人は髷(まげ)を切らせることで、同時にまた、日本の習慣を受容することも強いたのだ」(チャガイ編、井上紘一訳『朝鮮旅行記』)と、断髪の強制に対する民衆の反日感情の高まりにふれている。
 義兵闘争が高揚する九六年二月一一日、義兵「討伐」のため出動して手薄になった政府軍の虚をついて、親露派の李範晋・李允用・李完用らは、仁川に停泊中のロシア軍艦の将兵の助力をえてクーデターを強行、金弘集政権を倒して、国王をロシア公使館に移した。
 「俄(露)館播遷(はせん)」という。
 政権の座から追われただけでなく、国王から「逆党」「国賊」とされた金弘集・鄭秉夏は市内で打ち殺され、難を避けて郷里にむかった魚允中も途中で殺害された。
 金允植は捕えられて終身流刑に処せられ、倉吉濬・張博・張羲淵は日本へ亡命した。
 こうして開化派は一掃され、改革は流産した。

   五 大韓帝国の成立と中立化構想の挫折 top

初期義兵の成立

 開化派政権による改革の進行に辟易(へきえき=尻込み)していた朝鮮人民は、戦争終結後もひきつづき朝鮮にいすわった日本軍に憤激していた。
 すでに述べたように、王妃殺害のしらせがまず、彼らに決起をうながす。乙未事変直後から儒者たちの反日上疏(じょうそ=上書)運動がつづいていたが、断髪令が出されると、上疏運動は武力闘争に転化し、大衆化した。
 一八九六年の義兵闘争は、一九〇五~一四年のそれとの対比で初期義兵とよばれる。
 日本の侵略にたいする反対と侵略者に追従する金弘集政権にたいする糺弾を掲げた義兵の先頭に立つたのは、「衙正斥邪」の思想的伝統を守る儒者たちだった。
 もっとも有名な義兵は、忠清道堤川(チェチョン)で挙兵した柳麟錫(ユインソク)の部隊である。柳麟錫は儒学者李恒老(イハンロ、一七九一~一八六八)の門人で、一八七六年の開国反対上疏運動にくわわった儒者である。
 京畿道砥平(チビョン)、江原道原州(ウォンジュ)、慶尚道聞慶(ムンギョン)などで決起した義兵部隊が合流し、彼を総大将に推挙したのだった。
 主要な活動地域は、堤川を中心に、忠清・江原・慶尚三道が接境する小白山脈づたいの農山村で、一時は忠州(チュンジュ)城を占領し、忠清道観察使を捕えて処刑する勢いを示したが、各地で日本軍守備隊・政府軍との戦闘に敗れ、一八九六年五月には堤川を失う。柳麟錫は残った義兵とともに満州へ逃れ、再起を期した。
 柳麟錫部隊のほか、江原道・忠清道・京畿道・黄海道などの各地で義兵が起ち、地方官や日本人商人・漁民を襲った。
 京畿道利川(イチョン)の義兵は漢城の南二〇キロの広州郡南漢山城(ナムハンサンソン)を占拠し、政府を震撼(しんかん)させもした。
 九六年二月政変で政権を握った親露派を背景に、国王は断髪令中止、金弘集らの国賊断罪の詔勅を出して撤兵を命じたが、親露派政権に満足しなかった義兵は、その後も闘争を広げた。
 運動が終息するのは一〇月である(糟谷憲一「初期義兵運動について」)。

独立協会のナショナリズム運動

 日本政府の対朝鮮政策の失敗によって、その勢力は大きく後退した。
 親露派の金炳始(キムビョンシ)政権は、開化にたいする反動的政策を基調としたが、国王の「俄館播遷」で国威を失墜させていたから徹底を欠いた。
 そのような政治的空白期に登場したのが独立協会の自主独立・自由民権・自強改革を掲げた運動である。
 独立協会は、甲申政変後アメリカへ亡命していた徐載弼(ソジェビル)が一八九五年末に帰国し、政府官僚の安キョン寿(アンキョンス)・李完用らと九六年七月に設立した啓蒙団体である。
 徐載弼は同年四月から近代市民(ブルジョア)思想を紹介する『独立新聞』を発行し、市民の支持をえていた。
 独立協会は、かつて清国の勅使を迎えた迎恩門(ヨンウンムン)とその宴会場である慕華館(モファグァン)跡に、自主独立の象徴として独立門(トンニンムン)と独立館(トンニプクァン)を建設し、ナショナリズムを鼓吹したが、やがて大衆討議を通じて認識された現実の政治のあり方について発言する政治団体へと成長した。

1896年に建設された独立門(ソウル)

 政治的にも財政的にも弱体な政府は、当時、ロシアや日本に多くの利権を供与していたが、独立協会はこれに反対し、日露の干渉侵略政策に対抗した。また、議会設立を要求し、政府から中枢院の新官制公布をかちとった。
 九八年一〇月、朴定陽内閣との合意で漢城の鐘路(チョンロ)でひらかれた官民共同会には一万人をこえる市民が参加し、「利国便民」を論じあった。
 そこで採択された献議を受け入れた政府が公布した中枢院官制は、議官五〇人中二五人を独立協会会員から選出する、という規定をふくむものだった。
 独立協会は、この時期のナショナリズム運動を象徴するもので、自主独立のため皇帝専制権の確立をつよく望むものであった。
 だが、独立協会の急進化をおそれる守旧派は、独立協会の政治目標が共和制樹立にあると皇帝に誣告(ぶこく=偽証)したため、皇帝は一一月、独立協会廃止を命じ、幹部を逮捕した。
 これに抗議して万民共同会が結成され、国民の広い支持をうる。
 皇帝は独立協会の復活をいったん認めざるをえなかった。
 しかし一二月、加藤増雄公使の建言を入れた皇帝は、独立協会と万民共同会を強制解散させた。
 独立協会運動は二年半にしてやんだ。
 独立協会を弾圧した政府は、民衆がめざした民権の伸長と国権の強化を受容し、民族のエネルギーを汲みとって外圧に対する民族的防壁を築く最後の機会を失ったのである。

大韓帝国の成立

 これより先、ロシア公使館に「播遷」していた国王は、独立協会などの「還宮」要請をうけて一八九七年二月、王妃が殺害された景福宮ではなく、英米露公使館に近い、別宮の慶雲宮へ「還宮(キョンウングン)」し、そこを正宮としていた。
 これを契機に君主を皇帝と称する問題が浮上した。
 官僚と儒者が皇帝と称すべきことを建言したので、国王高宗は、年号を光武(クワンム)としたのについで、一〇月皇帝即位式を挙行し、国号を大韓帝国(韓国)とあらためた。
 中国皇帝をはじめ各国君主と同格の独立国の元首であることの宣言である。
 独立協会などの市民的改革路線を切り捨てて政権を担当した守旧派は、九九年八月、憲法にあたる「大韓帝国国制」を制定した。
 それは立法機関である校典所を改組した校正所でつくられたが、九ヵ条からなる国制は、大韓帝国が五〇〇年の歴史をぶんだ専制君主国であることを明示し、皇帝が大権として統帥権・立法権・恩赦権・官制制定権・行政命令権・栄典授与権・外交権を専有すると規定した。
 絶対主義君主支配の国家統治体制の基本法である。
 三権分立や国民の市民的諸権利の保障はなかった。

光武改革の内容

 清朝宗属関係を廃棄した韓国が国際状況に対応していくためには、強大な専制権力を国内的に確立する必要があった。
 それは旧来の封建王朝体制の反動的再編ではなく、近代国家体制への転換でなければならない。
 大韓帝国成立から日露戦争、そして「第二次日韓協約」締結までの数年間に支配層によっておこなわれた近代的改革を光武改革という。
 その基調は旧法をもとにして新法を参酌する「旧本新参」である。
 諸改革のうち特筆されるのは、「光武量田事業」とよばれる自主的な土地調査・改革である。
 一八九八年「量地衙門」設置により開始された量田事業は、一九〇一年設置の「地契衙門」にひきつがれ、日露開戦で中止となるまでに全国土の三分の二にあたる二一八郡で実施された。
 量田により土地台帳(量案)が作成され、一筆ごとの土地登録者に地券にあたる地契が発行され、その所有権が保護されることになる。
 このことは、一方では国家による土地生産力に応じた近代的地税賦課を可能とし、他方では近代的土地所有に道をひらくものであり、日本の地租改正に匹敵する土地制度改革であったとみることができる(宮嶋博史「光武改革論」、詳しくは宮嶋 『朝鮮土地調査事業史の研究』)。
 量田事業と並行して政府財政確立のために税源の拡大をはかったり、朝鮮皇室財政確保のために鉱山・土地の占有を進め収奪を強化したが、殖産興業政策にも意をそそぎ、官営の電気、鉄道、電信・電話事業、官立各種学校、模範工場などを設立した。
 そして植民地侵略をはかる外国にたいし、鉱山と鉄道に関する利権を譲渡しないことを宣言した。
 また、日清戦争期に日本の円銀の朝鮮国内自由流通を容認して以来、侵害されていた通貨主権の奪還をめざし、一八九八年二月に刻印付円銀の通用禁止令、一九〇一年に韓国政府の貨幣製造発行権を明記した「貨幣条令」を公布した。
 しかし、鉱山・鉄道利権は日本・ロシア・イギリス・アメリカ・ドイツ・フランスの資本につぎつぎに奪われたし、通貨主権奪還もできず、かえって日本の第一銀行による銀行券発行でますます後退することを避けられなかった。

中立化構想をめぐる動き

 大韓帝国の外交方針は、東アジアに集中した帝国主義列国相互の対立、牽制を利用しながら侵略をおさえ、「自強」によって独立維持を追求することだった。
 宗属関係を破棄した清国とは一八九九年九月「韓清通商条約」、同年一二月「互換条約」をむすんで近代国家間国交を樹立したが、政治的に接近することはなかった。
 そのころイギリスが韓国の永世中立国化を提唱した。
 それ以前にも駐朝ドイツ副領事ブドラーによる中立化論(一八八五年)があった。
 日本政府内にも、日本・清国・アメリカ・イギリス・ドイツの五ヵ国が共同で朝鮮の独立・中立を担保しよう、という井上毅(こわし)の「朝鮮政略意見案」(一八八二年)や、日清英独による朝鮮中立国条約構想を示した山県有朋首相の「外交政略論」(一八九〇年)がある。
 それらはいずれも提唱国の利害関係からロシアの朝鮮侵略を抑止するとか、清国の朝鮮独占支配を牽制するとかの意図にもとづいて考えられた国際政治的道具にすぎなかった。
 一八九六年のイギリス提唱案が親露派主導の朝鮮政府の同意をうることなく流産したのも、韓国の主体的な中立化構想を軸とした外交戦略が胎動する。
 一九〇〇年八月ごろ、駐日韓国公使趙秉式(チョウビョンシュク)は青木周蔵外相との会見で、「韓国を以て列国保障の下に中立国と為す」交渉開始を申し入れた、という。
 ロシアがこの韓国の中立化構想に便乗した。
 一九〇一年一月七日、本国政府から訓令をうけた駐日ロシア公使イスヴォルスキーは加藤高明外相と会談し、列国の共同保障による韓国の永世中立国化計画について提議した。
 韓国に関して協定をもつ日露間でまず調整の交渉をおこないたい、といいうものである。
 韓国にたいする独占的支配を構想する日本側は、韓国中立化を不利とみてロシア提案を拒否した。
 ロシアはその後も欧米諸国に韓国中立化の承認をはたらきかけ、七月にはヴィッテ外相が駐露公使珍田捨已(ちんだすてみ)に再提議した。
 しかし日本政府はすでにはじまっていた満韓交換交渉のゆくえを見守ることにして、応じなかった。

満韓交換論の登場

 三国干渉によって日本に遼東半島を放棄させたロシアは、不凍港獲得と南満州鉄道建設構想の実現にむかう。
 南下を阻止しようとするイギリスの妨害にあいながらも、ロシアは一八九八年までに、満州を横断してウラジオストクにいたる東清鉄道建設と、ハルピンから旅順にいたる東清鉄道南満州支線の敷設権を獲得し、旅順口と大連湾を二五年間租借した。
 朝鮮政府とも、ロシア軍による国王の保護、軍事教官・財政顧問派遣、借款供与、電信架設などをふくむ秘密協約をむすび、朝鮮支配の意図をのぞかせた。
 その勢いを脅威と感じながらも政治的後退を余儀なくされていた日本は、一八九六年(明治二九)五月「小村・ウェーバー覚書」、同年六月「山県・ロバノフ協定」、九八年四月「西・ローゼン協定」で、朝鮮をめぐる日露間の利害調整に応じなければならなかった。
 守勢にあった日本が巻き返しをはかるべく案出されたのが満韓交換論である。
 ロシアにたいする最初の提案は九八年三月、第三次伊藤内閣の外務大臣西徳二郎と駐日ロシア公使ローゼンとの交渉においてである。
 日本が朝鮮にたいして「助言及助力を与うるの義務」を負うかわりに、ロシアの「満州及其沿岸を全然日本の利益及関係の範囲外」とする、という内容だった。
 つまりロシアの満州支配とひきかえに日本の朝鮮支配を認めさせる提案である。ロシア側はこれを拒否した。
 その後も伊藤は満韓交換論を持論とし、一九〇一年一一~一二月にはみずからロシアを訪問して交渉にあたり、日英同盟を優先させた桂首相・小村外相と対立した。
 結局、一九〇二年一月三〇日「日英同盟協約」が調印され、対露交渉はうちきられる。

日露協商

 しかし、一九〇三年におこなわれた対露交渉も実は満韓交換論の延長線上にあった。
 六月二三日の閣議は、「日露両国は互に其韓国又は満州に於て現に保有する正当の利益を認め、之が保護上必要の措置を執り得ること」を骨格とする、小村外相提出の「日露協商案要領」を決定した。
 これにもとづき八月三日、小村外相が駐露公使栗野慎一郎に訓令したラムズドルフ外相あての協商案文は、「韓国に於ける改革及善政の為め助言及援助(但し必要なる軍事上の援助を包含すること)を与うるは日本の専権に属することを露国に於て承認すること」(第五条)をふくむ六ヵ条だった。
 韓国あるいは清国領土である満州の内政について日露両国が協定すること自体不当であるが、韓国には一片の通告すらない。
 情報をつかんだ『皇城(ファンソン)新聞』(九月一〇日付け)は、日露の「保護属邦」ではなく、「東洋の一独立帝国」である韓国について、「日露両国が勝手に交換をいう」ことの不当、無礼を痛憤する論説「満韓交換の風説を破る」を掲げた。
 交渉は、対案を携えて帰任したローゼン公使と小村外相とのあいたで一〇月六日から東京で開始された。
 ロシアの対案は、日本の満州進出拒否、韓国の独立尊重と領土の軍事的使用禁止、北緯三九度以北の中立地帯化などで、日本側提案とは大きなへだたりがあった。
 折衝と妥協のすえ、一〇月三〇日にいたって、「満州は日本の特殊利益の範囲外に在」り、「韓国は露国の特殊利益の範囲外に在る」ことを相互に承認し、満韓境界両側五〇キロを中立地帯とする、という確定修正案がまとまった。
 しかしロシア政府は、極東総督府太守(総督)アレクセーエフの意見をいれ、修正案に同意せず、一二月一一日、満韓交換を骨抜きにし、韓国における日本の権限を制約した逆提案を示し、小村・トローゼン修正案を葬り去った。
 侵略者同士の話し合いが決裂したとき、日露戦争がはじまる。

局外中立宣言の試み

 日露の緊張がたかまるなかで、内蔵院卿・度支部協弁李容翊(イヨンイク)らは戦時局外中立論をとなえた。
 一九〇三年八月、韓国政府もその方針をとり対外工作を開始した。
 諸国の承認をうるためである。
 九月三日、駐日韓国公使高永喜(コヨンヒ)から韓国中立保障要請をうけた小村外相は、二六日、平和維持と友好に努力している現在、戦争を口にし中立を論ずるは「時機に適せざる義」と回答をはぐらかした。
 事実上の拒否である。
 一方、ヨーロッパ諸国へ特使として派遣された玄尚健(ヒョンサンゴン)は、翌年一月一一日に帰国して各国の承認の見通しを報告した。
 皇帝はただちに密使を芝罘(シーフー)に派遣し、一月二一日に同地から韓国外部大臣名の電信を各国政府に送り、韓国の戦時局外中立を宣言した。
 韓国政府の中立声明にたいしイギリス・フランス・ドイツ・イタリア・デンマーク・清が承認を与えた。
 そのころ日本政府は、韓国と次節で述べる秘密同盟締結交渉をすすめており、調印寸前にこぎっけていたが、“中立声明承認とひきかえに秘密同盟に調印する”という条件を皇帝から提示され、交渉を中断せざるをえなかった。
 中立を承認しなかったのである。
 ロシアもまた回答しなかった。
 中立国が国際的に認知されれば、交戦国はその国の中立を尊重しなければならない。
 同時に中立国は交戦国にたいし不偏不党であらねばならなし、中立国が有する領土主権にもとづく権利には、領土・領水内における作戦行動の禁止、交戦国軍隊の通過禁止、交戦国の港湾使用禁止、交戦国の自国内への避難防止などがふくまれる。
 したがって韓国が中立国となることは、対露戦を準備中の日本にとって作戦計画のすべてを失うことを意味した。
 韓国の局外中立声明を黙殺した日本は、声明発表一八日後の二月八日に戦闘行動を開始し、宣戦布告後の二月二三日に、日本軍の韓国駐屯と韓国の協力を規定する「日韓議定書」を強制調印する。
 韓国は中立国としての不偏不党義務を放棄させられた。
 中立国が中立を維持できる条件は、他国による領土侵犯を排除しうる防衛力をみずからもつか、中立を保障した担保国が中立国を援助し、中立侵害を許さないか、にかかる。
 韓国の局外中立を承認したヨーロッパ諸国は、日露開戦にともなう日本の韓国中立侵犯を黙認した。
 ロシアだけが日本を非難したが。
 中立の国際法的うらづけは弱かった。
 中立を宣言した清国(二月一二日)にたいしても日露両国は、その領土である満州を主戦場とするのである。

第四章 日露戦争下の韓国侵略

 一 日韓議定書の締結
 二 植民地経営のマスタープラン
 三 列強の合意をとりつける
   一 日韓議定書の締結 top

日韓秘密協定締結工作

 韓国の局外中立は何としても阻止しなければならない、と小村外相は考えた。
 対ロシア戦の陸軍作戦は、朝鮮半島南部に上陸、北上して北部朝鮮でロシア軍と戦う、とされていたからである。
 そのためには、日清戦争時の「暫定合同条款」「大日本大朝鮮両国盟約」のような協定を韓国とむすぶ必要がある。
 小村外相が駐韓公使林権助にあて「韓国皇帝を我方に引付け置く……何等か密約を日韓間に結び置度(おきた)」く、意見聴取の極秘文書を送ったのは一九〇三年(明治三六)九月二九日である。
 これにたいして林公使は、密約締結の困難なことを述べながらも、あえて成立を期すならば、日本へ亡命中の乙未事変の亡命者処分、巨額の借款供与、有力者への運動費提供、漢城駐在の守備隊強化などを交渉の条件にあげ、回答した。
 林が難航するとみたのは、排日的な高宗皇帝をささえる中立論者の李容翊(イヨンイク)らの反対を予想したからである(広瀬貞三「李容翊の政治活動――その外交活動を中心に」)。
 小村外相は、その李容翊と密接な関係にあり、招かれて韓国政府顧問となっていた関西財界ボスの大三輪(おおみわ)長兵衛を通じて、皇帝や李容翊ら側近の抱きこみ工作をはかった(藤村道生「日韓議定書の成立過程」)。           関係略年表(4) 明治36~38

1903(明治36、光武7)年 8月、日本政府、日露協商基礎条項提示。ロシア、極東総督府設置。駐日公使高永喜、戦時局外中立の承認を求める韓帝密書を小村外相に手交。韓帝、中立承認を各国に打診。9月、「皇城新聞」に「満韓交換の風説を破る」掲載。小村=ローゼン会談開始(30日、両者間に日露協商確定修正案まとまる)。12月、閣議、日露開戦時の対清韓方針決定。
1904(明治37、光武8)年 1月、林公使・李址鎔外相聞に日韓議定書案まとまる。韓国政府、局外中立宣言。2月、御前会議、対露開戦決定(4日)。臨時派遣隊仁川上陸、仁川沖・旅順口でロシア艦を攻撃(8~9日)。宣戦布告(10日)。清国局外中立宣言(12日)。日韓議定書調印(23日)。3月、韓国駐剳軍司令部設置。伊藤博文特派大使漢城入京。5月、鴨緑江渡河作戦、九連城占領。朝露修好通商条約廃棄。閣議、対韓施設綱領決定。7月、駐剳軍司令官軍律制定。「大韓毎日申報」発刊。8月、一進会結成。第1次日韓協約調印(10月、目賀田種太郎財政顧問、12月、スティ-ヴンス外交顧問着任)。9月、遼陽占領。京畿道始興・黄海道谷山で民擾。10月、咸鏡道に軍政施行。沙河会戦。
1905(明治38、光武9)年 1月、旅順開城。駐剳軍司令官、漢城地区の治安警察権を掌握(4月、全州地区も)。日本貨幣の韓国内流通公認。第一銀行、韓国政府と国庫金取り扱い、貨幣整理事業委託契約(中央銀行化)。3月、奉天会戦。4月、閣議、韓国保護権確立方針決定。5月、イギリス外相、日英攻守同盟を提案。日本海海戦。6月、アメリカ大統領、日露両国に講和勧告、両国政府承諾。7月、桂・タフト協定成立。8月、日露講和会議(10日交渉開始、29日講和成立)。第2回日英同盟協約調印。9日露講和条約(ポーツマス条約)調印。小村全権、韓国保護国化にっきアメリカ大統領の了解をうる。10月、朴斉純外相、新日英同盟の条約違反を駐韓日英公使に抗議。日本閣議、韓国保護権確立実行を決定。11月、伊藤博文を特派大使として韓国派遣(15日、韓帝に保護国承認を強要)。第2次日韓協約(乙巳条約)強制調印(17日)。保護条約反対の義兵闘争おこる。ハルバート、韓帝のアメリカ大統領あて親書を携えアメリカ国務長官に調停依頼。12月、韓国統監府および理事庁官制公布、統監に伊藤博文任命。
 一一月三〇日、林公使は皇帝に謁見し、日韓協定の必要を「密奏」、交渉代表者の任命を要請した。
 局外中立化を考慮中の皇帝はためらったが、一二月末にいたり林公使との協議に応ずることを李址鎔外相らに命じた。
 ただし、それは韓国皇室の安全・独立保持にたいする日本の協力、事変時の韓国領土の安全保障についてである。
 一方、三〇日の日本政府閣議は「往年日清戦役の場合に於けるが如く、攻守同盟若(もし)くは他の保護的協約を締結し得ば最も便宜なるべし」をふくむ、開戦に際しての「対清韓方針」を決定した。
 独立保障を求める韓国側と攻守同盟または保護条約を求める日本側の主張とは、氷炭あいいれない。
 林公使と大三輪とのあいだも呼吸の一致を欠いたが、韓国政府要人にたいする買収、脅迫など手をつくした結果、一九〇四年一月二〇日までに李址鎔外相、閔泳喆(ミンヨンチョル)軍相、李根沢(イグンテク)元帥府会計官総長とのあいだに協定案、がまとまった。
 最終段階で協定は「日韓議定書」と名づけられ、皇帝からの委任を記さず、韓国外相と林公使との記名による議定書 Protocol とすることになった。
 内容は、まず相互対等の「緩急互(たがい)に相扶掖(あいふえき)」することをうたったうえで、韓国皇室の安寧、韓国独立、領土保全を日本が保障し、第三国との国際協定締結の事前承認を双務規定した。
 林原案にあった軍事協力を直接規定する条項は除外された。
 調印は一月二三日と予定されたが、二日まえの二一日、韓国政府は局外中立を宣言し、日本政府にたいしては「日韓議定書」調印とひきかえに局外中立の承認をせまった。
 窮地に立たされた小村外相は調印を見送らざるをえない、と判断した。
 韓国では、交渉にあたってきた李址鎔外相、閔泳喆軍相が罷免され、局外中立を推進した李容翊が度支相(蔵相)に起用された。
 中立政策が「日韓議定書」締結を葬り去ったかにみえた。

保護国化方針の登場

 日本政府が韓国保護国化を政策として掲げたのは、一九〇一年(明治三四)六月成立の第一次桂太郎内閣の「政綱」が最初であろう。
 ここで「韓国は保護国となす目的を達すること」とされたのである。
 九月に外相として入閣した小村寿太郎のもとの外務省には、総務長官(外務次官)珍田捨已(ちんだすてみ)、政務局長山座(やまざ)円次郎、通商局長杉村濬(ふかし)ら、朝鮮通の外交官たちがならんだ。
 それまでにも韓国保護国化か論じられたことがあった。
 日清戦後の対朝鮮基本構想を議した一八九四年八月一七日の閣議に陸奥外相がつぎの四案を提起した。

 〔甲案〕朝鮮の自主独立放任、〔乙案〕日本による保護国化、
 〔丙案〕日清両国による朝鮮の共同担保、
 〔丁案〕永世中立国化、である。
 閣議は結論をうることができず、乙案つまり朝鮮保護国化の「大意を目的」とする、にとどまった。
 国際的非難また干渉のおそれがあり、ロシア・清国の侵攻を受けたばあいの日本の防衛力に自信がなかったからである。
 朝鮮保護国化は将来の、そのまた将来の、夢のような「目的」でしかなかった。
 しかし、日清戦後も対露戦にそなえて軍拡をつづけた政府は、韓国支配を確保することがロシアの満州進出にたいする規制弁になると考えはじめた。
 韓国の中立国化は日本の地位、威信の喪失につながる、というのが小村外相の主張だった。
 小村が駐日ロシア公使ローゼンとのあいだに交渉した、満州におけるロシアの権益承認とひきかえに韓国における日本の優位、すなわち「満韓交換」案が失敗に帰したとき、日露戦争による軍事的決着が不可避となる。

保護国とは何か

 歴史学のうえでいう保護国は、ある国による他国の政治的保護関係を示す用語として広く使用されている。
 そのため、宗属関係にある宗主国と藩属国との関係についても用いられるばあいもある。
 しかし、近代帝国主義の保護国支配と、前近代の宗属関係とは異質である。
 壬午軍乱以後、日清戦争にいたるあいだの清国の朝鮮支配は、宗主権に名をかりた帝国主義的保護国化をめざしたものであったが、一般に近代帝国主義の保護国支配は、伝統的な宗属関係の否定のうえに成立する。
 ベトナムにたいする清国の宗主権を清仏戦争によりフランスが排除し、保護国としたように。
 あるいはイギリスがオスマン帝国の宗主権を否定してエジプトを保護国としたように。
 本書では、帝国主義国の植民地獲得過程での支配の一手段、すなわち隷属国の統治機能の一部を行使する保護関係を条約により設定する国家間関係に限定して用いることにしよう。
 外交用語としての保護関係は、第三国から独立を脅かされる状態にある国家の独立を保障するため、ある特定の国が保護をあたえる関係である。これにたいして国際法上の用語としてのそれは、保護をあたえる国が被保護国の外交権の一部あるいは全部を奪い、外交機能を代行する関係である。
 外交権は、国家が国際法上の権利能力、法的人格を有することを示す最大の主権であるから、外交権を失えば、その他の主権を保持していようとも、その国家は国際法上の主体ではなくなる。
 宗属関係のもとでの藩属国は独立国であるが、近代的保護関係のもとでの隷属国家は独立国とはいえないのは、そのような意味である。
 保護国化は被保護国の外交権を侵害することによって成立するから独立の否定につながる。
 一方で独立を保障しながら、他方で独立を否定する保護関係は本来的な矛盾をかかえもっていた。

 日露開戦

 対露宣戦の詔勅が発せられたのは一九〇四年二月一〇日である。
 ロシアの宣戦布告も同じ日だった。しかし、このときすでに戦闘は開始されていた。
 二月四日の御前会議はロシアとの交渉打ち切りと軍事行動開始を決定、六日には国交断絶を通告するとともに、小倉の第二一師団で編成された臨時派遣隊を乗せた輸送船団と護衛艦隊が佐世保を出航、連合艦隊主力も旅順へむけて発進した。
 その二日後の八日夜から九日にかけて、旅順では連合艦隊が停泊中のロシア艦隊に奇襲攻撃をかけ、仁川(インチョン)では臨時派遣隊が上陸、漢城へ入り、護衛艦隊は、仁川沖でロシア軍艦二隻を撃沈した。
 臨時派遣隊の先遣部隊の漢城入京は、韓国皇帝、政府や漢城駐在の外国外交団にたいして軍事的威圧をくわえ、伝えられていた漢城中立地帯化計画を阻止する目的でおこなわれた。
 当時、漢城には「小村・ウェーバー協定」にもとづいて、歩兵二個中隊と電信隊が駐留していた。
 元山・釜山などに配置されていた部隊をふくめて統轄する韓国駐箚(ちゅうさつ)隊司令部も前年一二月に設置されていた。
 その兵力を補強し、漢城を占領制圧することをはかったのである。
 ロシア公使と警備兵は二一日に漢城から撤退したが、動員命令をうけた第二一師団主力は、同日以降陸続と仁川に上陸し、漢城とその周辺に集結した。
 韓国の局外中立宣言はひとたまりもなく蹂躙された。

日韓交渉再開

 このような日本軍の軍事的制圧下で、一九〇四年二月一三日から林公使と李址鎔とのあいだに交渉が再開される。
 李址鎔は外相を罷免されたが、後任の朴斉純(パクジェスン)駐清公使が着任するまで外相臨時署理(代理)の任にあった。
 再開といっても継続ではない。
 開戦前とは日韓の状況がちがう。一三日に林が作成した日本案は、形式的には相互援助協定だった前案とはことなり、「大韓帝国政府は、全然大日本帝国に信頼し、大日本帝国政府の助言を受け、内治外交の改良を図る可し」(第一条)と、日本が韓国にたいし保護、指導の立場にあることを明文化した。
 また、前案にはなかった軍事協力条項をあらたに設け、
 「第三国の侵害に依り、若(もし)くは内乱の為め大韓帝国の皇室安寧或(あるい)は領土保全に危険ある場合は、大日本帝国政府は、速(すみやか)に臨機必要の措置を取る可し。
 而(しこう)して大韓帝国政府は、右大日本帝国政府の行動を容易ならしむる為め、十分なる便宜を供する事」(第四条)とした。
 日本軍の不当な軍事占領を合法化するとともに、以後の戦略展開にたいする韓国の協力を義務づける項目である。
 さらに日本政府は、林案第四条に「大日本帝国政府は、前項の目的を達する為め、軍略上必要の地点を占有することを得べし」をつけくわえ、修正した。
 韓国政府内では、李容翊度支相らが、日露戦争にロシアが勝利したばあい韓国侵略の口実になる、としてつよく反対したが、大三輪長兵衛の説得工作もあり、李址鎔外相署理の林公使との交渉では、第一条の「助言を容れ……」を「忠告を容るる事」にあらためるなど、文言の修正要求にとどまった。
 韓国皇帝・政府内外の反対のたかまりと外国の干渉をおそれる日本政府は、即時調印を韓国側に求めた。
 二二日、李址鎔外相署理は、記名調印した「日韓議定書」を林公使へ送り、日本政府から調印実施の訓令をうけた林がただちに調印した。
 日本では政府決定と天皇裁可だけで処理し、枢密院への諮問を省略したため、枢密院副議長東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)以下一五人の顧問官から政府の手続き上の「失当」を追及される、という拙速でことがはこぼれた。

日韓議定書

 調印に反対した李容翊は、この日の夜、日本軍に拉致され、「遊覧」の名目で日本に移送されて、約一〇ヵ月の軟禁を強いられる。
 度支部大臣兼内蔵院卿らの要職はすべて解任された。
 このほか、鎮衛第四連隊長吉永洙(キルヨンス)、参将李学均(イハクキュン)、参領玄尚健(ヒョンサンゴン)ら反日派の主な人びとも漢城から追放された。
 「日韓議定書」(全文はIndex付録参照)はもともと密約とする予定であったが、調印までに「公然の秘密」となり、新聞も概要を報じた。
 開戦により、もはや秘密の必要はなく、むしろ公表を有利とみた日本政府は、二月二七日『官報』で公示、韓国政府にも公表を求めて三月八日『官報』に公示させた。
 韓国官報への条約文掲載の初例である。
 韓国内では反対の声がたかまり、中枢院(内閣諮問機関)副議長李裕寅(イユイン)らは上疏して李址鎔ら議定書推進者を弾劾(だんがい)した。
 李址鎔らの私宅には爆弾が投げこまれ、漢城の街は騒然とした空気につつまれた。
 こうした抵抗を威圧するかのように、三月一七日、枢密院議長伊藤博文が特派大使として漢城にのりこんだ。
 名目は天皇名代の韓国皇室慰問である。一八日慶雲宮(キョンウングン)で皇帝に謁見した伊藤は、「日韓議定書」の履行と、それを妨害するものの排除を強要した。宮内府大臣閔丙ソク(ミンビョンソク)を通じて奏達した文中には、韓国兵の反抗があれば敵国とみなすとか、韓国の態度が不鮮明であれば兵力を数倍にするとか、威嚇する言辞がある。
 帰国に際しての謁見で、天皇への伝言をうながした伊藤にたいし、皇帝は
 「今や日韓両国の関係は、議定書に由って確定せり。
 我国の執るべき主義方針も亦(また)之に一致するを要す。
 朕は我臣僚を率いて此主義の下に日韓提携の実を挙げんことを期す」と、屈辱的な言葉を呈さなければならなかった。

「第一次日韓協約」締結の記念写真、前列中央が伊藤博文、その左が林権助公使。

   二 植民地経営のマスタープラン top

対韓施設綱領

 日本政府は「日韓議定書」によって「或る程度に於て保護権を収むるを得たる」と認識していた。
 それを拡張し「保護の実権を確立」するため、一九〇四年五月三〇日元老会議が決定し、翌三一日の閣議も決定した方針が対韓施設綱領である。
 綱領は軍事、外交、財政、交通・通信、産業開発など多面にわたる朝鮮植民地経営のマスタープランであった。
 以下、具体的にみてみよう。

 〔軍事〕 戦争終了後の日本軍の韓国常駐、軍用地収用は、韓国の独立および領土保全を保障した「日韓議定書」第三条による日本の権利である、とする。
 〔外交〕 韓国政府がおこなう外国との条約締結などの重要案件の処理を日本政府の事前承認制とし、そのために外交業務と外国人への特権譲与業務を外部衙門に集中し、そこに日本公使が監督する外国人顧問官を入れ、外交政務の実権を掌握する。
 〔財政〕 日本人顧問官を入れ、徴税法や幣制改革、財政再建をおこない、財務の実権を掌握する。
 〔交通〕 主として軍事的観点から建設中の京釜鉄道(漢城-釜山)と京義鉄道(漢城-義州)の完成をはじめ、漢城-元山(ウォンサン)-雄基湾(ウンギマン)間、馬山(マサン)-三浪津(サムランジン)間の鉄道敷設権を獲得する。
 〔通信〕 韓国政府から日本政府に郵便電信、電話事業の管理を委託させ、日本の通信事業と  の合同をはかる。
 〔産業〕 韓国内の日本人の土地所有権、用地権、豆満江・鴨緑江沿岸の森林伐採権、鉱山採  掘権、全道の漁業権取得などによる産業開発をおこなう。
 韓国の独立保障とはうらはらに、韓国の主権を完全に無視したこの植民地化計画は、順次実行にうつされていく。
 開戦からまだ半年とたたない七月、小村外相ははやくも戦後処理の方針を進言した。
 彼は、戦争に勝利したとしてもロシアから賠償金を獲得できないことを想定し、満韓および沿海州方面での利権拡張に主眼をおき、後日、清国分割に有利に参加しうる態勢をつくるべきだ、と述べたうえで、韓国については「事実上に於て我(わが)主権範囲」とし、「保護の実権を確立し、益々(ますます)我利権の発達を計る」ことを主張した。
 「文明を平和に求め、列国と友誼を篤(あつ)くして、以て東洋の治安を永遠に維持し、各国の権利利益を損傷せずして、永く帝国の安全を将来に保障すべき事態を確立」することを「国交の要義」(対露宣戦の詔勅)とするとの宣言は、まさに仮面にすぎなかった。

韓国駐箚軍の改編

 開戦時、漢城付近に集結していた第一軍主力は北進を開始し、一九〇四年三月中旬には平壌(ピョンヤン)を手中に収め、三月一四日に大同江河口の鎮南浦(チンナムポ)に上陸した第二師団と合流、さらに北上をつづけ、三月下旬には鴨緑江左岸の義州(ウイジュ)に達した。
 兵力四万。対岸はロシアの大軍が待ちうける満州である。
 鴨緑江渡河作戦は五月一日に決行された。
 ロシア軍の新兵器の機関銃に悩まされ、多数の死傷者を出したが午後には九連城を占領した。
 やや遅れて第二軍が遼東半島の塩大襖に上陸すると、九連城から鳳風城に後退していたロシア軍は、そこも放棄した。
 こうして日本軍主力は主戦場の満州に踏みこみ、国境を越えた。
 韓国内における日露交戦は、兵站線を突破して平安南道安州に迫ったロシア軍騎兵との交戦(五月)、成鏡道の一部を占領していたロシア軍と元山守備隊との数度の交戦(四~八月)、ロシア艦隊の元山攻撃(六月)など局地的な小規模戦闘があっただけである。
 それにもかかわらず韓国内の日本軍は、「日韓議定書」第四条にもとづき戦時占領軍として増強された。
 一九〇四年三月一〇日、韓国駐箚(ちゅうさつ)隊から韓国駐箚軍へ改編された当時の兵力は、歩兵一個大隊、後備歩兵五個大隊半を基幹としたが、戦争終結時には後備一個師団、後備歩兵一個旅団、三個大隊、国民歩兵二個大隊にふくれあがった。駐箚軍司令部に属する韓国駐箚憲兵隊も一二分隊あり、国内五六ヵ所に分遣所をおいた。
 韓国駐箚軍が対露戦兵力としてだけでなく、韓国内民衆の弾圧装置であったことを示している。
 しかも、日本軍は日露戦後も二個師団程度の韓国常駐を計画、戦時軍用の名目で漢城(竜山=ヨンサン)、平壌、義州に九七五万坪の軍用地を強制収用した。
 実際、戦争が終結し、戦時編成の韓国駐箚軍の諸部隊の帰還といれかわりに第二二∴五師団が進駐し、一九〇六年八月には韓国駐箚軍は常置部隊となった。一九〇七年度からは常駐軍のための永久兵営の建設も開始される。

 抵抗と弾圧

 韓国民にとっての日露戦争は、ロシア軍との戦いではなく、日本軍との戦いであった。
 鉄道用地・軍用地の強制収用をはじめ、人馬・食糧徴発が民衆に植民地化の危機を実感させた。
 一九〇四年九月一四日、京畿道始興(シマン)郡で数千の群衆が完成まぢかい京釜鉄道の軍役人夫徴発に反対して郡衙を襲い、郡守と日本人二人を殺害した。
 二五日には黄海道谷山(コクサン)郡でも建設中の京義鉄道の軍役人夫徴発をめぐって数千の群衆が日本人と衝突し、日本人七人と朝鮮人一人を殺害した。
 収穫をひかえた秋の農繁期の労働力強制徴発を契機とした反日蜂起である。
 始興民擾(ミンヨ=一揆)・谷山民擾として知られる、これらの「暴動」は氷山の一角にすぎない。
 電信線切断、鉄道建設妨害などは各地で日常的に頻発した。
 駐箚憲兵隊の配置や一般部隊派遣もそれらの防止のためだが、手を焼いた駐箚軍司令官は、一九〇四年七月二日軍律を公布した。
 軍律とは占領軍が公布する一般住民にたいする取り締まり令であるが、「軍用電線、軍用鉄道に害を加えたるものは死刑に処す」、「情を知りて隠匿するものは死刑に処す」とし、さらに電信線・鉄道など軍用施設の保護を地域の責任とし、被害を生じて加害者逮捕ができなかったばあいは、村長や保護委員を「笞罰(ちばつ=むちうち)又は拘留に処す」という苛酷な内容だった。
 一週間後の七月九日には、この軍律の韓国全土への適用と電信・鉄道以外の軍用営造物、武器弾薬その他の軍需品の破壊・掠奪者にも準用すべきことを軍司令官が命じた。
 『朝鮮駐箚軍歴史』によると、一九〇四年七月から一九〇六年一〇月にいたる二年あまりのあいだに、軍律による処分者は死刑三五人、監禁および拘留四六人、追放二人、笞刑一〇〇人、過料七四人、合計二五七人にのぼる。
 駐箚軍司令官がまがりなりにも「軍律違犯審判規定」を公布したのは一九〇五年七月である。
 反日活動家が逃避し「露国党の巣窟」といわれた咸鏡道については、反日活動や軍事妨害を封ずるため、一九〇四年一〇月八日、占領地内に軍政を施行した。
 これにより駐箚軍司令官および駐在部隊長は、韓国の地方行政官を監督することになり、軍事行政の範囲をこえて一般行政にも関与する権限をえた。それでも治安の維持が困難だと知ると、咸鏡南道北青(ブクチョン)、咸鏡北道鐘城(チョンソン)駐在の韓国軍歩兵大隊がロシア軍に通じているという理由で、一二月、韓国政府に両大隊長の罷免、処罰を要求し、大隊を解散させた。
 また一九〇五年一月、駐箚軍司令官は漢城とその付近の治安警察権を韓国警察から奪い、言論・出版・結社・集会を統制して反日世論を封じたが、四月には反日活動が高揚した全羅道全州(チョンジュ)付近にもこれを適用し、日本軍憲兵隊が治安警察権を掌握した。
 日本軍の横暴な軍事制圧のまえに、韓国政府はなすすべがなかった。

保護国実質化がすすむ

 「日韓議定書」締結にあたり、林公使は「約条は主義を明(あきらか)にするに止(とど)め、巨細の条項は第六条に依り臨機外部大臣と協定する方、其成立を容易にする利益ありと信ず」と考えていた。
 具体的な個別事項の交渉にてまどって調印を遅らせるよりも、第一条で韓国にたいする日本の指導的立場を示し、さりげなく挿入した第六条の「未悉(みしつ=定めてない)の細条は……臨機協定する事」を利用すれば、権益を無限に拡大獲得できるとしていたのである。
 第六条は堤を崩す蟻(あり)の穴であった。
 軍事的制圧のもとで、さきの「対韓施設綱領」に示された侵略計画は日本の思いどおりに実現されていく。
 戦時下、日韓間にむすばれた協定にはっぎのようなものがある。

 1、一九〇四年二月二五日「義州開市に関する韓国外務大臣の宣言」(韓清間交易地である平安北道義州の開放)
 2、一九〇四年三月二三日「竜岩浦(ヨンアンポ)開市に関する韓国外務大臣の宣言」(平安北道竜岩浦の開放)
 3、一九〇四年三月二二日~六月四日「忠清・黄海・平安道に於ける漁業に関する往復文書」
   (「日韓両国通漁規則」による漁業権適用範囲を全国に拡大)
 4、一九〇四年八月二二日「第一次日韓協約」(後述)
 5、一九〇五年四月一日「韓国通信機関委托に関する取極書」
   (韓国郵便電信電話事業の日本政府へ管理委託の名目で通信機関を支配)
 6、一九〇五年八月一三日「韓国沿海及内河の航行に関する約定書」(沿海航行権および河川遡航権の獲得)
 この間、韓国が日本以外の外国と締結した条約は、多国間条約である一病院船に関する条約」(一九〇四年一二月二一日パークで調印)だけで、一九〇四年五月一八日には、韓国皇帝の「韓露条約廃棄勅宣書」により、それまで両国間にかわされていたすべての条約の廃棄と、豆満江・鴨緑江・欝陵島(ウルヌンド)の森林伐採特許権の無効宣言がおこなわれた。
 韓国内政への介入もいちじるしく進行した。
 一九〇四年に荒蕪地(こうぶち)開墾権要求(六月)、軍事警察制施行(七月)、韓国在外公館廃止要求(一二月)、一九〇五年になると、貨幣条令公布、日本の第一銀行が銀行券発行と国庫金取り扱い特権獲得二月)、学政参与官として幣原坦(しではらたいら)、警務顧問として丸山重俊着任(二月)、韓国軍隊の整理縮小(四月)などである。

第一次日韓協約をめぐって

 韓国植民地化か着々と進行するなかで、外交上の画期をなすのが、一九〇四年(明治三七)八月二二日調印とされる「第一次日韓協約」である。
 日露戦局が満州へ展開し、大本営陸軍部の分身として創設された満州軍総司令部の総司令官大山巌元帥、総参謀長児玉源太郎大将らが満州に踏み入り(七月)、旅順港攻略の要塞攻撃に移ろうとしていた八月四日、小村外相は「対韓経営計画実施方」を林公使に訓令した。
 これをうけて林は、六日、外部大臣李夏栄(イハヨン)につぎの三ヵ条を示して同意を求めた。

 ①日本政府が推薦する「財務監督」一人を度支部に雇聘(こへい)し、財務に関する意見をきくこと。
 ②日本政府が推薦する外国人一人を「外交顧問」として外部に雇聘すること。
 ③韓国政府は外国との条約締結や外国人への特権付与にあたり、事前に日本政府代表者と協議すること。
 李夏栄外相が承諾すると、一二日には皇帝に謁見して許可をえた。
 皇帝が本心から承諾したのではないことは閣議の反対となってあらわれた。
 とくに①項の「財務監督」と③項の事前協議にむけられた。
 「監督」は大臣より上位にあるというのが理由である。日本側はやむなく「監督」を「顧問」にあらためる一方、財務顧問の内政全般にわたる発言権を確保するため、度支部雇聘から「韓国政府に雇聘」とし、顧間制と条約締結の事前協議とを分離し、とりあえず前者につき合意の覚書を作成することとした。
 一九日、李夏栄外相・朴定陽(パタジオンヤン)度支相が調印して送付した覚書に、二〇日、林公使が調印した。
 事前協議問題については、二二日、公使館書記官と韓国駐箚軍参謀長斎藤力三郎中佐を帯同した林公使が、沈相薫参政、李載克宮相臨席で病気中の皇帝に謁見し、強引に承諾させた。翌三二日、前述の財政・外交顧問についての覚書と合わせて三項より成る協約書に外相署理尹致昊(ユンチホ)と林が記名調印し、日付を八月二二日としたのが「第一次日韓協約」で、批准書交換をともなわない協定である。

財務・外交顧問

 「第一次日韓協約」が『官報』に公示された九月五日、日本政府は英文で「日韓協約に関する日本政府声明」を発表した。
 そこでは「日韓議定書」により韓国外交について監督の義務を負った日本が、韓国に対し「諮問的発言」をおこない、国際的問題について「助言」するため外交顧問をおいた、と説明した。
 しかし、それは日本の韓国侵略から外国の目をそらさせる偽装にすぎない。
 林公使が「議定書の各条を広義に且(か)つ我が利益に解釈して韓国政府の行動を一に厳密に監督する」と述べたとおり、外交権の実質的掌握のみならず、財政を中心とした韓国内政の植民地的編成をはかる意図にもとづいていた。
 財政顧問には、調印まえから名前があかっていた大蔵省主税局長目賀田種太郎(めがたたねたろう)が命じられ、一〇月に着任した。
 目賀田は携えてきた改革プランをもとに、ただちに貨幣整理(新貨幣発行と旧貨幣回収により日本の通貨体系に編入させる)、財政改革に着手した。
 しかし、韓国政府内外のねづよい反対が目賀田のまえに立ちふさがり、いきおいこんだ彼を困惑させた。
 「どうも事毎(ことごと)に思うように行かぬ」、「日本の言う事が寸分朝鮮側に通らぬ」という目賀田らの苦情をうけた林公使が、帰国して小村外相とともに葉山滞在の桂首相を訪れた。
 事情を説明すると、桂は「それなら保護国までにしようじゃないか」ときりだし、ふたりも同意した、と後年、林は回顧している(林権助『わが七十年を語る』)。
 外交顧問には、アメリカ人スティーブンスがえらばれた。
 外国人を顧問としたのは、日本の介入を外国の環視から遮蔽するためだが、同時にアメリカの支持をうるためでもあった。
 スティーブンスは駐米日本公使館の顧問をしていた親日家で、一九〇四年一二月韓国に赴任したが、その契約書には、皇帝への謁見、政府会議に出席し意見の提出、外交関係文書の閲覧等の権限と、外交顧問としての外交案件の審議立案の責任が、多額の報酬とともに記載されていた。
 スティーブソスは一九〇八年まで韓国に滞在し、保護条約の締結等に協力したが、帰国後、サンフランシスコのオークランド駅で、在米民族主義者の田明雲(チョンミョンウン)・張仁煥(チャンインファン)に射殺される。

   三 列強の合意をとりつける top

「惨憺たる勝利」

 満州攻略の担当部隊として編成され、一九〇四年五月に遼東半島に上陸した第二軍(奥保鞏(やすかた)大将)は、遼陽をめざし北進した。
 これに平行して朝鮮半島から鴨緑江を越えて満州入りした第一軍(黒木為禎(ためもと)大将)と、第一・二軍の中間点であらたに編成された第四軍(野津道面(のずみちつら)大将)も北上し、日本軍を迎えうつロシア軍と対決したのが八月下旬からはじまる遼陽会戦である。
 日本軍は激戦のすえ、クロポトキンの率いるロシア軍を九月三日、遼陽から退却させることに成功した。
 拙攻をかさね、作戦計画から大幅に遅れをとっていた第三軍(乃木希典(のごまれすけ)大将)の旅順要塞攻撃も、一九〇五年一月一日に終わった。
 だが、厳寒が戦線を凍結するあいだに、ロシア軍はシベリア鉄道によってぞくぞくと兵士と武器弾薬・糧秣(りょうまつ)を送りこみ、態勢を立て直す。
 逆転を期したロシア軍は、奉天(瀋陽)を拠点に全戦線の戦力を強化した。
 これにたいして日本軍は、旅順戦を終えた第三軍を改編した新第三軍と、あらたに韓国駐剳軍司令官のもとに編成した鴨緑江軍の一部を奉天攻略に参加させ、全軍をあげて奉天決戦に挑んだ。
 日本軍二五万、ロシア軍三二万。
 二〇世紀に入って世界最大規模の奉天会戦は三月一日に開始され、攻防戦をくり返し双方ともに莫大な損害をこうむったあげく、九~一〇日のロシア軍総退却で決着した。
 しかし退路を断つことに失敗した日本軍は、ロシア軍を殲滅(せんめつ)させることはできず、追撃しようにも三三万発を撃ちつくした日本軍の砲銃弾に残りはなかった。
 補給線は伸びきったゴムひもだった。
 奉天会戦の日本軍死傷者約七万、ロシア軍死傷者約九万、俘虜二万二〇〇〇という。
 日本は、人も物も金も、持てるものすべてを使いはたしてつかんだ勝利だった。
 満州軍総参謀長児玉源太郎の生涯を伝記小説『天辺の椅子』に描いた古川薫氏は、奉天会戦の結末を「惨憺たる勝利」とよんだが、いいえて妙である。
 日露陸戦史は奉天会戦で年表から消える。
 が、日本軍はいまだロシア領に一歩も踏み入っていない。
 至近のウラジオストクさえ健在である。
 講和条約を目前にひかえた七月、防備の手薄なサハリンを侵攻した作戦は、講和条件を有利にみちびくためのエピローグにすぎなかった。

韓国保護権確定方針の決定

 奉天会戦のあやしげな勝利の幻想に国民が酔っていた一九〇五年(明治三八)四月、政府は講和条件と韓国経営の検討をはじめていた。
 四月八日の閣議で決定し、一〇日に天皇が裁可した「韓国保護権確立の件」は、戦後の韓国支配のあり方として保護国とすることを具体的に示した方針書である。
 軍事、行財政の実権掌握と並列ではなく、外交権の奪取を第一にあげ、「此際一歩を進めて韓国に対する保護権を確立し、該国の対外関係を挙げて我の掌裡に収めざるべからず」とした。
 韓国と締結すべき保護条約は、つぎの四点をふくむものとする。

  第一 韓国の対外関係は全然(すべて)帝国に於て之を担任し、在外韓国臣民は帝国の保護に帰すること。
  第二 韓国は直接に外国と条約を締結することを得ざること。
  第三 韓国と列国との条約の実行は、帝国に於て其(その)責に任ずること。
  第四 帝国は韓国に駐剳官を置き、該国施政の監督及帝国臣民の保護に任ぜしむること。
 ここでいう保護権の設定は、国家間のあいまいな保護関係ではなく、前述のような近代的保護関係として韓国の外交権を全面的に日本が奪いとることである。
 つまり韓国の国際法上の独立を否定することを意味する。
 しかしそれは、日韓間で保護条約をむすべばよい、というものではなく、韓国と外交関係にある――具体的には公使等を交換している――諸外国の承認がなければならない。
 したがって「之が実行に関しては、深く列国の態度如何(いかん)と顧み、可成丈(なるべきた)け外間の故障(外国の干渉)を招かざるの手段を講じたる上、適当の時機に於て之を断行すること得策なり」とした。
 列国の支持がえられる機会をとらえなければならない、というのである。
 その「適当の時機」こそ日露戦争勝利のときである。

日英同盟協定の改定

 「韓国保護権確立の件」を決定した同じ日の閣議は、「日英同盟協約」の継続と改定の方針を決定し、その交渉を開始することとした。
 日英同盟は、極東におけるロシアの進出に対抗して日英両国の利益確保のため、一八九八年(明治三一)以降、両国間でとりあげられていた同盟案を、桂内閣成立後、対露強硬・日英提携の方針を固めた小村外相が推進した協定である。
 一九〇二年一月三〇日に調印した第一回協約は、前文で清国・韓国の「独立と領土保全」および諸外国の商工業活動の機会均等をうたい、清国・韓国が第三国の侵略を受け、または内乱が発生したばあいには、日英両国は必要な措置をとることを承認する(第一条)とした。
 日露戦争にさきだって調印された、この「第一回日英同盟協約」は、日本の韓国支配をイギリスが認めたわけではなかった。
 日本政府案には、別款として、日本が韓国で「優勢なる利益を擁護増進する為め適当な措置を採」ることをイギリスが承認する、という条項を提案したが、交渉にあたったラッスダウン外相は受け入れなかった。
 韓国における日本の「自由行動」が「侵略の方針」に転じ、ついで日露の衝突を招くのをおそれる、というのが、その理由だった。
 イギリス側は、第一条冒頭に「両締約国は、相互に清国及韓国の独立を承認したるを以て、該二国孰(いず)れに於ても、全然侵略的趨向(しゅこう=傾向)に制せらるることなきを声明す」と、不可侵宣言を掲げることを求めて譲らなかったのである。
 日露戦争は、日本の侵略主義を隠蔽するために、ロシアを侵略者に仕立て、日本は韓国の独立と領土保全のために戦う、と戦争目的を正当化したが、もはやこのたてまえの論理は、韓国保護国化の方針を決定した日本政府には邪魔にこそなれ、必要ではなくなった。
 日英同盟の改定が急がれた。一九〇五年八月一二日調印の「第二回日英同盟協約」は、イギリスのインド領有と国境防衛措置を日本が承認することとひきかえに、日本の韓国支配をイギリスが承認するとともに、両国の軍事「攻守同盟」関係を明確にしたものとして知られている。
 そこでは第一回協約で明記された、韓国の独立保障、領土保全、不可侵などはまったく消去され、韓国における日本の立場は第三条でつぎのように示された。

 日本国は韓国に於て政事上、軍事上及経済上の卓絶なる利益を有するを以て、大ブリテンは、日本国が該利益を擁護増進せむが為、正当化必要と認むる指導、監理及保護の措置を韓国に於て執るの権利を承認す……
 ここでいう「指導 guidance」「監理 control」「保護 protection」という言葉は、日本外務省法律顧問のアメリカ人デニソンの造語だが、「読めば読むほど味のある文句だ」と、後年、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう=外相、首相)は回顧している(朝日新聞社編『日本外交秘録』)。
 この模糊(もこ=あいまい)とした文言が意味するところは、日本が韓国に保護権を設定することだった。
 つまりイギリスは、日本による韓国保護国化を認めたのである。

新日英同盟に対する抗議

 「第二回日英同盟協約」は、すでにはじまっていた日露講和交渉との関連で公表を遅らせ、調印から一ヵ月半たった九月二七日、日英両国で正式に発表された。
 新協約が林公使から朴斉純外相に通知されたのは一〇月五日であるが、日本が韓国に保護権を求めて襲いかかることを察知した韓国政府・国民は激怒した。
 日露戦争中、韓国内に駐屯した日本軍にかわって、あらたに日本から急派された第二二師団(司令部は咸鏡南道纖興)と、満州から移駐した第一五師団(司令部は平壌)の到着(一〇月)も人びとを不安におとしいれた。
 講和後に韓国内各地に大量に配置された日本兵土の銃口が、韓国民にむけられた弾圧目的以外のものでないことはあきらかであった。
 『朝鮮駐箚軍歴史』にはつぎのような記述がある。

 日露媾和条約成立し、日英同盟条約更新せらるるにおよび、多くの官民は帝国の対韓方針に関し更に危惧の念を抱き、帝国二師団の渡来を見るや、人心益動揺し、在野失意の徒は、頻(しきり)に書を政府に致して日英両国恣(ほしいまま)に韓国の処分を議するの不当を説き、或は直接英国政府及民間の有力者間に遊説して新条約を無効ならしむる為、密(ひそか)に渡英を企つるものあり……
 外部(外務大臣)は、英国公使に迫りて日英新条約は英韓条約に矛盾すると称して其の反省を促し、暗に撤回希望の意を示し、又在野の所謂志士なる者は、書を政府及駐箚軍司令部に寄せ、悲憤慷慨(ひふんこうがい)の辞を列ねて、日英両国が擅(ほしいまま)に独立帝国の処分を議すと抗議し……
 日本の韓国保護国支配を承認したイギリスと日本にたいする抵抗がたかまったのである。
 韓国外相の駐韓イギリス公使への抗議とは、朴斉純外相が皇帝の密旨をうけ、一〇月一七日ジョーダン公使にたいしておこなった抗議である。
 一八八三年調印の「韓英修好通商条約」で定めた友好の趣旨に反して、イギリスが日本と通じて日英新協約を締結したことを非難し、その撤回を求めたのだった。
 同日、朴斉純外相は萩原守一臨時代理公使(林公使は帰国中)にたいしても、日英新協約第三条が「従前の約旨に違反する不当の条約」であることを抗議した。
 前年の「日韓議定書」は、第三条で韓国の独立を保障し、さらに第五条で日韓両国が第三国と協定するばあいには、相互の事前承認を要する、としていた。
 それにもかかわらず、日本政府は韓国政府に承認はおろか、通告すらせずに、韓国の独立を否定する保護条約締結を含意する新協約をむすんだのであるから、あきらかな条約違反である。
 朴外相はそれをするどくついたのだった。
 先行条約に違反する新条約は無効となるか、韓国が先行条約を解除する権限をもつ。
 ジョーダン公使と萩原代理公使はただちに協議し、「何等の措置を採らずして「イグノア(ignore)」することにした。無視したのである。

ポーツマス交渉

 日露講和交渉は一九〇五年八月一〇日からアメリカのポーツマスでひらかれた。
 日本側全権委員は小村外相と駐米公使高平(たかひら)小五郎、ロシア側はヴィッテと駐米公使ローゼンである。
 派遣にさきだって、六月三〇日の閣議は、全権委員にたいする訓令事項を決定した。
 そこでは「絶対的必要条件」として、韓国を「全然我自由処分に委すること」をロシアに承認させることと、遼東半島租借権とハルピン-旅順間鉄道の譲与などを掲げ、「飽迄(あくまで)之が貫徹を期せらるべし」とした。
 賠償金獲得、サハリン割譲などは「許す限り之が貫徹を努めらるべし」と命じた「比較的必要条件」にすぎなかった。
 韓国にたいする日本の支配、つまり保護権設定の承認がまず第一の課題だった。
 韓国問題は交渉開始後まもなくとりあげられた。
 ヴィッテは、韓国における日本の「自由行動」を容認しながらも、条文に「韓国皇帝の主権を侵害すべからざること」を挿入することを要求した。
 韓国の独立と主権にかかわる重要事項を日露間で協定することは国際法上不当である、という正論である。
 小村全権との論争のすえ、「日本国が将来、韓国に於て執ることを必要と認むる措置にして、同国の主権を侵害すべきものは、韓国政府と合意の上、之を執るべきことを茲に声明す」と会議録に書きとどめることで妥協が成立した。
 日本の韓国保護国化には、韓国政府との「合意」が前提であることを確認し合ったのである。
 しかし、九月五日調印の「日露講和条約」第二条には、日本の韓国支配が明記された。

 ロシア帝国政府は、日本国が韓国に於て政事上、軍事上及経済上の卓絶なる利益を有することを承認し、日本帝国政府が韓国に於て必要と認むる指導、保護及監理の措置を執るに方(あた)り、之を阻礙(そがい)し、又は之に干渉せざることを約す。
 韓国に於けるロシア国臣民は、他の外国の臣民又は人民と全然同様に待遇せらるべく、之を換言すれば、最恵国の臣民又は人民と同一の地位に置かるべきものと知るべし……
 前段では「日英同盟協約」と同じく、「指導、保護及監理」という文言を用いて日本の韓国支配を定義づけ、それにたいしてロシアは妨害、干渉しないことを約した。
 後段では、あたかも日本が韓国の主権者であるかのように、韓国領土内のロシア国民の地位を規定し、ここでも重大な韓国主権を侵害した。
 「日露講和条約」は、ヴィッテの巧妙なかけひきによって外交的には失敗とみられ、膨張熱に浮かされた国民の反発をかったが、「絶対的必要条件」のほとんど全部を獲得し、韓国植民地化の了承をロシアからとりつけたことで政府首脳は十分に満足したはずである。

アメリカの了承

 日露講和交渉開始直前の一九〇五年七月二九日、桂首相は来日中のアメリカ陸軍長官タフトと会談し「桂・タフト協定」をむすんだ。
 それは、アメリカのフィリピン統治と日本の韓国にたいする保護権設定を相互に認め合う内容だった。
 ルーズヴェルト大統領がこの協定を承認した通告を日本政府にあたえたのは八月七日である。
 こうして日露戦争中、終始日本に好意的だったアメリカもまた、日本の韓国保護国化に同意したが、講和条約交渉のため滞米中だった小村全権は、調印後の九月九日、高平公使とともにルーズヴェルト大統領と会見した。
 小村は韓国と保護条約をむすぶ計画を述べ、あらためてアメリカの承認を求めた。
 これにたいしルーズヴェルト大統領は賛意を表し、「充分我に信頼せられて可なり」と回答した。
 イギリス・アメリカ・ロシアの承認をとりつけた政府は、他国もこれにならうとみた。
 “講和条約で賠償請求を放棄するなど譲歩した日本が獲得した権益を最大限に「確守活用」するのはやむをえない”と諸国がみている、と判断したのである。
 ロシアのツケを韓国に転嫁することによって日露戦争に決着をつけ、平和を回復することを帝国主義列強も望むものとよんだ。
 日本政府にとって、日韓保護条約の締結は、この機をおいてほかにないのである。

第五章 保護国化をめぐる葛藤

 一 外交権を奪うI第二次日韓協約
 二 皇帝の孤独なたたかい
 三 植民地権力の成立――内政権をも掌握する
 四 高揚する義兵闘争
   一 外交権を奪う 第二次日韓協約 top

実行計画の閣議決定

 一九〇五年(明治三八)一〇月二七日の閣議は、韓国にたいする保護権確立の実行計画を決定した。
 一六日にアメリカから帰国したばかりの小村外相が原案作成の筆をとった。
 閣議決定の内容は、
 ①条約文原案、
 ②調印後、公表まえに英米はもちろん独仏政府に通知し、各国が韓国とむすんでいる条約の継承等の宣言、
 ③一一月初句実行、
 ④条約交渉全権の林公使への委任、
 ⑤韓国皇帝へ親書奉呈の勅使派遣、
 ⑥長谷川好道韓国駐箚軍司令官への協力命令、
 ⑦日本軍隊の漢城集結、
 ⑧韓国政府の同意がえられないばあい、一方的に韓国にたいし保護権設定を通告し、列国に事情説明をおこなう、などである。
 ただちに天皇は閣議決定の実行を裁可した。
 これにより小村外相は、条約締結の権限と訓令を上京中の林公使に伝え、漢城に帰任させた。

          関係略年表(5) 明治39~41

1906(明治39、光武10)年 1月、韓帝、イギリス人ストーリー記者を通じて国書を列国に送り、共同保護を要望。2月、韓国統監府開庁。3月、興業借款1000万円供与。5月、閔宗植、藍浦で挙兵、洪州を占領するも日本軍と交戦して敗退(11月逮捕される)。6月、崔益鉉、泰仁で挙兵、捕えられ1907年1月、対馬で獄死。梅謙次郎、韓国政府法律顧問となる(法典編纂)。8関東都督府官制公布。三七忠造、韓国政府学部参与官となる(教科書編纂)。9月、日本人参与官を朝鮮各地方に配置。10月、鴨緑江・豆満江森林経営に関する協同約款調印。内田良平、一進会顧問となる。11月、満州鉄道会社設立。12月、ロシア外相、日露協商を示唆。
1907(明治40、光武11・隆煕元)年 2月、ロシア外相、日露協商案を提示。5月、李完用内閣成立。6月、第2回万国平和会議に保護条約無効を訴える韓帝の密使3人、パーク着。7月、韓帝の各国元首あて親書(常設仲裁裁判所へ保護条約無効提訴につき協力を要請)を携えたハルバート、ニューヨーク着。対韓強硬の世論高まる。閣議、韓帝譲位などの処理方針決定。高宗譲位詔勅発布、純宗即位。第3次日韓協約(丁未7条約)調印(24日)。第1回日露協約調印。韓国軍隊解散の詔勅発布。8月、改元、純宗即位式。原州鎮衛隊・江華島分遣隊など軍隊解散に反対し蜂起、丁未義兵闘争おこる。李麟栄ら義兵決起(12月楊州に1万人集結、上京をめざす。 1909年6月、李麟栄捕えられ処刑)。間島に統監府派出所開設(清国、撤去を要求)。10月、警察事務執行に関する取極書調印(警察合併)。11月、純宗、昌徳宮へ遷る。
1908(明治41、隆煕2)年 1月、裁判所構成法施行。3月、韓国施政改善に1968万円無利子貸し付け。元外交顧問スティーブンス、サンフランシスコで田明雲らに射殺される。6月、韓国人憲兵補助員制度創設。「大韓毎日中報」のベセル、イギリス領事裁判で禁固処分を受ける。李完用内閣改造。宗秉峻内相となる(1909年2月、辞任)。9月、閣議、満洲に関する交渉方針決定。10日韓漁業協定調印。12月、東洋拓植会社設立。日本興業銀行、起業資金1296万円借款契約。日本政府、起業公債100万円借款契約。
 また、閣議にさきだち小村は、神奈川県大磯の伊藤博文を二回訪問した。
 一回目は林が同行し、二回目は元老山県有朋が同席した。
 小村は、政府の満韓経営方針を説明し、伊藤から渡韓の内諾をえた。
 一一月一日、天皇は伊藤に特派大使として韓国派遣を命じたが、伊藤の役割は「韓廷に対する聖旨の徹底」、つまり韓国皇帝説得用の使節であって、外交上の正式代表は林公使である。
しかし条約締結を主導したのは伊藤だった。

伊藤特派大使と皇帝のやりとり

 一一月九日漢城へ入京した伊藤は、翌一〇日慶雲宮(キョヌングン)に参内、高宗皇帝に天皇からの親書を奉呈した。
 そして伊藤は、一五日の内謁見で皇帝に保護条約承認を強要した。
 やりとりの大要を、「日本外交文書」三八巻一冊に収録されている伊藤の復命書によってたどってみよう。
 皇帝は終始外交権の移譲、すなわち国際法上の独立国家の地位を失うことをこばんだ。
 それはアフリカの植民地にひとしい、とさえいった。
 しかし伊藤は、皇帝の「哀訴的情実談」をしりぞけ、保護条約案は日本政府の「最早寸毫(もはやすんごう)も変通の余地なき確定案」であり、“もし韓国がこれに応じなければ、いっそう「困難なる境遇」に陥ることを覚悟されたい”と威嚇し、即決をうながした。
 皇帝は「朕が政府臣僚に諮詢(しじゅん)し、又一般人民の意向をも察するの要あり」と述べ、伊藤の舌鋒をかわそうとすると、伊藤は万機親裁の「君主専制国」である韓国の皇帝が、人民の意向を徴するとは「定めて是(こ)れ人民を煽動し、日本の提案に反抗を試みんとの御思召(おぼしめし)と推せらる」と語気をあららげ、表情がはげしく揺れた皇帝に、ただちに外部大臣に協議とりまとめを命ずるよう要請した。
 一六日、伊藤は朴斉純(パクジェスン)外相を除く各大臣を宿所に招き、条約受諾を求めた。
 一方、林公使は朴斉純外相を招き、条約の日本政府案を正式に手交した。当時の大臣は、参政韓圭萵(ハンギュソル)、外相朴斉純、内相李址鎔(イジヨン)、度支相閔泳綺(ミンヨンギ)、軍相李根沢(イグンテク)、法相李夏栄(イハヨン)、学相李完用(イワンヨン)、農相権重顕(クォンジュンヒョン)である。
 韓圭萵への参政任命は、林公使の「勧告」によるものであり、以下の諸大臣も林が皇帝と「協議」してえらんだ親日的人物と目される人たちであった。
 それにもかかわらず、多くの大臣もまた、保護条約締結に反対だった。
 反対のまま内閣総辞職の事態を招き、交渉不能となることをおそれた伊藤と林は、いっきょに調印を強行することを決意した。

銃剣で威嚇しつつ調印

 一一月一七~一八日、歩兵一大隊・砲兵中隊・騎兵連隊が王宮まえや目抜き通りの鐘路(チャンロ)で演習と称する示威をおこない、日本兵が物情騒然とした市中を巡回し、市民をおびやかした。
 一七日午前一一時、林公使は大臣たちを泥見(チンコゲ)(南山(ナムサン)北麓)の日本公使館に招き、予備交渉をおこなったのち、「君臣間最後の議を一決する」ため御前会議の開催を要求した。
 午後三時ごろ、大臣の途中逃亡を防止するため、護衛の名目で憲兵づきで諸大臣と林が参内した。
 御前会議は夜におよんだが、条約反対の意見がつよく、結論をうるにいたらなかったので、日本側との交渉を延期することとした。
 「事の遷延を不得策」とみた伊藤は、あらかじめ打ち合わせしていた林から連絡をうけ、八時ごろ、長谷川駐箚軍司令官、佐藤憲兵隊長をともなって参内し、御前会議の再開を求めた。
 しかし、皇帝が病気を理由に出席を拒否したので、閣議形式の会議がひらかれた。
 外国の使臣である伊藤・林が武官とともにこれに出席すること自体、不法きわまりないが、会議は折衝の場と化した。
 慶雲宮内も日本兵が満ちていた。
 『大韓季年史』は「銃刀森列すること鉄桶(てつとう)の如く、内政府及び宮中、日兵亦(ま)た排立し、其の恐喝の気勢、以て言(ことば)に形(あらわ)し難し」と述べている。
 窓に映る銃剣の影が大臣たちを戦慄(せんりつ)させたことだろう。
 伊藤は大臣一人ひとりに賛否を尋問した。
 韓圭萵参政と閔泳綺度支相は明確に反対を表明した。
 朴斉純外相も「断然不同意」と拒否したが、ことばじりをとらえた伊藤は、たくみに誘導し「反対と見倣(みな)すを得ず」と一方的に判定した。
 その他の肩を落とした四人の大臣のあいまいな発言も、伊藤によりすべて賛成とみなされた。
 こうして、国民から「乙巳五賊(ウルサオジョク)」と非難された五人の大臣の賛成をもって、会議の多数決とした伊藤は、気落ちした韓圭萵参政に皇帝の裁可を求めるよううながし、拒否するならば「予は我天皇陛下の使命を奉じて此任に膺(あた)る。諸君に愚弄せられて黙するものにあらず」と恫喝した。
 しかし、あくまで反対の韓圭高参政は、涕泣(ていきゅう)しながら辞意をもらして退室した。
 伊藤は「余り駄々を捏(こ)ねる様だったら殺(や)ってしまえ、と大きな声で囁いた」(西四辻公尭『韓国外交秘話』)という。
 大臣たちに聞こえる程度の声でいった、という意味だろう。
 協約案は若干の文言修正ののち、午後一一時半、林公使と朴斉純外相とが記名し、外部(外務省)から日本公使館員が奪うようにして持ってきた外相職印を捺印した。
 一八日午前一時半ごろである。

第二次日韓協約の内容

 「第二次日韓協約」(韓国・北朝鮮で乙巳(ウルサ)条約という)は、韓国側の要求の一部をいれて修正、確定された。
 修正の主な点はつぎの文言である。

 ①皇帝の要請により、前文に「韓国の富強の実を認める時に至る迄」が挿入された。
 ②第三条中に「統監は専(もっぱら)外交に関する事項を管理する為め京城に駐在し」が挿入された。
 ③権重顕農相の意見により、第五条「日本国政府は韓国皇室の安寧と尊厳を維持することを保証す」が追加された。
 ②は統監の職務権限を外交面に限定し「内政に干渉せず」という字句を挿入することを李完用学相が主張したが、内政面でも実権掌握を意図していた伊藤は難色を示し、代替の文言としてこれをくわえた。
 英文では「専ら」をprimary(主要な)と訳している。
 外交上の正式代表の資格がない伊藤が、韓国大臣と交渉することも違法であるが、以上の協約案修正を伊藤は日本政府の承認と天皇裁可をとらず、みずから筆をとって添削修正した。
 林公使がそのことをただすと、伊藤は「俺が命じたと言ったらそれですむ」といってかえりみなかった、という(林権助、前掲書)。
 「第二次日韓協約」(全文は Index付録参照)は、一一月二三日の『官報』号外に外務省告示として公表され、同時に在外公使を通じて任国政府に伝えられた。韓国では一二月一六日の『官報』に「韓日協商条約」として公表された。

協約無効論の根拠

 一九九一年からはじまった日朝国交正常化交渉において、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は、脅迫により強制調印させられた「第二次日韓協約」は当初から無効であり、この協約を前提として締結された「韓国併合条約」もまた無効である、と主張している。
 「条約法に関するウィーン条約」(一九六九年採択、八一年日本も加入)第五一条は、「国の同意の表明は、当該国の代表者に対する行為又は脅迫による強制の結果行われたものである場合には、いかなる法的効果も有しない」と規定している。
 この原則は今だからそういえる、というものではなく、一九〇五年当時すでに定着していた国際法上の常識であった。
 たとえば、外務省参事官で、併合時の政務局長倉地(くらち)鉄吉は、日本大学の前身である日本法律学校講義録『国際公法』(一八九九年)で、条約締結に際しての、国家に対する強制と国家の代表個人に対する強制とを区別し、前者は必要に応じ容認されるが、後者は「其者の発表したる所の意志なるものは到底之(これ)を真正のものと見做(みな)すことを得ざるを以て……条約は決して有効なるものにあらざるなり」と述べている。
 したがって、韓国の代表個人にたいする「強暴、脅迫」によって強制調印された「第二次日韓協約」は無効、つまり当初から効力を発生しなかった条約とみる見解が多い。
 ただし前述の強制行為を国家代表者にむけられた脅迫とみるか、国家自体への強制とみるか、について、国際法上の判断基準はかならずしも明確とはいえないようである(坂元茂樹「日韓保護条約の効力――強制による条約の視点から」)。
 無効論は北朝鮮がはじめて主張したのではない。
 日韓交渉(一九五二~六五年)でも最大の係争点だった。
 韓国側か「韓国併合条約」等の当初からの無効・不存在の確認を求めたのにたいし、日本側は併合条約は一九四五年八月一五日失効、併合条約以前の諸条約は併合条約発効時に失効した、と主張した。
 結局は旧条約の性格や植民地支配の歴史的責任についての問題点をたなあげし、「すべての条約及び協定は、“もはや無効”であることが確認される」(第二条)と記した「日韓基本条約」が調印された。
 これでは一九六五年調印時における無効を確認しただけで、それがいつから無効なのかを示さない、国際条約としては異例のものといわざるをえない。
 それから三〇年をへた今日、韓国でも「第二次日韓協約」の「源泉的無効」を日本政府に確認を求める意見が再浮上している。

形式論からの無効論

 無効論のもうひとつの論拠は、「第二次日韓協約」正本に皇帝の署名捺印がない、という指摘である。
 一九九二年五月三日の韓国紙が、ソウル大学奎章閣(キュジャンカク)所蔵の正本を写真入りで報じ、歴史家や法律家が「虚偽文書」とコメントしたことは記憶にあたらしい。
 北朝鮮の歴史家もこれにならった。
 また一一月五日の第八回日朝交渉の席上、北朝鮮の李三魯(リサムロ)主席代表は、皇帝の署名捺印がなく、天皇のそれすらない「乙巳条約」は「何ら法的効力のない紙屑にすぎない」文書である、ときめつけた。
 しかし、この見解には誤りがある。
 条約書正本に記名調印するのは特命全権大使・公使または外務大臣であるのが通例であり、国家元首ではない。
 なお、新聞発表にあたった杢章閣図書管理室長の李泰鎮(イテジン)ソウル大教授によると、これは誤報で、“批准書がない”としたのだという。
 だが、批准書もまた、すべての国際協定にあるとはかぎらず、無効論の根拠にはならない。
 戦前日本では、国際協定締結の手続きに三種あった。

 第一種 批准を要する条約(「日朝修好条規」「日露講和条約」など)。
 第二種 批准を要せず、天皇裁可だけの協定(「日英同盟協約」「日露協約」など)。
 第三種 裁可を要せず、政府限りで締結する国際約束。
 もしも「第二次日韓協約」など特定の日韓間協定については批准晝がないことを主張するためには、それ以外の協定にはかならず批准晝があることを立証しなければならない。
 しかし、「韓国併合条約」までに日朝(韓)間に結ばれ九五三件の協定のうち、批准書が交換された、いわゆる批准条約は「日朝修好条規」とその続約だけである。
 「第二次日韓協約」は、韓国皇帝の承認をうるのが難かしいと予想して、批准書なしでも有効な第二種形式をえらんだとみられる。
 したがって、批准書がないことをもって無効とする主張は再検討されなければならない。

   二 皇帝の孤独なたたかい top

上疏と殉国

 「第二次日韓協約」強制調印が伝わると、重臣たちはいっせいに皇帝に協約の認准拒否、協約破棄、「乙巳五賊」の処断などを求めて上疏した。
 もと議政府議政(首相相当)で特進官の趙来世(チョウピョンセ)も、協約破棄を上疏するとともに、林公使に協約解消を求める書簡を送った。
 彼はいう。

 「日清講和条約」以来、日本政府はたびたび韓国の独立を保障すると宣言してきたにもかかわらず、保護条約を強制して韓国の外交権を奪うのは公法に違反し、「正義」「公理」にそむく行為であるから、林公使は日本政府に稟請(りんせい)して、この条約を解消すべきである、と。
 この要求を無視された趙乗世は、各国公使への援助を求める書と韓国民に告げる書をのこして、毒を仰いで自決した。
 先行条約等における韓国独立保障宣言にたいする日本の違約・食言は、趙乗世のみならず韓国民すべてにとって日本の法的・道義的な裏切りと受けとめられた。
 のちに伊藤博文を暗殺した安重根(アンジュングン)も、取り調べの検察官にたいして答えた「伊藤博文の罪状十五ヵ条」のなかで、“日本は日露戦争に際して、東洋の平和を永遠に維持するといい、韓国の保全を重視すると明言したにもかかわらず、伊藤は保護条約を韓国に強制し東洋の平和を乱した”と追及している。
 もと参政で侍従武官長の閔泳煥(ミンヨンファン)も憂国の遺書をのこし、小刀でのどを突いて自決した。
 のちに流血の下衣から九本の細竹が生えた、という。
 その枯れ葉がソウルの高麗大学校博物館に遺品とともに展示されている。
 その昔、高麗から李氏朝鮮への王朝交替のとき、鄭夢周(チョンモンジュ)は高麗王朝への忠誠を誓って李王に暗殺されたが(一三九二年)、彼が流した鮮血のあとから竹が生えたといい伝えられる。
 血竹は堅固な節義の象徴である。
 そのほか、甲申政変で開化派にくみし死んだ洪英植(ホンヨンシク)の兄で、政変後、京畿道驢州(ロジュ)に隠棲して
いた洪万植(ホンマンシク)が自決するなど、元政府高官から兵士・車夫にいたる多くの人びとの愛国警世の憤死があとをたたなかった。

閔泳煥の銅像(ソウル)。「第2次日韓協約」の
強制締結に抗議して自決した。

義兵の蜂起

 一一月一七日強制調印の夜、「乙巳五賊」のひとり、李完用学相の私邸が焼き打ちされ、炎が天を焦がした。
 翌一八日には王宮正門の大漢門(テハンムン)に押しかけた群衆の笑声が街をゆさぶり、鐘路の商人は戸を閉ざして撤市(休業)した。
 二〇日付けの『皇城(ファンソン)新聞』は張志淵(チャンジョン)主筆の論説「是日也放声大笑」(この日こそ声を放ち大いに泣くべし)を掲げ、保護条約反対を訴えた。
 二二日には林公使とともに近郊に出かけた伊藤が乗った列車に投石があり、伊藤が顔面に軽傷を負うという事件も発生した。
 国中が騒然とするなかで、日露戦争下の抗日運動の流れを汲む義兵が各地で蜂起する。
 一九〇六年五月、協約締結に反対して官職を捨てたもと参判閔宗植(ミンジョンシク)は忠清南道藍浦(テムポ)で蜂起した。
 藍浦・保寧(ポリヨン)郡守の協力をえて武器弾薬、軍資金をととのえ、農民主力の義兵軍一一〇〇人をもって洪州(ホンジュ)を占領する。
 閔宗植を倡儀軍大将とする部隊は整然とした編制組織をもち、旧式とはいえ銃器をもっていたから、五月二一犬一七日、日本憲兵・警察隊と公州(コンジュ)鎮衛隊の攻撃にたいして頑強に抵抗、これをしりぞけて洪州城を守った。
 だが、漢城から急派された日本軍歩兵一個中隊、騎兵一個小隊を主力とする部隊の攻撃をうけ、三一日、激戦のすえ敗退、ゲリラ戦にうつった。
 しかし、その閔宗植も一一月に逮捕される。

崔益鉉の殉節

 閔宗植の蜂起とならんで有名な崔益鉉(チェイタヒョン)の蜂起もまた一九〇六年六月のことである。
 崔益鉉は名高い老儒者である。
 若いころ官途についたが、後年にはたびたびの高官就任の王命を固辞し、野にあって日本の侵略と開化運動を批判しつづけた。
 「日韓議定書」についで「第一次日韓協約」を強制され、侵略の危機が深まると、皇帝は再三、崔益鉉に協力を求めて官に就くことを命じたが、それも辞退した。
 そして、ようやく皇帝の招きに応じて上京すると、日本と対決する決意をうながす進言・上疏をくり返した。
 崔益鉉が漢城に在ることを嫌った日本は、彼を捕えて生地の京畿道抱川(ポチョン)へ送り、さらに忠清南道定山(チョンサン)に押しこめた(一九〇五年三月)。
 「第二次日韓協約」の強制調印を亡国条約と的確にとらえた崔益鉉は、皇帝に協約破棄、「五賊」処刑などを求めて上疏したが、一九〇六年三月、挙兵準備のため全羅北道泰仁(テイン)へうつった。
 六月、ついに挙兵の決意を表明、皇帝にその志を告げ、国権を回復する計画を述べた。
 義兵とともに上京して伊藤統監・長谷川軍司令官と会見し、日本の罪状を追及して協約を破棄させたい、というのである。
 また「棄信背義十六罪」の問罪状を日本政府に送った。
 そこでもいう。日本はしばしば韓国の独立・自主を明言してきたが、その信を裏切り韓国を不法に侵害した、と。
 その主なものとして甲申政変、日清開戦時の王宮占領、閔妃殺害にはじまり乙已条約にいたる一六項目を列挙し、日本が「棄信背義」を謝罪し、韓国支配をやめることを求め、そのうえで東洋平和のため韓日清三国の協力の必要を説いた。
 六月四日泰仁で決起した義兵は、全羅南道に踏み入り、兵をつのり、武器・食糧を集め、郡衙を襲って銃器を奪い、全羅南北道境界地帯を制圧した。
 だが、一週間後の一一日には、全州と南原(ナムウォン)の鎮衛隊に包囲された。
 崔益鉉は、“皇帝の軍隊と戦うことはできない”といって抗戦せず、みずから衣冠をただして縛についた。
 日本軍に引き渡された彼は、禁固三年の刑に処せられ、対馬厳原(いずはら)の警備隊の獄舎へ送られたが、日本軍隊長への敬礼、断髪、脱冠を拒否し、支給される食物もとらず抵抗の姿勢を崩さなかった。
 衰弱のはて、皇帝への遺疏をのこして命が尽きたのは一九〇七年一月一日。
 七三歳たった。

ハルバートのアメリカ派遣

 高宗皇帝は、多くの上疏が求めた協約破棄、「五賊」処罰などの意見を採納しなかった。
 補弼(ほひつ)する忠臣を排除され、日本軍の虜囚同然の身の上にある皇帝に意思の自由はなかったからである。
 皇帝にのこされた唯一の道は、密使を通じて協約の不承認と無効を諸外国に訴えることだけだった。
 外国の干渉をよびこむことによって、自国につかみかかろうとする侵略者の手をふりはらおうとしたのである。
 一八八二年調印の「朝米修好通商条約」第一款に、「若(も)し他国何(いずれ)か公ならず軽貌(けいばく=軽んずる)の事有らば、一(いつ)に照知を経て、必ず須(すべから)く相助け、中従(よ)り善く調処を為し、以て友誼の関切たるを
示すべし」という条文がある。
 朝鮮にたいし第三国の不当、強圧的な圧迫があったばあい、その通知に接すれば、アメリカは協力して「善為調処」する、ということを互恵的に約定したものである。
 「善為調処」の英訳は good offices (周旋)であり、mediation (仲介、居中調停)ではない。
 また、朝米条約に特有のものでもない。「日米修好通商条約」(一八五八年)、「清米天津条約」(一八五八年)、「日清修好条規」(一八七一年)などにもあり、朝鮮がアメリカについでヨーロッパ諸国とむすんだ修好通商条約にもそれぞれ記されていた。
 皇帝は、この条項にもとづいてアメリカの斡旋を期待した。
 アメリカをえらんだのは友好的な朝米関係を信頼し、公正な判断が下される、と考えたからである。
 要請を伝える使者にはハルバートがえらばれた。韓国高官派遣を避けたのは、日本の妨害を予想したためである。
 ハルバートは一八八六年朝鮮政府の招聘で来朝し、九一年まで教師を務めたのちいったん帰国、九三年に再来朝し、教育・宣教活動をおこなっていた。
 韓国に理解を示したアメリカ人である。
 アメリカ大統領にあてだ皇帝の親書を携えた彼が、ワシントンに到着したのは、協約が強制調印されたと同じ一九〇五年一一月一七日だった。
 ただちにルーズベルト大統領との会見を申し入れたが断わられ、ようやく会えたルート国務長官からは協力を拒否された。

アメリカへの密使たち

 皇帝はまた、駐仏公使閔泳贊(ミンヨンチャン)に密旨を下してアメリカに派遣し、意思の伝達をはかった。
 しかし、ワシントンに急行した閔泳現にたいするルート国務長官の回答も冷やかだった。
 韓国に好意的だった前駐韓アメリカ公使アレンに託した、アメリカ政府の協力と米英日三国による朝鮮共同保護要請も、実現不可能とみたアレンの中途での工作中止によって立ち消えとなった。
 すでに日本の韓国支配を承認していたアメリカは、密使たちの訴えに耳を傾けようとしなかった。
 密使たちがなしえたことは、強制調印された保護条約が無効であり、皇帝は不承認である、という高宗の意思をアメリカ政府に伝えるにとどまった。
 かつて甲申政変後の日朝間の調停依頼、日清戦争直前の日清両軍撤兵の斡旋依頼など、徒労に終わった経験があったのだが、朝米条約の「善為調処」にたいする韓国の過度の期待があった。
 条約をむすんだ欧米諸国がアジアの被侵略国の側に立つことは決してなかった。
 国を守る軍事力はなく、友好国はなく、皇帝を支える側近もいなくなった皇帝は、それでも秘密外交に活路を求めるしかなかった。
 高宗がすがる思いで差しのべた手をアメリカ政府はつき放した。

国書と親書

 ハルバート・閔泳贊・アレンを通じての対米工作が足ぶみ状態にあった一九〇六年一月、皇帝は海外に国書を送った。
 国書には、保護条約を皇帝は承認しておらず、主権の一部たりとも他国に譲与したことがないことを強調するとともに、世界の大国が五年間韓国外交を共同保護することを要望する、と記されていた。
 共同保護の内容は不明だが、日本の統監府開庁(二月一日)にさきだって、韓国外交権の列国による保障を要請したのである。
 国書を伝達したのは、中国にいた『ロンドン・トリビューソ』記者ストーリーである。
 彼は上海で亡命中のある韓国高官から依頼され、漢城の宿所で、秘密裏に赤い国璽のある国書を受けとった。
 身を挺して中国に渡り、芝罘(シーフー)駐在イギリス総領事に国書を手わたし、密旨をはたした。
 国書がイギリス政府に届いたかどうかあきらかでないが、ストーリーの記事と国書は、一九〇六年一二月六日付けの『トリビューン』に掲載され、さらに一九〇七年一月一六日の『大韓毎日申報』に国書が転載され、日本政府をあわてさせた。
 皇帝の懸命の「主権守護」秘密外交については、近年、金基夾(キムギソク)ソウル大副教授によるコロンビア大学貴重図書・手稿図書館の「金竜中(キムヨンジュン)文庫」などの海外資料調査で、あきらかにされつつある(金基夾「光武帝の主権守護外交・一九〇五~一九〇七年――乙巳勒約の無効宣言を中心に」)。
 その全貌が解明されるのもそう遠くはあるまい。
 つぎの一九〇六年六月二二日付けの皇帝親書も、金基夾副教授により「金竜中文庫」で八七年ぶりに「発見」された文書である。
 皇帝は、対米工作に失敗して韓国へもどったハルバートを「特別委員」に任命して各国との協議を「委任」し、韓国と国交のあったアメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・オーストリア=ハンガリー・イタリア・ベルギー・清国の九ヵ国元首にあてた親書を託した。

高宗皇帝の親書発見を報ずる1993年10月24日付け『東亜日報』

 親書は、不法に締結された協約が無効であり、皇帝として承認しなかったことを訴えたうえで、駐韓公使館の再設置、パーク万国裁判所へ提訴したばあいの協力を要請したものである。
 万国裁判所とは、一八九九年の第一回万国平和会議で作成された「国際紛争平和的処理条約」(一九〇七年修正のうえ署名、一九一〇年発効)にもとづく常設仲裁裁判所のことだろう。
 ハルバートは翌一九〇七年五月漢城をたち、シベリア経由でヨーロッパにむかった。
 七月はじめにパリに現われ、パークではつぎに述べる三人の韓国密使に会ったのち、七月一九日にニューヨークに着いた。
 しかし、同日、皇帝退位を知ったハルバートは、親書が無効になったと判断し、任務を中止する。
 親書が各国元首に届かなかったことは、親書原本の多くが「金竜中文庫」に現存することからもあきらかである。

ハーグ密使

 一九〇七年六~一〇月、第二回万国平和会議がパークで開催された。提唱者はロシアの二コライ二世で、四四ヵ国の代表が参加した。
 韓国皇帝はこの会議に代表を送り、日本の国際法違反行為を訴え、国権回復の理解をうるため、元議政府参讃李相萵(イサンソル)、前平理院検事李儁(イジュン)を派遣した。
 二人の密使はペテルブルグで前駐露公使李範晋(イボムジン)を通じてニコライ二世に皇帝の親書を提出したのち、李範晋の子息で公使館参事官の李韋鐘(イウイジョン)をともない、六月二四日パークに到着した。
 彼らは会議議長であるロシア代表のネフリュードフをはじめ、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ代表を訪ねて日韓協約が不法、無効であることを訴え、皇帝の委任状をもつ三人の会議出席を要請した。
 しかし前年、新任の韓国駐在ロシア総領事にたいする認可状を日本天皇が交付するか、韓国皇帝が交付するかという問題の日露交渉で、総領事の委任状および韓国の平和会議招待状を「日本皇帝陛下」あてとすることを了承していたロシアは、三人の密使にたいする韓国皇帝の委任状を認めなかった。
 参加を認められなかった彼らは、オランダのジャーナリストであるステアドが主宰する国際協会で李韋鐘が演説する機会をえたのと、アピール文の配布にとどまった。李儁は抗議の自殺をしたと伝えられるが、病死説もある。
 日本政府は、五月ごろから万国平和会議への密使派遣の情報をえていたが、密使をハルバートと誤認したため、ハーグ派遣密使の情報をとり逃した。
 事後も両者を関連づけてハルバート主謀説をとり、それが研究史にも反映されているが、正しいとはいえない。
 両者はそれぞれ別個の任務を帯びていた。パーク密使が国際的世論の喚起であるのにたいし、ハルバートは万国裁判所への提訴という具体的行動計画をもっていた。
 皇帝は国際仲裁機関に着目し、仲裁裁判によって日韓協約の法的解決をはかろうとしたのである。
 しかし、世界の風潮が国家間紛争を国際裁判・調停で解決することを求める方向にむかっていたとはいえ、制度的にはいかにも未確立だった。
 日本の侵略に対抗する軍事力をもたなかった韓国皇帝は、アメリカへの周旋または仲介要請→列国の韓国共同保護要請→国際裁判所への提訴と、あらゆる方法と機会を探し求めたが、いずれも不発に終わった。
 それでも皇帝の日韓協約不承認の態度は一貫して変わることがなかった。

   三 植民地権力の成立-内政権をも掌握する top

統監府の建言とは

 一九〇五年(明治三八)一二月二〇日、勅令二六七号で「統監府及理事庁官制」が公布された。

 「京城」に設けられる統監府の長である統監は、天皇に直隷するものとされ(第二条)、
 韓国において日本官憲がおこなう政務の監督(第三条)、
 韓国守備軍司令官への兵力使用の命令(第四条)、
 韓国政府にたいし条約義務履行、執行の請求(第五条)、
 韓国政府傭聘の日本人官吏(財政・外交・宮内府・軍部・警察顧問等)の監督(第六条)、
 統監府令の公布(第七条)、
 条約または法令に違反する、所轄官庁の命令・処分の停止あるいは取り消し(第八条)等、
 強大な権限が統監にあたえられた。
 しかも、これらの執行にあたっては日本政府の承認を必要とせず、内閣総理大臣をへて天皇に上奏し、裁可をえればよいとされた(第二条)。
 つまりは統監は天皇名代として韓国に君臨したのである。
 ただし、「第二次日韓協約」第三条に、「統監は専ら外交に関する事項を管理する為め京城に駐在」とあることから、韓国外交権も統監が掌握したように理解するむきもあるが、誤りである。
 統監が統轄する外交事務の範囲は、韓国における外国領事館および外国人に関する事項の監督と、韓国政府が扱う外国人関係事務の監督にかぎられた。
 国家間の外交問題は、韓国から外交権行使の移譲をうけた日本政府外務省と日本に駐在する外国代表とのあいたで処理される。
 統監府が扱う外交事務を「地方的事務」にとどめ、韓国外交権の行使を「東京外務省に於て掌理」しようという小村外相の意見がとおったのである。

竣工直後の統監府

植民地権力の成立

 保護条約には、保護をあたえる国が被保護国の内政にどこまで干与しうるのか、という法的問題があったはずである。
 韓国皇帝に保護条約受諾を強要したとき、伊藤博文は、「内政、即ち自治に至ては、依然として陛下御親裁の下に、陛下の政府之を行うて、少しも従前と異なる所を見ず」と、内政不干渉を確約した。
 それが虚言であることは、調印に際しての文言修正をめぐるいきさつにすでにあきらかであった。
 協約文に内政不干渉を明記することを求めた韓国側の要求に応ぜず、はぐらかしたのである。
 「第二次日韓協約」には内政干渉の規定はない。具体的事項を表記したばあい、それが制限的に作用することを警戒したのだろう。
 ただし、第四条で先行協約の有効を確認していたから、韓国内政の指導・監督の権限をひきつづき保持していた。
 東京帝国大学法科大学の立(たち)作太郎教授(国際法)は外務省への報告で、保護国の内治監督は第三国にたいする保護を与える国の責任である、という論理で内政干渉を正当化し、フランスのカンボジア・チュニジア・安南・マダガスカルの保護政策を例示した。
 こうして韓国内政全般にわたる監督と支配のための植民地機構として、統監制が出発した。
 初代統監は伊藤博文が任命された。
 一九〇六年二月二〇日、東京をたった伊藤が、伊勢神宮に詣でたのち、下関・釜山をへて漢城に着いたのは三月二日である。
 統監府はすでに二月一日、景福宮(キョンボククン)まえの閉庁した外部衙門を臨時庁舎として開庁していた。
 統監府はその後、さらに内政監督権を強化した。その肥大傾向は韓国主権の失墜傾向と反比例する。
 一九〇七年六月におこなわれた内閣官制改編では、皇帝権限の圧縮、宮内府の格下げをはかり、内閣総理大臣(それまでの議政府参政大臣にかえて権限を強化した)に李完用をすえて傀儡(かいらい)政権を発足させた。
 そのうえで、つぎに述べる「第三次日韓協約」を利用して、一九〇七年九月に統監府と改組し、統監のもとに副統監-総務長官をおくとともに、韓国内部に送りこんだ日本人次官を統監府参与官とした。
 こうして韓国行政の細部にいたるまで、統監が直接指導・監督できる体制が構築されていく。

皇帝の強制譲位

 国権横奪の不法を訴えるため、皇帝がハーグ万国平和会議に密使を送った、という情報をえた伊藤統監は、一九〇七年七月三日、林董外相あての電報でつぎのようにいう。
 「此際、韓国に対して局面一変の行動を執るの好時機なりと信ず。即ち……税権、兵権又は裁判権を我に収むるの好機会を与うるものと認む」と。
 短い電文のなかで二度も絶好の機会である、とくり返したところに、伊藤の興奮ぶりがうかがえる。
 その四日後の七日、伊藤はふたたび林外相に電報を送り、対韓処理方針の政府決定をうながした。
 ただちに閣議がひらかれ、つぎのような要綱案を決定し、一二日天皇の裁可をえた。

 ①高宗皇帝の皇太子への譲位、
 ②皇帝・政府の政務決裁に統監の副署を必要とさせる、
 ③統監は「副王」あるいは「摂政」の権限を有するものとする、
 ④主要部(省)の大臣または次官に日本政府派遣の官僚をあてる、という内容である。
 皇帝の譲位問題について元老たちの多数意見は「否」であったが、閣議は実行を韓国政府にまかせることを条件に皇帝譲位の方針をとった。
 一八日、林外相が漢城へ入京した。
 譲位の実行責任を負わされたのは李完用とその内閣である。日本の忠実な犬となった李完用は、一六日夜、一七日の二度にわたって皇帝に譲位のやむなきを奏請したが、皇帝は激怒してこれを拒否した。
 一八日夜、閣僚一同のかさねての譲位奏請にたいしても、皇帝は決意をのぞかせながら、内閣も日本の要求をしりぞけるよう求め、決定を延期するとした。
 窮した李完用首相は、林外相の入京を告げ、ことは急を要すると説いたので元老の意見を徴することになり、その結果、一九日午前三時、詔勅が発布された。

純宗の即位強行

 詔勅は、高宗四四ヵ年の治世の困難を回顧しながら、最後に、これまでの「伝禅」の例にのっとり「今茲(ここ)に軍国の大事を皇太子をして代理せしむ。儀節は宮内府掌礼院をして磨練挙行せしめよ」と述べている。
 「伝禅」とは皇位を譲るという意味だが、高宗皇帝は「譲位の詔勅中、皇太子として代理せしむとの文意は、一時摂政を為さしむるに在りて譲位にあらず」と主張していた。
 皇帝退位ではなく、皇太子純宗(スンジョン)の代理政を承認したのである。
 あくまで帝位交替を求める日本側は、李完用に命じて、二〇日朝、慶雲宮の中和殿で旧帝・新帝欠席のまま譲位式(権停礼=クォンジョンリエ)を挙行し、数日後には高宗にたいして「太皇帝」の尊称を贈る詔勅をださせて、譲位を既成事実化した。
 虚構の譲位式場の窓からは、群衆が焼き打ちをかけた李完用の邸宅の火煙が望見されたという。
 二一日夜には、侍衛隊の陰謀から宮中を守るという口実で、日本軍歩兵一個大隊を王宮に進入させ、譲位に反対していた宮内府大臣朴泳孝や内大臣兼侍従院喞李道宰らを逮捕し、宮廷内の反対派を沈黙させた。
 「新皇帝」として大韓帝国最後の皇帝となる純宗の即位式は、一ヵ月後の八月二七日におこなわれた。
 また一一月には、旧帝の影響から新帝を遮断するため、純宗とその皇太子となった英親王垠(ウン)は高宗の住む徳寿宮(トクスグン)(慶雲宮を改称)から昌徳宮(チャンドククン)に移された。

第三次日韓協定

 西園寺公望首相が伊藤統監に指示した「対韓処理方針」は、「帝国政府は現下の機会を逸せず、韓国内政に関する全権を掌握せんことを希望す」と述べていた。
 それを具体的に展開したのが前述の統監による法令制定等の事前承認制と統監の「副王・摂政」体制である。
 すでに外交権を奪われて独立を失った韓国が、いままた内政権を失えば、主権国家の実体を欠くことになろう。
 それにもかかわらず、この段階では日本政府は韓国合併を選択しなかった。
 元老・大臣にたいする、韓国皇帝が日本の天皇に「譲位」することの可否についての質問に、多数は「否」とした。
 合併推進派と目される元老山県有朋、陸軍大臣寺内正毅も「今日は否」と答えた。
 韓国合併について国際的同意をとりつけられない、とみたためである。
 大韓帝国の名をのこしつつ、日本が韓国内政権を全面的に掌握することを目的に作成されたのが「第三次日韓協約」(韓国・北朝鮮では丁未(チョンミ)七条約と通称。全文は Index付録参照)である。
 協約案は、渡韓した林外相と伊藤統監が作成したが、調印された正文との違いは、原案冒頭にあった、統監による詔勅の事前諮詢規定がなくなっただけである。
 皇帝が発布する詔勅を統監が検閲する、というあからさまな侮蔑を条約文にとどめることに気がひけたのだろう。
 七月二四日、伊藤から李完用首相に協約書がわたされ、その日のうちに調印された。
 また、協約調印と同時に、非公表の覚書が伊藤統監と李完用首相とのあいだで調印された。
 覚書は協約にもとづき、つぎの事項を漸次実施するとした。

 ①大審院・控訴院・地方裁判所を新設し、その主要ポストに日本人を任用する。
 ②監獄を地方裁判所所在地などに新設し、典獄(刑務所長)に日本人を任用する。
 ③韓国軍隊を整理する(後述)。
 ④韓国政府傭聘の顧問、参与官を解傭する。
 ⑤韓国各部次官、内部警務局長を日本人とするほか、地方庁官吏に日本人を任命する、などの詳細な規定である。
 協約第二条は、立法・行政権の根幹を統監が直接掌握することを規定したが、覚書では、司法・行政権の行使をつかさどる高等官の部署を日本人が独占することを記し、さらに軍隊解散を約させた。
 調印にさきだち、伊藤は韓国閣僚に協定事項を提示したところ、ふたりの大臣が反対したが、伊藤は耳をかさなかった。
 締結交渉なしの協約、覚書の押しつけである。
 譲位の詔勅と同時に、皇帝から治安維持の任務を「委任」する勅旨をひきだした伊藤は、大臣であろうと、民衆であろうと、反対者をすべて武力弾圧することをきめていた。
 二一日に混成一個旅団の急派を要請した伊藤は、回答の遅延にいらだっていた。
 「我に於て極端手段を執るの已むなきに至るやも計られず」とみた林外相も派兵の必要を強調し、「若し此出兵を行うに於て時機を失するときは、或は無益の血を流し、外間(外国)の非難を招くに至るなきやを恐る」と西園寺首相に督促した。
 二四日、歩兵第一二旅団派遣の報が届いた。
 新皇帝の玉座に座らされた純宗は、一八九七年の「毒茶事件」(親露派の皇帝弑虐陰謀。アヘン入りコーヒーを皇太子だった純宗が飲んだとされる)で知的障害をきたし、判断能力を欠いていた。
 純宗がかたちだけの皇帝に推戴されたと同じように、この国にのこされた主権もかたちばかりのものとなった。

   四 高揚する義兵闘争 top

軍隊解散の詔勅

 秘密覚書第三項は、「下記の方法に依りて軍備を整理す」と記し、

 ①皇居守衛のための一個大隊を除き、その他の軍隊を解散する。
 ②韓国軍隊にとどまる必要のある者をのぞき、士官は日本軍に付属させる。
 ③日本が韓国士官養成機関を設ける、とした。
 武力抵抗素となる軍隊の牙(きば)を抜くことがさしあたりの狙いであるが、将来的には日本軍に隷属する韓国人士官養成の意図もうかがえる。
 軍隊解散の詔勅は、覚書調印から一週間しかただない七月三一日夜、発布された。
 詔勅は 「軍制の刷新を図り、士官の養成に力を専らにし、他日徴兵法を発布し、強力なる兵力を具備せん」がため、現在の軍隊を解散する、と述べている。
 徴兵制施行にもふれていることから推測すると、植民地軍隊の創設も考えられていたのではないかと思われる。
 この詔勅は内閣が起案し皇帝が裁可・公布した形式をふみながら、実は伊藤が起草した。
 『週刊朝日』一九八二年一〇月一日号に伊藤自筆の詔勅の下書き一枚が写真入りで紹介されたことがある。
 前述のように、統監への詔勅発布の事前諮詢は「第三次日韓協約」の原案にはあったが、成文化の過程で消去された。
 ましてや統監自身が詔勅を起草することはありえないはずである。
 いまや伊藤が韓国皇帝だった。

解散軍隊の叛兵

 詔勅発布の翌八月一日午前一〇時、練兵場で解散命令が下達されることになった。
 廃止されるのは侍衛隊・騎兵隊・砲兵隊・工兵隊・地方鎮衛隊などで、六〇〇〇人余の将兵が解散の対象となり、宮中侍衛の歩兵一大隊六四〇人だけがのこされた。
 このしらせを受けた歩兵第一連隊第一大隊長朴星煥(パクシンファン)の抗議の自殺をきっかけに同大隊兵卒が蜂起し、呼応した第二連隊第一大隊の将兵も在営中の日本人教官を襲撃した。
 そのため機関銃二丁を携帯して出動した日本軍歩兵大隊とはげしい戦いとなった。
 交戦二時間、ようやく日本軍は兵舎を占領したが、韓国兵は武器をもったまま兵営を出て市街戦にうつった。
 兵士の反乱は軍隊解散だけがその理由ではない。
 すでに譲位の詔勅がだされた七月一九日夕、侍衛隊第三大隊の兵士四〇人が二隊にわかれ、一隊は鐘路巡査派出所に発砲して破壊し、他の一隊は鐘路の大通りで警戒中の警部、巡査四人を射殺する事件がおきている。
 このとき、第二大隊の兵士数人も兵営を出て警務庁に発砲した。
 さらに同夜には宮中に乱入し、売国的な国務大臣殺害をはかる計画があったといわれる。
 こうした反日武装決起の兆しをみた伊藤は、「目下、京城には約六千人の韓国兵ありて、何時蜂起するやも計られざるに付、其武器を取揚ぐるを要す」と判断し、軍隊解散を命じたのである。
 叛兵の翌夜、皇帝の交替を印象づける、もうひとつの儀式がおこなわれた。
 改元式である。
 あたらしい年号は隆煕(ユンヒ)だった。

丁未義兵

 侍衛隊にはじまる軍隊解散は地方鎮衛隊におよび、九月はじめにかけて各地の鎮衛隊が解散させられた。
 しかし、解散命令をこばみ、民衆とともに決起した鎮衛隊がある。
 そのひとつは江原道原州(ウォンジュ)鎮衛隊である。ここでは軍隊解散の知らせがとどくと、閔肯鎬(ミンタンホ)・金徳済(キムトクジェ)のふたりの将校が、銃器弾薬を兵士や集まった人びとに分配し、大隊長を脅迫して漢城へ集団上京することにした。
 また、原州の日本人居留民、警務分遣所を襲い、鎮圧のため忠州(チェンジュ)から出動した日本軍守備隊と交戦して寄せつけなかった。
 鎮衛隊大隊長の逃亡後は、兵営を脱した将兵が小集団にわかれて江原道・忠清北道に散り、義兵を組織してゲリラ戦を展開した。
 これを制圧するため、朝鮮駐箚軍司令官はつぎつぎに「膺懲(ようちょう)的討伐」の軍隊を各地に送り殲滅(せんめつ)をはかったが、目的を達成できなかった。
 朝鮮駐箚軍司令部編『朝鮮駐箚軍歴史』はつぎのように述べている。

 暴徒討伐は尋常の戦闘と其の軌を同うせず。毫(ごう)も抵抗力なきと同時に、之を殲滅(せんめつ)すること亦容易ならず。
 蓋(けだ)し彼等暴徒は其の服装の良民と異らざるのみならず、時、利ならざれば直(ただち)に武器を投じて良民に互し、偏(ひとえ)に我鋭鋒を避けんとす。
 其の隠現出没の巧妙なる、討伐隊をして殆(ほとん)ど奔命(ほんめい)に疲れしむるの結果に出でしは遺憾に堪えざる所なり。
 もうひとつの反乱は、水原(スウオン)鎮衛隊江華島分遣隊でおきた。
 鎮衛隊将校劉明奎(ユウミョンギュ=柳明啓ともいう)が、江華郡守と親日団体の一進会支部長を殺傷し、分遣隊員に決起をよびかけたのが契機という。彼らは武器・弾薬庫を破り兵器を奪った。

 日本軍は八月一〇日、機関銃二丁をもつ歩兵一個小隊を漢城から派遣し江華島に上陸させたが、八〇〇人にふくれ上がった義兵の抵抗ははげしく、さらに二個中隊、工兵一個小隊を増派して鎮圧にあたり、一一日、ひとまず制圧した。
 郡守を殺害した「首魁(しゅかい)」の劉明奎は日本軍との交戦まえに捕えられ、衛兵所に留置中、「抵抗」したという理由で銃殺された。
 軍隊反乱は、干支(えと)でいえば丁未(チョンミ)にあたる一九〇七年義兵の火付け役である。
 日本にたいするうらみと伊藤統監と手をむすんだ傀儡政権にたいする憤激はどこでも飽和点に達していた。
 義兵闘争が全国的に広がる。
 朝鮮駐剳軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』によれば、一九〇七年から併合の一〇年にいたる四年間に交戦回数二八一九回にのぼり、一四万人の義兵がこれに参加した。
 このうち一万七六八八人の義兵の血が山野を染めた。とくに一九〇八年がピークをなす。
義兵将李麟栄

 蜂起した義兵を指導したのは旧軍人とはかぎらない。偶発的な局地的蜂起でもない。
 初期義兵以来の抗日組織が地下茎のように張りめぐらされており、抵抗の経験をつんだ人びとが各地に隠れて機会をうかがっていた。
 一九〇九年六月、忠清北道永同(ヨンドン)郡黄澗(ファンガン)面で日本軍憲兵隊に逮捕された一三道倡義大将李麟栄(イインヨン)もそうしたひとりである。
 彼は甲午農民戦争のとき柳麟錫(ユインソク)らと兵をあげたことがある儒者だった。
 その後、慶尚北道聞慶(ムンギョン)で田二斗落(トーラク)、畑一四斗落(一斗落は種子一斗をまく面積)を所有して農業に従事していたが、一九〇七年八月、江原道原州から義兵五〇〇人を率いて来た李九載(イクジェ)、李殷贊(イウンチャン)に共鳴し、義兵将として参加したのである。
 彼は江原道で兵を集め、一万人を率いる関東倡義大将となった。
 関東とは大関嶺の東にあたる江原道、倡義とは義を唱えるという意味である。
 一二月、漢城上京をめざして京畿道楊州に旧兵士三〇〇〇人をふくむ約一万人の義兵が集まった。
 全羅・湖西(忠清道)・嶋南(慶尚道)・鎮東(京畿道、黄海道)・関東(江原道)・関西(平安道)・関北(咸鏡道)の各倡義軍の連合大部隊である。
 李麟栄はその全軍の大将にも推され、漢城進攻を指揮した。
 彼らは、漢城の各国領事館に書を送り、“日本が約束を破って二〇〇〇万の同胞を滅ぼし、「三千里疆上(きょうど)」を奪いとったので倡義する”と通知し、義兵軍を国際法上の交戦団体として認めるよう訴えた。
 先遣隊二〇〇〇大は漢城の東大門外三里の地点にまで迫ったが、日本軍の反撃をうけ、後続部隊の到着まえに敗退した。
 一年半後に捕えられた李麟栄は、一九〇九年六月一九日から三日間、朝鮮駐剳憲兵隊本部で取り調べをうけた。
 死を決意した彼は悪びれず堂々と尋問に答えている。
 問 京城へ侵入する目的なりしや。
 答 統監府に交渉して侵入の上は死を決し、勝敗を決せん覚悟でありました。
 問 如何なることを交渉せんと思いしか。
 答 馬関条約(日清講和条約)通り、韓国の独立及皇帝の安全をはかることであります。
 問 汝(なんじ)の主とする倡義の目的はそれなるや。
 答「復我国権、鞏固(きょうこ)独立」で、然る後奸臣を殺戮(さつりく)します。夫(そ)れ以上にはありませぬ。

義兵闘争関係図

 李麟栄は起訴され、絞首刑の判決をうけた。
 刑法大全第一九五条「政府を傾覆し、其他政事の変更を為さんとして乱を為す者は絞に処す」という内乱罪に該当した。李麟栄四二歳。

弾圧の体系

 皇帝譲位、「第三次日韓協約」締結当時の朝鮮駐箚軍の兵力は一個師団である。
それでは不足とみた伊藤統監が混成旅団増派を要請したことは前述したが、ひきつづき一九〇七年一〇月騎兵一個連隊、翌年一月歩兵二個連隊が追加された。
 また一九〇七年一〇月、憲兵隊の編制を改正して明石元二郎少将を隊長とする韓国駐箚憲兵隊を設け、統監のもとに属し、軍司令官の指揮をうける軍事警察機構を拡大、確立した。
 翌一九〇八年六月創設の韓国人憲兵補助員制度を加えると、同年末の憲兵人員は将校以下二三四七人、憲兵補助員四二三四人に達する。
 さらに一九一〇年には併合にさきだって、警務機関統一の名のもとに韓国警察事務の日本への全面委託による警察官署と憲兵隊との統合をおこない、最高責任者である警務総長は韓国駐剳憲兵隊長、各道警務部長は各道憲兵隊長が兼務して、韓国警察権を奪い取った。
 軍事警察をうけもつ憲兵が司法、行政警察をも担当する憲兵警察制度をつくりあげた。

地域ぐるみの抹殺を図る

 こうした弾圧機構の整備拡充を背景として、義兵闘争の高揚に手を焼いた日本軍は、しらみつぶしの討伐をおこなった。
 義兵のゲリラ戦に苦しんだ軍司令官は、「責を現犯の村邑(そんゆう)に帰せしめ、部落を挙げて厳重の処置に出づべきを暁諭(ぎょうゆ)」し、義兵活動を地域ぐるみ抹殺することをはかった。
 たとえば、義兵の拠点であり、町を囲む山地に散兵壕をめぐらし、たびたびの交戦で日本軍を苦しめた忠清北道提川では、討伐にむかった隊長が「将来の禍根を艾除(かいじょ)する為め、村落の大部を焼夷」した。
 その後、取材のため焦土と化した堤川を訪れたイギリスの『デイリー・メール』記者マックンジーは、あまりのひどさに驚きをかくさず、『朝鮮の悲劇』に「堤川は地図の上から消え去った」と記した。
 このような根こそぎ弾圧は、仕掛け人である伊藤統監さえ、「苛酷に失する軍事命令あり」として民心の離反と外国の批判をおそれた。
 一九〇六年八月から英字新聞『コリア・デイリー・ニース』、ハングル新聞『大韓毎日申報』を発行し、日本の対韓政策を批判してきたイギリス人ベセルは、一九〇七年九月一八日付けの『大韓毎日申報』に、日本軍が義兵鎮圧に「文明の方式によらず、残忍野蛮の挙措(きょそ)」をとったと報ずるなど、蛮行を暴露し、はげしく非難した。
 以前からベセルの言動に困惑しながらも、イギリス人であるため、その対策に窮していた日本は、イギリス政府に照会し、ベセルの処置をイギリス領事館の略式裁判にゆだねることになった。
 ペセルはイギリス枢密院令にもとづき、「教唆煽動」の罪にあたるとされ、三週間の禁固、保釈金二〇〇〇ドルの処分をうけたが、なお彼の良心は筆をまげなかった。

「南韓暴徒大討伐作戦」

 日本軍の執拗(しつよう)な討伐のため、義兵運動の環はせばめられ、活動拠点を山間僻地にうつさざるをえなかった。
 後退傾向のもとでもっとも活発なゲリラ活動を広範囲にわたって展開したのが、南韓とよばれる全羅南北道の義兵である。
 一九〇八年から○九年前半にかけての道別義兵交戦状況をみると、全羅南北道は日本軍との交戦回数、義兵数ともに他道のそれを大きくうわまわっている。
 彼らの「行動たるや頗(すこぶ)る巧にして」官憲の隙をついて銃器・弾薬・財貨を略取し、巡査派出所を襲撃し、居留日本人やその使用人にテロを加えた。銃も古い火縄銃を雷管式に改造し、射撃効果をたかめた。
 このため日本軍の討伐は、「〔いかに〕日夜掃蕩(そうとう)に努力せしと雖(いえども)、其効果顕
著ならざりし」状態にとめおかれた。
 そこで日本軍は「効力微少なりし大討伐」の方式を変え、「攪拌(かくはん)的方法」をあみだした。
 それは討伐隊を警備隊と行動隊とにわけ、警備隊が包囲陣形をしき、行動隊が包囲線内の「攪拌的捜索」と奇襲をくりかえし、さらにあぶりだされて沿岸島嶼(とうしょ)へ逃走する義兵を海軍の水雷艇・警備船がとらえるという殲滅(せんめつ)作戦である。
 南部守備管区司令官渡辺水哉少将は、一九〇九年九月一日から四〇日間にわたり、「暴徒大討伐」作戦を展開した。
 派遣兵は歩兵二個連隊と工兵一個小隊の大がかりな部隊編成で、「攪拌的方法」による一網打尽の検挙を狙った。
 討伐隊は包囲地域の面長(村長)、洞長(部落長)をよびだし、男子名薄あるいは民籍(戸籍)と男子一人ひとりをつきあわせ、疑わしければ義兵とみなす、という乱暴なやり方で被疑者を逮捕した。
 変装隊、密偵を放っての情報収集も効果をあげたという。
 この「暴徒大討伐」作戦により、沈南一(シムナムイル)、安桂洪(アングェホン)、姜武京(カンムギョン)、全海山(チョンヘサン)らの義兵将が逮捕、処刑され、二〇〇〇人以上の義兵が死傷あるいは捕虜となった。
 さしもの全羅道義兵も退潮を避けられなかった。
 こうした日本軍の弾圧に弾圧をかさねた討伐戦により、併合までに義兵勢力は弱められた。
 併合後の一九一〇年一一月以降も江原・忠清・慶尚比道の道境にある小白山脈付近と黄海道で、残る義兵の掃討戦がおこなわれた。
 国内における抗日闘争が困難になった義兵たちは、鴨緑江(アムノクカン)、豆満江(トウマンガン)を越えて間島(カンド)、沿海州へ移り、埋み火のように深く燃えつづけて三・一運動(一九一九年)後の大韓独立軍に伝統を伝えた。

第六章 韓国併合への道

 一 保護か併合か――伊藤博文の「改宗」
 二 併合の条件づくりがすすむ
 三 「韓国併合条約」の論理
   一 保護か併合か――伊藤博文の「改宗」

併合論の台頭

 ハーグ密使事件を契機として、日本の対韓政策があらたな段階を迎えようとしていた一九〇七年(明治四〇)七月一四日、対外強硬派の衆議院議員河野広中・小川平吉。
 国家主義団体玄洋社(げんようしゃ)の頭山満(とうやまみつる)ら六人は、建言書を政府に提出した。
 その意見は、“韓国皇帝に主権を日本に「禅譲」させ両国が合併する”という第一案(合併説)と、
 “現皇帝である高宗を譲位させ、統治権を日本に委任させる”という第二案(委任説)を示し、
 第一案を「上策」とするが、それが不可能な場合でも第二案をかならず断行すべきである、というものである。
 河野・小川らが所属した猶興会(ゆうこうかい)は、日露戦後経営の膨張予算批判、政界刷新を暘ぶ革新派政党であったが、対外問題では強硬論を掲げていた。           関係略年表(6) 明治42~43

1909(明治42、隆熈3)年 1月、韓帝地方巡幸、伊藤統監陪従(~2月)。2月、大竹貫一代議士、統監政治批判演説。4月、伊藤統監、韓国併合に同意、桂首相・小村外相と実施方針協議。6月、伊藤統監辞任、曽禰荒助統監就任。7月、閣議、韓国併合方針決定。韓国司法・監獄事務委託に関する日韓覚書調印(法部廃止)。韓国中央銀行に関する日韓覚書調印。軍部廃止。9日本軍、全羅南道方面の義兵「討伐」作戦開始。満州5案件に関する日清協約調印。10月、伊藤博文、ハルビンで安重根に射殺される。12月、一進会、皇帝・統監に「韓日合邦」上奏文・上申書提出(却下される)。大韓協会など、一進会非難・併合反対運動を展開。李完用、李在明に刺され負傷。
1910(明治43、隆熈4)年 2月、小村外相、在外使臣に韓国併合方針を伝え、各国の反応を打診。3月、安重根、旅順で処刑。5月、寺内正毅を陸相のまま統監に任命(7月23日着任)。6月、閣議、併合後の韓国施政方針決定。韓国警察事務委託に関する日韓覚書調印(憲兵警察制)。7月、第2回日露協約調印。閣議、併合条約案等を決定。8日本政府、イギリスにたいし、併合後の関税据え置きを表明。寺内統監、李完用首相に併合に関する覚書を手交(16日)、韓国閣議で併合条約調印を了承(18日)。枢密院会議、併合条約案を可決(22日)。韓国併合に関する条約調印(22日)。公布(29日)、即日施行。韓国併合に関する宣言発表(29日)。9月、朝鮮総督府官制公布。11月、喜田貞吉述『韓国の併合と国史』刊行。
 憲政本党も韓国処分について政府の「勇断」を求め、山県・桂系の大同倶楽部もまた「断乎たる処置」を要求した。
 新聞・雑誌も事件を好機ととらえ、対韓強硬措置を説く論説や伊藤統監の軟弱な懐柔政策の責任を問う意見であふれた。
 朝鮮総督府編『朝鮮ノ保護及併合』は「我が国上下輿論(よろん)沸然として鼎(かなえ)の湧くが如く、或は新聞に、演説に併呑を論じ、合邦を説くこと盛なり」と伝えている(平田賢一「「朝鮮併合」と日本の世論」)。
 西園寺首相は、韓国へ派遣した林董(ただす)外相にあてて、出発後の国内世論が「意外に強硬」に傾いていることを承知されたい、と通知した。

伊藤の保護国論

 しかし、伊藤統監は強硬論に耳をかたむけず、合併論をしりぞけた。
 伊藤は統治の実権を掌握しながらも、韓国閣僚に日本人を送りこむようなことはせず、傀儡(かいらい)政権を持続させた。
 持論の保護国としての韓国支配を、よりいっそう徹底しておこなおうとしたのである。
 「第三次日韓協約」調印翌日の統監府幹部にたいする談話のなかでも韓国合併論にふれ、それは日本に「非常の負担」をかけることになるので「今更(いまさら)論議の余地なしと考」えると、はっきりと合併を否定した。
 記者会見でも伊藤は、日本の政策は韓国を富強ならしめ、「独立自衛」の道をたて、「日韓提携」するのが「得策」である、と述べている。
 さらにつづけて合併問題に言及し、「合併は却(かえ)って厄介(やっかい)を増すばかりで何の効なし」と語り、合併論を批判した。
 「厄介」とは、外国の反対や批判をうけかねないという意味だろう。
 伊藤は統監就任以来、しばしば韓国の「独立富強」を口にした。
 保護の名における韓国内外政の主権侵奪と韓国の独立とが矛盾なくむすびついているのは、韓国は自力では独立することはできないので、日本が韓国に保護をあたえ独立させている、という思い上がった考えによる。
 韓国の独立をおびやかし主権を蚕食しているのが、ほかならぬ日本であることの自覚をもたない伊藤は、「独立富強」の名分をふりかざすことによって限りなく侵略をしつづけた。
 したがって名分を捨てる併合は避けたいのである。
 伊藤はそのような保護国論者だった。

保護国経営

 「第三次日韓協約」強制締結以後、伊藤統監は保護国としての韓国の身丈に合わせ、かたちだけは「近代」に似せた国家改造政策をつぎつぎに打ち出した。
 イギリスのエジプト占領下の経営をになったクローマー提督の事業を範としたといわれるそれは、日本の監理・指導・保護による韓国の「自治」振興政策とよばれる。
 第一は司法制度整備である。東京帝国大学教授・法政大学総理梅(うめ)謙次郎を政府法律顧問として招き、法典調査局を設けておこなった法典編纂のほか、法官養成、裁判所・監獄の新設などが急がれた。
 法治国家としての体裁を整え、それまでに韓国が諸外国とむすんでいた不平等条約中の治外法権の撤廃を伊藤はめざしていた。
 第二は韓国中央銀行の設立である。一九〇五年以来、日本の第一銀行がはたしてきた韓国の中央発券銀行としての業務を停止し、一九〇九年あらたに中央銀行としての韓国銀行(一一年朝鮮銀行と改称)を設置した。
 第三は教育振興である。韓国が儒教一辺倒の教育からぬけだして実用的な国民教育の方針を掲げたのは、一八九五年の甲午改革における教育立国宣布の詔勅によるが、依然、民衆教育の中心は私塾である書院や寺子屋のような書堂(ソダン)での儒教的小宇宙の教育であり、近代教育からへだたっていた。
 伊藤は、東京高等師範学校教授三上(みつち)忠造(のち文相・蔵相・逓相・鉄相・内相等を歴任)を学部参与官として教科書を編纂させるとともに、国民の識字率の向上を目的として普通学校(小学校)をはじめ各種学校の振興をはかった。
 第四は殖産興業である。
 「独立富強」をスローガンに掲げた伊藤の産業振興、資源開発の諸施策は多方面にわたったが、なかでも特記しなければならないのは、「拓殖」を目的に国策会社として一九〇八年に設立した東洋拓殖会社(「東拓」)である。
 日本政府が八年間毎年三〇万円を補助して社債二〇〇〇万円の元利保証をおこない、韓国政府は資本金一〇〇〇万円のうち三〇〇万円相当分を田畑による現物出資する、というもので、総裁には陸軍中将宇佐川一正(うさかわかずまさ)が就任した。
 「東拓」が併合後、小作制大農場経営と貸金事業を発展させたことはよく知られているが、統監府の殖産興業政策は、日本の経済侵略活動に道をひらくためのものでしかなかった。
 また、同時期に日本からの資本輸出も積極化した。
 日本政府からの施政改善経費借款一九六八万円(一九〇八年三月)、日本興業銀行からの起業資金一二九六万円(一九〇八年一二月)、日本政府からの起業公債一〇〇万円(一九〇八年一二月)などの大型借款が供与された。
 このうち興業銀行からの借款は、日本政府が利息支払いを保証する英貨興業債券を興業銀行がロンドンとパリで一〇〇万ポンドずつ募集した外貨を転用したものであった。
 日本の朝鮮支配の国際的了解が前提になっている。これらの資金調達の条件から使途まですべてをとりしきったのは、度支部次官となった荒井賢太郎(前大蔵省主計局長)である(大森とく子「日本の対朝鮮借款について」)。
 こうした植民地政策は結果的には併合の地ならしとなったが、伊藤にしてみれば韓国の「自治」振興をめざした政策で、併合は念頭にない。
 併合を前提としたのであれば、法典編纂などは不必要だったはずである。

統監政治への批判

 一九〇九年、「施政改善」政策をひっさげた伊藤は、純宗皇帝に陪従して凍寒の一月七日~一三日、南部地方、ついで一月二七日~二月三日、北部地方にデモンストレーションをおこなった。
 行くさきざきで妨害にあいながらも、目的は抵抗する民衆の「民心の一新」だった。
 伊藤は着手した保護国経営政策が結実すれば、民衆は日本に服従し、信頼を回復するに違いないと確信していた。
 しかし、伊藤の甘い見通しを裏切って義兵闘争はますます激化する一方で、日本人のあいだからその保護国経営を「韓国本位」と論評する声があがった。本国政府との不協和音もまた高まっていく。
 伊藤が北韓巡幸から漢城(ハンソン)へ帰着したばかりの二月二三日、衆議院本会議で猶興会が改組した又新(ゆうしん)会の大竹貫一が、統監政治を攻撃する長広舌の演説をおこなった。
 大竹はのちに普選運動でも活躍するが、対外強硬派で鳴らした代議士である。
 彼は、伊藤の失政を逐一とりあげ、「宗主国たる我帝国の威信」が地に墜ち、「排日熱が昂(たか)まって」いるのは、伊藤が欧米の批判を気にして「懐柔政策」をとっているためであると非難した。
 伊藤の統監辞任直前の六月一日にも、大竹は「公の統監辞任は敢(あえ)て惜むに足らず、只(た)だ後任者に其人を得んことを望むのみ……武断派たる桂(太郎)侯爵、若(もし)くは寺内(正毅)子爵を後任者となす方、我国の利益なり」と述べている。
 漢城の邦字新聞『京城新聞』なども、統監府設置以来の政策が、韓国内閣と韓国人操縦に汲々とし、日本の財政負担のみ増大させ、「暴徒」が地方の治安を乱しているのに、「当局之が鎮圧の策無くんば責任を負うて退くべし」と、ことばはげしく批判した。
 実行の時期はともかく、併合の機会をうかがっていた元老山県有朋・桂首相・小村外相らも表向きは伊藤の政策を支持しながら、保護国経営に不安のまなざしをむけていた。
 韓国の「独立富強」を掲げる伊藤の施策が成功し、保護国として韓国の地位が安定すれば、併合の理由を失うことになるのではないか、と。

一進会の動向

 韓国で併合推進を唱える一進会も伊藤にゆさぶりをかけた。
 一進会は一九〇四年、宋秉唆(ソンビョンジュン)が組織した維新会と、東学教徒李容九(イヨング)が組織した進歩会とが、合同して結成された親日団体である。
 これを利用した日本人、とくに陸軍の支援により政治団体として急速に成長し、一九一〇年八月の警務統監部の調査によれば、会員数九万一八九六人にのぼったという。
 それは政社としては第二位の、穏健な排日自主主義の大韓協会の二万二八九人を大きくひきはなしていた。
 一進会が日本の国家主義団体黒竜会主幹の内田良平を通じて山県や桂と深い関係をもつようになったのは、統監府嘱託となった内田が一九〇六年一〇月に一進会顧問についてからである。
 宋秉峻・李容九と内田は、「韓日合邦」の一点で気脈を通じあっていた。
 一九〇七年五月の李完用(イワンヨン)内閣の組閣にあたって、宋秉唆が農商工部大臣として入閣した。
 伊藤は李完用派と一進会の連立内閣で政権を操縦しようとしたのである。
 たしかに宋秉峻も高宗譲位問題では伊藤の期待にこたえる役割をはたしたが、伊藤の当面の政策指針に併合の予定がないことが知れると、宋秉峻・内田らは伊藤の統監辞職と内閣倒壊をはかる。
 一九〇八年六月、宋秉唆は農商工相辞任を申し出た。
 自分の辞職によって内閣を崩壊させ、混乱の責任を負う伊藤を追い落とそうという狙いである。
 しかし、伊藤の巧妙な説得と、内閣改造による宋秉峻の内相への配置替えによって計画は失敗した。
 政局混乱の事態は回避されたが、伊藤は一進会との絶縁を決意した。
 たとえ「親日」にせよ「韓日合邦」を高唱する一進会は保護国経営の妨害になる。
 そればかりでなく、しばしば義兵から狙われ、統監府設置以降一九〇八年六月までに会員九二六人が殺され、三六〇戸が焼かれるなど、断髪頭の一進会員は民衆の恨みをかっていたので、これに依存することを不利とみたためであろう。
 伊藤は、李完用首相の宋秉峻追放工作に同意をあたえた。
 一九〇九年二月、宋秉唆は内相を解任された。

伊藤の統監辞任

 保護国経営をめざした統監政治が思わぬ障害に遭遇して、伊藤は韓国統治にたいする意欲を喪失した。
 一九〇八年一一月ごろには統監辞任の意向をもらすようになった。
 その理由はさまざまであろうが、最大の理由は、弾圧をかされても、かえってそれによって鍛えられるかのように成長する義兵闘争の高揚であった。
 統監の権力は、韓国の「天」と「地」とを奪うことはできても、韓国民衆の「心」を奪うことはできなかった。
 栄達の頂点に立った男の自負と自信が音をたてて崩れていく。
 『伊藤博文伝』によると、一九〇九年四月一〇日、桂首相と小村外相が上京中の伊藤をおとずれ、おそるおそる「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」した。
 すると「公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明した」。
 そればかりか、桂・小村が提示した「併合の方針」についても、「その大綱を是認」した、という。
 保護国論から併合論への改宗である。
 それから二週間後に東京上野の精養軒でひらかれた、京城日報社主催の韓国紳士日本観光団歓迎会での演説でも、伊藤は「今や方(まさ)に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせり」と併合を示唆し、聴衆をおどろかせた。
 併合論への飛躍は、三年半にわたった統監政治の失敗を自認することである。
 五月下旬、伊藤は統監の辞表を天皇に提出した。天皇は一度はこれを却下したが、桂首相の奏上をいれて聴許した。
 六月一四日付けで四度目の枢密院議長に転じた伊藤は、事務ひきつぎのため、七月一日大磯の自宅をたち韓国へわたった。
 漢城滞在中、みずから指揮して「韓国司法及監獄事務委托に関する覚書」調印(七月一二日)と韓国軍部(軍事省)廃止勅令公布(七月三一日)をおこなわせた。
 韓国の司法・監獄事務の日本への委託は、伊藤が韓国の法治国家化をめざしておこなってきた政策を放棄し、韓国の法権を奪うことを意味する。
 これにより韓国法部(法務省)は廃止され、かわってあらたに設置された統監府司法庁・裁判所・監獄が法権を行使することになる。
 また、軍隊解散によって皇宮警衛の歩兵一個大隊、騎兵一個中隊しか現存しない韓国軍隊の現状からして不必要な軍部は廃止され、親衛府を新設させた。
 こうして伊藤は、つみあげてきた保護国構想をみずからの手で壊し、併合への道を掃き清めて韓国を去った。

   二 併合の条件づくりがすすむ top

併合計画の発進

 一九〇九年(明治四二)四月一〇日、伊藤の併合路線への転換を確認したとき、桂首相と小村外相は、対韓大方針と対韓施設大綱を伊藤に提示した。
 それは小村が、外務省政務局長倉地鉄吉に命じて作成させた草案に加筆し、三月三〇日に桂へ提出した文書である。
 まず、韓国における日本勢力の現状は「未だ十分に充実するに至らず」、韓国官民の対日関係もまた「未だ全く満足すべからざる」状況にあるとし、確固たる「勢力を樹立する」ための大方針は、つぎのようなものであるという。

 第一、適当の時機に於て韓国の併合を断行すること。
 第二、併合の時機到来する迄は、併合の方針に基き、充分に保護の実権を収め、努めて実力の扶植を図るべきこと。
 そして当面の具体的「施設」として、

 ①秩序維持のため軍隊駐屯と憲兵・警察力の強化、
 ②外交権の掌握、圓韓国鉄道と満鉄との連絡、
 ③日本人の殖民、をあげている。
 ちなみに「併合」ということばは、草案作成にあたった倉地政務局長がえらんだ政治的造語だった。
 彼は日韓対等合併の印象を与えず、国家廃滅・領土編入でありながら刺激的でないことばとして、当時あまり使用されていなかった「併合」を用いたという。
 合併でもなく、併呑でもないという意味だろう。
 以後、「併合」は公用語として使用されたばかりでなく、一般用語としても定着した。
 この対韓方針案は七月六日の閣議で決定され、同日天皇の裁可をえた。
 その実施は「適当の時機」ではあるが、政府方針として韓国併合が正式に採用されたことになる。
 これにより小村外相は、一歩すすめて併合実施の順序方法として併合宣言、韓国皇室の処分、統治のあり方、対外関係などについてまとめ、七月下旬に桂首相に報告した。その意見書は閣議で了承されたが、外務省編『小村外交史』によると、「別に併合の条約形式によって行われない場合の措置をも攻究」した、という。
 内容はあきらかでないが、両国の国家意思の合意を示す条約による「任意的併合」を主案としながら、それができない場合の副案として武力征服による「強制的併合」も考えたものと思われる(「任意的併合」と「強制的併合」については後述)。

一進会の合邦運動

 この年九月、宋秉峻と李容九が率いる一進会は、大韓協会と西北学会を誘って三派連合を結成した。
 反李完用内閣の一点で三派は連繋したが、一進介が「韓日合邦」を公式に表明するにいたって、たちまち瓦解した。
 一二月四日、一進会は会長李容九の名前で声明を発表するとともに、皇帝に上奏文を、曽禰荒助(そねあらすけ)統監に上申書を提出して「韓日合邦」が急務であることを建議した。
 上奏文が却下されたのはもちろんであるが、曽禰統監も言を左右にして確答しなかった。
 当時、漢城で雑誌を主宰していた釈尾東邦の『朝鮮併合史』には、「宋秉峻は韓国を日本に合体して一国とするにあるものの如く、李容九は韓国を韓国として日本に合併し、連邦組織にせんことを希望せるものの如し」とある。
 一進会が求めた合邦とは、日本との対等合併ないしは連邦形式の連合国家であり、日本政府が意図する併合の内容形式とは天と地ほどのへだたりがあったことになろう。
 しかし、曽禰が一進会の合邦提唱を歓迎しなかったのはそのためではなく、これを機会に併合反対運動が展開することをおそれたからである。
 もはや日本にとって韓国内における併合推進の世論操作の必要はなかった。
 予想どおり一進会の声明にたいして大韓協会・西北学会はもとより、天道教徒がただちに反対した。
 声明発表の翌五日には漢城西大門(ソデムン)で李完用きもいりの大演説会がひらかれ、元老級の応援をえて併合反対決議がおこなわれた。
 この機会をとらえた曽禰は、一進会に演説・集会を禁じ、さらに一進会と大韓協会の日本人顧問に論旨退去を命じて両派の活動を弾圧した。
 併合反対であれ賛成であれ、併合を既定方針とした日本政府にとって、議論が沸騰すること自体が障害と映ったのである。

ロシアの併合承認

 一九一〇年(明治四三)二月、小村外相は在外大使らに前年七月六日閣議決定の韓国併合方針と施設大綱を送った。
 ただし併合実行の「時機」は「内外形勢に照らし決定を為す」とし、それはひとつには「列国との関係」調整、もうひとつは併合後の韓国統治の準備の進行状況によると通知した。
 列国の干渉を誘うような併合であってはならないのである。
 在外大使への通知には、それぞれの任国の反応を探知するように、との意味がある。
 日露戦争期を境とする国際情勢の変化、すなわち英仏協商(一九〇四年)、英露協商(一九〇七年)を軸として成立した三国協商体制を背景に、日本も日仏協約(一九〇七年)をむすぶとともに、ロシアと協調して大陸における既得権益の確保をはかることになった。
 一九〇七年七月三〇日調印の「第一回日露協約」はその産物である。
 日露両国はハルビンと長春・吉林の中間で満州を南北に分割する「分界線」を設け、それぞれの権益を確認する一方、日本はロシアの外蒙古における「特殊利益」(勢力範囲)承認とひきかえに、ロシアは、日本と韓国との「政事上利害共通の関係を承認し、該関係の益々発展を来すに当り、之を妨礙(ぼうがい)し又は干渉せざることを約」した(秘密協約第二条)。
 交渉の過程で林外相や伊藤統監は、日韓関係の将来の「発展」とは annexation (併合)を含意することを秘密文書ででも交換することを望んだ。
 しかし「日露講和条約」に記した、日本の韓国における「卓絶なる利益」をあらためて確認するにとどまった。
 韓国併合直前の一九一〇年七月四日に調印された「第二回日露協約」は、アメリカの満州進出に対抗して「第一回日露協約」の内容を強化し、日露両国の地位確保のために締結された条約である。
 三ヵ条の本協約と六ヵ条の秘密協約に韓国事項を明記することはなかったが、交渉にさきだって駐露大使本野一郎がストルイピン首相、ココフツォフ蔵相、イズヴォルスキー外相と会談して併合問題を打診したところ、“時機はともかく、日本の韓国併合についてロシアが反対する理由も権利もない”という回答を引き出すことに成功した。
 満蒙地域における利権の拡大を狙うロシアもまた、日本との宥和でより有利な立場に立つことを欲していた。
 たとえば調印直後に、ロシアが以前から主張していた松花江航行権の独占的地位を保障した北京議定書(八月八日調印)の締結にも、日本は異議をさしはさまなかった。
 のちに「韓国併合条約」調印をロシア政府へ通知するため訪れた本野大使にたいし、外務次官は「日本政府に於ても、近き将来に於て露国政府が清国政府に対し執るべきことあるやも計り難き手段に対し、好意を以て之を傍観せられるを希望す」と述べ、韓国併合承認の対価としてロシアの清国侵略に日本の協力を期待した。
 日露両国は韓国、清国を材料に取引したのである。

イギリスの併合同意

 日英同盟下で友好関係にあったイギリスの大勢は、日本の韓国支配の帰結として併合を冷静に受けとめた。
 一九一〇年五月一九日、駐日大使マクドナルドは小村外相をおとずれ、本国政府の命として韓国併合についての日本政府の意向をただした。
 小村が実行の時期は未定ながら併合の方針であると答えたのにたいし、マクドナルド大使は、イギリス政府は併合に反対ではないが、と前置きしながら、「突然併合の実行せらるるが如きことありては、同盟の関係上面白からざるべしと思考す」と述べた。
 実行まえに併合によってイギリスがこうむる不利益について調整を求めたのである。
 イギリスは韓国とむすんだ条約によってえていた既得権を併合後の日本がどのように保障するかに関心をもっていた。
 その最大関心は関税問題である。関税自主権を欠く韓国の対欧米条約が併合により消滅し、日本なみの関税率が適用されれば、日英同盟の友好関係維持にも悪影響をおよぼすだろう、というのである。
 六月三日の日本政府閣議は、はやばやと関税は「当分の内現行の儘(まま)」と決定し、「或る長期間 considerable period 」これを継続する、と伝えたが、イギリス政府は具体的に一〇ヵ年据え置きを要求した。
 併合実行を目前にひかえた八月一四日、小村外相は駐英大使加藤高明にそれを受諾するむねを伝えた。
 「韓国併合条約」公布の八月二九日に発表した政府宣言で、今後一〇年間、旧条約国船舶の朝鮮開港場沿岸貿易従事と貨物および船舶の輸出入税・噸税据え置きを表明したのは、イギリスとのこうした事前交渉があったからである。
 それにしても韓国併合問題についての欧米列強にたいする日本政府の姿勢は、ゆるやかというよりも卑屈でさえあった。

天皇・総督と植民地

 ロシア・イギリス両国から韓国併合の同意をえたことは、帝国主義諸国が賛成したことにひとしい。
 対外関係処理の見通しをつかんだ政府は、一九一〇年六月三日の閣議で、「併合後の韓国に対する施政方針」を決定した。
 そこにはつぎのようにある。

 一、朝鮮には当分の内、憲法を施行せず、大権に依り之を統治すること。
 一、総督は天皇に直隷し、朝鮮に於ける一切の政務を統轄するの権限を有すること。
 一、総督には大権の委任に依り、法律事項に関する命令を発するの権限を与うること。
  但、本命令は別に法令又は律令等、適当の名称を付すること。
 この三項は天皇とその名代である総督の、植民地朝鮮にたいする位置づけである。
 ここでは日本の朝鮮統治権は憲法によって規定されるのではなく、天皇大権による、とされている。
 したがって憲法の効力がおよばない朝鮮には「大日本帝国憲法」が定めた、兵役義務、人権の保障、国民参政権、行政権と立法権の分立、司法権の独立等の近代立憲制の諸規定は適用されない。
 もしも日本の韓国併合に、朝鮮の未開と停滞をひらく文明史的意義がある、というのであれば、何よりもまず帝国憲法のもつ近代的部分を朝鮮にもちこまなければならなかった。
 だが、朝鮮は天皇大権にもとづき植民地統治の委任をうけた総督が、独自に法律相当の令を発することができる異法域とされた。
 こうして天皇にたいしてのみ責任をもつ朝鮮総督は、本国政府・議会から拘束されずに「一切の政務を統轄するの権限」すなわち行政権と、「法律事項に関する命令を発するの権限」すなわち立法権を集中する専制的な権力をもつことになる。
 併合後の九月二九日の勅令「朝鮮総督府官制」は、総督は陸海軍大将をもって任じ、委任の範囲で陸海軍を統率、朝鮮の防備を指揮し、その政務は内閣総理大臣をへて上奏、裁可をうけると規定した。
 朝鮮総督府の植民地行政は本国政府省庁の監督をうけないのである。

寺内正毅の統監就任

 これよりさきの一九一〇年五月、寺内正毅が第三代統監となった。
 寺内は陸軍大将。一九〇二年第一次桂内閣の陸相として入閣して以来、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣にも留任し、桂首相の片腕として韓国併合計画を推進してきた人物である。
 統監職は陸相兼任であった。
 併合実行の責をとることになった寺内は、併合準備委員会を設置し、併合にともなう処理方案を検討させた。
 原案作成は倉地外務省政務局長と統監府外務部長小松緑がおこない、会議には内閣書記官長柴田家門(かもん)、法制局長官安広伴一郎(やすひろばんいちろう)、拓殖局副総裁(逓信大臣兼任)後藤新平、大蔵次官若槻(わかつき)礼次郎らが参加した。
 そこでは併合後の国称、朝鮮人の国法上の地位、朝鮮における外国人の権利、韓国の債権債務、官吏の任命、韓国皇室の処分などのほか、併合にあたって公布すべき法令案など、多岐にわたる事項がとりあげられた。
 七月八日の閣議は、この併合準備委員会の結論とともに、併合条約案・詔勅案・宣言案を承認した。国称は「朝鮮」と決定した。
 後藤新平は「高麗」説をとった。
 高麗はコリアに通ずるからであろう。
 朝鮮は古い呼称で、「朝日が鮮明なところ」(『東国輿地勝覧』)に由来するといわれ、一部の人が誤解しているような蔑称ではない。
 いずれにしても、併合後になお一国が存続しているような印象をのこす「韓国」だけは避けなければならなかった。
 一方、韓国では政府の警察機構を統監府に吸収する作業がおこなわれた。
 寺内新統監は六日、韓国駐箚軍参謀長から憲兵隊司令官に復帰した明石元二郎少将と東京で協議ののち帰任させ、韓国政府の警察権委任反対をおしきって、六月二四日「韓国警察事務委託に関する覚書」を奪いとった。
 いわゆる憲兵警察制度がこれであり、軍事警察との一体化だけでなく、行政事務に直接かかわる権限をもつ。
 明石は統監府警務総長を兼任する。
 こうして国際的にも国内的にも併合の準備が整った七月二三日、寺内統監が着任した。
 ただちに執務を開始した寺内は、八月一三日、小村外相につぎのような電報を打った。

 予(かね)て内命を受け居れる時局の解決は、来週より着手したし。
 別段の故障なく進行するに於ては、其週末には総(すべ)て完了せしめ度(たき)意見なり。
   三 「韓国併合条約」の論理 top

韓国併合に関する条約」正本(韓文)

合意の強要

 一九一〇年(明治四三)八月一六日、寺内統監は李完用首相を官邸に呼び、併合条約を受諾するよう求めた。
 寺内はその理由をつぎのように述べたという。

 日本政府は韓国を擁護せんがため、既に二回の大戦を賭し、数万の生霊と幾億の財帑(ざいど)を犠牲にし、爾後、誠意を傾けて韓国の扶翼(ふよく)に努めたが、しかも現在の制度の下にありては到底施政改善の目的を全(まっと)うすること能わざるに鑑み、将来、韓国皇室の安全を保障し、韓民全般の福利を増進せんがためには、須(すべか)らく両国相合して一体となり、以て政治機関の統一を図るの外ない。
 虚言を弄(ろう)するのもはなはだしいが、“日本が韓国「扶翼(ふよく=助ける)」のために保護してきたが、それで
は施政改善の目的を達成できないので韓国皇室と韓国民のために韓国を併合する”という論理は、保護から併合への転換を正当化するために必要だった。
 外務省編『小村外交史≒が認めるとおり、日清戦争以来、日本政府は「韓国の独立扶翼、独立維持を幾(いく)たびか宣明」してきたてまえ、「我方より進んで併合を決行することは聊(いささ)か面白がらざる関係」だったからである。
 それゆえ、寺内は李完用にくり返して、日本の韓国併合は他国一般の「強制的併合」とは異なり、「合意的条約」によることを強調し、「韓皇陛下は時運の趨勢に鑑み、自ら進んでその統治権を我が天皇陛下に譲与せられ」んことを要求した。
 植民地権力の後ろ盾でからくも政権の座を守ってきた李完用には拒否する力も勇気もなく、日本側提案を受け入れざるをえなかった。
 ただ国号として「韓国」の存続と、退位する皇帝に王称をあたえられることを求めた。
 せめてかたもだけでも「国」「王」を維持したかったのである。
 日本案は現皇帝純宗(スンジョン)、太皇帝高宗(コジョン)ともに併合後は太公殿下の尊称を授け、皇族として礼遇する、としていた。
 同夜、李完用首相とひそかに打ち合わせた趙重応(チョウジュンウン)農商工相が寺内統監をおとずれ、虚名の国号・王称につき李完用が述べた希望をくり返した。
 寺内は、朝鮮への改称は変更できないが、趙重応が提案した、皇帝の昌徳宮(チャンドクタン)李“王”殿下、太皇帝の徳寿宮(トクスダン)太“王”殿下の称号については政府に伝達しようと答えた。
 この点で妥協しても調印を急いだ方が得策とみたためである。
 寺内は、この皇帝称号を桂首相に稟請(りんせい)し、一八日それを了承するむねの返電をうけた。
 ほかに条約内容についての交渉はなかった。
 あっても寺内ははねつけただろう。

韓国併合に関する条約

 八月一八日の韓国閣議で、李容植(イヨンシク)学相だけは終始条約締結に反対した。
 だが、大勢は調印やむなしとした。
 李完用首相は、閣外の閔丙夾(ミンピョンソク)宮相、尹徳栄(ユンドクヨン)侍従院卿、趙民熈(チョウミンヒ)承寧府総管、李秉武(イビョンム)親衛府長官、金允植(キムユンシク)中枢院議長、王族の興王李熹(イヒ)ら側近の重臣を説いて調印賛成をとりつけ、御前会議通過の成算をえたので、二〇日、寺内統監にそれを伝えた。
 寺内は即刻条約案全文を付して天皇裁可の上奏を稟請した。
 二二日、天皇は枢密院に諮詢のうえ、「韓国併合条約」を裁可した。
 同日、韓国御前会議も、反対意見の李容植学相欠席のままひらかれ、条約案を承認し、李完用を条約締結の全権委員に任命した。
 李完用と寺内の条約書への記名調印もその日のうちにおこなわれた。
 『京城新報』によると、この日の漢城の最高気温は二九度。晩夏の長い一日の終わりとともに李朝五〇〇年の歴史が閉じた。
 「韓国併合に関する条約」は全八条(全文は Index付録参照)、その第一条で韓国皇帝が統治権を天皇に譲与するとし、これをうけて第二条で天皇がその申し出を受諾し韓国を併合する、というものであった。
 イギリス・ロシアには調印まえに併合条約締結の見通しを予告していたが、調印後ただちに列国政府に調印通告と宣言書を送った。
 しかし日韓両国内には公布までは秘密とし、統監府は、新聞報道の規制、集会・演説の禁止、注意人物数百人の事前検束などをおこなった。
 「韓国併合条約」は二九日の『官報』号外で公示され、同時に天皇の詔勅と併合にともなう諸勅令が公布された。

併合の形式をめぐって

 戦争が紛争解決の一手段として正当視されていた当時の国際法では、併合には「強制的併合」と「任意的併合」があるとされていた。
 「強制的併合」とは、併合する国が戦争により被併合国を征服(永続的戦時占領)し、併合宣言をおこない領土権を取得する。
 国際法学者の阿部浩己氏は、日本の韓国併合は「強制的併合」だったと主張している(「軍隊“慰安婦”問題の法的責任」)。
 阿部氏は、義兵闘争にたいする弾圧を植民地戦争になぞらえ、その鎮圧をもって征服とみているようである。
 しかし日本軍の義兵弾圧は、たてまえ上は韓国皇帝から治安回復のため“匪徒(ひと)を掃滅”の依頼をうけた行動であって、征服戦争ではない。かりにそうであったとしても、併合時に征服状態にあったとはいえない。
 保護条約である「第二次日韓協約」により韓国を保護することになった日本は、韓国がもしも第三国から軍事的侵略を受けた場合には防衛する義務を負う。
 ましてや保護をあたえる国である日本が、被保護国である韓国を武力的に征服し、「強制的併合」を通じて滅亡させることは論理的にできないのである。
 伊藤統監が保護国にこだわり、容易に併合論に同調しなかったのはこのためである。
 ただし、その伊藤も一度だけ日韓開戦を望んだことがある。
 一九〇七年パーク密使事件に際して、七月三日皇帝に謁見した伊藤は、「かくの如き陰険なる手段を以て日本の保護権を拒否せんとするは、寧(むし)ろ日本に対して堂々宣戦を布告せられるの捷徑(しょうけい=近道)なるに若(し)かず」といって戦争を挑発した。
 これがたんなる威嚇でなかったことは、伊藤がかさねて李完用首相に、「其の行為は日本に対し公然敵意を宣明し、協約に違反したるものにして、日本は韓国に対し当然宣戦の理由あるものたることを伝奏」させていることからもうかがえる。
 韓国側から開戦を宜し、戦争の正当な理由をつかんだとすれば、兵力増強中の日本軍が韓国軍を撃破するのは、鶏を裂くに牛刀をもってするようなものである。
 ただちに韓国を征服し、「強制的併合」を実現したであろう。
 だが皇帝は伊藤の挑発にのらなかった。
 そうだとすれば、日本は国家間合意形式の「任意的併合」をえらぶしかない。
 閣議が併合手続きを決定した際、「強制的併合」の措置についても検討したことは前述したが、加藤高明駐英大使が「合併実行に付ては、或は他国に於て種々の非難あるやも計られず、殊(こと)に任意譲与の形式を採らず、已(や)むを得ず単独宣言を以て行はれる場合には尚更(なおさら)然らん」と注意をうながしたように、日本が保護関係にある韓国を「強制的併合」(単独宣言)すれば、国際的非難を受けねばならなかった。
 韓国皇帝が統治権を譲与し、天皇がこれを受諾するという、合意をよそおった奇妙な「任意的併合」条約がむすばれたのは、このような理由による。
 一九六五年一一月五日の衆議院日韓条約特別委員会で、当時の総理大臣で一九〇一年生まれの佐藤栄作は、韓国併合条約は「対等の立場で、また自由意志でこの条約が締結された、かように思っております」と述べた。
 「強制」を「任意」に、黒を白にいいくるめた併合条約の論理は、半世紀以上もたった、わが国首相の頭脳から消えていなかった。

アメリカのハワイ併合の場合

 統一国家形成以前の保護領ならばともかく、近代国家にしてみずから併合を願い出、併合されるのは世界史上まれだろう。 一例はハワイである。
 ハワイ先住民による近代国家は、一七九五年に初代カメハメハ王がハワイ諸島を統一してつくった、立憲君主制のハワイ王国である。
 諸外国とも公式の外交関係をもつ独立国家であった。ところが、その後ハワイに進出した白人植民者たちが、アメリカへの併合をとなえるようになり、一八九三年、アメリカ軍艦の示威を背景にクーデターをおこして王朝を転覆させ、「アロハ・オエ」の作詩作曲でも有名なリリウオカラニ女王を宮殿に幽閉し、退位させた。
 そのうえで白人たちによる臨時政府はアメリカ政府に併合を要望し、一八九三年二月、併合条約をむすんだ。
 しかし、あたらしく大統領となった民主党のクリーヴランドは、重大な主権侵害があったとして、併合条約の批准を上院で否決させた。
 四年後の九七年、大統領が共和党のマッキンレーにかわると、併合運動が再燃し、同年六月、ついに併合条約が締結される。韓国併合より一三年まえのことだった。
 日本が高宗皇帝を強制譲位させ、傀儡の李完用政権や一進会を利用して日本との併合をおし進めたのと似ている。
 どちらも不当な併合である。
 いま、ハワイではアメリカ連邦政府に自治権確立、ハワイアンへ土地の返還、補償金支払いを求める運動がもりあかっている(森野じゅん『ハワイは闘っている』)。

併合の世論

 こうして韓国併合が実行されたが、それにたいして日本人のなかに反対や異論の声はあがらなかった。
 併合直後の一九一〇年八~一〇月の『東京朝日』『大阪朝日』『東京日日』『読売』『万(よろず)朝報』の有力新聞社説と総合雑誌『太陽』『中央公論』『日本及日本人』掲載の論説を分析した姜東鎮(カンドンジン)氏の研究によると、すべての社説・論説が日本の韓国併合を美化し、こじつけの論理で併合を正当化しているという(『日本言論界と朝鮮』)。
 姜東鎮氏の整理にしたがって併合正当化論の論調を列挙すると、

 ①古代においても朝鮮が日本に併合されたことがあるから、併合は古代への復帰だとする復古論、
 ②同祖同根論にもとづく自然的趨勢だとするもの、
 ③朝鮮人の幸福増進のためとする植民地エセ幸福論、
 ④旧朝鮮王朝の悪政強調と朝鮮独立不能論にもとづく併合不可避論、
 ⑤併合が日本にとっての利益よりは負担になるとするもの、
 ⑥天皇の赤子(せきし)慈愛論と主権譲渡論、
 ⑦日清・日露戦争での犠牲の代価が併合だとするもの、
 ⑧朝鮮人が日本の保護政治を支持した結果が併合だとするもの、である。
 いずれの論拠によっても、日本の侵略の事実を歪曲(わいきょく)するか隠蔽(いんぺい)して、併合による朝鮮統治を正当化し、政府の植民地政策を支持している。
 マス・メディアが送りつける大量の併合賛美論は、「韓国領一万四〇〇〇方里」の取得によっていっきょに従来の一・五倍の領土になったことに浮かれる国民感情と交響し、大陸へむけた侵略の夢をふくらませた。
 自由主義者・植民政策学者として令名高く、現在の五千円札の肖像にもなっている新渡戸稲造(にとべいなぞう)でさえ例外ではなかった。
 一九一〇年九月一三日、第一高等学校入学式での校長演説で、つぎのように述べたことを、矢内原忠雄が一九四〇年初版の岩波新書『余の尊敬する人物』に記している。

 次に忘れることの出来ないのは朝鮮併合の事である。
 之は実に文字通り千載一遇である。
 我が国は一躍してドイツ、フランス、スペインなどよりも広大なる面積を有(も)つこととなった。……
 とにかく今や我が国はヨーロッパの諸国よりも大国となったのである。
 諸君は急に大きくなったのである。
  一九〇六年一〇月、統監府嘱託として韓国農業事情を視察し、停滞社会観と民族蔑視観を抱いて帰国した新渡戸は、併合を単純によろこび、帝国膨張に期待をかけたのだった(田中慎一「新渡戸稲造と朝鮮」)。
 いくらかなりと韓国植民地化を批判していた社会主義者もまた、併合を既成事実として是認する論説を掲げた。
 たとえば片山潜(せん)派の『社会新聞』(一九一〇年九月一五日付)は、
 「為政者は固(もと)より、全日本国民は個人とし、社会団体として彼等を誘導教育し、新同胞として立派にするの必要がある」と論じ、はやばやと植民地支配者の側に立った。
 その論説「日韓合併と我責任」は、独立心を欠いた「土台のない柱の如くグラグラ者」「未開の人民」とみる朝鮮人蔑視に満ちており、思い上がった指導者意識でしめくくられている。
 社会主義に近づいた石川啄木は併合公表から一一日目の九月九日夜、
 「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」と詠んだ。
 この有名な歌にしても、地図の上から抹消された亡国への憐憫と同情をこえるものがどれほどあったであろうか。

歴史家と日朝関係史

 新聞・雑誌にもまして国民に大きな影響をあたえたのは、国民教育を通じての朝鮮蔑視観と朝鮮民族抹殺・日朝一体化論の注入である。その先頭に立つだのが歴史学者だった。
 併合直後の一九一〇年一一月、日本歴史地理学会は『歴史地理』臨時増刊「朝鮮号」を発行した。
 巻頭に韓国併合の詔書を掲げ、一流の歴史・地理学者ら二二人の論文を収めた。
 彼らはこぞって併合を礼賛、正当化した。
 その執筆者のひとりでもある喜田貞吉(きたさだきち)は、同月『韓国の併合と国史』を刊行した。
 これは八月に日本歴史地理学会が主催した併合に関する記念講演会での喜田の講演「韓国併合と国史の教育」がもとになっている。
 喜田は日本古代史・民族史の大家で、当時、文部省図書審査官で国定教科書国史の編修を兼ねていた。
 日本の朝鮮植民地政策の理念である「同化主義」を歴史的に裏打ちする日韓「同種」論に立つ喜田は、「日韓もと同一であるとの事は事実であって、決して一時の方便説ではない。
 従って今回の併合は韓国を滅ぼしたものではなくして、其の太古の有様に復帰せしめたものである」と、併合復古説を展開した。
 喜田によれば「韓国は貧弱なる分家で、我が国は実に富強なる本家とも云うべき者」で、歴史上しばらく離れていたが、併合によって分家が復帰してきたのだから、本家たる日本は「彼等を同化融合せしめねばならぬ」と説く。
 このような民族史観にもとづく併合の正当化は、喜田にかぎらず多くの歴史家に共通した。
 したがって国史教科書にも映し出された。
 大正デモクラシーの影響をうけたといわれる、一九二〇~二一年発行の第三期国定歴史教科書『尋常小学国史』上下(文部省)においても、日本と朝鮮との関係項目は、「神功(じんぐう)皇后の三韓征伐」「天智天皇の百済救援出兵」「豊臣秀吉の朝鮮出兵」「征韓論」「朝鮮事変と天津条約」「日清戦争と下関条約」「韓国の保護国化」であり、ついで韓国併合をこう記述する。

 韓国は、我が保護の下にあること既に数年に及び、政治おいおいに改りしが、其の国多年の弊政は全く除きがたく、民心なお安からざるを以て、国利民福を進めんには、日・韓両国を合わすの外なきこと次第に明かとなり、韓民中にも之を望むもの少からず。
 ここに於て韓国皇帝は統治の権を天皇に譲り、帝国の新政によりて、ますます国民の幸福を増さんことを望まれ、天皇また其の必要をみとめたまいしかば、四十三年八月遂に韓国の併合を見るに至れり。……
 かくて半島の民は悉(ことごと)く帝国の臣民となり、東洋平和の基はいよいよ固くなれり。
 韓国併合は韓国の「国利民福」のため、韓国側の申し出でおこなわれたことだけが強調されている。
 「三韓征伐」神話から併合神話にいたる日朝関係史のパターンは、日本民族の優越性と併合の必然性を描きだそうというものであった。
 このように歴史事実から遊離した歴史教育の押しつけが、日本人の朝鮮認識を著しくゆがめたことは否定できない。

 以上のような過程をふんで韓国併合を手にし、朝鮮民族の抹殺を理由づけた日本は、敗戦にいたるまで、一度たりとも朝鮮を植民地とよばず、「外地」といった。
 支配民族である日本人と被支配民族である朝鮮人との民族的矛盾の存在を観念的に否定した同化主義植民地政策は、支配と収奪を朝鮮にたいする日本の恩恵におきかえた。
 その「外地」意識は、朝鮮の解放後も消えなかった。
 日韓会談の席上、日本側主席代表久保田貫一郎が「日本の朝鮮統治は朝鮮人に恩恵を与えた面もある」と発言し、四年半ものあいだ会談を中断させたのは一九五三年である。
 それから四〇年以上にもなるが、その間にも、いくたび「久保田発言」類似の妄言が「友好」の薄し皮膜を破って噴出したことか。
 日本の首相がはじめて公式に朝鮮の「植民地支配」を「陳謝」したのは、一九九三年のことである。
 これでは韓国・北朝鮮ばかりでなく、アジアの人びとから、罪障感をもたない日本人の無自覚・無反省を指弾され、“謝罪”の誠意を疑われてもしかたないだろう。
 今日求められている日朝国交正常化問題にしても、補償問題にしても、戦後処理の正しい解決をするためには、正しい歴史認識をもたなければならない。
 いいかえれば、誤った歴史認識からは誤った解答しかえられないのである。
 消し去ることのできない過去の「清算」はむずかしい。
 しかし、それができるとすれば、まず、日本と朝鮮との関係史を直視し、正しい歴史認識にもとづいた意識の「清算」から始めねばならない、と切に思う。

http://ktymtskz.my.coocan.jp/meiji/heigo/kankoku0.htm