伊達綱宗

伊達綱宗

だて つなむね
 1640年9月23日(寛永17年8月8日) - 1711年7月19日(正徳元年6月4日)
別:幼名は巳之助,通称は藤次郎。左近衛権少将、陸奥守、美作守、従四位下、亘理綱宗:わたり つなむね
父:第2代藩主伊達忠宗の六男
母:側室櫛笥隆致の娘・貝姫
室:なし
子:4代伊達綱村 女子→4代伊達綱村養女 女子→柳川藩立花忠茂の子貞晟室 伊達宗贇(宇和島藩伊達宗利養子)
伊達綱宗の長男・・・4代・伊達綱村
生没・万治2年3月8日(1659年4月29日) - 享保4年6月20日(1719年8月5日)
伊達綱宗の次男・・・伊達村和(中津山藩主)
寛文元年8月25日(1661年9月18日) - 享保7年6月29日(1722年8月10日)
伊達綱宗の三男・・・伊達宗贇(宇和島藩3代藩主)
寛文5年1月15日(1665年3月1日) - 宝永8年2月18日(1711年4月5日)
伊達綱宗の四男・・・伊達村直
寛文6年10月28日(1666年11月24日) - 宝永6年2月12日(1709年3月22日)

江戸時代前期;中期の大名
仙台藩3代藩主。伊達氏19代当主
母、貝姫の姉は後西天皇の母(逢春門院)で,綱宗は天皇の従兄弟に当たる。
万治1 (1658) 年9月3日封を継ぎ陸奥(むつ)仙台藩主伊達家3代と,閏 12月 29日陸奥守に任じられたが,酒色におぼれて,大酒と風流数奇の性癖が甚だしく,親類や老臣が意見を繰り返しても聞き入れなかった。伊達家一門衆の伊達宗勝と綱宗の親類大名である立花忠茂,池田光政,京極高国は伊達家の将来について話し合い,幕府老中酒井忠清に問題の解決を相談した。こうした根回しを経たのち,3年7月に伊達家の一門,重臣14名による連判状をもって綱宗の隠居と2歳になる実子亀千代(綱村)の家督相続を幕府に出願し,同8月に幕府はこれを許可し、在任2年で退隠させられた。
本事件はいわゆる伊達騒動の発端をなすもので,昔から一門の伊達宗勝らによる陰謀とする説が根強いが,実際には池田光政を中心とする親類大名たちの協議に基づき,伊達家安泰の観点からとられた措置なのであった。
隠居後の綱宗は品川屋敷に住み品川隠公とよばれ,和歌,書画,彫刻,作刀などに優れた作品を残した。
正徳(しょうとく)元年6月4日死去。72歳。墓は仙台の瑞鳳寺。

伊達騒動】
寛文事件ともいう。1660年(万治3)江戸の小石川堀普請に際する不行跡のとがめにより藩主伊達綱宗は隠居を命じられ,2歳の亀千代(綱村)が襲封した。叔父伊達兵部少輔宗勝,庶兄田村右京宗良がそれぞれ3万石を分知され後見となり,幕府国目付の毎年派遣の下に藩政が行われた。


伊達政宗━┳━伊達秀宗
     ┣━伊達忠宗━┳━
     ┣━伊達宗清 ┣━伊達光宗
     ┣━伊達宗泰 ┣━伊達宗良
     ┣━     ┃(田村宗良)
     ┣━     ┣━
     ┣━伊達宗高 ┣━伊達宗倫
     ┣━     ┣━伊達綱宗━┳━伊達綱村───(伊達吉村)
     ┣━伊達宗実 ┣━     ┣━伊達村和
     ┗━伊達宗勝 ┗━伊達宗房 ┣━伊達宗贇
                   ┗━伊達村直


伊達家