京極高氏

京極高氏

(きょうごく・たかうじ) 1296~1373

若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護大名。佐々木宗氏の次男。四郎。左衛門尉・検非違使・佐渡守。法名・道誉(自署では導誉)。母は京極宗綱の娘で、京極貞宗の養嗣子となった。
はじめ鎌倉幕府に従い北条高時に仕えたが、やがて後醍醐天皇に従って建武政権樹立に貢献。その後、足利尊氏に組して後醍醐天皇と戦い、室町幕府成立に貢献。評定衆、引付頭人、政所執事などの室町幕府の要職を歴任した。

●建武政権の成立

 高氏は佐々木宗氏の子として生まれます。従兄にあたる京極氏当主・京極貞宗に子がなかったことから、嘉元2年(1304)、京極氏当主となりました。
 「高氏」の名乗りは、執権・北条高時から「高」の一時をもらったものです。

 高氏は、正和3年(1314)に左衛門尉、元亨2年(1322)には検非違使に任じられています。その後は検非違使の役目を務めて京都に滞在し、正中元年(1324)3月には後醍醐天皇の石清水行幸に随行、橋渡しの行事を勤め、従五位下に叙爵されて大夫判官となります。
 一方で北条高時に相供衆として仕え、嘉暦元年(1326)に高時が出家すると、実兄・貞氏(出家して善観)とともに自らも出家し、導誉と号しました。

 元弘元年(元徳3・1331)に後醍醐天皇が討幕運動を起こし、京を脱出して笠置山に拠ります(元弘の乱)。このとき高氏は幕府方として行動、幕府が編成した鎮圧軍に従軍して主に京都において事後処理を担当しました。
 捕らえられた後醍醐天皇は廃立され、供奉する阿野廉子、千種忠顕らが隠岐島へ配流された際には道中警護などを務めています。

 後醍醐天皇の配流後も河内国の楠木正成らは反幕府活動を続けて幕府に抵抗を示しました。たため、北条氏は下野国の足利尊氏らを討伐に派遣します。
 そして正慶2年(1333)閏2月24日、上皇は隠岐島を脱出します。
 このとき高氏は、後醍醐天皇につく覚悟を決めた尊氏と密約を結び、連携行動を取ったとされています。高氏が軍事的行動に参加した形跡はありませんが、光厳天皇から三種の神器を接収しています。

 そしてついに足利尊氏は幕府に対し反旗を翻し、六波羅探題を攻撃します。一方で上野国の新田義貞もこれに呼応して鎌倉に突入、北条高時はじめ北条一族は自刃し、鎌倉幕府は滅亡しました。

室町幕府成立に貢献

 こうして入京した後醍醐天皇により、建武政権が樹立されます。高氏は雑訴決断所の奉行人となりました。しかしこの建武政権は、政権樹立に功のあった武士層へのが恩賞がきちんとおこなわれずなかったため、その支持を集められませんでした。
 このため各地で反乱が起こり、建武2年(1335)には、北条高時の遺児・時行らが、尊氏の弟・足利直義が守る鎌倉を攻めて占領します(中先代の乱)。
 高氏は尊氏に従って時行の討伐に向かい、時行勢を駆逐して鎌倉を奪還することに成功しました。

 しかし尊氏は、後醍醐天皇の指示を待たずに独断で恩賞の分配を行うなどの行動をとりました。高氏も上総国や相模国の領地を与えられています。
 後醍醐天皇はそんな尊氏に対して上洛を命令しますが、尊氏はこれを拒否します。これは、建武政権に対して武家政権を樹立する事を躊躇する尊氏に対して、高氏が積極的な反旗を勧めていたためといわれています。

 後醍醐天皇は遂に、新田義貞に命じて尊氏・直義を追討させることにしました。尊氏は箱根・竹下の戦いなどで新田軍を破り上洛に成功しますが、奥州から南下してきた北畠顕家らに敗れていったん兵庫から九州へ逃れます。
 高氏もこれに同道しましたが、近江に逃れ、尊氏の九州下向には従っていないともされています。

 高氏は九州から再び東上した足利勢に合流、湊川の戦いで新田・楠木軍を撃破して再上洛を果たし、後醍醐天皇の廃帝を宣言して光明天皇を擁立、北朝を成立さます。
 足利尊氏は征夷大将軍に任命されて室町幕府を樹立し、一方で敗れた後醍醐らは吉野へ逃れて南朝を成立させました。

  延元元年(建武3・1336)の比叡山攻撃直前、尊氏は近江の軍事権を導誉と小笠原貞宗に与えました。
 小笠原氏が近江守護になることを懸念した高氏は、南朝に通じて近江守護に補任された上で近江に入り、尊氏から近江守護に補任されたと触れ回りました。そのため小笠原貞宗は近江を捨て、高氏が単独で近江の軍事権を掌握するのに成功しました。
 こののち高氏は、改めて若狭守護に補任されました。さらに延元3年(暦応元・1338)に近江守護になりましたが、近江は六角氏の支配力が強く、高氏の近江守護は軍事権の掌握に限られていたようです。そのため在職は短期間に終わりました。

 興国元年(1340)、高氏は子・秀綱とともに白川妙法院門跡の御所を焼き討にしました。秀綱の被官が妙法院の紅葉を折ったことから、高氏父子と山門が抗争したのが原因で、この後山門宗徒が処罰を求めて強訴すると配流となってしまいます。
 しかしこれは形だけの配流であったようで、導誉父子一行は物見遊山に出かけたかのような振る舞いであったとされます。

 興国4年(康永2・1343)、高氏はあらためて出雲守護に補任され、幕政に復帰しています。幕府において高氏は引付頭人、評定衆や政所執事などの役職を務め、公家との交渉などを行いました。
 また、正平3年(貞和4年・1348年)の四條畷の戦いなど南朝との戦いにも従軍しています。

●足利政権の重鎮に

 足利幕府の政務は将軍・尊氏と足利家執事の高師直、将軍の弟・直義の二頭体制で行われていたが、師直・直義両者の関係の悪化により、正平5(観応元・1350)ごろから「観応の擾乱」と呼ばれる内部抗争に発展してしまいます。
 高氏は将軍・尊氏側に属しますが、直義は南朝と結んで尊氏を撃破します。その後状況は泥沼化していっため、正平6年(観応2・1351)、南朝は高氏に対し、尊氏・義詮父子と直義を一括して追討することを命じました。このため高氏は、尊氏に南朝と和睦する事を進言します。
 こうして尊氏は南朝に降り、正平一統が成立します。南朝が尊氏に直義追討を命じたため直義は失脚、尊氏により毒殺されました。

 正平7年(1352)南朝軍が京都を制圧、北朝上皇が南朝に奪われて正平一統は破綻します。京都を守備していた足利義詮は近江に逃走しますが、3月、後光厳天皇を擁立して北朝を再建し、南朝軍を破って京都を奪還しました。

 このときの功績をめぐり高氏と山名師氏が対立、山名時氏・師氏父子は南朝に降り、さらに足利直冬(直義の養子)と連携しました。この抗争で、侍所頭人であった高氏の長男・秀綱が近江堅田で戦死しました。そのため秀綱の遺族に出雲・伯耆・因幡の所領が給付されています。

 その後、高氏は正平10年(文和5・1355)に上総守護、正平14年(延文4・1359)飛騨守護、正平15年(延文5年・1360)摂津守護ならびに清和源氏菩提所多田院の管理権を獲得しました。
 さらに近江守護・六角氏頼に次男・秀宗の娘を嫁がせ、佐々木大惣領職として六角氏頼を後見し、近江の実権も得ました。

 正平13(延文3・1358)、尊氏が死去して子の2代将軍・義詮の時代になると、高氏は政所執事などを務め、幕府内における守護大名の抗争を調停、一方で幕府執事(のちの管領職)の細川清氏や斯波高経、斯波義将親子の失脚には積極的に関与しています。
 また、南朝とのパイプを持って交渉も行い、正平22(貞治6・1367)、幕府が関東統治のために鎌倉に設置した鎌倉公方・足利基氏が死去すると、鎌倉へ赴いて事後処理を務めています。同年、高氏は細川頼之を推薦して管領に就任させました。
 このように、義詮政権のもとでは、高氏は主導的な役割を果たしています。

 そして文中2年(応安6・1373)、高氏は78歳の生涯をとじます。戒名は勝楽寺殿徳翁です。
 高氏のあとは、長男・秀綱およびその子秀詮・氏詮、次男・秀宗はいずれも高氏に先立って戦死していたため、三男・高秀が継承しました。

 高氏は婆裟羅大名といわれています。この、婆裟羅とは室町時代の流行で、華美な衣装などで飾り立てること、または横柄な振る舞いをすることという意味合いがあります。
 高氏はその振る舞いはまさに婆裟羅と言われるにふさわしい横柄なものだったと言われていますが、一方で茶道、華道、香道、歌道においてもすぐれた力量を発揮し、しかも世間の人をあっと驚かせるようなスケールの大きい、奇抜なことをやった人のようです。