中臣氏・大中臣氏考(含:卜部氏)

中臣氏・大中臣氏考(含:卜部氏)

	

1)はじめに
 代表的古代豪族の一つである「中臣(なかとみ)氏」は、「天児屋根(あめのこやね)命」を祖神とする「神別氏族」である。元々は「卜部(占部)姓」で途中から中臣姓になったのだとも言われている。記紀の神話の中で天児屋根命の活躍記事が残されている。天の岩屋戸の前で祝詞を奏上する神 、また天孫降臨に際し、五伴緒(いつとものお)の一人として布刀玉命・天宇受売命らと天降ったと記されている神である。その神話の中に中臣連の遠祖「天児屋根命」あるいは「中臣神」とも記されている。天津神と皇孫との間をとりもつ「仲執り持つ」神祇奉斎の一族とされた。中執臣とも言われたらしい。名前の由来については諸説あるようなので論考のなかでさらに触れたい。中臣氏の中で歴史上最も有名な人物は、「中臣鎌足」である。藤原氏の元祖である。中臣氏藤原氏に改姓したのではない。中臣氏の中でも鎌足の子供「不比等」の流れのみが「藤原氏」を称することになったのである。この件については別稿で述べることにする。本稿では藤原氏系を除く中臣氏及び後にこの一族の多くが「大中臣姓」を賜姓され、永続するのでこれも一緒に述べることにする。また中臣氏を述べる時「卜部氏」の陰が付きまとうのでこれも併せ記述することにする。但しこれについては、詳述はしないこととする。
さて、戦後教育を受けた筆者らは中臣氏と言えば「鎌足」以外どんな人物がいたのか殆ど教えられていない。それ程歴史の表舞台ではマイナーな氏族であったように見える。しかし、実態は蘇我氏や大伴・物部氏に比較すると見劣りはするかもしれないが、豪族中の豪族であったのである。
ちなみに、この一族は、律令制度の2官八省の内で格式で言えば太政官より上位にあったとされる神祇官のトップを常に握っていたのである。これは神社関係では古来日本一の勢力を有していたということである。
伊勢神宮の祭主家・大宮司、鹿島神宮大宮司、香取神宮大宮司、枚岡神社社家、気比神社宮司、平野神社・梅宮神社・吉田神社宮司家、春日大社社家、松尾大社社家など全国にわたる現在も有名かつ繁栄している神社の多くに中臣氏の累孫が営々と関係してきたのである。その意味では日本の神様を祀る総元締め的存在だったのである。
文化面での有名人は、鎌倉時代に京都「吉田神社」の関係者であった、「徒然草」の作者「兼好法師」がいる。
中臣氏・大中臣氏の一部及び卜部氏の一部は、公家として奈良・京都で藤原氏を強く支えてきた氏族でもある。その中でも最も有名なのは大中臣氏の嫡流である「藤波家」である。また一方伊勢神宮内宮の禰宜職を世襲した「荒木田氏」も中臣氏と同じ流れの神別氏族として有名である。外宮の禰宜職「度会氏」も有名であるが、こちらは中臣氏とは別流の神別氏族である。
・禊祓え神事。
 
2)中臣氏人物列伝
中臣氏は神代からの記事が他の氏族に比し比較的多く残されているので、色々と参考になると思われるので、神代からの人物列伝をしてみたい。嫡流は中臣意美麿大中臣清麿ー今麿流とする。
 
天御中主尊(あめのみなかぬし)
①父:なし 母:なし
②別名:天御中主神天御中主命
③記紀の神様の中の最初の神。妻も子供もない。
 
天八下尊(あめのやさがち)
①父:なし 母:なし
②第1世独天神  妻子供なし。先代旧事本紀
 
天三下尊(あめのみさがち)
①父:なし 母:なし
②第2世独天神 妻子供なし。別名:天三降尊?
 
天合尊(あまあい)
①父:なし 母:なし
②第3世独天神 妻子供なし。 別名:天鏡尊?
 
天八百日尊(あめのやおひ)
①父:なし 母:なし
②第4世独天神
 
天八十万魂(あめのやそよろだま)
①父:なし 母:なし
②第5世独天神 別名:百日萬魂?
 
津速産霊神(つはやむすび)
①父:なし 母:なし
②別名:津速魂 兄:高皇産霊神(高天原)弟:神皇産霊神(出雲)
③伊弉諾尊・伊弉冉尊と同時代の神?造化の神
 
市千魂(いちたま)
①父:津速産霊 母:不明
②子供:興澄魂
③八坂神社祭神。
 
興澄魂(ことむすび)
①父:市千魂 母:不明
②子供:天児屋根命 別名:興澄魂霊神・興台産霊子・居々登魂命
妻:許登能麻遅姫(天背男命女)異説:浅加姫(豊受大神女・経津主命妹・武甕槌命姪)
 
 
2-1)天児屋根命(あめのこやね)
①父:興澄魂  母:許登能麻遅姫 異説:浅加姫
②妻:天万拷幡比売(天背男命女)異説:武甕槌命女
子供:天押雲命 別名:八意志兼命、天児屋命、天小屋根命、天之子八根命
③中臣連祖。大鳥連祖?
④記紀神代記事・天照大神が天岩戸に隠れた時岩戸の前で祝詞を奏上して祭祀を行った。
祝詞の祖神、言霊の神。
・天孫降臨に際して、五伴緒(いつとものお)の一人として天下った。
⑤枚岡神社・春日大社・吉田神社、大原野神社などの祭神。
⑥記紀には出自は記されていない。上記出自系譜の基は先代旧事本紀などに記されているものを基にしたもので、尊卑分脈などは一般的に上記のようになっている。
 
2-2)天押雲(あめのおしくも)
①父:天児屋根命 母:天万拷幡比売
②子供:天種子命  別名:天押雲根命?
 
2-3)天種子(あめのたね)
①父:天押雲 母:不明
②子供:宇佐津臣 別名:天多彌伎命 妻:宇佐津姫(宇佐津彦女又は妹)
③神武東征に従う。この時筑紫国宇佐にいたり、菟狭津媛を妻に賜った。(紀)
参考「菟狭津彦」菟狭(豊後国宇佐郡)国造祖。神武東征時菟狭津媛とともに饗を奉った。
高魂尊の孫(国造本紀)
 
2-4)宇佐津臣(うさつおみ)
①父:天種子 母:宇佐津姫
②子供:大御気津臣
 
2-5)大御気津臣(みけつおみ)
①父:宇佐津臣 母:不明
②子供:伊香津臣・建御合・大期弊美(恩地神主家)・水臣
 
2-6)伊香津臣(いかつおみ)
①父:大御気津臣 母:不明
②子供:梨津臣 ・臣知人命 別名:伊賀津臣命
③近江風土記に記事あり。
中臣氏は物部伊香色雄の娘婿となり伊香の地を得たとの説あり。
 
臣知人
①父:伊香津臣 母:不明
②子供:角弖
③伊香氏の元祖。伊香氏は、近江国伊香郡伊香郷発祥の豪族。672年に伊香姓を賜姓。
848年伊香豊厚の時、伊香宿禰姓を賜姓。伊香具神社社家。余呉湖の天女・羽衣伝説。
④伊香具神社の祭神に天種子命が祀られている。
 
2-7)梨津臣(なしづおみ)
①父:伊香津臣 母:不明 天女?
②子供:神聞勝・建稲穂・建御世狭名
・兄勝(武藏卜部氏・伊豆卜部氏)弟勝(常陸卜部氏)   別名:梨跡臣・梨迹臣命
③近江風土記。
 
2-8)神聞勝(かむききかつ)
①父:梨津臣 母:不明
②子供:久志宇賀主
③常陸風土記に「10崇神天皇の時、鹿島に留まり祭祀に奉仕云々」の記事あり。
鹿島中臣氏の祖となった。
 
2-9)久志宇賀主(くすうがぬし)
①父:神聞勝 母:不明
②子供:国摩大鹿島
③常陸風土記
 
2-10)国摩大鹿島(くにうずおおかしま)
①父:久志宇賀主 母:不明
②子供:臣狭山・大楯(鹿島大宮司・春日社家)・相鹿津臣
③常陸風土記
④11垂仁天皇朝神宮鎮座(伊勢神宮)に際しその祭主に任命された。これより以降その子孫である中臣氏に継承された。(北畠親房「職源抄」)しかし、記紀にはこの記事なし。
倭姫内親王の大神奉祀祭の御道駅使に任じられた。(紀)
⑤記紀記事:垂仁朝に五大夫に任命された。(物部十千根・大伴武日・和邇氏・阿部氏)
 
2-11)臣狭山(おみのさやま)
①父:国摩大鹿島 母:不明
②子供:雷大臣天見通(荒木田氏)   別名:意美佐夜麻
③常陸風土記
④12景行天皇朝常陸国人。
⑤中臣高良比連祖。中臣酒人宿禰祖。
 
天見通ー天布多由岐ー伊己呂比ー大阿礼ー波己利ー荒木田最上ーーー伊勢神宮内宮禰宜家。この一族からは、公卿、国司も輩出された。
天見通」は、垂仁朝倭姫の時に大神宮禰宜に任じられた。
これ以降禰宜職を世襲。(続紀)
俳諧師祖「荒木田守武」国学者「荒木田久老」もこの流れから出た。
 
2-12)雷大臣(いかつおおみ)
①父:臣狭山 母:不明
②子供:大小橋真根子(壱岐卜部氏・津島氏)
・日本大臣(栗原連祖)・弟子 別名:跨耳命・烏賊津使主 
妻:百済女性? 武内宿禰妹?
③卜部姓始祖?亀卜に優れ卜部姓を授けられたとも言われている。
④記紀記事:14仲哀天皇・神功皇后時代四大夫(大三輪氏・物部氏・大伴氏)
の一人となる。神功皇后の審神者。
⑤中臣烏賊津使主は、紀記事に19允恭天皇舎人として、衣通郎媛の話に登場。これとは同名異人か?(時代は合わない)
真根子ー御見足尼ー太田彦ー酒人ー神奴子ー卜部忍見ーーー壱岐系卜部氏
松尾大社社家(月読社)乙等。
 
真根子
①父:雷大臣 母:武内宿禰妹?
②子供:御見足尼・神八子宿禰・油支子直
③神功皇后の時代に父に従い百済に渡り帰りに壱岐島に留まり占部姓を名乗った。壱岐氏とも名乗った、とされる。
 
・忍見(おしみ)
①父:神奴子 母:紀大磐女
②子供:太富
③23顕宗天皇3年(487年)紀大磐が三韓経営失敗。この後忍見命は、壱岐島から山背国葛野郡歌荒田(京都嵐山付近)に移り住んだ。この時壱岐氏の神である月読神を壱岐島から勧請して祀ったとされている。(紀)これが京卜部氏の祖。初めは壱岐氏後に松室氏を名乗った。
④この時期が秦氏渡来の時期と一致しており、月読神・壱岐氏・秦氏・松尾神社が関連づけて解釈するべきとの説あり。
 
2-13)大小橋(おおこはし)
①父:雷大臣 母:不明
②子供:阿麻毘舎卿
③16仁徳天皇朝の人?
 
2-14)阿麻毘舎卿(あまひさ)
①父:大小橋 母:不明
②子供:阿毘古  阿毘古との間に「音穂命」なる人物がいる系譜もあるが一般的でない。
③21雄略天皇・19允恭天皇朝の人?
 
2-15)阿毘古
①父:阿麻毘舎 母:不明
②子供:真人
③中臣連始祖とする説あり。
 
2-16)真人
①父:阿毘古  母:不明
②子供:鎌子
③大連?
 
2-17)中臣鎌子()
①父:真人 母:不明
②子供:黒田・勝海、 別名:賀麻・鎌
③中臣姓初代説。
④大夫
⑤欽明13年記事:百済聖明王より仏像献上したとき、天皇よりこれを礼拝するべきか否かについて諮問あり。蘇我稲目は礼拝主張。物部守屋と鎌子は、反対。その後疫病発生。
難波の堀江に仏像を捨てた。
⑥尊卑分脈には鎌子あるが、中臣系図にはない。
 
中臣勝海(?-587)
①父:鎌子(真人説あり) 母:不明
②子供:若子
③585年30敏達天皇朝に国内に疫病が蔓延した。この原因は蘇我馬子らが仏教を日本に持ち込んだことにある、として排仏派の物部守屋らと組んで天皇から排仏の詔勅を得た。
その後崇仏派の巻き返しが成功し、587年31用明天皇崩御後の皇位継承問題で、彦人大兄皇子の擁立を計るが失敗、迹見首赤梼らによって殺害された。
④大連? 30 敏達・31用明朝大夫。
⑤尊卑分脈・中臣系図にはいない。
 
2-18)黒田()
①父:鎌子(真人説あり) 母:不明
②妻:塩屋牟漏連都夫羅古娘 子供:常磐・阿礼波
③大連?26継体天皇朝の人。未だ中臣連姓ではなかった。?
 
磐余()
①父:黒田 母:不明
②子供:忍立
③30敏達朝物部守屋、大三輪逆らとともに排仏をした。
 
稗田阿札()
①父:忍立 母:不明
古事記編纂者。40天武天皇舎人。その記憶力は抜群で帝紀・旧辞などの暗誦を命じられ元明天皇の代に詔により太安麿が阿礼の暗誦を筆録して古事記を712年に編纂。
③稗田氏は猿女君の末裔の姓である。何故中臣氏の彼がそうなったのか。
歴史上謎の人物。出自不明。男か女かも不明。実在性も不明とされている。
④売太神社祭神。稗田神社祭神。
 
2-19)常磐()
①父:黒田 母:塩屋牟漏連都夫羅古娘 
②子供:可多能祐  妻:物部尋来津橘首女那古娘(松尾社家系図)
③29欽明天皇朝の人物。中臣氏延喜本系帳では中臣連姓初代となっている。
卜部の姓を改めて中臣姓としたともある。
④大連?
 
2-20)中臣可多能祐(かたのすけ)()
①父:常磐 母:物部尋来津橘首女那古娘
②子供:国子・糠手子・御食子  別名:方子  妻:狭井麿古連女米頭羅古娘
妻:山部歌子連女那爾毛古娘(伊予来目部播磨国司山部小楯孫、万葉歌人山部赤人も一族)
③大連
 
・御食子(?-?)
①父:可多能祐 母:山部歌子連女那爾毛古娘
②妻:大伴智仙媛 子供:鎌足(614-669)・久多垂目  別名:弥気・美気子
長男、一門。
③628年33推古天皇崩御。皇位継承問題発生。蘇我蝦夷側に組みし、田村皇子を推挙。
山背大兄皇子派の境部摩理勢の説得の役目。
④小徳冠前事奏官兼祭官。33推古・34舒明朝に仕えた。伊勢神宮初代祭官(後の祭主)
 
・鎌足(614-669)ーーー省略
久多
垂目
 
島麿()
①父:垂目 母:不明
②子供:人足名代
 
名代(?-745)
①父:島麿 母:不明
②子供:伊賀麿(この流れから春日神社社家)多数。
③遣唐副使。僧玄昉も一緒。従四位下、神祇伯。
 
人足()
45聖武天皇朝の人、従四位下、祭主、神祇伯。
 
糠手子()
①父:可多能祐 母:狭井麿古連女米頭羅古娘
②妻:阿閇神田臣女 3男、子供:金・許米      三門。
③35皇極天皇朝の人
 
許米()
①父:糠手子 母:阿閇神田臣女
②子供:大嶋 安達(大嶋子説もある)別名:渠毎
③653年遣唐使記事に子供「安達」が記載。
 
大嶋(?-693)
①父:許米 母:不明
②子供:馬養
③40天武・41持統朝の人。天武14年頃藤原姓を名乗る。
④681年川島皇子らと帝紀校訂事業に参画。日本書紀編纂の前段階?
690年神祇伯として41持統天皇の即位式で祝詞奏上。
⑤中納言。祭主。神祇伯。
草壁皇子を弔う粟原寺建立。
 
中臣金(?-672)
①父:糠手子  母:化手麻呂古女真依子娘
②子供:
③671年38天智朝右大臣(太政大臣:大友皇子、左大臣:蘇我赤兄、御史大夫:巨勢人、紀大人)37斉明天皇朝も右大臣であった。
④壬申の乱で敗れ、処刑。子供らも流罪。何故彼だけ処刑されたのか不明。この後糠手古系は許米が継承した。
 
2-21)国子()
①父:可多能祐 母:山辺歌子連女
②子供:国足     別名:国     二門。
③33推古朝の将軍。34舒明天皇にも仕えた。前事奏官兼祭官
④623年新羅征討の時、境部雄摩侶とともに大将軍として数万の兵を率いて渡海、新羅は服した。
⑤大連
 
2-22)国足()
①父:国子 母:不明
②子供:意美麿
③7世紀中頃の官人。
④神祇祭祀の任。大錦上・奏官。祭主。
⑤大和国添下郡法光寺(中臣寺)創建。
 
2-23)中臣意美麿(651?-711)
①父:国足 母:不明
②妻:阿伎良<多治比嶋   斗売娘<藤原鎌足 中臣東子    別名:臣麻呂
子供:大中臣清麿・東人・泰麿・広見・安比等・長人、豊足、豊人
③正四位上、中納言兼神祇官。
④当初中臣鎌足の婿養子となり藤原朝臣姓を名乗った。(鎌足の没時、不比等が幼少のため)その後42文武天皇の勅命により不比等の直系だけが藤原朝臣姓を名乗ることになり、698年詔により中臣姓に戻された。
⑤686年大津皇子事件に連座。その後赦免。
⑥699年鋳銭司長官
⑦708年不比等の推薦を得て正四位上中納言。神祇伯。
 
・東人()
①父:意美麿 母:斗売娘
②子供:伊度麿・宅守・宮主 、国守、古麿   清麿の兄。
③733年従四位下。祭主・神祇伯・刑部卿
 
2-24)大中臣清麿(702-788)
①父:大中臣意美麿 母:多治比阿伎良(斗売娘説もある) 
②妻:多治比古奈禰(子姉?) 
子供:宿奈麿、老人、今麿、子老、継麿、諸魚
③七男。大伴家持と従兄弟?
④762年参議、神祇伯。
⑤768年中納言
⑥769年大中臣朝臣を賜姓。 大中臣氏元祖。 大神宮祭主、これ以降この子孫が祭主および大神宮司を世襲することになる。また神祇伯も世襲。(平安中期白川家が神祇伯を世襲することになり、伊勢祭主・神祇大副を世襲)
⑦770年大納言 49光仁天皇からも信任された。
⑧771年右大臣。772年正二位。50桓武天皇即位後781年上表して職を退く。
 
・子老(?-789)
①父:清麿 母:
②次男、子供:安遊麿、弟守。 次男。
③781年参議、正四位下、神祇伯 、宮内卿、祭主。
④延暦3年藤原種継らとともに山背国乙訓郡長岡村を相した。
 
・諸魚(743-797)
①父:清麿 母:多治比子姉
②四男、子供:治摩・智治麿・百子(51平城天皇妃)
③790年参議、正四位上神祇伯。
造長岡宮使。松尾神社・乙訓神社への勅使となった。山背守。
④卜部氏祖とも言われている。
 
智治麿
 
卜部平麿()
①父:智治麿? 母:不明
②子供:豊宗
③亀卜の術に優れていた。卜部姓に戻った。吉田氏の祖。
④伊豆卜部氏出身説あり。
 
淵魚(774-850)
①父:継麿 母:不明
②子供:美濃雄・安子(53淳和天皇妃)
③815-842年伊勢大神宮祭主。(祭主に関する文献上初見)
 
宿奈麿
諸人
豊雄(?-870)
 
2-25)今麿()
①父:大中臣清麿 母:不明
②子供:常磐
③この流れが大中臣嫡流となる。この流れから堂上大中臣氏へと繋がり、藤波家へと繋がる。
④従五位下。
 
常麿
・有本(?-894)
 
・頼基(?-958)
①父:輔道 母:不明
②子供:能宣
③大中臣氏歌人祖。 36歌仙の一人。
④従四位下。神祇大伯。祭主。
 
・能宣(921-991)
①父:頼基 母:不明
②子供:輔親
③歌人、36歌仙の一人。
④正四位下神祇大副、祭主。
⑤951年梨壺の五人に選ばれ、「後撰和歌集」撰集。
 
・輔親(?-1038)
①父:能宣 母:藤原清兼女
②子供:伊勢大輔
③平安中期歌人。
④正三位神祇伯。祭主。
 
・宣理
・輔隆
 
伊勢大輔(?ー1062)
①父:輔親 母:不明
②夫:高階成能、子供:康資王、筑前乳母、兼俊
③歌人。66一条天皇中宮藤原彰子に仕えた。和泉式部、紫式部と親交。
④72白河天皇の傅育。
 
卜部兼方(?-?)
①父:兼文 母:不明
②子供:兼彦
③鎌倉中期の神祇官人。神道家、神祇権大副。平野神社社務。
④平野神社系卜部に伝わる家説をまとめ「釈日本紀」を著し、吉田神道に影響を与えたとされる。
⑤この後平野系卜部氏は衰え吉田系卜部氏が主流となる。吉田家から養子(兼永)を迎えその子孫から藤井氏らの堂上家が出てくる。
 
吉田兼好(1283-1350?)
①父:兼顕  母:不明
②本名:卜部兼好。
③父は吉田神社の神職、平麿流卜部氏5代吉田神社流卜部兼親流5代兼茂庶流兼名の子供。
④後宇多院の北面武士。出家して、兼好を名乗った。
⑤「徒然草」(1330年頃完成?)の作者。
 
吉田兼倶(1435-1511)
①父:吉田兼名 母:不明
②子供:兼致・兼永・宣賢
③吉田神道創始者。唯一神道。密教の加持祈祷の形式を取り入れた。
④神祇大副。吉田神社嫡流。
⑤息子「兼永」を平野神社に養子に出し、吉田神社が平野神社をも配下にしいた形となった。
 
清原宣賢(1475-1550)
①父:吉田兼倶 母:不明
②子供:良雄・等貴・妙佐・宣賢女
③清原宗賢の養子となる。
戦国時代随一の学者。
⑤宣賢娘は12代将軍足利義晴の側室となり続いて三淵晴員の妻となり、間に産まれたのが、山城国勝竜寺城城主となった「細川藤孝(幽斎)」(1543-1610)である。その息子「忠興」の正妻が明智光秀の娘お玉(後の細川ガラシャ)である。
(20古代天皇家概論Ⅱ・舎人親王系図参照)
 
3)中臣氏関係系図
中臣氏・大中臣氏・卜部氏関係は不可分の関係にあるので、一緒にまとめて掲載する。
但し藤原氏は除外する。
中臣氏・大中臣氏概略系図
姓氏類別大観を参考とした筆者創作系図である。
・一般神代系図Ⅰ
尊卑分脈・古代豪族収覧など公知系図組み合わせ、筆者創作系図。
・一般神代系図Ⅱ
尊卑分脈・古代豪族系図収覧など参考、筆者創作系図。
・(参考)秀真伝準拠系図
中臣氏・大中臣氏詳細系図
尊卑分脈系図などを参考にした筆者創作系図。

	

5)中臣氏・大中臣氏系図解説及び論考
「つれづれなるままに、日暮らし硯に向かいて、心に映りゆくよしなしことをそこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂おしけれ」 ーーー徒然草より
 誰もが知っている書き出しで始まる「徒然草」は、「吉田兼好」作の鎌倉時代の随筆集とされている。しかし、この吉田兼好なる人物が中臣氏の末裔であることを知る人は希有である。吉田神社は有名である。この社家が中臣氏の末裔であることも余り知られていない。兼好はこの吉田神社の社家に近い一族であった。
 古代豪族中臣氏といえば、大化の改新で蘇我氏を滅ぼし、藤原氏の元祖となった「中臣鎌足」を輩出した氏族である。
ではそれ以外で中臣氏と言えば何が思い出せるであろうか。筆者は近所にある小倉神社の祭神である「天児屋根命」が藤原氏の祖神であることは知っていた。
ところがこの神さんがどのような神であったのかは知らなかった。この辺りから解説を始めたい。
一般神代系図Ⅰ、一般神代系図Ⅱ、及び参考として「秀真(ほつま)伝」系図を示した。児屋根は、記紀に登場し、活躍記事が記されている神様である。しかし、記紀ではその出自は不明である。現在公知の一般神代系図は、尊卑分脈が中心であるが、これにはその出自が明確に記されている。これは新撰姓氏録・先代旧事本紀などを基に作成されたようである。
上記一般系図Ⅰ及びⅡは、多くの点でよく似ているが、細部ではかなり異なっている。
本稿では、天児屋根に注目して、直接関係のない神々については論及しないこととする。
他の多くの神々の系図は2者で色々変化しているが、天児屋根はほぼ一致している。母親妻も一致している。また後裔も中臣氏概略系図に示した大鹿島命までは一致している。
ところが、現在では専門の学者からは全く評価されていない「秀真伝」系図では他の神々は勿論天児屋根も一般系図とは、全く系図が異なっている。
このホツマ伝なる物は、現在でも根強い支持者がアマチュア古代史ファンの中に多数いるらしい。本屋の店頭には、多くの関係図書が並んでいる。筆者は詳しくは分からない。①古代豪族三輪氏の祖「大田田根子」がこのホツマ伝の基を創った。②言葉で言い伝えられたことを何時の時代かは分からないが、表音記号みたいな記録文字化された。(漢字でも仮名でもない神代文字と言われている)③江戸時代の末頃に公開され、明治・大正時代に現代語訳され一般化された。④記紀や先代旧事本紀とは全く異なる観点に立った、神代及び元祖天皇家系図が記されている。⑤専門家からは、偽書・後代の作り物であり、史料として参考にする価値は全くない、と一般的にはされている。⑥色々問題があるかも知れないが、記紀などの史料では意図的・非意図的にぼかした所、不明確な所を補完している。として価値を認めている方々もいる。
筆者は参考資料として、このホツマ伝も用いて論考を試みたい。
 今日では古代史を考える時、神代を考慮するべきという考えと、1神武天皇でさえその実在性は全く望めないのに、その前の神代なんて学問的には全く考慮に値しないとする考とが併存しており、後者が主流である。
しかし、記紀及び先代旧事本紀などに記された神話・系図の類は過去の日本の何かを暗示的に示すものであるから、完全に考慮の外にすることは逆に日本の歴史を誤ってしまう恐れがあるという説も根強くある。
筆者みたいなアマチュアは、古代へのロマンを求める意味でも、過去の先人達がはるか大昔のことをどのように考えていたかを知る意味でも、この神代についても考えてみたい。
伊弉諾尊・伊弉冉尊は別にして、天照大神はじめ、天神系の神々の系図は総て天皇家を特殊化するための創作神である。個々の神さまは、日本のどこかに古くから祀られてきて名前もそれぞれあっただろう。しかし、上記のように系図の形に整理されたのは、古事記編纂のそう遠くない前辺りと考えるべきであるという説あり。
例えば天児屋根を中臣氏の祖神とし、その活躍記事を記紀に記したのは、当時の中臣氏の圧力的なものがあったに違いない。創作上の神と見るべきとする説もある。
出雲系の地祇系の神々と征服者達の天神系の神々とを一緒にするべきではない。という考えも同じ土俵の考えであろう。
いずれにせよ余り細かいことを詮索しても意味のないことである。マクロに見て古代の人はどのように神代のこと、中臣氏のご先祖を考えたのであろうかという観点で見てみたい。記紀によれば天児屋根は天照大神ーニニギ尊と同時代の神である。(神に同時代云々はないらしいが)この神が天岩戸前で初めて祝詞を奏上したことから、中臣氏が神に仕える氏族になったのだとされている。神に仕える氏族としては「忌部氏」もある。これは祖神は「天太玉」であるとされている。この神も天岩戸前にいた神の一人である。忌部氏については別稿で詳しく述べる予定である。
ところで、春日神社・枚岡神社など藤原氏関係の神社の祭神は一般的に「春日四神」と言われる神々が祀られている。
元々は枚岡神社に天児屋根命と比売命とが祀られてあり、鹿島神宮に武甕槌神が香取神宮に経津主神がそれぞれ祀られいた。
これを奈良時代藤原氏の氏神として春日神社を創建した時、それぞれの神社からそれぞれの神を分祀して上記4神を祀ったことに始まる。後に枚岡神社が春日神社から 武甕槌神 経津主神を分祀して同じく4神を祀ることになったようである。
さてここで、枚岡神社こそ中臣氏の本拠地(東大阪市出雲井町)に創建された神社と考えられている。ここに理解し難い神「比売神」がいる。古来から諸説あるようである。社伝では天児屋根の妻である「天美津玉照比売命」としている。筆者の系図にはこの名前はない。筆者系図では「天万拷幡比売」となっている。問題は秀真伝系図である。これには妻は 武甕槌神の娘姫とだけ記されていることである。
古来中臣氏は鹿島神宮・香取神宮とは非常に密な関係があることが概略系図からも窺える。その因縁で春日大社は中臣氏出身の藤原氏の守護神(軍神)として、鹿島・香取の大神をも併せお祀りしたという説が主流と思う。
いや藤原氏の祖である鎌足は実は「中臣御食子」の実の子供ではなく、中臣氏の分流である鹿島神宮社家関係の子供として産まれ、これが御食子の養子になったのである。よって中臣氏ではなく藤原氏に関係する守護神として鹿島神が春日神社に祀られたのである。という裏説もある。
武甕槌神 ・経津主神ともに記紀神話に登場する軍神である。しかし記紀の中では天児屋根とは系図上でも直接関係はない。ところがである、秀真伝系図を参考にすると、天児屋根の父親母親・妻と武甕槌神 経津主神とは互いに非常に近い血縁関係であることが記されている。真偽は不明である。
藤原氏がわざわざ春日4神を祀る背景にはそれなりの深い理由が、少なくとも奈良時代にはあったものと思わざるを得ない。記紀神話及び記紀系図がこの辺りのことを意図的又は非意図的かは不明であるが記していないのは、何かが中臣氏藤原氏の背景にあったのではなかろうか。
中臣氏の原点的な氏神は枚岡神社(河内国一ノ宮)であり、祭神は天児屋根と比売神の2神だったのが元の姿である。概略系図の「鯛身命」から本流から分かれて枚岡神社社家となっている。枚岡神社を創建したのは1神武天皇に同行したとされている天児屋根の孫「天種子」である、と社伝に記されている。これも何かを暗示しているのであろう。
 天種子には記紀記事が残されている。神武東征の時、神武と共に筑紫国(豊後国ともある)宇佐郡に立ち寄り、そこの豪族である「宇佐津彦」に歓迎されて、その妹又は娘である「宇佐津姫」を天種子に賜った。この間に産まれたのが「宇佐津臣」であるとされている。ここに登場する宇佐氏の元祖とされる宇佐津彦の出自が系図により異なる。一般系図では高皇産霊の孫又は曾孫として出てくる。ところが「秀真伝」系図では伊弉諾尊の3貴神の一人である月読命の孫で母親は「市杵島姫」(宗像3神の一人。一般的には素戔嗚尊の子供であるが、秀真伝では天照大神の子供とされている。)となっている。
宇佐八幡宮の祭神の一人に「比売大神」と言われる女神がおられる。古来この神には諸説あるが、社伝ではどうも「市杵島姫」とされているようである。
宇佐家伝承を本に記した宇佐公康著「古伝が語る古代史」によると、上記系図も神話も総てぶっ飛ぶようなことが書かれてある。ここでは触れないことにする。
宇佐氏の出自に関して市杵島姫が関係していると見れる。
となると中臣氏にも市杵島姫が関与していることになる。
さて話を月読命に戻そう。一般的には月読命は、実に蔭の薄い神様である。子神もなければ神話の類も僅かしか知られていない。ところが、月読命を祭神としている神社は結構あるのである。京都の松尾大社の摂社である月読神社が特に有名である。ここの社家は代々中臣氏系壱岐卜部氏である、とされている。筆者系図の概略系図の大鹿島の曾孫にあたる真根子流は、元来壱岐島に繁茂した一族である。どうもこの一族は月読命を祭神として仰ぎ、壱岐島を根拠地としながら亀の甲羅で卜占を行い古くから大和朝廷にも人材を出していたようである。この中に「卜部忍見」という人物がいる。忍見の時、京都嵐山付近に壱岐島から月読神とともに移り、根を張り、後に松尾大社の実権を握ったとされる中臣氏系壱岐氏であるとされている。松尾の月読神社の社伝では顕宗天皇3年(487年)に壱岐島から月読神が勧請されたとなっている(日本書紀にも類似記事あり)。これは松尾神社を秦氏が創建(701年)するはるか昔である。
 山背国葛野郡に最初に入った豪族は、中臣氏系壱岐卜部氏・秦氏・賀茂氏いずれなのであろうか。26継体天皇との関わりはどうだったのか。月読神社が山城地方で一番古い神社だと一部で言われているが、その根拠がはっきりしない。月読神社社伝及び日本書紀に記事がある顕宗3年(487年)を鵜呑みにしていいのであろうか。秦氏の渡来に絡んで壱岐より一緒に山城国に来たとの説もあるようだが、益々興味はあるが、根拠に乏しい。
これをこのまま信じたならば、(古い)壱岐卜部氏≧秦氏≧賀茂氏≧継体天皇(508年)=物部氏みたいになる。それにしても葛野郡・乙訓郡辺りの豪族移動時期はこの時代(5世紀末から6世紀初め頃)辺りに集中しているようだ。(既稿「秦氏考」参照)
ちなみに山背国に入って来た「卜部忍見」なる人物は中臣氏系図によると雷大臣の6代孫である。一方中臣氏本流の雷大臣6代孫は「黒田」である。この辺りの系図は怪しいが継体天皇と同時代かそれ以降である。となると、487年というのは微妙なところである。1世代ほどズレがあるようにも思えるが。不可能ではない範囲。
 
中臣氏は元々は卜部姓であったとの説、中臣氏と卜部氏は全く別の氏族であったのが、どこかの段階で合体したのである、とする説、筆者には現段階では不明である。しかし平安時代になって大中臣諸魚流に大中臣姓を卜部姓に改姓した「平麿」という人物が現れる。この流れは、吉田神社・平野神社・梅宮神社などの社家として非常に繁栄する。何故この時代に卜部姓になったのかは詳しくは筆者は分からないが、概略系図の「神聞勝」の兄弟に兄勝命という人物がおり、この流れから武藏卜部氏・伊豆卜部氏が発生した。これの子孫は卜部姓でありこれが平安時代に大中臣平麿にその名跡を継いでもらったものと判断している。(伊豆卜部平麿が大中臣氏に入り旧姓の卜部を名乗ったという説もある)その意味では壱岐卜部氏とは別流であるが、中臣氏系には違いない。
話を月読命に再び戻そう。記紀記事・系図では月読命と中臣・卜部氏とは何も関係は分からないのであるが、秀真伝系図では一目瞭然の祖神(母方)の一人であることが分かる。
父方の祖神が天児屋根命、母方の祖神が月読命ということになり、中臣氏が父方祖神、壱岐卜部氏が母方祖神を祭神にしたとは考えられないだろうか。
松尾大社の祭神に何故「市杵島姫」が祀られてあるのか、月読神と市杵島姫を共に祭神にしている神社もあるようだが、渡来人「秦氏」と関係しているのであろうか。それとも秀真伝の系図が示すような壱岐卜部氏が中臣氏の母系を大切にしたからであろうか。
松尾神社は元来月読社とは無関係であったとされている。市杵島姫とは???
余談であるが、愛媛県伊予市にある伊予神社の祭神が月読尊である。また他の伊予神社の祭神に伊予津彦・伊予津姫を祀っている。秀真伝では、月読尊の妻に伊予津彦の娘「伊予津姫」が載っている。これも何かを暗示しているのであろうか。
 
さて中臣氏の名の由来は何処にあるのであろうか。
古来神と人との間をとりもつ云々という説が定説化されている。しかし、太田 亮はこれに異論を唱えている。中臣氏は豊前国仲津郡中臣郷が発祥の地であり、その地名からの由来としている。(系図の天種子の宇佐での記事がこれの傍証)さらに、常陸国那珂郡(古代の仲国)より起こった仲臣氏も関係していることを臭わせている。
ところで中臣氏はどの段階で正式に中臣姓になったのであろうか。古来諸説ある。
①元は連姓ではなく、臣姓で中臣(なかつおみ)であった。
②列伝(2-14)阿麻毘舎卿の時からである。
③(2-15)阿毘古の時に中臣連姓を賜った。
④(2-17)鎌子(賀麻)の時、欽明天皇朝に中臣姓を賜った。
⑤(2-19)常磐(欽明朝の人物)が中臣連姓初代(中臣氏延喜本系帳)
(参考)卜部姓は(2-12)雷大臣の時(仲哀天皇・神功皇后時代の人?)授けられたとする説あり。
筆者は取り敢えずは無難に⑤位に 考えて話を進めたい。
記紀記事、風土記記事に従えば、人物列伝・中臣氏概略系図の2-5)大御気津臣頃までは九州のこと2-6)伊香津臣~2~7)梨津臣は近江国余呉湖付近2-8)~2-11)臣狭山までは常陸国2-12)雷大臣頃から壱岐島と大和朝廷に関係。中央で卜占などを通じて影響力を出してきた。2-17)鎌子辺りで歴史上で反蘇我勢力の一つとしてそれなりの地位を確保。2-19)常磐の時代に中臣連として豪族として認められたのではなかろうか。
さてここで人物列伝に帰って見ると、2-8)神聞勝は10崇神朝の人物である。
2-10)大鹿島は11垂仁朝の人物で五大夫という朝廷内の重職に物部・大伴・和邇・阿部氏らとともになっている。
さらに2-12)雷大臣は14仲哀・神功皇后時代に四大夫の一人に物部・大伴・大三輪氏とともになっている。これが史実かどうかは不明であるが、当時の大豪族として扱われているのである。神を祭祀する役目を負っていたようである。
一般的に祭祀氏族と呼ばれるのは、国家(天皇家)の祭祀を行う氏族のことを指し、忌部氏と中臣氏の2氏族だけであるとされている。大三輪氏・出雲氏・宗像氏なども神を祀る氏族として有名であるが、天皇家とは直結していないのでこれとは区別された氏族であるとされている。中臣氏天皇家の組織に組み込まれた形の祭祀氏族として確立したのは、5世紀中頃からであると言われている。理由は筆者は確認していないが、記紀の14仲哀天皇・神功皇后記事に出てくる審神者(さにわ)なる役目を中臣烏賊津使主(雷大臣)なる人物が行った。との記事などがその裏付けの一つかもしれない。また大和朝廷内で壱岐島出身の亀の甲羅を用いた卜占集団を取り仕切ったのが中臣氏であったとされている。
29欽明・30敏達朝に蘇我氏と物部氏が仏教を日本の持ち込むか否かで激しく対立した。この時中臣鎌子・勝海らが物部氏側に付き排仏派として活躍した記事が出ている。鎌子・勝海は共に大夫となっている。重職である。勝海は蘇我氏の手で殺された。
さて、人物列伝で奇妙なことに気づくであろう。2-17)鎌子は29欽明朝で活躍する人物。その子供であるはずの黒田は、26継体朝の人物となっていることである。
実はこの辺りの系図はかなり混乱しているのである。勝海が無い系図(尊卑分脈・中臣氏系図)鎌子がないもの(中臣氏系図)もある。
ここで上記太田 亮が面白い系譜を提案している。
実は「勝海」のところで、旧来の中臣氏は滅び、新たな中臣氏がこれを継いだ。太田は次のように推論している。前述のように中臣氏は11垂仁天皇頃から重職についており中臣連姓を少なくとも12景行天皇・13成務天皇頃には賜姓されている。ところが中臣氏自身が作成したとされる中臣氏延喜本系帳では「常磐」が初代中臣連としている。これは明らかにそれまでの中臣氏ではない人物がここに入ったからである。即ち常陸国の仲臣氏が養子?に入ってそれまでの中央豪族中臣氏を継いだ形になったのである。としている。
専門家の間でこの説が現在認められているかは疑問であるが、筆者は前述の春日4神の謎とも関係して、非常に惹かれる説と考えている。鎌足常陸国出自説もうなずけるようになってくる。どうであれ「黒田」以降は間違いなくその後の中臣氏に繋がっていると考えてよい。
黒田の子「磐余」の孫として「稗田阿礼」が記されてある系図があったので筆者系図には記したが一般的ではない。古事記編纂に関わったとされる「阿礼」ではあるが、その実在さえ分からない人物である。しかし、中臣氏から養子として稗田氏に入った可能性もある。
 中臣氏系図はここまでが難しい。単純なようで複雑怪奇で込み入っている。また日本の古代史の深層部の謎も秘めていると思う。ここまでのことに関し、筆者は次ぎのように考える。
中臣氏は全体として非常に古い歴史を有した氏族である。
②元祖天皇家とは非常に近しい関係にあったことは窺える。
③祖神とされる「天児屋根命」は、どこかの段階で氏族統合の象徴として創作された神であろう。
中臣氏として纏まった血族氏族の系図形態になっているが、実は複数の血族の集合体であろう。九州・壱岐・近江・常陸などにそれぞれ独立していた氏族が、大和王権の確立進展に伴い、氏姓制度の進展などとも絡み、自己防衛の手段の一つとして血縁、地縁、姻族、その他色々な事情が絡み合って、より大きなより強い集団へと習合していったのではなかろうか。その末代までの結束の証として「天児屋根命」なる祖神を創作し、これをともに祀るものが、中臣氏という纏まりを産み、豪族へと変化していき、より整合性をとるために、統一性のある系図みたいなものを他の豪族と同じようにどの時代かに伝承することになった。と考える。(古代豪族は大なり小なり皆この傾向はいなめない)
中臣氏は、神に仕える、神を祀る類の仕事をしており比較的に過去の記憶を残しやすい職掌だったといえる。これが全国的に習合していった結果産まれた氏族であろう。九州時代のことを記憶している氏族、10崇神ー15応神時代のことを記憶して伝承した氏族、それ以後26継体天皇時代までを記憶している氏族、など色とりどりだったのではなかろうか。
⑥26継体天皇以降は、かなりはっきりしてきたのであろうが、養子・猶子の関係が複雑で系図がぼかされていると思わざるをえない。
⑦松尾大社に残されている系図が現在一番信頼性が高いようだ。
⑧極論すれば「可多能祐」以前は、中臣氏は、古くから続いた氏族であり、づっと昔より天皇家と関係があり、関東の鹿島にも縁があり、神を祀る氏族であったことを朝廷は勿論多くの他の氏族にPR出来る内容であったら、良かったのではなかろうか。日本書紀編纂時に各豪族に求められた系譜の提出・日本書紀の編纂によりそれが他の氏族に認識された訳である。これも藤原氏中臣氏の共同作業だったのであろうか。
葛城氏・物部氏・大伴氏・蘇我氏等とは何かしら異なる系図である。
大中臣清麿(702-788)と10崇神天皇時代の人物とされる「神聞勝」との間は、単純に考えると約400年間である。本系図に従えば、直系16代ある。平均25年で継いだことになる。これは不合理ではない範囲。これを単純に「天児屋根」にまで延長すると、天児屋根は紀元200年前後であり、記紀神話に記された天照大神と同時代だとすれば、日本神話の原点的時代はその頃となり、なんと卑弥呼の時代になる。??? 余り意味のない推理であるが、中臣氏系図は他の豪族系図に比しかなり詳しい伝承が残されているので、このような推理も可能なのである。
これを天皇家系図と対比してみるとその違いがはっきりする。一言で言えば天皇家系図は
異常な引き延ばしがされており、人物の架上が著しい。と考えるか中臣氏系図がおかしいかである。崇神天皇以降大中臣清麿の時代までは両者で大きな差は見られない。筆者の推定では僅か1代の差である。問題は崇神以前である。
天照大神ーーー崇神天皇15代
天児屋根ーーー神聞勝8代
7代約150年位の差である。
筆者は現在の諸情報の中では中臣氏系図の方が、現実味を感じる。勿論このような推論に
意味が無いと言えばそうかも知れない。
⑪もっとクールな考え。「中臣意美麿」以降、日本全体の神社を取り仕切る神祇官の長官である神祇伯の職を中臣氏が世襲的に完全に独占する形になる。これに先立ち、これを正当化する手段として記紀の編纂にあたって、中臣氏の祖神、系図を都合の良いように手を加え、他の氏族とは全く異なった氏族であることに仕立て直した。
天皇家が他の豪族とは全く異なる天孫から出たものであり、犯すべからざる存在であるとしたと同じ手法である。
これが見事に効を奏して、以後伊勢神宮の祭主、大宮司を世襲。神祇伯を世襲。政治面での藤原氏の後ろ盾も得て互いに持ちつ持たれつで日本人の精神世界を牛耳ってきたとも言える。
その原点的証拠がこの系図である。現在の人がこれを信用するかしないかは自由であるが歴史的資料であり、古代史を考えるとき無視してはならないと考える。
この中臣氏像をはじめ、日本神話・建国神話・元祖天皇家系譜などその重要部分は、総て創作であり、その辻褄合わせをしたのが日本書紀である。その中心人物が藤原不比等である。という説が戦後日本の古代史の根幹を流れている。この考えは正しいのであろうか。
色々創作・推定辻褄合わせ的なことが行われていることは事実であろう。しかし、史実の部分もかなり記録されていることも多くの人の認めるところである。これからも発掘調査などでさらに解明が期待出来ることも多い。歴史を歪めた張本人は不比等である。とする
説には、古代豪族を色々調査した範囲では、疑問がある。
歴史は勝者によって創られる。敗者の歴史は消滅する。これも洋の東西を問わず真実である。現在の人々は、それも良く知っている。その上で史実と、意図的創作と、不可抗力的誤り、辻褄合わせ、伝承の不確かさなどにより当時の人々氏族らはそのように信じてきたが、今から見れば、不合理な記述なども記紀には混在している。と考えるべきではなかろうか。
それを検証するのが歴史家の役目の一つと思う。
日本書紀が完成した720年は、44元正天皇の時である。この年に不比等は没している。
40天武天皇が日本書紀を編纂するよう詔したのは680年頃である。この頃には不比等の存在は認められない。不比等が朝廷に現れるのは、688年以降である。41持統天皇の後ろ盾があったとはいえ未だそんなに実権はない。右大臣になったのは43元明天皇の時708年である。712年には古事記が完成している。藤原一族が真に朝廷を牛耳るようになるのは、724年の45聖武天皇即位以降と考える。
古事記に既に日本神話・建国神話・万世一系の天皇家系図・神代系図・古代豪族記事など少なくとも15応神天皇以前については骨格は記されている。各豪族の細部の系図を別にすれば、当時の天皇家、豪族らが納得出来る範囲の記録は712年には出来ていたのである。
この原典はさらに33推古天皇聖徳太子時代には出来ていた考えられる。なのに何故不比等及び持統天皇こそが日本の古代史をねじ曲げた張本人だとするのであろうか。
日本書紀に史実と異なる記述があるとすれば、その根っこは、もっともっと以前にあったとするべきではないであろうか。長い期間かかって朝廷の専門家連中が辻褄合わせをしてきて、その最後の集大成が日本書紀であると考えるべきではなかろうか。各豪族の系図の類も同じような経過を辿ったと考える。
中臣氏歴史上でうっすら見えてくるのは、26継体天皇以降であろう。その前は中臣氏自身の伝承などを元にしなければならないはずである。常陸風土記・近江風土記などの記述の信憑性が問題になるが、これにも豪族中臣氏の息がかかっていると解するのであろうか。疑えばきりがない。しかし、歴史とは所詮そんなものだと割り切れば良い。
各豪族の系図の類は筆者はそのような割り切りをしている。そうした場合どこに他の豪族、朝廷関連の歴史と齟齬が発生するかをマクロに捕らえたいと思っている。
 
 中臣氏は、中臣鎌足の出現により歴史上に急浮上してくる感じがする。この鎌足が多くの謎をはらんでいるとされているが、本稿ではこれには触れない。藤原氏の元祖となる人物である。まさにこの実在が確認出来る人物一人から、あの大豪族が産まれたのである。
父御食子は、可多能祐の長男で中臣一門とされた。その長男が鎌足である。御食子には久多垂目という子供もいるが、これらの蔭は薄い。
可多能祐の次男国子は二門と言われ、孫「意美麿」は鎌足の娘「斗売娘」の婿養子の形で当初藤原氏を名乗っていた。ところが、藤原不比等が台頭してきた698年に勅命により中臣氏に戻された。子供に右大臣にまでなった「大中臣清麿」がおり、その功績により大中臣姓初代となった。これ以降大多数の中臣氏が大中臣姓に改姓された。清麿の流れがその後の中臣氏の嫡流となった。
可多能祐の三男「糠手子」は三門とされ、子供「金」は37斉明天皇朝・38天智天皇朝の右大臣を勤めたが、壬申の乱に近江朝廷側の責任者として処刑された。金の跡を継いだのは弟の「許米」であり、その子供が中納言・神祇伯・祭主となった「大嶋」である。この流れも大中臣姓となる。
二門が主流となるので二門のその後について若干述べておく。
意美麿・清麿・子老・諸魚など参議以上の人物が続出する。天皇家に妃を出したのもこの時代である。中臣氏始まって以来の繁栄ぶりである。それと、伊勢神宮祭主・神祇伯を独占したのである。藤原氏の朝廷支配の開始とほぼ時期を一にしている。
清麿の子供子老・諸魚は50桓武天皇の長岡京遷都に際し著しく活躍している。この二人は間違いなく長岡京に住んでいたものと筆者は考える。
ここで中臣氏・大中臣氏が関与した神祇官・神祇伯・祭主について簡単に述べておく。
神祇官は、天津神である天神、国津神である地祇の双方の祭祀を司る国家機関であり、形の上からは太政官の上であった。(律令制の二官八省)この神祇官の長官が神祇伯である。但し相当する位階は太政官に比し低く、神祇伯でも従四位下であった。ちなみに太政官に属する太宰帥でも従三位相当職である。
祭主は、伊勢神宮にのみおかれた神職で、都に住んでおり、伊勢神宮の祈年祭などに奉弊使として伊勢におもむき、天皇の意思を祭神に伝える役目をはたした。元々は祭官と呼ばれ初代は、中臣御食子であった。その後意美麿の時、祭主と呼び名が変わった。伊勢神宮にはさらに大宮司、小宮司、禰宜などがいるが、大宮司クラスまでは大中臣氏が独占。内宮禰宜が代々中臣氏から出たとされる「荒木田氏」で外宮禰宜が「度会氏」とされている。ある時代までは、伊勢神宮を支配することは日本の総ての神社を支配したのと同じ意味があった。
大中臣清麿以降中臣氏・大中臣氏から大臣は出ていない。嫡流は清麿の子供の「今麿」の流れである。清麿の子供「諸魚」の流れに「平麿」が現れ、この流れは「卜部氏」を称し、平野神社・吉田神社・梅宮神社などの社家を世襲する。
徒然草で有名な「吉田兼好」もこの流れである。
吉田神道で有名な吉田兼倶の子供に戦国時代一の学者と言われた「清原宣賢」がいる。これの娘が「足利12代将軍義晴」の側室となり、その後「三淵晴員」の室となり、産まれたのが、山城国長岡郷にある勝竜寺城の城主となった、「細川幽斎(藤孝)」である。
「細川ガラシャ夫人」の舅である。ここまで中臣氏の血脈が続いているのである。
中臣氏の嫡流は伊勢神宮の祭主家として、江戸末期まで続き「藤波氏」を名乗った。
神社関係者社家の主の多くは、堂上公家にもなった。 但し政治的実権は平安時代以降はない。
6)まとめ(筆者主張)
中臣氏は「天児屋根命」を統一祖神とする幾つかの氏族の習合体である可能性大である。
月読尊・ 武甕槌神 ・経津主神・伊香津神命などの異なった祖神を祀っていた地方豪族などを中臣氏として中央でも力のある古代豪族に発展させたのである。神に仕え、大王家に仕える祭祀氏族として徐々に習合してきたものと推定する。系図上では一つの血族である。
②「天児屋根命」なる神は、どこかの時点で統一の象徴として創作されたものと思われる。③歴史上でその存在が本当にはっきりするのは、「中臣鎌足」の出現の数代前くらいからであろう。太田 亮の26継体天皇から29欽明天皇の間に中臣氏に血脈上で何かがあったことを示唆する説は、傾聴に値する。今後さらに検討の余地あり。
中臣氏が鎌足の出現前までは、二流の古代豪族であったことは、明らかである。
11垂仁天皇の時の五大夫就任、神功皇后時代の四大夫就任に関する記紀記事をそのまま信用は出来ない。記紀編纂時に中臣氏を飾り立てた可能性も高い。記紀神話の天児屋根命の活躍記事もである。天皇(大王)が国家祭祀を行っていたことは間違いなかろう。
それを支えたのが、中臣氏(及び忌部氏)であったとする直接的な証拠は何であるのか、
不明である。
④国家的規模・レベルで日本の神社を管理する体制が進む過程で、中臣氏は、過去からの特殊性を主張して、藤原氏台頭と期を同じくして、神社を取り締まる神祇官の長である神祇伯・祭主など重要なポストを独占世襲することになり、基本的には、明治にいたるまでその体制を護った。但し政治的には常に蔭の存在を貫いた。
一方藤原氏は、記紀に記されたこの中臣氏系図を利用し、天皇家の番頭役は神代から中臣氏であり、他の豪族とは異なっていたことを主張し、それ以後の体制造りに神社問題は中臣氏に譲り、自分らは、政治の中枢では、他氏族の排除に成功し独占体制を築いた。
日本の統治体制が確立した8世紀以降、藤原氏と中臣氏は政治と精神世界である神社統治の要を握ったのである。藤原氏は勿論中臣氏から発生したのであるから、元々の氏族としては、中臣氏こそ天皇家を除けば、日本の根幹を牛耳った氏族であると言っても過言ではない。なのに何故中臣氏に関する詳しい専門書が無いのであろうか。疑問。
⑤「天児屋根命」から始まる中臣氏系図は天照大神から始まる天皇家直系系図より明らかに短い。これは一体何を意味するのであろうか。一般的には神別古代豪族系図は記紀系図に整合さすため多くの架空の人物を架上していると言われている。
記紀では、天児屋根命は出児不明の神である。その他の多くの系図は、天児屋根命は、ほぼ一致して神代から親子関係が記されている。欠史八代~神代部の系図が天皇家系図は中臣氏に比し著しく延ばされていること明白。どちらがより史実に近いのか不明ではあるが、筆者は中臣氏系図の方が、どうせ継ぎ接ぎだらけとは思うが、年代的には合っているような気がしてならない。伝承に忠実だったのであろうか。
⑥秀真伝の系図は、神社に祀られている神々の「いわれ」の何かを暗示している。記紀に記されていない日本神代の暗部を記していることは理解した。これがいつ頃の日本人の認識を示しているかは不明である。我々アマチュアには確かに面白い資料である。
しかし、これをまともに信じる専門家はいないので注意がいる。
中臣氏の主流の根本本拠地がよく分からない。近畿地方では河内国の枚岡神社近辺であることは間違いなかろう。問題はそれ以前である。太田説である九州宇佐地方説・関東常陸国鹿島地方の合体的臭いが濃厚である。どちらも記紀神話・神武東征記事と関係している。
⑨山背国葛野郡に5世紀から6世紀にかけて最初に入った豪族は、中臣氏系壱岐卜部氏・秦氏・賀茂氏いずれなのであろうか。26継体天皇との関わりはどうだったのか。謎が深まった。
古墳などの発掘調査の結果に期待したい。
秦氏は朝鮮半島から直接葛野郡に渡来してきたのか?それも壱岐卜部氏と一緒であったのか?この卜部氏が中臣氏系であることを主張している。疑問を感じる。
⑩現在から見れば色々疑問はあるが、少なくとも記紀編纂時以降、中臣氏が、天児屋根命を祖とする天皇家と同じ位古い氏族であることは、認められていたと考えざるをえない。
⑪「日本古代史を意図的に歪め、日本神話・建国神話・万世一系の天皇家思想を日本書紀編纂を通じて創作し、その後の政治思想をコントロールした張本人は藤原不比等である」という戦後の古代史の根幹的説には疑問がある。この古代からある根本思想は不比等以前から厳然と醸成されてきた国家観である。と捉えるべきである。しかし、結果論的に言えば、日本書紀編纂の最大の利益を勝ち取ったのは藤原氏であり中臣氏であったと言える。