魏志倭人伝(Historical)
1.魏志倭人伝
1-1.「短里論」
魏志倭人伝の中で最も重要な位置を占め、最も軽視されてきたもの、それは「里程」である。
「郡より倭に至るには…」で始まり、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所」に至るまで、方角と里程を順次示している。『三国志』において、このような記載は他にない。このような実態をもつ魏志倭人伝の「里程」記事が、これまで軽視されてきたのは、「魏志倭人伝の規定記事には誇張がある」と従来言われてきた為だ。
なぜか。それは、魏志倭人伝に見える「里程値」が、われわれの通常知る「里」単位では、あまりに距離が長過ぎる為である。魏志倭人伝には、帯方郡治から倭国の首都までの距離が、「万二千里」とある。これは、われわれの常識的な里(漢の「里」なら一里=約435メートル)で言えば、5220キロであり、とても日本列島には収まらない(記述どおりに主に南へ進路をとった場合)。この為に、「倭人伝の里程は信用できぬ」と従来言われてきた。一方では、「方角」が信用できぬと言われてきたのである(南を東に改定し、近畿を目指す論者)。
しかし、「魏志」に記載されている「里」を詳細に検討してみると、以下のことが言える。
韓伝によれば、韓地の面積は「方四千里」である。これは、「方~里」の用法から、「一辺四千里」の四角形に外接する面積」である。朝鮮半島の東西幅は300~360キロであり、これが「四千里」であるという。これは、「漢の里」なら「約7~800里」であるべきであり、魏志の記述はその5~6倍ある。(韓地の東西幅は、朝鮮半島の東西幅と同じ)
通例、魏志倭人伝の里程には約5倍の誇張がある、とされているが、ちょうど、韓伝の記述も同じ「里」単位で書かれていると見なせる。ここで、以下のことが注目される。
韓地は、漢代においてすでに漢の四郡の置かれた土地であり、陳寿の時代(魏→晋)においても、周知の土地である。ここに、5倍もの誇張を書くべきところではない。 韓地の北境は帯方郡と接している。すなわち、韓地の北境=中国直轄領の南境といえる。中国自身の直轄領に対して5倍もの誇張を書くべきいわれはない。 倭人伝において、「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴るに、乍ち南し乍ち東し、其の北岸狗邪韓国に至る、七千余里」の記述は、帯方郡治を起点とするから、「帯方郡治→韓国」を含む表現である。したがって、この七千余里も、「中国国内と韓国」ともに同じ「里」単位で示したものと見なさなくてはならない。 同様に、「郡より女王国に至る、万二千余里」も、「帯方郡→韓国」「韓地内」を含むから、ともに同じ「里」単位で示したと見なさざるを得ない。 魏志全体の「里」単位を抽出すると、すべて(その実距離が判明するもの)、韓伝、倭人伝のそれと同一の「里」単位であると見なせる。
以上のことから、「魏志」においては、「漢の里」の約5~6分の1の「里」単位を使用してたことがわかる。「短里」である。朝鮮半島の東西幅(300~360キロ)=四千里であるから、この「短里」は一里=75~90メートルである。また、倭人伝において、壱岐に当たることが確実視されている「一大国」の面積が「方三百里」としているから、一里は75メートルに近い値であると考えられる。この短里は、「魏志」のほか、「江表伝」「魏略」「海賦」等の魏晋朝の文献にも認められ、魏晋朝において使用されていた、「里」単位であることは疑いない。また、「周髀算経」の研究(谷本茂氏)により、この「短里」が周代に用いられた「里」単位と一致することがわかっている。秦・漢において廃止された「短里」が魏晋朝において復活したものと考えられる(魏晋朝の「復古主義」)。
以上によって、魏志倭人伝における「里程値」が決して誇張などでなく、当時用いられた「短里」による「実定値」であることが判明する。
1-2.「里程論」
さて、上述のように、魏志倭人伝に示された「里程」が真実であれば、ここに示された「里程」記事を追って行けば、おのずから、邪馬壹国の所在に辿りつくはずである。
倭人伝には二つの「里程」が存在する。一は、帯方郡治から倭国の首都に至る間の各「区間里程」である。二は、同じ距離の「総里程」である。したがって当然、「区間里程の総和は総里程」である。
では、その両者(区間里程と総里程)を挙げよう。
A)区間里程
七千余里 帯方郡治→狗邪韓国 千余里 狗邪韓国→対海国 方四百余里 対海国の面積 千余里 対海国→一大国 方三百里 一大国の面積 千余里 一大国→末盧国 五百余里 末盧国→伊都国 百里 伊都国→奴国(傍線行程) 百里 伊都国→不弥国
B)総里程
一万二千余里 帯方郡治→女王国
C)日程
水行二十日 不弥国→投馬国(傍線行程) 水行十日・陸行一月 帯方郡治→女王の都する所
さて、まずC)の「日程」は、「区間里程」には含まれない(従来、C-(2)を投馬国→邪馬壹国の「里程」とする)。しかし、当然ながら、この記事は日程を示すものであり、「里程」ではない。「総里程」が判明している以上、「区間里程」の一部を「日程」で示すことなど通常考えられぬ。これは自明の道理である。
さて、「三国志」の用法を検証すると、以下のことがわかる。「至」の用法である。
a)進行を示す先行動詞(「行」など)+「至」
行きて曲阿に至る。呉志三
諸軍数道並行して漢中に至る。魏志二十八
これが通常の形である。
b)(先行動詞なし)「至」
東、海に至り、西、河に至り、南、穆陵に至り、北、無棣に至る。魏志一
このような場合、一つの基点をもとに、そこからの位置付けを示している。(四至)以上のような「至」の用法をかんがみるとき、A-(8)の記事は、b)の用例であることがわかる。
東南、奴国に至る、百里。魏志倭人伝
つまり、この(8)の記事は、基点である「伊都国」からの「奴国」の位置付けを示しているものであり、「帯方郡治→邪馬壹国の主線行路」ではないのである。(C-(1)の「投馬国」も同様に「傍線行路」)図示すると、以下のようである。
帯方郡治→狗邪韓国→対海国→一大国→末盧国→伊都国(傍線行程、奴国)→不弥国(傍線行程、投馬国)→邪馬壹国
以上によって、その区間里程を計算してみると、(1)(2)(4)(6)(7)(9)の合計は一万六百里。B)の一万二千里には、千四百里足りない。ここで、(3)と(5)が注目される。これは従来、面積であるから「里程」に含まぬ、と見なされてきたものである。以下の図を参照。
<図>半周読法とは「島を半周するように二辺を通過する」と見なして計算する方法である。
上図の(1)は、従来の読み方だ。また、(3)は、この二島があくまで経過地である事を考えれば、妥当ではない。(2)のように計算した場合、対海国の半周=八百里、一大国の半周=六百里であり、計千四百里である。これを先の一万六百里と合わせて、ちょうど一万二千里となる。
ここで「区間里程の総和が総里程」となったわけである。
以上の結果は次の結論を導く。「不弥国=邪馬壹国の玄関」である。以上を踏まえると、下図のように邪馬壹国の所在は明らかとなる。
<図>邪馬壹国の位置は、不弥国(博多湾岸)のすぐ目と鼻の先である。
すなわち、倭国の女王・卑弥呼が都していた領域とは、「博多湾岸」である。(「不弥国」の位置は従来からほぼ諸説一致していた)
1-3.「物証論」
魏志倭人伝において、倭国の情報として登場する「物」が考古学上の出土状況と、どう一致するのか、を検証する。
矛
「宮室・楼観……常に人有り、兵を持して守衛す」 「兵には矛・楯・木弓を用う」魏志倭人伝
この「矛」は、当然「銅矛」が中心であろう。(「石矛」「鉄矛」であったとしても、弥生時代の「矛」分布は、「銅矛」のそれと相違ないはずである)以下の表を参照。(古田武彦『古代は輝いていた1-「風土記」にいた卑弥呼』をもとにかわにし作成)
- | 細矛 | 中細矛 | 中広矛 | 広矛 | 細戈 | 中細戈 | 中広戈 | 広戈 | 細剣 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
<大分>豊前(宇佐市等) | - | - | 7 | 6 | - | - | 20 | - | 1 | - |
<大分>豊後(大分市等) | - | - | 5 | 32 | 3 | - | 11 | - | 中細剣4 | 戈か剣鋳型1 |
<熊本> | - | 7 | 5 | 4 | - | 3 | 8 | 1 | 1 | - |
<宮崎> | - | - | - | - | - | - | 1 | - | - | - |
<鹿児島> | - | - | 1 | - | - | - | - | - | - | - |
<福岡>筑前(博多湾岸等) | 20 | 1 | 24(鋳型1) | 56(鋳型11) | 9 | - | 126(鋳型4) | 2(鋳型4) | 25(鋳型1) | 戈鋳型片等7 |
<福岡>筑後(八女市等) | 3 | - | - | 43 | - | - | 13 | - | 6 | - |
<佐賀>唐津(東松浦郡) | 11 | - | - | 3 | 6 | - | - | 1 | 13 | - |
<佐賀>その他(佐賀市等) | - | - | 1 | 8 | 2 | 2(鋳型1) | 1(鋳型1) | - | 6 | - |
<長崎>対馬 | 2 | - | 7 | 87 | - | - | 1 | - | 5 | - |
<長崎>壱岐 | 2 | - | - | 3 | - | - | - | - | 3 | - |
<長崎>その他(島原市・諫早市) | 4 | - | - | - | - | - | - | - | 4 | - |
明らかに九州の中でも福岡県(博多湾岸)が「矛」の中心地である。
絹
倭人伝には中国の天子から卑弥呼へ下賜された絹・錦、卑弥呼や壹与から中国の天子への上献した錦の記事が多くある。これらの記載からすれば、倭国の首都には、中国製・倭国製の絹が多く出土するはずである。絹の出土地は立岩遺跡・春日市門田遺跡・須久岡本遺跡・肥前南高来郡三会村遺跡に限られており、それはまさに「博多湾岸」領域である。(最近、近畿からも絹の出土が確認された。しかし、出土状況の大勢に影響はない―かわにし注)
勾玉
倭人伝によれば、倭は中国に勾玉(勾珠)を献上している。
「白珠五千孔・青大勾珠二枚…貢す」
これによれば、献上されたのは青く大きな勾玉であった。「ガラスの勾玉の鋳型」の出土例をみれば、「博多湾岸」領域が最もふさわしい。
鏡
さて、いわゆる「三角縁神獣鏡」は、「邪馬台国」論争の中心を担ってきた。しかし、「三角縁神獣鏡」が、上述の「矛」「絹」「勾玉」「鉄」(後述)と共通の出土範囲を持たぬゆえ、いまや、「三角縁神獣鏡」が倭人伝の「鏡」ではないことは明らかである。かわって、「矛」「絹」「勾玉」「鉄」と共通の出土領域を持つ「鏡」は「漢式鏡」である。加えて、「三角縁神獣鏡」は、中国からは出土していないから、国産(国内産)である。さらに、「三角縁神獣鏡」は、弥生遺跡からは出土しないから、弥生時代の産物ではない。弥生時代の遺跡から出土するのは、主に「漢式鏡」だから、倭人伝の「鏡」は「漢式鏡」と見なすほかない。そしてこの「漢式鏡」は、九割が福岡県(さらにその九割が「筑前中域」(糸島・博多湾岸・朝倉)から出土している。この領域こそが、倭国の首都圏である。
鉄
a)
木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或は鉄鏃、或は骨鏃なり
b)
国に鉄を出す。韓・[シ歳]・倭、皆従いて之を取る。諸市買、皆鉄を用う。中国に銭を用うるが如し。又以って二郡に供給す。魏志、韓伝
a)は国産の消耗品である。b)は注目すべきだ。朝鮮半島から日本列島にかけて、「鉄」は「貨幣」として通用していたのである。いずれにしても、「鉄」は卑弥呼の国にとって重要な存在だった。この「鉄器」の出土数は「福岡県106」に対し「奈良県0」。この事実からも倭国の首都のありかは明らかである。
冢
a)
其の死には棺あるも槨無く、土を封じて冢を作る
b)
卑弥呼死するを以って、大いに冢を作る。径百余歩
卑弥呼の墓の形状と大きさは、文面から明らかである。形状は、「円墳」。「径」というのは、「円のさしわたし」を意味する述語だからだ。まかりまちがっても、「前方後円墳」ではない。大きさは、「一里=三百歩」であるから、1里=75メートル(短里)とすれば、1歩=25センチである。したがって、卑弥呼の墓は、「百余歩(130歩~140歩)=30~35メートル」となる。このような規模の墓(円墳)は、弥生墓としてまことにふさわしいものである。巨大な前方後円墳は、まったくその資格がない。
以上の出土事実が、倭国の首都=博多湾岸の命題を支持しているのである。