人名い

井伊直親(いい なおちか)? 1535~1562
井伊氏は南北朝期より活躍した遠江の豪族。井伊谷城主。駿河・今川氏譜代の臣。しかし養父は戦死、父は謀反との讒言で当主義元に殺されている。その為直親も一時身を隠すが、義元戦死後、当主氏真に仕えた。しかし、家老小野但馬の讒言により尾張・織田氏内通の嫌疑を受け、釈明に赴く途上、氏真の命を受けた朝比奈泰朝の軍勢に討たれた。
井伊直政(いい なおまさ)? 1561~1602
父の死後、難を逃れて隠れ住んでいたが、やがて三河・松平元康に近侍する。相模・北条氏との和平交渉の功にて、滅亡した甲斐・武田旧臣を配下に加えて甲州流軍式を取り入れ、赤の軍装で統一、“井伊の赤備え”“井伊の赤鬼”と呼ばれる。長久手の合戦には先鋒として参加し活躍。関ヶ原の合戦においても活躍するが、この時の戦傷が元で亡くなった。徳川四天王の1人。
雷大臣(いかつおおみ) 
①父:臣狭山 母:不明 ②子供:大小橋真根子(壱岐卜部氏・津島氏) ・日本大臣(栗原連祖)・弟子 別名:跨耳命・烏賊津使主  妻:百済女性? 武内宿禰妹? ③卜部姓始祖?亀卜に優れ卜部姓を授けられたとも言われている。 ④記紀記事:14仲哀天皇・神功皇后時代四大夫(大三輪氏・物部氏・大伴氏) の一人となる。神功皇后の審神者。 ⑤中臣烏賊津使主は、紀記事に19允恭天皇舎人として、衣通郎媛の話に登場。これとは同名異人か?(時代は合わない) ・真根子ー御見足尼ー太田彦ー酒人ー神奴子ー卜部忍見ーーー壱岐系卜部氏 松尾大社社家(月読社)乙等。
伊香津臣(いかつおみ) 
母:不明 近江風土記に記事あり。 中臣氏は物部伊香色雄の娘婿となり伊香の地を得たとの説あり。
伊香津臣命(いかつおみのみこと) 
#style(class=box_blue_ssm){{ }} 伊香津臣命。 中臣連の祖で、伊香郡の有力豪族・伊香連の祖でもあります。 伊香津臣命は、『帝王編年記』養老七年癸亥条にみえる羽衣伝説に登場する与胡郷の人、伊香刀美に同一視されます。 伊香刀美は、天女との間に二男二女をもうけたといい、そのなかに意美志留(おみしる)と那志登美(なしとみ)がみえます。 前者は『姓氏録』左京神別上にある中臣氏族伊香連の祖、臣知人命(おみしるひとのみこと)、後者は『尊卑分脈』藤原系図にある中臣連の祖、梨迹臣命(なしとみのみこと)と同一視され、伊香氏は中臣氏と兄弟氏族にあたるという伝承を持っていたようです。 境内社に、臣知人命を祭神とする、三の宮神社があります。縁結びの神として信仰されているそうです。 伊香氏については、物部氏の祖の伊香色雄命に名称が類似する点や、伊香郡内に物部の地名が残る点などから、物部氏との近縁性を指摘する説があります。 吉田東伍氏は、伊香の地名を河内国茨田郡伊香郷に由来する、物部氏の勢力扶植の結果と見ました。 また、太田亮氏も本来は物部氏の同族だったものが、中臣氏へ変化したものとしています。 現在でも、大橋信弥氏が、 「もともと物部連氏の配下として、物部氏と結託関係を結んでいた伊香連氏は、物部氏本宗の没落後、他の同族とともに、中臣氏への接近をはかり、中臣氏の政治的地位の上昇にともなって、ついに物部氏との関係を断って、中臣氏同祖系譜に組み込まれることになった」 とされています。 『三代実録』の貞観元年正月二十七日条には、近江国の従五位上勲八等伊香神に従四位下が授けられ、同八年閏三月七日条には従四位上に神階が昇ったことがみえます。 神宮寺はもと法相宗と伝えますが、その後、真言宗に転宗したと伝えます。明治八年に廃寺になりました。 境内の藤の老木や独鈷水には、弘法大師に付会される伝説があるようです。 #style(class=box_blue_ssm){{ }} ■系譜 天児屋根命の14世孫、または5世孫とされています(伊香具神社の社伝は7世孫)。 御子神は4柱。 臣知人命(オミシルヒトノミコト)、梨迹臣命(ナシトミノミコト)、伊世理命(イゼリノミコト)、伊勢理媛(イゼリヒメ)、奈是理媛(ナゼリヒメ)。 臣知人は伊香姓を賜った伊香氏の祖神とされています。伊香具神社はこの後裔が社家を務めています。 また梨迹臣命は邪馬台国の卑弥呼が魏に遣わした「難升米(ナシメ)」ではないかとする説も(田道間守など説は多数)。この後裔が中臣氏となりました。 さらに伊世理命は畝尾連(ウネビノムラジ)の祖神とされています。大和国十市郡に畝尾坐都多本神社が鎮座しており、関連が考えられます。こちらは「木ノ本(現在は木之本町)」で、伊香具神社は「木之本」。さらにこちらは天香山の麓に鎮座、伊香具神社も背後に香久山を控え旧社地は中腹であったとも。イカツオミ神が大和国十市郡から近江国伊香郡へ拠点を移したのではないでしょうか。 *** 中臣氏の祖、伊香津臣命(いかつおみ)には、臣知人命(おみしるひとのみこと・意美志留)、梨迹臣(なしとみ・那志等美)、伊世理命(いぜりのみこと)、伊是理媛(いぜりひめ)、奈是理媛(なぜりひめ)、という五人の子がある。  景初二年、最初の遣使になったのが、次男の梨迹臣である。この後裔が中臣氏、鹿嶋氏などを輩出する。 また正始四年(243年)、三度目の遣使が、末の弟の伊世理命である。 伊世理命は畝尾連(うねびむらじ)の祖とされる。 姓氏録和泉国神別は畝尾連を天児屋根の後とする。中臣氏や鹿嶋氏系譜の上でも、伊世理命の父、伊香津臣は天児屋根の五世孫であり、系譜との矛盾はない。 そして畝尾と関連すると思われる場所がある。 奈良県橿原市木ノ本に畝尾都多本神社(うねびつたもとじんじゃ)という、延喜式にその名を見る古社がある。 『古事記』上巻国生みの神話の中で『香山の畝尾の木ノ本に坐して』とされる神社である。神社の場所は畝尾の木ノ本である。滋賀県の木之本と同じ地名である。おそらくこちらが元の名であろう。 したがって伊香津臣は、元々はこの橿原の木ノ本に住んでいたと思われる。伊香津臣が移り住んだ、滋賀県の木之本は、伊香津臣の出身地、畝尾(うねび)の木ノ本に由来するとのであろう。  この氏族の祖にあたる、天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、日向から神武に付き従った数少ない、大和王権成立以前からの臣下である。大和王権の成立とともに、王権のお膝元、橿原の地に居を構えた可能性を推測する。 長男の臣知人は木之本に住み、後に伊香具氏となる。二世代後の古加斐命(こかひのみこと)は崇神朝に伊香具神社を祭るとされる。
活杙神(いくぐいのかみ) 
天地開闢の神々の一柱。 『古事記』では、国之常立神に続いて天地開闢の最初にあらわれた神世七代の第四の神。 角杙神活杙神は、男女の神。 『日本書紀』では、神世七代には含まれていない。 杙は棒状の杭で、境界を表わす神。
生島神(いくしまのかみ)? 

伊佐為宗(いさ ためむね) 生年不明 - 承久3年(1221年)
伊達氏の祖。宇治川の戦いで戦死
伊耶那岐神(いざなきのかみ) 
性別:♂ 系譜:高天原の神、神世七代の最後の二神。初めての夫婦神である 神格:人類の起源神、結婚の神 / 創造神、万物を生み出す女神 神社:多賀神社、伊弉諾神社、伊佐須美神社、筑波山神社、三峰神社、愛宕神社、玉置神社、英彦山神宮、江田神社、花窟(ハナノイワヤ)神社、闘鶏神社、波上宮  伊耶那岐神伊耶那美神は、神話のなかに一番最初に出てくる夫婦神である。そこから、夫婦婚姻のはじめとか結婚の神などといわれる。また、結婚して数々の国土を誕生させる国生みや、地上の営みを司る多くの神々を誕生させる「神生み」を行ったことから、国堅めの神、生命の祖神などともされている。特に、男女が結婚して子を産むという、我々の生活にそのまま当てはまる活動をしているという点で、宇宙を創造した天之御中主神をはじめとする他の根源神たちと比べて一番親しみやすい神さまであろう。  この二神は、いってみれば日本の国の祖神といえるわけで、しかも、我々の生活に関わる神々の創造主であることから、一般的に縁結び、子宝、子育て、夫婦円満といったことに始まって、諸々の神徳を発揮する万能の神でもあるとして崇敬されている。ただ、この神がもともとはどういう神であったかということになると、よく分からないことが多い。一般によく言われているのは、古くから各地にその地域社会で信仰されていた土着的な創造神や始祖神がいた。そうした名もない土着神の伝承が、ひとつの神話に整理統合されたのではないかということだ。  その意味では、伊耶那岐神伊耶那美神に関する神話の内容を大陸や東南アジアの神話とつきあわせてその共通性を求めるといった作業をしていくと、日本民族のルーツの問題にもあたる。それについてはまたいつか述べるとして、ここでは我々の身近な神社に祀られている伊耶那岐神伊耶那美神について見ていこう。  神話では、伊耶那岐神は三貴神(天照大神月読神、素盞鳴尊)の父神とされており、高天原の最高神天照大神の祖神に当たるわけである。まず、伊耶那岐神に関して我々がふだんの生活のなかで身近に接することといえば、やはり神社に参拝したときに受けたりする禊祓の儀式である。わざわざ神主からお祓いを受けるまでもなく、拝殿の前にある手水舎(チョウズシャ)で何気なく柄杓に水を汲んで手に注いだりする。これも心身を浄める意味があり、もともとは伊耶那岐神が御祓をしたことにちなむもので、神主が神祭りを行う場合に、精進潔斎して俗世界の汚れを祓い落として豊作などの祈願をおこなう禊祓の儀式を簡略化したものである。神徳がどうのこうの言う以前に、こうした信仰の習慣として我々は伊邪那岐命に触れているというわけである。  伊耶那岐神がおこなった御祓については、別項「禊祓」を参照していただきたい。日本人は古くから穢れ(不浄)というものを特別に意識し、嫌っていたようである。それはなぜかというと、神はそもそも清浄であり、人間は神の「分霊(ワケミタマ=神と同じ自然の一部)」なのだから、その本質は清浄であるべきだと古代の人々は考えたからだ。伊耶那岐神が黄泉の国の穢れを祓い落とす場面などは、生命を尊び、死を嫌うという観念の現れのようである。そこから発展して、人間の罪や悪行、病気やけがなど、正常で平穏な生活に災いをなすいっさいのことは、穢れによるものと考えるようになった。  つまり、たとえば病気でも、その原因は病を起こさせる穢れであって、これを祓い落とすことで病気を治すことができると考えたわけである。禊祓というのは、神に近づきコンタクトする手段であり、それによって神の霊力を受けやすくするということである。  禊祓というものは我々の生活のなかに知らず知らずのうちに入り込んでいる。たとえば盛り塩は、禊祓の方法として古くは海水が使われたことから来たものだし、相撲の力士がまく塩もこれの延長である。他に、人形に罪穢れを託して川に流す流し雛や、旧年中の厄を祓って身を清めるという豆まきの行事も、禊祓の儀式の一種なのである。  一方、伊耶那美神については、多くの大地を生み出したとされることから大地と深く関係した存在と考えられている。伊耶那岐神の天父神的性格に対して大地母神的な性格を持っているといえる。これは、人間が豊穣を願う心を反映しているといえる。  また、禊祓の項で述べたが、伊耶那美神には黄泉の国の神としての顔もある。神でありながらも神で冥府、死の世界の代表者として祀られたりもするわけで、伊耶那岐神がこの世の代表とすると、伊耶那美神はあの世の代表というわけである。黄泉平坂での言い争いにも「わたしは地上の人間を一日に1000人殺す。」「それならばわしは一日に1500の産屋を建てる。」とあるように、伊耶那美神は人間の寿命を司る神でもある。  考えようによっては非常に恐ろしい神だが、やはり多くの神々を生みだした母神的な性格の方が目立つ。伊耶那美神が生みだしたさまざまな神霊がこの世界を限りなく豊かにしてくれているのだ。たとえば、日本の四季折々の変化なども、いってみれば伊耶那美神の営為があったからである。つまり、この神は我々の住むこの世界のよりよい環境や心の豊かさを守ってくれるというのが本来の顔であり、むしろ死の神としての顔の方が一面にすぎないといえるだろう。 ---- 伊耶那岐神   生没年:   父:   妻:伊耶那美神     大綿津見神     大山津見神     迦具土神   三貴子:     天照大神     月読命     建速須佐之男命 ----
伊邪那岐神(いざなぎのかみ) 
伊耶那岐神 日本の祖父神。
伊弉諾神(いざなぎのかみ) 
伊耶那岐神 日本の祖父神。
伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 

伊耶那美神(いざなみのかみ) 
性別:♀ 系譜:高天原の神、神世七代の最後の二神。初めての夫婦神である 神格:人類の起源神、結婚の神 / 創造神、万物を生み出す女神 神社:多賀神社、伊弉諾神社、伊佐須美神社、筑波山神社、三峰神社、愛宕神社、玉置神社、英彦山神宮、江田神社、花窟(ハナノイワヤ)神社、闘鶏神社、波上宮  伊耶那岐神伊耶那美神は、神話のなかに一番最初に出てくる夫婦神である。そこから、夫婦婚姻のはじめとか結婚の神などといわれる。また、結婚して数々の国土を誕生させる国生みや、地上の営みを司る多くの神々を誕生させる「神生み」を行ったことから、国堅めの神、生命の祖神などともされている。特に、男女が結婚して子を産むという、我々の生活にそのまま当てはまる活動をしているという点で、宇宙を創造した天之御中主神をはじめとする他の根源神たちと比べて一番親しみやすい神さまであろう。  この二神は、いってみれば日本の国の祖神といえるわけで、しかも、我々の生活に関わる神々の創造主であることから、一般的に縁結び、子宝、子育て、夫婦円満といったことに始まって、諸々の神徳を発揮する万能の神でもあるとして崇敬されている。ただ、この神がもともとはどういう神であったかということになると、よく分からないことが多い。一般によく言われているのは、古くから各地にその地域社会で信仰されていた土着的な創造神や始祖神がいた。そうした名もない土着神の伝承が、ひとつの神話に整理統合されたのではないかということだ。  その意味では、伊耶那岐神伊耶那美神に関する神話の内容を大陸や東南アジアの神話とつきあわせてその共通性を求めるといった作業をしていくと、日本民族のルーツの問題にもあたる。それについてはまたいつか述べるとして、ここでは我々の身近な神社に祀られている伊耶那岐神伊耶那美神について見ていこう。  神話では、伊耶那岐神は三貴神(天照大神月読神、素盞鳴尊)の父神とされており、高天原の最高神天照大神の祖神に当たるわけである。まず、伊耶那岐神に関して我々がふだんの生活のなかで身近に接することといえば、やはり神社に参拝したときに受けたりする禊祓の儀式である。わざわざ神主からお祓いを受けるまでもなく、拝殿の前にある手水舎(チョウズシャ)で何気なく柄杓に水を汲んで手に注いだりする。これも心身を浄める意味があり、もともとは伊耶那岐神が御祓をしたことにちなむもので、神主が神祭りを行う場合に、精進潔斎して俗世界の汚れを祓い落として豊作などの祈願をおこなう禊祓の儀式を簡略化したものである。神徳がどうのこうの言う以前に、こうした信仰の習慣として我々は伊邪那岐命に触れているというわけである。  伊耶那岐神がおこなった御祓については、別項「禊祓」を参照していただきたい。日本人は古くから穢れ(不浄)というものを特別に意識し、嫌っていたようである。それはなぜかというと、神はそもそも清浄であり、人間は神の「分霊(ワケミタマ=神と同じ自然の一部)」なのだから、その本質は清浄であるべきだと古代の人々は考えたからだ。伊耶那岐神が黄泉の国の穢れを祓い落とす場面などは、生命を尊び、死を嫌うという観念の現れのようである。そこから発展して、人間の罪や悪行、病気やけがなど、正常で平穏な生活に災いをなすいっさいのことは、穢れによるものと考えるようになった。  つまり、たとえば病気でも、その原因は病を起こさせる穢れであって、これを祓い落とすことで病気を治すことができると考えたわけである。禊祓というのは、神に近づきコンタクトする手段であり、それによって神の霊力を受けやすくするということである。  禊祓というものは我々の生活のなかに知らず知らずのうちに入り込んでいる。たとえば盛り塩は、禊祓の方法として古くは海水が使われたことから来たものだし、相撲の力士がまく塩もこれの延長である。他に、人形に罪穢れを託して川に流す流し雛や、旧年中の厄を祓って身を清めるという豆まきの行事も、禊祓の儀式の一種なのである。  一方、伊耶那美神については、多くの大地を生み出したとされることから大地と深く関係した存在と考えられている。伊耶那岐神の天父神的性格に対して大地母神的な性格を持っているといえる。これは、人間が豊穣を願う心を反映しているといえる。  また、禊祓の項で述べたが、伊耶那美神には黄泉の国の神としての顔もある。神でありながらも神で冥府、死の世界の代表者として祀られたりもするわけで、伊耶那岐神がこの世の代表とすると、伊耶那美神はあの世の代表というわけである。黄泉平坂での言い争いにも「わたしは地上の人間を一日に1000人殺す。」「それならばわしは一日に1500の産屋を建てる。」とあるように、伊耶那美神は人間の寿命を司る神でもある。  考えようによっては非常に恐ろしい神だが、やはり多くの神々を生みだした母神的な性格の方が目立つ。伊耶那美神が生みだしたさまざまな神霊がこの世界を限りなく豊かにしてくれているのだ。たとえば、日本の四季折々の変化なども、いってみれば伊耶那美神の営為があったからである。つまり、この神は我々の住むこの世界のよりよい環境や心の豊かさを守ってくれるというのが本来の顔であり、むしろ死の神としての顔の方が一面にすぎないといえるだろう。 ---- 伊耶那岐神   生没年:   父:   妻:伊耶那美神     大綿津見神     大山津見神     迦具土神   三貴子:     天照大神     月読命     建速須佐之男命 ----
伊邪那美神(いざなみのかみ) 
伊耶那美神 日本の祖母神。
伊弉冉神(いざなみのかみ) 
伊耶那美神 日本の祖母神。
伊邪那美命(いざなみのみこと) 
伊耶那美神 日本の祖母神。
石凝姥神(いしこりどめのかみ)? 

五十鈴姫神(いすずひめのかみ) 
事代主神の娘。神武天皇の后。
伊世理命(いぜりのみこと)? 

伊是理媛(いぜりひめ)? 

五十猛神(いそたけるのかみ)? 

市杵嶋姫神(いちきしまひめのかみ) 
水の神様。弁天様と習合。
市千魂(いちたま) 
①父:津速産霊 母:不明 ②子供:興澄魂 ③八坂神社祭神。
逸見清光(いつみ) 1110-1168

懿徳天皇(いとくてんのう) -553綏靖29~-477懿徳34.09.08
母・渟名底仲媛命(ぬなぞこなかつひめのみこと)(鴨王の女) 皇居・曲峡宮(まがりおのみや) 陵墓・陵名: 畝傍山南繊沙谿上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ) 形状: 山形 所在: 奈良県橿原市西池尻町 第4代 懿徳天皇安寧天皇の第2子。安寧11年に立太子。即位後、軽の曲峡宮に遷都して天豊津媛命を皇后とした。 在位34年にして没し、畝傍山南繊沙谿上陵に葬られたという。 略歴 (紀元前) BC553-戊申-綏靖29年 生誕 BC538-癸亥-安寧11年1月1日 立太子 BC511-庚寅-安寧38年12月6日 安寧天皇崩御 BC510-辛卯-懿徳01年02月04日 即位 BC510-辛卯-懿徳01年08月01日 安寧天皇を御蔭井上陵に葬る BC509-癸辰-懿徳2年1月5日 軽の曲峡宮に遷都 BC509-癸辰-懿徳02年02月11日 天豊津媛を皇后とする BC506-乙未-懿徳05年 観松彦香殖稲尊(孝昭天皇)が生まれる BC489-壬子-懿徳22年2月12日 観松彦香殖稲尊(孝昭天皇)を皇太子とする BC477-甲子-懿徳34年09月08日 崩御 BC476-乙丑-10月13日 畝傍山南繊沙谿上陵に葬られる。
石土毘古神(いわづちびこのかみ)?