和宮

和宮(読み)かずのみや
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
和宮
かずのみや
[生]引化3(1846).閏5.10. 京都
[没]1877.9.2. 箱根
仁孝天皇第8皇女,孝明天皇の妹,母は典侍橋本経子。幼名和宮,親子 (ちかこ) 内親王。嘉永4 (1851) 年有栖川宮熾仁親王と婚約したが,同6年アメリカ使節ペリー来航,安政5 (58) 年日米修好通商条約の調印,安政の大獄から井伊直弼の横死へと尊王攘夷運動の激化した物情騒然たるなかで,万延1 (60) 年公武合体論が台頭し,第 14代将軍家茂に降嫁のことが聴許され,文久1 (61) 年江戸に下り,翌年入輿 (→和宮降嫁問題 ) 。慶応2 (66) 年家茂が長州征伐なかばで大坂城に没すると,薙髪 (ちはつ) して静寛院宮 (せいかんいんのみや) と称した。同4年の鳥羽・伏見の戦い後,徳川家追討が決定すると必死に家名の存続に努めた。書道,和歌に堪能。陵墓は東京都港区芝増上寺にある。 (→将軍継嗣問題 )  

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デジタル大辞泉の解説
かず‐の‐みや【和宮
[1846~1877]仁孝天皇の皇女。孝明天皇の妹。名は親子(ちかこ)。公武合体運動のため、14代将軍徳川家茂(いえもち)に降嫁。家茂の死後に剃髪(ていはつ)、静寛院宮と称した。江戸開城の陰の力となった。

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百科事典マイペディアの解説
和宮【かずのみや】
仁孝天皇の皇女。孝明天皇の妹。名は親子(ちかこ)。有栖川(ありすがわ)宮熾仁(たるひと)親王と婚約したが,1860年公武合体のため降嫁問題が起こり,1862年14代将軍徳川家茂の夫人となる。1866年の家茂死去後は剃髪(ていはつ)して静寛院(せいかんいん)宮と称す。戊辰戦争では徳川家救済や征東軍の進撃猶予を嘆願した。
→関連項目安藤信正|岩倉具視|浮田一【けい】|大橋訥庵|小浜藩|坂下門外の変|長野主膳|和歌山藩

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
和宮 かずのみや
1846-1877 幕末,仁孝(にんこう)天皇の第8皇女。
弘化(こうか)3年閏(うるう)5月10日生まれ。母は観行院(橋本経子)。孝明天皇の妹。6歳で有栖川宮熾仁(ありすがわのみや-たるひと)親王と婚約したが,公武合体のため,文久2年将軍徳川家茂(いえもち)に降嫁。慶応2年家茂死後,出家して静寛院宮と号した。王政復古に際して徳川家の存続を朝廷に嘆願,江戸無血開城につくした。明治10年9月2日死去。32歳。墓所は増上寺(東京都港区)。名は親子(ちかこ)。
【格言など】落ちて行く身と知りながらもみぢ葉の人なつかしくこがれこそすれ(降嫁する際の歌)

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世界大百科事典 第2版の解説
かずのみや【和宮
1846‐77(弘化3‐明治10)
仁孝天皇の皇女,孝明天皇の皇妹。第14代将軍徳川家茂夫人。名は親子,和宮のち静寛院宮と称す。1851年(嘉永4)有栖川宮熾仁(たるひと)親王と婚約したが,日米修好通商条約の勅許問題や,将軍継嗣問題によって悪化した朝幕関係を融和するために,60年(万延1)徳川家茂へ降嫁するように幕府より求められた。孝明天皇は有栖川宮との婚約,幼少などを理由に拒絶したが,この問題を朝権の回復の足がかりとしようとする岩倉具視(ともみ)の献策をいれて,攘夷鎖国の実行を条件に降嫁を勅許した。

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大辞林 第三版の解説
かずのみや【和宮
(1846~1877) 仁孝天皇の第八皇女。孝明天皇の妹。名は親子。公武合体論に伴って、1862年徳川家茂に降嫁。家茂の死後、剃髪して静寛院宮と号す。江戸城明け渡しに尽くした。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
和宮
かずのみや
(1846―1877)
親子(ちかこ)内親王。仁孝(にんこう)天皇の第八皇女、14代将軍徳川家茂(いえもち)夫人。弘化(こうか)3年閏(うるう)5月10日生まれ。母は議奏(ぎそう)権大納言(ごんだいなごん)橋本実久(さねひさ)の女(むすめ)経子(観行院(かんぎょういん))で、誕生後、橋本邸で養育された。1851年(嘉永4)7月、6歳で、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約した。しかし、58年(安政5)以降、公武関係融和を目ざして、大老井伊直弼(いいなおすけ)らを中心に江戸降嫁が画策され始めた。その結果、老中安藤信正(のぶまさ)の尽力によって、62年(文久2)2月11日には江戸で将軍家茂との婚儀が行われた。2人は同年齢である。しかし、将軍家茂は、第二次長州攻撃のため三度目の上洛(じょうらく)をしたとき66年(慶応2)7月20日、大坂城で病死した。21歳の和宮は江戸城にとどまり、12月に薙髪(ちはつ)して静寛院宮(せいかんいんのみや)と名のった。一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の将軍襲職にあたって、和宮は、4歳の田安亀之助(たやすかめのすけ)(のち将軍家16代家達(いえさと))の擁立派を抑え、彼を慶喜の継嗣(けいし)とすることで収めるように尽力した。68年(明治1)戊辰(ぼしん)の役では、東征大総督有栖川宮熾仁親王の進発にあたって、徳川慶喜の懇願を受けて、侍女の土御門(つちみかど)藤子を上京させ、徳川家の「朝敵」の立場を弁明し、家名存続を嘆願した。江戸城開城後、城外の清水邸に移り、69年正月に京都に戻って74年6月まで滞在、ふたたび東京に帰った。77年(明治10)8月から、持病の脚気(かっけ)治療のため、箱根塔ノ沢温泉に滞在、9月2日そこで病死した。墓所は、家茂と同じ、東京・芝の増上寺境内。[河内八郎]
『武部敏夫著『和宮』(1965・吉川弘文館)』
[参照項目] | 和宮降嫁

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367日誕生日大事典の解説
和宮 (かずのみや)
生年月日:1846年5月10日
江戸時代末期;明治時代の女性
1877年没

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精選版 日本国語大辞典の解説
かず‐の‐みや【和宮
仁孝天皇の第八皇女。孝明天皇の妹。親子(ちかこ)内親王。文久二年(一八六二)、公武合体をはかる幕府の懇請により、一四代将軍徳川家茂に降嫁。家茂の死後、髪をおろして静寛院宮と称する。のち江戸開城、徳川家存続などに隠れた功があった。弘化三~明治一〇年(一八四六‐七七)

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世界大百科事典内の和宮の言及
【公武合体論】より

…またそれを説く者の打算がからむことは避けがたかった。1862年(文久2)に成った皇妹和宮と将軍徳川家茂との婚儀は,朝廷と幕府の双方が公武合体論によって歩み寄ったことを示している。だが,朝廷はそこに攘夷の実行を期待し,幕府は対外問題を棚上げにして朝廷の権威を自己の政治支配の安定に利用しようとしていた。…

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