古事記 中-1

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古事記 中の卷

一、神武天皇

東征
――日向から發して大和にはいろうとして失敗することを語る。速吸の門の物語の位置が地理の實際と合わないのは、諸氏の傳來の合併だからである。――
 カムヤマトイハレ彦の命(神武天皇)、兄君のイツセの命とお二方、筑紫の高千穗の宮においでになつて御相談なさいますには、「何處の地におつたならば天下を泰平にすることができるであろうか。やはりもつと東に行こうと思う」と仰せられて、日向の國からお出になつて九州の北方においでになりました。そこで豐後のウサにおいでになりました時に、その國の人のウサツ彦・ウサツ姫という二人が足一つ騰りの宮を作つて、御馳走を致しました。其處からお遷りになつて、筑前の岡田の宮に一年おいでになり、また其處からお上りになつて安藝のタケリの宮に七年おいでになりました。またその國からお遷りになつて、備後の高島の宮に八年おいでになりました。

速吸の門
 その國から上つておいでになる時に、龜の甲に乘つて釣をしながら勢いよく身體を振つて來る人に速吸の海峽で遇いました。そこで呼び寄せて、「お前は誰か」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神です」と申しました。また「お前は海の道を知つているか」とお尋ねになりますと「よく知つております」と申しました。また「供をして來るか」と問いましたところ、「お仕え致しましよう」と申しました。そこで棹をさし渡して御船に引き入れて、サヲネツ彦という名を下さいました。

イツセの命
 その國から上つておいでになる時に、難波の灣を經て河内の白肩の津に船をお泊めになりました。この時に、大和の國のトミに住んでいるナガスネ彦が軍を起して待ち向つて戰いましたから、御船に入れてある楯を取つて下り立たれました。そこでその土地を名づけて楯津と言います。今でも日下の蓼津と言つております。かくてナガスネ彦と戰われた時に、イツセの命が御手にナガスネ彦の矢の傷をお負いになりました。そこで仰せられるのには「自分は日の神の御子として、日に向つて戰うのはよろしくない。そこで賤しい奴の傷を負つたのだ。今から※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて行つて日を背中にして撃とう」と仰せられて、南の方から※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つておいでになる時に、和泉の國のチヌの海に至つてその御手の血をお洗いになりました。そこでチヌの海とは言うのです。其處から※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つておいでになつて、紀伊の國のヲの水門においでになつて仰せられるには、「賤しい奴のために手傷を負つて死ぬのは殘念である」と叫ばれてお隱れになりました。それで其處をヲの水門と言います。御陵は紀伊の國の竈山にあります。

熊野から大和へ
――神話の要素の多い部分で、神話の成立過程も窺われる。――
 カムヤマトイハレ彦の命は、その土地から※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つておいでになつて、熊野においでになつた時に、大きな熊がぼうつと現れて、消えてしまいました。ここにカムヤマトイハレ彦の命は俄に氣を失われ、兵士どもも皆氣を失つて仆れてしまいました。この時熊野のタカクラジという者が一つの大刀をもつて天の神の御子の臥しておいでになる處に來て奉る時に、お寤めになつて、「隨分寢たことだつた」と仰せられました。その大刀をお受け取りなさいました時に、熊野の山の惡い神たちが自然に皆切り仆されて、かの正氣を失つた軍隊が悉く寤めました。そこで天の神の御子がその大刀を獲た仔細をお尋ねになりましたから、タカクラジがお答え申し上げるには、「わたくしの夢に、天照らす大神と高木の神のお二方の御命令で、タケミカヅチの神を召して、葦原の中心の國はひどく騷いでいる。わたしの御子たちは困つていらつしやるらしい。あの葦原の中心の國はもつぱらあなたが平定した國である。だからお前タケミカヅチの神、降つて行けと仰せになりました。そこでタケミカヅチの神がお答え申し上げるには、わたくしが降りませんでも、その時に國を平定した大刀がありますから、これを降しましよう。この大刀を降す方法は、タカクラジの倉の屋根に穴をあけて其處から墮し入れましようと申しました。そこでわたくしに、お前は朝目が寤めたら、この大刀を取つて天の神の御子に奉れとお教えなさいました。そこで夢の教えのままに、朝早く倉を見ますとほんとうに大刀がありました。依つてこの大刀を奉るのです」と申しました。この大刀の名はサジフツの神、またの名はミカフツの神、またの名はフツノミタマと言います。今石上神宮にあります。
 ここにまた高木の神の御命令でお教えになるには、「天の神の御子よ、これより奧にはおはいりなさいますな。惡い神が澤山おります。今天から八咫烏をよこしましよう。その八咫烏が導きするでしようから、その後よりおいでなさい」とお教え申しました。はたして、その御教えの通り八咫烏の後からおいでになりますと、吉野河の下流に到りました。時に河に筌を入れて魚を取る人があります。そこで天の神の御子が「お前は誰ですか」とお尋ねになると、「わたくしはこの土地にいる神で、ニヘモツノコであります」と申しました。これは阿陀の鵜飼の祖先です。それからおいでになると、尾のある人が井から出て來ました。その井は光つております。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神、名はヰヒカと申します」と申しました。これは吉野の首等の祖先です。そこでその山におはいりになりますと、また尾のある人に遇いました。この人は巖を押し分けて出てきます。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神で、イハオシワクであります。今天の神の御子がおいでになりますと聞きましたから、參り出て來ました」と申しました。これは吉野の國栖の祖先です。それから山坂を蹈み穿つて越えてウダにおいでになりました。依つて宇陀のウガチと言います。

久米歌
――幾首かの久米歌に結びついている物語である。――
 この時に宇陀にエウカシ・オトウカシという二人があります。依つてまず八咫烏を遣つて、「今天の神の御子がおいでになりました。お前方はお仕え申し上げるか」と問わしめました。しかるにエウカシは鏑矢を以つてその使を射返しました。その鏑矢の落ちた處をカブラ埼と言います。「待つて撃とう」と言つて軍を集めましたが、集め得ませんでしたから、「お仕え申しましよう」と僞つて、大殿を作つてその殿の内に仕掛を作つて待ちました時に、オトウカシがまず出て來て、拜して、「わたくしの兄のエウカシは、天の神の御子のお使を射返し、待ち攻めようとして兵士を集めましたが集め得ませんので、御殿を作りその内に仕掛を作つて待ち取ろうとしております。それで出て參りましてこのことを申し上げます」と申しました。そこで大伴の連等の祖先のミチノオミの命、久米の直等の祖先のオホクメの命二人がエウカシを呼んで罵つて言うには、「貴樣が作つてお仕え申し上げる御殿の内には、自分が先に入つてお仕え申そうとする樣をあきらかにせよ」と言つて、刀の柄を掴み矛をさしあて矢をつがえて追い入れる時に、自分の張つて置いた仕掛に打たれて死にました。そこで引き出して、斬り散らしました。その土地を宇陀の血原と言います。そうしてそのオトウカシが獻上した御馳走を悉く軍隊に賜わりました。その時に歌をお詠みになりました。それは、

宇陀の高臺でシギの網を張る。
わたしが待つているシギは懸からないで
思いも寄らないタカが懸かつた。
古妻が食物を乞うたら
ソバノキの實のように少しばかりを削つてやれ。
新しい妻が食物を乞うたら
イチサカキの實のように澤山に削つてやれ。
ええやつつけるぞ。ああよい氣味だ。

 そのオトウカシは宇陀の水取等の祖先です。
 次に、忍坂の大室においでになつた時に、尾のある穴居の人八十人の武士がその室にあつて威張つております。そこで天の神の御子の御命令でお料理を賜わり、八十人の武士に當てて八十人の料理人を用意して、その人毎に大刀を佩かして、その料理人どもに「歌を聞いたならば一緒に立つて武士を斬れ」とお教えなさいました。その穴居の人を撃とうとすることを示した歌は、

忍坂の大きな土室に
大勢の人が入り込んだ。
よしや大勢の人がはいつていても
威勢のよい久米の人々が
瘤大刀の石大刀でもつて
やつつけてしまうぞ。
威勢のよい久米の人々が
瘤大刀の石大刀でもつて
そら今撃つがよいぞ。

 かように歌つて、刀を拔いて一時に打ち殺してしまいました。
 その後、ナガスネ彦をお撃ちになろうとした時に、お歌いになつた歌は、

威勢のよい久米の人々の
アワの畑には臭いニラが一本生えている。
その根のもとに、その芽をくつつけて
やつつけてしまうぞ。

 また、

威勢のよい久米の人々の
垣本に植えたサンシヨウ、
口がひりひりして恨みを忘れかねる。
やつつけてしまうぞ。

 また、

神風の吹く伊勢の海の
大きな石に這い※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つている
細螺のように這い※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて
やつつけてしまうぞ。

 また、エシキ、オトシキをお撃ちになりました時に、御軍の兵士たちが、少し疲れました。そこでお歌い遊ばされたお歌、

楯を竝べて射る、そのイナサの山の
樹の間から行き見守つて
戰爭をすると腹が減つた。
島にいる鵜を養う人々よ
すぐ助けに來てください。

 最後にトミのナガスネ彦をお撃ちになりました。時にニギハヤビの命が天の神の御子のもとに參つて申し上げるには、「天の神の御子が天からお降りになつたと聞きましたから、後を追つて降つて參りました」と申し上げて、天から持つて來た寶物を捧げてお仕え申しました。このニギハヤビの命がナガスネ彦の妹トミヤ姫と結婚して生んだ子がウマシマヂの命で、これが物部の連・穗積の臣・采女の臣等の祖先です。そこでかようにして亂暴な神たちを平定し、服從しない人どもを追い撥つて、畝傍の橿原の宮において天下をお治めになりました。

神の御子
――英雄や佳人などを、神が通つて生ませた子だとすることは、崇神天皇の卷にもあり、廣く信じられていたところである。――
 はじめ日向の國においでになつた時に、阿多の小椅の君の妹のアヒラ姫という方と結婚して、タギシミミの命・キスミミの命とお二方の御子がありました。しかし更に皇后となさるべき孃子をお求めになつた時に、オホクメの命の申しますには、「神の御子と傳える孃子があります。そのわけは三嶋のミゾクヒの娘のセヤダタラ姫という方が非常に美しかつたので、三輪のオホモノヌシの神がこれを見て、その孃子が厠にいる時に、赤く塗つた矢になつてその河を流れて來ました。その孃子が驚いてその矢を持つて來て床の邊に置きましたところ、たちまちに美しい男になつて、その孃子と結婚して生んだ子がホトタタライススキ姫であります。後にこの方は名をヒメタタライスケヨリ姫と改めました。これはそのホトという事を嫌つて、後に改めたのです。そういう次第で、神の御子と申すのです」と申し上げました。
 ある時七人の孃子が大和のタカサジ野で遊んでいる時に、このイスケヨリ姫も混つていました。そこでオホクメの命が、そのイスケヨリ姫を見て、歌で天皇に申し上げるには、

大和の國のタカサジ野を
七人行く孃子たち、
その中の誰をお召しになります。

 このイスケヨリ姫は、その時に孃子たちの前に立つておりました。天皇はその孃子たちを御覽になつて、御心にイスケヨリ姫が一番前に立つていることを知られて、お歌でお答えになりますには、

まあまあ一番先に立つている娘を妻にしましようよ。

 ここにオホクメの命が、天皇の仰せをそのイスケヨリ姫に傳えました時に、姫はオホクメの命の眼の裂目に黥をしているのを見て不思議に思つて、

天地間の千人勝りの勇士だというに、どうして目に黥をしているのです。

と歌いましたから、オホクメの命が答えて歌うには、

お孃さんにすぐに逢おうと思つて目に黥をしております。

と歌いました。かくてその孃子は「お仕え申しあげましよう」と申しました。
 そのイスケヨリ姫のお家はサヰ河のほとりにありました。この姫のもとにおいでになつて一夜お寢みになりました。その河をサヰ河というわけは、河のほとりに山百合草が澤山ありましたから、その名を取つて名づけたのです。山百合草のもとの名はサヰと言つたのです。後にその姫が宮中に參上した時に、天皇のお詠みになつた歌は、

アシ原のアシの繁つた小屋に
スゲの蓆を清らかに敷いて、
二人で寢たことだつたね。

 かくしてお生まれになつた御子は、ヒコヤヰの命・カムヤヰミミの命・カムヌナカハミミの命のお三方です。

タギシミミの命の變
――自分の家の祖先は、天皇の兄に當るのだが、なぜ臣下となつたかということを語る説話。前にも隼人の話はそれであり、後にも例が多い。カムヤヰミミの命の子孫というオホの臣が、古事記の撰者の太の安萬侶の家であることに注意。――
 天皇がお隱れになつてから、その庶兄のタギシミミの命が、皇后のイスケヨリ姫と結婚した時に、三人の弟たちを殺そうとして謀つたので、母君のイスケヨリ姫が御心配になつて、歌でこの事を御子たちにお知らせになりました。その歌は、

サヰ河の方から雲が立ち起つて、
畝傍山の樹の葉が騷いでいる。
風が吹き出しますよ。

畝傍山は晝は雲が動き、
夕暮になれば風が吹き出そうとして
樹の葉が騷いでいる。

 そこで御子たちがお聞きになつて、驚いてタギシミミを殺そうとなさいました時に、カムヌナカハミミの命が、兄君のカムヤヰミミの命に、「あなたは武器を持つてはいつてタギシミミをお殺しなさいませ」と申しました。そこで武器を持つて殺そうとされた時に、手足が震えて殺すことができませんでした。そこで弟のカムヌナカハミミの命が兄君の持つておられる武器を乞い取つて、はいつてタギシミミを殺しました。そこでまた御名を讚えてタケヌナカハミミの命と申し上げます。
 かくてカムヤヰミミの命が弟のタケヌナカハミミの命に國を讓つて申されるには、「わたしは仇を殺すことができません。それをあなたが殺しておしまいになりました。ですからわたしは兄であつても、上にいることはできません。あなたが天皇になつて天下をお治め遊ばせ。わたしはあなたを助けて祭をする人としてお仕え申しましよう」と申しました。そこでそのヒコヤヰの命は、茨田の連・手島の連の祖先です。カムヤヰミミの命は、意富の臣・小子部の連・坂合部の連・火の君・大分の君・阿蘇の君・筑紫の三家の連・雀部の臣・雀部の造・小長谷の造・都祁の直・伊余の國の造・科野の國の造・道の奧の石城の國の造・常道の仲の國の造・長狹の國の造・伊勢の船木の直・尾張の丹羽の臣・島田の臣等の祖先です。カムヌナカハミミの命は、天下をお治めになりました。すべてこのカムヤマトイハレ彦の天皇は、御歳百三十七歳、御陵は畝傍山の北の方の白檮の尾の上にあります。

二、綏靖天皇以後八代

綏靖天皇
――以下八代は、帝紀の部分だけで、本辭を含んでいない。この項など、帝紀の典型的な例と見られる。――
 カムヌナカハミミの命(綏靖天皇)、大和の國の葛城の高岡の宮においでになつて天下をお治め遊ばされました。この天皇、シキの縣主の祖先のカハマタ姫と結婚してお生みになつた御子はシキツ彦タマデミの命お一方です。天皇は御年四十五歳、御陵は衝田の岡にあります。

安寧天皇
 シキツ彦タマデミの命(安寧天皇)、大和の片鹽の浮穴の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はカハマタ姫の兄の縣主ハエの女のアクト姫と結婚してお生みになつた御子は、トコネツ彦イロネの命・オホヤマト彦スキトモの命・シキツ彦の命のお三方です。この天皇の御子たち合わせてお三方の中、オホヤマト彦スキトモの命は、天下をお治めになりました。次にシキツ彦の命の御子がお二方あつて、お一方の子孫は、伊賀の須知の稻置・那婆理の稻置・三野の稻置の祖先です。お一方の御子ワチツミの命は淡路の御井の宮においでになり、姫宮がお二方おありになりました。その姉君はハヘイロネ、またの名はオホヤマトクニアレ姫の命、妹君はハヘイロドです。この天皇の御年四十九歳、御陵は畝傍山のミホトにあります。

懿徳天皇
 オホヤマト彦スキトモの命(懿徳天皇)、大和の輕の境岡の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はシキの縣主の祖先フトマワカ姫の命、またの名はイヒヒ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ミマツ彦カヱシネの命とタギシ彦の命とお二方です。このミマツ彦カヱシネの命は天下をお治めなさいました。次にタギシ彦の命は、血沼の別・多遲麻の竹の別・葦井の稻置の祖先です。天皇は御年四十五歳、御陵は畝傍山のマナゴ谷の上にあります。

孝昭天皇
 ミマツ彦カヱシネの命(孝昭天皇)、大和の葛城の掖上の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は尾張の連の祖先のオキツヨソの妹ヨソタホ姫の命と結婚してお生みになつた御子はアメオシタラシ彦の命とオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命とお二方です。このオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命は天下をお治めなさいました。兄のアメオシタラシ彦の命は・[#「・」はママ]春日の臣・大宅の臣・粟田の臣・小野の臣・柿本の臣・壹比韋の臣・大坂の臣・阿那の臣・多紀の臣・羽栗の臣・知多の臣・牟耶の臣・都怒山の臣・伊勢の飯高の君・壹師の君・近つ淡海の國の造の祖先です。天皇は御年九十三歳、御陵は掖上の博多山の上にあります。

孝安天皇
 オホヤマトタラシ彦クニオシビトの命(孝安天皇)、大和の葛城の室の秋津島の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は姪のオシカ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、オホキビノモロススの命とオホヤマトネコ彦フトニの命とお二方です。このオホヤマトネコ彦フトニの命は天下をお治めなさいました。天皇は御年百二十三歳、御陵は玉手の岡の上にあります。

孝靈天皇
 オホヤマトネコ彦フトニの命(孝靈天皇)、大和の黒田の廬戸の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、トヲチの縣主の祖先のオホメの女のクハシ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、オホヤマトネコ彦クニクルの命お一方です。また春日のチチハヤマワカ姫と結婚してお生みになつた御子は、チチハヤ姫の命お一方です。オホヤマトクニアレ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ヤマトトモモソ姫の命・ヒコサシカタワケの命・ヒコイサセリ彦の命、またの名はオホキビツ彦の命・ヤマトトビハヤワカヤ姫のお四方です。またそのアレ姫の命の妹ハヘイロドと結婚してお生みになつた御子は、ヒコサメマの命とワカヒコタケキビツ彦の命とお二方です。この天皇の御子は合わせて八人おいでになりました。男王五人、女王三人です。
 そこでオホヤマトネコ彦クニクルの命は天下をお治めなさいました。オホキビツ彦の命とワカタケキビツ彦の命とは、お二方で播磨の氷の河の埼に忌瓮を据えて神を祭り、播磨からはいつて吉備の國を平定されました。このオホキビツ彦の命は、吉備の上の道の臣の祖先です。次にワカヒコタケキビツ彦の命は、吉備の下の道の臣・笠の臣の祖先です。次にヒコサメマの命は、播磨の牛鹿の臣の祖先です。次にヒコサシカタワケの命は、高志の利波の臣・豐國の國前の臣・五百原の君・角鹿の濟の直の祖先です。天皇は御年百六歳、御陵は片岡の馬坂の上にあります。

孝元天皇
――タケシウチの宿禰の諸子をあげているのは豪族の祖先だからである。――
 オホヤマトネコ彦クニクルの命(孝元天皇)、大和の輕の堺原の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は穗積の臣等の祖先のウツシコヲの命の妹のウツシコメの命と結婚してお生みになつた御子は大彦の命・スクナヒコタケヰココロの命・ワカヤマトネコ彦オホビビの命のお三方です。またウツシコヲの命の女のイカガシコメの命と結婚してお生みになつた御子はヒコフツオシノマコトの命お一方です。また河内のアヲタマの女のハニヤス姫と結婚してお生みになつた御子はタケハニヤス彦の命お一方です。この天皇の御子たち合わせてお五方おいでになります。このうちワカヤマトネコ彦オホビビの命は天下をお治めなさいました。その兄、大彦の命の子タケヌナカハワケの命は阿部の臣等の祖先です。次にヒコイナコジワケの命は膳の臣の祖先です。ヒコフツオシノマコトの命が、尾張の連の祖先のオホナビの妹の葛城のタカチナ姫と結婚して生んだ子はウマシウチの宿禰、これは山代の内の臣の祖先です。また木の國の造の祖先のウヅ彦の妹のヤマシタカゲ姫と結婚して生んだ子はタケシウチの宿禰です。このタケシウチの宿禰の子は合わせて九人あります。男七人女二人です。そのハタノヤシロの宿禰は波多の臣・林の臣・波美の臣・星川の臣・淡海の臣・長谷部の君の祖先です。コセノヲカラの宿禰は許勢の臣・雀部の臣・輕部の臣の祖先です。ソガノイシカハの宿禰は蘇我の臣・川邊の臣・田中の臣・高向の臣・小治田の臣・櫻井の臣・岸田の臣等の祖先です。ヘグリノツクの宿禰は、平群の臣・佐和良の臣・馬の御※(「識」の「言」に代えて「木」、第4水準2-15-49)の連等の祖先です。キノツノの宿禰は、木の臣・都奴の臣・坂本の臣の祖先です。次にクメノマイト姫・ノノイロ姫です。葛城の長江のソツ彦は、玉手の臣・的の臣・生江の臣・阿藝那の臣等の祖先です。次に若子の宿禰は、江野の財の臣の祖先です。この天皇は御年五十七歳、御陵は劒の池の中の岡の上にあります。

開化天皇
 ワカヤマトネコ彦オホビビの命(開化天皇)、大和の春日のイザ河の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は、丹波の大縣主ユゴリの女のタカノ姫と結婚してお生みになつた御子はヒコユムスミの命お一方です。またイカガシコメの命と結婚してお生みになつた御子はミマキイリ彦イニヱの命とミマツ姫の命とのお二方です。また丸邇の臣の祖先のヒコクニオケツの命の妹のオケツ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヒコイマスの王お一方です。また葛城のタルミの宿禰の女のワシ姫と結婚してお生みになつた御子はタケトヨハツラワケの王お一方です。合わせて五人おいでになりました。このうちミマキイリ彦イニヱの命は天下をお治めなさいました。その兄ヒコユムスミの王の御子は、オホツツキタリネの王とサヌキタリネの王とお二方で、この二王の女は五人ありました。次にヒコイマスの王が山代のエナツ姫、またの名はカリハタトベと結婚して生んだ子はオホマタの王とヲマタの王とシブミの宿禰の王とお三方です。またこの王が春日のタケクニカツトメの女のサホのオホクラミトメと結婚して生んだ子がサホ彦の王・ヲザホの王・サホ姫の命・ムロビコの王のお四方です。サホ姫の命はまたの名はサハヂ姫で、この方はイクメ天皇の皇后樣におなりになりました。また近江の國の御上山の神職がお祭するアメノミカゲの神の女オキナガノミヅヨリ姫と結婚して生んだ子は丹波ノヒコタタスミチノウシの王・ミヅホノマワカの王・カムオホネの王、またの名はヤツリのイリビコの王・ミヅホノイホヨリ姫・ミヰツ姫の五人です。また母の妹オケツ姫と結婚して生んだ子は山代のオホツツキのマワカの王・ヒコオスの王・イリネの王の三人です。すべてヒコイマスの王の御子は合わせて十五人ありました。兄のオホマタの王の子はアケタツの王・ウナガミの王の二人です。このアケタツの王は、伊勢の品遲部・伊勢の佐那の造の祖先です。ウナガミの王は、比賣陀の君の祖先です。次にヲマタの王は當麻の勾の君の祖先です。次にシブミの宿禰の王は佐佐の君の祖先です。次にサホ彦の王は日下部の連・甲斐の國の造の祖先です。次にヲザホの王は葛野の別・近つ淡海の蚊野の別の祖先です。次にムロビコの王は若狹の耳の別の祖先です。そのミチノウシの王が丹波の河上のマスの郎女と結婚して生んだ子はヒバス姫の命・マトノ姫の命・オト姫の命・ミカドワケの王の四人です。このミカドワケの王は、三川の穗の別の祖先です。このミチノウシの王の弟ミヅホノマワカの王は近つ淡海の安の直の祖先です。次にカムオホネの王は三野の國の造・本巣の國の造・長幡部の連の祖先です。その山代のオホツツキマワカの王は弟君イリネの王の女の丹波のアヂサハ姫と結婚して生んだ御子は、カニメイカヅチの王です。この王が丹波の遠津の臣の女のタカキ姫と結婚して生んだ御子はオキナガの宿禰の王です。この王が葛城のタカヌカ姫と結婚して生んだ御子がオキナガタラシ姫の命・ソラツ姫の命・オキナガ彦の王の三人です。このオキナガ彦の王は、吉備の品遲の君・播磨の阿宗の君の祖先です。またオキナガの宿禰の王が、カハマタノイナヨリ姫と結婚して生んだ子がオホタムサカの王で、この方は但馬の國の造の祖先です。上に出たタケトヨハヅラワケの王は、道守の臣・忍海部の造・御名部の造・稻羽の忍海部・丹波の竹野の別・依網の阿毘古等の祖先です。この天皇は御年六十三歳、御陵はイザ河の坂の上にあります。

三、崇神天皇

后妃と皇子女
――帝紀の前半と見られる部分である。――
 イマキイリ彦イニヱの命(崇神天皇)、大和の師木の水垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。
 この天皇は、木の國の造のアラカハトベの女のトホツアユメマクハシ姫と結婚してお生みになつた御子はトヨキイリ彦の命とトヨスキイリ姫の命お二方です。また尾張の連の祖先のオホアマ姫と結婚してお生みになつた御子は、オホイリキの命・ヤサカノイリ彦の命・ヌナキノイリ姫の命・トホチノイリ姫の命のお四方です。また大彦の命の女のミマツ姫の命と結婚してお生みになつた御子はイクメイリ彦イサチの命・イザノマワカの命・クニカタ姫の命・チヂツクヤマト姫の命・イガ姫の命・ヤマト彦の命のお六方です。この天皇の御子たちは合わせて十二王おいでになりました。男王七人女王五人です。そのうちイクメイリ彦イサチの命は天下をお治めなさいました。次にトヨキイリ彦の命は、上毛野・下毛野の君等の祖先です。妹のトヨスキ姫の命は伊勢の大神宮をお祭りになりました。次にオホイリキの命は能登の臣の祖先です。次にヤマト彦の命は、この王の時に始めて陵墓に人の垣を立てました。

美和の大物主
――三輪山説話として神婚説話の典型的な一つで神氏、鴨氏等の祖先の物語。――
 この天皇の御世に、流行病が盛んに起つて、人民がほとんど盡きようとしました。ここに天皇は、御憂慮遊ばされて、神を祭つてお寢みになつた晩に、オホモノヌシの大神が御夢に顯れて仰せになるには、「かように病氣がはやるのはわたしの心である。これはオホタタネコをもつてわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起らずに國も平和になるだろう」と仰せられました。そこで急使を四方に出してオホタタネコという人を求めた時に、河内の國のミノの村でその人を探し出して奉りました。そこで天皇は「お前は誰の子であるか」とお尋ねになりましたから、答えて言いますには「オホモノヌシの神がスヱツミミの命の女のイクタマヨリ姫と結婚して生んだ子はクシミカタの命です。その子がイヒカタスミの命、その子がタケミカヅチの命、その子がわたくしオホタタネコでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお歡びになつて仰せられるには、「天下が平ぎ人民が榮えるであろう」と仰せられて、このオホタタネコを神主としてミモロ山でオホモノヌシの神をお祭り申し上げました。イカガシコヲの命に命じて祭に使う皿を澤山作り、天地の神々の社をお定め申しました。また宇陀の墨坂の神に赤い色の楯矛を獻り、大坂の神に墨の色の楯矛を獻り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまでに悉く殘るところなく幣帛を獻りました。これによつて疫病が止んで國家が平安になりました。
 このオホタタネコを神の子と知つた次第は、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿威儀竝びなき一人の男が夜中にたちまち來ました。そこで互に愛でて結婚して住んでいるうちに、何程もないのにその孃子が姙みました。そこで父母が姙娠したことを怪しんで、その女に、「お前は自然に姙娠した。夫が無いのにどうして姙娠したのか」と尋ねましたから、答えて言うには「名も知らないりつぱな男が夜毎に來て住むほどに、自然に姙みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思つて、その女に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻絲を針に貫いてその着物の裾に刺せ」と教えました。依つて教えた通りにして、朝になつて見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫け通つて、殘つた麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知つて絲をたよりに尋ねて行きましたら、三輪山に行つて神の社に留まりました。そこで神の御子であるとは知つたのです。その麻の三輪殘つたのによつて其處を三輪と言うのです。このオホタタネコの命は、神の君・鴨の君の祖先です。

將軍の派遣
――いわゆる四道將軍の派遣の物語。但しヒコイマスの王を、日本書紀では、その子丹波のミチヌシの命とし、またキビツ彦を西の道に遣したとある。――
 またこの御世に大彦の命をば越の道に遣し、その子のタケヌナカハワケの命を東方の諸國に遣して從わない人々を平定せしめ、またヒコイマスの王を丹波の國に遣してクガミミのミカサという人を討たしめました。その大彦の命が越の國においでになる時に、裳を穿いた女が山城のヘラ坂に立つて歌つて言うには、

御眞木入日子さまは、
御自分の命を人知れず殺そうと、
背後の入口から行き違い
前の入口から行き違い
窺いているのも知らないで、
御眞木入日子さまは。

と歌いました。そこで大彦の命が怪しいことを言うと思つて、馬を返してその孃子に、「あなたの言うことはどういうことですか」と尋ねましたら、「わたくしは何も申しません。ただ歌を歌つただけです」と答えて、行く方も見せずに消えてしまいました。依つて大彦の命は更に還つて天皇に申し上げた時に、仰せられるには、「これは思うに、山城の國に赴任したタケハニヤスの王が惡い心を起したしるしでありましよう。伯父上、軍を興して行つていらつしやい」と仰せになつて、丸邇の臣の祖先のヒコクニブクの命を副えてお遣しになりました、その時に丸邇坂に清淨な瓶を据えてお祭をして行きました。
 さて山城のワカラ河に行きました時に、果してタケハニヤスの王が軍を興して待つており、互に河を挾んで對い立つて挑み合いました。それで其處の名をイドミというのです。今ではイヅミと言つております。ここにヒコクニブクの命が「まず、そちらから清め矢を放て」と言いますと、タケハニヤスの王が射ましたけれども、中てることができませんでした。しかるにヒコクニブクの命の放つた矢はタケハニヤスの王に射中てて死にましたので、その軍が悉く破れて逃げ散りました。依つて逃げる軍を追い攻めて、クスバの渡しに行きました時に、皆攻め苦しめられたので屎が出て褌にかかりました。そこで其處の名をクソバカマというのですが、今はクスバと言つております。またその逃げる軍を待ち受けて斬りましたから、鵜のように河に浮きました。依つてその河を鵜河といいます。またその兵士を斬り屠りましたから、其處の名をハフリゾノといいます。かように平定し終つて、朝廷に參つて御返事申し上げました。
 かくて大彦の命は前の命令通りに越の國にまいりました。ここに東の方から遣わされたタケヌナカハワケの命は、その父の大彦の命と會津で行き遇いましたから、其處を會津というのです。ここにおいて、それぞれに遣わされた國の政を終えて御返事申し上げました。かくして天下が平かになり、人民は富み榮えました。ここにはじめて男の弓矢で得た獲物や女の手藝の品々を貢らしめました。そこでその御世を讚えて初めての國をお治めになつたミマキの天皇と申し上げます。またこの御世に依網の池を作り、また輕の酒折の池を作りました。天皇は御年百六十八歳、戊寅の年の十二月にお隱れになりました。御陵は山の邊の道の勾の岡の上にあります。

四、垂仁天皇

后妃と皇子女
 イクメイリ彦イサチの命(垂仁天皇)、大和の師木の玉垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、サホ彦の命の妹のサハヂ姫の命と結婚してお生みになつた御子はホムツワケの命お一方です。また丹波のヒコタタスミチノウシの王の女のヒバス姫の命と結婚してお生みになつた御子はイニシキノイリ彦の命・オホタラシ彦オシロワケの命・オホナカツ彦の命・ヤマト姫の命・ワカキノイリ彦の命のお五方です。またそのヒバス姫の命の妹、ヌバタノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヌタラシワケの命・イガタラシ彦の命のお二方です。またそのヌバタノイリ姫の命の妹のアザミノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子はイコバヤワケの命・アザミツ姫の命のお二方です。またオホツツキタリネの王の女のカグヤ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヲナベの王お一方です。また山代の大國のフチの女のカリバタトベと結婚してお生みになつた御子はオチワケの王・イカタラシ彦の王・イトシワケの王のお三方です。またその大國のフチの女のオトカリバタトベと結婚して、お生みになつた御子は、イハツクワケの王・イハツク姫の命またの名はフタヂノイリ姫の命のお二方です。すべてこの天皇の皇子たちは十六王おいでになりました。男王十三人、女王三人です。
 その中でオホタラシ彦オシロワケの命は、天下をお治めなさいました。御身の長さ一丈二寸、御脛の長さ四尺一寸ございました。次にイニシキノイリ彦の命は、血沼の池・狹山の池を作り、また日下の高津の池をお作りになりました。また鳥取の河上の宮においでになつて大刀一千振をお作りになつて、これを石上の神宮にお納めなさいました。そこでその宮においでになつて河上部をお定めになりました。次にオホナカツ彦の命は、山邊の別・三枝の別・稻木の別・阿太の別・尾張の國の三野の別・吉備の石无の別・許呂母の別・高巣鹿の別・飛鳥の君・牟禮の別等の祖先です。次にヤマト姫の命は伊勢の大神宮をお祭りなさいました。次にイコバヤワケの王は、沙本の穴本部の別の祖先です。次にアザミツ姫の命は、イナセ彦の王に嫁ぎました。次にオチワケの王は、小目の山の君・三川の衣の君の祖先です。次にイカタラシ彦の王は、春日の山の君・高志の池の君・春日部の君の祖先です。次にイトシワケの王は、子がありませんでしたので、子の代りとして伊登志部を定めました。次にイハツクワケの王は羽咋の君・三尾の君の祖先です。次にフタヂノイリ姫の命はヤマトタケルの命の妃になりました。

サホ彦の叛亂
――サホ彦は天皇を弑殺しようとした叛逆者であるが、その子孫は、日下部の連、甲斐の國の造等として榮えている。要するに一の物語であつて、それが天皇の記に結びついたものと見るべきである。後に出る大山守の命の物語も同樣である。――
 この天皇、サホ姫を皇后になさいました時に、サホ姫の命の兄のサホ彦の王が妹に向つて「夫と兄とはどちらが大事であるか」と問いましたから、「兄が大事です」とお答えになりました。そこでサホ彦の王が謀をたくらんで、「あなたがほんとうにわたしを大事にお思いになるなら、あなたとわたしとで天下を治めよう」と言つて、色濃く染めた紐のついている小刀を作つて、その妹に授けて、「この刀で天皇の眠つておいでになるところをお刺し申せ」と言いました。しかるに天皇はその謀をお知り遊ばされず、皇后の膝を枕としてお寢みになりました。そこでその皇后は紐のついた小刀をもつて天皇のお頸をお刺ししようとして、三度振りましたけれども、哀しい情に堪えないでお頸をお刺し申さないで、お泣きになる涙が天皇のお顏の上に落ち流れました。そこで天皇が驚いてお起ちになつて、皇后にお尋ねになるには、「わたしは不思議な夢を見た。サホの方から俄雨が降つて來て、急に顏を沾らした。また錦色の小蛇がわたしの頸に纏いついた。こういう夢は何のあらわれだろうか」とお尋ねになりました。そこでその皇后が隱しきれないと思つて天皇に申し上げるには、「わたくしの兄のサホ彦の王がわたくしに、夫と兄とはどちらが大事かと尋ねました。目の前で尋ねましたので、仕方がなくて、兄が大事ですと答えましたところ、わたくしに註文して、自分とお前とで天下を治めるから、天皇をお殺し申せと言つて、色濃く染めた紐をつけた小刀を作つてわたくしに渡しました。そこでお頸をお刺し申そうとして三度振りましたけれども、哀しみの情がたちまちに起つてお刺し申すことができないで、泣きました涙がお顏を沾らしました。きつとこのあらわれでございましよう」と申しました。
 そこで天皇は「わたしはあぶなく欺かれるところだつた」と仰せになつて、軍を起してサホ彦の王をお撃ちになる時、その王が稻の城を作つて待つて戰いました。この時、サホ姫の命は堪え得ないで、後の門から逃げてその城におはいりになりました。
 この時にその皇后は姙娠しておいでになり、またお愛し遊ばされていることがもう三年も經つていたので、軍を返して、俄にお攻めになりませんでした。かように延びている間に御子がお生まれになりました。そこでその御子を出して城の外において、天皇に申し上げますには、「もしこの御子をば天皇の御子と思しめすならばお育て遊ばせ」と申さしめました。ここで天皇は「兄には恨みがあるが、皇后に對する愛は變らない」と仰せられて、皇后を得られようとする御心がありました。そこで軍隊の中から敏捷な人を選り集めて仰せになるには、「その御子を取る時にその母君をも奪い取れ。御髮でも御手でも掴まえ次第に掴んで引き出し申せ」と仰せられました。しかるに皇后はあらかじめ天皇の御心の程をお知りになつて、悉く髮をお剃りになり、その髮でお頭を覆い、また玉の緒を腐らせて御手に三重お纏きになり、また酒でお召物を腐らせて、完全なお召物のようにして著ておいでになりました。かように準備をして御子をお抱きになつて城の外にお出になりました。そこで力士たちがその御子をお取り申し上げて、その母君をもお取り申そうとして、御髮を取れば御髮がぬけ落ち、御手を握れば玉の緒が絶え、お召物を握ればお召物が破れました。こういう次第で御子を取ることはできましたが、母君を取ることができませんでした。その兵士たちが還つて來て申しましたには、「御髮が自然に落ち、お召物は破れ易く、御手に纏いておいでになる玉の緒も切れましたので、母君をばお取り申しません。御子は取つて參りました」と申しました。そこで天皇は非常に殘念がつて、玉を作つた人たちをお憎しみになつて、その領地を皆お奪りになりました。それで諺に、「處を得ない玉作だ」というのです。
 また天皇がその皇后に仰せられるには、「すべて子の名は母が附けるものであるが、この御子の名前を何としたらよかろうか」と仰せられました。そこでお答え申し上げるには、「今稻の城を燒く時に炎の中でお生まれになりましたから、その御子のお名前はホムチワケの御子とお附け申しましよう」と申しました。また「どのようにしてお育て申そうか」と仰せられましたところ、「乳母を定め御養育掛りをきめて御養育申し上げましよう」と申しました。依つてその皇后の申されたようにお育て申しました。またその皇后に「あなたの結び堅めた衣の紐は誰が解くべきであるか」とお尋ねになりましたから、「丹波のヒコタタスミチノウシの王の女の兄姫・弟姫という二人の女王は、淨らかな民でありますからお使い遊ばしませ」と申しました。かくて遂にそのサホ彦の王を討たれた時に、皇后も共にお隱れになりました。

ホムチワケの御子
――種々の要素の結合している物語であるが、出雲の神のたたりが中心となつている。ヒナガ姫の部分は、特に結びつけたものの感が深い。――
 かくてその御子をお連れ申し上げて遊ぶ有樣は、尾張の相津にあつた二俣の杉をもつて二俣の小舟を作つて、持ち上つて來て、大和の市師の池、輕の池に浮べて遊びました。この御子は、長い鬢が胸の前に至るまでも物をしかと仰せられません。ただ大空を鶴が鳴き渡つたのをお聞きになつて始めて「あぎ」と言われました。そこで山邊のオホタカという人を遣つて、その鳥を取らせました。ここにその人が鳥を追い尋ねて紀の國から播磨の國に至り、追つて因幡の國に越えて行き、丹波の國・但馬の國に行き、東の方に追い※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて近江の國に至り、美濃の國に越え、尾張の國から傳わつて信濃の國に追い、遂に越の國に行つて、ワナミの水門で罠を張つてその鳥を取つて持つて來て獻りました。そこでその水門をワナミの水門とはいうのです。さてその鳥を御覽になつて、物を言おうとお思いになるが、思い通りに言われることはありませんでした。
 そこで天皇が御心配遊ばされてお寢みになつている時に、御夢に神のおさとしをお得になりました。それは「わたしの御殿を天皇の宮殿のように造つたなら、御子がきつと物を言うだろう」と、かように夢に御覽になつて、そこで太卜の法で占いをして、これはどの神の御心であろうかと求めたところ、その祟は出雲の大神の御心でした。依つてその御子をしてその大神の宮を拜ましめにお遣りになろうとする時に、誰を副えたらよかろうかと占いましたら、アケタツの王が占いに合いました。依つてアケタツの王に仰せて誓言を申さしめなさいました。「この大神を拜むことによつて誠にその驗があるならば、この鷺の巣の池の樹に住んでいる鷺が我が誓によつて落ちよ」かように仰せられた時にその鷺が池に落ちて死にました。また「活きよ」と誓をお立てになりましたら活きました。またアマカシの埼の廣葉のりつぱなカシの木を誓を立てて枯らしたり活かしたりしました。それでアケタツの王に、「大和は師木、登美の豐朝倉のアケタツの王」という名前を下さいました。かようにしてアケタツの王とウナガミの王とお二方をその御子に副えてお遣しになる時に、奈良の道から行つたならば、跛だの盲だのに遇うだろう。二上山の大阪の道から行つても跛や盲に遇うだろう。ただ紀伊の道こそは幸先のよい道であると占つて出ておいでになつた時に、到る處毎に品遲部の人民をお定めになりました。
 かくて出雲の國においでになつて、出雲の大神を拜み終つて還り上つておいでになる時に、肥の河の中に黒木の橋を作り、假の御殿を造つてお迎えしました。ここに出雲の臣の祖先のキヒサツミという者が、青葉の作り物を飾り立ててその河下にも立てて御食物を獻ろうとした時に、その御子が仰せられるには、「この河の下に青葉が山の姿をしているのは、山かと見れば山ではないようだ。これは出雲の石※[#「石+炯のつくり」、U+2544E、282-5]の曾の宮にお鎭まりになつているアシハラシコヲの大神をお祭り申し上げる神主の祭壇であるか」と仰せられました。そこでお伴に遣された王たちが聞いて歡び、見て喜んで、御子を檳榔の長穗の宮に御案内して、急使を奉つて天皇に奏上致しました。
 そこでその御子が一夜ヒナガ姫と結婚なさいました。その時に孃子を伺いて御覽になると大蛇でした。そこで見て畏れて遁げました。ここにそのヒナガ姫は心憂く思つて、海上を光らして船に乘つて追つて來るのでいよいよ畏れられて、山の峠から御船を引き越させて逃げて上つておいでになりました。そこで御返事申し上げることには、「出雲の大神を拜みましたによつて、大御子が物を仰せになりますから上京して參りました」と申し上げました。そこで天皇がお歡びになつて、ウナガミの王を返して神宮を造らしめました。そこで天皇は、その御子のために鳥取部・鳥甘・品遲部・大湯坐・若湯坐をお定めになりました。

丹波の四女王
――丹波地方に傳わつた説話が取りあげられたものであろう。――
 天皇はまたその皇后サホ姫の申し上げたままに、ミチノウシの王の娘たちのヒバス姫の命・弟姫の命・ウタコリ姫の命・マトノ姫の命の四人をお召しになりました。しかるにヒバス姫の命・弟姫の命のお二方はお留めになりましたが、妹のお二方は醜かつたので、故郷に返し送られました。そこでマトノ姫が耻じて、「同じ姉妹の中で顏が醜いによつて返されることは、近所に聞えても耻ずかしい」と言つて、山城の國の相樂に行きました時に木の枝に懸かつて死のうとなさいました。そこで其處の名を懸木と言いましたのを今は相樂と言うのです。また弟國に行きました時に遂に峻しい淵に墮ちて死にました。そこでその地の名を墮國と言いましたが、今では弟國と言うのです。

時じくの香の木の實
――タヂマモリの子孫の家に傳えられた説話。――
 また天皇、三宅の連等の祖先のタヂマモリを常世の國に遣して、時じくの香の木の實を求めさせなさいました。依つてタヂマモリが遂にその國に到つてその木を採つて、蔓の形になつているもの八本、矛の形になつているもの八本を持つて參りましたところ、天皇はすでにお隱れになつておりました。そこでタヂマモリは蔓四本矛四本を分けて皇后樣に獻り、蔓四本矛四本を天皇の御陵のほとりに獻つて、それを捧げて叫び泣いて、「常世の國の時じくの香の木の實を持つて參上致しました」と申して、遂に叫び死にました。その時じくの香の木の實というのは、今のタチバナのことです。この天皇は御年百五十三歳、御陵は菅原の御立野の中にあります。
 またその皇后ヒバス姫の命の時に、石棺作りをお定めになり、また土師部をお定めになりました。この皇后は狹木の寺間の陵にお葬り申しあげました。