信長の家、弾正忠家の家系に関して、新しい解釈が登場

信長の家、弾正忠家の家系に関して、新しい解釈が登場

織田信長はいわゆる三英傑の中では比較的ちゃんとした血筋の人です。素性のまったくわからない秀吉、先祖が何者かわからない「松平」家康と比べると、信長の場合は何百年かさかのぼれる織田一族の一人ということになります。
 
その意味では若き信長を語る上で父の信秀(のぶひで)、祖父の信貞(のぶさだ)、そして曽祖父の良信(すけのぶ)、さらに織田一族の祖先をひと通り知っておくと、信長の心情はより理解できるでしょう。とはいえ、よくわかっていない事の方が多いため、わかっている範囲でいろいろ推測するしかないのですが。

信長公記首巻には、信長の織田弾正忠(だんじょうのじょう)家は「西巌、月巌、今の備後守(信秀のこと)」とつながってきたと書かれています。西巌(さいがん)、月巌(げつがん)というのは死んだあとにつけられる道号というもので、備後守信秀は桃巌(とうがん)、戒名は桃巌道見大禅定門です。そして信長は泰巌(たいがん)です。

一宮市にある古刹、妙興寺の信秀あてと思われる文書の中に、妙興寺の一部所領が材巌の代や月巌の代に召しおかれた(取り上げられた)とあることから、信長公記に書かれた西巌はどうやら材巌とするのが正しいのでは(当時の文書は読み仮名に濁点を付けないので「さいかん」と表記されたため)と推測されています。また、他の文書からはその材巌(西巌)は織田良信(信長のひいおじいさん)、月巌が信貞(信長のおじいさん)と考えられています。

つまり信長の織田弾正忠家は、信を通り字として使い、良信(材巌)→信貞(月巌)→信秀(桃巌)→信長(泰巌)→信忠(悦巌)→秀信(圭厳・幼名は三法師)と六代つながるわけです。残念ながら秀信で断絶してしまいましたが。
勝幡城址にある織田弾正忠平朝臣信定古城蹟の碑

では材巌(西巌)良信の前は、というとこれがよくわからない。以前は織田敏定の子供が信貞とされていました。織田敏定は応仁の乱、そしてその後に活躍し、清須で守護代となって尾張半国をおさめることになった織田大和守家の頭領。しかしこの3月30日に発行された「愛知県史 通史編3 中世2・織豊」では良信は敏定の父の子供ではないかと推察しています。良信は敏定の兄弟ということですね。

つまりこの良信が守護代大和守家から分家して弾正忠家となったのではないかということになります。敏定は1495年に44歳で死んだとも言われていますので、弟の良信はその頃40歳位でしょうか。するとその頃、息子の信貞が15歳位。信貞の息子として信秀が生まれるのは15年後の1511年、そのまた息子の信長は1534年生まれですから、だいたいうまくつながっていきます。信長から見ると「ひいおじいさんの時に本家から分家したのがうちの家」です。そう昔のことではないという感覚が信長にはあったのではないかと想像できます。
名鉄勝幡駅にある信秀と土田御前、赤子の信長の像

ではそれ以前の織田氏ですが、もともとは福井県丹生郡越前町織田(読みはオダではなくオタ)の劔神社の神職であったとされています。後に信長が越前へ軍を進めた時、家臣の柴田勝家がこの神社を信長の氏神としているので、信長も祖先がここの出であることを了解していたようです。信長は自らを平氏だと言ったり、藤原氏だと言ったりしています。しかし現代では織田氏は古代の司祭を司る忌部氏という説が強くなってきています。ただこれに関しては確かなことはわかりません。

越前の守護は三管領の一つの斯波氏で、織田氏は斯波氏の家臣、守護代として仕えました。やがて斯波氏は尾張の守護に任ぜられ、織田氏も尾張と関係が深まります。織田氏のうち伊勢守を称する家が守護代となり、大和守を称する家が又代となり、尾張に赴任しましたが、それは1400年のことでした。当時は守護や守護代は在京することになっており、又代が任地を直接治めたということです。つまり織田氏はもともと尾張土着の一族ではなく、信長の生まれる130年ほど前に尾張にやってきた一族ということになります。
織田劔神社本殿

ということで今度の休日に、越前国二ノ宮である織田劔神社(福井県丹生郡越前町織田113-1)へ行ってみませんか。クルマで行くことをオススメしますが、北陸自動車道鯖江ICから西へ30分ほどとそう遠くはありません。劔神社本殿は1627年のもので、千鳥破風や唐破風をもつ屋根は織田造りと称されるとのこと。神社のとなりにある越前町織田蔵文化歴史館には劔神社より寄託された国宝の梵鐘があり、織田の歴史展示もありますから立ち寄ることをお忘れなく。鯖江ICから東へ50分ほどの一乗谷朝倉氏遺跡、織田劔神社からさらに西へ30分ほどの越前海岸へも行けば、一日楽しめるでしょう。