歴史・人名

1.中国の分裂と律令国家

1.中国の分裂と律令国家
 3世紀に後漢が滅亡すると、魏・呉・蜀の3国が争う三国時代となった。3国の中では魏が
最も力があり、蜀を滅ぼした。しかし、魏の将軍であった司馬炎が国をうばって晋(西晋)をた
て、呉を破り、中国を統一した。

 晋はその後、帝位をめぐって一族が争うようになると、その内乱に乗じて北方や西方にいた
遊牧諸民族が黄河流域に侵入し、つぎつぎに国をたてたが(五胡十六国)、やがて北魏の
太武帝が黄河流域の華北を統一した。北魏はその後、さらに東西に分裂し、北魏を含む5国
を北朝という。

雲崗の石仏

写真:東京国立博物館
 一方、晋は長江流域の江南にのがれ、東晋として晋を復興させたが、その後滅亡し、4国が続き、その4国を南朝と
いい、北朝の5国と南朝の4国が続いた時代を南北朝時代という。

 後漢から南北朝時代を通じて、官吏は九品中正とよばれる推薦制度が行われ、有力な豪族か上級の役職を独占する
ようになり、貴族の勢力が強い時代となった。

 貴族は大きな荘園と多くの隷属民をしたがえて、農産物や手工業製品などを自給していった。

 また、この時代は仏教がさかんとなり、北魏の時代には雲崗や竜門の岩のがけに大きな石仏がつくられた。
中国の分裂時代と律令時代

 581年に北朝の北周からおこった隋の文帝は、589年に南朝の陳を倒して中国を統一し、都を長安にさだめた。

 隋は南北朝時代の諸王朝が行っていた均田制・租庸調制(土地を国有とし、戸籍を作成して農民に土地を分け与え、
そこから税や労役などを課す制度)などを取り入れると同時に、九品中正の制度を廃して、科挙とよばれる儒学の試験
による官吏登用の制度を行い、中央集権化を図った。

 隋の2代目の皇帝である煬帝は、稲作地帯の長江流域と政治の中心地である黄河流域を結ぶため、大運河を完成さ
せた。

 しかし、農民にとってこれらの土木工事の負担は大きく、高句麗遠征が失敗すると各地で反乱がおこり、隋は李淵(唐
の高祖)によって618年に滅ぼされ、唐がたてられた。

 唐は長安を都とし、中国を統一すると、北方はモンゴル高原の遊牧民族である東突厥を服属させ、西方はシルクロード
にそったオアシス都市を領有し、中央アジアではイスラム帝国と戦い、東方では新羅と結んで百済・高句麗を滅ぼし、
南方ではベトナム北部を領土にした。

 唐は隋の制度をうけついで、律・令・格・式という体系だった法制度を整え律令国家をつくりあげた。中央には三省・六部
とよばれる機関をおき、官吏は科挙によって採用が行われた。税の制度も隋をうけつぎ、均田制と租庸調制を行った。
 また、軍隊については、一定期間農民に兵役を与え、都の警備や辺境の守備をあたらせるという、西魏の時代に行われ
ていた府兵制とよばれるものをうけついだ。

 首都である長安は東西9.5km、南北8.5kmの長方形の都市で東アジアの地域での首都建設のモデルとなった。

 シルクロードの陸路や東南アジア・インド沿岸の海路を通じて、長安には周辺諸国からの使節や留学生・商人など
が集まり、その中には日本の阿倍仲麻呂のように外国人であっても官僚になるものもいた。

 また唐の時代には、帝室や貴族が仏教を保護したので、仏教が栄えることになった。玄奘や義浄は仏典を求めて、
インドまで行く者もいた。玄奘の旅行記は「大唐西域記」として著され、孫悟空を主人公とする「西遊記」は玄奘をモデル
としている。

 科挙には詩作が重視されていたため、杜甫・李白・白居易などの独創的な詩風をもつ詩人が活躍し、日本の文化にも
影響を与えた。
三国~西晋時代
の青磁器 西晋~東晋時代
の青磁器 東晋~南朝時代
の青磁器 南朝時代の
青磁器 唐三彩

				

 
隋~唐時代の白磁器 唐~五国時代の青銅器

	写真:東京国立博物館

 7世紀末の中国史上唯一の女帝である則天武后は、積極的な科挙による登用を行った結果、古い家柄の貴族から
科挙官僚に政治の中心がうつっていった。

 8世紀の初めに即位した玄宗の時代には、人口が増加し、商業が発達してくとともに、農民に貧富の差が大きくなり、
没落した農民は逃亡するようになった。均田制・租庸調制度が崩れはじめ、府兵制も維持できなくなると、傭兵による
軍隊がつくられ(募兵制)、指揮官にあたる節度使が辺境を防備した。

 8世紀の中ごろ、節度使の安禄山や吏思明による安史の乱がおこると、唐の統制力は弱くなっていった。

 8世紀の終わりごろに、租庸調制にかわって両税法とよばれる税制を採用し、塩の専売も唐が行うようになると、9世
紀後半に大きな反乱がおこり、全国に広がるようになり、10世紀の初めに節度使の朱全忠によって唐は滅ぼされた。

 朱全忠は後梁を建国したが、50年間のうちに華北では有力な使節度が国をたて、そのほかの地方でも10あまりの
国が興亡したことから、この時代を五代十国時代という。
2.朝鮮半島
 朝鮮半島では、紀元前2000年ごろから、あわなどの雑穀の栽培がはじまり、紀元前1000年以降には稲作が半島の
中部・南部で行われるようになった。また青銅器が使われ、、のちに鉄器も使われるようになった。

 紀元前2世紀末に漢の武帝が半東北部に楽浪郡がおかれ、漢の支配下にあったが、紀元前1世紀ごろに楽浪郡
の北部に高句麗という国がおこり、半島南部では小国がいくつもできていた。

 4世紀はじめに、高句麗は楽浪郡を滅ぼし、半島北部を支配し、半島南部では東側に新羅、西側に百済、南側に
加羅という国が分立していた小国をそれぞれまとめていき、高句麗、百済、新羅が並立していた時代を三国時代と
いう。

 日本(倭)は百済と加羅と協力して高句麗と戦ったことが、高句麗の広開土王(好太王)の碑に残されている。
 6世紀になると、新羅が勢力を強め、唐と結んで百済・高句麗を滅ぼした。日本は百済に援軍を
送ったが、663年に白村江の戦いで敗れ、日本は朝鮮半島の支配を失った。

 新羅はその後、676年に唐の支配をしりぞけ、朝鮮半島の大部分を支配した。新羅は唐の律令
制度を導入したが、社会基盤は骨品制とよばれる氏族的な身分制度であった。また仏教を保護し、
首都である金城(現在の慶州)を中心に仏国寺などの寺院が建てられ、仏教文化が栄えた。

 新羅は8世紀後半ごろから衰えはじめ、10世紀前半に高麗が新羅を滅ぼした。高麗もまた仏教
を保護し、仏教経典を集成して「大蔵経」をつくり、また高麗青磁とよばれるすぐれた磁器や世界最
初の金属活字も発明された。
仏国寺

写真:takuyaさん
「写真素材 フォトライブラリー」
 高句麗が滅亡した後、中国の東北地方では渤海という国がたてられ、8~9世紀にかけて栄えた。渤海は唐の
律令制度をとりいれ、日本とも通交が行われた。
3.中国の周辺諸国
 6世紀の中ごろに、モンゴル高原を中心に、突厥という国がたてられ、のちに南北に分裂したものの、唐が建国される
際には騎馬軍団で援助し、大きな勢力をもっていた。8世紀に東突厥という国を滅ぼしてたてられたウイグルは、唐の
中期時代に唐が混乱すると圧迫したが、9世紀にキルギスという国に滅ぼされた。

 突厥とウイグルの時代には、独自の文字がつくられ、北方遊牧民の最初期の文字であった。

 チベットでは、ソンツェン=ガンポが7世紀に統一国家をつくった。チベット文字という独自の文字を用い、インド仏教と
チベットの民間信仰が融合されたチベット仏教(ラマ教)が生まれた。

 チベットは8世紀の後半に、唐との争いがおこり、南詔が強くなり、唐の影響を受けながら栄えた。

 唐の影響は東南アジアにも広がり、カンボジア・チャンパー・シェリーヴィジャヤといった、インド文化を受けた国々も
唐に朝貢を行わせた。

 ベトナムはこれまで中国に支配されていたが、10世紀後半に独立国家がたてられ、11世紀のはじめに李氏が大越国
をたて、仏教や儒教がさかんに行われた。
確認問題
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