歴史・人名

2001(Historical)

独り言(Historical)

24-Dec-2001

今日は、「神話」のお話です。

記紀神話を読んでいると、気がつくことがあります。
記紀神話と一言で言いますが、もしも、現実のお話だったら、最初(天地開闢)から神武天皇まで、どれほどの時間がたっているでしょうか。

   皇祖皇考、乃神乃聖にして、慶を積み暉を重ねて、多に年所を歴。天祖の降跡より以逮、今に、一百七十九万二千四百七十余歳。神武紀
   故、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に五百八十歳坐しき。神代記

とありますから、非常に長い年月が経っている、という認識を記紀編者も持っていました。
(ここの「一百七十九万二千四百七十余歳」という数字は仏典の表現の影響と言われます)
さて、例えば「伊邪那岐」や「伊邪那美」は、隠居したり、亡くなったりしています。
記紀神話では、神も「死ぬ」のです。
「邇邇芸」や「山幸」も当然のように、亡くなります。
従って、記紀神話の中には、「世代交代」という概念があります。
「皇統」で言えば、「伊邪那岐」→「天照大神」→「邇邇芸」→「山幸」→「うがやふきあへず」→「神武」です。
ここまでは、非常にわかりやすい。
記紀神話の神様と言うのは、我々人間と同じように、寿命があり、「自然の摂理」の最中にあるんだなぁというそれだけの話です。
そして、そのような時間の流れの中で記紀は語られている、と、このようなお話は、以前もしたことがあります。
(ギリシア神話の話で)
ところが、これに反した現象も、ままある。
例えば、天照大神は、「神武記」にも現れます。
神武に「布都御魂剣」を与えるという、重要な場面です。
天照大神と神武は「世代的」には、かなり離れています。
系図のとおりなら、「ひいおじいちゃんのおばあちゃん」です。(「呼び方」がわからないくらいの世代です(笑))
まともに考えれば、会えるわけありません。
でも、古事記をよく読んでみると、納得しました。
古事記では、神武と天照大神が会った、なんて書いてありません。

   故、天つ神の御子、その横刀を獲し所由を問へば、高倉下答へて曰く、「己が夢に、天照大神、高木神、二柱の神の命もちて、建御雷神を召して詔すらく『葦原中国はいたく騒ぎてありなり。我が御子等不平みますらし。その葦原中国は、専ら汝が言向けし国なり。汝、建御雷神降るべし』と。ここに答へて曰く『僕は降らずとも、専らその国を平けし横刀あれば、この刀を降すべし…」と。神武記

このように、あくまで「夢」の中の話でした。
要するに、神武は自分の「東征」が「天照大神」の意思であることを主張していました。
それを示すのがこのエピソードであり、実物としての「剣」でした。
神武が実在の人物で、天照大神が神武の当時からの「神」であったと考えれば、このお話はすんなり理解できます。

さて、崇神記にも神様が現れます。
「大物主神」です。
この神は、記紀神話の外の神です。
「大国主神」と同一視されますが、大国主は出雲の、大物主は大和の神様です。
この大物主という神、崇神記では、すくなくとも、非常に恐ろしい神です。
祟る神です。
また、「意富多々泥古」の祖でもあります。
所謂「美和山神話」です。
共通して言えることは、「姿が見えない」ことだと思います。
天照大神」は、例えば「誓約神話」や「天岩屋戸」では、はっきり「人の姿」をした神であることが読み取れます。
ところが、大物主は姿が見えない。

   この天皇の御世に、役病多に起こりて、人民死にて尽きむとす。ここに天皇愁ひ歎き、神牀に坐しし夜、大物主神、御夢に顕れて曰く「こは我が御心ぞ。故、意富多々泥古をもちて、我が御前を祭らしめば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と。崇神記

ここでもまた「夢」です。
美和山神話の方では、「壮夫」の姿をしていたと言いますが、やはり、その正体は見せず、ただ男につけた糸が美和山に繋がっていたから「大物主神」に違いない、という説話であって、「大物主神」そのものが現れるわけではありません。
このような「神」の有り様はどのように考えたらいいでしょうか。

神武や崇神の時点では、もはや「神の時代」は過ぎ「人の時代」でした。
このような説明は、割りと良く聞かれますが、わたしはもっと単純に、「神には現役(生きている)時代とその後の時代がある」と思っています。
「天岩屋戸」や「誓約」のころの「天照大神」は現役時代。
「神武東征」の時点では、既に現役は退き(死という表現が良いかもしれませんが)、残された人々の心の中にだけ居る存在。
こういうと、我々も「故人」に対して同じような見方をし得ることが、わかるでしょう。
これが、「神」のひとつの「原点」だと思っています。
(勿論、「自然界への畏怖」の神格化、というものもあります。しかし、「居ないものを居るように語る」という意味では、「故人」の方が「原点」に近い気がします。これは、単なる直感ですが)

何が言いたいのかと言うと、「神」とか「神話」と一口に言っても、そこに現れる「神」は、必ずしも単純な存在ではない、ということです。
お話によっては、「現役」の時代かもしれませんし、お話によっては「故人」かもしれません。
そして、この差をじっくり見比べてみると、面白い発見が出来るかもしれません。
実際、「天孫降臨」の時点の「天照大神」は微妙な位置に居ます。
また、「高皇産霊尊」は、私が見たところでは、常に「故人」的です。
ギリシア神話でも、例えば、ゼウスは、「クロノスの息子食い説話」の時点では「現役」ですが、後の英雄達の母と交わる際には、「黄金の雨」やら「白鳥」やら「牡牛」やら、姿を変えています。
美和山神話と同じく「故人」的な説話と言えるかもしれませんね。
これによって、或は「神の編年」が可能かもしれません。
(ただ、「説話上古い」ことと「実際に歴史上語られた時代が古い」こととが一致する保証はありませんが)
08-Dec-2001

今日は、「日本の女帝」について、お話したいと思います。

皇太子妃雅子さまに、女の赤ちゃんが生まれ、にわかに、「女性天皇」への関心が高まっています。
現在の「皇室典範」では、天皇になれるのは皇族の男子だけ、と定められています。
このように決まったのは、明治時代のことで、「大日本帝国憲法」によって定められていました。
歴史上は、ご存知のように、日本には何人かの「女性天皇」がいます。
推古天皇(554-628 位592-628)
皇極天皇(594-661 位642-645)
斉明天皇(皇極重祚 位655-661)
持統天皇(645-702 位686-697)
元明天皇(661-721 位707-715)
元正天皇(680-748 位715-724)
孝謙天皇(718-770 位749-758)
称徳天皇(孝謙重祚 位764-770)
明正天皇(1623-1696 位1629-1643)
後桜町天皇(1740-1813 位1762-1770)
以上の十代八人です。
さて、明正・後桜町両天皇は、江戸時代の例です。
それ以外は古代の例となります。
古代の例で、忘れてはならないのが、『魏志』の卑弥呼・壹与の女王、記紀の「天照大神」という皇祖神、そして神功皇后です。
彼女達はどのような背景で、天皇(女王)となったのでしょうか。
それを少し考えて見ます。

さて、日本古代の女帝については、シャーマン(巫女)的要素を重視する見解(折口信夫など)と、「中継ぎ」的要素を重視する見解(井上光貞など)とがあります。
これらを念頭に置きながら、順番に見ていきましょう。(上田正昭『古代日本の女帝』を参考にしています)
(1)天照大神(前一世紀頃?)
さて、最初は「女帝」の名にはふさわしくないかもしれませんが、「天照大神」です。
彼女は記紀神話において、もっとも重要な、中心の神です。
そもそも、神話における中心の神が女性である、という事実を忘れてはいけないでしょう。
記紀が書かれたのは、元明・元正の両女帝の時代でした。
これが関係しているのだ、との見解もありますが、むしろ、卑弥呼や神功皇后といった古い女王たちの背景に、天照大神という女神が居るのだと考えた方がよいでしょう。
所謂「国譲り」や「天孫降臨」が、古代の黎明期の史実を反映したものだとすれば、これらを指示した天照大神は、やはり、祭政一致の女王であると見なすことが出来ます。
「国譲り」や「天孫降臨」は、その説話内容から、弥生時代の出来事(対馬・壱岐の天照大神側勢力による北部九州(出雲の支配領域だった)への侵略)だと考えられます。
従って、天照大神は、弥生時代まで遡り得る神だと思われます。
彼女が現れた背景には、縄文以来の女神信仰があると考えられます。
(土偶などの大半は女性であることなどから、縄文時代には女性が優位だったとする見解があります)
縄文~弥生の女王の繁栄の時代を反映したものだろうと思われます。
(2)卑弥呼(三世紀前半)
彼女は所謂天皇家の一員ではないと考えられますが、日本列島の代表の王者と中国側に認められた最初の女王です。
卑弥呼の当時、倭国では既に男王の時代でした。
倭国の戦乱の中で、彼女が担ぎ出され「共立」されたのは、彼女の巫女としての能力やカリスマ性によるのでしょうが、この背景にも、「天照大神」の時代の女王に対する共同幻想があったと考えることが出来ます。
彼女は確かにシャーマン的な要素を多く持っていますが、同時に政治の最高権力者として倭国に君臨したことは間違いありません。
従って、祭政一致体制の女王と言うことが出来ます。
彼女は、「年已長大、無夫壻」<魏志>とあるように未婚でした。
「未婚であること」が、巫女の必須条件かどうかは、一概には言えませんが、伊勢の齋宮など、そういう例はあります。
(3)壹与(三世紀中葉)
卑弥呼の死後、再び男王が即位しましたが、また国は乱れ、卑弥呼の宗女(一族の女性)である壹与が女王となりました。
彼女がどのような女王だったのかは、ハッキリとはわかりませんが、魏志倭人伝の末尾に示された壮大な献上物から察すると、卑弥呼同様、実権を持った祭政一致の女王であると考えられます。
彼女は未婚だったかどうか、わかりません。
彼女の後、倭の五王の時代には、倭国はまた男王に戻ったようです。
(4)神功皇后(四世紀前半)
彼女は天皇ではありません。記紀がそのような体裁で描いています。
ですが、夫・仲哀天皇の死後、子・応神天皇の即位までの間、彼女は「摂政」として実権を握っていたのだと思われます。
彼女は神懸りをする正真証明のシャーマンでした。
また、予定された天皇である応神天皇の即位までの間の「中継ぎ」とも言えますが、それにしては、「在位期間」が長過ぎるという問題点も有ります。
また、当然ながら、彼女は既婚者です。
(5)飯豊女王(五世紀後半)
雄略天皇の子・清寧天皇の死後、清寧天皇に皇子がいなかった為、皇位継承者がいなくなるという事態が発生しました。
そこで、飯豊女王という女性が一時皇位についた、とも読める伝承が記紀ともにあります。

   於是問日継所知之王、市辺忍歯別王之妹、忍海郎女、亦名飯豊王、坐葛城忍海之高木角刺宮也。
   (ここに日継知らす王を、市辺忍歯別王の妹、忍海郎女に問う。亦の名飯豊王、葛城忍海之高木角刺宮に坐す)<清寧記>

その後、彼女が雄略天皇に殺された市邊忍歯別王の遺児・顕宗と仁賢を次の天皇に指名したという説話です。
ここでは、単純に女王であったとは言えませんが、皇位継承に関して重要な発言力を持つ女性であったことは間違いありません。
巫女的な性格を強く持っていると考えられますが、彼女は未婚ではありませんでした。
また、伝承から言って「中継ぎ」と見なすことも出来ます。
(6)推古天皇(七世紀前半)
彼女は欽明天皇の皇女であり、かつ敏達天皇の皇后でもあります。
異母兄弟の崇峻天皇蘇我氏によって暗殺された後、皇位につきます。
彼女の時代には、聖徳太子という、優秀な皇太子がいました。
そこで、政治の実権は皇太子である聖徳太子や大臣・蘇我馬子が握っていたのだとする見解もあります。
彼女の即位の前に起こった、崇峻天皇暗殺と言う大事件。
また、物部氏の滅亡。
これらの事件の後です。
蘇我氏全盛の時代に入ったとはいえ、まだまだ不安定な情勢でした。
そこで、担ぎ出されたのが推古天皇だと思われます。
彼女の「欽明天皇の皇女、かつ敏達天皇の皇后」という出自と経歴は、不安定な政府内部を一つにするのに、都合が良かったのだと思われます。
その意味では、聖徳太子は、まだ役不足だったのかもしれません。
傀儡というよりは、象徴的な権威として、そのカリスマ性を必要とされたのではないかと思います。
単なる「中継ぎ」と見なすことは正しくないでしょう。
(7)皇極天皇・斉明天皇(七世紀中葉)
彼女もまた、皇族にして前代舒明天皇の皇后という出自と経歴を持ちます。
舒明天皇の死後、皇位継承争いが起こりました。
聖徳太子の子・山背大兄王と古人大兄王です。
この情勢の中で、時の大臣・蘇我蝦夷は、山背大兄王の擁立には反対でしたが、だからといって古人大兄王を推戴することによって、対立が激化するのを恐れ、舒明天皇の皇后であった皇極天皇を擁立しました。
ここでも危機を回避するための象徴として、彼女の出自と経歴が重視されたのでしょう。
さて、彼女は、「大化改新」の際に、弟・孝徳天皇に譲位します。
孝徳天皇の時代は、皇太子であった中大兄皇子(天智天皇)が全ての実権を握っていました。
そして、譲位した皇極天皇は、政治の表舞台から遠のきます。
孝徳の死後、再び即位した斉明天皇には、既に実権は無く、皇太子の中大兄皇子が全ての実権を握っていたのだと言われます。
(8)持統天皇(七世紀後半)
彼女も天智天皇の皇女にして天武天皇の皇后です。
天智天皇の死後、大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(天武天皇)との間で権力闘争の内乱状態となりましたが、天武天皇が勝利して後、天武天皇の数ある后の中で、発言力を強めていきます。
子・草壁皇子を皇太子とし、自らも政治に積極的に参加したとされます。
天武天皇が亡くなると、天武天皇の遺言を背景に「称制」し、政務を取り仕切ります。
天武天皇の皇子・大津皇子が、草壁皇子にとっての障壁だったからとも言われます。
つまり、草壁皇子が天皇になる為の準備期間、というわけです。
ところが、大津皇子を排し、準備が整う頃には、草壁皇子は没してしまいます。
草壁皇子には軽皇子(文武天皇)という皇子がいましたが、幼少でした。
そこで、持統天皇は即位し、軽皇子が成人すると、譲位したのでした。
その意味では、「中継ぎ」と言えなくもありません。
ですが、持統天皇は天武皇后時代から積極的に政治に参加し、強大な影響力を発揮していたと見るのが一般的です。
ですから、彼女はまさに「女帝」にふさわしい存在でした。
また、譲位後も影響力を発揮しつづけ、はじめて「太上天皇」と呼ばれる存在になりました。
(9)元明天皇(八世紀前半)
さて、文武天皇は二十五歳という若さで亡くなってしまいます。その子・首皇子(聖武天皇)は、まだ幼い。
そういう状況で、天智天皇の皇女で草壁皇子妃(文武天皇の母)である阿陪皇女(元明天皇)は、自ら即位します。
首皇子が予定される次の天皇で、当然、元明天皇は「中継ぎ」的要素を持っています。
(10)元正天皇(八世紀前半)
元明天皇は、「予定されていた」首皇子(聖武天皇)には譲位せずに、娘の氷高皇女に譲位します。
元明天皇が「中継ぎ」の存在であれば、このような譲位は起こり得ないはずだ、と上田正昭は言います。
この指摘は正しいでしょう。
首皇子の即位を望まない勢力に対する元明天皇の深謀遠慮だとも言われますが、わかりません。
ただ、元正天皇は、結局、首皇子に譲位し、やはり、「中継ぎ」的な性格を持っていることは否定できません。
(11)孝謙天皇・称徳天皇(八世紀中葉)
孝謙天皇は、聖武天皇の皇女です。
彼女は史上初の、女性皇太子となりました。
皇太子となった彼女は未婚で、当然皇子もいません。
従って、彼女は「中継ぎ」と見なすことは出来ません。
さて、彼女には皇子が居なかった。
このことが、未曾有の事件へと発展します。
「道鏡事件」です。
淡路廃帝(淳仁天皇)の後、再び皇位についた称徳天皇は、僧・道鏡に傾倒していきます。
彼女は、道鏡を天皇にしてもいいと考えていたようです。
勿論、道鏡が天皇となれば、「易姓革命」となるわけで、今まで皇統を重んじてきた多くの人々が反対しました。
孝謙(称徳)天皇自身も、即位の際や淡路廃帝の際には自らの即位の正当性を「皇統」という形で示してきただけに、彼女の念願は達成されずに終わりました。
結局、天智天皇の系統の光仁天皇が即位することとなります。
「皇統」と「女性皇太子」という矛盾の中で、苦悩した天皇だということが出来ると思います。

さて、ここまで、古代の女帝を見てきました。
(明正天皇は徳川秀忠の娘と後水尾天皇との間に生まれた女性で、彼女の即位には、幕府の意向が強く含まれているとされます)
では、現代に目を転じましょう。
「女性天皇」には、問題(それも根本的な問題)が潜んでいることに気がつくでしょう。
それは「皇統」の問題。
現代では、それほど表立っては言われませんが、やはり、天皇家の血筋というのは、日本人にとって少なからず影響力を持っているはずです。
天皇」とは、単なる称号に過ぎないもの(本当は誰がなってもいいもの)なのか、それとも、天皇家の一族であることが重要なのか。
「女性天皇」問題は、図らずも、天皇制そのものに対する根本的な疑問と隣り合わせなのです。
せっかくの機会です。
どうせなら、徹底的に論じ合うのがいいのかもしれません。
もしも、「皇族が増える」とか「継承のルールが複雑になる」とかという小手先の論争や、密室での暗黙の了解によって、この問題がうやむやのままになる、ということがあれば、それはそれだけの話ですが、やるなら、徹底的にやるべきだと、個人的には思います。
25-Nov-2001

今日は「七支刀」銘文についてです。

先日、西さんから、遠藤順昭「石上神宮七支刀の銘字について」(『堅田直先生古希記念論文集』所収)のコピーを送っていただきました。
これは、七支刀銘文の詳細な調査報告とも言うべきもので、これに示された釈文が、現在においての七支刀研究の基礎となるべきものでしょう。
遠藤論文によれば、釈文は、

   泰和四年五月十六日丙午正陽造百練[金[四/止]](「鋼」の異体字-かわにし注)七支刀[口人](「以」の異体字)避百兵宜供供[尸/[二大]](「侯」の異体字)王七月十日作・・・(表)
   先世[口人]来未有此刀百済王世子奇生聖晉故為[尸/[二/大]]王旨造[イ[一/由]](「傳(伝)」の異体字)示後世・・・(裏)

としています。
文字の判読については、今まで「倭王」と読まれてきた裏面第二〇字も、「[尸/[二/大]]」(「侯」の異体字)と見る方が正しいようです。
(ただし、遠藤氏が「□月」(表面第五字)を、一度は「現段階では、いずれとも決定しがたい」としておきながら、最終的には「五月」と読んだ根拠は書かれていない点は、問題が残るように思います。榧本杜夫氏説に従ったものでしょうけれども)
さて、遠藤氏はこれに続けて、読み下しと口語訳を載せていますが、かわにしとしては、あまり納得できるものではありません。

   読み下し(遠藤)
   泰和四年五月十六日丙午正陽(最も陽の日)に百練(何回となく、くり返して錬り鍛えた)の[金[四/止]]で七支刀を造る。以て百兵を避ける。恭恭たる侯王に宜しい。七月十日作(表)
   先世(前代)以来未だこの刀有らず。百済王の世子(侯王の王子)が聖晉に寄生しているので、[尸/[二/大]]王の旨(おおせ)によりて造る。後世まで伝え示されんことを。

漢文としてあまり正確な読みではないようです。
勿論、所謂「読み下しのルールや慣例」に全て従う必要はなく、意味が正確であればそれでよいのですが、それも正確ではないように思います。
そこで、かわにしなりに、読み下してみます。

   読み下し(かわにし)
   泰和四年五月十六日丙午正陽。百練の鋼の七支刀を造る。以て百兵を避く。宜しく侯王に供供すべし。七月十日作る。(表)
   先世以来未だ此の刀有らず。百済王世子、聖晉に寄生す。故に侯王旨と為して造る。後世に伝示せよ。(裏)
   口語訳(かわにし)
   泰和四年五月十六日丙午正陽に、百練の鋼の七支刀を造る。これによって百兵を退くことが出来るものだ。諸侯や諸王の役に立ってほしい。七月十日、作る。
   先世以来、このような刀はなかった。百済王の世子は、聖晉に寄生している。だから、諸侯・諸王の命令としてこれを造る。後世に伝え示せよ。

さて、今、遠藤釈文に従って一応読み下してみましたが、二点ほど、不明瞭というか、わからない点があります。
一つは、「七月十日作」です。
なぜなら、文頭で、製造日を「泰和四年五月十六日」と明記しているにもかかわらず、また、ここで、別の日を製造日としてあげていることになるからです。
福山敏男氏は、「七月十日」を「□□□□」として、全て不明の文字としていますが、解釈の時には、「某(或は某所)」と、製作者か制作場所を予想していました。
私も、そのほうがより自然な文章となる気がします。
「七月十日」と遠藤氏が推定した個所は、かなり不明瞭な個所である為、他の解読の余地も残っているのではないでしょうか。
遠藤氏は、他の銘文に制作日を示したものがあるから、という理由で四字を日付と考えたようですが、再検証を願いたいものです。
もう一つは、「故為[尸/[二/大]]王旨造」です。
ここを「倭王」でなく「侯王」とする点は、私も納得なのですが、やはり、「通釈」が難しい。
一応、「侯王旨」で「侯王の旨(命令)」と見ても良さそうですが、「侯王」という語は、「諸侯や諸王」という意味で、特定の誰かを指すような語ではありません。
表面の「宜しく侯王に供供すべし」も、「(この刀は「百兵を避ける」ものだから)諸侯や諸王の役に立ててほしい」というくらいの意味だと思われます。
従って、この「七支刀」の製造理由については、もう少し考える必要がありそうです。
17-Nov-2001

今日は、原田実『幻想の多元的古代』についてです。

原田実氏は、一時、古田氏の説を支持し、また、昭和薬科大では、教授(古田氏)と助手(原田氏)という関係だったということで、古田氏をよく知る人物の一人だということが出来ます。
「和田家文書」騒動以後(厳密にその時期は知りませんし、「和田家文書」のことが関係あるのかどうか知りませんが、「騒動」のさなかだったように思います)は、古田氏に対しかなり批判的な立場をとっています。
(「和田家文書」騒動ってのは、故・和田喜八郎氏所蔵の『東日流外三郡誌』をはじめとした文書群に対し、真作だとする古田氏らと、偽作だとする安本美典氏らの「壮絶」な論争です。一部は裁判にもなったようです。端から見ると、「両陣営」ともに、論争4割・中傷6割といった感じで、両方とも「読みづらい」論争だと思いました。率直な感想です)
・・・で、原田氏も、この時に、結構書いてます(笑)。
古田氏も結構応酬しているので、「まぁ、勝手にやってくれ」という感じではあります。
この本も、原田氏の論文集なのですが、その収載論文の執筆時期によって、随分トーンが違います。
これはこれで、「原田実の史料批判」としては、面白い徴候です。
でも、まぁ、私としては、それが読み取られてしまう、というのも、論文としてはどうかなぁ、という気がしてはいます。
疑われてしまうんです。
「論者の心情・信条が如実に反映された論説なんじゃないの?」と。
これは、非常にもったいない。
論考自体は、冷静かつ公正な判断の上に立っておられるのでしょうが、論述の際に、心情が加わってしまうのだとしたら、原田氏にとっても、残念なことだと思います。
(まぁ、古田氏自身もかなり「心情」のこもった論文を書く人です。そういうのは「優れた文章」ではあっても「優れた論述」では、必ずしも無いわけです。ちょうど、古田氏が三国志の陳寿と漢書に出てくる司馬相如とを比較してたのを思い出しますが)

さて、内容の方に入っていきます。
まず、「「多元」と「王朝」」で、古田氏が好んで使う「多元的」という語と、古田氏の「王朝」観について、鋭く迫っています。
「古田氏が本来唱えていた「多元史観」とは、日本列島を代表する権力中枢が多元的な勢力の間を移行するというものであった。しかし、ここ(『古代は輝いていたII-日本列島の大王たち』で「関東王朝」という語を用い、古田氏が「王朝多元説」を唱えたことを指す。-かわにし注)で新たに説かれた「王朝多元説」とは、複数の王朝が古墳時代の日本列島に並立したというものである。
これでは藤間氏の説いた多元国家のモデルと大差ないものになってしまう。そして、これ以降、いわゆる古田史学における「王朝」の基準は不透明なものになっていくのである」
として、古田氏が当初用いていた「王朝」の意義が、現在では異なった意義になっているのだとします。
また、古田氏によって提示された「王朝の定義」が、古田氏自身の「王朝命名」の方法と矛盾するのだと言います。

<王朝の定義>(古田武彦「邪馬壹国論争(上)」による)
1)一つの領域が一定の文化特徴を共有する政治的な文明圏を構成しているとき
2)そのなかで質量ともにもっとも集中して、政治的な文化特徴をもつ一中心地があれば、
3)それがその圏内の焦点、すなわち王朝の存在を示す。

これに対し、原田氏によれば、古田『関東に大王あり』の時点で古田氏が稲荷山鉄剣の王者に対して「関東王朝」の語を用いるのを「避けた」ことが手がかりになるとして、それ以前に古田氏が命名していた「王朝」から、以下の方法によって古田氏は王朝の命名を行っているのではないかと推測しました。

<古田氏の王朝命名の方法>(原田実『幻想の多元的古代』)
「中国により国として承認された(と古田氏が解釈した)勢力、あるいは日本列島内でかつてその勢力より優位な大義名分を有していた(と古田氏が認める)勢力」

まさにおっしゃるとおりだと、私も思います。
なぜなら、「九州王朝説」は中国側同時代史書を基礎として形作られたものだからです。
原田氏は古田『失われた九州王朝』で、
「ある論者は言うかもしれない。”要するに中国側は九州の豪族をながらく相手にしてきた。それだけのことではないか”と。この論者の観念は、いわば不治の病に冒されている」
とあるのをもって、古田氏の「真の王朝命名法」が実は「中国中心の一元論」で、古田氏の方が「不治の病」に冒されているのではないか、とも釈れる記述をしています。
この問題は、非常に難しく、非常に深い問題だと思われます。
「王朝」とは何か、「国家」とは何か、「日本人」とは何か、「中央」とは何か、「地方」とは何か。
単なる用語問題などではなく、非常に根の深い問題です。
「地域国家」や「地方政権」への関心が強まった昨今、この問題は避けて通れません。
「地域」「地方」ってなんでしょう。
その時に、「中国側に認められた」というのは、一つの国際社会の視点として、重視されるべきでしょう。
原田氏の指摘は、この点に対して現在の古田氏があまりにも無頓着であることへの指摘、と、私には読めました。

さて、『幻想の多元的古代』の前半は、
1)「多元」と「王朝」
に続いて、
2)六世紀の新羅来寇記事について
3)二つの日向国
4)万世一系イデオロギーの中国的受容
5)記紀歌謡の伝承に関する一考察
6)木村鷹太郎の邪馬台国論をめぐって
と、古代史研究論文が続き、それぞれが非常に興味ある論考でした。
特に、「木村鷹太郎の邪馬台国論をめぐって」などは、原田氏らしい観点からの記述で、新鮮です。
後半は、
7)『三夢記』親鸞真作説への疑問
8)足摺岬縄文灯台騒動・最後のまとめ
9)古田史学の未来
10)古田武彦に学ぶ強弁の研究
と、露骨に「古田氏批判」を連ねています。
確かに、古田氏は多くの「古代史ファン」への影響力を持っており(私もその一人ですが)、彼の論述姿勢、研究姿勢に対する批判は、古代史学の未来を憂う原田氏にとって、重要なテーマなのだろうとは思いますが・・・。
ここまで、古田武彦を知り尽くしていると言うなら、「リングの上の論争で、古田武彦をKOする」場面が早く見たいとおもいます。
これは、古田氏にも言えるのかもしれませんね。
場外乱闘が多過ぎる。
そういう気がしています。
7-Nov-2001

こんばんわ。
かわにしです。

さて、今日は、古田氏の最近の著作『壬申大乱』について、書いてみたいと思います。
これは、どうも古田氏の「壬申の乱」研究の序論という雰囲気がします。
(実際のところ、古田氏がどのように考えているのかは知りませんが)
良く言えば、「早く次が読みたい」という気にさせる。
まぁ、言いかえると、「ちょっと物足りなさが残る」というところでしょうか。

大まかに、古田氏の所説をまとめてみましょう。
(1)万葉集や日本書紀(天武紀、持統紀)の「吉野」は「大和の吉野」ではなく「九州の吉野」である。
その論拠として、
A.万葉集三六~三九の人麿の四歌

   幸于吉野宮之時柿本朝臣人麿作歌
   八隅知之、吾大王之、所聞食、天下爾、国者思毛、沢二雖有、山川之、清河内跡、御心乎、吉野乃国之、花散相、秋津乃野邊爾、宮柱、太敷座波、百磯城乃、大宮人者、船並[氏/一]、旦川渡、舟競、夕河渡、此川乃、絶事奈久、此山乃、弥高思良珠、水激、瀧之宮子波、見礼跡不飽可聞
   (やすみしし、吾が大王の、聞こしめす、天の下に、国はしも、さはにあれども、山川の、清き河内と、御心を、吉野の国の、花散らふ、秋津の野辺に、宮柱、太しきませば、ももしきの、大宮人は、船並めて、旦川渡り、舟競ひ、夕河渡る、この川の、絶ゆることなく、この山の、いや高しらす、水激つ、瀧の宮子は、見れど飽かぬかも)三六
   反歌
   雖見飽奴、吉野之河之、常滑乃、絶事無久、復還見牟
   (見れど飽かぬ、吉野の河の、常なめの、絶ゆることなく、また還り見む)三七
   安見知之、吾大王、神長柄、神佐備世須登、芳野川、多芸津河内爾、高殿乎、高知座而、上立、国見乎為波、畳有、青垣山、山神乃、奉御調等、春部者、花挿頭持、秋立者、黄葉頭刺理(一云、黄葉加射之)、逝副、川之神母、大御食爾、仕奉等、上瀬爾、鵜川乎立、下瀬爾、小網刺渡、山川母、依[氏/一]奉流、神乃御代鴨
   (やすみしし、吾が大王、神ながら、神さびせすと、芳野川、たぎつ河内に、高殿を、高しりまして、上り立ち、国見を為せば、たたなはる、青垣山、山神の、奉る御調と、春べば、花かざし持ち、秋立てば、黄葉かざせり(一云、黄葉かざし)、逝き副ふ、川の神も、大御食に、仕へまつると、上つ瀬に、鵜川を立ち、下つ瀬に、小網さし渡す、山川も、依りて奉れる、神の御代かも)三八
   反歌
   山川毛、因而奉流、神長柄、多芸津河内爾、船出為加母
   (山川も、因りて奉れる、神ながら、たぎつ河内に、船出為すかも)三九

この四歌は、「大和の吉野」と見なした場合、多くの矛盾が生じる。
(「吉野には瀧がない」「船出するような水域がない」「逝き副ふ川の意味不明」「河内に船出できない」)
従って、これは、「大和の吉野」ではなく、「九州の吉野」である。
(「九州の吉野=吉野ヶ里の付近」と解せば、矛盾が無くなる)

B.持統紀
持統紀には三十一回もの「吉野御幸」が書かれている。これは、異例の数であり、「大和の吉野」と見なす場合、(景観、信仰、夫・天武への思慕によると見なしても)不自然だ。
これに対し、「九州の吉野」であれば、以下の点で矛盾が無くなる。
1)「吉野」は、白村江の戦いの時の、基点となった港と見なせる。これは、百済への海流の問題からである。
2)日本書紀は「景行九州遠征」のように、九州王朝の歴史を「換骨脱脂」して「盗用」している。この際、埋め込まれる時代はバラバラだ。
3)先述の万葉集三六~三九歌の後に、天皇の吉野行きを列挙した「日本紀」(古田はこれを「朱鳥、日本紀」と呼び、日本書紀とは別と見る)の引用がある。三六~三九歌の「吉野」は「九州の吉野」だから、この「日本紀」の「吉野」も九州である。
4)(持統八年夏四月)丁亥、天皇、吉野より至る。<持統紀>とあるが、この年の四月に「丁亥」はない。従って、「換骨脱脂」の際の「ほころび」と考えられる。
5)この「夏四月丁亥」が当てはまるのは、斉明六年(六六〇年)四月だ。これを「フック」にして全ての「吉野御幸」をずらすと、その最後は六六三年となり、「白村江」の直前となる。これは、「吉野御幸」がここで突然停止してしまうことと一致する。

(2)「壬申の乱」の背景
a.日本書紀
『日本書紀』は壬申の乱(三十一日間)に対し、「天武紀上」の丸々一巻を配当している。これは、「異常な精緻さ」だ。
「景行九州遠征」記事においても、他から浮いた「詳しさ」を持つ記事は九州王朝記事からの盗用だった。ここも、この点に注意する必要がある。
また、「白村江」の敗戦後、筑紫には、唐の「駐留軍」がやってきている。「壬申の乱」はまさにその「唐の駐留」の最中に起こった。しかし、壬申の乱には唐軍の影が全く見えない。
この点も不審だ。

b.人麿の壬申の乱の歌(高市皇子への挽歌、万葉集一九九~二〇二)
この歌を「壬申の乱を歌った歌」とする解釈には矛盾がある。
壬申の乱は夏の事件である。(『日本書紀』)
ところが、この歌の示す季節は「冬」だ。
従って壬申の乱を歌ったものではない。

c.三森堯司氏「馬から見た壬申の乱」
三森氏は、騎馬の進行速度の問題から、壬申の乱に疑問を投げかけた。
壬申の乱の「行程記事」「行軍記事」は、問題があるのだという。
古田氏はこれを全面的に支持している。

(3)天武天皇の歌(万葉集二五及び二七)
ここに登場する「吉野」はやはり、九州と見なすべきだ。
また、二七歌の「よき人(淑人)」は、「天武天皇より身分が上」つまり「唐の郭務[小宗]」と見なすべきだ。
従って、天武は「九州の吉野に郭務[小宗]に会いに行っている」と見なすべきだ。

(4)以上によって、壬申の乱が実は「大和の吉野」を舞台にしたものではないことが言える。

大まかに言うと、こんなところです。(3)の部分は、かなり省略してしまいましたが、詳しくは古田氏の著書をご覧ください。

正直言って、私には、まだまだ多くの”?”が消えません。
今挙げたようなパーツを組み合わせても、必ずしも同じ結論には至らない気がしています。
私にそのように感じさせるのは、恐らく、「一貫した方法論が無い為」だと思われます。
もちろん、「歌謡自身を第一に、前書きは二次史料」という方法論などは、もっともなことですけれども、
たとえば、
(1)『日本書紀』持統紀の「吉野」は、九州王朝からの換骨脱脂で時代も虚偽。
(2)『日本書紀』壬申紀の「吉野」は?
とか、
(1)景行紀の「天皇」は実は九州王朝の王者。
(2)持統紀の「天皇」は?
とか。
そもそも、「壬申の乱」に関して、壬申紀に対する検討が皆無な点であるような気がします。
(「信用できない」というだけで、他には何も明らかにしていない)

きっと続きがあるのだろうという気もしてはいますが、どうにも消化不良になりそうです。
14-Oct-2001

あの凄惨なテロから、はやくも一ヶ月以上が経過しましたね。
既に、アメリカは「報復」攻撃を開始しました。
(マスコミには「報復」という語を使わないようにしようという風潮があるらしいのですが、これはこれで、大変興味深い問題です。
以前もお話したことがありますが、「事実の探求」の上で、必ずぶつかる、「用語問題」です。
「戦争」とはまさに、「大義名分」と「大義名分」の衝突。
「侵略」と書くか「征伐」と書くか。
「反乱」と見るか「革命」と見るか。
「英雄」と呼ぶか「凶賊」と呼ぶか。
このことを気にしない人間は事実を知る資格無く、こだわらない人間は事実を伝える権利が無い。
乱暴に、極論をすると、そのようにさえ言えると、私は思います)

さて、この一ヶ月、正直、いろいろ考えさせられました。
今日はそれを、出来る限り吐き出してしまいたいと思います。
・・・というわけで、ここからは、デアル調で書きたいと思います。

1.「戦争」と「犯罪」について
あのテロを以って、「戦争」と見なす者が、はやくから現れた。
ブッシュ米大統領もその一人だ。
だが、あの行為自体は、まぎれもなく「犯罪」だ。
無差別大量殺人だ。
事象的には、米国でも日本でも、問題となっている、銃やナイフでの大量殺傷事件と変わらない。
だが、ブッシュも、銃乱射事件や、その他の凶悪犯罪に対して、いつも「戦争」などという物騒な言葉を持ち出すはずも無い。
持ち出せば、かえってブッシュの方が「危険人物」視されるだろう。
では、なぜ今回はそのような言葉を敢えて用いたのか。
それは「政治的な意図の有無」だ。
今ある国家体制に対し、これを否定し破壊しようとする行為。
例え同じ「殺人」であっても、この意思が伴い、「国家」にとって脅威となる実行力を備えていれば、当然、「国家」はこれをただの「犯罪者」としてではなく、「国家の敵」として捉える。
ブッシュはこれを感じ取ったからこそ、「戦争」という言葉を用いたのだ。
思えば、「オウム事件」の時もそうだった。
オウムに対して「内乱(予備)罪」の適用が叫ばれたりもした。
結局は適用はされなかったが、それほど、日本の「国家」を揺るがす行為であると見なされた一現象として、記憶されるべきだ。
国内にあって国家の脅威となるものは「反乱」もしくは「内乱」であり、国外にあって国家の脅威となれば「戦争」であり「侵略」と呼ばれることが多い。
勿論、これは「国家」の側に立った表現であることを忘れてはならないが。
すなわち、米国がこれを「戦争」と見なすことは、それだけの脅威にさらされたという米国自身の告白なのだ。
さて、もう一歩進めよう。
米国が「戦争」という言葉を用いるのは、米国という「国家」の理屈だ。
だからこそ、イスラム・アラブ諸国の中に、反発を生じたのだ。
「今ある国家体制に対し、これを否定し破壊しようとする行為」
この行為自体は、いつ何時であっても、「悪」か。
そうではない。
全ての国家・全ての国民が、この行為の恩恵のもとに今の暮らしを営んでいる。
これが歴史の事実だ。
ヨーロッパ諸国の「市民革命」。
アメリカの「独立戦争」。
日本の「明治維新」。
アジア・アフリカ諸国の「自立・独立」。
いずれも「輝かしい軌跡」として、史上に名を刻んできた。
これらだけは良い。そういう「理屈」は通らぬ。
「勝てば官軍」とはよく言ったものだ。
歴史は、その繰り返しである。
ブッシュも米国も、その歴史の中のほんの一ページに、「戦争」の当事者の「片割れ」として名を連ねる。
それ以上でもそれ以下でもない。
ブッシュは言う。
「これは正義と悪の戦いだ」と。
あまりに無邪気だ、といったら言い過ぎだろうか。
戦争とは常に「正義と正義の戦い」だ。
どこのどの兵が「悪の為に」命を賭けると言うのか。
どこのどの親が「悪の為に」自分の息子を死地に送り出すのか。
タリバンの兵もアルカイダの兵も、自分が「悪」の為に命を投げ出す等とは微塵も考えていないはずだ。
彼等に会わずとも、これは「人間の常識」だと、私は思う。
それが、「戦争」というものである。
だが、いや、だからと言うべきだろうか、私はこのテロをあくまで「犯罪」として捉えるべきだと思ったのだ。
「悪」として裁かれるべきは、「大量殺人」という「犯罪」だ。
米国と言う一国家に脅威を与えたことではない。
あくまで「殺人」という手段に打って出た、その点が「悪」なのだ。「許されざる行為」なのだ。
(米国自身にも、諸外国にとっても、我が国においても、この点が錯綜している。
これは単なる「言葉の問題」ではない。米国のとった行動は果たして「犯罪捜査」としてあるべきやり方か、
それとも、「戦争」の語にふさわしいものか、これが問題なのだ。これは、日本自身にも言えることである。
「犯罪」を裁くことが出来るのは、公平で公正な「法」のみだ。この点を忘れてはならない。
その際、甘いとか甘くない等という基準は、無意味だ。
相手の強さや凶悪さによって出したり引っ込めたりするなら、「法」など無意味なのである)

2.「国際貢献」について
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。<日本国憲法、第九条>
この憲法の条文を素直に読む時、以下のような事態は、この憲法に適合するのだろうか。
「ある2国間で戦争が起こった。日本は、そのいずれか一方だけを支持し、これに協力した。ただし、武力は当然用いず、物資の補給などの後方支援だけを行った」
私の目には、明らかに、戦争の片棒を担ぐ行為にしか見えないのであるが、いかがだろうか。
国際貢献についても、真にそれを行うのであれば、一方だけに協力するのはおかしい。
これが、スジ論だ。
安保とか日米同盟とかという、問題もあるが、今はそれを置いておいて、なぜ、今、米国に協力することが「必然」なのだろうか。
両者の仲介役にまわって、「和平」を推し進めるという選択肢は、なぜ、はじめから無かったのか。
パキスタンは、タリバンとの関係が深いこともあったが、「和平」への道を模索していた。
彼等の「和平」への活動を最大限に支援しようという試みは、日本にあっただろうか。
(イスラム諸国においては、サウジアラビアのように、少なからず親日感情が存在する)
今からでも遅くは無い。
「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するなら、「和平」への道を模索すべきではないだろうか。
「テロリストとの和平などあり得るものか」
という声が聞こえてきそうだが、これこそ、「戦争」と「犯罪」を混同した議論ではないか。
結局のところ、真の「和平」とは、彼等の「テロリズム」の源泉の解決に他ならないことも、付け加えておこう。
その上で、罪は罪として裁かれるべきなのだ。
(「罪」を犯しているのは、イスラム原理主義の過激派ばかりではない。イスラエル、そしてアメリカの「罪」も同様にして、裁かれるべきである)

もはや、ウサマ・ビンラディンが(本当に今回の首謀者だったとして)、ひょっこり米国の警察に出頭したとしても、問題は解決しそうに無いですね。
そういう状況にまで全てを追い詰めたのは、他ならぬ米国です。
私にはそう思えてなりません。
08-Oct-2001

今日は、古田史学の会ほか主催の『「邪馬台国」はなかった』発刊30周年記念講演会に参加してきました。

はじめに古賀達也・谷本茂両氏の講演(古賀氏のそれは、「古田武彦賛美」に終始していて彼の「九州王朝筑後遷宮」のお話が聞けなかったのは残念ですが)があり、その後西村俊一氏と古田氏の対談、そして古田氏の講演と続きました。
谷本氏の講演は、『周髀算経』の研究から周代の短里の使用を発見した氏らしく、『太清金液神丹経』という本に「中国古代の航海速度」についての記載があり、これをもとに「短里説は成り立たない」と主張した篠原俊次氏の説に対する、反論でした。
かわにしは、篠原氏の論文を読んでおらず、また、講演の時間も短かったために、詳細についてまでは話が及びませんでしたが、興味あるお話だと思います。
つぎに、西村俊一氏と古田氏の対談でしたが、・・・まぁ、和気藹々としたものでした。
(あまりよく覚えてない・・・)

午後からは古田氏の講演でした。
前半は、周代の短里説(一里=435メートル(漢代)ではなく、一里=76メートル程度とする説。魏志倭人伝も短里に基づくとする)をもとに、『尚書』『周易』『詩経』『論語』『孟子』『孫子』の各文献が、実は短里でよく理解できると言うものでした。
有名な「千里馬」は、実は一里=435メートルだとすると、一日で435キロも走る、化け物じみた「馬」になってしまいます。
ところが、短里だと、76キロ。優秀な馬が頑張れば、なんとか走れる位の距離です。「これだけ走れば立派な馬だ」という例えにちょうどいいくらいになります。
そんなようなお話が実はたくさんある、ということでした。
後半は、万葉集の人麿の歌が、実は九州を舞台にして歌われた、という話でした。

その後、懇親会にも参加させていただき、「新・古代学の扉」のHPを管理されている横田幸男さんと、はじめてお会いすることができ、うれしくおもいました。
今日は、楽しいお話をたくさん聞けて、貴重な時間を過ごすことが出来たと思います。
29-Sep-2001

今回は、ダル100億世さんの「邪馬台国日向説」への批判をしてみたいと思います。

というわけですから、まずは、ダルさんの説をお読みください。→「邪馬台国はここでした!(1)(日向説)」

さて、ダルさんはまず、「渡海」と「水行」の違いについて着目しました。
私もこの点には大方、賛成です。
ただ、補足しますと、「水行」の本来の用法は、「川を移動する」ことです。
中国は大陸の国で、島国ではないのですから、これは、当然の話です。
勿論、海を知らないわけではないので、ダルさんのおっしゃるような、「海岸沿いを船で移動する」という用法も生じてきた、というのが真相だろうと思います。
「水行」という言葉は割りと「便利に使える」広い意味を持った言葉だと思われます。
だから、厳密には「海を渡る場合には水行は使っちゃダメだ」ということでもないだろうと思います。
逆に「渡海」は文字通り、当然「川を移動する」場合や「海岸沿いを船で移動する」場合には使えません。
ですから、「水行十日陸行一月」とあるから、絶対に海をわたっちゃいけないということではありません。
むしろ、「陸行」との対比として、船での移動全般を指していると考える方が無難です。
ただ、「女王国から『渡海』した先にも倭人がいた」という記述から、女王国が九州島にある、というダルさんの指摘はもっともです。
(論理的には「四国」もありですね)
本州(近畿の大和)から東に海を渡ったら、アメリカに着いてしまうので、女王国は近畿ではない、ということです。
(北に渡ると北海道に着きますが、それもダルさんの指摘通り、無理のある解釈です。付け加えると、中国側が「津軽海峡を知っている」=「本州は島である」という認識を持っていたかどうか、不明です)

さて、より根本的な異論があります。
それは、投馬国と邪馬壹国の所に記載されている、「水行二十日」や「水行十日陸行一月」は、「里程」ではなく「日程」だということです。
まあ、「旅日記」なら、そこらへんはこだわる必要も無いのでしょうが、魏志倭人伝のこの部分は、そうではありません。
「日程」というのは、厄介なもので、単純な距離とは微妙に違います。
実際には、距離より便利な場合もありますが。
私たちも目的地がどのくらい遠いか近いかを考える場合、電車や自動車での「移動にかかる時間」で示されたほうが判りやすい場合もあります。
ここには、当然ながら「乗り換え」や「停車駅の数(急行と各駅停車じゃ大分違いますよね)」や「渋滞の状況」、「道路の状況(狭いからとか一方通行だから、回り道しなきゃ行けないとか)」を含んでいます。
だから、実生活では便利なのですが、地理的にどこに位置するのかを知りたいわたしたちにとっては、「厄介」なのです。
つまり、「里程」と「日程」では、厳密には指すものも違うし、目的も違う。
これはごっちゃにしちゃいけません。
また、
郡より女王国に至る、万二千余里<魏志倭人伝>
とあるように、郡(帯方郡)から女王国に至るまでの総里程は明記されています。
ここで、倭人伝の最初に、
郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴るに、乍ち南し乍ち東し、其の北岸狗邪韓国に到る、七千余里。<魏志倭人伝>
とあることから、一万二千里-七千里=五千里が朝鮮半島南端部から女王国の距離なのです。
「短里説」を用いずとも、ここから言えば、朝鮮半島南端部から女王国までの距離は、帯方郡から朝鮮半島南端部の距離よりも短いというのが、魏志倭人伝の語る事実です。
よく「誇張がある」と言われます。
これは、要するに一万二千里が常識的な「里」で考えると、遠過ぎるということでした。
ですが、実際は、その半分以上は、朝鮮半島内の距離です。
従来、この点が忘れられていたように思えます。
さて、五千里のうち、
(1)千余里   狗邪韓国→対海国
(2)方四百余里 対海国の面積
(3)千余里   対海国→一大国
(4)方三百里  一大国の面積
(5)千余里   一大国→末盧国
(6)五百余里  末盧国→伊都国
(7)百里    伊都国→奴国
(8)百里    伊都国→不弥国
という各里数値によれば、(古田説においては2と4を計算に含め、7は含めませんが、ここでは、一般的な説に従って足してみます)
千余里+千余里+千余里+五百余里+百里+百里=三千七百余里です。
残りは五千-三千七百=千三百里です。
「連続式」に読んだとして、不弥国から(投馬国を経て)邪馬壹国=女王の都する所までが、この距離だと言うことになります。
これでは、日向まで届きません。
(千三百里移動するのに「水行二十日」+「水行十日陸行一月」もかかるかと問われそうですが、かかるかもしれないしかからないかもしれないです。そんなにかかる理由としては、「悪天候によって足止め」とか「回り道しなくては行けない事情があった」とか、いくらでも考えられます。要するに、批判になりません。先述のとおり、「里程」と「日程」は違うのです。また、投馬国と邪馬壹国が「日程」で記されていることについて、「正確な距離(里数)がわからなかった」という説明が聞かれますが、これは、帯方郡から女王国までが一万二千里と書かれている点から言って、誤りです。全体がわかっているのですから、各部分もわかっているはずなのです)
古田説においては、この「水行十日陸行一月」は帯方郡から女王国への「総日程」とし、「水行二十日」は、傍線行程(「一万二千里」には含まれない脇道)と見なしています。
今は、連続的に足してみました。
今度は放射式の読み方(榎説)について考えてみましょう。
この場合、伊都国以降は、一万二千里に含めないと考えられます。
従って、千余里+千余里+千余里+五百余里=三千五百里ですね。
残り千五百里です。
大差ないですね。
同様のことを、古田武彦の他に榎一雄・井上光貞・奥野正男・張明澄の各氏も指摘しています。
こういうわけですから、「連続式は近畿説に有利。放射式は九州説に有利」という「常識」は、思い違いなのです。
(古田氏に言わせれば、この残りの「千四百里」(7を含めない為)は、倭人伝の中に記載された数値でなければならぬ、ということです)

さて、次に、「神武東征と邪馬台国東遷」についてです。
ここで、神武東征の出発地が「隼人」の地であったことを不審とする津田左右吉以来の諸説に対し、その「不審」が実は的を得ていないことを指摘されました。
私も同感です。
ですが、私は隼人に関しては、熊襲の後裔であるという通説どおり、「隼人」という存在は、6~7世紀以降になって現れてきたものと考えます。
従って、神武が南九州の日向から出発したとすれば、むしろ「熊襲」の一派だったのではないかと考えます。
と、なると、当然ですが、神武東征以後も「熊襲」は九州に存在したわけですから(隼人とするダル100億世説でも同じ)、これをもって「邪馬台国が東遷した」というのは、早計です。
常識的に考えれば、「熊襲」の本国は九州のままで、その一派が近畿にも進出した、というのが普通です。
主流はあくまで九州のはずです。
記紀という書の根本のテーマは、「天皇家以外に日本列島の王者はいない」という主張です。
これに惑わされてはいけません。
常識的に考えれば、少なくとも神武東征の時点では、神武は非主流だったはずです。
イギリスとアメリカのようなものです。
メイフラワー号の頃は、当然、イギリス本国の植民地でした。
決して、最初からアメリカは独立してはいませんし、イギリスそのものが「新大陸」に移動したわけでもありません。
実はここの理解の相違が、「九州王朝説」と「邪馬台国東遷説」の違いでもあります。
甘木や都城と大和との地名の類似は興味深い事実ではあります。
ただ、それも、アメリカの例でよくわかるでしょう。
「ニュージャージー」「ニューハンプシャー」の各州が英国の地名を元にしていたり、「ニューヨーク」「ヴァージニア」「ジョージア」など英国王にちなむ名前であったりという事実です。
これと同じことなのかどうかはわかりませんが、「類似する=本国そのものが移動した」というのは、やはり早計なのです。
あくまで、本国をしのんでつけたものなのかもしれません。
要するに、ダルさんの3つの論点を結びつけても、必ずしも、「邪馬台国東遷」にはならないのです。
ですが、ダルさんのおっしゃるとおり、傍流の大和勢力が本流の九州勢力(ダルさんの言葉なら「隼人」)を呑み込んだ、という歴史の経過はあったのだろうと思われます。
その時期が来るまでは、あくまで、大和勢力は傍流だったのです。
本流である九州のほうが「偉い」という時代が存在していたはずなのです。
そして、九州勢力側が、「倭王」として中国に使者を送っていた。
大和勢力は、九州の倭王の部下だったこともあるだろうし、反発していたこともあるでしょう。対等の地位を認めさせたり、自称したりしたこともあったのでしょう。
そういう「立場」を想定する必要があります。
私は、その期間は決して短くは無かったと思います。
最終的に「倭王」にとってかわったのは、大宝律令前夜でした。

狗奴国に関しても、私は狗奴国だけが「熊襲」ということでもないのだろうと思います。
九州勢力側も一枚岩ではなかったことを示すのみだと思います。
(狗奴国と女王国の対立は、恐らく、「倭国に乱有り」以降のものではないでしょうか。共立された女王に反発する勢力です。そのほうが理解しやすいと思います。「金印」や「倭国王帥升」の頃は、うまくやっていたのではないでしょうか)

金印の「委奴国」=「伊都国」説ですが、これは従えません。
理由は、以下です。

(1)魏志倭人伝の記述について
「『後漢書』に、金印を与えたという記述があるにも関わらず、倭人伝の奴国の記事には、全くそうした記述が無いこと」から「奴国」が金印を与えられたとする従来の説を批判するが、これは、伊都国自身にも言えることである。
(2)女王国と伊都国の関係について
「女王国とは、先にも述べたように、女王卑弥呼が統治する連合国のことであって、その成立は倭国大乱の後の時期であるはずである。にも関わらず、代々の王が女王国に従っていると記されている。女王国ができたのは、当時から考えればつい最近のことであり、代々の王が、その国に統属するというのは納得がいかない。明らかな矛盾である。」というが、より厳密には、「女王国」とは地名でも国号でもなく、ある一定の勢力に対してつけられた「普通名詞」である。
これこそ、中国側の命名ではないか、と考えられる。従って、その言葉の成立時期に厳密さを求めるのは正しくない。
ダル100億世説に従えば、このような推移となる。
1)かつての倭王は、現在の伊都国王だった。
2)乱が起こり、その結果、共立された卑弥呼が、本来の倭王(=伊都国王)にとってかわり、倭王を名乗った。
3)今、倭王の地位を追われた伊都国王は、伊都国にいるが、実権はない。
明かな権力交代劇だ。しかも、つい最近の、である。
中国側にとって、こういった夷蛮諸国の権力の推移は、もっとも重要な関心事だった。
外交関係に大きく関わるからである。
したがって、これを記さぬこと自体が、決定的な矛盾である。
やはり、「女王国」と呼ばれている勢力が、昔から代々(金印当時も含めて)伊都国王を統属せしめていたことは、疑いない。
(A統属Bは、AがBに属すという語法である。逆の関係を示したければ、「統主」という言葉がある)
(3)「委奴国」について
古田氏の指摘の要点は、「委奴国」=「倭人国」である。
更に言えば、「委奴国王」=「倭国王」と言っているのである。
また、「委奴」=「伊都」説は、戦前から存在していたが、音韻上の問題(「委奴」=「ゐど」と「伊都」=「いと」の違い)によって、否定されている。
この点への再反論が不可欠だ。

以上です。やはり、金印の「委奴国王」は「倭国王」のことである、という古田氏の解釈の方が正しそうです。
まぁ、「邪馬壹国王」でも「女王国王(なんか変)」でも「狗奴国王」でもないわけですが。
魏志倭人伝には、「乱有り」とは記されていても、中心勢力の交代は描かれていないわけです。
「乱」も、どうやら、先代国王の死後の後継ぎ争いのようなものと考えられます。

ダルさんの指摘、特に「神武東征と邪馬台国東遷」は、非常に多くの示唆に富みます。
「九州王朝説」の核心部分(と私が思っている)に、迫るものです。
そういう意味でも、ダルさんに感謝、です。
ダルさん、反論お待ちしてます。
17-Sep-2001

先日の「独り言」(9/15)を書いた後、知ったことなのですが、随分と国際社会とアメリカとの温度差というか、態度の違いが明らかとなってきました。
ロシアやフランスが、武力行使に慎重な姿勢を見せているようです。
また、ニューヨーク・タイムズ紙にも「戦争」に対して、慎重な社説が掲載されたようです。
その一方で、ブッシュ大統領はじめ、米国政府は、「戦争」に対して強気な姿勢を崩していません。
これに対するイスラム社会、アラブ社会の反発も強くなってきています。
その間で微妙な立場に立たされたパキスタンは、「和平」への道を模索しているところです。

・・・まさに、「戦争」の様相を呈してきました。
それも「憎悪」渦巻く・・・。
私は、この「戦争」を巻き起こしたのは、「テロ」ではなく「アメリカ」である気がしてなりません。
怒りに身を任せ、ちょっとやり過ぎたんじゃないかという感じです。
まぁ、アメリカが怒りに冷静さを失うのは、しかたないとして(それも困ったものですが)、国際社会は、冷静に対応してもらいたいものですね。

こんな使い古された言葉が頭をよぎります。
「罪を憎んで人を憎まず」
15-Sep-2001

こんにちは。

先日、凄惨な「事件」が起こってしまいました。
「米国同時多発テロ事件」です。

邦人二十四人を含めた五千人近くの方が、現在もなお、行方不明となっています。
あのようなテロ行為は断じて許すことは出来ません。
ブッシュ米大統領は、「戦争」という言葉を敢えて用いて、断固としてこの卑劣なテロに立ち向かうことを表明しました。
ですが、私からすると、「戦争」という言葉は用いて欲しくなかった。
やっぱり、これは、「犯罪」なのです。
たとえ軍隊が出動するにしても、相手は「犯罪者」。
決して「和平」も「講和」も「調停」もない。
ましてや、「敗北」など許されない。
恐らく、ブッシュ氏の考えもそうなのでしょうが、だから、「戦争」じゃないんだと思います。

私が、なぜ、このような、一種「微細な」言葉の問題にこだわるのかと言うと、私は、この違いが日本の取るべき行動に大きく関わると考えているからです。
「戦争に対しては和平を推し進める第一人者に」
「犯罪に対しては撲滅を推し進める第一人者に」
なってほしいものです。
小泉首相が、米国支持を打ち出し、出きる限りの協力は惜しまない、と言ったのも、この「テロ」があくまで「犯罪」だからだと思うのです。

専門家の間では、「非対称戦争」などという言葉を使って、これが新しい二十一世紀型の戦争形態なんだ、と言っていますが、もしも、本当にそうならば、そういう「戦争」にやすやすと荷担するべきじゃない。
ウサマ・ビンラディン氏(の関与によるものなのかは知りませんが)と、米国の間に立って、和平を推し進め、「戦争」を根絶すると言う選択肢も、あり得るのです。
もしも、これが、「犯罪行為」でなく「戦争行為」であれば。
米国や他の諸外国にとっては、それほど大きな違いは無いのかもしれません。
「世界の平和と秩序を守る為に戦う」
戦争を起こす時は、みんなそう思っているのです。
ですが、日本にとっては違う。
だから、わたしたち日本人はこの違いにこだわるべきだと思うのです。

また、「犯人」たちのグループは、犯行後、隠れたままです。
この点から言っても、彼等の行為が、「政治的な意図」を持った、「戦争」行為であるというよりは、単なる「犯罪」に過ぎないことを物語っているようにも思います。
もっとも、想像をたくましくすれば、様々な「意図」を疑うことは出来ますが。
やはり、「たくさんの人を殺してやった。ざまぁみろ」程度で満足してしまうような、ちっぽけな輩に見えてしまうのは、私だけでしょうか。
オウムの時もそうでしたが、だから、どうしたいのか、が見えてこないのが、テロリズムであるような気がします。
それとも、「巨大な計画」の「ほんの一部」なのでしょうか。

何はともあれ、「憎悪だけの戦争」にはなってほしくないものです。
1-Sep-2001

どうも、です。

前回の「独り言」(28-Aug-2001)の続きです。

ちょっと、「暦」の本を調べてみました。

太陰暦:冬至を起点として、一年を十二等分したものを「中」と言い、これは「冬至」→「大寒」→「雨水」→「春分」→「穀雨」→「小満」→「夏至」→「大暑」→「処暑」→「秋分」→「霜降」→「小雪」と続く。
「冬至」を含む月を「十一月中」として、一ヶ月づつ配分する。ある「朔」(新月)の日から次の「晦」(朔の前日)までの「一暦月」の間に「十一月中」があればその月を「十一月」とする。
従って、「春分」は必ず「二月」になる。
ただし、「朔」→「晦」は実際は29.530589日であり、必ずずれが生じる。この為、「中」を含まない「月」が生じ、これを「閏月」とする。

太陽暦(グレゴリウス暦):平年を365日と定め、西暦を4で割り切れる年は閏年として366日とする。ただし、4で割りきれても100で割りきれる年は閏年にしないが、100で割った商が4で割り切れれば、閏年とする。
ちなみに2000年は4で割りきれるが100でも割りきれ、なおかつ100で割った商(20)が4で割りきれるので閏年。

(内田正男『日本暦日原典』による)

太陰暦は、つまり、「雨水」の月が必ず「正月」になります。
「旧暦」の上で、
「春」=1~3月=「雨水」「春分」「穀雨」
「夏」=4~6月=「小満」「夏至」「大暑」
「秋」=7~9月=「処暑」「秋分」「霜降」
「冬」=10~12月=「小雪」「冬至」「大寒」
となって、なるほど、キッチリ正月は「春」という季節になる。
これを今の暦に合わせると、
「春」=2~4月=「雨水」「春分」「穀雨」
「夏」=5~7月=「小満」「夏至」「大暑」
「秋」=8~10月=「処暑」「秋分」「霜降」
「冬」=11~1月=「小雪」「冬至」「大寒」
と、おおよそ、こうなります。(一月の長さが違うので一概には言えません)
うーん、なんだか、実際の季節感と合ってるような合ってないような・・・。
結局、日本の「冬至」って、「冬真っ只中」というよりは「これから本格的に冬が始まる」ってくらいの季節ですもんね。
たしかに。
つじつまは合ってるのかなぁ。
むむ。
28-Aug-2001

こんばんわ。

今日は、私の「素朴な疑問」を書かせて下さい。

「新春」と言う言葉があります。
勿論、「正月」のことですが、正月は、季節で言うと「春」という、「暦」です。
「春正月」云々というのは、日本書紀にも出てきますが、
旧暦では、これが常識です。

ところが、実際の所、1月は、真冬です。
ここには、「新暦」(太陽暦)と「旧暦」(太陰暦)の違いがあることは言うまでもありません。
それを考慮しても、やっぱり、1月は「真冬」です。

私の素朴な疑問は、これです。
なんで、春なの?
「旧暦」にしても「新暦」にしても、閏年とか閏月とか、そういう「調整」は行われています。
でも、実際の所、ずれてる。
「二十四節季」は、農業にとって重要な「節目」でした。
だからこそ、ちゃんと実際の季節に合うように調整がされてきました。
でも、実際は、「正月」がずれてる。
そんな気がするのは私だけなのでしょうか。

だれか、ご存知の方がいれば、教えてください。
12-Aug-2001

今日は、神話関係のお話をいくつかしたいと思います。

初めは、「最初の人間」について。

子供の頃、こんな疑問を持った経験はありませんか。

自分には両親がいる。
お父さんのお父さんは、おじいちゃん。
おじいちゃんのお父さんは、ひいおじいちゃん。
ひいおじいちゃんのお父さんは、ひいひいおじいちゃん。
ひいひいおじいちゃんのお父さんは、ひいひいひいおじいちゃん。

じゃあ、一番最初は誰なんだ?

「神話」の世界では必ず、「最初の人間」が現れます。
その現れ方には、種類がありますが、「最初の人間」は必ず現れます。
アダムとイブだったり、パンドラだったり・・・。
(ほとんどの「大系的な神話」・・・ギリシア神話や旧約聖書、記紀神話もそうですが・・・は、複数の「最初の人間」を持っていることがあります。はじめから独りの人間が考え出したものではないわけですから、複数の「最初の人間」説話があっても、おかしくはありません)
実は、これら「最初の人間」説話の生みの親は、「子供の疑問」だと思います。
きっと、「村に一人は」こんなこと言い出す子供がいた。
大人達はほとほと困ってしまうわけです。
だって、そんな「答え」わかるわけないじゃないですか。
そこで、村の長老は、あるお話をしました。
それが、「アダムとイブ」だったり、「パンドラ」だったり・・・。

考えてみれば、ごくごく普通のストーリーですが、こういう根本の「成立事情」を考えれば、こういった「最初の人間」説話そのものの淵源は、遥かに古く、そして、数多くの「最初の人間」がいたんだろうことが容易に想像できます。
村に一人は「最初の人間」がいても決しておかしくはない。
だから、人間が言葉を持って程なく「最初の人間」は語られた。
そういっても過言では有りません。
後に「政治的」に利用され、淘汰されていく前の話です。

次は「最初の神」です。
人間が「神」を生み出した(「発見した」という謂い回しのほうが、安心される方もいるでしょう。別にどちらでも構いません)のは、いつのことでしょうか。
これもかなり古いでしょうね。
どんなところから、人間は「神」を生み出すことになったのでしょう。
私は、実は、「無宗教」と言われる現代日本人こそが、それを一番理解しやすいのだと言う気がします。
私たちは、普段「無宗教」と言いながらも、思わず「神様・・・」と手を合わせたくなる瞬間がありますね。
どこのどの「神様」なのかは知りませんが、つい、ね。
まさに「あれ」です。
特にそれを強く感じさせるケースは、「人の死」や「自然の脅威」を目の当たりにした時です。
要するに自分じゃどうにもならない、そういうものを目にし感じたときに、私たちはごく自然に「神様」の存在を感じる。
何も高尚な「宗教知識」を持たなくても、「無宗教」の私たちでさえ、「神様」の存在を感じることが有る。
私たちは「神様」という概念を知っている。でも、たとえ知らなくても、それを感じることはあるでしょう。
太古の人間もそれを感じたに違いありません。
そう考えると、自然神信仰や、多神教、生死を司る神が最も「原初的」な神の姿であることは理解できます。
超越的な「絶対的唯一神」が、これより、遥かに「発展した」神であることは、言うまでもありません。

ここまでは、言ってみれば「架空」であることが前提とされる「神話」の話でした。
もう一方で、「実在」したのではないか、と考えられる「神話」も少なくありません。
記紀で言えば「国譲り」「天孫降臨」などがそうですし、ギリシア神話でも「イーリアス」は実在していました。
「モーセの出エジプト」なども実在した話なのかもしれません。
もちろん、「モーセが海を割った」とか「トロヤ戦争の発端は神々の言い争いだ」とか、そんなことが事実だと言っているのではありません。
確認しておくべきことは、「モーセ」も「イーリアスの英雄」も、あくまで「人間」である、という点です。

さて、記紀神話に目を転じてみましょう。
私が「実在した」可能性が有ると考えているのは、天孫とされる「ににぎ」のほかに、「天照大神」「すさのお」「大国主神」などです。
記紀神話は、他の神話(ギリシア神話など)と異なり、「神」と「人」の区別が非常に曖昧です。
「すさのお」など、「神」のようでもあり「人」のようでもある。
天照大神」にしても、そういう部分が見え隠れします。
特に「すさのお」と絡む時の「天照大神」と、「天孫降臨」時の「天照大神」では、大分印象が違います。
なぜなのでしょうか。
私は、これを解明するヒントは「靖国神社」にあるような気がします。
「靖国」に祀られているのは、「人」です。
「人」ですが「神」です。
これが、日本古来の風習なのでしょう。
「人は死んで神になる」
これです。
「生ける天照大神」は「人」であり、「死せる天照大神」は「神」。
こういう状況だった可能性があります。
先の印象の違いは、これによるものなのかもしれません。
この視点は、記紀神話を読む上で重要なキーになるような気がします。
28-Jul-2001

こんばんわ。

今日は、「靖国神社」についてです。

小泉首相が「靖国神社に参拝する」と言って以来、「靖国参拝問題」には、さまざまな議論が、出てきています。

「靖国神社」というのは、第2次大戦に関わらず、「日本にとって重要な役割を果たした人物」を祭る神社です。
ですか、「靖国参拝問題」には、「靖国神社には戦争の、A級戦犯が祭られている」、この点が重要な問題であるように、言われています。
小泉さんは、「これから平和国家として日本が頑張っていく為に、戦争犠牲者に、その旨の誓いを立てる」
というようなことを、言っておられるようです。
「その何が悪い」というのが、小泉さんの基本姿勢です。

ですが、私に言わせれば、たかが、「靖国」程度でその「誓い」が立てられるとは、あまりにスケールが小さいと言う感じです。
「靖国」には、広島や長崎の犠牲者が祭られていますか?
「南京」の犠牲者が祭られていますか?
「パールハーバー」の犠牲者が祭られていますか?
朝鮮といわず、中国といわず、米国といわず、
本当に「全ての戦争犠牲者」が祭られていますか?

私にとっては、「靖国にはA級戦犯が祭られているから」どうだ、とか、
そんなもんは、どうでもいいんです。
「A級戦犯」となった人々を、責めれば、それでいい、などという、単純にして、無意味な、
「戦争責任論」に陥らず、あの「戦争」の教訓を十分に生かすためには、
小泉さんのような、「理屈」は正しい。
でも、その実現手段は、あまりにちっぽけだ。
それが私の感想です。
22-Jul-2001

お久しぶりの、「古代史の独り言」です(笑)。

今回は「天神様」について、です。

「天神様」と「お稲荷さん」と言えば、日本では知らない人はいない、有名な神社ですよね。
でも、記紀ではあまり馴染みのない、どちらもそういう神様です。
「お稲荷さん」については、いずれまた、お話できる時があるでしょう。
今回は、「天神様」についてお話します。

さて、「天神様」といえば、「菅原道真」とお思いの方もいらっしゃると思いますが、それは後のお話。
北野天満宮では、本来、その神様は「蛇神」であり「雷神」として、畏怖されていたようです。
(『大鏡』では「荒人神」だという)
また、私などのように「記紀」をずっと見てますと、どうしても、「天神」とあれば「あまつかみ」と読んでしまいます。
じゃあ、これと北野天満宮の「天神(てんじん)」が同じなんでしょうか。
私にはそうとも見えません。
なぜなら、記紀にいう「天神(あまつかみ)」には、「雷神」という要素も「蛇神」という要素も皆無だからです。
もちろん、「天神(あまつかみ)」が「天空にいる神」という意味であったとしても(少なくとも記紀編纂の時代(=八世紀)にはそのような観念は存在していた)、「天神(あまつかみ)」が「雷神」であったとも、「蛇神」であったとも、書かれてはいません(武甕槌神などのように「雷神」とされる個別の「天神(あまつかみ)」はいるが、「天神」一般ではない)。

ちょっと、目を転じて、中国を見てみましょう。
中国では「天神」といえば、「雷神」を指します。
もともと、「申」が「天空を統括するものとしての雷」を指し、この「天空を統括するもの」を意味する場合には、「示」をつけて「神」に、「気象」をあらわす場合には「雨」をつけて「雷」に、というのがもともとのようです。(加藤常賢『中国古代の宗教と思想』等も参照)
「天神・地祇・人鬼」周礼という3すくみで言われる場合の、「天神」です。
ちなみに、「天神地祇」という語は、日本にも「輸入」され、日本の場合、「天神」=「あまつかみ」、「地祇」=「くにつかみ」として、用いられます(『旧事紀』など)。
「天神」の代表が「伊邪那岐」「高皇産霊」や「天照大神」、「地祇」の代表が「大国主」というわけです。
ですが、「天神地祇」と「あまつかみ・くにつかみ」とは、別物です。

ともあれ、どうやら、北野天満宮の神様は「雷神」であったために、「天神」と同一視されるに至ったのではないか、という疑問が沸いてきます。
近畿地方には「雷神」として畏れられる神様が多数います。
大物主大神、鴨神、茅鳴美神などです(志賀剛『式内社の研究』)
勿論、これらの全ての神様が、「天神」と呼ばれているわけではありません。
むしろ、彼等は「くにつかみ」に分類されます。
北野天満宮も「荒人神」<大鏡>のままだったら、まちがいなく「くにつかみ」でしょう。

一方、太宰府天満宮の方の神様は、というと、もともとは、「あまつかみ」ではないかと考えられます。
この大宰府の地こそが、「あまつかみ」祭祀の最高の中枢であったこと、これは、疑いないだろうと思います。

要するに、同じ「天神様」といっても、その経歴は全く違う、可能性があるのです。
これは、全国の「天神様」を探求する上で、重要なポイントとなる気がします。
5-Jul-2001

今日は、本当に(?)、独り言です。

「著作権」について。

私は、当HPで公開している「お話」について、
基本的に「転載は自由」という姿勢を保っています。
でも、中には、「厳正に」著作権による制約を課しているサイトも多数あります。
これ自身は、私も、決して間違っているとは思わない。
私などのような、いいかげんで適当なHP管理者に比べて、
はるかに、きっちりとした「管理体制」をとられていて、いいことだとおもいます。

私が、自らの「お話」に対して、それほど厳密に「管理」しない理由について、
今日はお話したいと思います。

私は、「知的所有物」については、2通りのものを考えます。
一つは、「創作活動」。
「絵画」や「彫刻」や「小説」や「物語」や「随筆」や「詩」や「詞」や「歌」や「曲」や「物」や「道具」です。
もう一つは、「論理」や「理屈」です。
私が「産している」のは専ら、「論理」や「理屈」です。

「著作権」は前者に対して有効なものであって、後者には有効でない。

これが私の「理屈」です。
なぜか、それは、簡単です。
「論理」や「理屈」というのは、基本的に、
「誰が考えてもそうならざるを得ない」
そういうものです。
この点が、前者と大きく異なります。
その人特有の、「感性」や「美意識」に影響されない。
これが根本です。

「盗作」という言葉がありますが、
私は、「私の理屈を盗作されるのは、大いに結構」と思っています。
(「盗作された」経験はありませんが・・・)
もしも、私の名を挙げることなく、私の理屈を紹介される方があったとしても、
大いに結構なことと思います。
(「いれば・・・」の話ですが)
「もしも、私の打ち立てた「理屈」に全面的に賛同」という論者が現れたとすれば、
私にとって、大いに価値あることです。
「もしも、私の打ち立てた「理屈」を理解せずとも、私の「理屈」を「盗む」論者あり」とすれば、
その人は、勝手に自滅するのみです。
私が絶えず「自問自答」している、「問題」に、ついに打ち勝つことは出来ないのですから。

ですから、私は、当HPに載せる、あらゆる「私の言」に関して、「転載自由」の姿勢を貫きます。
「私の言」を十二分に消化し、「自らの言葉」としてお話できるなら、
どうぞご自由に、お使いください。
出来ぬなら、お使いにならないほうがいい。
自らを苦しめるのみです。
あとは、「マナー」の問題です。

(今日のお話は、あくまで「一般論」です。
むしろ、「著作権」という言葉に惑わされ、その「真意」を理解できずにいる不幸な人々への、
ほんの些細で、お節介な、メッセージのつもりです)
24-Jun-2001

さて、今日は、天孫降臨です。

天孫降臨を語る際に問題となるのは、「どこからどこへ」という問題です。
勿論、「高天原から筑紫」なのですが。
じゃぁ、「高天原」ってどこ?
「筑紫」ってどこ?
という問題があるわけです。
「筑紫」と一口に言っても、それは九州全体を筑紫と呼んだんであって、九州のどこかが問題だ。
というわけです。
でも、率直に、「筑紫」といえば、福岡県でしょう。
そうでない気がするのは、神武の出発地を宮崎県と疑わなかったため。
記紀の記載をあげておきます。

   日向の襲の高千穂峯に天降る。神代紀、第九段、本文
   果に先の期の如くに、皇孫をば筑紫の日向の高千穂の[木患]触峯に致す。同、一書第一
   故、天津彦火瓊瓊杵尊、日向の[木患]日の高千穂の峯に降り到る。同、一書第二
   日向の襲の高千穂の[木患]日の二上の峯の天浮橋に到り、同、一書第四
   時に、降り到る処をば、呼びて曰く、日向の襲の高千穂の添山峯と。同、一書第六
   竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降り坐す。神代記

「筑紫の」と言っているのだから、当然、福岡県なのです。

では、どこから?
それは、記紀神話で、「天」と呼ばれる領域がどこなのかと言う分析で、明らかになります。
詳細は省略しますが、簡単に言うと、「天」から「天」以外の土地へ赴くことを、記紀では「天降る」と表現してます。
そこで、天降る先を見てみると、「筑紫」「出雲」「新羅(韓)」の三箇所です。
すると、これら領域は「天」ではない。でも、「天」から、これらの領域へ行くのに、途中経過地は存在しないから、「天」はこれらの地に隣接していると言えます。
とすれば、これは、「壱岐」「対馬」です。
事実、対馬には「阿麻[氏/一]留神社」というのがあり、「あまてらす」より古い形の名前です。
したがって、対馬が天照大神の出身地である、という命題を指示しています。
また、「壱岐」には「天の原」という地名があり、これが「高天原」であろうと考えられます。

従って、天孫降臨とは、「壱岐・対馬の海洋勢力が、筑紫へ侵入した」事件であると言えます。
なんだ、スケールの小さい・・・と思わないでください。
壱岐・対馬勢力にとってみれば、筑紫の広大な大地を手に入れることは、大変重要なことでした。
記紀神話のほとんどは、弥生時代を舞台にしていますが、重要なのは、稲でした。

   葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、我が子孫の王たるべき地なり。爾、皇孫、就でて治せ。行矣。宝祚の隆、当に天壌窮り無けん。神代紀、第九段、一書第一

所謂「天壌無窮の神勅」ですが、つまりは、農作物の豊富な豊かな大地を、天照大神は手に入れたかったのです。
勿論、稲作の為に。
当然ながら、壱岐・対馬などの島では、充分な稲作など、無理な話でした。
「天国」側にしてみれば、まさに死活問題だったわけです。

さて、もうひとつ、「どうして天孫降臨は成功したのか」という視点で考えてみたいと思います。
それには、壱岐・対馬の地理が重要になってきます。
縄文時代までは、日本列島では、どちらかといえば東が先進地域でした。
また、はっきり言えば、中国側にも引けを取らない、そういう時代が長く続きました。
(「土器」という分野では、世界最高峰の文化でした。中国に金属器文化が浸透する以前の話です)
ところが、時代が流れるにつれ、中国と日本列島の文化の優劣が逆転してきます。
1つは「金属器」です。
もう1つは「稲作」です。
これが、日本に伝播してくる、となると、壱岐・対馬は、当然、「先進文化の玄関口」として、脚光を浴びることと為ります。
ここを拠点とする、海洋集団も、活躍の場を増やすこととなったでしょう。
(モノそのものの伝播は、南方からというルートも存在する。しかし、「技術」の伝播に必要な「技術者」は朝鮮半島経由で入ってきたと見るのが自然です)
これが、壱岐・対馬が出雲に対して優位に立った、要因の一つだろうと思います。
また、壱岐・対馬は当然、最新の兵器・鉄の武器を多く手に入れることが可能でした。
このことも、当時の情勢に多大な影響を及ぼしただろうと思います。

さて、このように考えてくると、「記紀神話」がいかに弥生の情勢をリアルに伝えるものであるかがおわかりいただけるでしょう。
ここまでのリアリティを持つ「作り話」を造ったとするなら、それはそれで、天才ですが、やはり、「史実としての記紀神話」に目を向ける必要があります。
18-Jun-2001

さて、今回は、時事ネタです。

ほんとは、書くのは、どうしようかと、悩んだんですけど・・・。
あまりに、個人的な意見になってしまいそうで・・・。

・・・「心の病と犯罪について」です。

「心の病」とは、つらく、厳しいものです。
とか言いつつも、私は、味わったことは無いのですが・・・。
それは、百も承知で、あえて、書かせていただきます。
「人を殺しても罪に問われない」ほどの「心の病」とは、いったいどういうものでしょうか。
私の目には、その「病」は相当な重傷のように見えます。
症状は、いろいろあるのでしょう。
「幻覚や妄想に悩まされ、近付いてきた人物が、自分の命を狙っていると錯覚し、防衛のために刺してしまった」
とか、
「カッとなると、ブレーキが効かなくなってしまい、自分でも、知らない間に、相手を死に至らしめてしまった」
とか。
もしも、こんな状態に自らが陥ったとしたら、どれだけつらい状況か、私のつたない想像力でも、充分に想像できます。
もしも、そのような状況で、「自分の意思ではどうにも出来ない状況」で人を殺してしまったとしたら、彼の罪を問えないのは、充分に理解の出来ることです。
ですから、司法がそのことを充分に察してくれる。
それは、大変重要なことです。

でも、今はそれとは、一応、距離を置いてお話しましょう。
私は、司法によって、「心の病」だから罪に問わない、というのは、非常に危険性を伴う、というか、行きすぎれば、人権侵害の恐れさえあると思います。
なぜか。
もしも、「彼は心の病だから、たとえ人を殺しても罪には問えない」と、公に認められてごらんなさい。
それはつまり、「彼は、町を歩けば、人を殺すかもしれない。でも、それは、仕方の無いことなんだ」と、公に明らかにしているようなものです。
じゃぁ、「社会」として、「いつ人を殺すかもしれない彼」を、一般の人間と同じように扱うことが出来ますか?
たとえば、「某殺人者」は、車で現場に降り立ちました。
彼が本当に「いつ人を殺しても仕方の無い」人物だったなら、何故、「車の運転」が許されるのか?
酔払い運転は取り締まられる。
なぜかといえば、「酔っ払った状態で、まともな運転はできないから」です。
でも、酔っ払った状態で人を殺したとしても、罪には問われる。
「人殺しでさえ罪に問えない」人間が、「車の運転」でミスをしない、と、誰が言いきれるのでしょう。
当然、「まともな」人間より、よっぽど、「危ない」。

誤解しないでくださいね。
私は、決して、「心の病」を持つ方々の人権を、損なおうと言う気持ちは無いんです。
でも、いたずらに、「心の病だから罪に問わない」のでは、そのほうが、よっぽど人権侵害だと思うんです。
「罪」に対する責任能力が認められているからこそ、その他の「権利」も認められるべきだと、私は思います。

少年法の件でもそうでした。
中には、「罪に問われない」ことを「特権」であるかのように錯覚している者もいる。
でも、それは間違いです。
罪に対する責任能力、それは、その人に、充分な「権利」が与えられている証明だと思います。
「権利」はなくても「罪」には問われる、
或は、
「罪」には問われなくても、「権利」はある。
いずれも、健全なあり方ではありません。

今は、あまりにそのバランスを欠いている。
私にはそのように思えます。
9-Jun-2001

こんにちわ。
かわにしです。

さて、今日は、「神武東征」について、お話します。
まず、神武の出発地については、通常「日向(ひむか)」=宮崎県といわれますが、私は古田氏の説の通り、「日向(ひなた)」=福岡県だと思います。
以下、古事記に基づいてお話します。
・・・で、ここから出発して、宇佐の足一騰宮(あしひとつあがりのみや)や筑紫の岡田宮、阿岐の多祁理宮、吉備の高島宮を訪れるのですが、この期間が、次のようです。
1.足一騰宮→不明
2.岡田宮→一年
3.多祁理宮→七年
4.高島宮→八年
これは、いくらなんでも、「遠征」の途中経路じゃありません。
また、これらの地域では、戦闘が行われていない。
どういう事情なのかはわかりませんが(神武という青年武将の「赴任地」でしょうか)、本当の「神武東征」の出発地は、「吉備の高島宮」であると言えます。
で、高島宮を出ると、「速吸門」が出てきます。
「流れの非常に急な海峡」ということです。
通常、豊予海峡がそれだと言われますが、古事記のこの記述に従えば、鳴戸海峡です。
ここを越えると、神武は、戦闘の連続です。
これも、弥生時代の「銅剣・銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の範囲に符合していて、興味深いところです。
つまり、「銅剣・銅矛圏」は神武の仲間、「銅鐸圏」は神武の敵、というわけです。
こう考えると、神武がわざわざ鳴戸海峡を渡った「意味」がハッキリします。
明石海峡では、敵に目立ちすぎるからです。
あんなに通りやすい海峡を、敵さんがすんなり通してくれるわけがないのです。
また、神武軍団が、圧倒的な武力を誇っていれば、明石海峡を一気につぶして、手にいれることが出来るのでしょうが、彼の軍勢はそこまで強力ではなかった。
「銅鐸圏」の中心領域に突入した際の、大敗北がそれを物語っています。
さて、鳴戸海峡を渡った神武は、一気に大阪湾から「白肩津」(日下)に突入します。
で、この「白肩津」というところは、日下(草香)つまり、今の「枚方」という地域に比定されます。
ところが、ここ、内陸なんですよね。
ただ、古事記の記述では、どう見ても、大阪湾(浪速渡)から一気に日下へ向かった。
どうも、船でそのまま、という雰囲気です。
実は、弥生時代には、現在の大阪の地域のほとんどは、海(湖)だった、という研究があります。
ちょうど、「白肩津」はその境界ぐらいに当たるのです。
とすれば、これは、弥生時代の記述としては正しい、そういうことになります。
奈良時代だと、当然、陸地になってますから、ダメです)
・・・で、先ほども言ったように、神武はここで「登見の長髄彦」に敗れた。
この敗戦で兄を失います。相当な大敗北だったことがうかがえます。
ここで、神武は考えた(兄の死の間際の助言があったのですが)。
「日に向かって戦ったから悪い」
「日を背にして戦え」
これは、平たく言えば、「大阪湾を突入するのは無理だから、背後から廻りこめ」というものです。
別に「暗号」というわけではないのでしょうが、このあたりの記述は、「軍記物」の物語としても、面白いところです。
こういう事情から、神武は紀伊半島を迂回して、吉野川を遡り、大和に出る、という戦略をとったのでした。
神武という武将がいかに有能な武将だったかがわかります。
そうして、連戦に連戦を重ねて、大和に辿りついた。
「表」に比べて手薄な「裏」を廻ってきた神武は、ここで、一気に因縁の長髄彦との決着をのぞんだようにも見えます。ですが、古事記の記述では、決着はつかずじまいです。
そうして、そのまま、神武はその生涯を終えた。
大和の地に侵入して、長髄彦との決着の為、ここで基盤を整えた。
これが「神武東征」の実態です。
古事記には、大和侵入の際に神武自身が行った「大虐殺」を素直に語っています。
「戦勝記録」として。
神武以前から大和の地に生まれ育った人々にとって、神武はまぎれもなく「侵略者」でした。
一方、天皇家にしてみれば、彼等の地位を築き上げた、尊ぶべき祖。
だから、ここで、神武が初代として、記紀は語られているのです。
(神武の悲願は、のちの崇神・垂仁によって達成されます)

神武東征経路

今日のところは、このへんで。
27-May-2001

今日は、「古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)」の主宰する、古田武彦氏の講演会に行ってきました。
本当は、午前中は「歴史学研究会」の大会に出る予定だったんですけど、寝坊してしまい、出られませんでした…(笑涙)。

さて、今回の古田氏の講演は、
(1)C.エヴァンズ・B.J.メガーズ夫妻による、バルビディア遺跡の研究成果に対する、近年の日本考古学界の対応について。
(2)歴史教科書問題について。
(3)古田氏の中国訪問によって得られた成果について。
という内容でした。
(1)は、最近、日本考古学を代表する佐原真氏のエヴァンズ夫妻への「批判」(2001年1月21日の講演)についての再批判であり、佐原氏のそれは、あきらかな中傷であって、学問に値しないことが述べられました。詳細は割愛しますが、私の目から見ても、あきらかに次元の低い中傷であって、語るに値しないことは明らかです。
反論があればください。私に対してでも、古田氏に対してでも、エヴァンズ夫妻に対してでもかまわないでしょう。
(2)は、いみじくも、私も最近語りましたが、古田氏の意見が述べられました。
それは、以下のようです。
1.歴史学に求められるのは、正直な歴史を語ることである。その点、中国側は自らの行った、侵略を正直に示しているのか(隋の沖縄進攻、唐の朝鮮・日本進攻。元寇における対馬での虐殺等→これらは事実、中国の教科書には記載されていない)。これを行わずに日本側の侵略のみを語るのは、フェアなあり方ではない。
2.「南京大虐殺について」。この呼称は不当である。これでは、南京だけで虐殺が行われたかのようである。実際に南京で何人が殺されたのかが問題なのか。そうではなく、日本による中国全土における虐殺を問題とするべきである。
まぁ、他にも、様々な論点が出されましたが、大方このようでした。
1.については、「だから、日本の教科書で侵略について語らなくていい」という意味ではなく、むしろ逆に、日本がかつての侵略を記さねばならぬのと同様に、中国側もかつての侵略について正直に語る必要があるのではないのか。
ということです。
2.は、要するに、もっと大事な問題があるだろう、ということです。
これは、古田氏自身が中国において、中国側の学者に語り、共感を得た、と語るものです。
また(3)については、そのうち詳述したいと思います。

肝心の古代史のお話については、それほど多くのことが聞けたわけではありませんが、大変面白いものだったと思います。
本当は、「歴史学研究会大会」にも参加して楽しいお話を拝聴したかったのですが、夕べ夜更かししたのがたたってしまいました…。残念です。
どんまい(爆)。
21-May-2001

最近、「歴史教科書問題」というのが言われています。
まぁ、ここで問題となっているのは、第二次大戦時の事件についてであって、古代史とは一応関係があるわけではありませんが、「歴史学」という立場から、私なりの意見を述べてみたいと思います。

まず、「歴史学」には二つの仕事があると考えています。
1つは、「歴史事実の探求」。
もう1つは、「歴史事実への評価」です。
これはまさにマスコミのあり方に似ていて、ある事件を伝える場合、その事実関係を徹底的に追求することと、その事件への評価を下す(そこから何が学び取れるのか、何を教訓とすべきか、など)ことが重要なのと同じことです。
この2つの「仕事」は決してごっちゃにしてはいけません。
テレビでも新聞でも雑誌でも、この2つを区別できないようなマスメディアは、信用してはいけません。
歴史学も同じです。

さて、この2つの「仕事」。当然ながら、その性質も異なります。
「事実の探求」の際に必要なのは、なにより、客観的な目です。
客観的な目とは、何かと言えば、つまるところ、「誰が見ても同じであるような見方」です。
客観的な見方に基づく論理とは、「誰が見ても、誰が考えても、同じ結論にしか至りようがない」というものです。
もし仮に、私がそのようにして、Aという結論に至ったとしましょう。
それを別の人物(特に「かわにしの意見に反対してやろう」という意思を持つ)が考えるとBという結論になった、などということはあり得ないのです。
もし、そうなったのであれば、かわにしか、別の人物かの論理にどこか欠陥がある、ということです。
それを洗い出し、より洗練していく為のよき手法として、論争というものがあるのです。
何が言いたいのかと言うと、「事実の探求」において、主義・思想・宗教・政治などの立場によって結果が異なることなどあり得ない、ということです。
もし、そのような現象が起こるのだとすれば、もはや、「学問」とは言えない。
そのようにさえ言いきることが出来ます。
もちろん、人間の目には、どうしても、主義や思想や宗教などがフィルターのように覆い、それを全く存在しないようにするのは極めてむずかしい。
これは事実です。ですが、それを超えて、真実を見ようとする試み、それが「学問」特に「科学」というものだ、とかわにしは思います。

もう一方の「事実への評価」に関しては、ちょっと違います。
そこに「客観的な目」が必要とされるのは、「学問」である以上、当然ですが、同時に、主義・思想・宗教・政治の立場による差異をある程度許す、そういう性格のものです。
むしろ、「事実への評価」という仕事が、主義・思想・宗教・政治の立場へ果たす役割の大きさは、かなり大きいと言っていいと思います。

さて、このような点を踏まえた上で、「歴史教科書問題」を見てみましょう。
そこで争われているのは、歴史の「事実の探求」という仕事でしょうか、「事実への評価」という仕事でしょうか。
日本側と、中国や朝鮮側で意見が分かれているというのだから、恐らくは、「事実への評価」の方でしょう。
そこでわたくしは考えます。
教科書で、「たった1つの、事実への評価」だけを教える意味はあるのか?
これです。
様々なあり方を教えればいいじゃないか。
そして、子供たち自身に、どのように感じ、何を学び、何を教訓とするのか、考えさせればいいじゃないか。
これが私の率直で、無責任な感想です。
そうできないのは、結局、政府の「政治上の立場」を優先させたいからなのでは、と穿ちたくもなります。
まぁ、きっと、様々な事情があるのでしょう。
それに深く首を突っ込むことは、控えておきます。

歴史教科書問題」を語る人々が「事実の探求」と「事実への評価」の区別が出来る方々であることを願います。
16-May-2001

今日は、孫子の兵法について、お話したいと思います。

「孫子」という本は、有名なので、皆さんご存知かとは思いますが、春秋時代の呉に仕えた孫武の著とされる、中国最古の、最も優れた兵法書です。
…で、ここに記載された内容が、優れた兵法書であるとともに、現代を生きるサラリーマン、つまり「企業戦士」にとっても有益な書として、注目されています。

その「孫子の兵法」の真髄とは、何なのか、という点について、かわにしなりに、お話したいと思います。

まず、「孫子」は言います。

   孫子曰く、兵は国の大事なり、死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。孫子、計篇

つまり、戦争は国の死活問題だから、よくよく熟慮せねばならぬ、と。そして、こうも言います。

   兵は詭道なり。孫子、計篇

戦争とは、詭道(正常な道に反した行い)である、と。
つまり、戦争自体がまともなことではないのだと、孫子は先ず言いきります。
そうして、個々の具体的な話になっていくわけなのですが、その「孫子の兵法」の真髄を最も良く示すのが、以下の一節だと思います。

   孫子曰く、凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ。
   軍を全うするを上と為し、軍を破るは之に次ぐ。
   旅を全うするを上と為し、旅を破るは之に次ぐ。
   卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。
   伍を全うするを上と為し、伍を破るは之に次ぐ。
   是の故、百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。
   戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。孫子、謀攻篇

「軍」「旅」「卒」「伍」とは、中国における軍隊組織のことで、この順に上位→下部組織となっています。
つまり、戦争の勝ち方としては、戦わずして勝つことが最も良いのだ、ということです。
まぁ、これは、普通の話ですね。

では、なぜ、そうすることが良いのでしょうか。
理由は簡単です。
人が死なないからです。
10人対10人で、両者全く同じ条件で、戦ったら、どうなります?
多分、最後に1人残るまで争いつづけるでしょう?
そうすると、死者は19人。悲惨ですね。
それよりは、20人全員生き残ってたほうがいい。当たり前の話です。
そのためには、

   孫子曰く、昔の善く戦う者は先ず勝つべからざるを為して、以て敵の勝つべきを待つ。孫子、形篇

といい、

   凡そ戦は、正を以て合い、奇を以て勝つ。孫子、勢篇

と、どんな卑怯な手を使ってでも勝て。というのです。
つまり、

1)正々堂々勝負して、両軍限界まで戦い、敵味方19人死亡。
2)卑怯な手を使ってでも自軍に有利な状況を作り出し、敵を全滅。自軍は無傷。
3)さらにうまいことやって、戦う前に敵を全員降伏させた。

この3拓なら、明らかに3が最良の策なわけです。
こういった理屈から、「孫子」では、「誰でも勝てる状況の作り方」を主に記述しています。
どんなに腕っ節が弱くても、こういう状況を作り出すことが出来れば、戦争には必ず勝てるんだ、というお話です。
これが基本です。もちろん、こういう状況を作り出す為に必要な将軍や君主の能力についても、無条件というわけではありませんが、基本はこういうことです。

一方、この論理を、格闘技に当てはめてみましょう。
すると、状況は一変します。
格闘技だから、1対1としてお話します。

1)正々堂々勝負して、両者限界まで戦い、両者ヘトヘトながら、勝敗決定。
2)卑怯な手を使ってでも自分に有利な状況を作り出し、敵を圧倒。自分は無傷。
3)さらにうまいことやって、戦う前に敵が降参。

この3拓なら、どれが一番望ましいのでしょうか。
当然、1ですね。
この違いは何なの?という話になります。
実は、この違いが、「孔子」と「孫子」の違いなんだと、私は思います。
孔子は徹底して、1を推奨しました。
これも、理解できることです。
「孫子」と「孔子」の間にはこういう違いがあります。
(今、「孔子」を持ち出したのは、単に比較の為です。孔子でなくても、きっと、釈迦もイエスもソクラテスも、この点に関して言えば、同様の考え方の持ち主ではないかと思います。一般的な「正義」や「道徳」や「美学」でもあるでしょう。決して権謀術数を使って人を陥れろ、などとは言わない概念です)
では、なぜこれが望ましいのでしょうか。
こういう例で考えてみます。
またまた格闘技の例です。
前提として、

   対戦相手は、どの場合も全く同じ「強さ」である。
   自分自身も当然全く同じ「強さ」である。
   「強さ」と言っているのは、腕力・体力などの身体能力+格闘技のセンスなどの才能すべてである。
   対戦相手は常に、真っ向勝負でいどんでくる。決して反則攻撃などしない。

で、こういう条件で戦ってみます。

1)真っ向勝負。正々堂々と戦う。
2)反則攻撃(目潰し、金的、凶器、何でもあり)で戦う。

さて、だとすると、結果はどうなるでしょうか。
普通に言えば、1なら、結果はわからず、2なら自分が勝ちます。
この点は、孫子の語るとおりです。きっと、孔子の目にもそう映ります。
…で、この時、2の勝ち方をして、凄いのかといえば、だれもそうは思いません。
なぜなら、「当然勝つ」事を知っているからです。
今度は逆に、2の条件で戦ったにもかかわらず、相手が勝ったとしましょう。
相手に対しては皆から拍手喝さいの嵐です。
なぜか。凄いからです。
凄いというのは、「普通なら負ける状況で、それでも勝った」からです。
孫子は言います。

   戦い勝ちて天下善なりと曰うは、善の善なるに非ざるなり。孫子、形篇

つまり、こういう状況です。
人が褒め称えるというのは、勝てない戦いだと思ったからです。
「人がそう思うような状況で戦争を仕掛けるな」
というのが孫子の主張です。
これは正しい。
さて、反則攻撃をした自分と、正々堂々と戦った対戦相手。
相手が勝ったなら、「強い」のはどちらでしょう。
当然、相手です。
逆に言うと、相手がどんな反則を用いても、正々堂々と迎え撃ち、勝てるほどの「強さ」を身につけろ。
というのが孔子や釈迦やイエスやソクラテスや一般的な「正義」や「道徳」や「美学」です。
まぁ、今は格闘技のお話でしたが、もっと全般的な、「精神」の問題ですね。
個人の「精神」の問題です。
一方、孫子は国家の「戦略」の問題です。

どちらも重要で、決してごっちゃにしてはならない、そういう問題だと思います。

だーいぶ、歴史の話からはそれました。
まぁ、いいや(爆)
29-Apr-2001

さて、今回は、「蛇の神様」をテーマにしてみたいとおもいます。

実はというと、hin(カヨ)さんが掲示板にて、吉野裕子『天皇の祭り』を紹介されたのがきっかけなんですが。
(影響されやすい性格なんです…。)
…で、偶然その『天皇の祭り』を店頭で見かけたので、さっそく読んで見ました。
今回のお話は、そこを出発点に、かわにしなりに考えられることを述べて見ます。

天皇の祭り』では、「大嘗祭」(天皇の即位の儀式)の謎を追求し、
1つには、「北極星」を中心とした中国の陰陽五行説から、
もう1つには、「蛇神」信仰から、「大嘗祭」を考察しています。
(hin(カヨ)さんの興味を持たれた「アジマサ」の話は、「蛇」との絡みで出てきます)

さて、日本には「蛇」の神様が意外(?)といます。
有名なところでは、「美和之大物主大神」。「大神(おおみわ)神社」の神様ですね。
また、『常陸風土記』に「夜刀神」という蛇の神様が登場します。
他にも、探してみれば、かなりの数が見つかります。
さらに、考古学上の出土としては、いわゆる「竜環刀」というものがあります。
剣の束の部分に、「竜」のような(でも「竜」にしては貧弱な)、「蛇」のような文様があり、
これも「蛇神」信仰の1つと見なせます。
また、各地の神社で、「蛇」を祭るものも少なくありません。
(また、吉野氏によれば、「ウカ」「ハハ」「カカ」等も蛇を意味し、多くの神が実は「蛇神」である。
と、言います。かわにしとしては、そうやって、神名の一部を切り取って解釈した結果、「蛇神」とも解釈できる、
という手法は、危険であると考えます。だって、たったの二文字や三文字でしょ?
「ウカ」がつけば「蛇神」である、という論法が許されれば、例えば「ウガヤフキアヘズ」(神武の父)は?
「ウカヅクヌ」(出雲国造の祖とされる)は?ときりがないわけです。
だから、そういったものは、あくまで、「そうとも釈れる」程度に考えておくべきです)

で、私、「意外」と言いました。
と、いうのは、記紀神話にはほとんど、「蛇」の神様は登場しません。
私が「記紀神話」と言っているのは、記紀の中でも、「神代」と呼ばれる部分です。
神武天皇以前です。
少なくとも、記紀編者は、神武天皇以降を「歴史」と認識していたことは疑いありません。
現在の研究者がどう見ようと勝手ですが、この根本の事実を忘れてはいけません。
記紀編者が「神の時代」と認識していた記紀の「神代」には、「蛇」の神様がほとんど登場しません。
「蛇」が登場するのは、「素戔嗚(すさのを)の八俣大蛇退治」の説話くらいです。
あとは、「大国主神」と同一視された「大物主神」くらいです。
いずれも、天照大神を中心とする「天津神」の中枢の神ではありません。
むしろ、「国津神」に分類されます。

各地の「蛇」を祭る神社では、「蛇」は重要な、尊ぶべき存在だったはずです。
いや、重要な尊ぶべき存在だから、祭っているんですね。当たり前のことです。
でも、記紀神話の中枢には、「蛇」の神様は出て来ない。
もちろん、記紀神話は、「蛇」の神様を知らなかったのではない。
「蛇」の神様自体は登場するのですから。
…で、記紀編者も知らなかったはずがない。
その後の「歴史」部分では、何度か「蛇」にまつわる説話を収録しているのだから。
でも、中枢にはいない。
これは、どういったわけでしょうか。
答えは、簡単です。
記紀神話とそれを語る人たち(とくに天皇家)にとっては、「蛇」は信仰の対象ではなかった。
こういうことです。
でも、「蛇」を信仰の対象とする人々はいて、彼らは彼らなりに、祭祀を続けてきた。
記紀神話の中枢は「太陽神」天照大神です。
ですから、日本列島の古代には、少なくとも、
1、太陽神を信仰する一派
2、蛇神を信仰する一派
の2つの神話世界が存在したことが考えられます。
奈良県を考えてみましょう。
ここは、「美和之大物主大神」の地元です。
当然、この地の土着の信仰は、「蛇」系でした。
そこへ、異なる「神話」をもつ連中が入ってきた。
「神武東征」です。
彼らの掲げたのは「天照大神を中心とする記紀神話」でした。
私はこのように考えています。

さて、吉野裕子氏をはじめ、多くの「神話学」「民俗学」「文化人類学」「比較文化学」の間では、
どうも、「日本列島の信仰は1つ」と考えておられるようなフシがあって、
「蛇神」信仰がある=「大嘗祭」には「蛇神」が深く関わる。
と、彼女は即座に結び付けているようですが、
そこには微妙な問題が横たわっているように思えます。
(「北極星」関連も同じ)
もし、彼女の言うように、「蛇神」信仰が、天皇の即位の儀式という最も重要な祭祀である「大嘗祭」に深く関わっているのなら、なぜ、「蛇神」が「天皇」祭祀の原典であるはずの『日本書紀』における中心的な役割を果たさないのか、この問いは避けられません。

かわにしは、その背景は、大和の土着の信仰が「蛇」系だったことにあるように思っていますが、
いずれにせよ、非常に興味深い問題です。
25-Apr-2001

どーも。

今回は、「在位年代」について考えてみたいと思います。

わたくし、以前にこんな「公式」を紹介したことがあります。(26-Sep-1999)

 在位年数=退位時の年齢-即位時の年齢

       =没年齢-(先代が没した時の当代の年齢) …※

       =没年齢-(先代の没年齢-先代との年齢差*)

       =没年齢-先代の没年齢+先代との年齢差

 ※:どの天皇も死没によって代替わりが起こる。

 *…先代との年齢差=先代の生年-当代の生年

これは、わたくしにとって興味深い「発見」でした。
数式としては、ごくごく当たり前のものだと思っています。
…で、「先代との年齢差」は、親子や兄弟などの、先代との続柄で、ある程度推測できるから、
これを使えば、各天皇の在位年代が推定できる、というお話でした。

この認識に至るまでには紆余曲折が有って、その裏話をすると、
かわにしは、始め、「在位年数の平均」から、各天皇の在位年代を推定しようとしていました。
これは、安本美典という学者の行った方法です。
安本氏は、「西暦元年以後の全世界の、歴史的に在位期間が確実な王」1695王から、
在位年数の平均を求め、これを指標として、日本古代の天皇の在位年代を推定しようとしました。
かわにしは、これに影響され、かわにしもこれら諸王の在位年数を収集して、
平均を求めてみようと考えました。
というのは、ここでは詳しくは語りませんが、安本氏の行った計算結果に対し、
かわにしは疑問を感じていたからです。
そうして、諸王の在位年数や、没年齢を収集しているうちに、先の「公式」を発見しました。

実は、こんな計算をしながら、思ったことがあります。

それは、

   親は必ず子より先に死ぬ。

ということです。
もちろん、「必ず」というわけではありませんが、
普通、そうなります。
逆に考えてみましょう。
もしも、子が親より先に死んだ場合、これは、言うまでもない、悲劇です。
親の悲しみは計り知れません。
ですから、「親は必ず子より先に死ぬ」というのは、言ってみれば、
「自然の摂理」のようなものです。
そうすると、こういう言い方も出来ます。
 子は必ず親の死を経験しなくてはならない。
これも「自然の摂理」です。

人には「強い心」も「弱い心」も必要です。
私は、最低限持っていなければならない、「心の強さ」を知ったような気がしました。
わたくしの親は、おかげさまで、健在です。
きっと、まだまだ、生きてくれるでしょう。
それは、願わくば、遠い未来のことであって欲しいけれども、
私は、親の死に耐えられるだけの、「強さ」を身につけたのだろうか。

…だいぶ、古代史の話からそれてしまいましたね。
機械的に人の死を「データ」として収集していたら、
こんな気分になってしまいました。
(世界の諸王については現在も収集を行っています)
「独り言」のコーナーだから、こんなのもいいでしょ?

(収集したデータと安本氏の在位年代推定の方法に対する批判は、そのうち、行います)
20-Apr-2001

今回は、日本の古代史をちょっと離れて、
ギリシア神話についてお話したいと思います。
…と、言っても、私、ギリシア神話の専門家ではございません。
ホントに語るなら、せめてギリシア語くらい読めるようになって、
ギリシア神話を語る原典に直接ぶつかってから、にすべきなんでしょうが、
今回のお話は、あくまで、市販の「ギリシア神話」、
具体的には、岩波文庫のアポロドーロス『ギリシア神話』(高津春繁訳)を読んで、
私なりに思ったことを、書いてみようと思います。

さて、まず、私が気のついた点は、この「ギリシア神話」には、
人類の祖先が何パターンか紹介されている」という点です。
まず第一には、冒頭部分です。

   天空(ウラーノス)が最初に全世界を支配した。大地(ゲー)を娶って先ず「百手巨人(ヘカトンケイル)」と呼ばれるブレアリース、ギュエース、コットスを生んだ。第一巻、I

この後、大地(ゲー)によって、ティターン族と呼ばれるものたち(オーケアノス、コイオス、ヒュペーリオス、クレイオス、イーアペトス、そして、末弟クロノス)が生まれ、このうちのクロノスが天空(ウラーノス)から支配権を奪い、このクロノスとレアーからゼウスが生まれた、というお話です。(ゼウス誕生までにも、クロノスが生まれてくる子供(ヘスティアー、デーメーテール、ヘーラー、プルートーン、ポセイドーン。プルートーン以外は「オリュンポスの12神」)を飲み込んだ、という説話があります)
このあらすじは、かなり有名で、ご存知の方も多いでしょう。
ギリシア神話の骨子をなす、重要な部分です。
…で、このほかに、こんなお話があります。

   プロメーテウスは、水と土から人間を象り、ゼウスに秘して巨回香(おおういきょう)の茎の中に火を隠して彼らに与えた。
   …(中略)…
   プロメーテウスに一子デウカリオーンが生れた。彼はプティアー付近の地に君臨して、エピメーテウスとパンドーラーの娘ピュラーを娶った。パンドーラーは神々が象った最初の女である。ゼウスが青銅時代の人間を滅ぼそうとした時に、プロメーテウスの言によってデウカリオーンは一つの箱船を建造し、必需品を積み込んで、ピュラーとともに乗り込んだ。ゼウスが大雨を降らしてヘラスの大部分の地を洪水で以て覆ったので、近くの高山に遁れた少数の者を除いては、すべての人間は滅んでしまった。
   …(中略)…
   デウカリオーンは九日九夜箱船に乗って海上を漂い、パルナーッソスに流れついた。そこで雨がやんだので、箱から降りて避難の神ゼウスに犠牲を捧げた。ゼウスは彼にヘルメースを遣わして、何事でも望みのものを選ぶようにと言った。彼は人間が生じることを選んだ。そこでゼウスの言葉によって石を拾って頭ごしに投げたところが、デウカリオーンの投げた石は男、ピュラーのは女となった。第一巻、VII

ここには、2種類の「最初の人間」が描かれています。
1は、プロメーテウスとパンドーラー。プロメーテウスは、「神」です。千里眼を持ち、予知能力、再生能力があったといわれています。彼の手によって、生まれてきた人間。それは、水と土からでした。「粘土細工」のようです。
パンドーラーは、神々によって作り出された、最初の女です。(彼女が、欲望の詰まった「箱」を開けてしまった為に、人間は欲望にさいなまれるようになった、という逸話は有名ですね)
2は、デウカリオーンとピュラー。彼らは、「神の災難」を逃れ、そして、神の力を借りることで、
「人間」を生み出しました。
さて、この2つの神話、『聖書』の「アダムとイブ」「ノアの箱船」と似ています。
もちろん、どちらが先か、という問題ではなく、
(おそらく、そのような問いは不当です。これは、多分中東(メソポタミア)の、伝統的な伝承(ギルガメシュに代表されるような)を、『聖書』(ユダヤ人)も「ギリシア神話」(ギリシア人)も取り入れた、と見なすのが、適切でしょう)
こういった形態の神話をも、「ギリシア神話」は持っている、ということです。

さて、「アポロドーロスのギリシア神話」を読むと、そのメインは、種族の系譜であることに気づきます。
前述の「デウカリオーン」につづいて、「イーナコス」「アゲーノール」「ペラスゴス」「アトラース」「アーソーポス」「アッティカの諸王」と続きます。それぞれの種族の「主役級」の登場人物をかわにしの独断と偏見で、選んでみましょう。
それから、→の後ろは、その系図の最後の人物です。
1、デウカリオーン…へレーン(「ギリシア人」を意味する「ヘレネ」の語源)→イアーソーン(アルゴーの遠征)
2、イーナコス…ベレロポンテース(キマイラ退治)、ペルセウス、ヘーラクレース
3、アゲーノール…ミーノース(迷宮-ラビリンス-を持つ王)とミーノータウロス、ディオニューソス(酒の「神」)、オイディプス→アルクマイオーン
4、ペラスゴス…カリストーとアルカス(大熊座の神話)
5、アトラース…アトラース(天を支える巨人)、ヘルメース(12神)、カストールとポリュデウケース(双子)→アレクサンドロス
6、アーソーポス…→アキレウス(「アキレス腱」の人)
7、アッティカの諸王…→テーセウス
8、ペロプス…→アガメムノーン

系図の最後は、「イーリアス」の英雄でしめられます。
彼らの活躍を以って、「アポロドーロスのギリシア神話」は、その終焉を迎えます。

ギリシア神話の英雄は数多いですが、それらの英雄が、一堂に会する、そういう、オールスターみたいな説話が、
いくつかあります。
ひとつは、有名な「アルゴー遠征」。
イアーソーンを筆頭に、カストールとポリュデウケース(双子)、ヘーラクレース、イーダースとリュンケウス、メレアグロス、テーセウス、アルゴスなどなど、著名な「英雄」たちが集まります。
そのちょっと前に、「カリュドーンの猪狩」という説話があります。
ここにも、メレアグロス、イーダースとリュンケウス、カストールとポリュデウケース、テーセウス、イアーソーン、イーピクレースなど、こちらも、「アルゴー」同様の英雄たちがひしめき合っています。
…彼らを黄金時代として、その前後を、「アポロドーロスのギリシア神話」は物語っている、そのようにさえ、見えます。
(もうひとつの「英雄」-「イーリアスの時代」は、このギリシア神話の文脈上、彼ら黄金時代の直後-子供や孫の世代です)

単純に、これら「黄金時代」の英雄たちが、同時代、そう仮定してみましょう。
そうすると、この「ギリシア神話」の世界が、実は、壮大な年月を背景にした、一大叙事詩であることが見えてきます。
こういった、時間的重層性を持つものが、「神話」、つまり、早い話が「作り話」か、というと、甚だ疑問です。
少なくとも、この「ギリシア神話」の最終段階-「イーリアス」は史実でした。(トロイの遺跡)
…で、あれば、「アルゴーの遠征」は?「カリュドーンの猪狩」は?という疑問が起こります。
それらに両方参加したとされる、ヘーラクレースは、実在の人物なのか?という疑問が起きます。
本当の意味で、これが「作り話」だとも、「史実」だとも、証明した人物はいません。
もちろん、「実在のヘーラクレース」が、不死身だったり、ヘーラーののろいに悩まされたり、というのが史実だと言うのでは有りません。
要は、そのようにして、自らの功績を語った、実在の「英雄」はいたのではないか、ということです。

そういう思いで見ると、「ギリシア神話」も、歴史家にとって、大変興味深い、史料です。
もちろん、同じことが「聖書」や他の神話にも言えます。
「神話」は「作り話」とバッサリ切り捨てることが、「近代的」という時代は、もう終わります。
ちょうど、「近代」が指す時代が古くなるように。
「神話学」「比較文化学」「民俗学」大いに結構。
でも、そろそろ、「歴史学」も「神話」に参入してもいい気がします。

そういう思いの「歴史家」がたくさんいることを信じて。
12-Apr-2001

はじめまして。
えー、Historicalを開設して、始めての「独り言」です。

今までは、わたくしの数少ない(苦笑)友人に、メールで書き綴っていた、
他愛もない「よしなしごと」を、今後はこの場に書き綴ってみようと思っています。

さて、今回は、「魏志倭人伝の疑問」についてお話します。
すでに、古田氏が『「邪馬台国」はなかった』を著してから、25年以上経過していますが、
それでもなお、「魏志倭人伝」には謎が残ります。
それを、提示してみようと思っています。

まず、「至」の用法について。
古田氏は、『三国志』の「至」の用法について、以下のように、分析しました。

進行を表す動詞+「至」…主線行路。
「至」のみ…傍線行路。

大まかに言うと、こういうことです。
だから、「奴国」と「投馬国」は、傍線行路だ、と見なされています。

でも、最終目的地の「邪馬壹国」は、このように記されています。
「南、邪馬壹国に至る。女王の都する所。水行十日、陸行一月」
これは、どういうことでしょうか。
古田氏の理解に従えば、この「邪馬壹国」も傍線行路です。
終着点だから、こういう表現なのでしょうか。
それにしても、不思議です。
「女王の都する所」以外は、前の「投馬国」とまったく同じ記載方法です。
これでは、「邪馬壹国」も実は傍線行路なんじゃないの?
という疑問が浮かんできます。

第2は、今も出てきました。「投馬国」です。
ここだけ、他と距離の記載方法が異なります。
里程ではなく、日程を示しています。
古田氏は「邪馬壹国」の直後の「水行十日、陸行一月」を、
帯方郡治→倭国の首都への総日程と見なしていますが、
「投馬国」の「水行二十日」は、部分日程なのでしょうか。
これも不思議です。

私には、正直言って、「邪馬壹国」と「投馬国」の記載方法に、
まったく違いがないことを不審に思っています。
「女王の都する所」の一句があるかないか、だけで、
両国はそんなに違うものなのでしょうか。
「邪馬壹国」と「投馬国」、いったい何が違うんだ、という疑問があります。
両者は並列なのではないか、という、観念にとらわれます。

まあ、今回のお話は、わたくし自身にも、どうにも答えが見つからなくて、
よくわからないところです。

ただ、奇妙だ、という印象があります。
いずれ、答えが見つかるでしょう。
それまで、ゆっくり考えるとしましょう。
31-Mar-2001

久し振りに「古代史」の話、します。

「天(あま)」と「空(そら)」の違いについて、です。
まぁ、わたしたちが通常使うのは、「空」ですよね。
でも、記紀(古事記と日本書紀)神話の世界では、
普通、「天」です。
そこには微妙な概念の違いが見え隠れしますが、
広い意味では、「天空」、どちらも指すものは同じです。
でもニュアンスは違う。
なぜなんでしょうか。

その前に、「あま」という概念のお話をします。
「高天原(たかまがはら)」と呼ばれる世界が、
記紀神話には登場します。
そこには、イザナギ・イザナミ、天照大神(あまてるおほかみ)やスサノオなど多くの神が住んでいました。
スサノオは悪事を働いた為に、「根国(ねのくに)」という世界に追いやられてしまいました。
根国に行く途中、スサノオは「出雲」にたちより、そこでヤマタノオロチを倒しました。
また、その時助けたスセリ姫と結婚しました。
その子孫が大国主(おほくにぬし)という神様で、出雲を支配する神様です。
その後、天照大神は、大国主に対し、「国譲り」を勧告します。
大国主はこれに従い、隠居し、天照大神の孫、ニニギが
「日向高千穂クシフル峯」に降臨しました。
いわゆる「天孫降臨」です。
…で、ニニギの子孫が「天皇家」である。
というのが、記紀神話のあらすじです。
ここでいう「高天原」「根国」「出雲」「日向」はどこか、という議論が昔からありました。
とはいえ、「出雲」だけは決定してますが。
その議論には二つの「流派」があります。
ひとつは、「地上」であるとする説。
これは、それぞれの地名は、実在する地上のどこかの地名であるとする説です。
それぞれに対しては、以下のような説があります。
高天原…大和・筑後(甘木)・壱岐・韓国・中央アジア
根国…出雲
日向…日向(宮崎県)・日向(鹿児島)・筑前
などです。
もうひとつは、「神話概念」であるとする説。
つまり、高天原は「天空」、根国は「地底」、中間の出雲・日向が「地上」という世界観です。

で、いずれが正しいか、という議論になりがちですが、
どちらも正しいとかわにしは思っています。
実は、地上の地名である痕跡と、神話概念である痕跡、
両方が記紀神話から見出せるからです。
かわにしは、記紀神話の原型が出来あがったのは、
弥生時代だと思っています。
ついでに言うと、「天孫降臨」は、弥生時代前期の実在した事件だと思っています。
…で、記紀が書かれたのは7世紀。
この間、600~800年近い月日が流れています。
もちろん、神話は、その期間、伝承されてきた。
この間に、概念が整備され、世界観がより神話として洗練されてきたことは、
容易に想像できます。

さて、常識的に考えてみましょう。
神様が地上にいるという概念と、天空にいるという概念、
どちらがより神話的でしょうか。
どちらがより神秘的でしょうか。
もちろん、天空に居た方が神秘的ですよね。
では、1)神様が地上にいると語る神話から2)神様が天空にいると語る神話に変化したとすれば、これは、神話としてより「洗練された」と考えていいでしょう。
そうすると、1)と2)では、1)の方が古いと考えることが出来ます。
これは、古田武彦の受け売りになりますが、
こういう、「神話の年代推定」は、やってみるといろいろ面白い発見が出来ます。
たとえば、「世界の起源」神話です。
こんな種類があります。
1)神話では世界が出来あがる様子は描かれていない。
  →神話の冒頭から、世界には「空」や「雲」や「大地」が描かれている。
2)世界の始めは混沌としていて、次第に「自然に」世界が形作られていった。
3)まず、神(創造主)がいて、その絶大な力によって世界が彼の思いのままに創造されていった。
例えば、ギリシア神話などでは、2に近い形です。
聖書では3に近いでしょう。
これらも、例えばギリシア神話にしても、聖書にしても、
それ以前の様様な神話を土台にして、完成された世界です。
でも、「神話概念」としては、1)→2)→3)の順に「洗練されている」と見なせます。
(例えばギリシア神話や聖書などでも、よく読んでみれば、ここは2)だけど、別の個所では3)の概念で語られている、とかこっちは1)だ、とかという可能性が充分にあります)
つまり、人間の「概念」も、日々進化しており、その痕跡によって、
例えば、「土器」の年代推定をするのと同じように、
「神話」の年代推定をしてみよう、というわけです。
(もちろん、聖書よりギリシア神話の方が古いから、聖書よりギリシア神話の方が価値がある、という意味ではないので、誤解なきよう)
神様自体についても同じです。
1)人間と同じ能力しかない神様。
2)不老不死・全知全能な神様。
とでは、1)の方が古いはずです。

で、だいぶ話がそれましたが、そういったわけで、
記紀世界では地上の「天」と天空の「天」が共存しています。
これとは異なる世界があって、
「そら」という概念です。
これが神話に一切出てこないのは、なぜでしょうか。
簡単ですね。「そら」は単なる「自然」だからです。
いや、正確に言うと、「そら」は出てきます。
「虚空津彦(そらつひこ)」これは、「天津彦(あまつひこ)=天孫(称号に近い)」の子として、
古事記に出てきます。「皇太子」みたいな称号です。
ここには、明確に「天(あま)」>「空(そら)」という格付けが出来ていますね。
といったわけで、「天」と「空」の違い、お解りいただけましたでしょうか?

じゃ、今日はこの辺で。
27-Mar-2001

えー、たまには、時事ネタもお話しようかと思います。

アフガニスタンのタリバン政権が、
世界的な遺産・バーミヤンの石仏を破壊したって言うニュースは聞いたことがあると思います。

あれは、歴史に興味のある人間にとっては、衝撃のニュースでした。
ハッキリ言って、「歴史犯罪」です。
表向きの理由は、「偶像崇拝」だそうです。
でも、そんなことはどうでもいいんです。
いかなる宗教上の理由であっても、あれは「犯罪」です。
それは、いかなる宗教上の理由があろうとも、
「殺人」を許さないのと同じことです。
そうです。「殺人」と同じことなんです。
たとえ、彼等にいかなる力があっても、
彼等に1500年の歴史を復活させる力がありますか?
もはや、1500年前の石仏そのものはよみがえりません。
まぁ、今の科学技術を持ってすれば、
1500年前の石仏のそっくりさんを作ることは出来るでしょうが、
歴史」にとって、それはあまり意味のあることでは有りません。
もう、彼等がどんなに悔やんでも、取り返しはつきません。
…悔やみそうにもないですが…。
弁償は出来ません。
これが冷酷な事実です。
きっと、彼等にはそう言う自覚はない。
今更遅い。
まあ、感情的になっても仕方有りませんね。

彼等の真の意図は、二つあるといわれます。
ひとつは、国外に、(国際的に孤立した)アフガニスタンの深刻な現状(難民問題など)を
アピールする目的があるらしいです。
もうひとつは、国内に、彼等の正統性をアピールする、つまり、
彼等の掲げるイスラム原理主義が正しいことを知らしめる、そういう意味があるようです。

残念ながら、どちらをとっても、
わたくしには、スケールの小さいことに見えます。
貧乏だから人殺しが許されますか?
人殺しをしなけりゃ正しさがアピールできない正義がありますか?
…そんなことを、ここで語っても仕方ないですが、
なんとも、やりきれない気持ちです。
もう、謝っても許してあげない。
そんな感じですが、ね。

歴史的遺産」より「現代の人の命」が優先だ、と、
彼等は言いたいらしいが、それは論理のすり替えってもんです。
国際社会には、そういう厳しい態度で臨んでもらいたいものです。

話は変わりますが、
もう、そろそろ、地下鉄サリン事件から6年の月日が流れ、
当時の被害者の方のカルテが、その保存期間を終えようとしています。
どうやら、政府(厚生労働省)としては、そのカルテの処理については、
なにも指示しようとはしてないらしいです。
つまり、病院側が捨てようと思えば、別に捨ててかまわない、と。
これも「歴史犯罪」だと思うんですよね。
日本にとって、いや、世界にとって前代未聞の事件です。
誤解を恐れずに言うと、医学界にとっても、「貴重な」サンプルなんです。
他に「サリン」なんていう毒物の人体に及ぼす影響を示す史料がありますか?
今後、もしも、同様な、事件・事故に人々が巻き込まれた場合に、
被害を最小限に食い止める為には、
このデータを大事に取っておく必要があるはずなんです。
少なくとも、この人類史上稀に見る「凶悪犯罪」を、
後世まで、人類の教訓として語り継ぐ為には、欠かせない、「第1次史料」だと思います。
再発防止の為にも、わたしたちが学ぶべきことの多い、
貴重な「歴史史料」になり得る、そういうものです。
もちろん、被害の実態解明、今後の被害者の方への保障、
そういう直接的な意味でも、最も重要なデータであることは言うまでも有りません。
それを、廃棄する。
これは、わたしたちにとって、大きな損失です。
これを何も言わず、何もせずに、黙って見過ごす、
そんなことをこの国の政府がしようというなら、
これは、「歴史犯罪」です。
「未必の故意」というやつです。
時期としては、今や、もう、ぎりぎりのタイミングになってしまいました。
(もちろん、保存期間が切れるのは、最後の治療から数えて、5年間なので、
全部が廃棄されるわけではないですが)
ちょっと、何とかしてほしいものです。

今日は、随分、社会派な、かわにしでした。