歴史・人名

2003(Historical)

独り言(Historical)

09-Nov-2003

今日は、まぁ、どうでもいいようなお話です。
私は、歴史家の論文や著書を読んでいて、いつも、疑問に思うことがあります。
それは、「敬称」です。
当然のように「~氏は、これこれの考えを示した」とか「私は○○氏の説には反対だ」とか。
場合によっては、「博士」とか「先生」といった敬称(称号?)も、顔を出すことがあります。
特に、古い学者(論文)ほど、このような傾向が強いという印象があります。
もちろん、それが「悪い」というつもりはありません。
先人に敬意を払う、という気持ちの顕れですし、敬称を略したからといって、客観的である、とも思えません。
ただ、ね。
私は、個人的に、どうにも「体の悪さ」を感じてしまうのです。
例えば、陳寿。
私は、彼に「敬称」を付した論文を一度も見たことがありません。
さらに、「古代史」の論文中で、「藤原氏」「蘇我氏」とあれば、それは、「氏族」という別のものを指します。
決して、「藤原鎌足」に敬称をつけたものではありません。
「古田氏」とか「井上氏」と私が言ったときに、おそらく「古田武彦」や「井上光貞」を指しているだろう、ということとは、おおよそお分かりいただけるでしょうが、それとは、対照的です。
微妙なところでは、既に、「津田左右吉」や「那珂通世」「内藤湖南」「白鳥庫吉」は、悩んでしまいます。
「本居宣長」なら、もう敬称はいらないかな、とか、ね。
そういうことを考えてしまうと、どうにも、「敬称」というのを誰に使ったらよいやら、わからなくなってしまうのです。
そういったわけで、私は「(まがりなりにも)論文」という体裁で何かを書くときには、「敬称略」なのです。
悩んでしまうのが面倒くさいから。
普通に、「独り言」のレベルなら、常識的な範囲で使いますが、ね。

さて、この「常識的な範囲」を私なりにじっくり見直してみると、興味深いことがわかります。
例えば、私は、掲示板では、投稿してくれた相手の方に対しては、基本的に敬称を略しません。
「氏」というのも控え、「さん」を使います。
それは、「響き」や「ニュアンス」を考慮したうえでの使用なのですが、
(「氏」や「様」じゃ堅苦しすぎるし、もっと気軽な、会話体で「お話」したいから)
以前、川村明さんとの論争で、「論文」体で、反論を書いた際、「川村」と「呼び捨て」にするのが、
どうにもいたたまれない気がしました。
それで、あの論文のタイトルには「氏」が入り、その紹介文には「敬称略」と断ったのでした。
なぜだろうか、と考えて見ましょう。
どうやら、私が「川村さん」を知っているから、のようです。
「知っている」とはいっても、私は直接お会いしたことはありません。
まぁ、この点については、「電子媒体を通じたコミュニケーション」という「新しいテーマ」の考察が必要になるでしょうが、
要は、私が川村さんを知っているという点が、「敬称略」にためらいを感じさせているようです。
そういわれてみれば、先ほどの「津田左右吉」「那珂通世」「内藤湖南」などは、論述は知ってはいますが、
実際には、私の生まれる前に亡くなっており、私とは、時代を異にする人物です。
それでも、実際に津田左右吉を知る多くの人物を一応は「知って」います。
直接ではないにしろ。
私は、最初、「生きているかどうか」が「敬称略」の分かれ目だと思いました。
ところが、「井上光貞」も「坂本太郎」も、既に故人です。
中には、ね。正直、今生きてるのかわからない、という人もいます。
だから、これは、決定打ではない。
論述の「対象」と、論述の「別意見」とでは、扱いが違う、という見解もありそうです。
ですが、私は「本居氏」として『古事記伝』を引用して『古事記』について論じた人を知りません。
(もちろん、江戸時代文献ならありますけど、ね)
やはり、「知っている」かどうかという点が、有力なようです。
もっと言えば、「現代性」の問題でしょうか。
ふむ。
とはいっても、現ニューヨークヤンキースの松井秀喜外野手のことを、「松井」と呼び捨てにして何の違和感もないことから言えば、
これもまた、再考を要するのでしょうか、ね。
難しいですね。
20-Oct-2003

随分、お久しぶりになってしまいましたね。
今日は、「至」という語について、考えてみたいと思います。
私自身の最近の思考の傾向がそうなのですが、今回も果たして「古代史」という枠にふさわしいかどうか・・・(笑)。

さて、今、問題にしようとしているのは、『魏志倭人伝』における「至」の用法についてです。
すでにご存知かとは思いますが、古田武彦氏は、『魏志倭人伝』の読解に当って、「至」にそれまでにない解釈を示しました。
先行動詞(「行」とか「渡」とか)の有無によって、「主線行路」か「傍線行程」か、「四至」かが違うのだ、という議論です。
ここから、古田氏の読解のひとつのキーポイントでもある、奴国=傍線行程、投馬国=傍線行程という説が引き出されます。
この「至」の問題に関しては、例えば、榎和雄氏が語順に着目して「放射式」に読んだように、他にも多くの議論があります。
ここでは、川村明氏の議論を取り上げてみましょう(「『漢書』西域伝と魏志倭人伝」)。
川村氏は、漢書西域伝の用法を調べ上げました。
その結果、漢書においても、「先行動詞の有無」による意味の違いが認められる、というのです。
さらに、「先行動詞を含む至」を「前置詞的な用法」と見なします。
なぜなら、「先行動詞」によって「至」の意味が重複するからです。
「~まで」という意味に取っておくほうがいいのでは無いか、というのがその理由でした。
これは、私も一理あると思います(この際、「漢文読み下しのルール」とか「訓読の伝統」などという視点からの批判は禁物です。そういう「ルール」の歴史性自体を知るべきです)。
結果的には、川村氏の調査結果は、古田氏の説を補強するものです。

古田氏、川村氏に共通する見解は、「先行動詞を伴わない「至」は、実際にその地に進んだとは見なせない」というものです。
これをじっくり吟味してみましょう。
先行動詞を伴う場合、その構文は、実際にその地へ行ったことを示していると思われますが、川村氏が言うように、「至」にその意味があるのではなく、「先行動詞」の側にある、というべきです。
さらに、先行動詞を伴わない場合、その構文は実際にその地へ行ったことを示していない。
すると、「至」には「いたる」という意味が無い、という恐るべき結論に達することになります。
誤解を避ける為に言いましょう。
私は、「だから古田=川村見解は間違っているんだ」と言いたいのではありません。
我々は、つい、漢字の意味を「知っている」と思ってしまいます。
それは、「訓」があるからです。
川村氏の議論の仕方に問題があるとすれば、それは、川村氏は「漢字の意味の追求」の問題と「漢字の訓読」の問題とをごっちゃにしている(少なくともそういう誤解を生む)ことだと思います。
実際、「自~至…」という構文は、"from ~ to …"という意味だ、とよく言われます。
「~から…まで」という用法は、一般的に認められているのです。
だから、「いたる」という訓にこだわる必要はない。

古代史の史料を読む場合には、漢文との「対峙」は避けて通れませんが、「訓」の問題は、ひとまず切り離しておくべきでしょう。
(もちろん、伝統的な訓読の方法が間違っている、と言いたいのではありません。しかし、時にはそれとの「対決」も辞さぬという姿勢は必要なんだと思います)

さて、実は、「至」の問題は、これだけに留まらないのです。
「実際にその地に進んだか」とは、いったい、どういうことなのでしょうか。
「誰が」なのでしょうか。
陳寿が…でしょうか。
それなら、先行動詞を伴っていても、陳寿は、倭国に到着していないわけですから、これは違いますね。
「報告書」を書いた誰かでしょうけれども、文面からそれを読み取ることは出来ません。
文面上は、『魏志倭人伝』と例えば「帝紀」とで「報告者」が異なる、という体裁ではないわけです。
それを「勝手に」補ってしまうわけには行かないでしょう。
そもそも、あったかどうかすらわからない「報告書」を勝手に想定してしまうことに問題があるともいえます。

これは、「歴史書の語り手」という問題と絡んできます。
陳寿は、倭人伝以外にも、例えば、陳寿が実際にあったことのない人物についても、多く評を残します。

それはさておき、今の「至」の問題に戻りましょう。
「至」主体が、陳寿でもなく、「報告者」を想定することも、文面上はふさわしくないなら、どのように説明できるのでしょうか。
よく「歴史の叙述」は、「物語」とともに、「一人称の小説」と区別されます。
例えば、バンヴェニストは、それをイストワール/ディスクールとして区別しました。
歴史の叙述」は、物語の結末や世界の全てを知り尽くした全知の神の視点、あるいは歴史家の視点から描かれ、「ここ」「いま」などの語は使用されない、とします。
(さらにフランス語の場合、「単純過去」という形式がその特徴だと言います。日本語の場合、伝聞過去の「けり」に近いでしょうか)
当然ながら、この『三国志』も、そういう視点で描かれています。
「何年に誰が何をした」という記述があるとき、陳寿は、実際それを見たわけでは無いし、読者もほとんどがそうであるはずです。
だから、この記述の裏には、「…という状況を想像してほしい」というような「命令」或いは「要望」がこめられている、と考えることも出来なくはありません。
ジュネットは、これを「虚構世界の構築」として、こういった物語世界の「確定記述」に含まれる言語行為なのだとします。
(「虚構」という単語に必要以上に反応してはいけません。笑)
そう考えてくると、この問題は、「物語論」の範疇に属していることがお分かりになるかと思います。
よく、歴史記述とは物語ることだ、と言います。
それは、決して、「虚構を語ることだ」という意味ではありません。
むしろ、「虚構を語ること」こそ「歴史を語ること」のひとつの変形なのだとも考えられます。

この「意味論」は、なかなかに難しそうです。
ひとつの策としては、ああいった「行路記事」の場合、実際に読者に想像の上で旅をしている様子を考えてもらおうとしているが、その際、先行動詞がある場合は「場面の展開」を要求し、ない場合は「場面の展開」を要求していないと見ることも出来ます。
ふむ。
どうなんでしょうね。
24-Aug-2003

今日は、「皇位」について考えてみたいと思います。
ご承知のとおり、記紀には、神武天皇以来、推古天皇或いは持統天皇まで、脈々と「天皇」つまり「皇位」が受け継がれてきた旨が記されています。
この「皇位」というものを、曖昧なまま残しておくことは、古代史の解明にとって、混乱の原因ともなりかねません。
現に、学者といわずアマチュアといわず、多数の論者がこぞって、系譜の「造作」や「改変」を論じ、「真の系譜」や「真の王者」や「真の王朝」を主張する、この状況は、ひとつには、「皇位」という概念の曖昧さに起因するといっても過言では無いでしょう。
特に、天皇の架空性を主張する時、この問題に微妙な影を落とします。
これを明らかにしたいと思うのです。

あえて、極論から始めましょう。
もしも、「皇位」というものが、「世襲」だけに重点を置いた存在であるとすれば、つまり、ある時点から(古事記なら推古、書紀なら持統)遡って、彼(彼女)らにつながる血縁だけを問題とするなら、その「皇位」の系譜は次のようになるでしょう。

   持統→天智→舒明→高坂王→敏達→欽明→継体→彦主人王→乎非王→大郎子(意富富等王)→若野毛二俣王→応神→仲哀→日本武尊→景行→垂仁→崇神→開化→孝元→孝霊→孝安→孝昭→懿徳→安寧→綏靖→神武

事実は異なります。それは、つまり、血縁関係以外の、実際の何らかの「機能」がそこにあり、それを「継承する」という形式が必要だったことを意味します。
つまり、「皇位」は、事後的に、彼らの親に対して与えられたものでは、必ずしも無く、彼らを「天皇」たらしめる、何かを継承したと、周囲が認めていたことを示すのです。
(崇神から、神武へ至る系譜はむしろ、事後的に崇神の親を「天皇」と称したもの、と見るべきでしょう。「ハツクニシラス考」参照)
ただし、間違ってはいけません。
それは、必ずしも「神聖不可侵」のものである必要はありません。
「皇位」という言葉に、何か「特別なもの」を感じるのであれば、それを「王位」でも「大王位」でも「覇者」でも「王者」でも「首長」でも呼び換えてかまいませんが、私は、そのことによって、かえって、「皇位」問題に潜むある重要な認識が隠蔽されてしまうと考えます。
ですから、あえて、この「逆なでするような言葉」を使っておきたいと思います。

さて、「皇位」を問題にする場合、「事後的に」記紀が正統と認めたものを「天皇」と称したのであって、その「天皇」の実態は、無関係なのだ、という議論をよく耳にします。
これもまた、重要な認識を隠蔽してしまいます。
そういった論者は、おそらく、記紀が認める「条件」をおおよそ次のように規定します。

   全国統一の、あるいは、ある地域を統一した、そこまでいかなくても、一定の領域を支配したものであること。

それがゆえに、継体の前代は、「どこの馬の骨とも知れぬ」彦主人王ではなくて、武烈なのだ、と。
継体は武烈の「支配領域」を「継承」したのだ、と。
こういうわけです。
この意見は尤もです。
ですが、この意見は、「系譜の造作」説とは、明らかに矛盾します。
たとえば、応神という天皇は、古代史の中でも、「系譜の造作」説の中心的な人物です。
井上光貞を筆頭に、多数の論者が、応神の系譜を疑います。
いわく、応神は、実は、崇神の系統とは無関係で、事実は外部から婿入りしたのだ、と。
「婿入り前」の応神は、どういう立場だったんでしょう。
「系譜の造作」説からは、応神の父・仲哀を否定します。
いったい、仲哀の「何」を否定したのでしょうか。
諸説のあるところでしょう。
「存在」そのもの?
ならば、次の問いに移らなければなりません。
なら、応神の父は誰なんだ、と。
こう問い直してもいいでしょう。
応神の父はどういう人物なのか、と。
仲哀の「地位」を否定しても、ことは同じです。
「実は、応神の父はなんでもない普通の人物だった」
こういうことになります。
まぁ、有力者ではあったのでしょうね。
すくなくとも先ほど示したような、一定の領域の支配者ではなかったのでしょう。
この認識であれば、先の「条件」を満たしてはいないでしょう。
ですから、先の「条件」を「記紀に記載される条件」として規定するなら、「系図の造作」は成立しないのです。
この「条件」を取り除く時、そこに現われる困難は、先ほど申し上げたとおりです。
「継体」を「武烈」に接続する意味を得られない。

もしも、応神の父を、あるいは、「即位前の応神」を、何らかの領域の支配者と「認定」するなら、困難はより大きくなります。
応神の父(彼も「どこかの支配者」だった)と応神を区別するのは、いったい何でしょうか。
というよりも、ことさら、それを「造作」として処理しなければならないとすれば、一体、仲哀の「何」を否定するのか。
この点に関する、徹底した考察が何としても必要なのです。

誤解を避ける為に言っておきましょう。
私は、全ての造作説は、「天皇家中心主義」の産物のように見えています。
記紀に言う「天皇」が、実際のところ、実際の権力を持っているように見えない、と、見なされるや、記紀を造作と規定する。
そして、新たに「天皇にふさわしい人物」を探してきて、「真の系譜」を主張する。
と、見えます。
これに関しては、種々の反論もあるでしょうし、詳細な検討が必要でしょう。
事実は、こうです。
記紀の主張する「天皇」が実際の権力を持っているかどうか、と、記紀の主張する「天皇」は、別物なのです。
すなわち、「天皇」と名づけられた人物が実はただの平凡な人物でしかないかもしれない。
という事実を過不足無く受け入れなければなりません。
その際、「代りの人物」を記紀の中に発見しなければならない、ということはないのです。
所詮、記紀は、「天皇家の歴史」を記す書物です。
「日本の全てを網羅する」つもりは、毛頭ない史料なのです。
むしろ、これが「日本の全て」だ、という主張なのです。
これを忘れてはいけません。

ふむ。
体系的な叙述、というわけにはいきませんでしたね。
私も少しずつ整理したいとは思います。
ですが、いまのところ、以上のように考えています。
29-Jul-2003

久しぶりの独り言です。
イラク戦争が「終結」して、三ヶ月になりますね。
ですが、まだまだ、戦闘は続いているようです。
「フセイン元大統領勢力の残党」がアメリカ軍をねらってテロ活動を行っている、と言われています。
私は、この状況を見ると、歴史の一つの姿、といいますか、歴史の語り口、といいますか、
それを感じずにはいられません。

例えば、唐は618年の成立です。

   (義寧二年五月)是の日、上、位を大唐に遜る。隋書、恭帝紀

実際は、この時点では、唐の天下統一というには、程遠い状況でした。
さかのぼると、大業十三年(617)七月に、李淵は、挙兵し、十一月に長安を占領します。
このとき、隋の煬帝は健在でしたが、李淵は一方的に、煬帝を太上皇とし、恭帝侑を立て、この年を「義寧元年」と建元します。
翌年、配下の宇文化及に殺されるまでは、実際は、煬帝の勢力は、まだ残っていて、皇帝として存続していたものと見られます。
その宇文化及は、煬帝殺害後、秦王浩を立てます。
また、洛陽にいた王世充は、越王[イ同]を立てて李淵と激しく争いました。
この時期が、「義寧二年」という時期です。
この後も高祖李淵の武徳年間は、群雄割拠の時代が続きました。
ですが、我々は、「618年に隋が滅亡、唐が成立」と、さもある時点ですんなり、きれいに、機械的に切り替わったかのように、錯覚します。
歴史書が、そのように語るからです。
宇文化及の勢力や王世充の勢力は、「残党」もしくは「反乱勢力」と見なされます。
ですが、実際は、それぞれが、それぞれの大義をいだいて、戦っていたと見るほうが正しいでしょう。
その点では、李淵も変わりがありません。

話を、21世紀のイラクに戻しましょう。
フセインは、大統領を辞任したつもりはあるのでしょうか。
無いでしょうね。
アメリカ軍が一方的に、彼を「元大統領」にしたのです。
イラクの、反米組織が、必ずしも一枚岩というわけでは無いでしょうが、彼らを「犯罪者集団」という意味での「テロ組織」や「武装ゲリラ」と称するのは、まったくアメリカ側の大義名分用語だということは、すぐお気づきになるかと思います。
マスコミが、アメリカ軍の「残党狩り」という言葉を使うのを見ると、私は、どうしようもない違和感を覚えます。
アメリカが五月一日に、一方的に戦闘の終結を宣言しただけのはずなのですが、ね。
それまでは、正規軍だったんじゃないの、と。
まぁ、これが、歴史の語り口なんだなぁ、と思います。
25-May-2003

今日は、「春秋の筆法」について、考えてみたいと思います。
といいますのは、最近、アマチュア古代史ファン(まぁ、私もその一人ではありますが)の間で、魏志倭人伝の解釈に際して、この「春秋の筆法」なるものを「使って」独自の解釈を施す…ということが流行っているようなのです。
そこでは、「春秋の筆法」は一種の「暗号の手法」と見なされています。
私はこの傾向に、疑問を感じます。
そこで、今日はこの点に関して、じっくり考えてみたいと思うのです。

さて、まずは、辞書的な意味を拾っておきましょう。

   「孔子が作ったと言われる春秋に見られるような、間接の原因を直接の原因のように言う表現のしかた。」
   「〔「春秋」が些事をとりあげて、大局への関係を説く論法であることから〕間接的な原因を直接的な原因として表現する論法。また、論理に飛躍があるように見えるが、一面の真理をついているような論法。」

『春秋』という歴史書は、大変、簡潔なものです。
しかし、「経書」の一に数えられる如く、そこには、孔子の鋭い「歴史批判」の目が現れているのだとされます。
こういった点が特に「春秋の筆法」として、一般的に使われている内容だといっていいでしょう。
(私自身、いまだ「勉強中」であって、「辞書的な意味」を超えることはできてはいません)
その一方で、このような「筆法」が論じられることがあります。
たとえば、君主の死亡記事です。

   冬十有一月壬辰公薨春秋、隠公、十一年
   夏四月丙子公薨于斉春秋、桓公、十八年
   八月癸未公薨于路寝春秋、荘公、三十二年

こういった表現はあまりに簡潔ですが、よく言われるように、ここには、暗殺や謀殺の事実が伏せられていると見ることも出来ます。

   壬辰、羽父、賊をして[宀/爲]氏に公を弑さしむ。桓公を立てて[宀/爲]氏を討ち、死者有り。春秋左伝、隠公、十八年

とあるように、実際は、謀殺だったようです。この事実が、『春秋』では「公薨」の一語で以って、巧みに伏せられているのだ、と。
この見方は正しいでしょう。
ですが、これはこれだけのことだ、と言うべきでしょう。
決して「暗号的な表現」と見なすべきではない。
同じような表現は、日本の風土記にもあります。

   俄かにして官軍動発し、襲わんと欲する間、勢の勝たざるを知り、独り自ら豊前国上膳県に遁れて、南山峻嶺の曲に終わる。筑後国風土記、釈日本紀所引

これは、筑紫君磐井の滅亡を言っています。
「終」という表現ですが、記紀で明らかなとおり、物部麁鹿火(荒甲)によって斬られたのです。
こういったものは、決して特殊なものではなく、所謂「婉曲表現」のうちに数えることも出来るでしょう。

私は、(まだまだ展望に過ぎませんが)もう少し違った見方ができるのでは無いか、と思っています。
中国古典的修辞学とでも言いましょうか。
要するに、このような「婉曲表現」「大義名分用語」といった、修辞体系というべきものが、存在したのではないか。
「周の武王、殷の乱を平らぐ」のような語法。
どんな外交使節の到来も「貢献」「朝貢」とするような語法。
「賊」「寇」という語の用法。
これらを総括するような、修辞体系です。
西洋修辞学が、メタファー(隠喩)を中心とした体系であるのに対し、中国のそれは、メトニミー(喚喩)を中心にしているのでは無いか、という気もしています。
これも、興味深いものですね。

それはさておき、「暗号的表現」を探して止まない史家は(「筆法」の件に限らず)多いのですが、次のような文章を提出しておきたいと思います。

   サドは牢獄に長くいるうちに、いわば暗号神経症とでもいうべきものにかかったのです。この神経症の被害を受けたのは、主として彼の妻でした。彼は妻からくる手紙に、彼の釈放の日取りや、そこまでいかなくても散歩を許される日時やそれに類する何かが暗号の形で含まれていると信じたのです。字数を組み合わせたり、行数をかぞえたりして、懸命に読みとろうとしてもなかなかうまくいかないので、妻にかんしゃくをおこします。「どうしてもっと分かり易くしないのか」。解読できるほうが不思議なのです。暗号などはじめから含まれてはいなかったのですから。立川健二・山田広昭『現代言語論』新曜社, 1990年

まずは、暗号が含まれていることの徹底した証明が先、なのです。
いきなり解読からはじめたら、サド公爵と同じです。
同じ「神経症」にかかっている史家が、あまりに多いのでは無いかな、という気持ちでいます。
05-May-2003

お久しぶりです。
この一年程、わたしは、寄り道というか、旅というか、とにかく、古代史の探究そのものからは少し離れたところを、ウロウロ彷徨ってきました。
そろそろ、復帰(?)を考えないと、このまま、戻れなくなってしまいそうです(笑)。

さて、現在、わたしは、次のような二つの方向性を考えています。
一つは、「計量的手法」を含めた、「客観的な文献批判の方法論」の模索。
そもそも、わたしはこれを目指していました。
ですが、正直言って、ほとんど何も得ていません。
初期の構造主義がそうであったように、この作業自体の「不可能性」が、次々と明らかになってきます。
「意味は聞き手が決めるものである」
という、重要な視点を手にしたときから、この「絶望感」はぬぐえないものでした。
ですが、いつかも申し上げたとおり、だからといって、「客観性を目指すこと」を破棄する必要はありません。
「人は必ず死ぬ。だから一生懸命生きる」みたいな。
こういう「根拠のない信念」、わりと好きです(笑)。
まぁ、それは冗談として、歴史学という学問が意義あるものであり続けるためには、「客観性」とか「実証主義」とか、これは棄ててはいけません。
今わたしが把握している方法、たとえば、「用法調査」や「構造分析」のような手法は、今後も持続していく必要があります。
もちろん、より精度を上げていく努力は、欠かすことが出来ないのですが。

次に、「歴史家のテクストを読む」こと。
わたしは、同時にこうも思うようになりました。
「記紀や魏志倭人伝は、すでに読みつくされている。これ以上、重箱の隅をつつくようなやり方で、大きな成果は得られるのか」と。
だから、わたしは「わたし独自の方法」を探して「旅」に出たと言ってもいいのかもしれません。
その「独自の(客観的な)方法」は、残念ながら、今のところ、得られていません。
そこで、「歴史家のテクストを読む」という方法に切り替えてみよう、という気がしています。

   いいかえれば、われわれの対象は、言語に対する一般的な問題ではなく、固有名詞で表わされる個々の言語論、個々のテクストにほかならない。われわれの考えでは、「言語とはなにか」、「言語の機能とはなにか」、「言語と思考の関係はどうなっているのか」、「言語と無意識の関係はいかなるものか」というような一般的な問いは、たいていの場合不毛である。なぜなら、このような問いを立てたとたんに、出てくる解答のパターンがいくつかに限定されてしまうからである。言語と言葉にかんする重要な考察が数多く提出されている今日にあっては、こうした一般的問題に直接アプローチするよりも、固有名詞を持った個々の言語論者のテクストを読み、それを読みかえていくという<フィロロジー>的アプローチのほうが、はるかに生産的であり、ずっと刺激的で新しい見方をもたらすのではないだろうか。立川健二「はじめに」『現代言語理論』(山田広昭との共著)、新曜社

古代史も、大方、同じ状況では無いでしょうか。
「邪馬壹国はどこにあったのか」「大和朝廷はいつ日本を統一したのか」「記紀の説話はどこまで信用できるのか」
こういった問いは、飽きるほどたてられた筈です。文献史学は、考古学と違って、日々新たな発見に立ち会えるわけではありません。
相も変わらず、「記紀」や「魏志倭人伝」にすがるほかないのです。
ここまで、氾濫し続けてきた「古代像」に新たな一枚を付け加える作業―わたしはこれを「無駄」だとは思いませんが―これにばかり終始していても、埒(らち)が空きません。
…「意味は聞き手が決める」のです。
「記紀」「魏志倭人伝」その他の資料の「意味」は、それこそ、古代史研究者の数だけある、といっても過言ではありません。
まさに、それを、今まで「実演」してきたのです。
ですから、わたしは、「文献批判」の主な対象を「歴史家のテクスト」に、少しずつシフトしていきたいと思います。
津田左右吉、本居宣長、江上波夫、内藤湖南、白鳥庫吉、喜田貞吉、井上光貞、坂本太郎、大野晋、大林太良、直木孝次郎、森浩一、門脇禎二、家永三郎、古田武彦、安本美典、原田大六…。
彼らのテクストを積極的に読み替えていくこと、これによって、新たな視点=始点=支点を得ることができるのでは無いか、と考えています。
(もちろん、その視点=始点=支点から、「客観的な方法」によって、新たな発見を得ていく…ということです)

それに、わたし個人的には、「言語理論」「哲学」的な関心も深まっています。
こちらの「探究」も、ひっそり、続けていきたいと思います。
ひとまず、長かった「旅」は、ここで終わりにします。
(すぐにまた別の「旅」に出る…と、詩的に表現できなくもないけれど)

あ、ちなみに、この「独り言」は、今後も、わたしの「独り言」で在り続けます。
つまり、よりまとまりがなくなる…ってこと??
まぁ、気長に見てやってください(笑)
23-Mar-2003

今回は、「国家」について、考えて見ます。
もちろん、非常に難しいテーマではあります。
ここでイキナリ結論にたどり着こう等という気はありません。
そのことを予めご承知置きいただきたいと思います。

さて、一般に、「国家論」というと、古くはプラトンから、ロック、ルソーなど、そして現在の「国民国家」論の高まり、「歴史修正主義」などと「ナショナリズム」問題…という問題意識がすぐに浮かぶと思います。
ですが、私が今、「国家」について論じたいと思うのは、少し観点が違うのです。
あくまで、「古代史の探究」に必要だからです。
なぜ必要なのか。というお話は、実は1年ほど前にすでにこの「独り言」に記してあります。
古田氏の「九州王朝」をはじめ、多く存在する「地域国家」論。
そして、「国家の発生」史の問題。
これらを考える上で、どうしても必要なのです。
とはいえ、例えば「ナショナリズム」の観点からも、「日本人とは何か」とか、そういう点はつめておく必要があるわけで、私の今の視点となんら接点がない、というわけではありません。
ですが、例えば「プラトン」のそれは、あくまで「国家とはいかにあるべきか」という主題のもとに論じられていることは明らかですし、「国民国家」論もまた、同様です。
歴史修正主義」論者もまた、同じ立場に立っています。
(今、話題の「ネオコン(neo conservative、新保守主義)」も、その意味では同じです)
私は、そういうことに興味があるのではないのです。
はっきり言って、そんなものはどうでもいい。
(こんな台詞は、「国民」として、誉められた台詞ではありませんし、「高らかに宣言する」のもどうかという気がしますが・・・)
まぁ、少なくとも、今の私の問題意識にとって、これらの立場から論じるべきではありませんし、無関心なくらいでちょうどいいでしょう。
(「ナショナリズム」が私という人間の「アイデンティティ」に深く関わっているのだとすれば、「無関心さ」はかえって「潜在的な」「無意識のうちに」ナショナリズムを隠蔽してしまう…という点は、十分に注意しておく必要があるでしょうが)

「国家」を論じるには、しかし、現代の「国家論」とりわけ、「ナショナリズム」についての、視点を踏まえておく必要があります。
この視点は、私の考えでは、「ジェンダー」というキーワードとワンセットとなります。
私は、「男」です。「成人」です。「若僧」です。「日本人」です。「静岡県人」です。「神奈川県民」です。「黄色人種」です。「昭和生まれ」です。「戦後の苦労をまったく知らない世代」です。「先輩」です。「後輩」です。「部下」です。「会社員」です。「卒業生」です。「元生徒」です。「Historicalの管理人」です。「この独り言の発信者」です。「息子」です。
これら全てが私という「アイデンティティ」を形成します。
ジェンダーもナショナリズムもエスニシティも、結局は、このような「アイデンティティ」と無関係ではありません。
ユングの言葉を使えば、「ペルソナ」ということが出来るのかもしれません。
私は、今この瞬間は、「独り言」の著者、という「役割」を担い、「仮面」をつけています。
(あえて言えば、「ペルソナ」という概念の持つ「本当では無い自分」というニュアンスは、この際、捨て去る必要があります。いったい、「本当の自分」とは「いつ」「どこに」現れるのでしょうか。「澄ました理性」「残酷な幼児性」「むき出しの欲望」・・・。どれが「本物」でしょうか)
この「アイデンティティ(自己同一性)」は、「他者性」という概念と非常に重要な関係を持っています。
語り始めると長くなってしまうのですが、「私」が「私」を自覚するのは、「私」とはまったく異質の「他者」の存在を知るからです。
この点については、私などが語るよりも、レヴィナスやサルトル、それにバフチンやヴァレリーやバンヴェニスト、クリステヴァなどを参照するほうが良いでしょう。
そして、柄谷行人や立川健二の主張にも耳を傾けるべきです。
さて、「ジェンダー」の問題に戻りましょう。
私たちは、このように、多くの「社会的役割」を担わされています。
この「社会的役割」。特に、「性別」は、いかにも、「生まれながらにして持っている性質」であるような振りをして、私たちを縛ります。
ところが、そんなものはなんら「根源的」「本質的」な根拠はないものなのだ、ということを、フェミニズム論者たちは、暴き出します。
同じように、「人種」「民族」「部族」「国民性」・・・いずれも、「根源的」「本質的」根拠のないものだといえます。
フーコーは、これを「権力」の問題として、言葉の中に見出しました。
所謂「ディスクールの(権)力」問題です。

視点を少し変えましょう。
私たちは多くの「社会的役割」を担わされている、と言いました。
しかし、この言い方は正確では無いかもしれません。
ヴァレリーは、「考える為にはふたりでなければならない」と言い、バンヴェニストは「私とは私と発話するもののことである」と言いました。
「私」という概念が成立するには、「あなた」という概念が同時に必要なのです。
そうして、「私」という概念は、コミュニケーションなしには成立しない、と言うことが出来ます。
つまり、「言語」の問題圏に立ち帰ってくることになるのです。
ここで、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」やオースティンの「慣習」という概念が重要になります。
いつかもお話しましたが、「意味を決めるのは聞き手」であるにも関わらず、コミュニケーションが(往々にして失敗するとはいえ)成功を収めるのは、そこに「規則」なり「慣習」なりが存在するからである、とひとまず言ってよいでしょう。
ですが、この「慣習」は、始めからそこにあるような代物ではない。
例えば、聞いたこともない言葉を話す外国人の中にひとり入って言った場合を考えてみればよいでしょう。
私が何も日本語を知らないとしたら、あなたがどんなに、
「そこの本をとって!」
と叫んでも、私はきょとんとしているでしょう。
それでも、表情や動作から、なんとか「意味」を見つけ出し、私は、本を渡すことが出来るかもしれません。
ですが「そこの本をとって!」という文の構成、単語の一つ一つを理解したとは言えないでしょう。
わたしは、「sokonohonwototte!」という音節が一つの単語で、「本」を意味するらしい、と思うかもしれません。
反対に、
「本!」
と叫んだとしたら・・・。
私はまたしてもちゃんと本を渡すことが出来るかもしれません。
ですが、今度は「hon!」という音節は、「本を自分のところへもってこい」と命令する言葉なんだな、と思うかもしれません。
要するに、そうやって、「意味」は、コミュニケーションが成立した後で、「都合よく仕立て上げられていくもの」なのです。
(この例は、「わたしが(始めから存在する)規則を、正しく学習できなかったのだ」と思うかもしれませんね。ですが、そもそも、私たちは、始めはみんな言葉を知らない。そして、言葉以外「では」教わらないのです。その積み上げで、どうにか規則を仕立て上げているのです)
「たとえば、私が、ある言葉の「意味」を知っているかどうかは、私がその言葉の用法においてまちがっていないと他者(共同体)にみとめられるか否かにかかっている。もしまちがっているとしたら、他者は笑うか、「違う」というだろう。そのとき、私は「規則に従っていない」とみなされる。しかし、ここで注意すべきことは、そのとき、他者もまた規則を積極的に明示できるわけではないということだ。彼はただ「否」としかいえないのである。ということは、規則がどこかに積極的に明示しうるかたちで存在するのではないということを意味するのである。」(柄谷行人『探究I』)
ですから、この意味で、「規則」よりも「慣習」という言葉のほうが、ニュアンスとしてよいのかもしれません。
そして、「私」と「慣習」を共有しないもの、「私」とは異質の言葉を話すものは、「他者」なのです。
そして、「余所者」であり、「外人」であり、「異民族」なのです。
このような視点から、私たちは、「共同体」(それは、「家」「氏」「村」「邑」「群」「国」「邦」「里」「郷」などと呼ばれる)を考えなければならないでしょう。

もう一つの視点に移ります。
マルクスの「交通」という概念、そして、ソシュールの「交通」という概念です。
「<交通>を特権化するという問題意識は、まず第一に、あらゆる固定したシステムの自明性を疑うことに発している。共同体というシステムがまずあって、交通が行われるのだろうか。そうではない。現実に行われているのは人々と物資の交通だけであって、共同体というのは、その結果として見いだされる二次的な派生物にすぎない。・・・<交通>というのは、このような動的な関係のことである」(立川健二『現代言語論』)
とあるように、「共同体」もまた、人々のコミュニケーションによって、仕立て上げられていく、「差異のシステム」だと言っていいでしょう。
「共同体」などという「実体」がそこにあるのではないのです。
あくまでそこにあるのは、人々の絶え間ない交通であり、コミュニケーションであり、言語ゲームなのです。
そうして、それは、「事後的に仕立て上げられていく」のです。
次に、ソシュールもまた、「交通」という概念を用いました。
彼によれば、「言語」には、郷土の力と交通の力というふたつの力がかかっているのだといいます。
郷土の力とは、「共同体」の内部で、「ラング」が固定化していく力。
つまり、「慣習」が固定化して、差異が明確になっていく、特殊化する力です。
交通の力とは、「共同体」同士の交通によって、「慣習」が流動化し、共同体同士の差異が均質化していく、そういう力です。
この二つの原理が絶えず闘うのだと言います。
ソシュールはあくまで、言語に関して、このような視点を提出したのですが、これは、「共同体」を考える上で重要でしょう。

最後に、共同体のレベルについてです。
よく「家」→「村」→「都市」→「国」→「帝国」などというように、共同体のレベルを考えてしまいがちですが、この点には、慎重になる必要があります。
そのようなものは、関係の問題であって、「実体」はないのです。
あるのは、人や物の「交通」だけです。
私は、「個人」であり、「河西家の一員」であり、「企業の一員」であり、「市民」であり、「国民」であり、「アジア人」であり、「黄色人種」であり、「人間」であり、「生物」であり・・・。
このように、結局のところ、そういう「階層構造」は、あくまで、「仕立て上げられたもの」であって、実体ではないのです。
ですから、「地域国家」とか「統一国家」とか、「国家」と認めるべきかとか、ということは、関係の問題として処理すべきであって、つまり、「単独では存在しない」のです。
歴史を見るうえで、例えば、近畿天皇家の支配体制だけを見て、いつから「国家」なのか、などという議論は、無意味なのです。

現在はそのように考えています。
02-Mar-2003

今日は「固有名詞」について考えてみたいと思います。
といっても、「哲学的」な話ではありません。
「固有名詞の翻訳不可能性」について、考えてみたいと思うのです。

一般的に、「固有名詞」を他の言語に翻訳することはありません。もちろん、日本語の「河西」を英語の文脈の中で表現するなら、"Kawanishi"というように、表記そのものは変わります。
反対に、"John"や"Tom"も「ジョン」や「トム」と文字だけが「訳」されます。
決して、「河西」を"River-west"などと訳したりはしないのです。
(もちろん、どんな「概念」もそうですが、「固有名詞」にも境界区域というか、そういう領域はあります。"the Lion Hearted"が「獅子心王」と訳される例を考えればわかるように、「固有名詞」なのかそうでないのか、微妙な「名前」もあり、それらは往々にして、「訳」を与えられることになります。それでも、人名はほとんどの場合、訳されることはありません)
この「翻訳不可能」という視点ですが、私は、正直言って、欧米の言語観を中心にしたものだという感想を持っています。
もちろん、ぜんぜん間違ってる!などというつもりは無いのですが、いくつかの視点を欠いている、と言っていいでしょう。
なるほど、例えば、英語とフランス語、ドイツ語の間で起こる、変化は、ちょっとした語形の変化と、発音の相違くらいなものです。
例えば、"John"(英),"Jean"(仏),"Hans"(独)は、同じ名前のそれぞれの国での表記だといいます。
ところが、日本や朝鮮に目を移すと、別の状況が見えてきます。
日本の現在の総理大臣は「小泉純一郎」ですね。「こいずみじゅんいちろう」と読みます。
例えば、彼がアメリカで報道されてみましょう。
当然、"Koizumi"(コイズミ)と発音されます(「日本語」の響きからすればもちろん「流暢」ではありませんが、それはお互い様ですね)。
次に、韓国ならどうでしょう。
やはり、「コイズミ」と発音されるでしょう。
文字はどうでしょう。
詳しくは知らないのですが、「ハングル」で書かれると思います。(確か…)
そのへんの事情は「北」も同じです。
反対に、韓国の新大統領・盧武鉉さんは、日本ではこのように表記して「ノ・ムヒョン」と発音することが多いようです。
マスコミ各社によって違いがあるようではあります。
中にはカタカナだけ(「イ」さんとか「キム」さんとか)の表記の場合も多くあります。
中国の場合はどうでしょう。
ほとんどの場合、人名はそのまま表記されます。
長々と書いてきましたが、これって不思議なことじゃありません?
そういえば私たちも、例えば「毛沢東」はこう表記して「モウタクトウ」と読みますね。
「マオツォトン」(であってるかどうかしりませんが)とは読みません。
かつては「金日成」も「キンニッセイ」と読んで、「キムイルソン」ではなかったし。

要するに、「漢字」という共通の「文字」と共通ではない「読み」の関係、それから漢字と併用される「表音専用」の文字とのかかわり、によって、日韓(朝)中の「固有名詞」の在り方は多様なのです。
それに、中国人からすると、「小泉純一郎」という文面から「こいずみじゅんいちろう」という読みを導き出すことは、不可能です(「じゅんいちろう」はまだしも、「こいずみ」は無理です)。
「北京」を「ペキン」、「盧大統領」を「ノ」と読むのとは少しわけが違います。
なぜなら、訓だからです。

訓というのは、つまり、和漢の翻訳のひとつです。
「山」という漢字の「意味」を取り出し、それと対応する「やま」という倭語を当てる。
反対に「やま」と表記する為に、対応する「山」という漢字を当てる。
これは、単語のレベルでの「翻訳」に他なりません。
では、「小泉純一郎」。
…あれ?
「こ(接頭辞で小さいことを示す)=小」+「いずみ(水の沸くところ)=泉」…
翻訳してません?
ちょうど、「河西」を"River-west"と「訳」すように…。
この言い方は、順序が正しくないのかもしれません。
おそらく、倭語の名前も、当初は「翻訳」されずに、表記されたもの、と思われます。
卑弥呼」や「伊邪那岐」などがその例です。
それが少しずつ「訓」を織り交ぜるようになった。
地名・人名・神名を問わずです。
古事記の時点ではかなりの人名が訓交じりですし、日本書紀は意図的に「訓」を用いたような形跡さえあります。
旧唐書人名も、「訓」交じりです。
この人名の翻訳、という作業は、中国語に精通するだけではだめなのです。
日本語に精通していなければなりません。
日本書紀は、地名や人名の表記方法が、かなり「特殊」です。
ほとんどが「訓」を用いています。
「宇佐」を「菟狭」、「邇邇芸」を「瓊瓊杵」(「瓊」は音ケイ・ギョウ。「に」は「たま」の意の倭語)などです。
中国語によって倭語の音を表現する「表音」とは、意味合いが違うのです。
「菟狭」と書かれても、中国人は「ウサ」と読めません。

遠回りしてきましたが、この視点は記紀の成立にも、重要な示唆を与えると思います。
08-Feb-2003

今日は、先週の石上氏の議論を受けて、私なりに「史料」もしくは「テクスト」を考えてみたいと思います。
まず初めに、私たちは、私たちの研究対象である「文献」とは何かについて考えてみる必要があります。
私たちは「文献」の中の、主に文字を読み取ります。時には、図像かもしれません。
そこから、「歴史」というものに迫ろうと試みています。
さて、「文字」とは、どういうものでしょうか。
私たちが目にしているもの―「本に印刷された文字」や「紙に筆で書かれた文字」や「パソコンのディスプレイ上に表示された文字」―は、それ自身は、あくまでも、「紙の上の黒いシミ」や「波長の違う光を発する点の集まり」でしかありません。
ですが、私たちはそこに「シミ」や「点の集まり」以上の何かを見出し、情報を得ています。
そして、それを「意味がある」或いは「意味する」と言います。
「文字」(より抽象度を上げれば、「記号(sign)」もしくは「標識(mark)」)とは、突き詰めて言えば、そういうものなのです。
これは何も「文字」に限ったことではありません。
「声」も結局は「空気の振動」に過ぎません。
それでも、私たちはそこに「別の」意味を見出しては、情報としてそれを重要視するのです。
「赤いもの」を見て、「情熱」や「血」や「闘争」や「止まれ」という新たな情報をそこから得ようとするのです。
それは、ちょうど、野ウサギが茂みのざわめきを耳にして身を隠すのと同じように、私たちが生物としてもっている「本能」なのかもしれません。
このような視点は、「記号学(semiology/semiologie)」もしくは「記号論(semiotics/semiotique)」と呼ばれ、ソシュールやパース以来、ひとつの理論体系として、その地位を築き上げてきました。
私たちは、「文字」に対して、このような視点から出発する必要があります。
さて、今、『古事記』を読もうと思います。
先週の繰り返しになりますが、「かわにし所蔵岩波文庫本」は世界に1冊しか在りません。
この「かわにし所蔵本」も、突き詰めてしまえば、「インクのシミ」のついた「紙の束」でしかありません。
そこに、私のつけた「鉛筆の汚れ」や「インクのシミ」が加わっています。
(この際、もしこの本を古本屋に売ろうとした場合、私がつけた「汚れ」は、「醤油のシミ」や「手垢」と同様、「売値を下げる汚れ」でしかない)
私たちは、しかしながら、「インクのシミ」を読むのではありません。
その「インクのシミ」の形状や配列に関する「ルール」を適用して、「シミ以上の情報」を取得します。
そしてその「ルール」を適用した時に取得できる情報によって、例えば、「かわにし所蔵本」と「真福寺本」のそれが、「ほぼ同じもの」である、と同定できるのです。
(厳密には、「差異」もある)
そうして「同定」されるものが、『古事記』という「文献」です。
これに基づいて、私たちは、共通の情報として、『古事記』に触れることが出来るのです。
これが、「現物としての書物」と「文献」の違いです。
「シミ」のつき具合や、補修の後から、「現物としての書物」の「歴史」を汲み取る作業が石上氏の言う「史料学」と言えそうです。
「文献」に含まれる情報を対象とするのが「文献学」と言えるでしょう。
もちろん、この区別は、実際にはそれほど明確なものではありません。
古事記』は幸いにして、著者がハッキリしています。
ですから、その著者によって、最初の1冊の『古事記』が書かれた時点が、『古事記』という「文献」の出発点です。
そしてこの書を写した本は、同じく『古事記』という「文献」です。
その「写し」の繰り返しによって、『古事記』は今も私たちの目に触れることの出来る「文献」なのです。
ちょうど、漱石や鴎外の「作品」と同じように、出発点がハッキリしています。
これは、幸いなことではあります。
『源平盛衰記』が『平家物語』の異本に過ぎない、という話がありますが、中には「文献」としての「アイデンティティ」をうまく確立できない、そういったものも多くあります。
古事記』にしても、太安万侶から現代に到るまで、まったく同一の「アイデンティティ」を確保してきたわけではなく、むしろ本居宣長の功績によるところが大きいというのは、有名な話です。
このように、「文献」にも歴史があり、それも掬い上げることもまた、「文献学」の範疇といえるでしょう。
ところで、中世・近世の資料の中には、「○○を抄出して写したもの」と言われるものが多くあります。
たとえば、「如是院年代記」は、「三国一覧合運」を抄写した「三国合運」を更に抄出したもの、と言われます。(丸山晋司氏『古代逸年号の謎』参照)
これなど、「写本」の一種なのか、新たな「文献」の誕生なのか、迷うところでしょう。
そのような例は、実はたくさんあります。
ですから、「石上史料学」と「文献学」の境界は、やはり曖昧なのです。
これは、「文献生成」の過程を追う研究にとって、重要です。
また、太安万侶は、彼自身の頭の中から、『古事記』をひねり出したのではありません。
多くの「先行史料」を利用して、作り上げたであろうことは、想像に難く在りません。
この過程、「文献生成」を追うことが、私たちにとって、重要な課題です。

整理します。
まず、「現物としての本」と「文献」の区別が必要です。
私たちは、「文献」を主な活動領域に選んでいます。
次に、「文献」研究のアプローチの仕方はいくつかあります。
ひとつは、「文献」構造の研究。或いは、「文献」から「歴史」を抽出する研究。
これが、「歴史学」の骨子ではあります。
ふたつは、「文献」の歴史の研究。或いは、「文献の考古学」とでも言いましょうか。
文献自体がたどってきた「歴史」を探究する必要があります。
これは、私たちの「読み」に深く関わります。
クリステヴァの言うように、後続の文献の先行文献への影響力から、私たちは解き放たれることはありません。
私たちが目にすることが出来るのは、あくまで、そこまでの「歴史」の積み重なった「文献」なのです。
外山滋比古氏の『古典論』などで考えられている「古典化」のプロセスも、私たちは大いに参考にする必要があります。
また、カルチュラル・スタディーズが注目する「正典化」も同様です。
次に「文献生成」研究。
太安万侶の参照した史料を推測する試みです。
特に、後代史書に頼らざるを得ない古代史にとっては、重要な問題です。
クリステヴァが言う「全てのテクストは他のテクストの引用、モザイク」というテーゼは、直接的に、この「文献生成」研究にとって重要な示唆を含んでいます。
(クリステヴァ自身の問題意識は、むしろ「聞き手(読者)」の中で起こる「意味生成」のプロセスに焦点が当てられているように思います。だから、「間テクスト性」を「転移」と呼びかえる向きもあります)

よく考えてみると、これらはそれほど「突飛」なものではないようです。
「実証主義歴史学」の一般的な意識とそれほどかけ離れたものでは無いでしょう。
「文献生成」「文献の考古学」いずれも、非常に興味深い問題をはらんでいるように思います。
今日はこの辺で。
02-Feb-2003

あっという間に2月ですね。
さて、今日は、石上英一氏『日本古代史料学』(東京大学出版会、1997)を取り上げてみたいと思います。
この書は、「文献史学が文字資料だけをその対象としてきたこと」の限界を認め、文字以外の情報を含めた総体としての「史料学」の確立を目指そうというものです。
まず、彼は、史料を史料体としてモデル化します。

史料体┬┬メッセージ――┬文字

     ││              └図像
     │└付加メッセージ┬文字
     │                └図像
     ├搬送体―――――┬素材
     │                ├形状
     │                └メッセージ定着媒体
     └様態

この図式のうち、メッセージには文字資料と図像資料とがあります。付加メッセージとは、後代の書き入れ、加筆訂正、改竄、削除など、一旦史料テクストが成立した後に加えられたメッセージのことです。
搬送体とは、音声言語の伝達モデルで言うところの「音」や「電気信号」に当るもので、「紙素材の冊子に、墨で定着させた文字資料(紙本墨書)」などです。
メッセージはそれ自体では伝達されず、メッセージを搬送する物がなくてはならないわけです。
様態とは、わかりやすく言うと、「400字詰の原稿用紙には400字しか書けない」といった、搬送体によって決まる文字の制限や規則、また土器に書かれたものであればある程度「書かれるべき内容」は決まってきますが、そういった情報です。
そうして、ヤコブソンのモデルを用いて、この史料体の伝達を以下のようにモデル化します。

     コンテクスト(史料体の関説対象を包含する歴史状況)
     メッセージ(史料体)
               (接触―史料体と同時に行われる音声言語・身体演技・道具使用)

発信者―――――――――――――――――――――――――受信者

     接触(史料体の授受・提示)
     コード(言語規則・書式等)

歴史資料というものは、言語学や文学の対象と異なり、一般的に、異なる時空間の発信者と受信者との対話です。
また、メッセージも、多くの受信者が新たに発信者となって、幾重にも連なった、重層的な構造を持ちます。
この点には注意が必要です。
それに、このモデルは、石上氏自身も言うとおり、「原史料」にのみ適応できます。
古代史の対象の場合、多くは、写本・模写・編纂物といった、2次的な形状として伝えられています。
このような史料については、様々な角度からの検討が必要だと、石上氏は言います。
私もそのとおりだと思います。

この点を踏まえたうえで、彼の「古代史料テクスト構造」についての分析をみてみましょう。
石上氏は、古代史料テクストについて、「テクスト生成過程状態」と「テクスト生成終了状態」とを区別します。
あらゆるテクストは、一時に生成されるのではなく、後代からの変更を受けながら、生成されていくのだとします。
これが、歴史資料の特徴でもあるでしょう。
その上で、以下の構造を提出します。
1.追記構造
これは、テクストが一旦成立した後、時間を隔てて、次々に追記が行われる構造です。
追記の仕方によって、以下の下位区分があります。
1-1.単純追記
これは、テクストの後ろに、次々に追記していく形のものです。
一般的な日記や記録などがまさにそうです。
(この「独り言」は、ちょうど逆の形式ですね)
1-2.塊状追記
これは、「売券」の構造です。
日付や制度変更に伴う記載の変更など、文字列を塊として、挿入したり、移動したりという構造です。
1-3.分散追記(訂正・認定型)
これは、あるテクストに対する、校異校正などのように、既存のテクストの版を変える作用を持つ追記です。
分散追記のもう一つの型(説明型)との違いは、往々にしてテクストの質をも変えてしまう点が違うといいます。
1-4.分散追記(説明型)
これは、注釈などのように、あるテクストに対し、説明を追加するものです。
もちろん、場合によっては、テクストの質が変わることもあります。
2.派生構造
これは、あるテクストと同内容のテクストが複数生成されるような構造のテクストです。
たとえば、大宝律令などは、施行時に全国の官司・国郡にそのテクストが発布されたでしょう。
また、今でも、伝票など帳票類はカーボンコピーを同時に生成しますが、同じようなケースも当然考えられます。

あくまでも、石上氏の研究対象は、「原史料」です。
物質的な分析を中心に据えているはずです。
ですが、メッセージ内容の構造や生成過程と混同している部分があるような、ないような。
私は以下のように考えます。
今、私が手にしている『古事記』(岩波文庫)の物質としての「本」には、それ自身として、重層的な構造を持っています。
たとえば、ここには、私自身の「書き込み」があります。
この「書き込み」の時期は複数です。
昔つけた「読み仮名」の類もあれば、「倭」を検索した時の傍線、今となっては意味不明の走り書きや記号などです。
同じ岩波・倉野憲司校注の『古事記』でも、岩波古典文学大系と文庫本と特装版(A5版の大きいもの)とでは、多少の違いはあります。
それに、同じ文庫本でも、版の違いによるテクストの違いがあるかもしれません。
私の「書き込み」が入っているのは、世界で「ここ」にある一冊だけです。
私の持っている『万葉集』(岩波文庫)は、古本屋で買いました。
中には、前の人の「書き込み」があります。
(これはこれで味わい深いものです)
仮に「かわにし所蔵岩波文庫本」とでも言っておきましょうか。(それっぽいでしょ?)
このことと、「古事記真福寺本」とは、無関係では在りません。
真福寺本にも、同様な「書き込み」の類があります。
虫食いや破損の修正箇所や補強箇所もあるでしょう。
署名も違うし、状態も、それらに関して言えば、世界に同じものは二つ在りません。
古事記真福寺本」という一写本に限って、物質的に検討するという姿勢は、非常に大事だと思います。
同じように、「売券」や「書簡」などの原史料であれば、なおさら大事な作業です。
これと、メッセージ内容の構造とを混同すべきでは在りません。
つまり、我々は、『古事記』の内容の生成過程をも、視野に入れなければ成りません。
ふむ。
石上氏の研究を大いに参考にして、私も少し整理したほうがいいのかもしれませんね。
26-Jan-2003

あけましておめでとうございます(笑)。
2003年、一発目の「独り言」です。

昨年の後半は、かなり寄り道をしてきました。
まぁ、私にとっては、有意義なものであったろう、とは思っています。
今後はその実践の為に、どうしたらいいのか、という点に的を絞ってお話したいと思います。

今回は、その第1回として、「物語論」について、考えてみたいと思います。
「物語論(ナラトロジー、narratologie)」の中心人物の一人である、ジェラルド・ジュネットは、「物語」について、以下のように分類しました。
1.物語言説(レシ、recit)・・・これは、物語の「言説」、つまり、物語のテクストを指します。
2.物語内容(イストワール、histoire)・・・これは、語られる内容を指します。
3.物語行為(ナラシオン、narration)・・・これは、「物語る」という行為を指します。
この三つの概念を分類し、「物語論」とは、「物語言説」と「物語内容」或いは「物語行為」との関係を研究するものだとします。
我々、文献を研究するものも、物語のテクストをも、その対象とするのですから(例えば、古事記は、貴重な歴史書であると同時に、優れた文学作品でもあります)、このような「物語論」の成果を無視できないのです。

物語論には、現在、いくつかの流れがあるといわれています。
ひとつは、「物語行為」を中心とした研究。あるいは「虚構言語行為論」と言われるものです。
「フィクションをフィクションたらしめているのは、何か」という問題です。
また、全ての「歴史言説」は「物語る」行為だ、とする、アーサー・ダントや野家啓一なども、ここに属すでしょう。
「物語る」あるいは「語る」という行為を中心にすえた研究です。
私は、この視点から、記紀に迫ろうと目論見ましたが、失敗に終わりました。
むしろ、「虚構言語行為」とは、何であろうか、という点に、真剣に目を向ける必要があるのではないか、と思いました。
「ジョーク」と「ウソ」の間にあるものは何だろうか、という問題と、「フィクション」と「ウソ」の間のそれとは、同質であるような気がします。
聞き手が、(話し手の意図どおり)「ジョーク」「フィクション」と見なさなければ、成立しないのです。
成立しなかった場合、「ウソツキ」になります。
逆に、話し手にその意図がないにも拘らず、聞き手が「ジョーク」「フィクション」と見なす場合もあります。
この場合は、要するに「信じられない話」「ウソのような本当の話」の類ですね。
ですから、「聞き手」が非常に大きな役割を果たすのが、「物語行為」と言えます。
文面だけでは、「フィクションとノンフィクション」、「ジョークとウソ」は、見わけられないものなのです。

次に、「物語言説」の研究。
これは、「物語言説」そのものを研究する立場です。小説の技法や、修辞、文体研究などもここに含まれるでしょう。
狭い意味での「ナラトロジー」は、これを指します。

最後に、「物語の構造分析」。
この研究は、「構造主義」が一大旋風を巻き起こした、1960年代に盛んに行われてきました。
まず、プロップの『昔話の形態学』(初版1928年)が、1958年に英訳の出版という形で「再発見」され、1960年代の構造主義に大きな影響を及ぼしました。
ちょうど、レヴィ=ストロースの神話研究が注目されていたさなかでした。
A.J.グレマス、ブレモン、トドロフ、そしてロラン・バルトと言った面々が、物語の持つ潜在構造を分析することを試みました。
まず、ソシュール以来の言語学が参考にされます。
そうして、「物語は一つの文である」というテーゼのもとに、物語の構造分析はスタートしました。
文が、「動作主」と「行為」によって成るのと同様に、物語の構造も、「動作主」と「行為」という二つの下位区分が適用されます。
そのいずれもプロップの手によって既に土台が築かれていました。
まず、「行為」については、プロップは、その研究対象である「ロシアの魔法昔話」と呼ばれる説話群には、登場人物という意味では多種多様ではあるが、物語の中で果たす役割としては、いくつかの種類しかないように思われることに着目し、物語の中で果たす役割を「機能」と命名して、三一の機能を物語の基本構成要素として抽出しました。
いくつかを挙げると、
1.誰かの不在
8.敵対者による加害、あるいは主人公側の何らかの欠如
10.敵対者への対抗開始
11.主人公の出立
16.闘い
18.勝利
20.主人公が帰途につく
23.主人公の知られざる帰還
24.ニセ主人公の不当な要求
28.ニセ主人公の正体露見
29.主人公の変身
30.ニセ主人公・敵対者の処罰
31.主人公の結婚・即位
などです。(番号はプロップの挙げた番号に従っています)
プロップは「ロシアの魔法昔話」を対象にこの研究を行いましたが、一見してわかるとおり、ほとんど全ての「おとぎ話」「物語」に、この構成要素は適用できるのはないか、と思わせます。
例えば、「オイディプス王」や「オデュッセイア」などは、見事に対応しているように見えます。
これが、「機能分析」です。
バルトは、さらにこの「機能」を分類して、話の筋を決める「核」と、話の筋の流れを自然なものにする「触媒」とに分けました。
また、話の筋には直接関係しないが読者に重要な情報を与える「指標」という概念を提出しました。
バルトは、「核」の直接的な役割よりも、「触媒」のはぐらかしや含み、サスペンスなどを重視しました。
この「核」や「触媒」の流れを追う分析を、バルトは「シークエンス分析」と呼びました。
また、ブレモンは、プロップの「決定論的(結末は常に決まっているから)」な構造を批判し、(ゲームブックのように読者によってであれ、作者によってであれ)いくつかの選択によって、ストーリーは成立しているのだとしました。
次に、「動作主」についてです。こちらもプロップの分析が出発点となります。
プロップによって、物語の基本構成要素としての「機能」という概念が提出されました。
プロップに拠れば、主人公・敵対者・王女・贈与者・助手・派遣者・ニセ主人公の7つです。
これは、登場人物の「人格」ではなく、物語において果たす役割によって分類するという点で、重要でした。
はからずも、スーリオは『二十万の演劇状況』で、演劇の役について同じような役割を発見しました。
これを受けて、グレマスは6つの「行為項」を定めました。
主体/客体
送り手/受け手
敵対者/援助者
この六つです。
これら行為項の役割を分析することで、物語の構造が見えてくるのだとします。
ロラン・バルトは、「天使との格闘」で、『旧約聖書』「創世記第三十二章」を分析しました。
ヤコブが川を渡り、そのとき、「天使」と格闘して勝ち、イスラエルの名を手に入れる話です。
ここで、彼は彼自身の提出する「シークエンス分析」を行います。
そして、「機能分析」「行為項分析」を行い、この話は紛れもなく「おとぎ話」である、と結論付けます。
(彼は歴史家ではありません。あくまで、プロップの分析(全てのおとぎ話は同じ構造を持つ)に基づいてそう言っているのです)
この話は、「神の敗北」「トリックを使ったほうが負ける」という(一般的な昔話とは違う)スキャンダラスな構造を持つとします。
そして、「行為項分析」によって、彼は以下のように分析しました。
主体=ヤコブ/客体=河の通過
送り手=神/受け手=ヤコブ
敵対者=神/援助者=ヤコブ
そうして、主体と受け手が同じなのは、珍しいことだが、送り手が敵対者になるのは、もっと稀であるとして、これが、「スキャンダラス」な話の展開と見事にマッチしているのだとします。
もっとも、バルトは、このような構成そのものよりも、テクストの持つ様々な読解可能性、あるいは不可能性に目を向けていました。
如何にしてテクストは複数の読解可能性を生み出し、意味決定を不可能にしていくのか。
テクストは如何に意味を「散布」していくのか。
という点に興味を持っていたのです。
従って、「テクストの構造そのものが意味を決める」立場に近い「構造分析」からは、彼は次第に離れていきました。
それはともかく、これらの分析は私たちにとっても重要であろうと思います。
(これによって、「物語」としての構造を見出したとしても、即、「史実でない」ことを表しえないことは、野家が全ての歴史言説を「物語的」と言ったことの裏返しとして、重要です。
たとえ史実であっても、「物語的」な語り口で語られることが十分に考えられるのです。)
試みに、神武東征説話を「行為項分析」にかけてみましょう。
主体=神武/客体=大和(東)の土地
送り手=神武/受け手=神武
敵対者=長髄彦や国津神、土蜘蛛/援助者=ニギハヤヒや天津神
といったところでしょうか。
主体は問題ないでしょう。客体は土地です。(行為項は人間でなくても良いことに注意してください)
送り手、すなわち東の土地を目指せと主体を送り出すのは、神武自身です。
受け手、すなわち東の土地を手にするのは、これまた神武自身です。
敵対者・援助者は問題ないですね。
主体・送り手・受け手が同一という、かなり変わった構造をしています。
神武が自らの意思で自らの欲する土地を手にする。
という、「独善的」な構造を持っているといえるでしょう。
他の説話も分析にかけて、比較してみると、興味深い結果が得られるのではないか、と考えています。

今日はこの辺で。