歴史・人名

USA

アメリカ合衆国USA

1776年独立を宣言した13州からなる連邦国家で世界史上最初の近代的共和制国家。
 15世紀末のコロンブスの北アメリカ大陸到達以来、初めはスペイン人、その後、フランス人やイギリス人などヨーロッパから移住、入植した白人の移民は、東部の海岸地方を現地人インディアンから奪い、定住していった。特に17世紀以降、イギリスから宗教的迫害を逃れて移住した新教徒は、コミュニティをつくってインディアンとの交易などにも従事しながら内陸部にも進出してゆきイギリス領13植民地を形成した。 18世紀にはイギリスはフランスとの植民地戦争に勝って、その領地を拡大したが、その戦費負担を植民地側に押しつけるようになったため、植民地側の独立要求が強まり、ついに1775年にアメリカ独立戦争が勃発、独立派は76年に独立宣言を行った。独立戦争は、植民地側にとって苦しい戦いであったが、国際的な情勢が有利に働く中、81年までに勝利を実現し、イギリスも83年にパリ条約で独立を承認、独立戦争はアメリカの勝利に終わり、その過程で「アメリカ合衆国」United States of America (USA)が誕生した。アメリカという呼称についてはアメリゴ=ヴェスプッチの項を参照。
 アメリカ合衆国は、世界史上、初めて最初から国王や貴族のいない、共和政の連邦国家として成立、イギリス植民地支配からの解放を実現しただけでなく、市民=ブルジョワジーが権力を掌握した国家として誕生したので、単なる独立戦争としてではなく、アメリカ独立革命として捉えなければならない。それは、次ぎにヨーロッパで起こるフランス革命に続く、ブルジョワ革命の一環であった。また、大西洋をはさんでイギリスでは産業革命が進行しており、同時に、アメリカの独立はラテンアメリカの独立にも大きな影響を与えたたので、これら一連の動きを大西洋革命と捉えることもできる。
 アメリカ合衆国は、独立当初はその存続も危ぶまれる脆弱な連合国家にすぎなかったが、その西部に広がる広大な土地に領土広げると、ヨーロッパやアジアの旧世界と異なる厖大な資源を獲得することとなった。アメリカ合衆国はインディアンから取り上げた土地と、南部における植民地時代からの黒人奴隷を労働力としてタバコ、綿花などの大農園が生みだした富によってもたらされた繁栄を遂げていく。アメリカ合衆国は、世界の大国として世界史上に重要な存在となるのは、国家分裂の危機を脱した、南北戦争を克服し、北部主体の工業国としてイギリスを追い抜いてゆく、19世紀後半のことであった。アメリカ合衆国はヨーロッパ諸国の干渉を嫌い、孤立主義をその外交姿勢の伝統としてもっているが、20世紀の大国化したアメリカは、国際政治の中でのイニシアティヴをとらざるを得ない立場に立っていった。 → アメリカ独立革命 アメリカの外交政策 大西洋革命
 (1)アメリカ合衆国の成立 (2)米英戦争と領土の拡大 (3)南北戦争 (4)アメリカ帝国主義 (5)第一次世界大戦 (6)戦間期 (7)世界恐慌・第二次世界大戦 (8)戦後のアメリカ (9)ベトナム戦争 (10)冷戦終結とその後アメリカ 

アメリカ合衆国(1) 合衆国の成立

独立宣言から独立達成へ
独立戦争と独立宣言 北アメリカ大陸の東部イギリス領13植民地は、1775年にアメリカ独立戦争に立ち上がり、ワシントンを独立軍司令官として 1776年7月4日に大陸会議はジェファソンの起草した独立宣言を採択した。当初はフィラデルフィアに召集された大陸会議が最高議決機関であり、実質的な政府の役割を果たした。13植民地はそれまでの植民地議会に代わり、次々と独自の統治機構を造り、東部に13の共和国(states =「邦」、1789年の合衆国憲法成立後は「州」の字を充てる)が成立した。
アメリカ連合規約 翌1777年に大陸会議で制定されたアメリカ連合規約は「アメリカ合衆国」を国号とする国家連合を発足させることを決定した(施行は1781年)。アメリカ連合規約によってそれまでの大陸会議に代わり、各邦の代表を1票として構成される連合会議が発足し、他国との宣戦・講和、条約締結などの外交権が付与されたが、徴税権や徴兵権は各邦が持っていたので、強力な中央政府とは言えなかった。
独立戦争の勝利 アメリカはフランスの参戦やロシアの武装中立同盟政策に助けられて国際的に優位に立ち、独立戦争も次第に戦局を転換、1781年のヨークタウンの戦いで勝利を占め、ついに83年のパリ条約でイギリスはアメリカの独立を認めた。この頃イギリスは、まさに産業革命の渦中にあった。

アメリカ合衆国憲法の制定
アメリカ合衆国憲法 その間、アメリカ国内では連合国家であるものの、統一的な憲法の下で、強力な中央政府(連邦政府)が必要であるという意見が次第に強まり、1787年に憲法制定会議が発足し、同年中にアメリカ合衆国憲法が制定され、88年に各邦が批准して正式に施行された。これによってアメリカ合衆国は立憲主義と民主主義を原理とし、三権部立による共和政をとる国家として確立した。
 従来の連合会議に代わって、アメリカ大統領を主とした連邦政府が外交、徴税、軍隊をもつ強力な中央政権として発足すこととなり、従来の邦(ステーツ)は「州」という位置づけとなった。しかし、連邦政府の権限を強化すべきであるという「連邦主義」と、州の独立性を維持、強化すべきであるという「州権主義」(反連邦主義)の意見も対立も憲法制定会議の段階から根強くあり、発足後のアメリカ合衆国の中の対立軸となっていく。
権利章典の追加 また、合衆国憲法には人権規定を欠いていたことが批准に当たって反対派の論拠となった。そこで1789年に発足したアメリカ連邦議会はその検討に入り、政教分離、信教・言論・結社の自由などを盛り込んだ憲法修正1条~10条を制定、これらの条項は権利章典として1791年までに各州の批准を得て発効した。
 1789年、ワシントンが初代大統領となってアメリカ合衆国は実際の歩みを始めるが、その年は、ヨーロッパにおいてフランス革命が勃発した年であった。

「邦」と「州」
 アメリカ合衆国を構成するステーツ state は、13植民地から始まり、独立戦争の過程でそれぞれが独立した共和国でなっていったが、1777年のアメリカ連合規約からは、連合会議に外交権を委譲したかたちとなり、1787年のアメリカ合衆国憲法からは徴税権や徴兵権も連邦政府に与えたので、主権国家ではなくなった。その間、同じステーツということばが使われているので、わかりずらいが、日本では1777~87年のステーツを「邦」と表現し、87年の合衆国憲法成立後を「州」として区別するのが一般的のようだ。なお日本では明治以来「合衆国」という文字を当てているが、意味からすれば「合州国」と言うべきであろうという議論もある。しかし、現在では「合衆国」が定着しており、また国王や貴族のいない、民衆(人民)の協力で成り立つ国家という意味を込めるならそれでもよさそうだ。州は漸次増加し、19世紀半ばまでに太平洋岸に達し、現在はハワイ、アラスカを含め、50州となっている。

アメリカ国旗「星条旗」
 アメリカ植民地の独立戦争中に、いくつかの「大陸旗」が掲げられていたが、1777年6月14日に大陸会議が「星条旗」を採用した。この星条旗は、フィラデルフィアの旗職人、ベッツィ・ロスが考案したとされており、ワシントンの推薦で、国旗とされた。星の数は州が加わる度に増やされ、現在は50個となっている。 → アメリカ国旗「星条旗」

出題 2007年 センターテスト本試験
 22問 アメリカ合衆国として独立した13州に含まれないのは次のどれか。
 1.マサチューセッツ  2.ニューヨーク  3.ヴァージニア  4.フロリダ

 解答  

合衆国首都の変遷
 独立戦争勃発時の独立派の中枢は大陸会議であり、それはフィラデルフィアに置かれていた。1789年の連邦政府発足時には、最初の首都はニューヨークに置かれ、1790年からはフィラデルフィアに戻った。その間、新首都の建設が決まり、1800年に完成し、初代大統領の名前を付けたワシントン特別区となった。ワシントンは第2次独立戦争と言われた1812年のアメリカ=イギリス戦争では一時イギリス軍によって破壊されるということもあったが、その後、現在の大統領官邸ホワイトハウスも再建され、現在に至っている。

Episode 初代閣僚の半数は30歳代
 初代アメリカ大統領となったワシントンは57歳、副大統領にはマサチュセッツのジョン・アダムス。国務長官にジェファソン、陸軍長官にノックス(39歳)、財務長官にハミルトン(32歳)、郵政長官にサムエル・オズグッド、司法長官にランドルフ(36歳)と、閣僚の半数近くが三十代だった。連邦最高裁判所の首席判事にはジェイが任命された。行政省庁の官僚機構は、本省が最大の財務省でも39人の本省職員と1000人前後の徴税人と税関職員、陸軍省も5人の職員と約3000人の軍隊、国務省に至っては4人の職員と一人の通訳がいるにすぎなかった。‥‥1801年の時点でも130人にとどまっていた。連邦政府が中央政府としてきわめて規模の小さい「アメリカ型国家」であったことが明らかであろう。<五十嵐武士『世界の歴史』21(中央公論社)p.162>

フェデラリスト党とリパブリカン党
 1789年2月、最初の大統領選挙が行われ、ワシントンが初代のアメリカ大統領に選出された。彼は大統領を2期務めたが、長期政権化を自ら否定して3期目は立候補せず引退した。その間に、合衆国憲法制定過程で明らかとなっていたフェデラリスト(連邦派)とアンチ=フェデラリスト(反連邦派)の意見の対立がより深刻となり、それぞれが政党を結成し、アメリカにおける二大政党への形成へと向かっていく。
フェデラリスト党 前者の指導者は財務長官であったハミルトンであり、連邦政府のもとで中央集権的な秩序を築き、そのもとでアメリカの商工業を発展させことを主張し、東海岸の都市エリートを支持基盤としてフェデラリスト党(連邦党)という党派を形成、大衆の政治参加には否定的であった。フェデラリスト党は第3代アダムス大統領まで、建国期の主導権を握っていたが、西部開拓などによて増加した農民層は、権威的なフェデラリストの姿勢を嫌い、1800年の大統領選挙では現職のアダムスが、リパブリカン党のジェファソンに敗れ、その後急速に衰退し、政党としての組織は消滅する。
リパブリカン党 後者の指導者は国務長官ジェファソンであり、中央政府の統制をきらい、各州の権利を重視し、南部や西部の自立した開拓者を主な支持基盤としていた。ジェファソンらは1791年にリパブリカン党を結成した。彼らは、大衆の参加による開かれた政治を求めて1800年にジェファソン政権を誕生させ、その後、マディソン、モンロー、J.Q.アダムスとリパブリカン党大統領が続いた。

1800年の革命
 1796年の大統領選挙では第3代大統領にフェデラリスト党のジョン=アダムズが、副大統領に民主共和党のジェファソンが当選した。この頃は現在のような正副大統領をペアで選出するのではなく、各選挙人は複数の大統領候補者の中から二名に投票し、最多得票者が大統領、次点が副大統領となる決まりだったためである。
 1800年の大統領選挙では、激しい選挙戦の結果、リパブリカン党のジェファソンが当選、政権の支持基盤が建国以来の東部エリート層からはじめて西部を含めた農民層に移ったので、当時は「1800年の革命」と云われた。ジェファソンは1801年の大統領就任式でそれまでのような大統領官邸から議会まで馬車で行くのではなく、歩いて行くなど、庶民性をアピールした。ジェファーソン政権は連邦政府の権限縮小、州権の拡大に努め、今風で云えば「小さな政府」をめざした。
 外交ではヨーロッパのナポレオン戦争では中立的な立場をとったが、1803年にはナポレオンとのルイジアナ買収の協議では現実路線を取り、1500万ドルという格安価格で買収を実行して領土を約2倍に広げた。さらにルイスとクラークをアメリカ大陸北西部探検に派遣し、国土の太平洋岸到達を準備した。連邦政府の権力強化には否定的であったジェファソンであったが、領土拡張では積極策を採ったことは後のアメリカ合衆国の性格を考える上で興味深い。 → アメリカの外交政策

10章2節 用語リスト
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アメリカ合衆国(2) 米英戦争と領土の拡大

アメリカ合衆国は、独立直後に始まったフランス革命以降のヨーロッパの内戦に対しては中立政策をとった。しかしナポレオンの大陸封鎖令に対抗してイギリスがフランスを逆封鎖したためアメリカの貿易が妨害されると、反英感情が高まり、1812年に米英戦争が起こった。この戦争を機に、アメリカは国家意識を強めるとともに国内産業の自立の動きが強まった。ナポレオン没落後のヨーロッパのウィーン体制時代にはモンロー宣言を出してヨーロッパに対する不干渉の姿勢を明確にすると共に、アメリカ大陸での主導権を得て、大陸での領土拡張を推進した。その領土はアパラチアを越え、西方に拡大し、19世紀中頃までに大西洋岸に達した。

米英戦争(1812年戦争)
 ワシントンが初代大統領に就任した1789年は、フランス革命が勃発した年でもある。それ以降、ヨーロッパにおいては革命に対する干渉戦争と、その後のナポレオン戦争でも中立を維持し、イギリス・フランスの双方との貿易を継続していた。 → アメリカの外交政策
 1806年、ナポレオンが大陸封鎖令を発すると、イギリスは対抗措置としてフランスのアメリカとの貿易を妨害したので、アメリカにとっては大きな打撃となった。アメリカはイギリスの通商妨害によって中立を維持することが困難となり、議会にも対英戦争を主張する主戦論者(タカ派)が台頭、大統領マディソンのもとで、1812年に米英戦争(1812~14)に踏み切った。
戦争の背景と展開  米英戦争の口実はイギリスによる貿易妨害、公海上のアメリカ人の強制徴用、インディアンへの武器供与などにたいする反発であったが、背後にはナポレオン戦争中のイギリスの弱体化につけ込み、カナダやフロリダなどに領土を広げようという西部や南部の勢力の領土的野心があった。しかし、アメリカ軍の準備不足もあり、イギリス軍の反撃を受け、一時は首都ワシントンをイギリス軍が焼き討ちするなど、不利な戦いとなった。また、インディアン諸部族はアメリカ合衆国の膨張を恐れていたためイギリス軍を支援した。アメリカはイギリスとの戦争の傍ら、インディアンに対する攻勢を強めた。1814年にナポレオンが没落したことを受け、戦争は講和したが、その知らせが届く前にジャクソン将軍の率いるアメリカ軍がミシシッピでイギリス軍を破り、アメリカ人は戦争に勝ったという意識を持ったが、実際には勝敗のつかない終結であった。
ナショナリズムの高揚と産業・経済の自立 米英戦争は、アメリカ側が仕掛けた第二次独立戦争とも位置づけられる戦争であった。当初は無意味で、無謀な戦争であるとの非難も強かったが、イギリスと互角に戦う中でアメリカ人の国家意識(ナショナリズム)がめばえ、またイギリス工業製品が入ってこなくなったことからアメリカ産業がイギリス依存体質を脱却して、経済的な自立がはかられることとなった。同時にこれを機にインディアンの土地を奪って西方への発展の足がかりをつかんだことも重要である。

Episode 米英戦争から生まれたアメリカ国歌
 1814年8月、イギリス軍はワシントンを攻撃し、焼き払った。アメリカ大統領マディソン以下はヴァージニアの山間部へ疎開した。勢いついたイギリス軍はボルティモアに攻め込んだが、そのマックヘンリー要塞でアメリカ軍は25時間にわたる激戦の末、イギリス軍を撃退した。マックヘンリー砦の夜明けの空に星条旗が掲げられたのを、海上のイギリス艦船から眺めていたアメリカ人弁護士がいた。彼、フランシス・スコット・キーはアメリカ軍捕虜の釈放嘆願のため乗り込んでいたのだった。要塞の上にはためく星条旗を見たキーは大いに感動し、「マックヘンリー要塞の防衛」という詩を詠んだ。この詩が、そのころアメリカ人が宴会で歌っていた「天国のアナクレオンへ」という曲にのせて歌うと、妙にノリが良いことから評判となり、広く歌われるようになった。それが現在、アメリカ国歌として歌われる「星条旗」である。1889年にはアメリカ海軍が国旗掲揚時にこの曲を演奏、20世紀に入り、ウィルソン大統領が「国歌のように」取り扱うことを命じている。実は国歌として正式に定められたのは意外に遅く、1931年3月3日のことだった。第2次世界大戦中に愛国心を高揚させるために、大リーグなどプロスポーツの試合前に歌う事が慣習となった。ちなみに日本の「君が代」が国歌として制定されたのは1999年である。<杉田米行『知っておきたいアメリカ意外史』2010 集英社文庫 p.48-53>
 なお、アメリカ国歌「星条旗」The Star-Spangled Banner を「星条旗よ永遠なれ」Stars and Stripes Forever という人がいるは、それは別な曲で、スーザが作曲した行進曲です。

領土の拡張
 東海岸のアパラチア以東の13植民地の後身である13州の連合国家として独立したアメリカ合衆国は、1783年の独立達成時に、アパラチアを越えてミシシッピ川以東をイギリスから獲得し、1803年にジェファソンはフランスからルイジアナを買収してミシシッピ以西に領土を広げ、西部進出を本格化させた。1812年の米英戦争ではインディアンがイギリスを支援したことを口実としてその土地を次々と収奪していった。
 1818年にはイギリスとの間でイギリス領カナダとの境界線を北緯49度とし、ロッキー山脈以西のオレゴン地方は米英の共同管理とした。南部では、1819年にスペインからフロリダを500万ドルで買収した。ミシシッピ川以西の南部の広大なスペイン領では、アメリカ人入植者が独立運動を起こして成立したテキサスを1845年に併合、それを機に米墨戦争に突入して、1848年にはカリフォルニアなどを獲得(買収)した。
モンロー教書 ヨーロッパはナポレオン戦争後のウィーン体制のもとでスペインやオーストリア、プロイセンなどの君主国が勢いを取り戻す反動期に入っており、それらは当時始まったラテンアメリカの独立に介入する姿勢を示し始めた。アメリカ合衆国のモンロー大統領は、1823年にモンロー教書を発表してモンロー主義ともいわれる孤立主義の外交原則を示してヨーロッパ諸国との相互の不干渉とともに、南北アメリカ大陸をアメリカ合衆国の勢力圏とすることを表明した。 → アメリカの外交政策

ジャクソニアン=デモクラシーの時代
 1830年代のジャクソン大統領と次のヴァン=ピューレン大統領の時代は、アメリカの民主主義が進展した時代とされ、それをジャクソニアン=デモクラシーの時代と言っている。ジャクソンは開拓農民の子で、軍人となり米英戦争と対インディアン戦争で活躍して名声を高め、はじめて西部出身者として1829年に大統領となった。かれは西部開拓農民、東部の農民を支持基盤として権力を握り、白人普通選挙制度の全州への拡張、公立学校の拡充などの政策を推し進めた。それを大統領の専制であると反発した東部の旧支配者層はホイッグ党を結成し、ジャクソン支持派は民主党を結成した。この時代は、自立自衛、機会均等、平等主義などアメリアの「草の根民主主義」の気風が醸成された時代であったが、一方で黒人と先住民、そして女性に対する抑圧は依然として続いていた。
 ジャクソン大統領の時代に、西部開拓が本格化したが、それはインディアン強制移住法の制定にみられるように先住民インディアンの排除と抑圧によって推進されたのだった。

最初の二大政党時代
 ジェファーソン支持者の結成したリパブリカン党は、1828年には西部で台頭したジャクソンを支持するかどうかで分裂し、ジャクソン支持派は民主共和党(Democratic Republican Party)を名のり、反ジャクソン派は国民共和党(National Republican Party)と名のった。前者はジャクソン大統領を当選させ、いわゆるジャクソン民主主義の隆盛を背景に党勢をのばし、1832年に民主党と改称、現在に至っている。また後者は1834年ごろからホイッグ党と称した。その名称は、ジャクソンを専制君主と見立て、かつて王政に抵抗したイギリスでホィッグ党にあやかったものであった。1840年の大統領選挙ではホイッグ党の推すハリソンが、ジャクソンの後継者の現役ヴァン=ビューレンを破って当選、それ以降、1860年に共和党のリンカンが当選するまでの20年間は、ホイッグ党と民主党が交替する二大政党時代となった。ホイッグ党と民主党はそれぞれ全国に支持者をもち、政権担当能力のある全国政党であった。

西漸運動・「明白な天命」
 1840年代には領土の西部への拡大に伴い、東部の農民は新たな土地を手に入れようし、また資本家は土地投機のためにミシシッピ川を超えて西部に移住した。また南部の綿花プランターは、綿花栽培に適した土地を求めて西部開拓を進めた。このようなアメリカ西部への移住運動を西漸運動という。この間、開拓の進む最前線をフロンティアと称し、またアメリカ合衆国の西部への膨張は神から与えられた当然の権利であるという「明白な天命」の考えが現れた。こうして広大な土地と資源を獲得し、19世紀後半には世界の列強の一員となったが、その背後にインディアンからの土地の収奪があったことも忘れてはならない。

メキシコ領の簒奪
 この間、北米大陸に広がるメキシコ(1821年に独立)領にもアメリカ人は次々と移民として移り住んでいった。テキサスではアメリカ人移民が多数を占めるにいたり、1836年にテキサス共和国を独立させ、アメリカへの併合を求めた。テキサスの抗議と反撃を軍隊を派遣して押さえ込んだ第11代大統領ポーク(民主党)は1845年にテキサス併合を宣言した。翌年からからアメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争)が勃発、勝利したアメリカは48年、カリフォルニア・ニューメキシコを獲得した。さらに46年にはイギリスとの交渉によりオレゴンを獲得し、急速に国土を広げ、太平洋岸にまで足した。
 これらは民主党とその支持者である西部・南部のプランター(大農園主)たちの推し進める膨張主義に対して、ホイッグ党のリンカンらの抵抗があったが、戦争批判は非愛国者であるという世論によってかき消された。

ゴールド=ラッシュ
 1848年にカリフォルニアを併合したが、その年、その地で金鉱が発見され、ゴールド=ラッシュが始まり、翌49年を最高潮とする、西部への開拓者の大移動が展開された。こうしてアメリカの支配圏は北アメリカ大陸の太平洋岸に進出し、東西海岸にまたがる広大な領土を有する国家となった。さらに太平洋への進出へとつながることになり、それが1953年のペリー艦隊の日本への派遣、そして翌年の日米和親条約締結による日本の開国となる。 → 1848年革命

11章3節 用語リスト
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アメリカ合衆国(3) 南北戦争

アメリカの北部と南部の産業構造の違いから、南北の対立が顕在化し、特に領土が拡大され新たな州が生まれていく課程で、黒人奴隷を認めるか認めないかが国論を二分するようになり、1850年代には決定的な対立軸となっていった。

奴隷制を巡る南北対立
 アメリカ=イギリス戦争が終結し、アメリカ合衆国は統一国家としての意識を強めていったが、1820年代以降は、北部諸州と南部諸州の産業構造の違いが次第に明確となり、さまざまな点でアメリカの南北対立が表面化していった。北部は工業化が進み、自立的な経済成長をとげつつあったので、保護貿易を主張し、国内市場の発展のためには連邦主義をとった。それに対して、南部の諸州は、綿花プランテーションがイギリス経済に依存する中、自由貿易と反州権主義が根強かった。
 特に大きな対立点となったのが、黒人奴隷制の問題であった。建国時の13州でも、北部には早くから黒人奴隷制反対の声が強く、各州は奴隷制を認めない自由州となったが、南部の各州は黒人奴隷制を認めることを条件に連邦に加盟したこともあり、その維持は不可欠と考えられ奴隷州となっていた。さらに綿花のイギリスへの輸出が増大するに伴い、プランテーションにおける黒人奴隷労働は不可欠なものと考えられるようになった。
 ただし、北部においては黒人奴隷制に反対の声は強かったが、即時廃止を主張するのは少数で、多くは黒人奴隷制の拡大に反対なのであって、当面南部諸州がそれを維持することは容認し、漸進的に廃止にむかえばよい、というのが主流であった。ワシントンやジェファーソンなど、建国時の指導者の多くもそう考えていた。しかし、アメリカ合衆国の領土が拡大していくなかで、次々と州が加えられていくに従い、奴隷制拡大かどうかが問われるようになっていった。
政党の内部分裂 南北の地域対立は、当時の二大政党であった民主党とホイッグ党の内部にも現れた。民主党は奴隷制度の可否を住民投票で決めることを主張する北部民主党と、奴隷制度をそのまま維持、拡大していこうとする南部民主党が分裂した。ホイッグ党は奴隷制を認めない北部の党員は、奴隷制反対を掲げて1854年に結成された共和党に合流し、奴隷制度容認派は南部民主党に加わった。こうして政党が分裂してそれぞれ地域政党化してしまい、全国レベルで利害を調整する機能が失われてしまった。

ミズーリ協定からカンザス=ネブラスカ法へ
 新しく州に昇格(男性人口6万で州に昇格)するとき、奴隷州にするか、自由州にするかが大きな問題となり、1820年にはミズーリ協定が成立して北緯36度30分以北には奴隷州を造らないという合意が成立した。
 アメリカ=メキシコ戦争の結果、1848年にアメリカ領となったカリフォルニアなどを自由州するか奴隷制にするかが問題となったときは、「1850年の妥協」が成立し、カリフォルニアを自由州とするが、ユタとニューメキシコは住民投票で決めるとされ、またワシントンDCでは奴隷制が禁止された。しかしその代わりに逃亡奴隷法が出されて奴隷の自由州への逃亡は厳しく取り締まられることとなった。51年にはストゥ夫人の『アンクル=トムの小屋』が発表され、黒人奴隷の待遇への批判が北部で巻き起こり、奴隷制反対運動が活発になった。
 南部のプランターを支持基盤とする民主党は、巻き返しを図り、1854年にカンザス・ネブラスカ法を成立させ、その結果ミズーリ協定が破棄され、北緯36度30分以北のこの二州でも住民投票で決定するとなった。
共和党の結成 それに反発した北部の奴隷制反対論者は、ただちに共和党を結成してそれに対抗しようとした。1856年にフィラデルフィアで正式に全国大会を開き、独自の大統領候補を立てた。このときは敗れたが、翌57年にはドレッド=スコット判決で最高裁が黒人の権利を否定する判決が出されて、奴隷制反対派はさらに危機感を強め、共和党は結束を強めていった。

南部の分離と南北戦争
 こうして奴隷制問題は独立後間もないアメリカ合衆国にとって国論を二分する大問題となり、1860年の大統領選挙で奴隷制拡大反対の共和党のリンカンが僅差で当選すると、南部諸州は合衆国を離脱してアメリカ連合国を造り、ジェファソン=デヴィスを大統領に選出した。ついにアメリカは南北に二分され、翌1861年に南北戦争が勃発する。

アメリカの南北対立
 南部と北部の対立には、黒人奴隷制問題だけでなく、いくつかの争点がった。その産業構造では、南部は黒人奴隷制による綿花プランテーションを中心とした農業地域であり、生産する綿花はイギリスに輸出し、イギリスから工業製品を輸入するという関係にあったので、イギリスの自由貿易に依存していた。北部は商工業の盛んな都市を中心に、繊維産業や機械、鉄鋼業などでイギリスと競争しており、自国産業を保護するための保護貿易を主張していた。また労働力の不足を補い、国内購買力を高めるためにも奴隷制廃止、もしくは縮小を主張していた。
 また政治体制においては、南部は連邦政府の権限を制限し、州の自治権を拡大する反連邦派を主張し、北部は産業国家として統一が望ましいので、連邦政府の権限を拡大する連邦派が有力であった。政党としては民主党は大農園主層の支持を受けて南部で有力で、それに対して北部産業資本家の支持を受けた共和党が新興勢力として登場していた。

南北戦争
 1861年4月13日、南軍が北軍のサムター要塞を攻撃から戦争が始まり、当初は南軍がイギリス・フランスの支援もあって優勢であった。しかし、経済力に勝る北部が次第に挽回し、1863年1月に出されたリンカンの奴隷解放宣言は、国際的にも戦争の大義が北部にあると受け取られて英仏の干渉を失敗させ、さらにホームステッド法の施行が西部の農民の支持を受けて情勢は逆転した。1963年7月のゲティスバーグの戦いで北軍が大勝し、最後は北軍のグラント将軍が南軍を降服させ、1865年3月にアメリカ連合国の首都リッチモンドが陥落して終結した。南北戦争は南北両軍で62万という死者を出す大戦争であり、アメリカ人の死者数は第一次世界大戦の約11万、第二次世界大戦の約32万よりも多かった。

戦争の意義
 南北戦争が北軍の勝利によって終わったことにより、アメリカ合衆国の統一が維持強化されることとなった。また国家の経済基盤が北部中心の工業力に移り、戦争前から始まっていたアメリカの産業革命がさらに進展することとなった。最大の争点であった黒人奴隷制度は廃止されるという大きな前進がもたらされ、アメリカ市民社会にとっては大きな前進であった。南北戦争はアメリカ合衆国という大国の成立、その工業化による繁栄と多人種国家としての苦悩の出発点となり、19世紀末から20世紀にかけて世界に大きな存在となっていくこととなる。

その後の黒人差別問題
 しかし、戦争の最大の要因であった黒人奴隷制問題は、1865年1月に憲法修正第13条が連邦議会で可決され、戦争終結後の12月に各州の批准によって発効し、正式に黒人奴隷制は廃止され、黒人奴隷は制度としては解放された。しかし、黒人の多くは経済的な自立にはほど遠く、シェアクロッパーと云われる小作人となったものが多く、依然として貧困状態は続き、そのような境遇のゆえに黒人差別はなくならなかった。

「再建」と南部の復興
 南北戦争後の南部の「再建」Reconstruction は議会で優勢だった共和党急進派の主導で行われ、苛酷な内容だった。議会は1866年に憲法修正第14条で黒人に市民権を付与し、翌67年には「再建法」を成立させ、南部諸州を5つの管区に分けて連邦軍を駐留させる軍政を敷き、憲法修正第14条の批准や反乱同調者の追放を復帰の条件とした。北部による軍事支配のもと、北部人が南部に入り込んで、黒人奴隷の解放の業務や大プランターの土地没収などにあたり、しばしば南部人との間でトラブルが起こった。南部の白人の一部には、黒人への人種差別意識を捨てきれず、憎しみを解放された黒人にぶつける秘密結社クー=クラックス=クランが生まれた。
 1877年に南部に駐留していた連邦軍が引揚げ、「再建」の時代が終わると、南部諸州の復帰が進んだ。その中で、南部諸州には徐々に州による黒人差別立法が復活し、公民権の上で白人と大きな格差が生まれ、黒人取締法などで選挙権の実質的剥奪、教育権の不平等その他の社会的不平等に対する黒人の不満は次第に強くなっていった。

二大政党の時代へ
 共和党は軍政が布かれた南部で、選挙権を得た黒人の熱烈な支持を受けて勢力を拡大し、南北戦争前は北部の地域政党に過ぎなかったものが、戦後は全国政党へと成長した。一方、民主党も大きな打撃を受けたとは言え、奴隷制度が廃止されたことで南北の対立要因がなくなり、しかも北部で共和党の恩恵を受けていなかった都市の労働者層や移民に支持を訴え、一つの全国政党として復活した。こうして南北戦争を契機に、アメリカは共和党と民主党のそれぞれが全国政党として合衆国の政治全般に責任を持つ態勢を作り上げ、本格的な二大政党の時代に入ることとなった。
 同時に、二つの政党は黒人奴隷制問題という対立点がなくなったため政策で競い合う本来の機能は弱くなり、政党の役割は選挙で権力を得るための得票マシーンとなっていった。これがアメリカの政党の特色となっている。

11章3節 用語リスト
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アメリカ合衆国(4) アメリカ帝国主義

南北戦争での分裂の危機を克服し、北部主導の工業化が進捗し、アメリカ資本主義での独占資本の成長が顕著となり、19世紀後半から20世紀初頭にかけて帝国主義段階に入った。アメリカ帝国主義は米西戦争、ハワイ併合など海外領土拡張ということに現れている。

工業力の急成長
 アメリカ合衆国は南北戦争の危機を北軍の勝利で終わらせて、国家の統一を維持、というより初めて一つの国家としてのナショナリズムを獲得し、強力な連邦政府のもとで北部を中心とした工業国家建設を進めた。この時期は、アメリカのフロンティアの消滅の時期とも重なっており、90年代からは海外領土の獲得に向かうこととなる。
 1894年には、その工業生産がイギリスを抜いて世界一となった。この間、資本主義は第2次産業革命を迎えて重工業化が進み、特に石油、鉄鋼、自動車などの工業で巨大な資本を必要とするようになり、独占資本の形成が進んで帝国主義の段階を迎えた。
 その中で、ロックフェラー、カーネギー、モーガンなど、一代で財を築く大財閥が出現し、これらの巨大資本の政治への圧力も強まった。議会の中には独占の進行は資本主義本来の自由競争を阻害するので、独占を抑制する律法の動きとして反トラスト法などの制定もあったが、概して無力であった。
工業化を支えた黒人と移民 このようなアメリカの急速な工業化を支えた労働力は黒人奴隷制の廃止によって産み出された黒人労働者の低賃金、さらに苦力(クーリー)といわれた中国系労働者などの移民に支えられていたが、19世紀末になると、北欧系の移民に代わって新移民と言われる東欧・南欧系の移民が増加し、アメリカ合衆国はますます多人種国家となっていった。

帝国主義の伸張
 一方で1890年代にはフロンティアも消滅し、アメリカは海外にその領土を拡げることとなった。共和党のマッキンリー大統領の時の米西戦争は、アメリカの帝国主義戦争の最初のものであり、それによってアメリカはプエルトリコ・フィリピン・グァムを領有し、キューバ独立を支援しながらプラット条項を押しつけて実質的な保護下におき、また同じ時期にハワイを併合した。フィリピンを領有したのもアジア市場への進出をねらってのことであり、おりから東アジアで台頭した日本、およびアジアへの進出をめざすロシアとの競合がはじまり、中国市場での出遅れを解消すべく、国務長官ジョン=ヘイの名で門戸開放等を要求することとなった。
 さらにおなじく共和党のT=ローズヴェルト大統領はカリブ海政策を積極化し、棍棒外交といわれる強圧的な進出を図った。パナマ共和国を強引に独立させ、パナマ運河の権利を獲得した。 → アメリカ帝国主義の外交政策

13章1節 用語リスト
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アメリカ合衆国(5) 第一次世界大戦への参戦

第一次世界大戦開戦時には中立を保ったが、1917年に民主主義の防衛を標榜して参戦し、大戦の終結に大きな役割を果たし、ウィルソン大統領は国際連盟結成などの戦後世界の新秩序形成を主導した。
 第一次世界大戦の勃発に対し、民主党のウィルソン大統領はヨーロッパ諸国間の争いに介入しないというモンロー教書以来の孤立主義の伝統を守ることを公約としていたので、厳正な中立を表明した。アメリカにはドイツやイタリアからの移民も多かったので、参戦によって国論が分裂することを恐れたという現実的な理由もある。一方でウィルソンは、イギリス・ドイツ双方に特使を派遣して和平策を模索するなど、国際協調に乗り出す姿勢も示していた。 → アメリカ帝国主義の外交政策

中立から参戦に転じる
 しかし次第にドイツの好戦的な姿勢に対する国内の非難が強まり、特に1915年5月、ドイツの潜水艦によるイギリス船撃沈の際、多数のアメリカ人が犠牲になったルシタニア号事件をきっかけにドイツに対する敵愾心が強まった。ドイツがいったんは手控えていた無制限潜水艦作戦を再開したことを受け、ウィルソンは議会に対してドイツとの戦いを「平和と民主主義、人間の権利を守る戦い」と意義付けて参戦を提案し、議会は1917年4月6日にドイツに宣戦布告した(アメリカでは宣戦布告を決議するのは議会の権限である)。こうしてアメリカは第一次世界大戦参戦に参戦し、伝統的外交姿勢である孤立主義(モンロー主義)を転換した。直接的にはドイツの無制限潜水艦作戦に対する反発が要因であったが、背景にはイギリス・フランスへのアメリカの工業製品の輸出がストップすることへの恐れと、もし両国がが敗北すればアメリカは莫大な資金援助を回復できなくなることを恐れたものと考えられる。

ヨーロッパ戦線でのアメリカ軍
 アメリカ軍はヨーロッパに派遣され、主として西部戦線でドイツ軍と戦った。当初は32万程度の兵力であったが、最終的には200万に達し、アメリカ軍の参戦が第一次世界大戦の勝敗に決定的な影響を及ぼした。ドイツ軍の最高指揮官ルーデンドルフはアメリカ軍が戦線に投入されたことによって、戦線がドイツ国内に押し戻される前に降伏に踏み切った。一方、アメリカ軍の約200万の兵力のうち、実際の戦闘に参加したのは、ようやく1918年5月ごろからであり、その年11月11日には大戦は終結したので、アメリカ軍の被害は最小限にとどめられた。

参戦に伴う変化
 アメリカ合衆国は第一次世界大戦に参戦することによって、社会的に二つの面での変化が生じた。一つは禁酒法制定の動きであり、一つは女性参政権実現への動きであった。いずれも大戦前から運動は始まっていたが、前者は禁酒によって穀物を節約し前線の兵士に送る、あるいはドイツ系のビール醸造業に打撃をあたえるという主張によって正当化され、また後者は当初は反対していたウィルソン大統領も女性の戦争への貢献が必要であるという理由で賛成に転じて実現した。いずれも各州の批准という手続きに時間がかかり、成立したのは大戦終了後であったが、参戦を契機に大きく進展し、戦後の「戦間期」を規定する法改正となった。

ウィルソンの外交
 アメリカ合衆国の参戦は、第一次世界大戦の終結に決定的な意味を持っていた。ウィルソン大統領は参戦の大義名分を専制主義の国家グループに対する、民主主義・共和主義・自由主義を守る戦いとしていたので、その理念から、戦後の国際社会の基本原則を十四カ条として提示した。とくに国際連盟の提唱は、集団安全保障の原理による世界平和の維持という画期的な提言であり、同時にアメリカの外交政策の原則であった孤立主義を放棄する大きな転換であった。また彼は、無賠償・無併合・民族自決の原理を提唱し、ロシア革命でのレーニンの出した平和についての布告に対抗しようとした。ウィルソンの理念はパリ講和会議ではフランスの報復主義によってねじ曲げられ、また国際連盟は設立されたものの、共和党が多数を占める議会の反対によってアメリカは国際連盟に不参加となった。こうしてウィルソンは失意のうちに退任し、国内政治に目を向けるようになった国民の支持は共和党の方に転じた。

14章1節 用語リスト
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アメリカ合衆国(6) 戦間期のアメリカ

第一次世界大戦後、国際連盟には加盟しなかったが、特に1920年代に世界一位の経済大国として発展。しかし、その反動から1929年に世界恐慌となる。

債務国から債権国へ
 こうして19世紀末に帝国主義段階となったアメリカは、20世紀にはいると孤立主義の外交原則を維持しながら、第一次世界大戦を機に債権国に転じて世界経済の富を独占するという立場になった。  ウィルソン民主党政権に代わったハーディング以降の共和党政権の下で、ドーズ案とヤング案によるドイツ賠償問題の解決や不戦条約の締結、ワシントン会議など、20年代の国際協調の時期にはその指導的役割を果たした。アメリカ経済は大量生産・大量消費の経済社会を出現させ、永遠の繁栄といわれるたが、過度な投資や農作物の生産過剰などから、1929年に一挙に株が暴落、アメリカ経済の破綻が世界恐慌をもたらすこととなった。 → 戦間期のアメリカ外交

アメリカの1920年代
 第一次世界大戦を機に、世界的ま女性の社会進出が進んだが、アメリカ合衆国においても1920年に女性参政権が実現し、民主主義が一段と徹底された。1920年代のアメリカは、共和党政権下の経済の繁栄がもたらされた時代。アメリカの国民総生産は年5%以上成長し続け、インフレはほとんど無く、ひとりあたりの所得は30%以上増えた。こうした経済の拡大をもたらしたのは、科学技術と産業が有機的に結合し、これを政府が支持する「現代アメリカ」のシステムであった。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』上 2002 中公新書など>
 その反面、経済の繁栄は世界中から移民を引き寄せることになり「人種のるつぼ」化が進んだ。そのなかで従来のワスプ(WASP)といわれる西欧系の移民と、新移民といわれる東欧・南欧からの移民、さらにアジア系移民との間で格差が広がり、新たな対立が生じ、1924年には移民法が制定されて、厳しい移民制限がなされることとなった。また、南部の黒人差別は事実上の黒人選挙権の剥奪と、いわゆる分離政策が平然と行われ、一旦沈静化していた白人至上主義者の秘密結社であるクー=クラックス=クランが1920年代に復活し、激しい黒人攻撃をくりかえしていた。

大量生産・大量消費・大衆文化
 20世紀前半、アメリカ資本主義は工業化が急速に増大した。アメリカ合衆国の1920年代の経済成長の中で、大量生産・大量消費が行われ、アメリカ人は物質的な豊かさを経験した。それを牽引したのが自動車産業であり、フォード社のT型モデルがベルトコンベアシステムで大量生産され、価格の低下によって一般大衆が購入できるようになった。同時に関連した石油産業が急速に成長し、道路建設やタイヤ産業も興った。また月賦販売が一般化して、セールスマンが花形職業として脚光を浴び、宣伝業も一大市場となった。このような大量消費社会の形成を反映して、文化の面でもラジオや新聞などのマスメディアが発展し、音楽・演劇でジャズの流行のように大衆化が著しく、また新たな大衆娯楽として映画なども生まれた。1920年代は経済の繁栄を背景とした、「ローリング・トゥエンティ」といわれる現代大衆文化が開花した時代でもあった。

共和党の三代
 1920年代、「繁栄の時代」にはハーディング・クーリッジ・フーヴァーの三代の共和党大統領が続いた。

   ハーディング:在任1921~23 ワシントン会議を提唱して協調外交では功績を挙げたが、内政では汚職が多発したり、自身の女性スキャンダルもあって低迷した。任期途中に死去し、副大統領のクーリッジが昇格した。
   クーリッジ:在職1923~29 無口で愛想が悪く「何もしない大統領」と言われたが、未曾有の経済の繁栄はその自由放任主義がちょうどよかった。外交面では国務大臣ケロッグが活躍して、1928年に不戦条約を成立させた。
   フーヴァー:在任1929~33 商務長官として企業や高額所得者への税制優遇など企業よりの政策を推進し、1929年「永遠の繁栄」を謳歌するアメリカの大統領として当選したが、直後に大恐慌が始まる。それにたいしては彼は政府は経済になるべく介入しない方がいいという信念から、対策を立てなかった。

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アメリカ合衆国(7) 世界恐慌・第二次世界大戦

1929年に世界恐慌が起こると、共和党政権はその対応に失敗、1933年から民主党F=ローズヴェルトがニューディールを掲げて経済を再建に取り組んだ。世界的なファシズムの台頭から第二次世界大戦が勃発すると、アメリカは連合国を主導し、ドイツ・日本の枢軸国と戦って勝利し、戦後世界の主導権を握る一方、戦後はソ連を中心とした社会主義圏との冷戦を展開した。

世界恐慌期のアメリカ
 1929年春、大統領に就任したフーヴァーは「永遠の繁栄」を国民に約束したが、その年の秋には世界恐慌に見舞われることとなる。1931年6月にはフーヴァー=モラトリアムを示して、大恐慌の世界への波及を食い止めようとしたが、手遅れとなった。
 この資本主義経済の破綻は、英仏のブロック経済体制、独伊日などのファシズム国家の登場をもたらし新たな世界分割戦争を引き起こした。アメリカは民主党のF=ローズヴェルト大統領の打ち出したニューディール政策で、豊かな国内資源を背景にした国内購買力の増強に努め、この危機を乗り切ろうとした。ここでとられた経済政策は、資本主義に一定の修正と制限をかけるもので、経済学者ケインズによって理論化され、戦後においても、民主党政権で継承された。

第二次世界大戦とアメリカ
 しかし、ドイツ・イタリア・日本のファシズム国家は枢軸国を形成し、軍事力による領土拡張を押し進めた。アメリカは当初、ヨーロッパの戦争に介入しないという伝統的な姿勢を守っていたが、ローズヴェルト大統領は次第にイギリス支援に傾いていった。1939年、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が開始されると、武器支援法によってイギリスを支援し、40年にはチャーチルと大西洋憲章を発表して戦争協力と戦後の国際平和維持機構の設立で一致した。1941年、日本の真珠湾攻撃を機にアメリカは参戦し、連合国の中核として戦争をにないつつ、ローズヴェルトは積極的に連合国首脳と会談を重ね、戦後の国際社会の主導権を握っていった。ローズヴェルトは戦争末期の44年に死去し、副大統領のトルーマンが昇格、トルーマンは太平洋戦争での原子爆弾の使用を決定し、広島・長崎で実行した。

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アメリカ合衆国(8) 第二次世界大戦後のアメリカ

第二次世界地戦後のアメリカは国際連合を主導すると共に、西側資本主義陣営の盟主として社会主義ソ連を封じ込める政策を採り、冷戦を展開した。50年代には圧倒的なアメリカの経済力を誇ったが、国内では人種問題などの社会問題が表面化した。

冷戦期のアメリカ
 戦後の冷たい戦争といわれた時期にはソ連を中心とした社会主義・共産主義圏に対する自由世界を守るという理念が前面に出され、アメリカは西側自由世界のリーダーとして軍事面、経済面での役割を担っていくという、新たな帝国主義の性格を持つようになった。 → 冷戦期のアメリカ外交
 F=ローズヴェルト民主党政権を継承したトルーマン大統領は、1947年、トルーマン=ドクトリンを発表して共産主義との全面対決を打ち出し、共産圏に対する封じ込め政策を取った。国務長官マーシャルの発表したマーシャル=プランはヨーロッパ諸国の復興を援助することをテコにその共産化を阻止するための介入であった。スターリン体制のもとにあったソ連は、東欧圏に勢力を伸ばし、冷たい戦争といわれる米ソ大陸を軸とする東西対立は深刻化していった。共産圏の情報を収集し、反米活動を妨害する大統領直属の諜報機関として中央情報局(CIA)が設置されたのも1947年であった。
 冷戦下において、アジアにおいては1949年の中華人民共和国の成立に伴って緊張が高まり、翌年ついに朝鮮戦争が勃発、アメリカは国連軍という形を取りながら出動した。アメリカは共産主義の脅威に対しては武力行使も辞さない姿勢をとり続け、一方、国内では反共産主義の姿勢を強めマッカーシズムの嵐が吹きまくった。
 1953年、アメリカは共和党のアイゼンハウアー大統領が就任し、まき返し政策として対ソ強硬策を打ち出したが、ソ連でスターリンが死去し、1956年にはスターリン批判が始まったことから平和共存の機運が出てきた。しかし、それは軍事力での対等と言うことを前提としていたため、米ソ両国はきわどい核兵器開発競争を展開した。 → 冷戦とアメリカ外交

1950年代のアメリカ経済の繁栄
 第二次世界大戦における先進国で、唯一、直接的に本土が戦場とならず、産業基盤を維持できたことは、戦後の世界経済の中でアメリカの一人勝ちという状態をもたらした。冷戦の中でソ連と共産圏と対峙しながら、国内は1950年代から経済の繁栄がもたらされた。
 1950年代のアメリカの繁栄を象徴するものが、「テレビ、プレスリー、マクドナルド」である。テレビは本格的な商業放送が戦後まもなく始まり、またたく間に普及し、57年には各家庭に1台の割合でテレビを所有するようになった。テレビではフットボール、野球、バスケットボールなどが中継され、プロ・スポーツは巨大な産業となった。また「パパは何でも知っている」「ビーバーちゃん」「アイ・ラブ・ルーシー」など中産階級や移民家族を描いたホームドラマが盛んに放映された。50年代には世界中の若者を熱中させたエルビス=プレスリーが登場した。プレスリーは黒人のリズム・アンド・ブルースと南部の白人のカントリー音楽を融合させ、ロックンロールという新しいスタイルを作りだし、ベビーブーマーに圧倒的に支持された。マクドナルドのチェーン店第1号が登場したのも1954年、カリフォルニアだった。翌年にはロサンジェルス郊外にディズニーランドが開業している。消費の際に支払いを容易にするクレディットカードも50年に作られ、その後急速に普及した。このように現代の世界を席巻したアメリカ文化は1950年代に出そろったと言える。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』下 中公新書 2002 p.38>

ケネディの登場
 平和共存時代のアメリカに大きな衝撃となったのが、1957年に人工衛星の開発でソ連に後れを取ったことであった。1960年の大統領選挙で共和党ニクソン候補を破って民主党のケネディが当選、彼は史上最年少の43歳、ニューフロンティア政策を掲げ、経済繁栄にあげ利の見え始めたアメリカに活力を与えようとした。外交ではベルリンの壁の構築やキューバ危機に直面したが、冷静に対処して乗り切り、国民の信望を勝ち得た。国内では黒人の公民権運動がキング牧師に指導されたワシントン大行進に見られるように高揚し、ケネディ政権も公民権法の制定準備を開始した。しかし、ケネディ時代にインドシナ情勢が悪化し、ベトナムの危機が始まった。強硬姿勢を取り始めていたケネディであったが、1963年、南部を遊説中に暗殺され悲劇の大統領となった。

15章2節 用語リスト
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アメリカ合衆国(9) ベトナム戦争

資本主義の繁栄を維持しなければならないという自縛から、1965年、東南アジアの共産化を防ぐ意図でベトナムに介入、ベトナム戦争が始まる。しかし、ベトナム民衆の抵抗を受け、戦争が長期化し、アメリカ財政を圧迫、また国際政治での主導権も動揺する。

ベトナム戦争
 ケネディ民主党政権を継承したジョンソンは「偉大な社会」の建設を提唱し、国内では公民権法を成立させたが、ベトナムでの対応は軍事色を強め、トンキン湾事件を契機に1965年に北爆を行い、さらに翌年には北爆を恒常化させ、地上軍も派遣して南ベトナム政府を支援、北ベトナム軍と南べトナム解放民族戦線との全面戦争であるベトナム戦争を本格化させた。ベトナム戦争は当初の予測を超えて泥沼化し、戦後世界とアメリカのあり方を大きく変える要因となった。後に明らかになったのは、トンキン湾事件はでっち上げられた面が強く、この戦争はアメリカが冷戦下のアジアでの覇権を維持するために行われたものであった。
アメリカの1968年  ベトナムでは南べトナム解放民族戦線が1968年1月30日、旧正月(テト)を期して一斉に攻勢に出た。このテト攻勢からベトナム戦争は形勢が逆転、アメリカ国内でも反戦運動が激化し、ジョンソン大統領は追いつめられた。足下の共和党からもマッカーシーとロバート=ケネディ(ケネディ大統領の弟)が停戦を主張し、大統領選挙への出馬を表明、3月31日についにジョンソンはベトナム和平協議を提唱、同時に大統領選挙不出馬を表明した。
相次ぐ暗殺 ところがその4日後の4月4日、メンフィスでキング牧師が暗殺され、黒人の不満も頂点に達し、全米168の都市で暴動が発生した。ワシントンでは鎮圧のため軍隊が出動、白人も反撃に出てアメリカの亀裂は覆いようもなくなった。ロバート=ケネディは遊説先のインディアナポリスで黒人スラム街に乗り込み、暴力の停止を訴えた。懸命に融和を呼びかけるロバートに“もう一人のケネディ”を呼ぶ声が高まってゆき、民主党大統領候補として最有力になったが、こんどは6月5日、ロサンゼルスでロバート=ケネディが銃撃され、死んでしまった。
民主党の動揺 その2ヶ月後、シカゴで開催された民主党全国大会でハンフリーが大統領候補に指名されたが、対立候補マッカーシーを支持する代議員は「ウィーシャルオーバーカム」を合唱して抵抗、会場外でも学生・若者を中心とした群衆が警察と衝突、流血の争乱状態となった。ジョンソンは5月から始まっていたベトナム戦争のパリ和平会談を成功させることで後継者ハンフリーへの支持が高まることを狙ったが、交渉は進展せず、11月の一般選挙では、共和党のニクソンに小差(約50万票)で敗れた。ニクソンは民主党の内部対立を尻目に、実務経験と若さを武器に、共和党政権を復活させた。
スチューデントパワー この年は世界各地でスチューデントパワーと言われた学生運動が起こっており、アメリカにおいてもカリフォルニア大学バークレー校の反乱に始まり、ベトナム反戦運動・公民権運動と結びながら、拡大していった。学生・青年の間にはヒッピーと言われる自由なライフスタイルを実践するものが急増しカウンター・カルチャーと言われた。ウッドストックのロックコンサートが開かれたのもこの年であった。

ドル=ショック アメリカ一極構造の崩壊
 50~60年代は、アメリカ経済は他の資本主義国を圧倒し、アメリカ一極体制とわれる状況であったが、ベトナム戦争が長期化する中、アメリカ経済の行き詰まりが深刻になっていった。1969年のニクソン大統領就任後、7月にアポロ11号の月面着陸が成功して、アメリカの威信は回復されたかに見えたが、アメリカ経済は金の流出が止まらず、密かに崩壊に向かっていた。1971年、ニクソン大統領はドル防衛のためにドルの金兌換を停止する措置に踏み切り、世界を驚かせてドル=ショックといわれた。これによって世界は変動為替相場制に移行し、さらに73年、第1次石油危機(オイル=ショック)に見舞われてた。その一方で、ヨーロッパの統合が進み、日本の高度経済成長が進んだこともあって、1970年代にはアメリカ一極構造は崩れ、三極構造に変化していった。
もう一つのニクソン=ショック ドル=ショックはニクソン=ショックとも言われたが、もう一つのニクソン=ショックと言われるのは、1972年に電撃的にニクソンの訪中を実現させ毛沢東と会見し、国交回復への道筋をつけてたことであった。これはキッシンジャー特別補佐官の手腕によるものであったが、アジア情勢を大きく転換させる出来事となった。
ウォーターゲート事件 しかしニクソンは、1974年、ウォーターゲート事件で大統領選挙中の不正行為があばかれ、任期途中で辞任せざるを得なくなった。現役大統領が生存中に辞任したのは初めてのことであり、副大統領のフォードが昇格したが、大国アメリカの権威が著しく低下することとなった。
ベトナムでの敗北 ニクソンの訪中の具体的な目的は、中国共産党毛沢東と手を結ぶことによって北ベトナムに圧力をかけることにあった。さらに北ベトナムによる解放戦線支援を断つために、カンボジア侵攻とラオス空爆を行った。しかし、北ベトナム軍および解放戦線の動きを封じることはできず、ベトナム戦争は明らかに行き詰まった。国内経済の悪化も打撃となり、ニクソンはついに1973年にベトナム(パリ)和平協定を締結し、アメリカ軍のべトナム撤退に踏み切った。アメリカ軍の支援を失った南ベトナム政府軍は急速に衰え、75年には北ベトナム軍によりサイゴンが陥落し、戦争は終結した。

ベトナム戦争の歴史的意義
 ベトナム戦争はアメリカが直接介入した時期でも8年(1965~73年)におよび、アメリカが経験した最長の対外戦争となり、多大な人的損失だけでなく、アメリカ国民のなかに深刻は敗北感を残して終わった。同時に、世界におけるアメリカの大国としての威信が揺らぎ、世界経済では西ヨーロッパ諸国(EC)と日本が台頭して三極構造へと転換していくこととなった。冷戦構造はつづいていたが、このころ、ソ連を中心とした東側社会主義圏でも経済の停滞、政治の硬直、人権の抑圧といった問題が進行していた。70年代後半から80年代は東西の体制がそれぞれ揺らぎ、東西が終結に向かうこととなる。

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(10) 冷戦終結とその後のアメリカ合衆国

 1980年代のアメリカは共和党レーガンとブッシュ(父)の「強いアメリカ」を掲げた外交と、新自由主義経済政策がとられたが、東西冷戦終結後は唯一の超大国としての単独行動が顕著となり、中東での軍事行動はイスラーム教徒の反発を受け、2000年の同時多発テロに見舞われ、テロとの戦いの時代に入った。国内では貧富の差の拡大、民族問題を抱えて混迷が続き、クリントン(民主)→ブッシュ(子)(共和)→オバマ(民主)と8年ずつの政権交代が続いている。

カーター外交
 ニクソン→フォードの共和党政権にかわり、1976年大統領選挙で民主党カーターが当選、ふたたび民主党政権となった。カーター政権はパナマ運河の返還(新パナマ運河条約)に見られるように強権的な外交を改め、人権外交を掲げて国際協調に努め、エジプト=イスラエルの和平交渉の仲介、米中国交正常化の実現、ソ連とのSALT・Ⅱの合意など成果を収めたが、79年のソ連軍のアフガニスタン侵攻、イラン革命の勃発とアメリカ大使館人質事件という難局に直面してその外交手段が弱腰であると非難された。

レーガン=ブッシュ政権
 1980年の大統領選挙で政権を奪回した共和党のレーガンは、カーター民主党政権の外交を弱腰と非難し、「強いアメリカ」を再建することを掲げた。ソ連を「悪の帝国」ときめつけ、「戦略防衛構想」(SDI)によって核武装を強化し、伝統的なカリブ海への強権外交を復活させてカリブ海域への介入を復活させ、ニカラグアやエルサルバドル、グレナダに介入した。
 内政においては、民主党のニューディール以来の国が経済に介入して公共事業などを通じて雇用を創出し、社会保障や労働者保護によって国内需要を増やしていくというケインズ的な経済政策を否定し、共和党は減税・規制緩和・民営化・社会保障費削減を柱としたレーガノミクスといわれる経済政策を前面に打ち出した。これは70年代のイギリスのサッチャー政権が採用した新自由主義の経済政策と同じであり、当面は効果が上がり経済は持ち直したかに見えたが、次第に貧富の差の拡大、その結果としての税収減による財政赤字、日本やECとの貿易摩擦による貿易赤字の「双子の赤字」に見舞われることとなった。1985年にはアメリカは債権国から債務国(負債が債権を上回る状態)に転落し、9月の先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁によるプラザ合意で、各国がドル安に協力してアメリカ経済を救済した。しかしアメリカの貿易赤維持は解消されず、87年10月にはその不安感から株価の大暴落(ブラックマンデー)が起こった。
 二期目の1985年にソ連でゴルバチョフ政権が登場し、ペレストロイカによる民主化が進むとレーガンは柔軟に対応し、87年には中距離核戦力(INF)全廃条約に調印した。1989年には東欧革命が一気に進み、レーガンを継承して大統領となったブッシュ(G.H.W)父は、その年12月にゴルバチョフとマルタ会談を行い、冷戦の終結を宣言した。

ポスト冷戦期のアメリカ
 さらに1991年にソ連の解体すると、世界では民族対立や宗教的対立など地域紛争が多発するようになり、そのような中でアメリカが唯一の軍事大国として単独行動主義(ユニラテラリズム)をとる場合も増え、19世紀末の帝国主義とは違った意味で、現在のアメリカ合衆国の「帝国」としての存在がきわだつようになった。イラクのフセインがクウェートに侵攻したことに対しては、多国籍軍を編成してイラクを攻撃する湾岸戦争を決行した。その後もアメリカは軍隊を広く中東に駐屯させ、「世界の警察官」とみなされるようになった。 → 冷戦終結後のアメリカ外交
民主党クリントン政権 1992年の大統領選挙で現職ブッシュを破り当選した民主党のクリントンは、マイノリティ(少数民族)や女性の権利の問題などに積極的に取り組み、またIT時代の到来を背景とした好景気に見舞われて雇用を増大させ、アメリカ経済の回復に成功した。外交では人道的介入と称してNATO軍のボスニア介入を容認したり、アフリカのルワンダやソマリアの紛争に介入したが大きな成果は得られなかった。また共和党の協力を得て、カナダ・メキシコなどとの自由貿易協定である北米自由貿易協定を成立させた。大統領官邸での女性スキャンダルを起こし、弾劾裁判は免れたが人気を落とした。
共和党ブッシュ(子)政権 2000年の大統領選挙は共和党のブッシュ(G.W.)(子)と民主党のゴアの間で行われ、大接戦となってブッシュが勝った。そのブッシュ政権の2001年に9・11同時多発テロが起こり、アメリカは対テロ戦争に突入、アフガニスタン攻撃、イラク戦争と海外派兵が続いた。
民主党オバマ政権 2008年大統領選挙は、初の黒人大統領としてオバマを大統領に選出した。オバマ政権は二期(2009~2017年)にわたり、オバマケアと言われた国民皆保険制度を実現したり、社会保障の充実や同性婚の容認などの進歩的な政策を打ち出し、プラハで核なき世界を実現させることを演説してノーベル平和賞を受賞するなど、理想主義的な政治を行ったが、キューバやイランとの国交回復やアフガニスタン、イラクなどに対する消極的な姿勢は、保守勢力に「強いアメリカ」の時代の復活を叫ばせる余地を与えた。