喜連川家(喜連川藩)

喜連川家(喜連川藩)

きつれがわ

喜連川(きつれがわ)家 喜連川藩 五七の桐
                 5000石(10万石格)
下野塩谷郡喜連川(栃木県さくら市喜連川)
                       外様 陣屋

移封加減増履歴 ・文禄3年→下野喜連川3500石・慶長6年→4500石・寛政元年→5000石
江戸城詰席・無席(大名格) 子爵
上屋敷・下谷池之端
参勤・「国住まい勝手」の特権を与えられていたが、毎年12月に正賀のために参府していた
人口・全領地総計1198人、290軒
                  天保14年(1843)現在
下総小弓城に居住し小弓御所と称したのが古河公方3代足利高基の弟義明である。その義明の子の頼純が当家藩祖の父にあたる。
一方、古河公方の嫡流である古河公方5代足利義氏は、男系の継嗣なく死没してしまうが、娘に氏姫がおり、豊臣秀吉は古河公方足利氏の名跡を遺すため、氏姫と頼純の長男国朝の縁組を命じる。当家が古河公方足利氏の嫡流を継ぐことになったわけだが、国朝が朝鮮の役出陣中に病没したことから、国朝の弟頼氏は後家となった氏姫を嫁として迎えることになった。

4代と12代は高家宮原家からの養子だが、この宮原家は古河公方4代足利晴氏の弟晴直の孫の宮原義照が家祖にあたる。
 

藩祖・頼氏(よりうじ)
喜連川(足利)頼純の次男 母は佐野晴綱の娘
生没・天正8年(1580)~寛永7年(1630)
文禄3年(1594)兄国朝の遺領である下野喜連川3500石の相続を豊臣秀吉に願い出て許される、秀吉没後の関ヶ原の戦いでは参加せずも、戦後に戦勝を祝賀する使者を家康へ遣わし、慶長6年(1601)1000石を加増される
左馬頭(無位)
正室・古河公方足利義氏の娘氏姫
子女・義親(病没、正室は高田藩榊原康政の養女、嫡子尊信が2代を継ぐ)

2代・尊信(たかのぶ)
義親長男 母は高田藩榊原康政の養女
生没・元和5年(1619)~承応2年(1653)
家督・寛永7年(1630)将軍秀忠の命により祖父頼氏の遺領を相続
慶安元年(1648)家中争論から隠居謹慎
右兵衛督(無位)
正室・那須資景の娘(那須藩初代藩主、4代続くが家中騒動から除封、名跡相続が許され交代寄合として存続)
子女・3代昭氏 氏信(昭氏養子)

3代・昭氏(あきうじ)
尊信長男 母は某氏
生没・寛永19年(1642)~正徳3年(1713)
家督・慶安元年(1648)相続
左兵衛督(無位)
正室・尼崎藩松平忠倶の養女(織田信勝の娘、信勝は信長の弟信包の孫にあたる、柏原3万6000石を領したが慶安3年に無嗣除封となった)
子女・養子氏信(病没、2代尊信の次男)
養子氏春(4代) 女子→氏春室

4代・氏春(うじはる)
高家宮原義辰の次男 母は某氏
生没・寛文10年(1670)~享保6年(1721)
家督・正徳4年(1714)相続
左兵衛督(無位)
正室・昭氏の娘
子女・5代茂氏

5代・茂氏(しげうじ)
氏春長男 母は某氏 
生没・元禄13年(1700)~明和4年(1767)
家督・享保6年(1721)相続
左兵衛督(無位)
宝暦7年(1757)隠居
正室・尼崎藩松平忠喬の娘
継室・大洲藩加藤泰恒の娘
子女・6代氏連

6代・氏連(うじつら)
茂氏次男 母は某氏
生没・元文4年(1739)~宝暦11年(1761)
家督・宝暦7年(1757)相続
右兵衛督(無位)
正室・不詳
子女・養子恵氏(7代)

7代・恵氏(やすうじ)
大洲藩加藤泰衑の三男 母は某氏
生没・宝暦2年(1752)~文政12年(1829)
家督・宝暦12年(1762)相続
左兵衛督(無位)
寛政元年(1789)隠居
正室・大聖寺藩前田利道の娘
子女・8代彭氏 女子→佐伯藩毛利高誠室

8代・彭氏(ちかうじ)
恵氏長男 母は某氏 
生没・明和8年(1771)~天保4年(1833)
家督・寛政元年(1789)相続、500石を加増され知行高5000石となる
左兵衛督(無位)
文政13年(1830)隠居
正室・高田藩榊原政永の娘
子女・暉氏 9代熙氏

9代・熙氏(ひろうじ)
彭氏の子 母は某氏
生没・文化9年(1812)~文久元年(1861)
家督・文政13年(1830)相続
左馬頭(無位)
正室・佐伯藩毛利高翰の娘
子女・養子宜氏(10代) 女子→宜氏室
養子紀氏(熊本藩細川斉護の六男)
10代・宜氏(よしうじ)
細川孝応の子 母は某氏 
生没・天保5年(1834)~文久2年(1862)
家督・文久元年(1861)相続
左兵衛督(無位)
正室・熙氏の娘
子女・養子縄氏(11代)
11代・縄氏(つなうじ)
水戸藩徳川斉昭の子 母は某氏    
生没・天保15年(1844)~明治7年(1874)
家督・文久2年(1862)相続
左馬頭(無位)
明治元年(1868)姓を「足利」に復す
明治2年(1869)隠居
正室・松前藩松前崇広の娘
子女・養子聡氏(12代) 於莵丸

12代・聡氏(さとうじ)
高家宮原方斎の子 母は某氏 
生没・安政4年(1857)~明治9年(1876)
家督・明治2年(1869)相続
明治3年(1870)隠居
左馬頭(無位)
正室・不詳
子女・養子於莵丸(縄氏の子)