歴史・人名

高句麗の発展

6.高句麗の発展
名宰相・乙巴素
韓半島で成長する三国の中で最初に発展した高句麗(ゴグリョ)は開拓精神と勇猛さでその勢力を徐々に広げ、歳月を重ねると共に部族国家から集権国家へと変貌して行く。特に第6代・太祖(テジョ)王は7歳で即位し92年もの間王位に就いた人で、領土の拡張だけでなく政治体制の確立にも力を注ぎ、高句麗を中央集権国家の形態に発展させた。そのことから実際の国家としての高句麗の建国は太祖王の時であったと見るのが一般的である。

太祖王の後を継いだのは彼の弟である遂成(スソング)で第7代・次大王となった。次大王は太祖王とは違い、横暴な虐政を敷いたために庶民達は苦しみに怨嗟の声を上げた。自らの王権を守るためにはそれに従わない者を殺し、挙げ句の果てには、自分の甥である太祖王の息子までも殺してしまった。結局、次大王は明臨答夫(ミョングインタップ)によって殺されることとなり明臨答夫は次大王の弟である新大王を王位に就かせた。明臨答夫は173年に玄菟太守が侵入して来ると、自ら戦場に出て功を建て国が正しい道に進む様に力を注いだ。彼が113歳で死ぬと王は進んで弔葬し慟哭したと言う。

新大王が死ぬと大臣たちは、長男より英得な次男の男武(ナンム)を王に推戴する。これが第9代・故国川(ゴグックチョン)王である。
高句麗が徐々に強大になると中国では高句麗をけん制する目的で頻繁に侵略行為を行う様になり、184年には後漢の遼東太守が高句麗を攻撃した。すると故国川王は自ら戦場に出向き後漢の兵らを撃退した。
 
一方、朝廷では王の外戚たちが幅を利かせていた。故国川王は朝廷から外戚を追い払い優れた人材を求めた。すると多くの人が晏留というものを推薦したが、晏留は「小生は大きな政治をする人材ではありません。乙巴素(ウルパソ)なら出来る筈です。彼は性格が剛直なだけでなく果敢であり智恵深く、彼以外にふさわしい者はいません。」と言った。故国川王は在野に埋もれていた乙巴素を呼んで自分を助けるように頼んだ。
「私は身分卑しく御命をお受けすることが出来ません。もっと有能な人材を探されて最高の官職をお授け下さい。」と乙巴素もまた丁重に辞退するが、故国川王は最高の官職である国相の位を乙巴素に下した。
「王様!それはいけません。政治を全く知らないものに最高の官職をお与えになるとは?」
「そうです。あの様な卑しいものに国事を任されてはなりません。」
王の登用に大臣たちの反対が相次いだ。しかし、故国川王の心は確固不動のものであった。
「今後、乙巴素の指示に従わない者は、私の指示に従わなかったものと見なすのでそう思いなさい」との王の言葉に、大臣たちはそれ以上反対することが出来なくなってしまう。

国相となった乙巴素は賑貸法を作った。そして故国川王が賑貸法を実施すると、貴族たちは慌ててそれを批判した。当時、貴族たちは財産を増やす方法として貧しい農民達に高利で穀物を貸し付けていた。そしてそれを返せない農民たちは財産を取られるのは勿論のこと、その貴族の奴婢になることも日常茶飯事であった。
 これ以外にも故国川王は乙巴素とともに賢明な政治を施し太平聖代を謳歌した。故国川王が197年後継ぎを決めないまま他界すると、皇后の意思で故国川王の弟である延優(ヨンウ)が山上(サンサング)王となった。
すると、故国川王の別の弟である発岐(パルギ)が遼東に逃げた後に、公孫度に兵を借りて故国である高句麗を攻めたが失敗し自殺した。
 当時の高句麗の都には二つの城があり、王たちは平常時には国内城を使ったが、戦争が起ると国内城の西にある尉那厳城を使った。209年になると尉那厳城を丸都城と改称した上で増築して平常時に宮として使う様になった。
その後、山上王が亡くなると憂位居(ウウィゴ)が王と就き東川(トングチョン)王となった。

忠臣 密友と紐由
ある年東川王は臣下たちを引き連れて狩りに出かけ、そこで虎に出会ってしまう。すると、密友(ミルウ)が王の前に出て勇敢に虎と組み合ったが、当然虎との争いはあまりにも分が悪かった。虎がひと噛みで決着をつけるかの様に大きく口を開けた瞬間、何処からともなく矢が飛んで来て虎の心臓に突き刺さった。 
「虎が死んだぞ!」
見ていた人達がいっせいに歓声を上げた。
「誰が矢を射ったのか?」
東川王が問うと若い軍官が前に出てきた。この若い軍官こそが紐由であった。そしてこの日を機に密友と紐由は義兄弟となった。

彼らは魏の丘儉が高句麗を攻めて来ると東川王を護衛して戦争に参加した。ところが東川王が敵の計略にはまり丸都城は奪われ、追われる状況に陥ってしまう。密友は決死隊を組織して危機を脱しようとし、紐由はただ一人で敵陣に入り敵将に食糧を捧げ偽りの降伏をした。そして敵将が気を許した隙に短剣を取り出して刺し殺し、自身も自決した。
これを見た魏軍はそれ以上戦う意欲を失い、これを契機に高句麗軍の士気は上がり都を取り戻した。紆余曲折を経て敵の攻撃を防いだ東川王は宮に戻ると密友に一等功臣の賞を与え、紐由には九使者に封じた。