佐々木宗氏

佐々木宗氏

佐渡判官宗氏(入道賢観)

佐々木宗氏(1269-1329)京極宗綱養子。実父佐々木満信(佐渡守)。本名宗信。三郎。左衛門尉、検非違使、佐渡守。評定衆に列し(続群書類従本佐々木系図)、応長元年(1311)10月26日に出家したが、元応元年(1319)閏7月に東使を勤めている(内閣文庫所蔵大乗院文書『文保三年記』応長元年閏7月28日条に「東使両人(行海・賢親)奏聞条々」とあり、金沢文庫古文書180号に「寺門事、御使能登入道・佐渡判官入道両人治定候了」とある)。元徳元年(1329)7月16日に、享年61歳で没した。
 このように宗氏が幕府要職を歴任したのは、叔父京極宗綱の婿養子になったからである。同じく京極宗綱の婿であった隠岐流佐々木時清(左衛門尉・検非違使・隠岐守)も、引付衆・評定衆・東使を歴任した(『関東評定衆伝』)。ただし宗氏が養子になって京極氏を嗣いだのか、それとも宗氏は佐渡家のままで子息高氏(佐渡大夫判官入道導誉)が直接宗綱の養子になって京極氏を嗣いだのかは不明である。
 宗氏の子息のうち次男貞氏(近江守、入道善観)と三男高氏(佐渡大夫判官、入道導誉)は父宗氏と同様、幕府に重用されて、正中3年3月23日北条高時が出家したときには同時に出家した。元弘の変でも、はじめは佐々木源太左衛門尉(加地時秀)・佐々木隠岐前司(隠岐清高)・佐々木備中前司(大原時重)ら佐々木一族とともに幕府方の大将として上洛したが(『光明寺残篇』)、のちに討幕軍に参加して、雑訴決断所衆に列した。室町幕府でも貞氏は引付衆に列し、子孫は蒲生郡鏡庄を本拠にして幕府奉公衆になった。高氏は評定衆・引付頭人・政所執事を歴任して四職京極氏の基礎を築いている。
 宗氏の長男定信は近江甲賀郡池田を本拠に京極氏から自立して甲賀衆となり、子孫は六角氏重臣になっている。また宗氏の四男貞満(高谷)、五男秀信(岩山氏)、六男時満(鞍智氏)も京極氏からは自立して、それぞれ幕府奉公衆になっている。宗氏の弟宗満(四郎左衛門尉)からは幕府奉公衆黒田氏(備前家)が出ており、やはり評定衆など幕府要職に列している。