中臣鎌足の長子、定恵は怪しい

中臣鎌足の長子、定恵(じょうえ)は怪しい。 王や郭務宗(王)らと倭国に帰還という「不思議な記事」である。

 
「藤氏家伝」と云う書物があるが、その中に廓武宗 劉德高
藤・鎌足の息子・定恵(じょうえ)の記事がある。『日本書紀』とすこし(郭務?宗)違うが、書紀につじつまが合う。編纂者が同族だから(冷笑)。

しかし、この文章を見ていると、これは、当時の正確漢文(≒中国語)なのでないだろうかと思う。yahooの翻訳ソフトで中国語から日本語に訳してみると結構訳せる。これが万葉集ならバラバラになる。当然だ。万葉集は、古代の日本語を借音仮名で書かれている。日本祖語に近い?。   
ところで藤原氏二代目の不比等は鎌足の次男。
長男、定恵(定慧・貞慧とも書く)の俗名を藤原真人*1
643年 誕生
654年、定恵は唐に派遣されて、(『日本書紀』孝徳紀、白雉5年2月条注、伊吉博得言)」
 
665年、白村江の敗戦の後、唐のビッグ5を使いとして帰国したことになっている。四年九月二三日 唐国が、朝散太夫*沂(キン)州〔山東省臨沂州〕の司馬〔武官長〕、上柱国(支配下の国の王で、新羅などと同格)の劉徳高らを遣わした。
(ら、とは右戎衛の郎将、上柱国の百済人禰軍(上柱国は、大功のあった者に与えられる官名)柱国(上柱国と注記)の郭務宗をいう。二五四人)が七月二三日、対馬九月二〇日筑紫についた。二二日上表文の函を進む(奉った) 。 
彼の名前は、この条には、出ていない。しかも、帰国先は、筑紫の都督府(唐の占領地)であって、奈良ではない。
665年と云えば、日本国は、まだ誕生していない。
666年、死亡

おかしいのは、定恵、俗名は真人である。真人は、天武朝で始まった制度で、天皇の親族以外には与えられない。時代がさがると安売りされたようだ。 
真人(まひと)は、684年(天武13)に制定された八色の姓(やくさのかばね)の一つで、最高位の姓(かばね)である。「真人」は、貴人(うまひと)の意味とも新羅の真骨の直訳ともいう。*2http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E4%BA%BA