人名し

塩土老翁神(しおつちおじのかみ)? 

宍戸隆家(ししど たかいえ) 1518~1592
 安芸・五竜城主。宍戸氏は藤原北家八田氏の流れで、常陸を発祥とする。建武年間、安芸に移り住んだ。父元源が安芸・毛利氏と結び、元就の女を隆家が娶って毛利一門と同様の扱いを受ける。以後、主に吉川元春と行動を共にして、毛利氏発展の為に尽くして活躍し、一門の筆頭として遇される。75歳で亡くなった。
下照姫神(したてるひめのかみ) 
安産の神様。
七福神(しちふくじん)? 
庶民に信仰される福の神。
柴田勝家(しばた かついえ)? ????~1583
 斯波氏の庶流か。尾張・織田信秀に仕え、その次子信勝の家老となる。1556年信勝を擁して謀反を起こすが、信勝の兄信長に敗れる(稲生の戦い)。後に信勝を見限って信長に仕え、尾張統一、上洛等に諸戦にめざましい武勇を示し、"甕割柴田""鬼柴田"と異名をとる。1575年には越前一向一揆を平定し、北庄城主なって、織田軍の北陸方面攻略を任される。加賀、能登を平定後、1581年越中平定戦を開始するが、翌年明智光秀に信長が殺された(本能寺の変)時、松倉城攻略中で越後・上杉軍と対峙していた為、引き返すことができず、光秀討伐に間に合わなかった。清洲会議で、烏帽子親になった信長3男信孝を擁すが、羽柴秀吉らと対立。信孝、滝川一益らと共同戦線を張り、1583年近江・賤ヶ岳で秀吉と戦うが敗走、北庄城にて城を囲まれ自刃した。
新発田重家(しばた しげいえ)? 1547?~1587
兄:新発田尾張守長敦(新発田長敦)
 佐々木加地氏の裔。越後・長尾氏臣。初め五十公野氏を継ぐが、兄死後新発田氏に戻る(五十公野氏は妹婿長沢信宗が継ぐ)。智勇に優れ謙信の下活躍し、その死後は景勝を助けた。しかし、恩賞の不満から背いて織田信長に通じて争う。景勝を苦しめるが信長の死で後楯を失い、1587年ついに敗れ落城、自害した。
島親益(しま ちかます) ????~????
土佐・長宗我部の一族。父国親が家臣島某の妻に手を出し生ませた子であったことから、島姓を名乗っていたという。武術に優れ、土佐の豪族本山氏、安芸氏攻め等で活躍した。しかし、病にかかり、療養に出かける途上阿波海部の港にて、豪族海部友光に襲われ討たれた。
島津守久(しまず) 

島津久世(しまず) -1416

島津忠良(しまず) 

島津綱久(しまず) 1632-1673

島津康久(しまず) 1895-1972

島津忠重(しまず) 1886-1968

島津矩久(しまず) 1917-

島津忠秀(しまず) 1912-1996

島津修久(しまず) 1938-

島津家久(しまず いえひさ) 1576~1638
初代薩摩藩主(藩祖)。叔父と同名。 生没・天正4年(1576)~寛永15年(1638) はじめ忠恒。朝鮮の役で戦功を上げた。関ヶ原の戦いでは薩摩に在国、西軍に与するも、許されて本領安堵、戦後家督相続した。大坂の陣冬・夏とも間に合わなかった 1609年琉球に出兵し、寛永11年(1634)旧領に琉球国を加える。
島津重年(しまず しげとし) 1729~1755
7代 生没・享保14年(1729)~宝暦5年(1755) 家督・寛延2年(1749)兄宗信の養子となり相続
島津重豪(しまず しげひで) 1745~1833
8代 生没・延享2年(1745)~天保4年(1833) 家督・宝暦5年(1755)相続 天明7年(1787)隠居 藩校造士館・演武館・医学院・明時館を創設、後に藩政をめぐって嫡男斉宣と対立し、斉宣を隠居させる文化朋党事件を起こす
島津重豪(しまず しげひで) 1745~1833

島津忠義(しまず ただよし) 1840~1897
12代 没年:明治30.12.26(1897) 生年:天保11.4.21(1840.5.22) 家督・安政5年(1858)島津斉彬養子となり相続 *** 江戸時代末期,最後の薩摩藩主。島津久光の長子。茂久と改名した時期もある。斉彬死去ののち遺書により安政5 (1858) 年,島津家 29代の藩主となる。父久光を国父と尊称してその輔佐により幕末の藩政を指導。公武合体政策をとっていたが,薩英戦争ののち,西郷吉之助 (隆盛) ら藩内尊王派の意見に従って尊王討幕,親英政策をとった。王政復古に際しては議定に任じられ,海陸軍総督となった。明治2 (69) 年1月版籍奉還の上表に署名,6月藩知事。同4年7月廃藩置県とともに辞任。 1884年公爵。勲一等。国会開設に伴い貴族院議員に任じられた。 *** 江戸末期の薩摩藩主。久光の長男。藩主斉彬(なりあきら)の死後家を継ぎ、父とともに藩の近代化に尽力。維新後、率先して版籍奉還した。のち、貴族院議員。 *** 幕末の薩摩(さつま)鹿児島藩主。久光の長男。忠徳,茂久(もちひさ)とも称した。19歳で藩主となり,〈国父〉として藩の実権を握った父久光とともに藩政改革を行った。薩英戦争の後,軍備の近代化の必要を感じ,五代友厚らをヨーロッパに派遣しフランス人モンブランと商社設立を協定した。1867年討幕の密勅が下ると大挙出兵,王政復古に努め,戊辰(ぼしん)戦争では倒幕軍の主力として活躍した。後,貴族院議員。国葬となった。 *** 幕末-明治時代の大名,華族。 天保(てんぽう)11年4月21日生まれ。島津久光(ひさみつ)の長男。安政5年薩摩(さつま)鹿児島藩主島津家12代となり,父に後見される。藩の近代化をすすめ,薩英戦争をたたかう。慶応3年討幕の密勅をうけ大兵をひきいて京都に出,王政復古につとめた。戊辰(ぼしん)戦争では新政府軍の主力となる。のち公爵,貴族院議員。明治30年12月26日死去。58歳。初名は忠徳,茂久。通称は又次郎。 *** 幕末維新期の薩摩(鹿児島)藩主。島津久光の長子。安政5(1858)年12月,前藩主斉彬の遺命により襲封,名を茂久とする。時に19歳。藩政の指導は実父久光あるいは西郷隆盛,大久保利通らの有力家臣に委ねた。慶応3(1867)年11月,討幕の密勅を得て率兵上洛,王政復古の政変で誕生の新政府では議定,この直後に忠義と改名。海陸軍務総督,鹿児島藩知事。西南戦争に当たり政府軍と西郷軍の休戦を図ったが失敗。保守化していく父久光によく従う。明治22(1889)年2月11日の大日本帝国憲法発布の式典に列席,「ただ一人(洋服姿でいながら)なお正真正銘の旧い日本のまげをつけているサツマの島津公を認めた。珍妙な光景だ!」とはベルツの日記の一節。まげは,すでに亡い久光への孝心に出ていたのかもしれない。 *** 幕末の薩摩藩主。初名忠徳,茂久。久光の子。伯父斉彬の遺命により1858年(安政5)藩主となる。久光の後見の下に藩政改革と陸海軍備の充実に努め,67年(慶応3)討幕の密勅を奉じて大挙出兵,戊辰戦争には討幕戦の主力として活動した。69年(明治2)版籍奉還を首唱し,のち公爵,貴族院議員となる。 *** 幕末の薩摩藩主。久光の長男。開成所を創設、藩の近代化を進めた。1867年密勅を受けて上洛し、王政復古に尽力。 *** 江戸末期の薩摩藩主。久光の長男。藩主斉彬の死後、父と共に藩政改革に着手し、軍備を充実、藩の近代化につとめた。慶応三年(一八六七)討幕の密勅を受けて京に上り王政復古につくした。維新後、版籍奉還を奏請。のち貴族院議員。
島津忠義(しまず ただよし) 1840~1897
12代 没年:明治30.12.26(1897) 生年:天保11.4.21(1840.5.22) 家督・安政5年(1858)島津斉彬養子となり相続 *** 江戸時代末期,最後の薩摩藩主。島津久光の長子。茂久と改名した時期もある。斉彬死去ののち遺書により安政5 (1858) 年,島津家 29代の藩主となる。父久光を国父と尊称してその輔佐により幕末の藩政を指導。公武合体政策をとっていたが,薩英戦争ののち,西郷吉之助 (隆盛) ら藩内尊王派の意見に従って尊王討幕,親英政策をとった。王政復古に際しては議定に任じられ,海陸軍総督となった。明治2 (69) 年1月版籍奉還の上表に署名,6月藩知事。同4年7月廃藩置県とともに辞任。 1884年公爵。勲一等。国会開設に伴い貴族院議員に任じられた。 *** 江戸末期の薩摩藩主。久光の長男。藩主斉彬(なりあきら)の死後家を継ぎ、父とともに藩の近代化に尽力。維新後、率先して版籍奉還した。のち、貴族院議員。 *** 幕末の薩摩(さつま)鹿児島藩主。久光の長男。忠徳,茂久(もちひさ)とも称した。19歳で藩主となり,〈国父〉として藩の実権を握った父久光とともに藩政改革を行った。薩英戦争の後,軍備の近代化の必要を感じ,五代友厚らをヨーロッパに派遣しフランス人モンブランと商社設立を協定した。1867年討幕の密勅が下ると大挙出兵,王政復古に努め,戊辰(ぼしん)戦争では倒幕軍の主力として活躍した。後,貴族院議員。国葬となった。 *** 幕末-明治時代の大名,華族。 天保(てんぽう)11年4月21日生まれ。島津久光(ひさみつ)の長男。安政5年薩摩(さつま)鹿児島藩主島津家12代となり,父に後見される。藩の近代化をすすめ,薩英戦争をたたかう。慶応3年討幕の密勅をうけ大兵をひきいて京都に出,王政復古につとめた。戊辰(ぼしん)戦争では新政府軍の主力となる。のち公爵,貴族院議員。明治30年12月26日死去。58歳。初名は忠徳,茂久。通称は又次郎。 *** 幕末維新期の薩摩(鹿児島)藩主。島津久光の長子。安政5(1858)年12月,前藩主斉彬の遺命により襲封,名を茂久とする。時に19歳。藩政の指導は実父久光あるいは西郷隆盛,大久保利通らの有力家臣に委ねた。慶応3(1867)年11月,討幕の密勅を得て率兵上洛,王政復古の政変で誕生の新政府では議定,この直後に忠義と改名。海陸軍務総督,鹿児島藩知事。西南戦争に当たり政府軍と西郷軍の休戦を図ったが失敗。保守化していく父久光によく従う。明治22(1889)年2月11日の大日本帝国憲法発布の式典に列席,「ただ一人(洋服姿でいながら)なお正真正銘の旧い日本のまげをつけているサツマの島津公を認めた。珍妙な光景だ!」とはベルツの日記の一節。まげは,すでに亡い久光への孝心に出ていたのかもしれない。 *** 幕末の薩摩藩主。初名忠徳,茂久。久光の子。伯父斉彬の遺命により1858年(安政5)藩主となる。久光の後見の下に藩政改革と陸海軍備の充実に努め,67年(慶応3)討幕の密勅を奉じて大挙出兵,戊辰戦争には討幕戦の主力として活動した。69年(明治2)版籍奉還を首唱し,のち公爵,貴族院議員となる。 *** 幕末の薩摩藩主。久光の長男。開成所を創設、藩の近代化を進めた。1867年密勅を受けて上洛し、王政復古に尽力。 *** 江戸末期の薩摩藩主。久光の長男。藩主斉彬の死後、父と共に藩政改革に着手し、軍備を充実、藩の近代化につとめた。慶応三年(一八六七)討幕の密勅を受けて京に上り王政復古につくした。維新後、版籍奉還を奏請。のち貴族院議員。
島津継豊(しまず つぐとよ) 1701~1760
5代 生没・元禄14年(1701)~宝暦10年(1760) 家督・享保6年(1721)相続 延享3年(1746)隠居
島津綱貴(しまず つなたか) 1650~1704
3代 生没・慶安3年(1650)~宝永元年(1704) 家督・貞享4年(1687)相続
島津斉彬(しまず なりあきら) 1809~1858
11代 生没・文化6年(1809)~安政5年(1858) 家督・嘉永4年(1851)嘉永朋党事件収拾により相続、殖産興業・洋式武備に努める
島津斉興(しまず なりおき) 1791~1859
10代 生没・寛政3年(1791)~安政6年(1859) 家督・文化6年(1809)祖父重豪の後見のもとで 相続、調所広郷を起用して財政再建 嘉永2年(1849)嘉永朋党事件(お由羅騒動)が起こり、老中阿部正弘の裁断で嘉永4年隠居
島津斉宣(しまず なりのぶ) 1769~1841 (1773-1841)

島津光久(しまず みつひさ) 1616~1694
2代 生没・元和2年(1616)~元禄7年(1694) 家督・寛永15年(1638)相続 貞享4年(1687)隠居
島津宗信(しまず むねのぶ) 1728~1749
6代 生没・享保13年(1728)~寛延2年(1749) 家督・延享3年(1746)相続
島津吉貴(しまず よしたか) 1675~1747
4代 生没・延宝3年(1675)~延享4年(1747) 家督・宝永元年(1704)相続 享保6年(1721)隠居
島津(しまづ) 

島津家(薩摩藩)(しまづ) 

島津尚久(しまづ) 1531-1562

島津成久(しまづ) ?-?

島津家久(しまづ) 
永吉家 島津家久 生没年:1547-1587 父:陸奥守 島津貴久 又七郎 中務大輔 日向佐土原城主 妻:(父:安芸守 樺山善久) 娘(禰寝重張妻) 娘(佐多久慶妻) 1570-1600 豊久 忠仍(義父:東郷重尚) 娘(島津久信および相良頼安妻)
島津忠時(しまづ) 1202-1272

島津忠経(しまづ) 

島津久経(しまづ) 1225-1284

島津忠宗(しまづ) 1251-1325

島津貞久(しまづ) 1269-1363

島津師久(しまづ)? 1325-1376

島津伊久(しまづ) 1347-1407

島津氏久(しまづ) 1328-1387

島津元久(しまづ) 1363-1411

島津久豊(しまづ) 1375-1425

島津忠国(しまづ) 1403-1470

島津立久(しまづ) 1432-1474

島津忠昌(しまづ) 1463-1508

島津忠治(しまづ) 1489-1515

島津忠隆(しまづ) 1497-1519

島津家久(しまづ いえひさ) 1547~1587
薩摩・島津氏一族。軍略に優れ、各地を転戦活躍する。肥前・龍造寺氏攻略の際には大将を務め、10倍の軍勢を打ち破る。しかし、豊臣秀吉の九州征伐に降伏。秀吉の弟秀長に招かれ酒宴に出た時、急に苦しみ息絶えた。家久の武勇を怖れ毒�Eされたといわれる。 ---- 日向佐土原城主。九州各地を転戦し、羽柴秀吉の九州平定に際し抵抗。のち降伏したが、毒殺された。
島津勝久(しまづ かつひさ) 1503~1573
兄二人の死により、若年にして第14代薩摩守護職を継いだ為、妻の兄薩州家島津実久を執権とする。しかし、実久は専横な振舞をするようになり、成長してきた勝久と不和になって、勝久は実久を執権から外し追い出した為、実久の攻撃を受けた。そこで勝久は相州家島津忠良を頼り、その長子貴久を養子として跡を譲るが、しばらくすると今度は実久に担がれ、守護に返り咲こうとして、忠良・貴久と不和となる。しかし家中に離反され孤立し、薩摩を身一つで逃げ出して、最期は豊後にて行き倒れ状態で亡くなったといわれる。
島津貴久(しまづ たかひさ) 1514-1571
薩摩・島津氏本家勝久の養子となり、本家を継ぐ。しかし、養父とは不仲となり、実父忠良と共にこれと争い勝った。その後、島津氏の勢力を伸ばして敵対する近隣の国人と争うが、大隅平定の時、急病に倒れ亡くなった。忠良と共に島津氏中興の祖とされる。 ---- 島津勝久の養子となり、本家を相続。のち、不和となった島津勝久らと戦い、薩摩を統一、島津氏の基礎を築いた。
島津忠恒(しまづ ただつね) 1576~1638
薩摩・島津義弘の三男。幼時より武を好み、父と共に朝鮮出征に参加して勇名をはせる。帰国後、主家を蔑ろにする伊集院忠棟を京都伏見にて誅し、本国にて反旗を揚げた忠棟の一族を討った。関ヶ原の戦い後、家督を継いで徳川家康に拝謁し、松平の家号を許され、諱を受けて家久と名乗る。1609年琉球へ樺山久高らを派兵、尚寧を降し管轄とした。
島津忠久(しまづ ただひさ) 1179-1227
*** [生]治承3(1179) [没]嘉禄3(1227).6.18. 鎌倉? 鎌倉時代の武将。島津氏の祖といわれる。源頼朝の庶子ともいわれ,出自は諸説あって不明。鎌倉幕府の成立で,薩摩島津荘地頭職ならびに薩摩,大隅,日向3国守護職に補任された。 *** 鎌倉時代の武将で,島津氏初代とされる。法名は得仏(とくぶつ)。惟宗(これむね)姓で,近衛(このえ)家の家司(けいし)惟宗氏の出か。1185年島津荘下司(げし)職,翌年惣地頭職に補任。1189年には奥州征伐(合戦)に参加した。1197年薩隅両国家人奉行人(守護)となり,続いて日向国・越前国の守護となった。1203年比企氏(ひきし)の乱に縁座し,薩隅日三州守護・地頭職を没収された。のち薩摩国のみ復職。薩摩下向については諸説あるが不詳。被官を下向させ,自身は京都または鎌倉にとどまっていたとも考えられる。 *** ?-1227 鎌倉時代の武将。 島津氏初代。文治(ぶんじ)2年(1186)南九州の島津荘の地頭となり,島津を称す。5年源頼朝の奥州藤原攻めに参加。建久8年薩摩(さつま)・大隅(おおすみ)守護,のち日向(ひゅうが)守護もかねる。比企能員(ひき-よしかず)の乱に連座し罷免されたが,のち薩摩守護のみ復職。承久(じょうきゅう)の乱後,越前(えちぜん)守護にもなる。嘉禄(かろく)3年6月18日死去。本姓は惟宗(これむね)。 *** 没年:安貞1.6.18(1227.8.1) 生年:生年不詳 鎌倉前期の武士。摂関家の下家司を世襲した惟宗氏の出身。左兵衛尉に任じて皇嘉門院聖子に仕え,同院領山城国(京都府)上久世荘内石原方に権益を有した。源頼朝の乳母比企尼の縁者であったことから鎌倉御家人となり,文治2(1186)年南九州の大荘園である島津荘の地頭職を与えられて島津氏を称した(島津氏初代)。建久8(1197)年薩摩・大隅守護,その後,日向の守護も兼ねたが,建仁3(1203)年の比企氏の乱に連座して収公される。のち薩摩のみ旧に復した。承久の乱後,越前守護にも補された。幕府出仕後も京都で活動することが多く,官は左衛門尉・検非違使から豊後守にまで進んだ。 *** ?‐1227(安貞1) 鎌倉時代の薩摩・大隅・日向国守護。法名得仏。島津氏初代,惟宗姓。系図は源頼朝庶子。母は比企能員妹丹後局,惟宗広言の養子とするが不詳。幕末に以仁王遺子説が生まれたが誤り。近衛家の家司惟宗氏の出か。生年については1179年(治承3)説があるが疑問。85年(文治1)島津荘下司職,翌年惣地頭職補任。89年には島津荘荘官を率いて奥州征伐に参加。97年(建久8)薩隅両国家人奉行人(守護)となり,ついで日向・越前国守護。 *** 鎌倉初期の武将。島津氏の初代。「島津家譜」などの系図類によれば、源頼朝(よりとも)の庶長子、母は比企能員(ひきよしかず)の妹丹後局(たんごのつぼね)で、近衛(このえ)家の家司(けいし)惟宗(これむね)広言の養子とするが疑問。近衛家の家司出自説が有力である。生年については1179年(治承3)説があるが不詳。姓は惟宗、のち藤原とも称した。1185年(文治1)6月、伊勢国(いせのくに)須可荘(すかのしょう)・波出御厨地頭職(はでのみくりやじとうしき)に補任(ぶにん)、以降、島津荘下司職(げししき)・信濃国(しなののくに)塩田荘(しおだのしょう)地頭職に補任された。89年7月の奥州藤原氏征伐に従軍。97年(建久8)12月、大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)の守護となり、のち日向(ひゅうが)の守護も兼ねた。1203年(建仁3)9月、比企能員の乱に縁座し、3か国の守護などを罷免されたが、まもなく薩摩の守護にのみ復した。13年(建保1)の和田義盛(よしもり)の乱に戦功をたて、21年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱後には、功により越前(えちぜん)守護となった。官途は、初め左兵衛尉(さひょうえのじょう)、のち左衛門尉(さえもんのじょう)、25年(嘉禄1)大夫尉(たいふのじょう)となり、のち豊後守(ぶんごのかみ)に任ぜられた。嘉禄(かろく)3年6月18日、鎌倉で没す。[菊池紳一] *** 【薩摩国】より …旧国名。薩州。鹿児島県西半部。 【古代】  西海道に属する中国(《延喜式》)。大隅国と同じく日向国より分出し,合わせて南九州の三国,奥三州などと呼ばれた。《日本書紀》白雉4年(653)7月条に〈薩麻之曲竹島之間〉とみえ,《続日本紀》大宝2年(702)8月条に薩摩・多 (たね)を征討し,戸を校(かんが)え吏を置く,10月条に唱更(はやひと)国司の言上で国内の要害に柵を建て兵を置くとあり,その説明に唱更国とは今の薩摩国府なりとあることから,このころ薩摩国は日向国より分出設置されたと思われる。…
島津忠将(しまづ ただまさ) 1520~1561
薩摩・島津氏一族。軍事面で活躍しその武勇は近隣に響いていたが、大隅・肝属氏との戦いにて、部将町田伊賀守の勇み足の為、挟撃を受けて戦死した。
島津忠良(しまづ ただよし) 1492~1568
父善久は島津伊作家8代目当主久逸長子。しかし、父は早くに死に、母が島津相州家の運久に再嫁した為、相州家を継いだ。その後、嫡子貴久を本家勝久の養子として本家を継がせ、反抗する同族、豪族をまとめ上げる。その後島津氏の勢力を伸ばしていき、島津氏中興の祖と呼ばれた。 ---- 島津勝久島津実久を追放し、子の島津貴久を守護職につけた。島津氏中興の祖といわれる。
島津歳久(しまづ としひさ) 1537~1592
薩摩・島津氏の一族。豊臣秀吉の九州征伐では最後まで抗戦しようとしたが、説得され降った。しかし、豊前・平戸にて島津家臣による梅北の乱が起こった時、歳久の家臣も多く参加していたことから、歳久にも謀反の嫌疑がかかり、竜ヶ水に籠もった。しかし、敵わず自害して果て、首は京のもどり橋に晒された。 ---- 秀吉の九州征伐に最後まで抵抗し、朝鮮出兵にも出陣を拒否した。秀吉の憤激を買い、自害した。
島津豊久(しまづ とよひさ) 1570~1600
薩摩・島津氏一族。関ヶ原の戦いにおいて、敗れた西軍についた島津軍が退却する際、大将島津義弘を逃がすため殿軍を務め、現れた東軍福島正之勢に義弘を名乗って斬り込み討ち死にした。 ---- 小田原征伐などに戦功があった。関ヶ原の戦いで西軍に付き、島津義弘の身代わりとなって戦死。
島津久保(しまづ ひさやす) 1573~1593
父と共に朝鮮出征に参加するが、陣中において病死した。日本軍の兵糧不足による栄養失調の為といわれる。21歳。
島津以久(しまづ もちひさ) 1550~1610
薩摩・島津氏一族。各地を転戦し功をたてる。島津豊久が関ヶ原の合戦で戦死し、絶えた佐土原島津家の後を継いで佐土原藩初代藩主となる。居城、城下の整備を行い、諸士禄高に応じ「田免征矢」を納めさせる等、理財に長じていた。 1603-1610 日向佐土原藩初代藩主 室:(父:北郷時久)   1567-1595 島津彰久(垂水家へ)   入来院重時(義父:入来院重豊) 室:原氏   娘(北郷忠能妻) 室:松本氏   1599-1637 島津忠興 室:岩本氏
島津義久(しまづ よしひさ) 1533~1611
第16代薩摩守護島津氏当主。弟島津義弘と協力して、豊後・大友氏、肥前・龍造寺氏ら有力大名を打ち破り九州を掌中にする。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け、抗戦するも敵わず降伏し、薩摩・大隅2国と日向の一部を安堵された。関ヶ原の戦いでは、西軍につき敗戦した島津義弘に代わり上京、家康に謝罪している。古今伝授を受け、教養高い武将でもあった。 ---- 九州平定に尽力し、各地を転戦。1587年秀吉の九州征伐に抵抗するが、のち降伏。薩摩を安堵された。子が無かったので、弟島津義弘に家督を譲った。
島津義弘(しまづ よしひろ) 1535~1619
薩摩・島津氏一族。当主の兄義久を助け、各地を転戦武名を轟かせた。その武名を知る、日向・伊東氏との戦いに苦戦する豊州家島津忠親に請われ養子となり、その戦いを助け日向攻略に貢献する。豊臣秀吉の朝鮮出征の際には、泗川の戦いにおいて10倍以上の朝鮮軍を敗り、"鬼石蔓津"と怖れられた。関ヶ原の戦いではやむなく西軍につくが、大勢が決するや敵中突破退却した。家中の信望厚く義弘が亡くなった際は、木脇祐秀、折田和泉ら13名が後を追い禁制の殉死を遂げている。 ---- 兄義久の九州制覇に従い、各地を転戦。後、秀吉の九州平定戦に降伏した義久の後を継ぐ。朝鮮出兵、関ヶ原などで活躍。
清水宗治(しみずむねはる) 1537-1582
毛利氏の家臣。小早川隆景に属した。織田信長の中国侵攻に抵抗したが、羽柴秀吉の水攻めに遭い、切腹した。
順徳天皇(じゅんとくてんのう) 1197-1242
  父:後鳥羽天皇     1200-1210 皇太子     1210-1221 順徳天皇   中宮:東一条院 藤原立子(父:摂政太政大臣 九条良経)     1217-1243 明義門院 諦子内親王     1218-1234 懐成親王   女:(父:熱田大宮司 従三位 藤原清季)     1215-1264 天台座主 尊覚法親王     1217-? 園城寺長吏 覚恵法親王     1222-1280 岩倉宮 忠成王(以下保留)   典侍:(父:権中納言 藤原範光)     1219-1286 彦成王     1233-1317 四辻宮 善統親王(以下保留)   女:大納言局(父:内大臣 坊門信清)     1216-1279 永安門院 ?子内親王     -1300 義尹     慶子     忠子     千歳宮 住まい 平安宮 陵墓 陵墓=大原陵 形状=円丘 場所=京都市左京区大原勝林院町   略歴 (12世紀)(13世紀) 1197-丁巳-建久08年09月10日 生誕 1200-庚申-正治02年04月15日 立太子 1210-庚午-承元04年11月25日 即位 1221-辛巳-承久03年04月20日 退位 1242-壬寅-仁治03年09月12日 崩御 46歳
白山姫神(しらやまひめのかみ) 
白山神社の御祭神。
神功皇后(じんぐうこうごう)? 

神武天皇(じんむてんのう)