亀井家(津和野藩)

亀井家(津和野藩)

亀井家 津和野藩 隅立て四つ目  
                      4万3000石
石見鹿足郡津和野(島根県鹿足郡津和野町)
                       外様 城主
移封加減増履歴・天正9年→因幡鹿野1万3500石・元和3年→石見津和野4万3000石
専売品&専売開始年・紙(寛永期に始まり寛文5年に専売仕法を完成) 蝋(延享初期)
江戸城詰席・大広間 伯爵    上屋敷・外桜田

参勤・元禄13年(1700)以降の経路は城下高崎四辻 →笹山村→杉ヶ峠→福川村・柿木村→(渡舟)→下木部谷村・大野原村・田丸村七日市村・立戸村・広石村・六日市村(宿泊)→有飯村・九郎原村・樋口村・蔵木村・田野原村・星坂(藩境)→周防国玖珂郡に入り生山峠→津田(宿泊)→明石→宮内→佐伯郡廿日市→(海路)→大坂→(淀川遡上)→伏見→東海道は12日半で品川着、所要24日と半日、供数150人(この内江戸夫30人前後)
延享元年(1744)の江戸の家臣数は給人22人、中小姓14人、徒4人、足軽26人の計66人、この数は家中総数の5㌫ほど
人口・全領地6万8679人、家数1万5918軒
                 文化2年(1805)現在

■津和野騒動
元和5年(1619)、2代政矩は落馬が原因で30歳で没する、この時、嫡子の大力(だいりき、後の3代茲政)は3歳、当時の幕法では嗣子が15歳に達していないと相続は許されなかった、通常だと断絶除封となるが、大力の生母光明院(棚倉藩松平康重の娘)は年齢を15歳として届け出た上で、大力と共に将軍秀忠に初見する、外祖父である松平康重を後見とすることで大力に家督が許されるのである
松平康重には家康の実子説があり、この説でいくと大力は家康の曾孫となるわけで、断絶除封にはできなかったであろう
幕府は津和野藩重臣たちへ幼君大力を守り立てることを誓う起請文を提出させている、この背景には、津和野に移封されて数年ということ、起請文を提出させた重臣たちは滅亡した尼子家の家臣たちであり、幕藩体制の確立を進める幕府にとって戦国時代の旧家再興を亀井家の家臣でありながら 望む者は邪魔者でしかなかったと思われる

尼子家は永禄9年(1566)毛利元就に居城富田城を包囲され開城、山中幸盛(鹿之介)らが尼子家再興から富田城奪回を図るが元亀元年(1570)に破れ、尼子家は滅亡している
津和野藩藩祖の亀井茲矩は尼子家の重臣であり、実父の湯(ゆ)永綱、母方の父多胡辰敬(ときたか)も尼子家の重臣であるが、亀井茲矩は尼子家滅亡後に豊臣秀吉に属して1万3500石の大名となったため、尼子家の残党家臣は亀井茲矩の下に集まったのである

大力が19歳になった寛永12年(1635)重臣間の対立が激化する、旧尼子家臣団の年寄多胡勘解由(かげゆ)・塩冶(えんや)大学らが、家老多胡主水(真清)・湯杢允(もくすけ、主水の姉婿)らの独断専行を11ヵ条の非違として後見松平康重、金森頼重(大力室の父)へ申し立てる
多胡勘解由と多胡主水は親戚である、多胡主水の母は藩祖亀井茲矩の姉にあたり、姉(主水の母)と茲矩の母は多胡重盛の妹であり、この多胡重盛の子が勘解由であった、さらに勘解由の姉は藩祖茲矩の継室という関係で、勘解由と主水は藩主家に最も近い者同士となり、今回の抗争は藩政の主導権をめぐる両者の最終決着を目指すものといえる

勘解由派が提出した非違11ヵ条に対して主水派は弁明する覚書を幕府へ提出し、両派は寺社奉行松平勝隆、大目付柳生宗矩らの立会いの下で対決することになる、結果は主水派の弁明に偽りは認められず、勘解由の敗訴となった、勘解由は80人を越す大量処分となり、多胡主水はこれを契機に藩家臣団の再編成を行い、藩政の整備確立を急いだ、後の執政多胡真益・真武・真蔭の兄弟は彼の子どもである

■「仮名手本忠臣蔵」との関係
寛延元年(1748)に上演された浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」は竹田出雲・並木千柳・三好松洛(しょうらく)の合作であるが、モデルとなったのは4代茲親と家老多胡真蔭(さねかげ)とする説がある

亀井茲親は元禄11年(1698)3月の勅使饗応役を命じられる、儀礼作法を指導する高家吉良上野介に無礼の数々があり、茲親は家老真蔭に再び無礼な仕打ちがあったら吉良を討ち果たすと告げる、真蔭は堪忍されるよう主君を宥める一方で、吉良邸へ御納戸金一箱を持参する、この日以来吉良の態度が豹変し茲親は饗応役を無事に務めたという
この話は福山藩の儒者 江木鰐水(がくすい)の「多胡主水伝」にあり、大田南畝の「半日閑話」には桃井若狭之助は亀井茲親、加古川本蔵は多胡外記(真蔭)としていることから、モデル説が有力とされる

江木鰐水は文化7年(1810)の生まれであり、大田南畝は寛延2年(1749)の生まれであることから、つまり後年の著作であることから不確かなものとする人もいるが、巷間広く伝わった噂としては疑いはなく、江戸人の気質を見る上で興味深いものがある
 

藩祖・茲矩(これのり)
湯永綱の子(永綱は尼子家重臣) 母は多胡辰敬の娘(辰敬は尼子家重臣)
生没・弘治3年(1557)~慶長17年(1612)
天正2年(1574)外舅の亀井秀綱の家を継ぐ、豊臣秀吉の鳥取城攻めに際し、秀吉に与して功を立て、天正9年(1581)因幡鹿野1万3500石を与えられる、関ヶ原では東軍側に属して2万4500石を加増され、3万8000石を領有
従五位下武蔵守
正室・山中幸盛(通称は鹿之介)の養女(亀井秀綱の娘)
継室・多胡重盛の娘
子女・2代政矩

2代・政矩(まさのり)
茲矩の子 母は継室多胡重盛の娘
生没・天正18年(1590)~元和5年(1619)
慶長14年(1609)幕府の命により棚倉藩松平康重の娘と結婚し、5000石を加増される
家督・慶長17年(1612)相続
従五位下豊前守
正室・棚倉藩松平康重の娘
子女・経矩(別家) 3代茲政

3代・茲政(これまさ)
政矩次男 母は正室松平康重の娘
生没・元和3年(1617)~延宝8年(1680)
家督・元和5年(1619)相続、寛永14年(1637)に検地を行い1万余石を打ち出し、寛文5年(1665)には庶兄の経矩に3000石を分与する
家老多胡主水真益(たごもんどさねます)の輔佐を得て、殖産興業から山地への楮・櫨・漆などの栽培を奨励し、殊に楮から製する石見半紙は全国的な名声を獲得する、寛文5年にそれまで紙商人に口銭(扱い手数料)を納めさせていたのを止め、紙商人を藩士格にして禄を与え、完全な専売仕法とし藩の重要な財源にした
従五位下豊前守
正室・金森重頼の娘(重頼は飛騨高山藩主、子孫は飛騨高山→出羽上山→郡上八幡と移封、郡上八幡において検見法を変えようとしたことから大規模な郡上一揆をもたらし、幕閣からも処罰者を出す大騒ぎとなり、当時の当主金森頼錦は領地収公・盛岡藩南部家永預けとなっている)
子女・女子→佐土原藩島津忠高室 
女子→難波宗量室 4代茲親
真純(多胡正武養子)
女子→生実藩森川俊胤室 
女子→福島藩板倉重寛室
女子→柳生藩柳生俊方室
矩致(兄の多胡真純養子)

4代・茲親(これちか)
茲政三男 母は某氏  
生没・寛文9年(1669)~享保16年(1731)
家督・天和元年(1681)相続
従五位下隠岐守
正室・対馬府中藩宗義真の娘
子女・茲長 定好(旗本菅沼定辰養子) 5代茲満
養女(弟矩致の養女)→棚倉藩松平康豊室
養女(長男茲長の娘)→壬生藩鳥居忠意室

5代・茲満(これみつ)
茲親六男 母は正室宗義貞の娘 
生没・宝永7年(1710)~元文元年(1736)
家督・享保16年(1731)相続
従五位下因幡守
正室・福島藩板倉重泰の娘
子女・養子茲延(6代)

6代・茲延(これのぶ)
4代茲親の長男茲長の長男 母は某氏  
生没・享保7年(1722)~宝暦6年(1756)
家督・元文元年(1736)相続
従五位下豊前守
寛保3年(1743)隠居
正室・久留米藩有馬則維の娘
子女・養子茲胤(7代) 
養女(4代茲親の子菅沼定好の娘)→茲胤室

7代・茲胤(これつぐ)
常陸府中藩松平頼明の五男 母は久野氏 
生没・享保10年(1725)~宝暦2年(1752)
家督・寛保3年(1743)相続
従五位下信濃守
正室・茲延の養女
子女・養女(4代茲親の弟矩致の娘)→常陸宍戸藩松平頼多室 養子矩貞(8代) 
茲休(矩貞養子)

8代・矩貞(のりさだ)
4代茲親の子菅沼定好の次男 母は某氏
生没・元文元年(1736)~文化11年(1814)
家督・宝暦2年(1752)相続
従五位下能登守
天明3年(1783)隠居
正室・飫肥藩伊東祐隆の娘
子女・養子茲休(病没、茲胤次男)
女子→高鍋藩秋月種徳室 9代矩賢
茲尚(矩賢養子、10代) 女子→矩賢養女

9代・矩賢(のりかた)
矩貞次男 母は某氏
生没・宝暦11年(1761)~文政4年(1821)
家督・天明3年(1783)相続
従五位下隠岐守
文政2年(1819)隠居
正室・忍藩松平忠啓の娘
子女・女子→大村藩大村純昌室
女子→鯖江藩間部詮允室 養子茲尚(10代)
女子→人吉藩相良頼之室
養女(8代矩貞の娘)→小泉藩片桐貞信室

10代・茲尚(これなお)
8代矩貞の五男 母は某氏
生没・天明6年(1786)~天保元年(1830)
家督・文政2年(1819)相続
従五位下大隈守
正室・白河藩阿部正由の養女
子女・11代茲方 女子→佐伯藩毛利高泰室

11代・茲方(これかた)
茲尚の子 母は某氏
生没・文化12年(1815)~弘化3年(1846)
家督・天保2年(1831)相続
従五位下能登守
天保10年(1839)隠居
正室・棚倉藩松平康任の娘
子女・養子茲監(12年)

12代・茲監(これみ)
久留米藩有馬頼徳の次男 母は某氏
生没・文政8年(1825)~明治18年(1885)
家督・天保10年(1839)相続
藩校養老館では儒学中心から国学・蘭学へ切り替え、兵制では西洋砲術を中心とした改革を行った、元治元年(1864)の長州征討では兵を動かさず、慶応2年(1866)の再征討では長州藩と秘密裡に交渉して中立の立場を貫いた、明治新政府では参与職神祇事務局判事として宗教改革を推進した
従五位下隠岐守
明治4年(1871)隠居
正室・高松藩松平頼恕の娘