歴史・人名

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遼河文明(BC6200年ごろから存在)
満州南部、中国東北の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ。BC6200年ごろから存在したと考えられている。

大規模な竪穴式住居が出土しており、特に遼寧省凌源市から建平県で発見された紅山文化の遺跡の一つ牛河梁遺跡は広範囲にわたって墳墓や祭壇などの神殿が発見され、先史時代の「国」があったのではないかと考えられている。紅山文化の遺跡からは風水の原型と見られるものも出土している。 興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されている。また最古の遼寧式銅剣(琵琶形銅剣)や櫛目文土器などが出土している。

このように黄河文明長江文明と異質でありながら、古代の中華文明に大きな影響を与えたと考えられ、現代でも大きく注目され盛んに研究されている。

BC8000年
から
BC6000年頃 中国
朝鮮 初期の土器としては南部から隆起文土器が発見されている。
BC6000年
から
BC3500年頃 中国
朝鮮 漁労や狩猟が行われ、竪穴式住居で半定住的生活が行われた。後半期には大規模な貝塚が見られる。 またBC4000年頃に櫛目文土器が出現する。
BC3500年
から
BC2000年頃 中国
朝鮮 雑穀などの栽培が始まったと見られるが、中心は漁労や狩猟にあったと考えられる。
BC2000年
から
BC1500年頃 中国
朝鮮 内陸部の居住が増えて貝塚が少なくなり、農業への依存が進んだと考えられる。
文化の起源

興隆窪文化

中華人民共和国内モンゴル自治区から遼寧省にかけてBC6200年頃-BC5400年頃に存在した新石器時代。紅山文化に先行する遼河流域の文明(遼河文明)のひとつとされる。

紅山文化

中華人民共和国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部にBC4700年頃-BC2900年頃に存在した新石器時代の文化。

万里の長城より北方、燕山山脈の北から遼河支流の西遼河上流付近にかけて広がり、農業を主とした文化で、竜などをかたどったヒスイなどの玉から、現在の中国につながる文化や宗教の存在の可能性が考えられている。

黄河・長江文明縄文時代
BC6000年頃 倭国
朝鮮 対馬海流が黒潮から分流。→温暖・湿潤・四季の発生。対馬海流は、倭国海側の地方に冬の積雪や豪雪に由来する豊富な水資源と、夏の高温・多照をもたらし、結果的に稲作(米づくり)に適した穀倉地帯と風土をそれぞれ作り出しているといえよう。
BC5000年頃 中国 河姆渡文化 …BC5000年? - BC4000年?長江下流域では最古の稲作。狩猟や漁労も合わせて行われ、ブタの家畜化なども行われた。
BC4800年頃 中国 仰韶文化…BC4800?~BC2500?。前期黄河文明における最大の文化。陝西省から河南省にかけて存在。このころは母系社会で、農村の階層化も始まった。文化後期になると、社会の階層化、分業化が進んだ。
BC4000年頃 倭国
朝鮮
中国 温暖化で海水面が最も上昇する。(縄文海進) 海面が今より2-3メートル高かったと言われ、縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされている。気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1-2℃気温が高かった。
BC4000年頃 倭国 日本列島の一部でで陸稲栽培が行われた。熱帯ジャポニカ。
三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていた。気温は現在より高かったため、クリの栽培が可能となり、定住生活に必要な食料を支えた。
BC2000年頃
から
BC1000年頃 倭国 新たな森林構成との共生の模索。この頃にはひえ、あわ等の穀物栽培。
大型貝塚。内陸地域にも貝塚が出来ていた。
製塩専業集団、塩媒介集団、塩消費集団。
交易目的の漁労民発生。
伸展葬。


BC2000年
から
BC1500年頃 朝鮮 北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。 この遼河文明が、無文土器文化の源流の可能性がある。
BC1500年
から
BC850年頃 朝鮮 農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竃が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。BC900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竃ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。
BC850年
から
BC550年頃 朝鮮 農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(BC700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(倭国の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。
BC550年
から
BC300年頃 朝鮮 環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。
BC300年頃 朝鮮 普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視してBC後までを含める説もある。しかし、BC300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

同時代の倭国は?
BC900年頃 倭国
朝鮮 朝鮮半島南部で縄文土器が発見。人々の交流が進む。水田耕作はじまる。
漁労の網。東北の太平洋側に銛漁開花。
BC600年
から
BC300年 倭国 九州北部と南朝鮮文化圏の成立

北九州で縄文水田。菜畑遺跡(BC600年頃)で熱帯ジャポニカ米を栽培。
水田の遺構が確認され縄文時代晩期後半の12層からそれより上層にも弥生時代中期までの水田遺構が検出。BC930年頃(放射性炭素14の較正年代)、山の寺式土器。

板付遺跡(縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡)。最初期の環濠集落/。
板付Ⅰ式土器の機種は甕、壺、鉢、高坏からなる。夜臼式(柏崎式)土器。
特徴は西倭国に広まった遠賀川式土器に共通。

朝鮮半島の歴史時代
BC12世紀頃 - BC194年 朝鮮
中国 箕子朝鮮

中国の殷に出自を持つ箕子が建国したとされる朝鮮の伝説的な古代国家。統一国家では無く、地方政権ないし都市国家として存在したいわゆる古朝鮮の一つ。首都は王険城(現在の平壌)。『三国志』「魏志」東夷伝 辰韓条、『魏略』逸文などに具体的な記述がある。

BC312年 - BC279年 朝鮮
中国 燕は朝鮮候国と戦って西部の真番・朝鮮を奪い取り、上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東の5郡を置き北東へ長城を築いたが、その際に近隣の貊も燕の支配下に組み込まれた。
BC214年 朝鮮
中国 秦が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した。
BC195年 朝鮮
中国 前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命。
BC194年 朝鮮
中国 衛氏朝鮮
衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し王権を簒奪して、衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。
BC2世紀頃 朝鮮 辰国

史記』や『漢書』の朝鮮伝によれば、衛氏朝鮮の時代(BC2世紀)に現在の朝鮮半島の南部にあったという国である。記録は少なく、その詳細はほとんどわからない。民族系統は不明であり、群小の国々の総称なのか一国の名なのかもわからない。
いずれにしろ辰国は辰韓または三韓の前身であるとされている。
BC2世紀以降 朝鮮 三韓の成立

金両基の説によれば、「三韓の領域や国境は、、後世のように明確ではなく、おおざっぱであった。国境には、どちらの国からも干渉されない、緩衝地帯のようなものがあったらしい。そこに亡国の流民が三々五々集まって、一種の多文化圏を構成していた。異国文化や新しい文化がそこに集まり、そこから三韓へ伝わったのであろう。"辰韓は馬韓の東にある。そこの老人が語るところによれば、その昔、中国の秦国の苦役に服することを嫌って逃亡した流民たちが韓に渡ってきた。馬韓では東の国境地帯の土地を割いてかれらに与え、住まわせた。(『三国志』の「魏書」東夷傳 辰韓条)"そのような緩衝地帯にも、自然に流民を束ねる実力者が生まれる。王や君長の経歴をもったものが、そこで実力を争い、支配者となることは当然考えられる。衛満に王位を奪われた準王がそういう地位をえたと考えても、べつにおかしくはない。」と記している。

上田篤の説によれば、「秦の始皇帝が天下を握ったBC221年ごろには、秦以外のすべての国々は消滅した。すると、大陸内には、もはや亡命する国さえない。そこで、何万、何十万というかつての権力者とそれにつながる人たちの多くは、海外、あるいは漢民族の支配圏以外の国々への亡命の道を選んだのではないか。東アジアでも、『陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)』と記されている。陳勝の農民一揆は、BC209年のことである。さらに、『辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を割いたと自言していた。(魏志東夷伝)』朝鮮では、国を割いてまで秦の亡民の建国を許している」と記している。

馬韓は、BC2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団である三韓の一つ。帯方郡の南、黄海に接し、東方は辰韓(後の新羅)、南方は倭に接していた。後の百済と重なる場所にあった地域である。

辰韓は、BC2世紀 - 356年に朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、倭国海に接し、後の新羅と重なる場所にあった地域である。その境は、南にある弁韓と接しており、入り組んでいた。もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。そのうちの斯蘆が後の新羅になった。

弁韓は、BC2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三韓の一つ。弁辰とも言う。
BC128年 朝鮮
中国 前漢の元朔元年(前128年)当時、?や沃沮は皆衛氏朝鮮に属していたが、?君の南閭らは右渠に背き、28万人を率いて遼東郡に服属した。武帝はこの地を蒼海郡としたが、数年で廃止した
BC128年 朝鮮
中国 漢の武帝が朝鮮北部から満州南部にかけて設置した郡である。
衛氏朝鮮に服属していた?の君長である南閭が、衛氏朝鮮の衛右渠に叛いて、28万人を率いて漢に投降してきた事がきっかけで、蒼海郡が設置された。
BC126年 朝鮮
中国 公孫弘の建議により蒼海郡は廃止された。
蒼海郡の正確な場所は分かっていないが、江原道北部、遼寧省の南部、吉林省南部などの説がある。 蒼海郡の設置は漢の朝鮮進出を促進し、BC108年に漢が衛氏朝鮮を滅ぼし漢四郡を設置したことにつながる。蒼海郡は漢四郡の1つである玄菟郡と深い関連がある。

BC108年 朝鮮
中国 前漢の武帝は、朝鮮半島の中・西北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした。
BC108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、
BC107年に設置した玄菟郡
BC82年 朝鮮
中国 真番郡、臨屯郡を廃する。、臨屯郡北部の6県と玄菟郡の1県が楽浪郡に編入された。これを嶺東七県(倭国海側)といい嶺東7県を管轄する軍事組織として東部都尉が置かれた。玄菟郡はその後段階的に縮小移転している。 この結果、楽浪郡は25県を抱え、この拡大した楽浪郡を創業期の楽浪郡に対して歴史学では「大楽浪郡」ともいう。『漢書』地理志によるとその戸数は6万2,812戸、口数は40万6,748人あった。
BC75年 朝鮮
中国 玄菟郡を西に移し、半島には楽浪郡だけとなる。
BC75年 朝鮮 貊族(夷貊)の攻撃を受けて玄菟郡治が北西の高句麗県へ移り、沃沮・?貊は尽く楽浪の管轄へ移った。また、管轄範囲が広く遠いことから、?貊・沃沮の住む単単大嶺の東側の部分に楽浪東部都尉を置き、不耐城を治所として嶺東七県(東?県,不耐県,蚕台県,華麗県,耶頭昧県,前莫県,沃沮県)に分けて治めさせ、官吏は?(東?)の民が務めた。
BC57年 朝鮮 朴赫居世,新羅建国。『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としている。
史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。
6世紀中頃に半島中南部の加羅諸国を滅ぼして配下に組み入れた。
BC45年 朝鮮 平壌郊外の貞柏洞364号墳で発見された「楽浪郡初元四年県別戸口簿」によると、25県の初元4年(BC45年)の戸数は4万3251戸、人口は28万0361人であった。
BC37年 朝鮮 朱蒙,卒本地方(現在の中国の桓仁)に高句麗建国。
中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主とし、その他に狩猟・牧畜を生業としていた民族とみられる。
『魏書』と『三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年に夫余の王族である朱蒙(チュモン)により建てられたという。
BC19年 朝鮮 朱蒙亡くなる.嫡子の琉璃後継
BC18年 朝鮮 朱蒙の子,温柞,百済建国。建国(『三国史記』による)
百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』「慕容載記」)。
それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。国際舞台への登場は、360年代の伽耶南部・倭との通交と372年の東晋への遣使である。
中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。
日本の『古事記』では、応神天皇の治世に照古王の名が記されている。
通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身だと考えられているが詳細は不明である。
朝鮮に関しては前述した通りに衛氏朝鮮を滅ぼして、BC108年に朝鮮半島北部に漢四郡を置いた。
楽浪郡(現在の平壌付近→313年に高句麗に滅ぼされる。)
玄菟郡(現在の咸鏡南道咸興→遼東半島→撫順→315年に高句麗に滅ぼされる。)
真番郡(楽浪郡の南。正確な位置は不明。→BC82年に廃止)
臨屯郡(咸鏡南道の南部から江原道にかけて→BC82年に廃止)

漢四郡は高句麗の興起するにつれて保持することが難しくなり、玄菟郡が高句麗に滅ぼされたのを最後に400年間に及ぶ中国による朝鮮半島北部の直轄支配は終わる。朝鮮半島南部にはこの時代は100国近くの部族国家があり、三韓(馬韓、辰韓、弁韓)といわれる部族国家連合が存在していた。

日本列島にも数百の部族国家があり、前代に引き続いて中国との交流により様々な技術文化が倭国にもたらされた。

夫余

現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)とも表記される。

夫余が建国する以前のこの地には?(わい)族が住んでいたと思われ、松花江上流の弱水(奄利大水、現拉林河)を渡河南進して夫余を建国する以前の慶華古城(「?城」、周囲約800m、前漢初期には存在、黒龍江省賓県)も発見されている。

元朔元年(紀元前128年)秋、匈奴が遼西郡に侵入してその太守を殺害し、漁陽郡,雁門郡にも侵入して都尉を破り、3千人余りも殺害した。これに対し、漢は将軍の衛青を雁門郡から、将軍の李息を代郡から派遣し、千人分の捕虜と首級を得た。この一件に際して東夷?(穢 わい)国君主の南閭(なんりょ)等28万人が漢に降ったため、そこに蒼海郡を設置した。元朔3年(紀元前126年)春、蒼海郡を廃止した。 。

9年 中国 王莽が新を建てると異民族に対する蔑視政策を執ったため、周辺諸国は離反し、夫余も離反した。
25年

  • 56年 中国 東夷諸国が後漢に来朝し、中国に方物を献上するようになった。建武25年(49年)10月、夫余王が遣使を送って朝貢したので、光武帝はこれを厚くもてなした。
    53年 56年 朝鮮 高句麗,太祖王即位
    111年 中国 夫余王は歩騎7~8千人を率いて玄菟郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、間もなく再び帰附した。
    120年 中国 夫余王は嫡子の尉仇台を遣わして印闕貢献してきたので、安帝は尉仇台に印綬金綵を賜った。翌121年、高句麗が1万の兵を率いて漢の玄菟城を囲むと、夫余王は嫡子の尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、高句麗軍を壊滅させた。
    122年 中国 高句麗が馬韓,?貊と共に遼東へ侵攻したので、兵を派遣して打ち破り救った。
    136年 中国 夫余王は京師(洛陽)に来朝した。
    150年 朝鮮 馬韓・弁韓・辰韓の勢力強くなる
    161年 中国 夫余の遣使が朝賀貢献。永康元年(167年)、夫余王の夫台は2万余人を率いて玄菟郡を侵略したが、玄菟太守の公孫域によって撃破され、千余名が斬首された。
    174年 中国 夫余は再び冊封国として貢ぎ物を献じた。
    189年 220年 中国 夫余はもともと玄菟郡に属していたが、献帝(在位:189年 - 220年)の時代に夫余王の尉仇台が遼東郡に属したいと申し出たため、遼東郡に属した。この時期は玄菟郡にしろ遼東郡にしろ公孫氏の支配下になっており、東夷諸国は公孫氏に附属した。時に高句麗と鮮卑が強盛だったので、公孫度はその二虜の間に在る夫余と同盟を組み、公孫氏の宗女(公孫度の娘とも妹ともいう)をもって尉仇台の妃とした。
    194年 220年 朝鮮 高句麗,春窮期に穀物を貸し与え,秋の収穫後返済する,賑貸法実施
    粛慎

粛慎(しゅくしん、みしはせ、あしはせ、?音:Sushen)とは、満州(中国東北地方)に住んでいたとされるツングース系狩猟民族。また、後にこの民族が住んでいた地域の名称ともなった。この粛慎という呼び名は周代・春秋戦国時代の華北を中心とする東アジア都市文化圏の人々(後に漢民族として統合されていく前身となった人々)が粛慎人の自称を音訳した呼び名である。息慎(そくしん、X?shen),稷慎(しょくしん、Jishen)とも表記される。 中国の周代の文献の中にしばしば見られるほか、日本の『日本書紀』の中にも粛慎の記述が見られる。ただ、中国文献中の粛慎と日本文献中の粛慎の存在した時期にかなりの開きがあり関係性は不明。 後代の?婁,勿吉,靺鞨,女真(満州族)と同系の民族と考えられている。

?婁

後漢から五胡十六国時代(1世紀から4世紀)にかけて、外満州付近に存在したとされる民族。

古の粛慎(しゅくしん、みしはせ)の末裔とされ、魏代・晋代でもそのまま粛慎と呼ばれ続けた。?婁の呼称は、彼等自身の自称ではなく、鏃(yoro)、箭や後の牛禄(niru)、坑(yeru)などの音訳と考えられている。

漢代以降は夫余に従属していたが、夫余が重税を課したため、魏の黄初年間(220年 - 226年)に反乱を起こした。夫余は何度か?婁を討伐したが、独立し魏への朝貢を行った。

前秦の苻堅(在位:357年 - 385年)が華北を統一すると、粛慎(?婁)は?矢を献じた。
その後は勿吉→靺鞨と名称を変えていく。

馬韓

BC2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団である三韓の一つ。帯方郡の南、黄海に接し、東方は辰韓(後の新羅)、南方は倭に接していた。後の百済と重なる場所にあった地域である。

馬韓人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。それぞれの部族には酋長がおり、大きな部族の酋長を臣智(しんち)と言い、それに次ぐものを邑借(ゆうしゃく)と呼び、集落に城郭は無く、五十余国が存在した。その内の伯済国が百済になったとする説もある。

後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民がおり、馬韓人はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせ辰韓人と名づけたという。また、『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたという。

建国

『三国遺事』によると、「魏志云。魏滿?朝鮮。朝鮮王準率宮人左右。越海而南至韓地。開國號馬韓。」

『魏書』によると、「侯准既僭號稱王,爲燕亡人衛滿所攻奪,將其左右宮人走入海,居韓地,自號韓王。」

後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。(初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。)」と記されており、衛満が箕子朝鮮を滅ぼした際に箕子朝鮮の最後の王、準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻め落として韓王となって馬韓を支配した。


高句麗

BC37年 - 668年)または高麗は、現在の中国東北部の南部から朝鮮半島北中部の、ツングース系民族による国家。最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。三国時代に新羅や百済と共に朝鮮半島を割拠し、隋や唐等の中国王朝や倭国と権力を争った。

『三国史記』や『三国遺事』によれば朱蒙(東明聖王)がBC37年に高句麗を建てた。考古学や史は高句麗はBC2世紀の古朝鮮の滅亡時期の周辺に既に存在したとする。疲弊と内紛の後に668年に新羅と唐の連合軍に滅ぼされるまで、高句麗は東アジアにおいて強い影響力を持つ帝国であり軍事国あった。

高句麗は別名を貊(はく)と言う。『後漢書』によれば、3世紀における「高句麗・夫余」の2国と沃沮・東?の2部族は、すべて前漢代の「?貊」の後裔である。そのため、倭国では「高麗」と書いても「貊(狛)」と書いてもこまと読む。現在では高麗との区別による理由から「こうくり」と読む慣習が一般化しているが、本来、百済・新羅の「くだら」・「しらぎ」に対応する倭国語での古名は「こま」である。


濊貊(わいはく、かいはく)

中国の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省から北朝鮮にかけて、北西~南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族。同種の近縁である濊と貊の二種族を連称したもの。周代以降の記録に濊・貊の名が見えるが、漢代に入り濊貊と記されるケースが増える。

BC2世紀の中国東北部にいた「濊」「貊」は、濊貊・沃沮・高句麗・夫余の四種族の前身であり、現在の韓国江原道にいた「東濊(濊貊)」は前漢代の中国東北部にいた濊の後裔とされる。

濊貊系とみられる集団は、他に沃沮・部類(符類、附類)・高夷・東濊などと、貊と同音または近似音の貉・北發・白民などがある。史書には、夫余の出自が濊とみられる記述があり、また貊を高句麗の別名または別種と記す。部類と夫余の上古音が同じ(Pĭwa ʎĭa)とする説もある、晋の孔晁は高句麗を高夷の子孫としている。

後漢書』では、濊・沃沮・高句麗は元々朝鮮(衛氏朝鮮)の地に居たと記す。

沃沮(よくそ)

BC2世紀から3世紀にかけて朝鮮半島北部の倭国海に沿った地方(現在の咸鏡道付近)に住んでいたと思われる民族。『三国志』や『後漢書』では東沃沮(とうよくそ)と表記される。

『三国志』では、北東は狭く西南に広い、高句麗の蓋馬大山(長白山脈)の東から海岸までに及び、北に?婁・夫餘と、南に?貊と接し、その言語は高句麗と大体同じで時に少し異なると記される。北に夫余・高句麗、西と南に?貊、東に倭国海と接していた。

「沃沮」という独自の国家があったのではなく、前漢の玄菟郡の夫租県(現在の咸鏡南道の咸興市付近)にいた?貊系種族を指すものと考えられており、同じく?から分かれた夫余・東穢や高句麗とは同系とされている。

辰韓(しんかん、BC2世紀 - 356年)

朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、倭国海に接し、後の新羅と重なる場所にあった地域である。その境は、南にある弁韓と接しており、入り組んでいた。もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。 そのうちの斯蘆が後の新羅になった。

辰韓人は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人とは言語が異なっていたが、弁韓人とは互いに雑居し、風俗や言語は似通っていたという。『後漢書』弁辰伝によれば辰韓とは城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていたという。

『三国史記』と『三国遺事』によると、中国の王室の娘娑蘇が海を渡って辰韓に渡来して、新羅の初代王赫居世居西干と王后閼英を生んだとする。

辰韓と古代中国人との関係

後漢書』巻85辰韓伝、『三国志』魏書巻30辰韓伝、『晋書』巻97辰韓伝、『北史』巻94新羅伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。そのため、その地の言葉には秦語(陝西方言。長安に都があった頃の標準語で、この亡民が秦代?前漢代に渡来したことを物語る)が混じり、秦韓とも書いた。秦人は王にはならず、辰韓は常に馬韓人を主(あるじ)として用いており、これは代々相承(親から子へ受け継がれる)のものであった。そのため自立せず、辰韓人は明らかに流入し移って来た人であるため馬韓が全てを制していたと『晋書』は記している。

後漢書』巻85辰韓伝

耆老自言秦之亡人,避苦役,適韓國,馬韓割東界地與之。其名國為邦,弓?弧,賊為寇,行酒為行觴,相呼為徒,有似秦語,故或名之為秦韓。

〈辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。〉

『三国志』魏書巻30辰韓伝

辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。

〈辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している〉。

晋書』巻97辰韓伝

辰韓在馬韓之東,自言秦之亡人避役入韓,韓割東界以居之,立城柵,言語有類秦人,由是或謂之爲秦韓。

〈辰韓は馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって来た秦の逃亡者で、韓が東界の地を割譲したので、ここに居住したのだと自称している。城柵を立て、言語は秦人に類似しているため、あるいはこれを秦韓とも言う。〉
弁韓(べんかん)

BC2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三韓の一つ。弁辰とも言う。

領域

馬韓の東、辰韓の南、倭国海に接し、後の任那・加羅と重なる場所にあった地域である。その境は、辰韓と接しており、入り組んでいた。

のち、金官国(駕洛国)がこの地域の盟主となり、それぞれの国家の連合をつくった。

社会・風俗

『三国志』魏書弁辰伝によると、辰韓と弁辰(弁韓)は、風俗や言語が似通っていたという。土地は肥沃で、五穀や稲の栽培に適していた。蚕を飼い、?布を作った。大鳥の羽根を用いて死者を送るがそれは、死者を天空に飛揚させるという意味であった。鉄の産地であり、韓、?、倭などが採掘していた。市場での売買では鉄が交換されており、それは中国での金銭使用のようであった。

また倭人とも習俗が似ており、男女とも入れ墨をしていたとある。武器は馬韓と同じであった。礼儀がよく、道ですれ違うと、すすんで相手に道を譲った。

BC1世紀中頃 朝鮮 漢の玄菟郡・高句麗県に付属していた支配地域は出費が嵩むため放棄され始め、替わって?貊系に属する?族の夫余や貊族の高句麗などを冊封する間接支配へ切り替えられた。高句麗を形成した?貊系民族とは、中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主とし、その他に狩猟・牧畜を生業としていた民族とみられる。
漢書』地理志
漢書』(前漢書ともいう)の地理志に、

「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」

然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。

楽浪郡は、前漢(BC202年-8年)の武帝がBC108年に衛氏朝鮮の故地に設置した漢四郡の一つである。その役所は、今日の北朝鮮の平壌付近にあった。漢四郡とは、真番郡・玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡をいう。中国の史書で倭人の国のことをはじめて書いたのがこの『漢書』地理志である。楽浪の海を越えた所に百余国に分かれた倭人の国があった。中国人の目には、「国」として映っていた。弥生中期の後半(BC1世紀頃)に当たっている。 班固が後漢の初め頃に編纂した。
BC37年 朝鮮
高句麗 『魏書』と『三国史記』によれば、高句麗はBC37年に夫余の王族である朱蒙(チュモン)により建てられたという。
3年 朝鮮
高句麗 第2代の瑠璃明王が隣国に在った夫余の兵を避けるため鴨緑江岸の丸都城(丸都山城、尉那巌城。現在の中国吉林省集安市近郊。かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城へ遷都したと伝えられる。[
32年 朝鮮
高句麗 卒本は現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)で、都城の卒本城は五女山山城に比定されている。後漢書高句麗伝によると32年に高句麗は後漢の光武帝に朝貢した際に、光武帝より高句麗王に冊封された。
32年 朝鮮
高句麗 光武帝は高句驪侯を高句麗王に昇格させ、?貊は夫余国と高句麗国の二つの王国をもつことになった。?貊(江原道)と沃沮(咸鏡道)は各地に首長が並立し統一国家は作らなかった。夷狄(?貊・沃沮・高句麗)の間で争いが続き、不耐以外の侯国は滅びたが、不耐の?侯だけは(晋の官吏としての)功曹や主簿などの官員を置き、今(晋代)も続いている。この不耐侯国の官吏はすべて?人(東?人)が務めた。沃沮の村落の渠帥は、皆が古の県国制に則り三老を自称していた。
後漢書』 倭人の条
57年 中国
倭国 倭奴国が金印を授与される。
107年 中国
倭国 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。
146-189年 中国
倭国 桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。

2世紀
から
3世紀 朝鮮
駕洛国 2世紀から3世紀、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。弁韓地域の中で一番優勢な勢力は金海市付近の駕洛国(金官伽耶)であった。金官伽耶は、自身を盟主として前期伽耶連盟を形成し、対外的に周辺地域と交易を行い、斯盧(新羅)を中心とする辰韓と勢力を争った。

4世紀初に至り高句麗は楽浪郡・帯方郡を消滅させて新羅にまで勢力を及ぼすようになった。
3世紀初 朝鮮
高句麗 その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島の城でよく見られる。 国内城は最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。 高句麗は次第に四方に勢力を伸ばし特に東南方面へ拡張したが、第8代の伯固(新大王)の時代には遼東へも数度寇掠を働いている。しかし、それにより遼東で割拠していた公孫氏の不興を買い侵攻を招くことになる。
189年 朝鮮
帯方郡 後漢の末、中平6年(189年)に中国東北部の遼東太守となった公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた
197年 朝鮮
高句麗 第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。
204年 朝鮮
帯方郡 公孫康は、建安9年(204年)楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南を割くとともに南方の土着勢力韓・?族を討ち、併せて帯方郡として「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」という朝鮮半島南半の統治体制を築く。
206年 中国 後漢,公孫康が帯方郡設置
219年 朝鮮
高句麗 高句麗の政情不安に付け込んだ遼東太守の公孫康が高句麗へ侵攻し、高句麗は敗退して村々が焼かれたほか、伯固の長子発岐、涓奴部ほか各将が下戸3万余人を引き連れ公孫氏へ降った。

高句麗は以前から魏に朝貢を行って臣属しており、司馬懿による公孫氏の平定にも兵数千人を遣わしていたが、魏が公孫氏を平定して国境を接する。
228年 朝鮮
帯方郡 公孫康の子の公孫淵は叔父・恭の位を奪い取り、魏の曹叡(明帝)からの承認も取りつけて揚烈将軍・遼東太守に任ぜられる。公孫淵は、祖父以上に自立志向が強く、魏朝の仇敵である呉の孫権との同盟を画策し。
237年 朝鮮
帯方郡 最終的には、魏から受けた大司馬・楽浪公の地位を不足とし、景初元年(237年)反旗を翻して独立を宣言。遼東の襄平城で燕王を自称するにいたる。帯方郡も楽浪郡もそのまま燕に属した。
238年 朝鮮
帯方郡 魏の太尉・司馬懿の率いる四万の兵によって襄平城を囲まれ、長期の兵糧攻めにあって公孫淵とその子・修は滅びる。
238年 朝鮮
帯方郡 襄平城の攻城戦の最中であろうか、魏は劉昕と鮮于嗣をそれぞれ帯方太守、楽浪太守に任じ、両者を密かに海路で、山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣。帯方郡と楽浪郡の2郡を掌握させた。帯方郡はこれにより魏の直轄地となる。太守・劉昕は、周辺の東?・韓族の首長に邑君あるいは邑長の印綬を賜与し、魏との冊封関係を改めて結び直した。
242年 朝鮮
高句麗 西安平で寇掠を働き魏の将軍?丘倹による侵攻を招いた。
244年 朝鮮
高句麗 西安平で寇掠を働き魏の将軍?丘倹による侵攻を招いた。 1回目の侵攻が行われ、東川王(位宮)は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。?は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属せず、翌245年に再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃租へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東?も高句麗を離れ魏に服属した。東川王が魏軍が引き上げた後に築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名であり、後の平壌城とは別のものである。
245年 朝鮮
高句麗 楽浪太守の劉茂と帯方太守の弓遵は、領内の東?が後漢末から高句麗に従属していたため軍を起こして討ち、不耐侯らは配下の邑落を挙げて降伏した。
247年 朝鮮
高句麗 魏の宮廷へ朝貢に詣でたため、詔を下し改めて不耐?王の位が授けられた。?王は一般の住民と雑居していて、季節ごとに郡の役所へ朝謁する。楽浪と帯方の二郡に軍征や特別の徴税があるときには、?人(東?)にも税や夫役が割り当てられ普通の住民のように待遇される。
260年 朝鮮 百済(古爾王),十六官等と公服制定
266年 倭国
中国 倭の女王、壹與、晋に遣使。

312年 朝鮮
高句麗 その後も遼東半島への進出を目指し、西晋八王の乱五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を占拠し、この地にいた漢人を登用することで技術的、制度的な発展も遂げた。しかし、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容?に都を落され、臣従した。
313年 朝鮮
高句麗 高句麗,楽浪郡滅亡させる
314年 朝鮮
高句麗 高句麗,帯方郡を亡ぼす(中国の郡県支配終わる)
346年 朝鮮
百済 百済,近肖古王即位
355年 朝鮮
高句麗 前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封されている。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372年には僧侶・仏典・仏像などが伝わった。この間、371年には百済の攻撃に王が戦死する危機に直面する。
356年 朝鮮
新羅 新羅,奈勿王即位
371年 朝鮮 近肖古王,高句麗の平壌城を攻撃.故国原王戦死
372年 朝鮮 高句麗,仏教伝来,太学設置.漢学を教える
百済,東晋に使節を送る
384年 朝鮮
百済 百済,仏教伝来(東晋の僧・摩羅難陀).中央集権化の手段として公認
391年 朝鮮
高句麗 高句麗,広開土王即位
391年 朝鮮
高句麗 19代好太王は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王を臣従させた。
396年 朝鮮
高句麗 高句麗,百済に侵入
4世紀末 朝鮮
倭国 倭が朝鮮半島へ進出を始め、391年に倭が百済□□新羅を破り臣民とした。393年に倭が新羅の都を包囲したのをはじめ、たびたび倭が新羅に攻め込む様子が記録されている。

三国時代 (朝鮮半島)4世紀ころから7世紀ころまでを指す
220年の後漢の滅亡が、三国の発展を許した。三国は皆同じ文化を共有していた。1世紀から儒教が朝鮮半島の上流階級に広がった。後に儒教は仏教に入れ替わった。

三国のうちで最大であった高句麗は、鴨緑江沿いの国内城とその山城である丸都城の二つの並存された都をもっていた。建国の始めには高句麗は漢との国境沿いにあり、ゆっくりと満州の広大な土地を征服していき、最後には313年に楽浪郡・玄菟郡を滅ぼし領域に入れた。

中国文化の影響は、372年に仏教が国教とされるまで残った。 4世紀には百済が栄え、半島の南半分を支配した。斯盧国は503年新羅と国号を改めた。4世紀の始めに、新羅は国境を接していた伽耶を吸収したことが知られている。新羅の都は徐羅伐(今日の慶州)であった。仏教は528年新羅の国教となった。

新羅は唐と結んで(唐・新羅の同盟)、660年に百済を668年に高句麗を滅ぼした。これによって三国時代は終わり、統一された新羅の時代がはじまった。滅ぼされた百済の王族は倭国にのがれ、百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。百済王氏からは陸奥国で金を発見した百済王敬福などが出た。 この時代を記述した歴史書に高麗時代の『三国史記』および『三国遺事』がある。









4世紀中頃 朝鮮
倭国
百済 百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』「慕容載記」)。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。国際舞台への登場は、360年代の伽耶南部・倭との通交と372年の東晋への遣使である。
369年 朝鮮
倭国
百済 倭国へ七支刀を献上
371年 朝鮮
倭国
百済 近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともある。
しかし、その後は高句麗の好太王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。この間の事情は好太王碑文に記されている
倭国と高句麗の戦争(詳細は「広開土王碑」および「三韓征伐」を参照)
391年 朝鮮
倭国 倭が百済と新羅を破り臣民とする。
393年 朝鮮
倭国 倭が新羅の王都を包囲する
397年 朝鮮
倭国 百済が倭国に阿シン王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ。
399年 朝鮮
倭国 いったん高句麗に従属した百済が、高句麗を裏切り倭と通じる。
400年 朝鮮
倭国 倭が新羅の王都を占領していた。高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那・加羅に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した。
402年 朝鮮
倭国 新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。
404年 朝鮮
倭国 高句麗領帯方界にまで倭が攻め込んでいる。
405年 朝鮮
倭国 百済,阿直岐・博士王仁など日本に渡り漢学伝える
日本書紀神功皇后49年3月条

神功皇后が新羅へ親征し服属させた三韓征伐の記事に、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を派遣し、
比自ホ(火+保)(ひじほ)、 南加羅(ありしひのから)、 喙国(とくのくに)、 安羅(あら)、 多羅(たら)、 卓淳(たくじゅん)、 加羅(から)
の七カ国を平定した。さら西方に軍を進めて、
比利(ひり)、 辟中(へちゅう)、 布弥支(ほむき)、 半古(はんこ)
の四つの邑を降伏させた記事がある。
399年 朝鮮
倭国 百済はいったん高句麗に従属したが、397年、阿シン王の王子腆支を人質として倭に送って国交を結び、399年に倭に服属した。
400年 朝鮮
倭国 倭の攻撃を受けた新羅は高句麗に救援を求めると、好太王は新羅救援軍の派遣を決定、400年に高句麗軍が新羅へ軍を進めると新羅の都にいた倭軍は任那・加羅へ退き、高句麗軍はこれを追撃した。これにより新羅は朝貢国となった。
402年 朝鮮
倭国 新羅もまた倭に奈忽王の子未斯欣を人質に送って属国となった。
404年 朝鮮
倭国 高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。
405年 朝鮮
倭国 倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位した。
414年 朝鮮
高句麗 広開土王(好太王)碑建立
427年 朝鮮
高句麗 高句麗長寿王,国内城から平壌へ遷都
433年 朝鮮 新羅・百済同盟成立
5世紀 朝鮮
倭国 長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王に戴く北燕と親善関係を結んだ。この時代には領域を南方にも拡げ、平壌城に遷都した。
475年 朝鮮
倭国 遷都直後は大城山城を拠点としたが、後に平壌城に居城を構えた。長寿王は西へ進出して遼河以東を勢力下に収め、475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害、百済は南に遷都した。この時期は満洲南部、遼東半島、朝鮮半島の大部分を支配するに至った。
475年 朝鮮
百済 王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。
5世紀末 朝鮮
倭国 5世紀末になると百済と新羅が強くなり、百済と新羅の連合により南部の領土を奪われている。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や突厥などとも手を結ぶ戦略を採った。
500年頃 朝鮮
倭国
百済 東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。
500年以降 朝鮮
新羅 智証麻立干・法興王らが国制の整備によって国力を高め、6世紀中頃には真興王による急激な領域拡大が可能となり高句麗南部へ領土を拡大させた。
502年 朝鮮
新羅 新羅,牛による耕田を始めて実施
503年 朝鮮
新羅 新羅,国号と王号を定める
512年 百済
倭国 伽耶(任那)4県を百済に譲渡
520年 朝鮮
新羅 新羅,律令領布,百官の公服制定
527年 朝鮮
新羅 新羅,仏教を公認
527年 倭国 筑紫国国造、磐井の乱
532年 朝鮮
新羅 新羅,金海の金官伽耶を併合
534年 倭国 武蔵国造の乱。
536年 朝鮮
新羅 新羅,年号を使用
538年 朝鮮
百済 百済の聖王は538年都を熊津から泗?(現・忠清南道扶余郡)に遷した。この南遷は百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる。
聖王によって泗?に都が遷されると同時に、国号も南扶余と改められたが、この国号が国際的に定着することはなかった。この頃、かつての百済の都だった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。
百済の聖明王,倭に仏像・経論を送る
540年 倭国
朝鮮 伽耶(任那)問題で大伴金村失脚
545年 朝鮮
新羅 新羅,「国史」編纂
552年 朝鮮
百済 百済聖王30年,達率恕利斯致契が日本に仏教伝える
554年 倭国
百済 聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。
562年 新羅
倭国
百済 新羅は百済・倭国の連合軍を退け、562年には加羅地方の大加羅を滅ぼして占領し、文字通りの三国時代となった。
新羅人(帰化人)の来航。
564年 新羅
中国 新羅は中国に対しては564年に北斉に朝貢して翌年に冊封を受ける。
568年 新羅
中国 南朝の陳にも朝貢した。このように中国大陸の南北王朝との関係を深めたことは、半島北部の高句麗に大きな脅威を与えた。隋、唐に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。
587年 倭国 丁未の変により蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす。
593年 倭国 四天王寺造立。
595年 朝鮮
高句麗 高句麗の僧慧慈日本へ,聖徳太子の仏教の師となる
611年 朝鮮
倭国 中国で北朝系の隋が陳を滅ぼして全土を平定すると、高句麗は隋に対抗するため突厥と結ぶ。このため隋から4次にわたる侵攻を受けたが、乙支文徳の活躍もあってこれらすべて撃退した。
612年 中国
高句麗 薩水大捷.高句麗の乙支文徳将軍,薩水で隋軍を撃破
613年 百済
倭国 百済人味摩之,伎楽舞倭国に伝える
618年 中国 煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥ったとき、煬帝のいとこであった李淵は617年に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝を太上皇帝に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌618年に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、唐を建国した。首都は長安に置かれた。
624年 高句麗 高句麗へ,唐より道教伝来
626年 中国 建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼしていった。勲功を立てた李世民は、626年にクーデターを起こすと高祖の長男で皇太子の李建成を殺害し実権を握った(玄武門の変)。高祖はその後退位して、李世民が第2代の皇帝(太宗)となる。
642年 高句麗 高句麗,淵蓋蘇文が宝蔵王を擁し権力掌握
642年 高句麗
百済 麗済同盟。高句麗と百済が新羅を攻撃するために結んだ軍事同盟で、百済が滅亡した660年まで続いた。
643年 新羅 新羅は孤立することとなった。
善徳女王が唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた。新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、上大等の?曇が女王の廃位を求めて反乱を起こした。しかし、金春秋(後の武烈王)と金?信により乱は治められた。
644年
から
668年 朝鮮
倭国 隋が滅びて唐が興ると、今度は唐が高句麗遠征を行った。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍事政権によって唐の進出に対抗した。高句麗は緒戦で善戦し、唐の太宗が親征した第1次侵攻を撃退、百済と結んで新羅を攻めた。新羅の宗主国である唐はこれを受けて新羅を全面支援した。 唐による高句麗への侵攻は、644年から668年まで計3次にわたって行われた。唐軍は新羅軍と連合して大軍で高句麗を腹背から攻めた。これを迎え撃つ高句麗軍は当初は善戦したものの、後には内紛と離反で弱体化、王都平壌が攻略され、ここに高句麗は滅亡するに至った。
647年 朝鮮
倭国 新羅,世界最古の天文台,瞻星台建造
新羅王子金春秋(後の武烈王)来日
650年 新羅 金春秋は中国の律令制度を取り入れる改革を始め、650年にはそれまで新羅独自で用いていた年号(太和)を廃止し、唐の年号を用いるなどして、唐との連携を強めていった。
654年 新羅 3月に先代の真徳女王が死去し、群臣に推戴されて王位に就いた。在位中に百済を滅ぼし、三国統一の基盤を為したことから新羅の太宗の廟号を贈られ、太宗武烈王とも称せられる。韓国では古代の君主の廟号を受けた最初の君主でもある。
655年 新羅 高句麗・靺鞨・百済の連合軍(麗済同盟)が攻め入って北部辺境の33城が奪われたため、唐に使者を送って救援を求めた。これに応えて唐は営州都督程名振、右衛中太将蘇定方らを遣わして高句麗を攻撃している。
659年 新羅 百済が国境を侵して攻め込んできたため、唐に出兵を求める使者を派遣した。
660年 朝鮮
倭国
百済 唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済人は新羅および渤海や靺鞨へ逃げ、百済は滅亡した。

唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、唐軍の主力が帰国すると鬼室福信や黒歯常之、僧道?(どうちん)などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子・扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、斉明天皇は筑紫国朝倉橘広庭宮に遷った。
661年 新羅 武烈王は唐と連合して高句麗を滅ぼそうとした(唐の高句麗出兵)が、軍を北上させている途上で病に倒れ、661年6月に陣中で病死した。
663年 朝鮮
倭国
百済 国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するという内紛が起きた。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。

これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させた。豊璋は密かに高句麗に逃れた。

しかし、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになる。
高句麗滅亡後

北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。剣牟岑など高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。旧領に残った者は、後に勃興した女真の金に取り込まれていき、歴史から姿を消した。

一部の遺民は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内で684年まで命脈を保った。

また、遺民の一部には倭へ逃れた者もいる。例えば『続日本紀』によれば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちを移して設置したとされており。高麗神社・高麗川・日高市高麗本郷などの名にその名残を留めている。
唐による半島支配計画

唐は高句麗の都があった平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指し、百済の故地に熊津都督府をはじめとする5つの都督府を設置して熊津都督に全体の統轄を命じた。664年の劉仁軌の上表を受けて義慈王の太子だった扶余隆を熊津都督に任じた。

翌年の665年8月には就利山において扶余隆と新羅の文武王が劉仁起の立会の元に熊津都督府支配地域(旧百済)と新羅の国境画定の会盟を行わせた。

後に扶余隆は百済の歴代国王が唐から与えられていた「帯方郡王」に任じられ、子孫に称号が継承されている。これは百済の亡国の太子が唐によって新羅王と同格と扱われたことを示すとともに、高句麗最後の王・宝蔵王の遼東都督任命と対比することができる。そのため、扶余隆の熊津都督任命が単に百済遺民の慰撫を目的としているだけではなく、百済や高句麗(安東都護府・遼東郡王)を滅亡前の冊封国ではなく羈縻州として組み込み、さらに残された新羅(鶏林州都督府・楽浪郡王)を羈縻体制に組み入れ「朝鮮半島全域の中華帝国への編入」を視野に入れて居り、後年実行に移されて居る。
新羅と唐の対立

唐の支配に反発した新羅は反乱を起こすと共に百済・高句麗の遺民を蜂起させ、日本とも友好関係を結んだ。

西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都長安までもが危険に曝される状態となった唐は、物理的に遥かなる遠方に位置する上に、経営が赤字だった朝鮮半島を放棄せざるを得なくなり、これで百済の故地は新羅の支配下に入った。

新羅は百済故地に残留した百済の支配層を新羅の貴族階層へ取りこんでいくことで新羅支配の実効性を確保していった。ただし、前述のように扶余隆の子孫への帯方郡王任命は継続されており、唐は表向きは百済への支配権を主張する体裁を採っていた。