中山家勝

中山家勝

(加治菊房丸)

父:中山季仲(加治季仲)

子:中山家範

  足利の中期以降、関東大いに乱れるに当って、中山季仲の子家勝は、扇谷
 上杉氏の為に川越に出て加勢した。ついでその子家範が出て小田原北条氏の将
 となるに及んで中山氏は再び栄え、戦史の表面にあらわれた。
 武人としての家勝は天文十五年河越の戦に参加している。これより先、一族加治
 藤兵衛頼胤が扇谷上杉氏の招きに応じて河越築城に参加している。
 家勝も早くから上杉氏に心を寄せていたものの如く、河越の戦は両上杉氏の守る
 所を北条氏康が俄かに夜襲して一挙に城を乗取ったもので、大将上杉朝定以下
 死傷甚だ多かった。時に家勝は城方崩壊して身を以て免れたのである。
 家勝は単なる武弁ではなかった。一面には信仰心が厚く、禅道に深かった。その頃
 永田村万福寺に来り住んでいた禅僧釜屋文達(ふおくぶんたつ)と交際し、今の
 天覧山麓にささやかな庵を結んで茶を啜りながら禅話に日の傾くを忘れるという
 熱心さであった。
 是れ能仁寺の創建される基で文達を開山とする同寺は家勝の子家範に至って完成
 されたのである。
 諏訪八幡社 永正十三年(1516)加治菊房丸が大檀那となって平重清が之を助け
 創祀する處、後加治吉範に依って再興された。吉範は家範である處から菊房丸は
 家勝の幼名と推定される。
 家勝に関する伝説は非常に多い。天文十五年、河越の戦に乱戦となり中山に帰ろう
 とした時、入間川の水深くて渉(わた)りかねていた。この時一老人が葦毛の馬を牽い
 て家勝を助け乗せ難なく帰ることが出来た。家勝、家近く来て老人の名を聞くに「我は
 鎮守十二社の中である。」とのみ云うや人馬共に姿を消した。
 家勝、憮然として思うに是れ我が日頃尊信する吾妻天神であろうと。
 以後吾妻天神の事を導きの天神と称した。
 また雷に関する伝説もある。勘解由家勝、ある日の出陣に際して俄かに雷鳴はためき、
 恐ろしい暗澹相(あんたんそう)を呈した。人々戸を閉じ生ける姿も無かった時、
 家勝槍をしごいて庭に降り立ち、雲を睨んで槍を突き出せば、雷鳴はたと止んだが、
 槍先には夥しい血痕が附着していたという。
 家勝は天正元年(1573)七月二十五日死す。年五十九。能仁寺殿大年全椿大居士
 という。能仁寺西方約百メートル畠中の地点がその火葬場と称され、
 今、次の碑を立つ。
 全椿大居士火葬場 天正元癸酉年七月廿五日
 墓は能仁寺西墓に存する。
 黒田家の高祖家勝公は高麗氏と婚姻関係ありしなりと」久留里郷友会報で舊藩士の
 後孫根村正位氏は述べられている。